須坂藩
須坂藩(すざかはん)は、信濃国(現在の長野県須坂市常盤町)に存在した藩。政庁は須坂陣屋。
概要
須坂藩の藩祖は、堀直政の四男・堀直重である。この堀氏は、堀家の家老であった奥田直政に堀姓を与えたことが起源であり、豊臣秀吉の重臣であった堀秀政の一門家老ではあるが、その直系子孫ではない。
直重は早くから徳川家に近づき、徳川秀忠に献身的に仕えたことから、外様大名でありながら譜代大名に準じる待遇を求めたが入れられなかった(後に「願い譜代」となった)。
歴代藩主の多くが大番頭や大坂・駿府・二条の加番、伏見奉行などの職についている。第11代藩主・堀直格は、藩士黒川の協力を得て『扶桑名画伝』を著わし藩校・立成館を創立する。第12代藩主・堀直武は、先代直格の発案による薬用人参、吉向焼などの国産物育成を中心とした藩財政の改革を行い、さらに心学の導入によって藩政改革を進める。野口源兵衛らを登用した財政改革を行なったが、領民の支持を得られなかったこと、藩財政の逼迫をさらに招いたことから、藩政改革に失敗した。
幕末期の藩主・第13代堀直虎は、家老ら41人を粛清し藩政を大きく改革し、洋式軍制を導入する。幕政にあっては、維新の中にあり大番頭等を経て若年寄兼外国総奉行に任じられ、慶応4年(1868年)正月、徳川慶喜に自分の意見が聞き入られなかったため、江戸城中で諌死する。勝海舟等は、乱心して自害したとしている。
その後、須坂藩は従来の佐幕の方針を転換し、小山・結城、北越、会津に出兵。長野県内の諸藩では、飛びぬけた数の藩士を送り、明治政府の成立に向けて協力することをアピールした。最後の藩主・堀直明は版籍奉還により藩知事となる。明治4年(1871年)の廃藩置県で須坂藩は廃藩となって須坂県となり、同年11月、須坂県は長野県に編入された。
須坂藩主は、他藩の藩主同様文芸に秀でていた。特に直格は扶桑名画伝のほか、数々の絵画史に関する著作を行い、様々な藩主と交流している。
歴代藩主
- 堀家
1万石。外様。柳間。陣屋。
- 堀直重(なおしげ)従五位下。淡路守。
- 堀直升(なおます)従五位下。淡路守。
- 堀直輝(なおてる)従五位下。肥前守。
- 堀直佑(なおすけ)従五位下。長門守。
- 堀直英(なおひで)従五位下。淡路守。
- 堀直寛(なおひろ)従五位下。長門守。
- 堀直堅(なおかた)従五位下。淡路守。
- 堀直郷(なおさと)従五位下。長門守。
- 堀直皓(なおてる)従五位下。内蔵頭。
- 堀直興(なおおき)従五位下。淡路守。
- 堀直格(なおただ)従五位下。内蔵頭。
- 堀直武(なおたけ)従五位下。淡路守。
- 堀直虎(なおとら)従五位下。長門守。
- 堀直明(なおあきら)従五位下。長門守。
幕末の領地
その他
- 藩主堀家の菩提寺の臥龍山興国寺は須坂市内に現存している。
- 須坂藩の陣屋跡は、現在主に須坂市立須坂小学校として利用され、その一角に藩祖直重と13代直虎を祭神とする奥田神社が祀られている。藩主堀家の旧姓が奥田家であったことから奥田神社と名づけられた。
- 田中角栄の通称「目白御殿」は須坂藩の江戸屋敷跡に建てられたものであり、その建築時に田中角栄が上記奥田神社に参拝に訪れた。
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