ジェフ・ベック
ジェフリー・アーノルド“ジェフ”ベック(Geoffery Arnold "Jeff" Beck, 1944年6月24日 - )は、イギリス、サリー、ウォリントン出身のギタリストである。
『ローリング・ストーン』誌の「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のギタリスト」において2003年は第14位、2011年の改訂版では第5位。
目次
経歴
生い立ちと初期
1944年、ロンドン南方のウォリントンで中流家庭に生まれる。一家は両親と姉の4人暮らしであった(姉のエセルとは双子の姉弟)。ジェフは地元の私立小学校に入学。この頃から母親によるピアノのレッスンを受ける[1]。12歳になるとジュニア・アート・スクールに通い始める。ロックン・ロール、ロカビリーに興味を持ったベックは、友人から弦が3本しか張られていないガット・ギターを手に入れる。それに満足できなくなると、ベニヤ板を使い黄色いペンキを塗ったギターを作り上げた。ギターにのめり込むベックの姿を見て、母親は25ポンドのグヤトーンを買い与えた。
16歳になるとウィンブルドン・カレッジ・オブ・アートに入学する。ベックは学友達と最初のバンド、ナイト・シフトを結成し、地元のクラブへの出演を果たすようになる。1962年、エプソム・アート・スクールに通っていた姉から、同校に在籍していたジミー・ペイジのことを知らされ、意気投合する。まもなくベックはアート・スクールを退学、ナイト・シフトを解散し新たなバンド、トライデンツを結成する。トライデンツで活動する傍ら、セッション・ギタリストとして様々なセッションにも参加している。トライデンツでの音源はアルバム『ベッコロジー(Beckology)』に3曲が収録されている。
1965年、スタジオ・ミュージシャンとしてセッションワークで多忙だったペイジに紹介される形で、エリック・クラプトン脱退直後のヤードバーズに参加する。ヤードバーズは1966年、ベースのポール・サミュエル・スミスが脱退、その後任としてペイジがベーシストとして加入。やがてベースをクリス・ドレヤと交代したペイジは、ベックと二人でリード・ギターを担当、ヤードバーズはツイン・リード編成で活動、シングル「Happenings Ten Years Time Ago / Psycho Daises」が発表した。この時期にバンドはミケランジェロ・アントニオーニ監督の『欲望』に出演、この映画でベックはギターを破壊している。さまざまな活動やツアーを行いながらも次第にメンバー間の確執が表面化し、ついにはアメリカ・ツアー時にベックはステージを放棄し、12月中旬に健康上の問題を理由に脱退することとなる。
ジェフ・ベック・グループ
ヤードバーズ脱退後、ベックはミッキー・モストとプロデュース契約を結び、ソロ・シングル「Hi Ho Silver Lining / Beck's Bolero」を発表する。この「Hi Ho Silver Lining」は大ヒットし、NME誌のチャートで17位を記録する。
その後ベックは自身の新たなバンドを結成する。このバンドは一般には「ジェフ・ベック・グループ」と呼ばれている[2]。ボーカルにはショットガン・エクスプレスに所属していたロッド・スチュアート、ベーシストがロン・ウッド[3]、ピアニストがニッキー・ホプキンス[4]、ドラマーがエインズレイ・ダンバー[5]であった。バンドはこのラインアップでシングル「Tallyman / Rock My Plimsoul」を発表するが、ほどなくエインズレイが脱退、代わってミック・ウォーラー(Micky Waller)が加入し、アルバム『トゥルース』を録音する。その後、メンバーの確執が表面化、1969年になってロン・ウッドとミッキー・ウォーラーが脱退。代ってドラムスがトニー・ニューマン(Tony Newman)に、ベースがダグラス・ブレイクに交代したが、ダグラス・ブレイクは短期間で解雇され、ロン・ウッドが再び加入した[1]。セカンド・アルバム『ベック・オラ』の発表と前後してニッキー・ホプキンスが脱退。さらにロン・ウッドがフェイセズに加入するため脱退。ロッド・スチュワートも最終的にロン・ウッドと共にフェイセズに加入する。
その頃ベックは、ヴァニラ・ファッジのティム・ボガート、カーマイン・アピスと接近、彼らにロッド・スチュワートをボーカリストとして加え、新たなバンドを結成する予定であったが、直前の1969年11月2日にカスタム・メイドのT型フォードを運転中ロンドン南30マイルのメイドストーンで交通事故を起こし重傷を負い、3ヶ月の入院を余儀なくされる。この出来事により、新バンドの構想は白紙となってしまう。
怪我が完治したベックは新たなメンバーを集め、再び自身のリーダーバンドを結成する。このバンドは日本では「第2期ジェフ・ベック・グループ」とも呼ばれている。このグループはベースにクライヴ・チェイマン、キーボードにマックス・ミドルトン、ドラマーにコージー・パウエル、ボーカルにボブ・テンチというメンバーであった。このバンドはジャズやモータウンといったブラック・ミュージックからの影響を大きく受けており、それまでのブルース路線とは異なるものだった。
1971年に『ラフ・アンド・レディ』、翌年『ジェフ・ベック・グループ』を発表し、その活動も好調に行われたものの、ベックは再びカクタスで活動していたティム・ボガートおよびカーマイン・アピスと接触。8月のアメリカ・ツアーで突如メンバーを変更して、第2期ジェフ・ベック・グループは空中分解してしまう。
バンドに残ったボガートとアピスに加えボーカリストとしてポール・ロジャース招聘を図るもこれは失敗し、結局ベック・ボガート・アンド・アピスとして活動することとなる。ベック・ボガート・アンド・アピスは2枚のアルバムを残し、1974年にはベックとボガートの対立から自然消滅する。
なお、1974年4月のパリ公演後にディープ・パープルを脱退(公式発表は6月)したリッチー・ブラックモアの後釜として候補に挙がっているが、実際にはオーディションに至らなかったと言う経緯がある[6]。
フュージョン期
翌1975年、ビートルズのレコーディングプロデューサーでもあったジョージ・マーティンをプロデューサーに迎え、当時流行していたフュージョン色の濃い初のインストゥルメンタル・アルバム『ブロウ・バイ・ブロウ』を発表。インストゥルメンタル・アルバムとしては珍しく、アメリカでゴールドディスクを獲得し、セールス面でも成功を収めた。
『ブロウ・バイ・ブロウ』発表の1年後、ナラダ・マイケル・ウォルデン(ドラム)やヤン・ハマー(キーボード)らを起用し、またしても全編インストゥルメンタルの『ワイアード』を発表。ジャズ・ロック的な要素を全面に出したアルバムとなった。
1980年代に入ると、同じくヤードバーズ出身のジミー・ペイジ、エリック・クラプトンと共に、A.R.M.Sコンサートに参加し、3人が共演。クラプトンと共に、シークレットポリスマン・コンサートで共演。アルバム、「ハニードリッパーズ(The Honeydrippers)」に参加し、ジミー・ペイジ、ロバート・プラントと共演した。
1985年にアルバム『フラッシュ』をリリースする。このアルバムではそれまでのスタイルから転換を図り、ナイル・ロジャースやアーサー・ベイカーをプロデューサーに迎え、ボーカル入りの曲を主体にして制作したアルバムである。収録曲「エスケープ」がグラミー賞の最優秀ロック・インストゥルメンタル賞を受賞し、また、「ピープル・ゲット・レディ」での旧友ロッド・スチュワートとの共演がMTVなどで話題になった。
エレクトロニカ、テクノロックサウンドに接近
1989年のアルバム『ギター・ショップ』は、グラミー賞の最優秀ロック・インストゥルメンタル賞を受賞。その後は、ビッグ・タウン・プレイボーイズとのコラボレーション作『クレイジー・レッグス』の発表や、「フランキーズ・ハウス」のサウンドトラック制作、セッション・プレイヤーとしての活動はあったものの、オリジナル・アルバムはしばらく発表しなかった。そして、10年の間隔を経て1999年に『フー・エルス!』をリリース。サイドギターにジェニファー・バトゥンを起用し、打ち込みを多用したテクノサウンドがメインのアルバムとなった。本アルバム発表に併せて来日ツアーを行う。
『フー・エルス!』のリリースの1年後、テクノロック路線をさらに押し進めた『ユー・ハド・イット・カミング』をリリース。前年に引き続き来日ツアーを実施。来日時に久米宏がメインキャスターであったニュースステーションにも生出演し、「ナディア」(オリジナルはニティン・ソウニー)を演奏している(ただし演奏は本番前に収録したものであった)。
さらに2003年、自身の名前を冠した『ジェフ』をリリース。プロツールスを使用した大胆なドラムンベースを大幅に導入したアルバムとなった。
2003年には9月にロイヤル・アルバート・ホールでのデビュー40周年記念コンサートを行う。また同年インターネット上でのみ「オフィシャルブートレグ」というかたちで、ライブ・アルバム『Live at BB King Blues Club』を販売。この作品は2005年の来日に併せて『ライブ・ベック!』のタイトルで一般発売されている。1977年以来のライブ・アルバムとなり、「フリーウェイ・ジャム」や「スキャッターブレイン」といった往年の曲も収録されている。
2006年は世界ツアーを行い、日本ではウドー・ミュージック・フェスティバルに参加。会場で発売されていたライブ・アルバムが後に『ライブ・ベック'06』として発売された。
2008年に3枚続けてのライブアルバムである『ライヴ・ベック3〜ライヴ・アット・ロニー・スコッツ・クラブ』-Performing This Week... Live at Ronnie Scott'sを発売。2009年には、同じステージの様子を収録したDVD[7]も発売された。
2010年、久しぶりのスタジオレコーディングによるアルバム『エモーション・アンド・コモーション』を発表した。穏やかな曲調が主体で、Joss StoneやImelda May,Olivia Safeの歌心が堪能できるアルバムである。
2013年には、ザ・ビーチ・ボーイズのブライアン・ウィルソンの北米ツアーに参加[8] 。また、現在製作中のブライアンの新作アルバムにも参加している[9]。
使用機材
ギター
ヤードバーズの在籍時及びその加入以前はフェンダーのテレキャスターやエスクワイヤーを使用している。ジェフ・ベック・グループではギブソン・レスポールスタンダードが使用ギターに加わり、第2期ジェフ・ベック・グループの頃はフェンダー・ストラトキャスターも使用している[1]。
BBAからアルバム『ブロウ・バイ・ブロウ』の頃までは1954年製のギブソン・レスポール“オックスブラッド”[10]を主に使用していたが、同時に他のギターも並行して使っている(1975年8月に日本で開催されたワールド・ロック・フェスティバルではオープニングでストラトキャスターを使い、途中でレスポールに持ち代えている[1])。「哀しみの恋人達」では、セイモア・ダンカンが組んだ、ギブソンのハンバッカー・ピックアップを2基搭載したテレキャスター(通称「テレギブ)を使用していた。また1980年の来日公演でのパンフレットにはローランドのGRギターシンセサイザーを使っている写真が掲載されている。
近年テンプレート:いつは自分用にモディファイされたストラトキャスターをメインで使っており、2007年のステージを収録したビデオソフト[7]ではストラトキャスター主体で演奏していることが確認出来る。
フェンダー社からはシグネイチャーモデル(と少数のマスタービルダー、カスタムショップ製)が販売されている。
シグネイチャーモデルは2001年にアップデートされ、ピックアップがレースセンサーからベックモデル専用のカスタムワインドのセラミックノイズレス(ホット・ノイズレス)に、また、ストラトの歴史上もっとも太いといわれたネックがそれより薄い物に変更された。ジョイント部はヒールカットされ、指板はローズウッドが使われている。フレットは22フレットまで。ナットにはウィルキンソン・ローラーナット(ウィルキンソン製は初期のみ、LSR製のローラーナットに変更)、シュパーゼル・ロッキングペグ、ブリッジは2点支持のシンクロナイズド・トレモロである。
アンプ/エフェクター
アンプはヤードバーズ加入当初はVOX社のAC30を使用していた。第1期ジェフ・ベック・グループではテレキャスターにマーシャル200ワットアンプと4つのスピーカー・キャビネットを組み合わせている。BBAではSUNNのコロシアム・アンプ・ユニット+ユニヴォックス社製スピーカーという組み合わせを使用していた[1]。
第2期ジェフ・ベック・グループのShort BusinessやRaines Park Bluesなどではレスリースピーカーを使用してドップラー効果を得るといった試みがなされている[1]。
エフェクターの使用状況は時代によって変動しているが、ワウペダルは全時代を通じてコンサート、スタジオ共に使用している。特定の曲での使用例では、ライヴ・ワイアーに収録されたシーズ・ア・ウーマンやフル・ムーン・ブギーなどでトーキング・モジュレーターが使用されている。またブロウ・バイ・ブロウ収録のAir Blowerではオクターバー・ユニットが使用されている[1]。
以前はプロコの「RAT」(ディストーション)を使っていたが、現在テンプレート:いつはハンドメイドのオーバードライブペダルを使用している。
奏法
フレージングは、ブルースやロックンロールを元にしたペンタトニック・スケールが基本になっている。
1980年代以降は、フィンガー・ピッキングに移行する。アルバムでは1985年の「フラッシュ」以降になるが、1983年のアームズ・コンサート(ARMS Charity Concert)を収録したビデオ映像でも既にピックを使っていない[11]。近年テンプレート:いつのコンサートでは、「スキャッターブレイン」のテーマ部分でピックを使用して演奏している。ピックを使う場合はオルタネイト・ピッキングを主体としているが、その場合でも中指や薬指でのフィンガーピッキングを加えることがある[11]。
ボリュームノブとトーンノブを頻繁に調整し、ピックアップの切り替えもよく行う。ボリューム奏法やタッピング奏法も比較的多く用いている。 曲目によってはスライドギターで演奏することもある。
トレモロアームを多用する演奏スタイルであり(ストラトキャスターを使う一番の理由はトレモロアームがあるから、とベック自身が述べている[1])、右手でアームを包み込むような状態のまま演奏することが多い。ビブラートをかけるためだけでなく、アームによって音程を操作する。アームを使わず、掌で直接ギターブリッジを振動させて、ビブラートをかけることも多い。
ハーモニクスを多用する。
ヤードバーズに参加したばかりの頃は、マネージャーからの要請でエリック・クラプトンの奏法をそっくりそのまま真似ていたことがあった。
ブライアン・メイは、「ジェフ・ベックを聴く度に、私のギター観は根底から覆される。彼の方法ないし逸脱は、思いもよらぬものだ」と評している。
ディスコグラフィ
第1期ジェフベックグループ
- 『トゥルース』 - Truth (1968)
- 『ベック・オラ』 - (Cosa-Nostra)Beck-Ola (1969)
第2期ジェフベックグループ
- 『ラフ・アンド・レディ』 - Rough and Ready (1971)
- 『ジェフ・ベック・グループ』 - Jeff Beck Group (1972)
ベック・ボガート・アンド・アピス
- 『ベック・ボガート・アンド・アピス』 - Beck, Bogert & Appice (1973)
- 『ベック・ボガート・アンド・アピス・ライヴ』 - Beck Bogert & Appice Live (1973)
ジェフ・ベック
- 『ブロウ・バイ・ブロウ』 - Blow by Blow (1975)
- 『ワイアード』 - Wired (1976)
- 『ライヴ・ワイアー』 - Jeff Beck with the Jan Hammer Group Live (1977)
- 『ゼア・アンド・バック』 - There and Back (1980)
- 『フラッシュ』 - Flash (1985)
- 『ギター・ショップ』 - Jeff Beck's Guitar Shop With Terry Bozzio and Tony Hymas (1989)
- 『クレイジー・レッグス』 - Crazy Legs (1993)
- 『フー・エルス!』 - Who Else! (1999)
- 『ユー・ハド・イット・カミング』 - You Had It Coming (2000)
- 『ジェフ』 - Jeff (2003)
- 『ライヴ・ベック!』 - Live at B.B. King Blues Club (2003)
- 『ライブ・ベック'06』 - Official Bootleg USA '06 (2006)
- 『ライヴ・ベック3〜ライヴ・アット・ロニー・スコッツ・クラブ』 - Performing This Week... Live at Ronnie Scott's (2008)
- 『エモーション・アンド・コモーション』 - Emotion & Commotion (2010)
- 『Live And Exclusive From The Grammy Museum』 (2010) 国内盤未発売
- 『ライヴ・アット・イリディウム~レスポール・トリビュート・ライヴ 』 - Rock & Roll Party: Honoring Les Paul(2011)
脚注
参考文献
- ジェフベック 孤独の英雄伝説 なかむら☆よういち著・シンコーミュージック刊(1978 0073-61051-3129)
- ザ・ギタリスト〈下〉達人に聞くサウンドの秘密 ドン メン 編集 中山 義雄 翻訳 単行本 音楽之友社 (1996/03)
- 天才ギタリストジェフ・ベック―完全版 Shinko music mook シンコーミュージック・エンタテイメント (2005/02)
- 1980年来日公演時パンフレット
- 1986年来日公演時パンフレット
外部リンク
- jeffbeckmusic.comテンプレート:En icon
- Jeff Beck homepageテンプレート:En icon
- テンプレート:Discogs artistテンプレート:En icon
- Sony Music Online Japan : ジェフ・ベックテンプレート:Ja icon
- @jeffbeckmusic Twitter
- ワーナーミュージック・ジャパン - ジェフ・ベック