信濃国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
2014年8月12日 (火) 14:52時点における220.212.136.16 (トーク)による版 (中世)
(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)
移動先: 案内検索

テンプレート:Otheruseslist テンプレート:Pathnav テンプレート:基礎情報 令制国 信濃国(しなののくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。

万葉集』での枕詞は「みすずかる (水薦苅)」。

「信濃」の名称と由来

「科野」の語源については諸説あるが、江戸時代国学者である谷川士清は『日本書紀通證』に「科の木この国に出ず」と記し、賀茂真淵の『冠辞考』にも「(一説では)ここ科野という国の名も、この木より出たるなり。」と記しており、「科の木」に由来する説が古くから有力とされている。また賀茂真淵は「名義は山国にて級坂(しなさか)のある故の名なり」とも記しており、山国の地形から「段差」を意味する古語である「科」や「級」に由来する説を残している。他に「シナとは鉄に関連する言葉」とする説もある。また風神シナトヘノミコト)説もある[1]

7世紀代の信濃を記すものとして知られる唯一の木簡は、7世紀末の藤原宮跡から出土した「科野国伊奈評鹿□大贄」と見えるもので、『古事記』にある「科野国造」の表記と一致する。当時は科野国と書いたようである[2]。これが大宝4年(704年)の諸国印鋳造時に信濃国に改められた[3]。「科野」は和銅6年(713年)の『風土記』を境に、「信野」を経て「信濃」へと移り変わっていく。長野県で最も古い「信濃国」の文字は、平成6年(1994年)に千曲市屋代遺跡群から発見され、現在は長野県立歴史館に所蔵されている8世紀前半(715年740年)の木簡となる。『日本書紀』には信濃国について「是の国は、山高く谷幽し。翠き嶺万重れり。人杖倚ひて升り難し。巌嶮しく磴紆りて、長き峯数千、馬頓轡みて進かず。」とある。

歴史

古代

7世紀大化元年(645年)の大化改新の後の令制国発足により、科野国造の領域の佐久伊那高井埴科小県水内筑摩更級諏訪安曇の十を以って成立し、現在の長野県のうち木曽地方を欠く大部分を領域にした。

新政権は大化から白雉年間(645年~654年)にかけて、それまでの国造の支配に依拠してきた地方支配を改め、「」と呼ばれる行政区画を全国に設置した。本県域では、伊奈評・諏訪評・束間(筑摩)評・安曇(阿曇)評・水内評・高井評・小懸(小県)評・佐久評・科野評(後に更級と埴科に分立)などが成立していたと考えられている[4]。大化3年(647年)に渟足柵が、大化4年(648年)に磐舟柵が作られて科野から柵戸(さくこ、公民身分)が派遣された。また、斉明天皇6年(660年)12月には、科野国が、の大群が巨坂を西の方向に飛び越えて行ったことを朝廷に報告した[5]とあり、それに先立つ推古天皇35年(627年)5月には、蝿の集団が信濃坂を越えて東の方へ行き、上野国で散り失せるとあることから[6]、蝿に関して対応する特徴的な記述がされている。

その後の飛鳥時代には、本多善光の開基による善光寺長谷寺などが建立され、特に善光寺は諏訪大社と並び今日においても全国的な信仰の拠り所となっている。

天武天皇元年(672年)の壬申の乱には、科野の兵が大海人皇子(天武天皇)の側に立って活躍したと謂われる。天武天皇14年(685年)には「束間温湯」(つかまのゆ)に行宮(あんぐう)を造らせている。持統天皇5年(691年)の「須波神」「水内神」の勅祭など、科野は大和朝廷にとって注目すべき地の一つであったことが分かる。大宝2年(702年)12月に、始めて美濃国に木曾山道を開くという記述があり[7]、和銅6年(713年)7月には、美濃国と信濃国の国境の道が険阻であり、往還が難しいということで、木曽路が開通している[8]。また、これらの記述の他にも、「信濃路は 今の墾道刈株に 踏ましなむ はけ我が背」(万葉集 巻14-3399 相聞 東歌)と詠まれており、飛鳥時代の末期からは、信濃国における官道の開発がすすんでいた。養老5年(721年6月26日に南部を諏方国として分置した。天平3年(731年3月7日に合併して元に復した。

奈良時代には左馬寮の管轄下で官営による16の勅旨牧と、それを統括するための牧監庁が置かれた。神護景雲2年(768年)には各々の善行に対して朝廷から褒美を得た全国9人の内に信濃国は水内郡刑部智麻呂と倉橋部広人や更級郡建部大垣伊那郡他田部舎人千世売と4人までもを占めた。

奈良時代末期から平安時代初期にかけては、信濃国内の高句麗人の改姓が続々と進んだ。延暦8年(789年)に筑摩郡人の外少初位下後部牛養が田河造を[9]、延暦16年(797年)には外從八位下前部綱麻呂が安坂姓を下賜され[10]、これに続くように延暦18年(799年)には、信濃国人の外從六位下卦婁眞老、後部黒足、前部黒麻呂、前部佐根人、下部奈弖麻呂、前部秋足、小縣郡人无位上部豊人、下部文代、高麗家繼、高麗繼楯、前部貞麻呂、上部色布知等が、自分たちの先祖が飛鳥時代に帰化していることと天平勝宝9年(757年)4月4日の勅令[11]を根拠として、自らの高句麗人の姓を日本人の姓に改めたいと朝廷に請願した結果、卦婁眞老等は須須岐姓、後部黒足等は豊岡姓、前部黒麻呂は村上姓、前部秋足等は篠井姓、上部豊人等は玉川姓、下部文代等は清岡姓。高麗家繼等は御井姓。前部貞麻呂は朝治姓。上部色布知は玉井姓をそれぞれ下賜された[12]弘仁8年(817年)には最澄東山道神坂峠の信濃側に広拯院を建立した。仁和4年(888年)には千曲川が仁和大水と言われる大洪水を起こした。また、信濃国は配所に定められ、中流の範囲とされた[13]

平安時代の中期には桓武平氏平将門が、東山道を京に向かう平貞盛に追撃の兵を差し向け、小県郡国分寺付近で貞盛に助勢した滋野氏や小県郡の郡司他田氏と合戦に及ぶなど(938年2月29日)、信濃は平安時代中期における平氏内紛の舞台ともなった。院政の時代になると、院分国として白河法皇鳥羽法皇の知行国となり、その後は公卿に引き継がれた。また11世紀後半以降、最高権力者である院や摂関家への荘園の寄進が本格化した。

平安時代末期に入ると、保元元年(1156年)の保元の乱、平治元年(1159年)の平治の乱に際して、信濃武士の多くは源義朝に従った。ただし、崇徳上皇の近臣であった村上氏は、信濃に所領を持つ伊勢平氏平家弘らと共に上皇方についた。後白河法皇の第三皇子以仁王は信濃を含む東山道・東海道・北陸道の武士に平家追討の令旨を発し、源行家によって、新羅三郎源義光の子孫である平賀義信(平賀冠者)、岡田親義(岡田冠者)、そして河内源氏源義賢の遺児木曾義仲に伝えられた。義仲は信濃の兵を統べて挙兵し、信越・北陸地方から入洛したが、この動きに対し、河内源氏の嫡流源頼朝北条時政をして伊那や諏訪の武士を糾合させ、黄瀬川の戦いに出陣させた。その後、義仲は西国の平氏追討のため京を離れたが水島の戦いで敗れ、さらに上洛した頼朝の弟範頼義経らに近江国で討伐された(粟津の戦い)。

平安時代から鎌倉時代に、美濃国から木曽地方を編入し、筑摩郡の一部としたが、その正確な時期はわかっていない。また戦国時代には、南信州を支配下に治めた武田信玄によって三河国加茂郡から現・根羽村の地域を編入し伊那郡の一部とした。

中世

鎌倉時代初期には関東御分国の1つとして鎌倉幕府の知行国であった。その後の知行権は公卿興福寺東大寺などの手に移るが、在庁官人や国人関東御家人化が進んで京都の遙任国司や知行国主の影響力は薄れ、「国司その用あてざる国」と揶揄された。戦国時代まで存在した守護職には比企氏執権北条氏小笠原氏吉良氏上杉氏斯波氏武田氏らがいた(初代は比企能員、末代は武田勝頼)。

元久2年(1205年)北条時政は比企能員や幕府重臣を粛清すると、平賀義信の次男平賀朝雅を傀儡の新将軍として擁立しようとしたが、失脚した(牧氏事件)。建暦3年(1213年)、御家人泉親衡が、信濃武士と結んで源頼家の遺児千寿丸を将軍に擁立し、信濃守護も兼ねる執権北条義時を打倒する陰謀が発覚した(泉親衡の乱)。承久3年(1221年)の承久の乱では幕府の仁科盛遠への処遇も乱勃発の一端となった。信濃武士の多くは幕府方につき、東山道軍の武田信光小笠原長清に従い、後鳥羽上皇方の仁科氏らは北条朝時の北陸道軍に敗れた。この後、信濃武士は宝治合戦で武功を挙げた諏訪盛重に代表されるように、北条氏の得宗被官御内人)として活躍する者が多くなった。信濃での北条氏の所領の中核は、関東御領の春近領であった。

またこの時代の仏教の信者で多いのが臨済宗曹洞宗などの禅宗一向宗浄土宗(禅林寺派)などである。特に塩田北条氏の塩田荘は「信州の学海」と称されるほど、禅宗文化の中心地となった。

鎌倉時代末期、後醍醐天皇鎌倉幕府追討の宣旨を下し、足利尊氏新田義貞らの有力御家人が寝返った。得宗北条高時を討って幕府を滅ぼすと、建武2年(1335年)、北条氏の御内人であった諏訪神党諏訪頼重滋野氏らが高時の遺児北条時行を奉じて鎌倉を奪還したが(中先代の乱)、わずか20日で鎮圧された。翌年に入ると北条泰家が南朝に呼応して京都から麻績御厨に入って国衙の在庁官人深志知光らと挙兵し、北朝方の建武政権から守護に任じられた小笠原貞宗、同政権から一代限り「信濃惣大将」の地位を認められた村上信貞の軍勢と衝突したが破れた。その後も吉良満義が守護となり、北条残党一掃のため吉良時衡が派遣された。

後醍醐天皇の建武の新政では公家中心の政治に対して武士の不満が高まった。足利尊氏の新帝擁立で朝廷が二つに分かれた南北朝時代に入ると、南朝方の諏訪氏仁科氏香坂氏らと北朝方の小笠原氏や村上氏との間で抗争が繰り広げられた。観応元年(1350年)の観応の擾乱では南朝方足利直義派の諏訪直頼らも呼応して挙兵し、信濃は一時、幕府から鎌倉府の管轄に置かれたが、再び幕府に取り戻された。南朝方は後醍醐天皇の皇子である征夷大将軍宗良親王(信濃宮)を奉じて伊那谷に南朝方の一大拠点を築いたが、文和4年(1355年)の桔梗ヶ原の戦いで小笠原氏が勝利すると、信濃南朝勢力の衰微は決定的となり、諏訪氏や仁科氏なども北朝側に寝返って、ついには足利義詮に加勢するようになった。鎌倉府の推挙によって上杉朝房が守護に任じられたが、将軍足利義満と公方足利氏満が対立すると、信濃は鎌倉府監視の最前線となり、鎌倉時代とは一変して、京都との結びつきが強くなった。康暦の政変後には斯波義種が守護となった。

明徳3年(1392年)の南北朝合一後は、守護対在地豪族の争いから複雑な対立関係が発生し、斯波氏に対する国人衆の反発が起きた。その後、明徳の乱で武功を上げ信濃守護に復した小笠原氏と在地豪族の代表格村上氏が、国人衆(大文字一揆)を巻き込んで争い(大塔合戦)、小笠原氏は京都へ追放された。応永9年(1402年)信濃は室町幕府料国(直轄地)となり、政所の直接支配下に置かれ、守護職は空白化した。その間、幕府代官として細川氏が派遣された。その後は室町幕府と鎌倉公方、鎌倉公方と関東管領との対立が大きく影響を及ぼし、強力な支配権を持つ自立した大名が登場することはなかった。将軍足利義教により信濃守護に復し、上杉禅秀の乱永享の乱結城合戦などで活躍した小笠原政康は、公方足利持氏派の村上頼清を抑えて信濃を一時平定したが、嘉吉の乱で将軍義教の後ろ盾を失い、政康の没後、小笠原氏の家督相続と守護叙任に幕府有力者の畠山氏と細川氏の対立関係が絡んで、小笠原氏は三家に分裂した。幕府の享徳の乱への出陣命令にも応えられないほど衰亡し、守護権力も地に堕ち、上杉房定に半国守護を抑えられた。

室町末期にかけて下克上の様相を呈し、在地豪族の諸勢力が拮抗を続ける。埴科郡を拠点に北部や東部に勢力を拡大する村上氏、諏訪大社の信仰を背景とする諏訪氏、信濃守護家として幕府と強い繋がりを持つ小笠原氏、木曽谷に割拠する木曾氏らがその代表格であり、この4氏を後世、信濃四大将と呼ぶ。他にも小笠原一族で古河公方足利成氏を庇護した大井氏越後長尾氏と縁戚関係を結ぶ高梨氏関東管領上杉氏を後ろ盾とした海野氏、北部の名族井上氏などの旧来の名族の流れを汲む一族も健在であった。

戦国時代には隣国甲斐国との関係が深くなり、諏訪氏は甲斐守護武田氏と同盟を結び天文10年(1541年)には諏訪氏、村上氏は武田信虎と共同して小県郡へ侵攻し海野氏を駆逐するが(海野平の戦い)、同年に甲斐で晴信(信玄)への当主交代が起こると武田と諏訪の関係は手切となり、諏訪大社上社(諏訪氏)と下社(金刺氏)、諏訪宗家と高遠諏訪家の対立が絡んで、晴信による信濃侵攻が本格化する。武田氏は諏訪頼重仁科盛政を滅ぼし、守護小笠原長時村上義清らを追い、木曾義康真田幸隆を傘下に下すなど、信濃の大半を領国化し有力国衆を家臣団として従えていくが、それに対して、高梨氏や井上氏など北信国衆は越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼り、武田・長尾(上杉)間の北信・川中島を巡る川中島の戦いへと展開する。弘治3年(1557年)の第三次合戦後には将軍足利義輝は甲越間の調停を行い、翌弘治4年に晴信は信濃守護に補任されている。川中島の戦いは最大の衝突となった永禄4年(1561年)の第四次合戦を契機に収束し、その後も甲越関係は対立し北信地域は最前線として緊張状態にあったが、以後は安定して信濃の武田領国化が続く。

信玄の死後、その後を継いだ武田勝頼が引き続き支配し上杉景勝と同盟を結び信濃支配をさらに確固にしたかに見えたが、織田信長との抗争に敗れ滅亡。その後は織田家の版図に加えられ、森長可(北信)、滝川一益(東信)、毛利長秀(伊那)、河尻秀隆(諏訪)、木曾義昌(安曇、筑摩)らに与えられた。しかし本能寺の変後、織田家の勢力は瓦解し、徳川氏後北条氏・上杉氏の勢力が進出(天正壬午の乱)。後北条氏は徳川氏と和解・同盟して領地交換により撤退し、徳川と上杉の対立のはざ間で第一次上田合戦を生じた。この対立は徳川家康豊臣秀吉の対立に転じ、家康が秀吉と和睦し後に臣従して関東に移封されると、信濃は豊臣氏方の武将の支配下に収まった。

関ヶ原の戦いの直前、徳川秀忠の軍勢は、真田氏がかつては徳川氏に仕えながら豊臣氏の配下に転じ、関ヶ原において西軍方についたため真田昌幸信繁父子の居城上田城を攻めたが敗れた(第二次上田合戦)。関ヶ原の戦いにおける第2の舞台である。真田昌幸は関ヶ原以後、高野山に流された。その後、東軍の真田信幸松代城に入った。西軍の真田信繁は豊臣方について後年の大坂の役で武名を挙げることになる。

近世

江戸時代は、途中廃絶も含めて松代藩等大小計19藩が置かれた(廃藩置県時点では松本藩上田藩飯山藩小諸藩岩村田藩龍岡藩田野口藩)、高島藩高遠藩飯田藩須坂藩、松代藩)。

また木曽地方は全域が尾張国名古屋藩領(山村代官所)であり、伊那郡内には美濃国高須藩(竹佐陣屋)及び陸奥国白河藩(市田陣屋)、高井郡内には越後国椎谷藩(六川陣屋)、佐久郡内には三河国奥殿藩(後に藩庁を信濃に移し田野口藩となる)の飛び地があった。

その他善光寺戸隠神社諏訪大社等の寺社領、天領支配のための中野・中之条・御影・塩尻・飯島の5つの代官所交代寄合旗本伊那衆伊豆木陣屋の小笠原氏、阿島陣屋知久氏等)の知行所などが置かれた。

この時代には主に北信濃の天領から多くの出稼ぎ労働者を江戸に送り出し、彼らは「信濃者(しなのもの・しなのじゃ)」、「おシナ」あるいは暗喩で「椋鳥」と呼ばれ、「大飯喰らい」「でくのぼう」の象徴として江戸狂言に多く詠まれている。

幕末になると、東海地方から南信濃に平田国学が移入されて勤皇思想が盛んになった。元治元年(1864年)には天狗党の乱が関東から京へ向けて信濃国内を通行したが、実際に交戦したのは高島藩、松本藩のみで、それ以外の藩は天狗党に畏怖し通行を黙認した。戊辰戦争では外様の松代藩・須坂藩はいち早く倒幕を表明、その他の譜代諸藩は、当初日和見の態度をとる藩が多く、積極的な佐幕論は見えない中、次第に官軍に恭順していった。慶応4年(1868年)官軍より信濃諸藩に赤報隊の捕縛命令が下り、下諏訪宿相楽総三らが処刑された。4月下旬、越後から進出した衝鋒隊飯山城下を占領すると、信濃諸藩は東山道先鋒総督府の岩村精一郎の軍監に入り、連合してこれを撃退し、そのまま北越戦争会津戦争に転戦した。賞典禄は松代藩3万石、須坂藩5000石、松本藩3000石、上田藩3000石、金禄は奥殿藩5000両、高遠藩2000両等であった。明治維新に前後して信濃各地で木曽騒動、上田騒動、会田騒動、川西騒動、須坂騒動、松代午札騒動などの世直し一揆が多発し、中でも最大規模の中野騒動では県庁舎が焼失し、県庁の長野移転の契機となった。

近世以降の沿革

国内の施設

国府

歴史的文献に現れる国府の所在地として、『和名類聚抄』、『拾芥抄』、『易林本』の節用集のいずれにも全て筑摩郡と記述されている[14]。現在の松本市にあたる。

ただし諸説として、国分寺[15]及び総社のひとつである科野大宮社が上田市にあること、東山道のルートや宿駅の配置(小県郡亘理(曰理)駅)、科野国造の本拠地であったことなどから推測して、『和名抄』編纂以前には小県郡に国府があったとする学説もあるが[16]、1次史料による証明・裏付けは今のところ皆無であるため、憶測の域を出ない。2007年現在において、遺跡からの有力な出土物や遺構も発掘されていない。

また、一時的に信濃国から分立した諏方国の国府も未詳である。

平安中期の944年、天災により国衙が倒壊し国司が圧死した記録が残る。

鎌倉初期には善光寺近傍に「御庁」(長野市後町)が建てられ、国司の目代が置かれた。1335年には、建武の新政に反旗を翻した諏訪頼重が国衙を襲撃し戦火で消失、以後再建されることがないまま、守護を務める武家にその権能が委譲され、次第に形骸化していった。

寺院

国分寺国分尼寺

1963年昭和38年)からの発掘調査により国分僧寺・国分尼寺跡が上田市国分の地で確認されている。

定額寺
貞観9年(867年)に藤原良房により定められた。
  • 寂光寺(伊那郡)
  • 錦織寺(筑摩郡)
  • 安養寺(更級郡)
  • 屋代寺(埴科郡)
  • 妙楽寺(佐久郡)

神社

延喜式内社
延喜式神名帳』には大社7座5社・小社41座41社の計48座46社が記載されている。大社5社は以下に示すもので、全て名神大社である。
総社一宮以下

守護所

守護の交代によって位置は移り変わり、水内郡善光寺後庁、小県郡塩田、埴科郡船山、水内郡平芝、筑摩郡井川などに置かれた。

勅旨牧

  • 塩原牧(青木村)
  • 望月牧(佐久市)
  • 長倉牧(軽井沢町)
  • 塩野牧(御代田町)
  • 山鹿牧(茅野市)
  • 萩倉牧(下諏訪町)
  • 平井手牧(辰野町)
  • 宮処牧(辰野町)

  • 埴原牧に牧監庁を併設。

地域

人物

国司

飛鳥・奈良時代

信濃守(飛鳥・奈良)

信濃介(飛鳥・奈良)

平安時代

信濃守(平安)

信濃介(平安)

鎌倉時代

信濃守(鎌倉)

信濃介(鎌倉)

室町時代

信濃守(室町)

信濃介(室町)

テンプレート:節stub

守護

鎌倉幕府

室町幕府

武家官位としての信濃守

脚注

テンプレート:Reflist

参考文献

関連項目

テンプレート:Sister


テンプレート:令制国一覧

テンプレート:信濃国の郡
  1. 古川貞雄「風土と人間」 古川貞雄・福島正樹・井原今朝男・青木歳幸・小平千文『長野県の歴史』山川出版社 2003年 2ページ
  2. 舘野和己「『古事記』と木簡に見える国名表記の対比」、『古代学』4号、2012年、17頁・20頁。
  3. 鎌田元一「律令制国名表記の成立」、『律令公民制の研究』、塙書房、2001年。
  4. 福島正樹「信濃国のなり立ち」 古川貞雄・福島正樹・井原今朝男・青木歳幸・小平千文『長野県の歴史』山川出版社 2003年 42ページ
  5. 『日本書紀』巻二六斉明天皇六年(六六〇)十二月庚寅廿四
  6. 『日本書紀』巻二二推古天皇三五年(六二七)五月
  7. 『続日本紀』巻二大宝二年(七〇二)十二月壬寅十
  8. 『続日本紀』巻六和銅六年(七一三)七月戊辰七
  9. 『続日本紀』巻四十延暦八年(七八九)五月庚午廿九
  10. 『日本後紀』巻五延暦十六年(七九七)三月癸夘十七
  11. 『続日本紀』巻廿天平宝字元年(七五七)四月辛巳戊寅朔四
  12. 『日本後紀』巻八延暦十八年(七九九)十二月甲戌五
  13. 『延喜式』卷第廿九 刑部省 延長五年(九二七)十二月廿六日
  14. 10世紀に編纂された『和名抄』(流布本)巻五の信濃国の項に「国府在筑摩郡」の注記があることから、平安時代中期には筑摩郡に国府があったことが知られる
  15. 1963年昭和38年)からの発掘調査によって国分僧寺・国分尼寺跡が上田市国分の地で確認され、国府と国分寺は一般的傾向として通常近接したところに立地するという点から小県郡に国府を推定する説。
  16. 参考:長野県史刊行会編『長野県史』通史編 第1巻原始・古代 1989年、山川出版『長野県の歴史』ISBN 4634322005、『松本市史』第2巻 歴史編Ⅰ「原始・古代・中世」、『上田市誌』 歴史編2「上田の弥生・古墳時代」・歴史編3「東山道と信濃国分寺」など多数。
  17. 文献上に現れる初代信濃国司。
  18. 橘奈良麻呂の乱で処罰され任国配流。
  19. 国衙が倒壊し圧死。
  20. 今昔物語集』の受領のエピソードで知られる。
  21. 藤原家長の子か。
  22. 平氏追討の勲功。
  23. 木曾義仲の養父。
  24. 藤原隆房の子か。
  25. 堀河中納言藤原光継の直前の前任者であるとの記録があり、左近少将入道と同一人物とする説あり。
  26. 1333年10月に就任した清原真人某と同一人物か。
  27. 27.0 27.1 1477年の興福寺の記録