象印クイズ ヒントでピント
テンプレート:基礎情報 テレビ番組 『象印クイズヒントでピント』(ぞうじるしクイズヒントでピント)は、1979年3月4日から1994年9月25日までテレビ朝日系列局で放送された日本のクイズ番組である。基本放送枠は毎週日曜日の19:30 - 20:00(JST)である 。
目次
概要
司会はフリーアナウンサーで元文化放送アナウンサーの土居まさる。オープニングクイズ後のCM明けに、キャッチフレーズとして「あなたの直感と連想能力に挑戦する象印クイズヒントでピント」と言うのが恒例となっていた(但し、番組末期の頃からは「あなたの」を言わなくなる。)。
この番組は、他のクイズ番組とは一線を画し、当時では最新のコンピュータを使用した(クイズの問題は、一般常識問題よりもむしろ、難問・珍問・奇問を中心とした映像クイズを出題していた。)出題形式を採用。問題内容もキャッチフレーズの通り、映像によって直感力を問われるものや、いわゆる連想ゲームのような問題がほとんどであった。解答者はタレントというよりはいわゆる「文化人」と呼ばれるタイプをメイン(特にキャプテン)に揃えて、知的イメージを押し出していた。
前番組から引き続きスポンサーは象印マホービンの一社提供(キャッチコピーは「暮らしの夢をあたためる」→「サーモテクノで暮らしをつくる」→「多彩な生活快感を提案します」)であり、司会者席と各解答者席には象印の社章が描かれた。1986年3月までは象のロゴマークであったが、同年4月からは象印の「CI」が導入され、司会者席は「ZOJIRUSHI」、解答者席は「ZO」に変更された。
エンディングでは視聴者プレゼントクイズが行われ、「今日のオープニングクイズの顔は誰だったでしょう」と「今日の対戦は何対いくつで(男性軍・女性軍の)どちらが勝ったでしょう」が原則週替わりで出題されていた。プレゼントは象印製品であったが、番組末期は海外旅行もあった。
テーマ曲を担当したのは、毎日放送・TBS系『世界まるごとHOWマッチ』やNHK総合『クイズ面白ゼミナール』[1]でも知られる作曲家の前田憲男である。
1985年9月25日には『水曜スペシャル』で『輝け!オールスター・秋の人気番組爆笑!クイズでヒントゲームでピント!!』というこの番組をベースとした、番組対抗のスペシャル番組が放送された。出演番組は『ビートたけしのスポーツ大将』(第1期)『特捜最前線』『愛川欽也の探検レストラン』『私鉄沿線97分署』『暴れん坊将軍II』やアニメチーム(『ドラえもん』ほか)などである。なお当番組自体も、『オールスター番組対抗ボウリング大会』(1979年秋~1987年春)や『輝け!オールスター秋の番組対抗ウルトラ料理大賞』(1983年・1984年秋)といった番組対抗のスペシャル番組に出演している。
本番組は裏番組のクイズ面白ゼミナールや世界名作劇場と視聴率で争っていた。
ルール
当時最新のコンピュータ技術を生かし、男性軍(緑の席)・女性軍(赤の席)に分かれて各5名、うち1名はゲスト(5枠席に着席する)の対抗戦。映像クイズは、大きく6つ(末期は5つ)のパートに分かれていた。特記のないものは全員参加の早押しクイズ。全18問(末期は全14問)出題。
形式
問題は、おおまかに「分割問題」と「テクニカル問題」の2種類の問題が出題される。「分割問題」は、2枚・4枚・8枚・16枚のヒント(語句・絵・写真)が記されたパネルを番号パネルで隠し、時間の経過に従い番号パネルがランダムに外されていくことでヒントを表示させる形態の映像クイズ。「テクニカル問題」は、モザイク処理を施した映像を流し、時間の経過と共にモザイクが解除されていくことで、元画像を当てる映像クイズである。このモザイク処理は、この番組のために当時のNECが発明したものである。パート3の動画問題は、ドット状にぼかされる・細かく刻まれた動画が時間の経過と共に戻される、パート4の静止画問題は、画面中心からドットでバラバラになった映像が渦巻状に出され、全部出した後に元の映像に戻される形式となる。
流れ
長らく行われていた(1980年10月 - 1992年9月)、前期・中期・後期までは以下の通り。
- オープニングクイズ:「テクニカル・著名人顔当てクイズ」・全1問
- 土居の「さあ、まずは頭の準備体操、オープニングクイズです」、「顔シリーズ、誰でしょうか、どうぞ!」が決め言葉。ある人物をモザイク処理、時間の経過と共にモザイクが解かれていき、その人物名を当てる。解答権は1人1回。正解チームに、16分割で得点が倍になるボーナスクイズの権利を獲得。その際キャプテンと2枠の解答席の間に、キャプテンのミニチュア人形が飾られた。
- 出題パート1:「2分割クイズ」・全6問
- 2点満点で6問出題。解答権は無制限。土居が口頭でヒントを出す。
- 出題パート2:「4分割クイズ」・全5問
- 各枠の男性軍と女性軍の1対1の対抗戦。解答権は無制限。土居が口頭でヒントを出すが、チャイムが鳴ると得点が3倍になるラッキークイズで、この場合はノーヒントとなる。4点満点、ラッキークイズの場合は12点満点で5問出題。
- 出題パート3:「テクニカル・動画当てクイズ」・全1問
- 動画問題で、何をしているかを当てる。解答権は1人1回。10点満点で1問出題。
- 出題パート4:「テクニカル・物(生き物)当てクイズ」・全2問(男女別各1問)
- 静止画問題で、物(生き物)の名前を当てる。解答権は1人1回。この問題のみ男女別に出され、得点の高いチームが先攻。解答権のない相手チームへは、土居の手元にあるスイッチからキャプテンの横にあるプリンターに答えを送信、紙に印刷されたものをメンバーが順番に回して行く。その間に視聴者には字幕スーパーであらかじめ答えを先に伝えたが、事前に答えを知りたくない視聴者のために、答えが出る前後に土居が「はい、答え出まーす!」「はい消えまーす!」と言っていた。10点満点で男女1問ずつ計2問出題。中期までは誰かがボタンを押す度に画面に網目が付く様になっていた。(2人以上押すと、線が太くなった。)
- 出題パート5:「16分割クイズ」・全3問
- 別名「恐怖の16分割」。解答権はチームで3回。オープニングクイズ正解チームは1~3問目のどこかでボーナス権利を行使。その際キャプテンのミニチュア人形の手に「Vサイン(2倍)」が描かれた旗を差し込み、そのチームのみ得点が2倍になるボーナス問題となる。お手つきは各チーム2回までで、問題画面下にあるチームの得点表示スコアの横に「×」が下から1個表示される。3回目のお手つきで、チーム全体がその問題の解答権を失い、土居の「立つ!」の掛け声で全員起立となる。両チーム解答権がなくなるとその時点で問題終了。中期・後期・末期には表立った募集告知はしていないが、視聴者からの投稿問題も出題され、採用された問題の投稿者に象印製品がプレゼントされた。16点満点、ボーナス権利行使の場合は32点満点で3問出題。
特徴
解答権が1人1回の問題は、ネームプレートの左右に付いているランプが点灯、不正解でランプが消灯して解答権が無くなった事を表す。正解でランプが点滅、同時に全解答者のランプが消灯する。また、解答権が1人1回の問題以外でも、正解でランプが点滅する。更に1対1の問題では、対戦する解答者にランプが点灯、不正解でもランプは消灯しない。正解でランプが点滅、相手のランプが消灯する。
2・4・8・16分割問題の正解は、画面にレギュラー陣のイラストと共に出される。主に同じ席枠の男女レギュラーが描かれ、2 - 3枚の絵を順番に出してアニメの様に動かす場合もあった。ゲスト対決がある場合、唯一ゲストの絵も出される。
初期はオープニングクイズ(1979年3月 - 1980年9月)はなかった。テクニカルクイズ(パート3・パート4の両方)は20点満点でパート3は全2問あった。
オープニングクイズ(1980年10月以降)導入時にテクニカルクイズ(パート3・パート4の両方)の満点が10点に引き下げられ、パート3が全1問になった。また80点による海外旅行がなかなか出なかったため、1980年10月からオープニングクイズでボーナスクイズの権利獲得が加えられた(放送開始から1980年9月までは何の特典もなかった)。この頃からエンディング時の視聴者クイズが始められ、当初は海外旅行(ハワイ)が出なかった時に限って視聴者にハワイ旅行のプレゼントだったが、後に週替わりの象印製品のプレゼントとなる。
末期の1992年10月にルールが改正。これによって「2分割クイズ」が無くなり、パート1の「4分割クイズ」が全5問(各枠男女1対1の対抗戦で、以前のルールと変わらないが、ラッキークイズは廃止された)、パート2の「8分割クイズ(テーマ問題)」が全2問、パート3の「テクニカル(動画当て・物(生き物)当てクイズが各1問)」が全2問(いずれも共通問題となり、これにより、キャプテン横のプリンターが無くなった)。パート4の「16分割クイズ」が全4問という形態に変わった。また、解答権について、パート1とパート2は無制限、オープニングクイズとパート3は1人1回、パート4は各チームお手つき2回までだった。
得点は基本的に正解した時点での残りのパネル枚数+1点を正解チームに加算、0点(タイムオーバー)で問題終了というルール。全問題終了時点で得点の多いチームの勝ちだが、60点以上を獲得した場合は「象印賞」として、その日のクイズに関連した賞品が贈られる。80点以上で海外旅行(ハワイ・オーストラリア・スペイン・地中海・カナディアンロッキー・カリブ海・イタリア)獲得となり、ゲスト解答者も含め5人全員に送られた。末期(1992年10月以降)は各解答者の海外旅行は無くなり、60点以上の「象印賞」獲得の際、一般視聴者に海外旅行をプレゼントにした。稀にではあるが、引き分けの回も存在した。
番組内で土居は「パーフェクトの得点は100点満点」と言っているが、実際の最高得点は100点を超えており、初期(1979年3月 - 1980年9月)は140点満点、前期・中期・後期(1980年10月 - 1992年9月)は100点満点+4分割ラッキー点+16分割ボーナス点(実質124点満点)、末期(1992年10月 - 1994年9月)は120点満点+16分割ボーナス点(実質136点満点)であった。
なかなか出ない海外旅行だったが、番組開始から4年1カ月後の第200回(1983年4月3日放送)で初の海外旅行獲得が出た。レギュラー陣と視聴者がペアになっての特集だったこの回、男性軍が16分割の最終問題でボーナスクイズを賭け、キャプテンの小林亜星が第3ヒントで見事正解して80点ジャストになったことでハワイ旅行を達成(サブタイトルは「出た!出た!ハワイ旅行!!」。ヒントは「首」などでウイニングアンサーは「打つ」)。番組開始後8年目には女性軍もスペイン旅行を獲得しており、その際は女性軍5人全員が大号泣した(サブタイトルは「苦節8年女性軍スペイン旅行に大号泣」)。
ゲスト(男女両軍2人とも)には、スポンサーの象印から、象印製品が参加賞として贈られる。また1年間の通算勝利数が多かったチームには解答者全員に賞品が贈られた。
出演者
司会者
男性軍
出演期間 | 1枠キャプテン | 2枠 | 3枠 | 4枠 | |
---|---|---|---|---|---|
1979.3 | 1979.6 | 笹沢左保 | 柳家小三治 | 黒沢久雄1 | 柴田恭兵 |
1979.7 | 1980.3 | おりも政夫 | |||
1980.4 | 1980.9 | 山藤章二1・2 | |||
1980.10 | 1982.3 | 宮尾すすむ1 | |||
1982.4 | 1983.6 | 小林亜星2 | |||
1983.7 | 1983.12 | おりも政夫 | 野村義男 | ||
1984.1 | 1984.9 | 沖田浩之 | |||
1984.10 | 1985.3 | 浅井慎平2・3 | ひかる一平 | ||
1985.4 | 1985.9 | ジェームス三木 | 太川陽介 | ||
1985.10 | 1986.3 | 稲川淳二 | |||
1986.4 | 1987.3 | 高田純次 | 羽賀研二 | ||
1987.4 | 1988.12 | 山下規介 | |||
1989.1 | 1994.9 | 高田純次 | 山下規介 | 薬丸裕英 | |
|
女性軍
出演期間 | 1枠キャプテン | 2枠 | 3枠 | 4枠 | |
---|---|---|---|---|---|
1979.3 | 1979.6 | 小山内美江子1 | 江利チエミ | 寿ひずる | 谷川みゆき |
1979.7 | 1979.9 | 小坂明子 | 林寛子 | ||
1979.10 | 1980.3 | 江利チエミ2 | 佐藤陽子 | ||
1980.4 | 1980.9 | 久里千春 | 中島梓 | ||
1980.10 | 1982.3 | 佐良直美3 | 中島梓 | 沢田亜矢子 | マッハ文朱 |
1982.4 | 1983.3 | 中島梓5 | 小林千登勢4 | ||
1983.4 | 1983.12 | 楠田枝里子 | 山口果林 | ||
1984.1 | 1986.3 | 中島梓6 | 斉藤ゆう子 (現・斉藤祐子) | ||
1986.4 | 1986.9 | 山内美郷 | |||
1986.10 | 1987.3 | 三好礼子 (現・山村レイコ) |
飯干恵子 (現・飯星景子) | ||
1987.4 | 1987.9 | 根本りつ子 | |||
1987.10 | 1988.3 | 東ちづる | |||
1988.4 | 1988.12 | 東ちづる | 芳本美代子 | ||
1989.1 | 1991.9 | 生稲晃子 | |||
1991.10 | 1992.3 | 城戸真亜子 | |||
1992.4 | 1993.9 | 麻木久仁子 | 千堂あきほ | ||
1993.10 | 1994.9 | 兵藤ゆき | |||
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セット
1代目(1979年3月 - 1980年9月)
- チーム5人が座れる長い席1つが用意されており、ボタンを押すと鐘の音と共にネームプレートの下にある赤いランプが点滅する。司会者席後方のモニターは大画面であった。
2代目(1980年10月 - 1983年12月)
- 解答席が5つに分割され、1人1席のタイプに変更。ボタンを押した際にひし形の札が出てくるほか、解答席後部はひし形の中に赤と緑のランプが互い違いに円状に並べられ、正解時には一番下から時計回りに、不正解時には一番下から反時計回りに点灯していき、中心には勝利時に光る電飾が付いていた。また司会席後方のモニター画面が小さくなり、得点盤に<math>\spadesuit</math>(スペード・男性軍)と<math>\heartsuit</math></span>(ハート・女性軍)がついていた。この頃から、早押しの鐘の音の余韻が短縮された。
3代目(1984年1月 - 1994年9月)
- セットが大幅にモデルチェンジされ、ボタンを押した際にはネームプレートが点灯する形となった。また解答席後部は、三角形の直角部分が矢印の様に司会者席の方向を向いており、三角形の中に勝利時の電飾(1席あたり豆電球10個)がある。三角形が指している部分にランプが縦長に配置され、上半分が緑、下半分が赤という並びで、境目を中心に正解時には上に向かって、不正解時には下に向かって点灯した。ネームはゴシック体で表記される(それまでは丸ゴシック体)。また1986年4月から、司会者席と解答者席にある象印のロゴが変更され、さらに解答者席のチームカラーの机に下に青いラインが加わった。
- 各解答者の後ろには、緑と赤のランプが1席あたり20個ずつ設けられており、オープニングクイズを除き正解すると緑が、不正解だと赤が1つずつ点灯していた。なお、正解・不正解数によって賞与・厳罰は無く、あくまで目安である。オープニングクイズとゲスト解答者紹介時には、全解答者の緑のランプのみが全点灯、チーム勝利の際には電飾と共に、緑と赤のランプが全点灯していた。
エピソード
1990年代に入るとキャプテン以外の男性レギュラー解答者も時々欠席したことがある。例として、2枠の高田純次の欠席時は「ジュンジの代わりはジュンジが」とタレントの稲川淳二、ジェームス三木らが、3枠の山下規介の欠席時は、元レギュラー解答者の羽賀研二、同じく元レギュラー解答者のおりも政夫、また当時プロ野球選手の高橋慶彦、高橋と同じプロ野球選手の田尾安志らが、4枠の薬丸裕英の欠席時は元シブがき隊のメンバーだった布川敏和、同じく元シブがき隊のメンバーだった本木雅弘、さらに、同じジャニーズ事務所の少年隊からは、東山紀之、植草克秀、錦織一清らが、それぞれ代役を務めたことがあった。
土居は各解答者が誤答をした場合、名詞の場合「○○じゃないー」、動詞の場合 「○○しないー」という表現が度々見られた。また、解答者が惜しい不正解だった時には、土居はよく言葉の語尾を上げながら(土居まさるはいわゆる語尾上げの元祖でもある。)応えていた。
ゲスト解答者には必ず参加賞として象印の賞品がプレゼントされていて、たとえ一問も答えなくても(正解、不正解ランプが何も点灯しいなくて真っ黒の状態である。)お土産がもらえる。このことを高田に「一回もボタンを押してないうえに何も答えていないのにー」とツッコまれることも多かった。特に番組初期は個人戦がなかった(1979年3月 - 1980年9月)ためこの傾向が顕著であった。番組前期(1980年10月)からは個人戦を導入し、ゲスト解答者同士の対決の場が設けられたため、終始無言という事態は解消された。
200回記念大会の時に一度だけ、視聴者が解答者として出演したことがあった(レギュラー解答者の横に座り、8対8で行われた)。
SMAPの木村拓哉もゲストで出場したことがある。その時には16分割の問題で2問連続正解している(答えはヒッチコックとクレムリン)。
700回放送記念として、レギュラーチーム対OBチームのカップル大会として対抗戦が行われた。この時のオープニングクイズの顔当ては、司会者の土居まさる(レコード「カレンダー」のジャケット写真の頃の顔)を当てるものであった。
土居は長年の経験からか、誰が正解するか予想できるようになっていた。特にレギュラー解答者らがボタンを押した直後、まだ解答者が答えを言う前から「純ちゃん(ヤックン)、絶対違うよ」とか、「そうです。その通りです、浅井さん(山内さん)!」などとよく言っていた(まれだが「純ちゃん(ヤックン)、もしや分かったかな?」など逆のパターンもあった)。
キャプテンは絶対正解が当たり前(特に浅井慎平が早い段階でボタンを押すと、必ずと言ってもいいほどおっかさんを中心とする女性軍から嘆きの声が挙がり、司会の土居からは、「そうです。その通りです、浅井さん!」と言われ、さらに、高田純次からはまだ正解もしていないうちに握手を求めるのである。)のスタンスに見られがちだが、実際は分からない問題、答えに一抹の不安がある場合は解答ボタンを押さず、答えに確信を持ったら押すという解答方法だったため、意外に解答数は多くない。しかし、正解のシーンが多いために、正解率が高いように見える(無論、間違えることもある)。特に山内美郷は正解率は高いものの、解答回数が非常に少なく、最終問題で初解答(正解)や、結局一度も解答せずに終わったことも度々あった。また中島梓には、特に16分割の問題でボタンを押してから答えを考える傾向が見られるが見事に正解に導くことが多かった。
男性キャプテンの浅井慎平と2枠(当初3枠)レギュラーの高田純次は、どちらかが正解した際には二人でよく握手を交わしていた。またかつて、2枠レギュラーに宮尾すすむが座っていた時も、わざわざ宮尾のお腹の前でキャプテンの浅井と3枠の高田が、お互い手を差し伸べて握手するというシーンもあった。
高田は4分割問題などで、相手が誤答した後で解答に自信が有る時には、ボタンを連打するのがクセであった。ただしそうやって解答権を得ても誤答する事が有り、背後のランプは誤答を示す「赤」がいくつも並ぶ事が多かった。また、同じ2枠の小林千登勢(おっかさん)、前期・中期2枠の宮尾すすむ、後期4枠の薬丸裕英も誤答を示す「赤」がいくつも並ぶ事が多かった。
パート4のテクニカル問題で、女性軍への出題がなされる前、男性軍のメンバーは紙に印刷された正解を見ながらまったくデタラメの答えを言うのもお約束だった(特に宮尾と高田が多かった。)。
パート2の4分割のラッキークイズは、ごくまれにゲスト同士の対戦でいきなりラッキークイズとなったこともあった。
ゲストの参加賞商品は、男性軍と女性軍でそれぞれ男性向けと女性向けの象印製品が用意され、勝利した方がやや豪華な賞品であった。しかし、ごく稀に引き分けとなったケースがあり、その際には男女ともに同じ商品が寄贈された。
テクニカルクイズで、男性側に回されている女性軍の答えの用紙を「テクニカルの複眼女」マッハ文朱に読まれてしまい、答えられたことがある。
1989年1月から出題中のBGM、ラッキークイズ及び正解時のチャイム、時間切れ・誤答時のブザー、問題解説の時の赤枠表示やテロップ、さらに分割画像の拡大・縮小などの効果音や画像などが変更されている。また画面の得点表示のフォントがやや丸くなり、正解イラストはコントラストが以前より鮮明になったほか効果音も追加された。
番組末期の「象印賞」到達時の勝利の場合は、それまでは通常の勝利チームのBGMから違うBGMに変わり、それにチーム全員のイラストの上に「象印賞獲得!」と表記した画面に切り替え、スタジオの映像に変わる。
黒沢久雄は4分割で、1枚目が開く前に(つまりノーヒントで)正解したことがある。そのときの答えは「みつばち」。各問題前に土居が口頭でヒントをひとつ言うため、ノーヒント正解も不可能ではなかった。
滅多に誤答する事が無い浅井慎平が珍しく間違えた際には、女性軍が「やったぁー!!」と喜んだ事があった。エンディングでは土居が「人の不幸は喜ぶ人達じゃないんだけど、浅井さんだけが間違ってくれると喜びますね」とコメントした。これも浅井の正解率の高さを裏付ける結果である。
番組終了時は、司会者席の後ろのモニターに「次回もお楽しみに!」と映し出されており、この番組の放送の途中から司会者の土居と4人ずつの男女レギュラー解答者のイラストも一緒に出されるようになった。
この番組は魔法瓶メーカーの象印が一社提供のため、同業他社であり象印のライバル企業でもあるタイガー魔法瓶への配慮として[2]、この番組では名前に絡むトラそのもの、及びそれに関する問題(例・干支)は出題する事が絶対禁句で、象印・タイガー魔法瓶とともに在阪の関係である阪神タイガースに関する問題さえ作れなかったと言う[3]。過去の問題で、「プロ野球選手のニックネーム」と言う16分割問題が出題されているが、阪神の選手(当時)は出てきていないが阪神以外(当時)の11球団全ての選手(当時)は出てきている。しかし、この番組の一社提供である象印で名前に絡むゾウそのもの、及びそれに関する問題は出題する事が可能だった[3]。
新聞のテレビ番組表には、勝負の結果を表す可能性がある書き方をしており(特に16分割問題)、主な例として、「宮尾(高田・薬丸・おっかさん)・16分割大ヒット」、「男性軍・自信満々の大逆転」、「男性軍・敗色濃厚からの大逆転」、「亜星(山藤)本日卒業・16分割総ナメ」、「来たぞ・来たぞ・マッハ」、「たかが1点・されど1点」、「惜しい・女性軍あと1点に涙」、「女性軍・海外旅行獲得に全員大号泣」などが挙げられている[4]。
ネット局
放送地域 | 放送局 | 系列 | ネット形態 | 備考 |
---|---|---|---|---|
関東広域圏 | テレビ朝日 | テレビ朝日系列 | 制作局 | |
北海道 | 北海道テレビ | 同時ネット | ||
青森県 | 青森放送 | 日本テレビ系列 テレビ朝日系列 |
遅れネット | 1979年3月11日~1991年9月30日[5]まで |
青森朝日放送 | テレビ朝日系列 | 同時ネット | 開局直後の1991年10月6日から | |
岩手県 | 岩手放送 | TBS系列 | 遅れネット | 現:IBC岩手放送 1987年9月打ち切り[6] |
宮城県 | 東日本放送 | テレビ朝日系列 | 同時ネット | |
秋田県 | 秋田放送 | 日本テレビ系列 | 遅れネット | 1988年9月打ち切り |
秋田朝日放送 | テレビ朝日系列 | 同時ネット | 1992年10月開局から | |
山形県 | 山形放送 | 日本テレビ系列 テレビ朝日系列 |
遅れネット →同時ネット |
1993年3月まで 1980年3月までは日本テレビ系単独加盟局[7] |
山形テレビ | テレビ朝日系列 | 同時ネット | 1993年4月のFNSからANNへのネットチェンジから[8] | |
福島県 | 福島中央テレビ | 日本テレビ系列 テレビ朝日系列 |
遅れネット | 1981年9月まで |
福島放送 | テレビ朝日系列 | 同時ネット | 1981年10月開局から | |
山梨県 | 山梨放送 | 日本テレビ系列 | 遅れネット | |
新潟県 | 新潟総合テレビ | フジテレビ系列 テレビ朝日系列 |
遅れネット | 1983年9月まで 1981年3月までは日本テレビ系列とのトリプルネット局[9] |
新潟テレビ21 | テレビ朝日系列 | 同時ネット | 1983年10月開局から | |
長野県 | 信越放送 | TBS系列 | 遅れネット | 1987年9月打ち切り |
長野朝日放送 | テレビ朝日系列 | 同時ネット | 1991年4月開局から | |
静岡県 | 静岡朝日テレビ | テレビ朝日系列 | 同時ネット | 1979年7月からネット開始 |
富山県 | 北日本放送 | 日本テレビ系列 | 遅れネット | [10] |
石川県 | 北陸放送 | TBS系列 | 遅れネット | 途中打ち切り |
北陸朝日放送 | テレビ朝日系列 | 同時ネット | 1991年10月開局から | |
福井県 | 福井放送 | 日本テレビ系列 | 遅れネット | 1988年3月打ち切り |
中京広域圏 | 名古屋テレビ | テレビ朝日系列 | 同時ネット | |
近畿広域圏 | 朝日放送 | |||
鳥取県・島根県 | 日本海テレビ | 日本テレビ系列 | 遅れネット | 1989年9月まではテレビ朝日系列とのクロスネット局[11] |
広島県 | 広島ホームテレビ | テレビ朝日系列 | 同時ネット | |
山口県 | 山口放送 | 日本テレビ系列 テレビ朝日系列 |
遅れネット | 1980年4月から1988年3月まで |
山口朝日放送 | テレビ朝日系列 | 同時ネット | 1993年10月開局から | |
徳島県 | 四国放送 | 日本テレビ系列 | 遅れネット | |
香川県・岡山県 | 瀬戸内海放送 | テレビ朝日系列 | 同時ネット | |
愛媛県 | 南海放送 | 日本テレビ系列 | 遅れネット | 1987年9月打ち切り |
高知県 | 高知放送 | |||
福岡県 | 九州朝日放送 | テレビ朝日系列 | 同時ネット | |
長崎県 | 長崎放送 | TBS系列 | 遅れネット | 1990年3月まで |
長崎文化放送 | テレビ朝日系列 | 同時ネット | 1990年4月開局から | |
熊本県 | 熊本放送 | TBS系列 | 遅れネット | 1989年9月まで |
熊本朝日放送 | テレビ朝日系列 | 同時ネット | 1989年10月開局から | |
大分県 | 大分放送 | TBS系列 | 遅れネット | 途中打ち切り |
大分朝日放送 | テレビ朝日系列 | 同時ネット | 1993年10月開局から | |
宮崎県 | 宮崎放送 | TBS系列 | 遅れネット | [12] |
鹿児島県 | 南日本放送 | TBS系列 | 遅れネット | 1982年9月まで |
鹿児島放送 | テレビ朝日系列 | 同時ネット | 1982年10月開局から | |
沖縄県 | 琉球放送 | TBS系列 | 遅れネット | 1987年9月打ち切り[13][6] |
備考
本番組公式の玩具が、番組末期の頃にトミー(現・タカラトミー)から発売された。ちなみに、この公式玩具が2013年1月13日放送の『モヤモヤさまぁ~ず2』の「荒川の土手で遊ぶ!北千住周辺」の回にて、さまぁ~ず等が立ち寄った玩具屋で置かれていた。興味を持ったさまぁ~ずが購入して、その玩具屋の主人の子供たちと共に興じていた。
終了後
終了後、司会者である土居まさるをはじめ、歴代レギュラー解答者である沖田浩之・笹沢左保・小林千登勢(おっかさん)・中島梓・宮尾すすむ等多くの出演者が逝去してしまった為、一回も復刻版を放送していないが、2009年2月8日放送の50時間テレビ『あのシーンをもう一度!伝説の高視聴率超大ヒット人気番組ぜ~んぶ見せます!スペシャル(第2部)』で番組の一部が紹介された。
番組のフォーマットがパロディ化された例は少ないが、1986年9月29日改編において本番組のセットや演出を流用した『ANNニュースレーダー』の番組宣伝が作られた(出演者は本番組の司会やレギュラー回答者ではない)。近年では2011年に同じテレビ朝日系列の特撮テレビドラマ『海賊戦隊ゴーカイジャー』第26話「シュシュッとTHE SPECIAL」にて、敵怪人のサタラクラJr.が司会の『ボキ印クイズ ヒントでピピッと!!』というパロディ番組が放送された。
スタッフ
構成
問題作成
- オフィス・トゥー・ワン、THE・TEN、テレビット、Uncle、企画集団Q、UFO'S、CAMEYO、ペンギンハウス、ライターズオフィス
イラスト
- 鳥居しげよし
音楽
- 前田憲男
ディレクター
- 中村元一、平岡敏史、植村真司
プロデューサー
- 中江尭政、市川忠信、佐藤彰
制作著作
- テレビ朝日
脚注
- ↑ 1982年からは裏番組となっている。
- ↑ 一社提供の象印自体は大阪府大阪市北区天満に本社があり、タイガー魔法瓶も大阪府門真市に本社があるため、ともに在阪企業である事が共通している。なお、タイガー魔法瓶は、当時、日本テレビ系列で日曜19時から放送の番組(びっくり日本新記録など)のスポンサーについていた。
- ↑ 3.0 3.1 後番組である象印ニュースクイズ パンドラタイムスをも含む。ただし、年数回当番組を差し替えて「ゴールデンナイター(プロ野球ナイター中継の当時題名)」を放送する時にも複数協賛の一員で象印は提供しており、その中での阪神対巨人戦の試合中継にも提供していた。
- ↑ このような、半ばネタバレともとれるタイトルの書き方は「アップダウンクイズ」(MBSテレビ。1975年3月末まではテレ朝の前身・NET系のネットで放送されていた)や「パネルクイズアタック25」(ABCテレビ)でも散見されている
- ↑ テレビ朝日で1991年9月29日放送分は、本来は青森放送で、10月6日に放送する分だが、青森朝日放送開局に伴うネット整理の為の措置で、1日遅れの9月30日(月)16:00から放送された。
- ↑ 6.0 6.1 1987年9月の当番組打ち切りをもって岩手県・沖縄県におけるテレビ朝日系列象印一社提供番組のネットも終了した。なお、後番組である『象印ニュースクイズ パンドラタイムス』は岩手県・沖縄県では未ネット。
- ↑ 当初週遅れ放送で1980年4月より同時ネット。それまで同時ネットで放送されていた『日立ドキュメンタリー すばらしい世界旅行』(日本テレビ系)は当時フジテレビ系だった山形テレビへ移行(山形テレビでも同時ネットで放送)した。
- ↑ 実質的には山形放送と2局同士での番組枠の枠交換した。なお、山形テレビのネットチェンジ前に放送されていた日曜19:30からの番組は『日立 あしたP-KAN気分!』(日本テレビ系、同時ネット)になった。
- ↑ 1979年9月末まで同時ネット、同年10月から1983年9月まで月曜19時台の1日遅れに移行
- ↑ 1988年ごろからスポンサードネット打ち切り後も地元企業などがローカルスポンサーとなる形で継続。
- ↑ 1989年10月のNNSマストバイ局化後もローカルスポンサーでネット継続。
- ↑ 週遅れ放送で当初はスポンサードネット、土曜12時に移動後はローカルスポンサーとなりニッポンレンタカーがスポンサーだった。
- ↑ 宮古テレビ、石垣ケーブルテレビでも放送された。理由として、琉球放送が当時宮古諸島・八重山諸島で放送されていなかったためである。