仁義なき戦い
『仁義なき戦い』(じんぎなきたたかい)は、戦後の広島で実際に起こった広島抗争を題材として、飯干晃一が著したモデル小説。この原作を東映が製作した映画はシリーズ化され、演劇にもなった。キネマ旬報が2009年(平成21年)に実施した<日本映画史上ベストテン>「オールタイム・ベスト映画遺産200 (日本映画編)」では、本作を歴代第5位に選出した[1][2]。
目次
小説
テンプレート:Portal 主人公である美能幸三が獄中で書き綴った手記[注 1]をベースに、飯干晃一が1972年(昭和47年)「週刊サンケイ」5月26日号から小説を連載[4]。飯干の小説は半分近くが美能の手記を引用した"実録小説"である[5]。団体・人名・地名も全て実名(映画本編では実名をもじった名前に変えられる)で記述され、手記と解説が一対になり、事件や行事ごと、広島抗争が時系列に沿って進む[5]。「週刊サンケイ」で連載が開始されると圧倒的な人気で、印刷所ではゲラの奪い合いになったという[5]。獄中手記を美能幸三が執筆した原動力は、1965年(昭和40年)に中国新聞報道部記者である今中瓦が『文藝春秋』四月号に執筆した「暴力と戦った中国新聞 ― 菊池寛賞に輝く新聞記者魂 "勝利の記録" 」という記事への反論からであった[5][6]。網走刑務所で服役中だった美能が、たまたま雑誌でこの記事を見つけた。なつかしくて飛びついて読んだというが、読むと10日間メシが食えない程腹が立った。ケンカの張本人が自分と決めつけられている上、身に覚えのないことまで書かれている[6]。"美能が他の組幹部の意向を無視して山口組と勝手に盃を交わした"、"破門された美能が山口組と打越会に助けを求めた"という記述など[5]。特に美能は "打越会に助けを求めた"という部分にプライドを傷つけられた。「助けを求めたなどと書かれては、ヤクザとして生きていく以上、黙ってはいられない。ウソを書かれて悔しい」と翌日から舎房の机にかじり付いた美能は、こみ上げてくる怒りを抑えながら、マスコミに対する怨念を込め、7年間にわたり総計700枚の手記を書き上げた[5]。手記は汚名返上の執念が書かせたものであった。このため廻りまわって「週刊サンケイ」から連載が決定した時、"登場人物を全て実名で掲載すること" を連載の条件に付けた。実名を出せばトラブルになることは分かっていたが、あくまで名誉回復のためなので「実名でなければ断る」と頑なであったという。「週刊サンケイ」の矢村隆編集部次長が、掲載許可を取り付けるため、美能と会ったのは、1971年の秋、東京のホテル[5]。手記には所々『幸三、お前の意志が弱いからだ』といったような注釈が書き込まれていた[7]。美能が母親に読んでもらった時のもので、それから考えても美能は無関係の第三者に読ませるつもりはなかったが、五度目の交渉で首を縦に振った[5]。この時の条件が前記の登場人物の実名掲載であった。「『中国新聞』も『文藝春秋』もみんな実名で書いている」というもので、矢村が編集長と相談し、条件を飲んで正式に打診した[5]。現在とは社会背景も大きく違うとはいえ、当時『仁義なき戦い』が実名のまま世に出たことは、まさに驚愕に値する[8]。「週刊サンケイ」の担当者は、数多くの恫喝をヤクザから受けたといわれる[8]。
なお前記、「中国新聞」の記事は、広島抗争時に「中国新聞」が「暴力追放キャンペーン」と銘打ち、ペンの力で暴力団に立ち向かった成果を『ある勇気の記録』として出版。これは1965年(昭和40年)亀井勝一郎や大宅壮一らと並んで第13回菊池寛賞を受賞[5]、また同名タイトルでテレビドラマ(NET、1966年10月~1967年1月)にもなり[9]、これを見てジャーナリストを志した者も多い(池上彰等)と言われる名作だが[10][11]、今日『仁義なき戦い』の原作・映画に比べると比較にならないほど知名度が低い[8]。また『仁義なき戦い』の映画化にあたり「ある勇気の記録」のテレビ化と同様に、暴力団追放のキャンペーンにもなると考えていた広島県警が当初、協力をしてくれたという話がある[12]。
映画
解説
1973年(昭和48年)1月13日に東映配給網により正月映画第2弾として公開されたヤクザ映画。監督深作欣二。シリーズを通しての主演は菅原文太。製作は東映京都撮影所。公開時の併映は『女番長 スケバン』。シネマスコープ。99分。やくざ同士の抗争を題材にしながら仲間を裏切り、裏切られることでしか生きられない若者たちが描かれている。
この映画が登場するまでのヤクザ映画の多くはいわゆる、チョンマゲを取った時代劇と言われる虚構性の強い仁侠映画であり、義理人情に厚く正しい任侠道を歩むヒーローが描かれていた[13]。1968年(昭和43年)から始まる菅原文太主演の『現代やくざ』シリーズで既にヤクザを美化した従来の任侠映画の常識を覆す現実的なワルを主人公にしたが[14]、本作では様式美をまったく無視して、殺伐とした暴力描写を展開させた点[15]、ヤクザを現実的に暴力団としてとらえた点[16]、手記→実話小説→脚本→映画という道筋[15]、実在のヤクザの抗争を実録路線として、リアリティを表現させたところ等が新しい。登場するヤクザの大半は金にがめつく、弱者に強い社会悪としての姿が大いに描かれており、仁侠映画のようにヤクザを美化することはない。一時英雄的に表現されるキャラクターも最後には無残に殺される場面が多い。
本作はヤクザを主人公にはしているが、優れた群集活劇でもあり、暗黒社会の一戦後史でもあり、青春映画であり、自己啓発としての側面もある[13][15][17][18][19][20][21][22][23][24]。基本的に娯楽映画/エンターテイメントであるため、登場人物に感情移入させるためにもヤクザを魅力的な存在であるかのように描いており、犯罪者を美化するのかという批判もつきまとうことになる。
めまいを覚えるような荒々しい手持ちカメラによる映像が、ドキュメンタリーを見ているかのような生々しさで迫り、聞き慣れない広島弁のリアリティと津島利章の古典的ともいえる主題曲の単調な繰り返しが、独特のリズムとバイブレーションを生んで中枢神経を揺さぶる、画期的な暴力映画とも評された[19][25]。助監督をつとめた土橋亨はインタビューで以下の点を指摘している[26]。
シリーズ全作の冒頭や中間部などで印象的に使われる“やくざ映画中のナレーション”という手法は、笠原が1968年(昭和43年)の『博奕打ち 総長賭博』で、初めてシナリオの段階から導入したもので、「アル・カポネは19××年……」のナレーターから始まる『アンタッチャブル』を真似たという[27]。
第一作の制作前にシリーズ化が決定されていたが、予想以上の大ヒットとなり興行収入は邦画の中で年間第2位となった。
映画化される迄
すでに故人となった当事者も多いため真相が不明で諸説ある[4]。
広島県呉市美能組の元組長・美能幸三が1970年(昭和45年)9月、網走刑務所から出所。再会した美能の知人が獄中で書いた手記の存在を知り、手記を美能から預かりいくつかの出版社に持ち込む[8]。これが編集者から編集者へ渡った後、「週刊サンケイ」が「これは面白いから是非連載をやらせて欲しい」ということになり[28]「週刊サンケイ」は、その解説者として飯干晃一を選定することになった[29]。なぜ飯干だったのかというと「週刊サンケイ」は手記を入手した時点で、既に岡田茂東映社長(当時)に映画化の話を打診しており、ゲラ刷りの内容を岡田は持っていた[28]。岡田は著書で「『週刊サンケイ』の小野田政編集長がおもしろい獄中記があると美能の獄中記を持ち込んできた」と話している[30]。岡田は映画化に興味を示すが、手記をそのまま映画化した場合、多々、困難な問題が生じてしまう。そこで、岡田が「週刊サンケイ」に出したのが原作者を立てるという提案だった[28]。そして、このプランにふさわしい人物として東映と「週刊サンケイ」が選んだのが、飯干晃一だったのである[28]。美能の手記が直接掲載されなかったのはこうした理由から[31][32][33]。『仁義なき戦い』が世に出ることによって噴出する誤解や非難は、すべて最終的には美能に被せることができる[29]。このドキュメントに於ける原作者・飯干は単なるアンカーで、文責を負うことはない[29]。飯干は「美能さんが獄中で何かを書いたということは、検察庁のある検事から聞いて知っていた。僕らはそれを"幻の文書"と呼んでいたが、あっちこっち捜し歩いたが発掘できなかったんです。見せられたときはこりゃ凄い。大変なものが出てきたなと思いました」と話している[6]。美能幸三という告白者ーたとえそれが一方的な視点であっても、我々は彼のおかげでヤクザの本当の壮絶さを知ることができた[29]。
これだと映画化は既定路線ということになるが、これ以前1971年(昭和46年)暮、東映京都撮影所の日下部五郎が飯干の長編2作目「やくざ対Gメン」(1973年夏映画化)の映画化権取得交渉のため飯干の自宅を訪問時に、飯干から美能の手記を見せられて[34]、当時の日下部は俊藤浩滋プロデューサーの下にいたが、映画化に意欲を燃やしたという説もある[35]。日下部は飯干にその場で映画化権を申し出たと話している[4]。矢村隆「週刊サンケイ」編集部次長(当時)の証言では、飯干は手記の入手と同時に、日下部に相談したと証言している[5]。また飯干が手記を見たのは「週刊サンケイ」が美能と5回の掲載交渉した後、「週刊サンケイ」を通じてと証言しているため、1971年(昭和46年)秋以降ということになり[5]、日下部は上層部に映画化を聞いたところ、岡田社長から「絶対にやれ」と檄を飛ばされ、すぐに呉の美能に会いに行ったと証言している[5]。岡田は1971年、担がれて社長に就任するが、この数年の間、興収の低迷や社長の世襲問題に端を発する大川家と組合の激しい対立など問題が噴出、旧体制派との確執に直面していた[34]。特に自身が手掛けた"任侠映画路線"がマンネリ化し、その刷新が緊急の課題であったが、1972年公開された『ゴッドファーザー』が大ヒットし、"マフィア映画ブーム"が到来すると、岡田はこのマフィア映画的世界観を邦画で再現できないかと思案していた[34][30]。広島出身の岡田は広島抗争についてよく知っていて、前述の「ある勇気の記録」を過去に映画化しようとしたこともあった[34]。岡田は『キネマ旬報』1972年9月号で「事実を避けて通らず、克明に描いたところに大衆を引きつける魅力がある。便乗企画といわれればそれまでだが、東映でも日本版マフィア映画を作るべきだ」と話しており、実録路線への転換を構想していた[36]。実録路線への転換は、即ち俊藤浩滋の推し進めてきた任侠映画の否定、及び終了を意味する。また岡田の側近・渡邊達人は岡田に不良性感度路線から善良性への転換を進言したが、岡田は実録路線へ舵を切る[36]。岡田がいなければ、一連の「実録やくざ映画」は製作できなかった、と笠原和夫や高岩淡、日下部五朗ら、多くの関係者が話している[13][37][38][39][40]。
実際に東映と映画化の契約を結んだのは原作者の飯干で、美能は飯干から全く相談を受けなかった。しかし映画化にあたって契約はなくても、承認は必要だろうということで、最初に俊藤が美能の元を訪ねた[28]。美能は「『週刊サンケイ』ですべて終わらせたい」と断ったため[6]、もう俊藤は行かなかった。しかし高岩淡と京都撮影所の畑利明が再び訪ねてきて「どうしても映画にさせてくれ」と何日も泊まり込みで執拗に頼むので、美能は根負けして映画化を承知したという[28]。
俊藤浩滋・藤純子・菅原文太・若山富三郎・鶴田浩二が1981年に対談したテレビ番組『すばらしき仲間』では、菅原が「京都へ撮影で行くとき、自身が表紙になった『週刊サンケイ』(1972年5月26日号)を東京駅の売店で買ったら、それに『仁義なき戦い』の連載第1回が載っていた。とても面白いので京都の岡田社長を尋ねて『これをやらせてくれ』と直談判したが、岡田は麻雀中で『そこ置いとけ』と、まともに相手してもらえなかった」と証言している。これに対して俊藤は「それは遅い。オレは東京に行くおり「週刊サンケイ」を買って『仁義なき戦い』を読んだら凄く面白くてもう抑えた」と異なる説明をしている[41]。俊藤が「週刊サンケイ」の連載を見て「仁義なき戦い」を知ったということであれば、「週刊サンケイ」の連載開始は1972年(昭和47年)5月なので、俊藤が「仁義なき戦い」を知った時期がかなり遅い。また、前述の「俊藤が美能の元を訪ねた、その後、高岩淡と畑利明が訪ねた」という話は、それ以降ということになる。菅原は2013年『週刊朝日』のインタビューでは、「『週刊サンケイ』を東京駅の売店で買った」までは『すばらしき仲間』での話と同じなのだが、その後、岡田社長ではなく、すぐに俊藤のところに行って、俊藤が「おもしろいやないか。やろう」と、菅原自身が「これをやりたいと『週刊サンケイ』を持って、俊藤に言って映画化が決まった」「いろんな説が飛びかっていて、『俺がやった』というのが3人も4人もいるんだけど、本人が言うんだから間違いない」などと主張している[42]。しかし、それだと前述の『すばらしき仲間』での、菅原と俊藤のやりとりが不可解である。俊藤は菅原からは映画化の話は聞いてないような口ぶりである。菅原はこの他、「そのあと3日ぐらいして、東宝が映画化の権利を取りに行ったという話を聞いた。真実かどうか確認できないけど、一歩俺のほうが早かったんだ。東宝は佐藤允で『仁義なき戦い』をやろうとしてたらしいよ」「敵の撮影所でありながら彼とも知り合いで、彼がやったらそれはそれでおもしろかったろうね」などと話している[42]。
『仁義なき戦い』というタイトルを考えたのは「週刊サンケイ」編集部である[5]。美能は「仁義なき戦いではない。わしは仁義を求めて生きてきた」と揉めたが、同誌・矢村隆編集部次長が「あなたはそうしたはずだが、ボタンの掛け違いが重なって結局は仁義がなくなったんじゃないか」と美能を説得したという[5]。1972年(昭和47年)5月に「週刊サンケイ」に連載が開始される。本連載は「ゴッドファーザー日本版」と銘打たれていた[34]。同年9月に東映はシナリオ作成を笠原和夫に指示。笠原の『ノート「仁義なき戦い」の三百日』によると、実在する登場人物や組関係者がどのように反応するか憶測もつかないため、笠原も映画化は実現不可能と二の足を踏んだが、岡田社長の強い指示で取材に着手。実際に美能に面会した結果、「呉での抗争事件だけならなんとかまとめられる」と引き受けた[43]。
笠原は獄中手記を書いた美能幸三にも人を介して会いに行った[44][45]。最初の訪問は1972年9月30日[46]。この前々日の9月28日に俊藤のツテを使い、当時共政会二代目会長だった服部武と会い事件のアウトラインを取材していた[46]。当時の美能は8年の刑期を終え、出所してきたばかりで、現役バリバリの殺気に笠原は縮み上がり「映画なんか信用できん!」と美能の一言にその場を一目散に逃げ出した。ところが美能が追いかけて来て「せっかく来たのだから呉駅まで送ってやる」と言われ、道中の世間話で色々話をしているうち、戦中共に海軍の大竹海兵団にいたことが分かって美能は喜び自宅にまで招かれた[5][45]。手記を書いただけに脚本家という仕事に興味を持ったようで「絶対に映画には使わない」という条件でたっぷり広島抗争の真実を聞くことが出来た。別れ際、美能に「絶対に映画にしないんだな」と念を押されたので「しません!」と答え帰京、さっそく脚本に取りかかった[44][47][48]。美能から言わせれば、笠原と日下部が初めて訪ねてきたときは、二人をどこかの〈組〉の者ではないかと疑ったという[43]。
映画が製作された1970年代の始めは広島抗争がまだ燻っており、いささか危険な状況下にあった。この題材は過去にも東映をはじめ各社が映画化に取り掛かっては頓挫する、という折り紙付きの難物であった。このため当初は広島ヤクザをあまり刺激しないよう当事者には取材せず、短期間の撮影で正月第二週あたりの併映作(添え物)、ノン・スター、1時間10分程度の白黒作品で制作する予定であった。それが普通サイズのカラー作品での制作という事に変わり、東映内部でも後難を恐れ映画化に消極的な声があった中、広島出身の岡田社長のみが一人やる気満々で実現に至った[4][49][50]。
俊藤浩滋は、広島の組織関係者との橋渡しとしてゼネラルマネージャーに就いた[34]。共政会サイドや波谷守之などと調整し筋を通す役割を果たす[34]。監督の深作欣二は10月、別映画の編集中に俊藤から東映京都撮影所(以下京撮)で製作するやくざ映画の監督をする気があるか打診されている。俊藤は深作が東映東京撮影所(以下東撮)で撮った『人斬り与太 狂犬三兄弟』を評価。これにより深作の起用を強引にすすめたとされる。深作は当時一般にはあまり知られておらず、"映研派"監督などといわれ、大学生の間では熱狂的に人気があった[51]。自分の撮りたいものを撮るという姿勢を崩さなかったため、撮っちゃ干され、撮っちゃ干されの時期が長く続いた[51]。菅原は「俊藤に深作を推薦したのは自分」「深作と一緒に撮った映画を俊藤に見せたら、おもしろいやないか。あれで行こう、と深作に決まった」と話している[4][42]。深作自身は当時日本で最も評判の悪かったスタジオである京撮に対して幾許かの先入観があったとされるが現場に入ってからは深作組の名の下、縦横無尽の活躍を見せる。脚本の笠原は当初「あいつはシナリオをいじりまくる」と難色を示し、深作以外の監督も候補にあがったが、深作は一切、手を入れないことを約束した[52]。
プロデューサーの日下部五郎は当初、渡哲也の東映主演第1作として考えており、松方弘樹も候補にあがった[52]。しかし渡は熱海で病気療養中の身で「1年くらいかかる」と断わられたため、以前から出演を希望していた菅原に主演が決まった。菅原は本作の映画化を聞く前から『週刊サンケイ』の連載を読み、その魅力に圧倒され、東映に「映画化するなら俺を出せ」と言っていたという[53]。このため渡の東映出演は『仁義の墓場』まで延期となっている。当初の予定では佐々木哲彦(劇中では坂井鉄也)を主人公にし、この役を菅原にあてる予定だったが、シリーズ化を考えた東映によって急遽、美能を主人公のモデルにさしかえた。
山守義雄役は当初三国連太郎の予定だったが、「三国では客が入らん!」という岡田茂社長の一声で金子信雄が抜擢された[31][54][55]。なぜ金子が選ばれたかについては、これまであまり語られたことがないが、岡田が著書で「金子は岡山の出身だから広島弁もいける」と述べており[56]金子は東京の出身で岡山とは縁がなく、岡田の勘違いで抜擢されたのか、或いは金子が岡山出身と言っていたのか不明である。また、金子がクランクイン直前に病気で倒れ出演が危ぶまれ、代役に西村晃が候補に挙がった。しかし話を耳にした金子が病床から這い出てきて「この役を降ろされたら生きていけない。死んでもやるからやらせてくれ!」と出演を熱望したため、西村の代役話は流れた[43][54][57]。その他『代理戦争』で川谷拓三を世に出した西条勝治役は、最初荒木一郎が予定されていたが「広島ロケが恐い」という理由で降板したため、川谷拓三の大抜擢となった[54][58][59]。映画のポスターに初めて名前が載った川谷は「今、ここで死んでもええわ」と名言を吐き、生涯、そのポスターを大事にした[54]。この抜擢は川谷だけでなく、大部屋俳優が集まった「ピラニア軍団」をも注目されるきっかけとなった[54][60]。
シリーズ化へ
第一作の撮影中に岡田社長は『仁義なき戦い』のシリーズ化を決定し、次作として広島抗争の映画化を笠原に強要したが[61]、笠原は「広島事件を描くと当然神戸の山口組が登場することになり、かなり慎重な配慮と手続きをしなければ」と苦悶。その結果、第一次広島抗争を実際の時代設定より後にずらし、山上光治を軸にしたストーリーを展開し、これが二作目『仁義なき戦い 広島死闘篇』として世に出た。結局、二作目も大ヒットして、東映は「私がいやだいやだと逃げ回っている広島事件をとうとうやれと言い出した」という笠原を説得、本人も開き直った。後日、笠原が小林信彦に語ったところでは、代理戦争における合田一家(劇中では豊田会:笠原は合田一家の東進が広島戦争の原因としている)の評価も難しかったという[62][63]。
前述のように当初の予定では佐々木哲彦(劇中では坂井鉄也)を主人公にし、この役を菅原文太にあて一作だけで終える予定だったが、シリーズ化を考えた東映によって急遽、美能を主人公モデルにさしかえた。元々、一作で終わらせようとしたのは俊藤で、これがシリーズ化されるようなことがあると鶴田浩二や高倉健など、俊藤が抱えている役者が使えないためである。さらに今まで大人しかった大部屋俳優も表に出始め都合が悪い。第二部は菅原の出番が少ないことは笠原は菅原から了解を得ていたが、1週間たったら菅原が「出番が少ないなら出られない」などと言い出した。菅原も俊藤の息がかかっていたからである。大喧嘩となって笠原は菅原に「お前、表に出てやるか!」と言うと「そっちがやる気なら、やってもいいです」と菅原は言うので、笠原は「ふざけるんじゃない。俺がガラスの瓶、パンと割ってお前の顔を傷つけたら、もう役者としてやっていけないんだぞ。それでもやる気があるのか!」と言うと、深作が間に入ってその場は収まり、二部以降は菅原なしでやると決まっていた。そうしたら菅原が「出させていただきたい」と侘びを入れ続投となった。菅原はこれを機に俊藤と別れたというが、菅原のいないシリーズになっていた可能性もあったわけである[64]。
シリーズ各作品
- 深作オリジナル五部作
- 仁義なき戦い(1973年)
- 仁義なき戦い 広島死闘篇(1973年)
- 仁義なき戦い 代理戦争(1973年)
- 仁義なき戦い 頂上作戦(1974年)
- 仁義なき戦い 完結篇(1974年)
- 深作新シリーズ
- 新仁義なき戦い(1974年)
- 新仁義なき戦い 組長の首(1975年)
- 新仁義なき戦い 組長最後の日(1976年)
- 他監督作品
- その後の仁義なき戦い(1979年) ※工藤栄一監督
- 新・仁義なき戦い。(2000年) ※阪本順治監督
- 新・仁義なき戦い/謀殺(2003年) ※橋本一監督
あらすじ
敗戦直後の広島県呉市。闇市の食堂でレコードを聞いていた広能昌三のもとへ、友人が怪我をして駆け込んでくる。刀を振り回している暴漢に襲われたと言い、山守組へ連絡を頼まれた広能は事務所におもむき大勢で現場にかけつける。そこで広能は暴漢を射殺するが、逮捕され刑務所に収監される。そこで土居組若衆頭の若杉寛と知り合い義兄弟になる。まもなく保釈され山守組組員になったが、市議選に絡んで土居組と山守組は敵対するようになる。自ら土居組組長暗殺を引き受け成功させるが、逮捕され刑務所で服役する。
その間、呉では土居組は壊滅し山守組は大組織になるが、若衆頭の坂井鉄也一派と幹部の新開宇市一派が対立し衝突する。新開宇市一派が壊滅し坂井鉄也一派が勝利するが、そこへ講和条約の恩赦で仮釈放された広能昌三が戻ってくる。さっそく組長の山守義雄が接近し、反逆の意を表す坂井鉄也暗殺を頼み込む。しかし偶然出会った坂井にそれを知らせ和解を説くが、坂井はその夜自分を亡き者にしようとした山守宅に乗り込み引退を迫る。そして反対派の幹部の矢野修司も暗殺する。それを広能は旅先で槙原政吉から電話で知らされ呼び出されるがそこには山守がいた。責められ再び協力を迫られるが両方を非難して縁を切る。しかし、けじめをつけるために単身、坂井の元へ乗り込むが待ちかまえていた子分たちに取り押さえられてしまう。車に乗せられ本心では弱気になっている坂井の告白を聞き解放されるが、その後坂井は殺されてしまった。広能は大規模な坂井の葬儀に私服姿で式場を訪れるが、敵対した山守たちによって営まれていることへの坂井の無念さを代弁するかのように、銃を供物に向かって乱射する。
スタッフ
- 監督…深作欣二
- 企画…俊藤浩滋・日下部五朗
- 原作…飯干晃一
- 脚本…笠原和夫
- 撮影…吉田貞次
- 音楽…津島利章
- 録音…溝口正義
- 照明…中山治雄
- 美術…鈴木孝俊
- 編集…宮本信太郎
- 助監督…清水彰
- スチル…藤本武
- 進行…渡辺操
キャスト
- 山守組(モデル・山村組)
もともとは闇市の土建屋だったが若者たちを集めて博徒「山守組」となる。土居組壊滅後、呉の覇権を握り大組織となるが統制がとれず内部抗争がおきる。
- 山守義雄(モデル・山村辰雄)(演者・金子信雄)…山守組組長。吝嗇、臆病、狡猾な策士。朝鮮特需で富を得て県有数の実業家になるが子分からの人望はまるでない。自分の地位を守るため子分同士を争うように仕向ける。
- 坂井鉄也(モデル・佐々木哲彦)(演者・松方弘樹)…山守組若衆頭。組を公平に運営しようとするが山守の策謀もあって、これに不快を示す幹部仲間を次々と粛清する。子供への土産を買っている最中に射殺される。
- 広能昌三(モデル・美能幸三)(演者・菅原文太)…山守組若衆(幹部)。物語の主人公。復員して鬱屈した日々を過ごしていた時にひょんなことから山守組のために殺人を犯し服役する。すぐに出所して組員となるが土居組との抗争やその結果の長期間の服役を経験し、出所後は内部抗争に巻きこまれていく。山守と坂井を和解させようとするが、両方に裏切られる形となる。坂井の葬儀の場でピストルを乱射。
- 矢野修司(モデル・野間範男)(演者・曽根晴美)…山守組若衆(幹部)。坂井に対抗。坂井の子分たちに殺される。
- 神原精一(モデル・前原吾一)(演者・川地民夫)…山守組若衆(幹部)。裏切って土居組につく。若杉に頭を撃たれ殺される。
- 槙原政吉(モデル・樋上実)(演者・田中邦衛)…山守組若衆(幹部)。坂井の手下のように振舞うが裏では山守と内通している。
- 山方新一(モデル・山平辰巳)(演者・高宮敬二)…山守組若衆(幹部)。広能の親友。有田たちに殺される。
- 新開宇市(モデル・新居勝巳)(演者・三上真一郎)…山守組若衆(幹部)。坂井に対抗。坂井の子分たちに駅構内で殺される。
- 有田俊雄(モデル・今田泰麿)(演者・渡瀬恒彦)…映画では山守組若衆。新開の舎弟。ヒロポン密売グループのリーダーで禁止させようとする坂井と激しく敵対する。
- 土居組(モデル・土岡組)
- 土居清(モデル・土岡博)(演者・名和宏)…土居組組長。広能に暗殺される。
- 若杉寛(モデル・大西政寛)(演者・梅宮辰夫)…土居組若衆頭で後に山守組につく。広能の兄貴分で広能から慕われていた。広能逮捕後、山守の本性に気付き神原射殺後に逃亡中の隠れ家を警察に踏み込まれ射殺される。密告者は山守か槙原と推測される。
- 江波亮一(演者・川谷拓三)…土居組若衆。
- 野方守(演者・大前均)…土居組若衆。
- 国広鈴江(演者・中村英子)…若杉の女。
- 寺内八郎(演者・池田謙治)
- 貫田秀男(演者・司裕介)
- 水谷文次(演者・有田剛)
- 渡海組(モデル・土岡組)
- 坂井組
- 上田組(モデル・小原組)
- 有田組
- 新開組
- 脇田登(演者・友金敏雄)
- 矢野組
- その他
- 大久保憲一(モデル・海生逸一)(演者・内田朝雄)…呉の長老。山守組結成の媒酌人。
- 上田透(モデル・小原馨)(演者・伊吹吾郎)…愚連隊上田組組長から山守組舎弟に。大久保の親戚。縁日の夜に若杉により片腕を切り落とされる。
- 着流しのやくざ(演者・岩尾正隆)…旅の人。山守組のシマで酒に酔って暴れ、刀を振り回しているところを広能に射殺される。
- 金丸昭一(演者・高野真二)…呉市会議員。
- 中原重人(演者・中村錦司)…呉市会議員。
- 前川巡査(演者・江波多寛児)
- けい子(演者・小島恵子)…娼婦
- 中村捜査係長(演者・唐沢民賢)
- 珠美(演者・榊浩子)…キャバレーのホステス
- 山城佐和(演者・小林千枝)…娼婦
- 国弘とめ(演者・東竜子)…鈴江の母
- 加谷刑事 (演者・山田良樹)
- 小室刑事 (演者・疋田泰盛)
- 洋品店主人 (演者・村田玉郎)
- 看守(演者・小田真士・大城泰・松田利夫)
- 三国人(演者・小峰一夫)
- 警官(演者・波多野博)
- 初子(演者・高木亜紀)
※ ナレーター…小池朝雄
評価
『仁義なき戦い』の成功は深作欣二のダイナミックな演出[44]斬新なカメラワーク[65]絶頂期に向かう役者たちの演技、実録ならではのリアリティ、終戦直後の広島や呉という舞台設定の妙[25][66]戦国時代の"国盗り物語"的なスリル[23][67][68]など、多くの複合要因から成り立ち、それらの幸福な出会いともいえるが[23][69][70][71]、やはり原作にはない膨大な資料を掻き集めてシナリオにまとめた笠原和夫の巧みな脚本、"脳天唐竹割りな広島弁の応酬"[65]、"広島弁のシェークスピア"[72]とも"血風ヤクザオペラ"[4]とも称された広島弁の珠玉の名セリフの数々によるところが大きい[73][74][75][76][77]。プロデューサーの日下部五郎は「笠原さんが『仁義なき戦い』シリーズで残した最も大きな功績は、広島の方言、やくざ言葉を巧みに拾い上げて、映画の名ゼリフと言われるまでにしたことでしょう」と述べている[78]。鴨下信一は「『仁義なき戦い』は、日本映画のマイルストーンになった。出演者は各々のベスト・パフォーマンスを見せているが、これらの誰よりも大スターがいて、その魅力が全編を支えている。それは広島弁である」と論じている[79]。『仁義なき戦い』で重要な演出効果となるのが、何といっても広島弁[80][81]。現役の関西系の組関係者が不気味でドスが利いていると評価する[80]。播磨弁では汚くて、博多弁では可愛らしくて、鹿児島弁では意味不明というところで堂々の極道方言ベスト1とも評される[80]。広島弁は、この映画をきっかけに良くも悪くも全国に広まった[82]。公開当時は聞き慣れない広島弁のオンパレードに戸惑った映画ファンも多かったが、何度となく鑑賞する度にどこかの英語教材のように精通していき、"仁義ファン"はみな広島弁のバイリンガルとなった[80]。
第五話『仁義なき戦い 完結篇』で、笠原和夫から脚本を交代した高田宏治は、第四部までの笠原脚本について、「実際のモデルを検証することによって、あれだけシビアに料理できるという勇気。人間関係の整理の仕方だとか、チンピラの書き方、山守親分の描き方とか、やっぱりすごい。実録からくるリアリティ、リアリズムの持つ迫力、これを映画というエンターテインメントに仕立て上げた手腕ですね。うまく戯画化してね。あれは勇気がいりますよ。実在の親分をあれほどボロクソに書くのは、なかなかできることじゃないですよ。いろいろ問題はあったようだけど、よく文句がでなかったと思うぐらい、むちゃくちゃに扱ってますよね。実録の世界になって、たんなるギャグを通り越して、実在のやくざの赤裸々な人間の滑稽さを笠原さんがつかんだんです。僕とは違う人間のコミックな裏の部分をあの人が厳しく書いた。そこで越えられたなというのがすごいショックだった。いろんな障害を突き抜けてやったという勇気から、ああいうおもしろいのが出てくるんです。そういうところに東映的なエンターテインメントの拠って立つ意味合いというか、ステータス、エスタブリッシュメントがあったわけでね。それはやっぱり飯干晃一さんが書いた原作があったから。モデルをあれだけ率直に扱う勇気のある作家・ジャーナリストがいたから、それにのっとってやれた。原作がなくて、そのまま映画人が取材に行って、現実にいる人を戯画化して踏みつけにするような形で映画化するのは普通できないですよ。原作がちょっとでもあったら『原作があるから』とか言って逃げられるんですよ」などと話している[83]。
1960年代後半から1970年代初期にかけて、日本はひとつの転換点を迎える。高度経済成長政策が行き詰まりをみせ、各種公害の発生や大学紛争の波及にみられるように、これまで抑え込まれていた政治社会の歪みが至るところで噴き出し始めていたからである。それは経済至上主義できた戦後の路線に対し、深い内省を迫る動きであった。「仁義なき戦いシリーズ」は、こうした世相の中で登場してくる。第一部は終戦直後、第二部は昭和27年頃、第三部と第四部は昭和30年代後期、第五部は昭和40年代を舞台にしている。戦後史を別の角度から見つめ直すという意味では、この連作はまさに時代の産物であった。映画は今まで隠蔽されてきた野卑で猥雑なものに視線を向け、これを白日のもとに晒そうとする。ここに提示されているのは、戦後日本の裏面史である[84][85]。
第一部のラストシーン近く、松方弘樹演じる坂井が、菅原文太演じる広能にいう「のう、昌三..わしらよ、どこで道間違えたんかのう..」というセリフが、ひときわ印象的である。子分みんなに、むしろ軽蔑されながら、神輿として担がれている山守親分。彼は笑われ、バカにされながら、実はちゃんとみんなを牛耳って、統御しているのである。このあたりの存在感は、何やら戦後の日本の民主主義の象徴である、天皇という存在を思わせたりもして、少々不気味である[13][22]。そのような戦後史映画を、深作はストイックな東映正統ヤクザ映画の"葬式型の陰湿な美学"に対抗する、アナーキーな東映戦後派ヤクザ映画の"お祭り型陽気な行動主義"を持って作ったのである[13][22]。「実録路線」の旗手となった深作は、日本の戦後史に対して強い問題意識を持っていた[84]。東映実録路線全般が凡庸なヤクザ映画に堕することなく、時代を撃つような批判力を持つものになったのも、戦後史の底辺に流れていた物を掴み出したいという意思が、作り手側に確固としてあったからである[84]。虚飾を剥ぎ取り、内実に迫ろうとするこうした動きは、時代の趨勢だったといえる[84]。
深作は『仁義なき戦い 広島死闘篇』が公開中の1973年、『週刊朝日』のインタビューでこれに触れ「『仁義なき戦い』は面白い素材です。つまり、日本の戦後史なんですね。敗戦後の混乱した土壌からヤクザが生まれてきて、朝鮮戦争で肥え太る。やがて大資本が再生すると同時に、それまで癒着していた国家権力から切り捨てられてゆく。ヤクザたちを通して、戦後史の曲り角がリアルに見通せるような気がするんですけどね」[51]。この記事で『週刊朝日』は、深作を"暴力派"と紹介している。深作は本作の魅力について「やはりゴチャゴチャした人間のズッコケ芝居のおもしろさですね。ブラックユーモアと言っていいのかどうか。悲劇というより絶えずおかしみがともなって、極めて底辺のところで血の雨を降らす。それも何の意味もない血の雨の降らし方ということ。そして最後は県警。つまり国家権力にしてやられるという話なんですからね」と解説している[15]。『仁義なき戦い』は戦後を振り返りながら、やくざ組織の治乱興亡の描写に日本人の生き方を重ね合わせた、いわば異色の大河ドラマであった[68]。戦後、暴力世界の拡大に人生を賭けたやくざたちの姿は、アメリカの核の傘の下で経済的繁栄を追い求めた日本人の姿とダブって見える[68]。
芝山幹郎は「何度見てもおもしろい、というのはこの映画のためにある褒め言葉だろうか。『仁義なき戦い』には熱狂的なファンが多い。私もその一人だが、スピードといい、会話の味といい、役者の面構えといい、この作品は1970年代以降の日本映画のなかで群を抜いている」と評している[86]。中野翠は「『仁義なき戦いシリーズ』が完結した1974年ぐらいで日本映画は断末魔っていうかんじです」と述べている[87]。松方弘樹は「『仁義なき戦い』が今も時代を超えて支持され続ける理由は何だと思いますか?」という質問に対して「それ以上の映画が出来てないから(きっぱり)。まず監督がすごかったということもあるし、笠原さんの脚本も面白いし。あの時代はヤクザ社会だけじゃなくて世の中が一番激動の頃ですから。やっぱり題材が一番面白いですよ。それと、今はあれだけ層の厚い俳優さんたちがおらんもん」と話している[24]。後に笠原和夫は『ゴッドファーザー』からの影響を否定したが[注 2]、初公開時には映画評論家から『ゴッドファーザー』の影響を指摘されて評価は低く、キネマ旬報ベスト・テンでは同じ年に公開された『代理戦争』が8位、『広島死闘篇』が13位で、シリーズモノで票が分散したという不利な点はあったかも知れないが、2位であったただし読者の選出では見事1位(『広島死闘篇』4位)となっている。評論家とは逆に、安保闘争の敗北など、当時の無力感を吹き飛ばすエネルギーに満ち溢れた映画に観客は熱狂的に迎え入れた。またそれまで任侠映画は大新聞が「暴力礼賛だから取り上げない」と宣言し、完全に黙殺したジャンルであったが、朝日新聞の映画評で絶賛されたことで[注 3]影響は各紙誌に及び、映画の大ヒットに繋がったとも言われる[89][90]。なお、この年『仁義なき戦い』を抑えて1位になったのは、斎藤耕一監督の『津軽じょんがら節』だが、世紀をまたいで評価が増すばかりの『仁義なき戦い』に比べて『津軽じょんがら節』の評価が風化するのは早かった[91]。
深作はもともと客が入らない監督として知られていたため、この映画の大ヒットには戸惑っていたという[92]。大島渚は「キネマ旬報」第654号で『仁義なき戦い』について論じているが、大島はこの映画の成功は、ナレーションの巧妙さやタイトルの使い方が、大きな役割を果たしていると述べている[93]。19歳のとき、大阪の道頓堀東映でこの映画を見た井筒和幸は、「オレたちの青春とシンクロしすぎて、熱いものがガーっときて、プー太郎だった自分がウワーとなって、もっていかれた」という。それまでは洋画一辺倒で日本映画なんて馬鹿らしくて、この映画がなかったら日本映画なんて観に行かなかったろうと話している[74][94][95]。当時はビデオやDVDがなかったので、再上映を待って朝日ベストテンの1位(1~3部)受賞での再上映でまた観に行くと、今度はインテリ風の観客が多くて、こんな映画を見せていいのか心配になったという[96]。井筒は近年「“仁義なき戦い”研究家」を名乗っている[97]。
菅原は1973年の『週刊朝日』のインタビューで「方言ていうのは、芝居つくってくうえで適切なんじゃないですか。標準語よりもね。土のにおいがするというか。芝居してて、いちばん感じをつかみにくいのが標準語ですよね。言葉が生きてない」「役者は常に、自分と共有部分のある監督とのめぐりあいを予感しています。作さんとの出会いは、運命的といっては大げさだけども、そんなニュアンスがありますね。同じ昭和一ケタで、混乱した時代をくぐりぬけてきた戦後体験を持っている。東映でも作さんは売れない写真づくりを続けてきたし、僕も任侠路線に中途半端に入り込んで、多少違和感を感じながら仕事してきた。その同質の部分が共鳴するみたいですね」などと述べていた[98]。菅原は後年、「俺が38歳、深作さんが41歳。若くてエネルギーがいちばん滾っていた時、内も外も最高の燃焼が生んだ作品は"仁義なき戦いシリーズ"に尽きるんじゃないかな、燃焼し尽くしたって気がする」と語る一方で「いまだに人に会えば"仁義なき戦い"ばかり言われて、さんざん嫌になってくる。もういいよと。"仁義なき戦い"はもう遠い昔のことというふうにしか思えない」と述べている[99][100]。
従来の任侠路線を否定・破壊した攻撃性、意外に短命だった完全燃焼の激しさが裏付けているように、日本のポップ・カルチャーにとって東映実録路線=『仁義なき戦い』の出現こそが、真の"ジャパニーズ・パンク"であった[21]。『キネマ旬報』は2009年(平成21年)に実施した<日本映画史上ベストテン>「オールタイム・ベスト映画遺産200 (日本映画編)」に於いて、本作を『東京物語』、『七人の侍』、『浮雲』、『幕末太陽傳』の古典的名画に次いで歴代第5位に選出した。同誌の歴代ベストテンは過去4度にわたり実施されているが『仁義なき戦い』の第5位は、1970年代以降の作品としては史上最高位となる。ヤクザ映画というカテゴリーを越えて、"日本映画史を代表する一本"として認知されつつある[1][21][69]。
逸話
作品
初めて聞かされる専門用語がふんだんに登場するなど、暴力団の内情をうかがわせた脚本は、笠原和夫が綿密な取材を重ね膨大な資料を集めた成果である[48][101]。実録と銘打っても、そこは商業映画であるため、演出、デフォルメなどが施されているが、笠原の取材によって、原作以上に実録に肉薄しているのが映画『仁義なき戦い』といえる[102]。「仁義なき戦いシリーズ」は日本映画史上、いまだかつてなかった脚本家の存在と功績がクローズアップされたシリーズとなった[103]。『仁義なき戦い 完結篇』で脚本が笠原から高田宏治に代わったことでその比較が大きく取り上げられた。高田は「つねに"曇天商売"の脚本家が、これほど注目されたのは前代未聞や、と嬉しかった」「皮肉でなくそう思った」などと述べている[103]。笠原和夫との比較、"笠原信者"からの批判はこの後も容赦なく続いたという[103][104]。当時の東映では異端的存在にあった深作の監督起用により、結果として日本映画最高の群集劇が誕生した[102]。演技人も日本映画の衰勢によって日活、大映などの俳優たちの参加を可能にし、偶然の産物だがキャスティングの変更さえも、その奇跡の要因に数え上げられる[102]。それは "血風ヤクザオペラ" とも称された[105]。
笠原は東京日本橋の出身だが、終戦間際の5月から海軍幹部候補生[注 4]として3カ月の広島滞在歴があり[45][106]広島県西端にあった海軍大竹海兵団(呉海兵団第二海兵団)に所属した[65][注 5]。ここで基礎訓練期間を終えた後、軍用列車で同県呉市広駅で降り、賀茂郡黒瀬町山間部の対空警備隊に配属され[45][106]広島原爆のキノコ雲も当地で見た[65][107]。終戦により山陽本線の西条駅から帰京したが[45]、呉は本作の主要舞台であり、呉市広は第一部で梅宮辰夫が演じた大西政寛が本拠を置いた街でもあり、西条は岡田茂の故郷でもあるため、本作と笠原は奇妙な縁があった[45]。前述したように笠原は美能が同じ大竹海兵団にいたことで、意気投合して一夜を飲み明かし「仁義なき戦い」の裏ネタのほとんどを仕込めた。仮に笠原が東京で志願して横須賀海兵団に入っていたら、或いは長岡から舞鶴海兵団に入っていたら、本作はかなり違った内容になっていた可能性が高い[106]。笠原自身「それが27年後に思いもよらぬ幸運をもたらしてくれた。『仁義なき戦い』シリーズで、私は監督の力量にも恵まれて少しばかりの成功を得たけれども、その成功はこんなにも不確かな運命の転変と偶然の上に乗っかっているものなのだ。なんともこわいことだ、と思わずにいられない」と話していた[106]。笠原は数ヶ月の広島滞在があるが広島弁はあまり知らなかった。綿密な取材を重ね膨大な資料を集め、広島弁も研究し広島弁の辞書まで作っていたと噂された[108]が、広島弁独特の語感は文字の上からだけでは捉えられない。そこで思い当たったのが、自身の苦心作を脚本の本読み席上でクソミソにコキ下ろした岡田茂の語調だった。あの時、この時の岡田のニクたらしい言葉の数々と岡田の面貌を併せて思い起こしていると、菅原文太や金子信雄のセリフが生き生きと回転し始めた。それは昔の仇を取ったような溜飲が下がる思いがしたという[48][68]。第一部巻頭の闇市で、進駐軍の米兵が女性に乱暴するシーンがあるが、アメリカでは戦後の一つの神話として“日本の進駐軍の米兵はいたってジェントルマンで、女性を尊敬した"ということになっており、こうした米兵の乱暴な行動を露骨に描いた作品は殆ど無いという。リンダ・ホーグランド監督は、上記理由で2010年公開の映画『ANPO』の劇中でこのシーンを使用している[109][110]。
脚本執筆にあたり笠原は、1936年のフランス映画で『我等の仲間』も参考にした。多大な影響をうけたのは、1972年の日活映画『一条さゆり 濡れた欲情』だと言う。広島抗争の取材を重ねて材料は充分に整ったが、その料理法に行き詰まった。エネルギッシュで生々しく、残酷でいてなにか浮世ばなれしたズッコケたヤクザ・ワールドの人間葛藤図は、それまでの任侠映画のパターンに収まりきらず、といって他に模すべき映画は見当たらず、『ゴッドファーザー』や『バラキ』といったマフィア物も見たが参考にならなかった[43]。『仁義なき戦い』は戦後日本の風土のなかで描いてこそ活きる素材だったからである。八方塞がりの時、たまたま入った映画館で観たのが『一条さゆり 濡れた欲情』で、一条さゆり、白川和子、伊佐山ひろ子の三女優の裸身が、文字通り組んずほぐれつ、剥き出し性本能をぶつけ会う1時間余りの映像は、この上なく猥雑で、従順で、固唾を呑む暇もないほど迫力があった。これからの映画はこうでなければならないと信じ、この手法を持ってすれば『仁義なき戦い』の材料は捌けると強い自信をも抱いた[111][112]。笠原が今日のような名声を得る切っ掛けとなったのが『仁義なき戦い』がヒットした後、「キネマ旬報」誌で二回に分けて掲載された田山力哉とのロング・インタビューであった[113]。それまで笠原は、ヤクザ映画の脚本家というレッテルを貼られて良識あるジャーナリズムからはまったく無視されてきた。田山を「私をマスコミの表側に押し出してくれた恩人」と笠原は述べていたが、田山は笠原を"非エリート"と名付けてその後は、「非エリート、たまには銀座で飲ませろ」などと"非エリート"呼ばわりがしつこく非常に頭にきたと著書で述べている[113]。
深作は「何でこのような、アナーキーな活気を込めたユニークな映画ができたのですか?」という白井佳夫の質問に対して「実録的なドラマの力であって、これは人間を創造したというより、現実をリアルに活写した映画、というべきでしょう」と語っており[22]、五部作の抗争の構図の大枠については、ほぼ事実に則している。膨大な資料・データを蒐集した笠原が、全体の構図は保ちつつ、それらを加工・アレンジし一つのストーリーに集約させたもので「事実」「実録」にアレンジ、デフォルメを加えて作られたフィクションである。登場人物については、実在の人物のキャラクターに別の人物の要素を混入させているケースもある。例えば成田三樹夫扮する「松永弘」は、三名の実在人物から合成されたキャラクター[43]。アクションシーンについては、単なる殺人シーンの羅列にならないよう、実際に起こった事件を別のシーンに起用して、映画にメリハリをつける計算が行われている。川谷拓三扮するチンピラが第二部では大友組による無人島での拷問、第三部で指詰めだけでは足らないと手首から切り落とす話は、実際は別の組で行われた実話[114]。この他、ユーモアシーンのエピソードとしては、第三部で登場するプロレスラーに広能が「あとで"ミス広島"を抱かせちゃる」と言うシーンがあるが、このセリフは実際に山村辰雄が田岡一雄に公約したものという[115]。プロレスラーのモデルは力道山だが、映画では試合後、キャバレーでブスをあてがわれて怒り暴れるが、実際に行われた広島での試合は広島県警の大動員によって大きな混乱はなく、力道山はすぐに次の興行地へ移動したという[116]。このようにモデル人物、モデルになった事件と、映画シーン、登場人物の照合は、必ずしも厳密ではない[117][118][119]。笠原は「獄中で七年間、遺書のつもりで書き続けたという美能氏の怨念の重さを思うと、その手記を絵空事にすりかえてドラマだテーマだと言っていることが大層虚しく思われてきてならない。美能氏がよく我慢して下さったものだと感謝するのみである」と述べている[120]。
ベースリフが強烈なグルーヴを噴出させる津島利章作曲によるテーマ曲は、シンプルなメロディでありながら非常に高い演出効果を上げあまりにも有名だが[21]、近年はテレビでヤクザや怖い(役の)人が出たり、武闘派タレントが激怒したり、また出演者の間でバトルが始まると、このテーマ曲がよく流れ、定着している。日本で最も使われている効果音ともいわれる[8][121]。『キネマ旬報』「オールタイム・ベスト映画遺産 (映画音楽編)」でも「映画音楽が心に残る映画ベスト10」で、日本映画唯一のベスト10入り(9位)している[122]。崔洋一は、日本映画の優れた劇伴の例えとして『仁義なき戦い』を挙げ、「津島利章の曲がなければ、『仁義なき戦い』はここまで評価されたかどうか。あの旋律を聴くことで、あの映像が浮かんでくるということもあるわけです」と話している[123]。
1973年4月28日、ゴールデンウィーク初日に封切られた第二弾『仁義なき戦い 広島死闘篇』は、都内の各映画館はドアが閉め切れず、半開きのまま。あふれた観客はロビーのテレビで競馬を見ながら入れ替えを待った。翌日の日刊スポーツは「かつての昭和三十三年当時の映画全盛時代を思わせる」と書いた[124]。続く『仁義なき戦い 代理戦争』、『仁義なき戦い 頂上作戦』も大ヒットして、1973年には『キネマ旬報』で「読者選出日本映画監督賞」が深作欣二に、脚本賞が笠原和夫に、男優賞が菅原文太に与えられた。東映京都首脳陣は快哉し、この年の暮れ、京撮の食堂に「仁義なき戦いシリーズ」が獲得したキネ旬、新聞各紙の賞の一覧を掲示した。入社以来「京都では当たる映画が名作や、東撮みたいなベストテンに入るもん作ったらクビやで」と言われ続けてきた高田宏治は、この首脳の豹変ぶりに唖然としたという[124]。『広島死闘篇』以外の大半の撮影は京都市内で行われたが、無許可で撮影を強行したシーンが存在する。舞台が広島、神戸であったため出演者には演技の上で方言が必須になるが、習得にあたっては困難を極めノイローゼになる者が続出した。笠原も『頂上作戦』を書く頃には、セリフが広島弁でないと一行も書けないという慢性標準語喪失症に陥ったという[125]。劇中、道具(武器、凶器)として数々の銃器が登場するが、これは米軍岩国基地が近いことから容易に入手が可能だったためである。これらの大半は、不良米兵が金に困って、基地の軍用ピストルを盗み出したり、私物のピストルを持ち出して横流したものである[126][127]。
第五部『仁義なき戦い 完結篇』以降、笠原が脚本を降り、深作が監督を続けたのは以下の経緯から( ⇒ 岡田茂 (東映)#仁義なき戦い)。笠原から脚本をバトンタッチされた高田宏治は「巻き物みたいな膨大な資料を預かってね。あの資料を全て映画にしたら半日はかかる」[128]、「この人は素晴らしい人だと思いましたね。ふつう、自分が書いたものをなかなか後輩に渡さないですよ。この人は侍だと思ったね」[83]などと述べている。高田も美能に何度も会ったが、美能は4作目までに対して、山守(山村辰雄)が憎めないキャラに扱われ過ぎる点が「気に入らない。次は俺が脚本を書く」と言っていたという[128]。
登場人物
第二部『仁義なき戦い 広島死闘篇』で千葉真一が演じた大友勝利は、シリーズ中1, 2を争う名キャラクターとして人気が高い[75][129][130][131][132][133][134]。千葉自身も忘れられない役柄として挙げており、後のやくざ映画でも「仁義なき戦いの千葉真一さんがやった大友勝利のような」と影響を与え続け、ヤクザ役のひな型となっている[131]。この役は当初北大路欣也が演じて、北大路の演じた山中正治を千葉が演じることになっていたことでも有名だが、実際山中のセリフは全て覚えていたにもかかわらず、北大路が山中役を切望したこともあって[131][132][133]、深作から急に「大友やれ」と言われ役を交換した[131][135][136]。しかし当時の千葉はブロマイドの売上げが4年連続No.1であり[132][133][135]、台本には「オメコの汁でメシ食うとるんで」などの過激なセリフもあり、とても悩みながら「これまで良いと思ったものを全て捨てる」という姿勢で、サングラスを常時掛けて眼を隠し、唇を裏返しにして糊付けするなど、役柄にふさわしい演技・扮装を工夫した[132][133][137]。金玉を掻くシーンでは深作から「やれ!」と強制されて行った後に、勢い余って臭いを嗅いだら「やりすぎ」と言われた[135]。映画の後半に「山中に銃口を向けられるシーンでは、慌てふためきダンボールで自分の顔を隠すように掲げる」という台本にないアドリブをやった[135]。「相手に自分の顔が見えると撃たれてしまう」と人間のとった、とっさのバカげた行動が、よりリアリティを生んだ瞬間だった[135]。「こういうのは役者冥利に尽きる」と話している[135][138]。「大友を演じたことにより、脇役や悪役にも興味を持ち始めた。私の中で大きな転機となった」と述べている[132][133][139]。大友は人気キャラクターだけあって主人公にした企画が出され[132]、第四部『仁義なき戦い 頂上作戦』にも登場する予定だったが[43]、既に千葉が主演映画『殺人拳シリーズ』の撮影に入っていたため実現せず[140]、第五部『仁義なき戦い 完結篇』では大友が再登場したものの、宍戸錠が演じた[43]。千葉は「梅毒が脳まで回った“その後の大友勝利”を演じられなかったことは今も悔恨が残る」と話している[141]。( ⇒ 千葉真一#転機)
第二部『広島死闘篇』、第三部『仁義なき戦い 代理戦争』に登場する成田三樹夫演じる松永弘は『代理戦争』での劇中、山守側に付くのか、広能側に付くのか、で二者択一を迫られる。松永のモデルになった人物の一人である網野光三郎は芸能・プロレスなどの興行も行っていて、明石組のモデルになった山口組とはかねてから付き合いがあり、山守組幹部でありながらすんなり山守側で立てないという事情があった[注 6]。網野は映画の通り、ヤクザから足を洗いカタギとなって、事業家として大きな成功を収めた。新しく始めた事業の一つが、会社の休みの日や深夜にビルの掃除をするという、今で言うベンチャービジネスのようなビルメンテナンスの会社で、この会社は30年以上、同じ内容のナレーターを使ったCMを広島地区で流しており、広島県人でこれを知らない者はいない。なお、やはり本作を映画での代表作としている成田三樹夫は、前述のようにモデルとなった人物が現実に引退してしまったため、四作目以降に出番がなくなり、成田はしきりに淋しがっていたという。成田は早くに亡くなってしまったが、深作は「彼が『もう出られないんですかね..』と言っていたのが忘れられません」と語っている[142]。
第三部『代理戦争』で第一部に続いて再登板となった梅宮辰夫が演じたのが明石組幹部・岩井信一。モデルとなった山口組幹部・山本健一の眉毛のない顔に似せるため、当初眉毛をロウでつぶすメーキャップをしていた。実際の山本は眉毛がないのではなく薄かったというが、梅宮はよく汗をかいて溶けるのでめんどうくさくなってある日、志賀勝を真似て眉毛を剃った。京都の撮影所から東京に戻って当時1歳の娘・梅宮アンナを抱くと、普段泣かない子だったのに「ギャーッ!!!」と引きつるように泣いたという[143][144]。小沢仁志はこの梅宮のヤマケン役の顔について「(梅宮さんの)昔の映画観てみろ。『仁義なき戦い』とか。恐ろしい。あれで30代だぜ」と評した[145]。梅宮は山本とは本作以前から付き合いがあり[146][147]、「あの人に恥かかしちゃいけねぇなという想いはありました[147]」、「今は問題があるかもしれないけど、ヤクザの役を演じるんだったら同じメシを食い、同じ酒を飲み、時にはソープにも一緒に行くような…。そんな"匂い"を吸収するのも大事なことだったんだよ[146]」、「いまホントにヤクザと付き合うとすぐ叩かれるでしょ?だからみんな付き合いもできないし、やってもコソコソするしかないんだよ。でも僕らのときには大っぴらにね[148]」などと回想している。一方で「みなさんの中で役者・梅宮辰夫は『仁義なき戦い』の印象が強いかもしれないけど、僕の真髄は不良と女たらしを兼ねた『不良番長シリーズ』なんですよ」と述べている[149]。
第三部『代理戦争』、第四部『仁義なき戦い 頂上作戦』に優柔不断なヤクザの代表格として登場する加藤武演じる打本昇のモデル・打越信夫は、実際は事業家として先見の明があった人物で、解散危機にあった広島カープ存続にも貢献している。プロ野球が庶民の娯楽になることを見越し、1950年(昭和25年)に発足した広島カープの後援会(鯉城後援会)を作り広島カープのタニマチとなって、広島市民球場(1957年開場)の警備、自転車預かり所、売店などの運営を一手に引き受け新たなシノギを開拓した。鯉城後援会には広島の財界人がみんな入っていたという。有名な「たる募金」を組員によくやらせていたという。「カープのためによろしくお願いします!」と球場前でお客さんに頭を下げていたのは打越の組員だったのである。劇中に出てくるタクシー会社の設立も同時期の1954年(昭和29年)である。ただしモデルになった会社、及び後継会社も現在は廃業しており現存しない[150]。加藤武は、この打本昇役を、今まで演じた中で最も気にいっていると述べている[151]。
1992年放送の深夜番組『EXテレビ』「芸人才人図鑑」のコーナーで金子信雄がゲスト出演し、『仁義なき戦い』の挿話を語った時に劇中における金子扮する山守義雄親分のインパクトが大きく[152]、『山口組三代目 (映画)』の撮影で出入りしていた山口組三代目・田岡一雄が本作を鑑賞した後、金子の芝居を観て「あら(あれは)、モノホン(本物)だ」という感想を洩らしていた事を関係者づてで聞いた事を披露している。また公開当時、新幹線での移動中に金子扮する山守義雄のモデルである山村辰雄の舎弟であった山田久(第五部『仁義なき戦い 完結篇』の登場人物・松村保〈北大路欣也〉のモデル)に遭遇し、大勢の子分を引き連れていた山田から「(子分に対して)お前ら、これが俺の親分だ。挨拶しろ」と車内で紹介されて挨拶された。金子は「おれもどういう顔をしていいのかわからなかった」と語り、周囲の乗客から好奇のまなざしで見られていた事もあって困惑と恐縮のしきりであったと披露している。『完結篇』で広能の留守の間に若頭として広能組を守る伊吹吾郎演じる氏家厚司のモデルになった人物は、南海ホークスに所属したプロ野球選手[153]。ただ、経歴からか「プロ野球人名録」などにも現在この人物の記載はなく、調査するのが困難な状況になっている。
登場人物のモデルは大半が実在の人物で関係者が見れば誰が誰なのか一目瞭然のため、初公開時には映画を見た当事者達から大変なクレームを受けた。映画なのでより劇的にキャラクターを膨らませたり、話を面白く脚色するのは当然なのだが、それを理解できない人達からクレームがあった。「事実と違う」とか、「ワシはそがいなこまい男じゃない(私はそんなに肝の小さい男ではない)」とか、現役で周りの子分などに格好がつかない人達もいたようである[154]。中には「ワシが出とらん(私が出ていない)」というのもあったらしい。『仁義なき戦い』が劇場公開される前に、京都本社の試写室に山口組三代目の田岡一雄組長が訪れて鑑賞したが、後に間に人を立てて親分が岡田社長に伝えた内容は「よう(広島の)若いモンがだまっとるこっちゃ。もしワシの事だったらシシャが行くがな」だったとされる[31][40][155]。この"シシャが行く"の意味は未だ謎である。逆に「お蔭で息子も浮かばれました」と亡くなった人物の母親から感謝されることもあったという。この母親をモデルに創作したのが、第三部「代理戦争」で渡瀬恒彦演じる倉元猛の母親で、名前は第一部を観て笠原に電話をかけてきた倉本聰をもじったものという[156]。美能幸三は第一部封切りのあと「おっ母さんが泣いて喜んでくれた」と笠原に電話してきたという[157]。「ヤクザ映画最悪のヒール」として描かれている金子信雄演じる山守義雄こと山村辰雄の場合は、同じくヒールとして描かれた姐さんが撮影現場を訪れ、役者と談笑していたというから、山村はしょせん映画は映画と考えていたのではといわれている[158]。この他、広島抗争で重要な役割を果たしたといわれる波谷守之は「仁義なき戦い」五部作にまったく登場しないが、波谷をモデルにした『最後の博徒』では、別角度から見た「仁義なき戦い」が描かれている[159][160]。
出演者
五部作を通して金子信雄を扮する山守義雄親分の妻・利香を演じた木村俊恵は、劇団俳優座の女優だが映画界では地味な存在であった。この作品で時に夫・山守との絶妙のコンビプレーで子分を翻弄、時に山守の尻を引っぱたくモーレツなおかみさんを演じたが[75]、やはり五部作の撮影終了間もない1974年(昭和49年)5月、俳優座の公演中に過敏性腸カタルで倒れ、一旦回復したが同年7月26日、急性心臓死で39歳の若さで亡くなった。奇しくもこの日は、一年前から生活を共にしていた中谷一郎と晴れて結婚式を挙げる予定の日だったという[161][162][163]。
子供の頃から歌手志望だった松方弘樹は、波多伸二のロケ中の事故死による穴埋めで父・近衛十四郎に説得され17歳で俳優デビュー。1本だけの約束が東映の大量生産の煽りで次々と作品が決まり断れず、明けても暮れても撮影の日々。出演作は軒並みヒットしたが、演技に厳しい父は全ての作品にダメ出しし一度も褒めてくれなかった。やる気を失い、役者を辞めて遠洋のマグロ漁船に乗ろうなどと考えていたところを父に一喝され踏み止まったものの、このまま役者を続けていく自信もなかったが、30歳の時、この映画の第一部・坂井鉄也役に巡りあい変わったという。壮絶なシーンの連続に役者の醍醐味を味わい、演じることの面白さが実感できた。演技力にも自信が生まれ、ようやく父に褒めてもらえると思った矢先、父は亡くなった[164]。本作の演技で倉本聰に惚れられた松方は、大河ドラマ『勝海舟』で病気降板した渡哲也の代役をオファーされた[73]
第一部の梅宮辰夫扮する若杉寛が情婦(中村英子)の兄の学生服を着て「おい、テンプラがバレゃぁせんかのぉ」と言うシーンの撮影で、見学していた社長の岡田茂が広島出身であることから「違うぞ、辰!バレゃぁ、じゃのうて、バレやあ、って上げてみろ」と指摘し、梅宮は岡田の言う通りに演じた[165]。「よし、それでいい」とOKをもらい、このセリフは岡田直伝の広島弁となる。中村は第三部『代理戦争』で室田日出男扮する早川英男の妻も演じたが、色白で上品な美人女優で「第二の藤純子」と期待されたていた。映画の公開まもない1974年に山口組三代目田岡一雄の息子で、プロデューサーの田岡満と結婚して芸能界を引退。しかし1年後、子供を残し24歳の若さで自宅でガス自殺[166]。ヤクザ映画の会社に入ったばかりに、という声もあって、中村の亡霊が撮影所に現われると一時噂が立った。「幽霊でもいいからカムバックしてもらいたいよ」と中村を育てたプロデューサーは嘆いていたという[167]。
第一部のナレーション、第二部『仁義なき戦い 広島死闘篇』と第四部『仁義なき戦い 頂上作戦』に出演した小池朝雄は「当時『刑事コロンボ』が当たっていたから」という理由で日下部五朗にキャスティングされた[168]。北大路欣也は第一部を仕事先の沖縄の映画館で観て共鳴[169]。シリーズ化の決定を知り直訴して第二作『広島死闘篇』に出演が決まるが[170]、上述(#登場人物)の通り当初キャスティングされた大友役を拒み、東映幹部ら(日下部など)に仲介させ、千葉真一と配役を交換させている[131]。北大路が千葉とのキャスト入れ換えを要求したのはこれが初めてでなく、1963年の映画『海軍』に続いて2度目となるが、北大路は戦前からの大スターで東映の役員を兼務していた市川右太衛門の御曹司であることから、東映は北大路の意向を幾度となく受け入れてきた[131]。
『広島死闘篇』で村岡組のチンビラに扮した川谷拓三は、大友組にリンチを受けて両手首をロープで縛られて海をモーターボートで引き擦りまわされるシーンで、海水をたくさん飲まされ失神。スタッフや出演者に心臓マッサージをされ、なんとか息を吹き返し大事に至らずに済んだ[73]。スタッフが「衣装も濡れるし、ボートを勢いよく走らせれば、水上スキーのように海面を滑るんじゃないか」とテストなしで川谷を海へ放り込むが、クルクル回り海底へ沈んでいき、危うく溺死しかねなかった。このチンピラはボートで引きずられた後に宙吊りされ射撃の的で惨殺されるが、普段の川谷は酒浸り身体を鍛えてないため撃たれたときの反応がうまく演じられずに撮影が進まない。深作欣二からアドバイスを求められた大友勝利役の千葉真一は自ら木にぶら下がり「拓ボン、ドーンと音が鳴った瞬間に、左の脇腹に気を集中させて両足をクッと出してみな」と死んでいくチンピラの手本を演じて見せた[141]。こうした命がけのシーンを川谷はこなしていき、認められていくこととなる[73][171]。川谷拓三の息子・仁科貴は、「どこに出てるんだろう」と子供の頃、父親の出ている映画を見漁ったというが、はじめて父親のこの映画のリンチシーンを観たときは、背筋が凍るほど怖かったと話している[172]。この役をやるため、深作監督から「ちょっと痩せたほうがいい」と言われたため、川谷は塩をかけたきゅうりだけを毎日食べてひたすら走り、20日間で15キロ体重を落として撮影に挑んだという[172]。ピラニア軍団の中でも酒グセの悪さで川谷と1、2を争うといわれた志賀勝が、最も強い印象を残したのがシリーズ4本目の『頂上作戦』。ヤクザの親分の温泉での同窓会に現れ[注 7]、恩師や同級生が見ている前でその親分を惨殺して[173]、「あんたら見とった通りじゃ」と実も蓋もないセリフを吐くシーンである[174]。志賀は「誰に会っても、あのヒットマンの役って言われるんだよ。自分の中では、そういうシーンもあったなあ...くらいだけど」と話している[174]。
『広島死闘篇』で美能組の組員として出演する前田吟は、国民的映画『男はつらいよ』で、さくらの夫・諏訪博役として善良なイメージで有名であるが[175]、前田は昔から東映映画のファンで、「むしろ松竹の方が、自分が出るイメージがなかった」と話している[10]。前田も第一作を映画館で観て感銘を受け、深作から直々に出演のオファーがあり、念願の東映映画出演を果たした[141]。なお、前田は、ジャーナリスト側から見た「仁義なき戦い」といえるテレビドラマ『ある勇気の記録』(NET、1966年10月~1967年1月)に出演しており、双方の視点で演じた貴重な役者となる[10]。『広島死闘篇』での前田の最大の見せ場である時森勘市(演者・遠藤辰雄)殺害シーンで、ドアの隙間から封筒が引き抜かれた瞬間、銃弾を浴びせるというアイデアは前田が出したものという[10]。『男はつらいよ』では渥美清であろうと誰であろうと一切のアドリブは許されないため、非常に貴重な体験だったと話している[10]。山城新伍はテレビ時代劇『白馬童子』で茶の間の人気者になったが、大衆娯楽がテレビのブラウン管に移り、萬屋錦之介や大川橋蔵などの大スターがテレビの時代劇に出演するようになると、実績と貫禄不足の山城は行き場を失い、ニュー東映の時代劇映画の脇役に回った。深作はこのシリーズ中、強面の主役のかげで、巨大暴力組織や警察に軽妙な機転で迎合しつつ、鋭い反骨の気概を失わずしたたかに生き抜いていくコメディリリーフ的な役柄として、山城に新しい光をあてた[176]。「僕は実家が京都の町医者だったから、戦後に女性のいろんな所を触った手で目をこすってトラホームになったヤクザが、家の病院に来ていた記憶がある。だから僕はあのシリーズで、江田役を演じた時に眼帯して出たんです。当時の風俗を出すためにね。あの頃、本物のヤクザが集まってきたら、自分のところの身内の者に『おう、兄弟』って言うわけです。それを聞いているうちに、役者にも移って『兄弟、兄弟』って呼び合うようになって。まあ楽しい時代だった。毎日が祭り。この祭りが、終わらなければいいと思ってました。今はもう、出来ないですね、最近でも若い奴らが亜流で広島ヤクザ戦争を描いた作品があったけど、観てられない。だってあの時の僕らにとって『仁義なき戦い』は最後の砦みたいな映画だった。時代劇が当たらなくなった。任侠映画も衰退してきた。どうするんだと。やけくそで、実録路線で行けと。そうやって、自然と結束していったんですよ[177]」と述べている。
第五部『仁義なき戦い 完結篇』で再登場の大友勝利を演じた宍戸錠と敵対する市岡輝吉(松方弘樹)が料亭で対峙するシーン、2分半の長回しは語り草となっている[75][178]。〈牛のクソにも段々があるんで〉の名セリフでも知られるシーンだが[179]、激昂した宍戸がテーブルの小皿やグラスを左腕一撃で払いのけると、宍戸の左腕の静脈がばっさり切れた。血がビューッと噴き出て、テーブルいっぱいに血が広がった。宍戸は酒を飲みすぎていて血が止まらない。松方の隣にいた女優がそれを見て失神した[73][171][180]カメラが流血をうまく追いきれなかったのが残念であるが、〈牛のクソにも..〉のセリフは、高田宏治のシナリオにはない宍戸のアドリブだという[180]。失神した女優は松方がしっかり介抱した[73]。宍戸がこの完結篇に出演した経緯は、同学年で同じ宮城県出身で、学生時代から付き合いのあった菅原の誘いだったと思うと話している。宍戸は日活出身というプライドから東映の映画は嫌いで、仁義なき戦いシリーズも1本も観たことがなかったと話している[180]。五部作のうちの四作に出演した曽根晴美は『完結篇』には出演予定が当初なかったが、松村保(北大路欣也)と江田省一(山城新伍)が関西で襲撃を受けるシーンのロケが兵庫県尼崎市で行われると聞いて[注 8]、「俺は尼崎の出身だから、やらせてくれ」と深作に直訴して殺し屋の役を勝ち取った[171]。同シーンは踏切で挟まれたところで車を襲撃するという撮影のため、許可を取らない(取れない)ゲリラ撮影であったが[73]、電車が近付いている時、突き切ろうとした車のタイヤが溝に落ちた[171]。深作が「電車を止めろ」と無茶を言い出したが[182]、その場にいた尼崎の若いヤクザらが、非常灯を振って阪神電車を止めてくれたおかげで無事撮影ができたという[183]。本シーンは許可だけでなく、リハーサルもなく、撮影前、黒板にチョークで段取りを書いて「こっちが無線で合図したら撃ってくれ。遮断機がどうなろうが逃げて渡り切ってくれ。俺らはビルの上からカメラで追うから」と、ただそれだけ言われた。八名信夫は「あんな怖い思いはしたことがない」と話している[73]。殺し屋の役の曽根は、何秒しかない間に撃って殺して逃げないといけないから、下なんて見ている暇がなくてひっくり返り、近所の医者に行ったら膝の骨が折れていたと話している[184]。当時は何もかも大らかで、ロケは無許可でやることが多かった。また当時は警察もゆるくて、撮影で使うピストルを、近くの警察署が本物を貸してくれることもあったという[73]。
「電柱1本、犬1匹まで画面に映ったらすべて主役」が深作監督の口ぐせであった[174]。普通の任侠映画では、主人公以外は絶対的に脇役であるが、深作は『仁義なき戦い』で脇役にも光を当てた[73]。それまでのスターシステムを廃した演出に燻っていた無名の大部屋俳優、若者たちが跳ねた[174]。『仁義』に出た役者は、みんなこの映画で個性を爆発させて上昇気流に乗せた。『仁義』以前は大半の役者が無名であった。片桐竜次は「僕ら若手の俳優は、皆、『仁義』が出発点」と述べている[174]。
近年、『仁義なき戦い』のキャラクターを自身の職場の上司や同僚に当てはめる企画が増えているが[76][152]これは『仁義なき戦い』がキャラクターの宝庫であり、世間に存在するありとあらゆるパターンの人間像が描かれているためである[185]。『仁義』ファンは人によって好きなキャラクターが違うが、杉作J太郎は「そういう意味で『仁義なき戦い』は、ある意味、モーニング娘。やAKB48と同じ、グループアイドルとしても見られる。たとえば『広島死闘篇』の大友勝利の千葉ちゃんは、モーニング娘。でいえば、後藤真希のインパクトでしたね。加藤武は、AKB48のまゆゆ」などと、『仁義なき戦いAKB48説』『仁義なき戦いモーニング娘。説』を唱えている[75]。
そのほか
第一部で土居組との抗争がエスカレートし、今後どうするか山守組幹部が山守宅に集まり、山守夫妻を囲んで話し合うシーンで、広能と若杉が「ここにおるもん(幹部)で今から土居組に殴り込みかけちゃろう」と号令をかけるシーンで、新開が「ここんとこ体の調子が悪うて働けるかどうか」、矢野が「ワシャ、他にも手があると思う」、槇原が「ワシャ死ぬゆうて問題じゃないが女房の腹に子がおって、これからのこと思うと可哀そうで、可哀そうで」などと、行きたくない言い訳を繰り返すが、これらは、それまでの任侠映画では決してお目にかかれなかったシーンであった[186]。このシーンはその後、山守親分がキレて「外道がひょっとこ面(づら)して頼りにならんゆうたら」「ワシが刺し違えたるよ」と自ら土居を殺ると宣言すると広能が堪らず「ワシがやります」といい、山方が「こんなにゃ前があるけえ、今度は死刑になるかもしれんど」と止めるが、山守姐さんが割って入り「一人で土居殺れるゆうたら」と広能に土居暗殺を勧め、結局広能一人に押しつけてみんなで泣くという、ダチョウ倶楽部のコント「どうぞ、どうぞ」のような展開であるが、深作は『深夜作業組』の略という逸話で知られるほど、撮影が長いことで有名であったが[187]このシーンの撮影には8時間を要したという[186]。
美能幸三は「週刊サンケイ」の連載や映画化にあたり、正式な契約を結んでいない[5]。あくまで了承・黙認だったため、美能に対する原案料は0円である[5]。だが、何の見返りもなかったわけではなく、美能は東映の衣装を払い下げてもらい貸衣装屋を始めた。映画で付き合い始めた俳優との交流も続き、それを足がかりとして冠婚葬祭場、ホテル経営へと拡大させ実業家として成功している[5]。「美能」という名前が目立つため、裁判所にいって名字を変えていた[5]。2010年(平成22年)3月17日に亡くなったが、亡くなる数年前まで時折雑誌のインタビューに答えていた。このうち、2003年(平成15年)出版された『東映実録やくざ映画 無法地帯』(太田出版)の中では、驚愕の事実を話している。『仁義なき戦い』は実録・実話と銘打っているものの娯楽映画であるため、ある程度のフィクションの加味は仕方ない。しかし美能は何と山村辰雄に盃をもらっていないという。「私は山村の子分ではない。盃をもらった親分は一人もいない。第一、山村と親子の盃をしているなら、ああいう手記は絶対に書かん。私は山村の七人衆と言われていたが、山村組に入ったことはない。山村が私のことを「アレはウチの若い衆じゃ」と言うから、みんな、そう思っていただけの話。私はあの人から世話になったことは一遍もない。みんなで集まったということもないし、ただ山村のとこへ出入りしていただけだったというのが本当のところで『組』というほどのものではなかったんだ」と話している[188]。『仁義なき戦い』は、山守と広能の親子関係が大きなテーマとなっているが、これでは根本的な設定からしてフィクションになってしまう。ただ、戦後の混乱期にはセレモニーとしての盃事を執り行った組織は少なかったといわれ、盃事がなかったからと言って、親分でなかったとは言い切れない[5]。
本職のヤクザが撮影に出入りして演技指導をしていたと多くの関係者が証言している[4][73][189][190][191]。伊吹吾郎は「賭場にしろ、手打ち式のシーンにしろ、たいがいは親分が後ろで見ていて、若い人が手順を披露する。ところが、ずらりと並んだ役者に照れがあるのか、少しおちゃらけた感じになる。すかさず親分から『バカヤロー、ちゃんとやれ!』って罵倒される。僕ら役者は、その声を聞くだけでビビってしまうものでしたよ」と述べている[190]。映画の主要キャストにはそれぞれモデルとなった人物がいて、多くが存命でヤクザが撮影をチェックしに来ており、監督である深作がOKを出しても彼らがストップさせることもあったという[146]。東映京都撮影所の俳優会館は[192]本作がシリーズ化され撮影が始まるとヤクザが出入りして異様なムードに包まれたといわれる[193]。日下部五朗は「監督、脚本、役者、時代、あらゆる意味で今じゃつくれない映画だった」[73]、梅宮辰夫は「だいたい『仁義なき戦い』撮ってる頃は、撮影所はいっつもヤクザでいっぱいだった」[148]、山城新伍は「梅宮辰夫が眉毛を剃ったり、小林旭が常にサングラスをかけて出たりしているのは、役のモデルになった本物のヤクザの人が、毎日撮影を見にきているからなんです。そうすると、メイクや扮装もモデルとそっくりにしてね。みんな、そうですよ。撮影現場では、役者かヤクザかわからなくなってしまって(笑)」[177]、松方弘樹は「『仁義なき戦い』以降、太秦はガラの悪いのが増えた」[194]などと証言している[4][73][189][190][191]。深作健太と仁科貴は「僕たちも実録やくざ映画を撮りたいけど、どんどん難しくなっている」[195]、深作健太は「本人の意図とは別に『仁義なき戦い』が撮れた時代性があります。1970年代に入って映画が完全にテレビに負けた時代だからこそ、実際のヤクザの抗争事件をテーマにエンタテイメントが作られたのだと思います」と話している[195]。松方弘樹は『修羅の群れ』(1984年)の次の年に『戦争と平和』という警視庁と合田一家の話を勝新太郎と一緒にやろうと衣装合わせまでしていたが、警察から東映へ圧力がかかってダメになり、それぐらいからヤクザ映画が撮れなくなったと話している[194]。
『仁義なき戦い』が興した「実録路線」はさまざまな副産物を撒き散らした[196]。京撮次長だった翁長孝雄はクレーム処理を一手に引き受けた。笠原は「仁義なき戦いシリーズ」において、山口組を架空の「明石組」と名を変え書いたが、明石組は神戸の新開地にれっきとして実在した[196]。明石組は「社長宅を爆弾でぶっ飛ばすぞ」と岡田社長を脅し、翁長は「何とかせい」と岡田に命じられた。翁長は友人である兵庫県警の刑事に連絡し、事態を憂慮した刑事が見張る中、組事務所に単身乗り込んだ。「今回の映画で組の名誉がどれだけ傷つけられたと思う? 亡き先代に顔向けできへん」と訥々と語る組長に「知らなかったとはいえ名義を勝手に借用したことは、申し訳ない」と陳謝し、位牌に焼香して仏壇に少なからぬ御香料を捧げた。これで一件落着となったが、このようなやくざ絡みの揉めごとは北九州でも浜松でも起こり、翁長は東奔西走させられた[196]。美能も波谷守之から「映画でウチの若い者をポン中にしとると何度も電話がかかってきた」、どうやら波谷はフィクションの映画を、ノンフィクションだと思ったらしいと述べている[196]。高田宏治は「やくざは映画になるといちゃもんつけるんですよ。大体やくざは小説や活字は読まない。でも映画で安く扱われると頭に来るんです」と話している[196]。日下部五朗は夜桜銀次をモデルにした『山口組外伝 九州進攻作戦』で大分県別府市の石井組(山口組系) に挨拶にいった時、雪隠詰めにされた。「銀次いうたら、うちの組じゃ三下みたいなもんやないか!おまえ、あいつを何で映画にするんや。アホなことすな、誰の許可でそんな映画撮るんじゃい!おまえここにおれ」と日下部は二日後、東映本社からこのことを知らされた田岡一雄の"鶴の一声"で釈放されるまで、ホテルに軟禁されたという[196]。
代々木忠は、広島抗争のきっかけを作ったのは俺たち。直接じゃないかもしれないが、後押しはしたと述べている。小倉でヤクザをやっていた頃、広島でストリップの興行をずっと打っていたが、ストリップは儲かるということが分かると、広島の組の若い衆が来てトップクラスの踊り子を引き抜いていくから、これはその組長を取るしかねえだろう、と殺るつもりで事務所に乗り込んでいった。しかしその組長が引退するつもりだった、というから殺らずにすんだという。それから代理戦争が始まったと話している[197][198]。安部譲二は広島抗争に参加したと話している→安部譲二#交友関係 逆に城内実の父親は、広島抗争時の広島県警捜査二課長で、所謂ヤクザと対決する側のトップであったという[199]。
ビデオとテレビ放映
- VHS, DVD, BD
ビデオ化されなかった間も土曜日のオールナイトなどでシリーズ作が上映されていたが、1987年(昭和62年)末に他のヤクザ映画より大幅に遅れた形でビデオ化された[200]。これに関して深作は「映画が公開された頃は、描かれた人たちの多くが刑務所に入っていた。いわば鬼のいぬ間に公開してしまったようなところがあった。ところが映画のビデオソフト化が始まった頃は、もうその人たちは社会復帰していた。そのため、ビデオ化の方が色々と問題が多かったわけです」と語っている[201]。ビデオ化解禁の1ヶ月前、1987年(昭和62年)11月に三代目共政会・山田久会長が他界したことも影響があったといわれる[201]。ビデオ化解禁まではテレビでも放映されることはなかった。
レンタルビデオは邦画としては桁外れの売上を達成し、以後もロングセラーを続けた。2008年(平成20年)、DVD化もされており、DVDも売り上げは東映作品の中でも突出しているという[202][注 9]。日本国外でも英語字幕つきDVDが販売されている[203]。「仁義」という言葉は英語に訳せず、海外では『BATTLE WITHOUT HONOR OR HUMANITY』というタイトルになっている[204]。
劇場公開から40周年を迎えた2013年、シリーズ化された初期五部作が3月21日にブルーレイボックスとして発売された[205]。
- テレビ放映
1990年代初めに『ゴールデン洋画劇場』(フジテレビ)でシリーズ5作が定期的に放送され、この映画はいわゆる放送禁止用語が何箇所かあり、オンエアではそういったシーンはカットされた。このため例えば第1部の名シーンの一つである広能が海渡組本宅前で土居組長を暗殺するシーンでは、広能がこれから殺らないといけないプレッシャーで憂鬱にしていたところ「土居じゃが」とターゲットの土居組長が訪ねてきたとたん、獲物を狙う狼のような表情に豹変する展開があるが、その前の憂鬱だったシーンで「ないか?」「ポンか(ヒロポンのこと)」というセリフがあり、このためか、これらのシーンは全てカットされいきなり土居組長の来訪シーンから始まってしまった。
- テレビ放送日と視聴率(『ゴールデン洋画劇場』)
放送日 | タイトル | 関東 | 関西 |
---|---|---|---|
1991年4月27日 | 仁義なき戦い | 19.4% | |
1991年7月27日 | 広島死闘篇 | 16.8% | 17.9% |
1991年11月30日 | 代理戦争 | 16.1% | 22.0% |
1992年2月29日 | 頂上作戦 | 14.8% | 18.3% |
1992年5月9日 | 完結篇 | 11.8% | 17.1% |
第1作放映時(1991年4月27日)には、映画『首領になった男』の公開(1991年5月11日)を控えていた主演の松方弘樹がゲスト出演していた。完結篇が放送された翌々週(1992年5月22日・23日)の同時間枠で『北の国から'92巣立ち』が放送され、菅原文太がゲスト出演(裕木奈江扮するタマコの叔父役)し、田中邦衛との久々の共演となった。
余波
- 量産
『仁義なき戦い』の大ヒットは東映実録シリーズの量産を生んだ[44]。このうち山口組の全国進攻を描いた作品は、第三部『仁義なき戦い 代理戦争』の作中、映像とテロップで駆け足で挿入されている。「昭和36年6月 義友会事件」は、明友会事件のことで『実録外伝 大阪電撃作戦』として後に映画化、「昭和36年7月 石川組組長刺殺事件」は、大和郡山市で起きた服部組長刺殺事件で、殺害した柳川組をモデルにして映画化されたのが『日本暴力列島 京阪神殺しの軍団』。そして「昭和37年5月 九州博多事件」としてテロップで出るものを最初に映画化したのが『山口組外伝 九州進攻作戦』[206]。このテロップとともに映し出される映像はアパートで銃殺されるヤクザが夜桜銀次で、人気が高いこともあって夜桜銀次を題材としたものは、その後も何度か映像化されている。山口組を題材にした映画が量産できたのは、田岡一雄の息子・田岡満をスタッフに入れていたためである。田岡がすべての脚本をチェックすることで、映画に取り上げられた組関係者に、協力はしても反対はするなと指示を出していたという[207][208]。戦後の混乱期に輩出した広域暴力団の物語をシリーズ化し、それまで公式的な日本戦後史にあって決して語られてこなかった少数派を主人公とするアクション映画を次々製作した[209]。前述の山口組の全国進攻を描いた作品以外にも各地で起こった暴力団抗争を描いた映画を多数製作し、その過程で『沖縄やくざ戦争』(1976年)、『ドーベルマン刑事』『空手バカ一代』(1977年)など、沖縄を舞台にしたアクション映画を製作。それまで沖縄を舞台にした映画は反戦映画か芸術映画が主であったが[注 10]、この東映の暴力映画を切っ掛けに1970年代に日本のアクション映画に最初の沖縄ブームが到来した[209]。
笠原和夫が広島県で『仁義なき戦い』の取材中に総会屋・小川薫の存在を知って興味も持ち、小川に密着取材して1975年『暴力金脈』という総会屋を描いた映画が製作されている[210][211][212]。『広島仁義 人質奪回作戦』(1976年、東映)、『日本の首領 野望篇』(1977年、東映)の成立は『暴力金脈』の登場によるところが大きい[212]。また近年、オリジナルビデオで主に製作されるやくざ映画は、こうした「金融やくざ映画」が中心であるため、「仁義なき戦い」は本シリーズ以外にも『仁義なき戦い』から派生したこうした映画も含めて、後に影響を与えることになった[213]。
- 波及
近年も人気は持続し関連本・研究本が続々刊行される他、大友勝利(千葉真一)などメインキャラクターのフィギュアなども発売されている[214][215]。近年シネコンの増加で各地で老舗映画館が閉館されるなか、東映系の映画館の閉館イベントはこの映画が上映されることが多い[216]。21世紀の現在も名画座を満員にできるコンテンツである。この映画の大ヒット後、ジャーナリズムは様々なヤクザ抗争を俎上に上げて料理し、それを原作とする多くの実録ヤクザ映画が製作されたが、30年以上経った今日でも、未だこの映画を凌駕するものは生まれていない[18][24][217]。このため、その存在価値は年々増すばかりで、ヤクザ社会を知りたければ、まずこの映画を見、原作を読まなければ始まらない。ヤクザ社会を知ることができる数少ないガイドブックでもある[18]。
漫才のテンダラーのネタに『仁義なき戦い 広島死闘篇』で、大友勝利組長が競輪場の事務所に子分を助けに行く名シーンをパロったような物がある。岸本斉史の漫画『NARUTO -ナルト-』に登場する「口寄せの術」によって呼び出される口寄せ動物・ガマブン太は、『仁義なき戦い』の菅原文太をモデルにしたもの[218]。尾田栄一郎の漫画『ONE PIECE』に登場する海軍の人物・赤犬も『仁義なき戦い』の菅原文太、黄猿は田中邦衛がモデルと尾田が話している[219]。『天元突破グレンラガン』は『仁義なき戦い』の影響を受けているという[220]。石川賢の漫画『極道兵器』は『仁義なき戦い』を意識して描かれている[221]。
「実録」という呼称はイタリアのマフィアの実態を克明に描写した1972年の『バラキ』あたりから用いられるようになったが[84][222]、用語として定着するのは東映が『仁義なき戦い』を実録映画路線の第一弾として発表してからである[84][223]。実は「仁義なき戦いシリーズ」は、1本もタイトルに「実録」をうたったことはないのだが、『仁義なき戦い』が興した実録ヤクザ路線のブームにより、東映から多くの実録ヤクザ映画が量産[44][85]。以後の日本映画ではヤクザ映画にとどまらず、「実録阿部定」から『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』に至るまで実に100本以上の作品が題名に「実録」を冠することとなった[84][224]。「実録」を掲げることが一種の流行になり、容易にこれを冠した作品もあらわれるようになった[84]。『仁義なき戦い』は「実録物」の草分けでもある[225]。小沢仁志は2000年のオリジナルビデオ『実録・広島やくざ戦争』で「オレがタイトルに“実録”を入れようと言ったら、Vシネマで実録物ばかり作られるようになった」と話している[226]。哀川翔は「俺たちのVシネマのルーツはこれ」と本作を自身の「オールタイム・ベスト」の一本として挙げている[227]。
『仁義なき戦い』というタイトルも慣用句として定着、雑誌の見出しなどでよく使われる[8]。2008年(平成20年)1月には『佐々木夫妻の仁義なき戦い』という稲垣吾郎主演のTBS系ドラマのタイトルにも使われた。そのほか第三部と第四部のそれぞれの副題“代理戦争”、“頂上作戦”も時折使われる語である。もともと“代理戦争”は国際社会の東西冷戦を、“頂上作戦”は警察による暴力団取締まりを当時のマスコミがこう呼んだもので、三部と四部の映画の副題として採用した。いずれも当初の意味では死語となっているが、現在も時折使われるのは、この映画の副題として残っている理由もあると思われる。2014年の大河ドラマ『軍師官兵衛』で、主人公・黒田官兵衛を悩ませる最初の主君・小寺政職を演じる片岡鶴太郎はプロデューサーから「『仁義なき戦い』の金子信雄さんのイメージで」と出演オファーを受け、金子そのもので小寺政職を演じている[228][229]。『仁義なき戦い』の金子信雄は、元々片岡の物真似レパートリーの一つ。
- マスメディア
2003年(平成15年)5月3日にはNHKで特集が組まれ、ETVスペシャル"「仁義なき戦い」をつくった男たち" のタイトルで放送もされた。ヤクザ映画をNHKが特集するのは画期的なことと思われるが、これも前述されているように、この映画が単純にヤクザ映画の範疇に収まっていない証明でもある。『アサヒ芸能』は世間的にヤクザ記事に強い週刊誌というイメージがあるが[230]、同誌に本格的にヤクザ記事が登場するのは『仁義なき戦い』の大ヒットを受けて掲載を開始した「山口組三代目田岡一雄自伝」が最初であった[230]。山口組の田岡一雄組長と親交があった岡田茂東映社長が直接、田岡と交渉し映画化の約束を取りつけ、小説化〜映画化にあたり「アサヒ芸能」を出版する徳間書店の徳間康快社長を呼び、話を持ちかけたら「頼む。これだけは俺にやらしてくれ」と小説化の話に飛びついてきたといわれる[231]。『週刊サンケイ』は勿論、雑誌でこの映画、いわゆる広島抗争をよく取り上げていたのは「実話時代」(メディアボーイ)と姉妹紙『実話時代BULL』であった。『実話時代BULL』の編集長を務めた鈴木智彦が、古今東西の抗争事件を再検証していた時、広島抗争に惹きつけられて、40年以上も前に確定した広島抗争の記事を改めて掘り返した[5]。近年は下記参考文献にある特集本がたくさん刊行され、一般誌もよく取り上げるが、「実話時代」などが創刊された1990年頃はこういった特集本がほとんど無かったため、『仁義なき戦い』の詳細情報、例えばモデルになった人物が誰かなどの情報は、こうした雑誌でしか得ることが出来なかった。ところでこのジャンルはネタがあまり無いためか、この映画の関連記事を載せると部数が伸びるのか、一時毎月のようにこの映画と関連の特集を掲載していたことがあった。関連本のうち、1998年に洋泉社から出た『実録「仁義なき戦い」・戦場の主役たち・これは映画ではない!』と2003年の『実録「仁義なき戦い」・外伝・血の抗争の鎮魂歌』は、美能幸三以下、実在の人物の写真が掲載された出版業界の常識を覆しタブーを犯した、超弩級のビジュアルムックであった[232]。これを実現させたのは「実話時代」の編集を担当する創雄社代表・酒井信夫代表の果敢な編集者魂によるものであった[232]
- ファン
北野武・井筒和幸[74]・大森一樹[注 11]、長崎俊一[234]、黒沢清[注 12]、林海象[注 13]、三池崇史、園子温[17]、高瀬将嗣、平山秀幸[233]、入江悠[237]、園子温[238]といった日本の映画監督はもちろん、クエンティン・タランティーノやジョン・ウーなど、日本国外の映画監督にも多大な影響を与えたことでも知られる[17][239]。風間杜夫や平田満も『仁義なき戦い』の洗礼を受けたと言う[240]。また映像関係者、作家、漫画家、ミュージシャンなど著名人にもファンが多い。白竜がサングラスをかけ始めたのは『仁義なき戦い』の小林旭のサングラス姿を観て「こういうのいいなぁ」と思ったのが切っ掛けだという[241]。明石家さんまは菅原文太の大ファンで、『仁義なき戦い』第一部で、海渡組に身を寄せた広能が土居組組長を射殺するシーンが特に好きで、「冷たい雨の中、肩をすぼめて眉間に皺を寄せ、煙草を吹かし標的を待つシーンをよく真似た」と『さんまのまんま』などで話している。浅田次郎、畑中純[19]、林家かん平[19]、新田隆男、中田潤、秋本鉄次、神無月マキナ、浅草キッド[136][242]、大川俊道、パンチ佐藤、仁科貴、橋本一、佐々木亜希子、冷牟田竜之(東京スカパラダイスオーケストラ)、川原テツ、庄司英徳[243]、三代目魚武濱田成夫[244]、西加奈子ら[245][246][247]。斎藤工は、かつて東北新社に勤務していた父親の影響で「とりあえず『仁義なき戦い』シリーズを端から観ろと言われ、 それらを渋々観てしまったのが今の自分を作っている最大のルーツ」と話している[248]。川谷拓三の息子・仁科貴は「少なく見積もっても100回は観ている」と話している[172]。『仁義なき戦い』の関連本を出版している杉作J太郎は、「中学2年生で衝撃を受けて、あまりにハマり、ラジカセを映画館に持ち込んで、ナレーションを暗記したり、それから今日までずっと『仁義』を追いかけて、追いかけて、という気持ちで生活してきました」と話している[73]。19歳のとき、新宿東映で「仁義なき戦い」を封切り3日目に観たという映画評論家・田沼雄一は「自分の青春映画といえばこれ」と話している[249]。高橋克実は『仁義なき戦い』に出ていた俳優とどれだけ共演できるかが目標の一つ」と話した[250]。2009年10月26日放送の『しゃべくり007』(日本テレビ)で、"泣ける映画1位"として『仁義なき戦い 広島死闘篇』を紹介した。この他、チェッカーズのメンバーが当時、ツアー移動中のバス内で『仁義なき戦い』をよく見ていて大ファンだと、「とんねるずのみなさんのおかげです」で「珍義なき戦い」」というパロディコントを3、4回放送した。また「ダウンタウンDX」が基本的にゲスト一人だけでのトーク番組だった時代に、ダウンタウンも『仁義なき戦い』のファンだということで、第1回放送のゲストに菅原文太を招き、山城新伍と川谷拓三の2人の特別出演を加えて、ダウンタウンと『仁義なき戦い』の一場面のような賭場で抗争シーンを再現した。これはパロディではなく、かなり本格的な内容のものであった。この放送で浜田雅功が菅原に「文太さんもオナニーするんですか?」と質問し、スタジオの空気が凍りついたという[251]。
泉谷しげるは『その後の仁義なき戦い』が製作されると聞いて、東映に直接電話を掛けて「どんなチョイ役でもいいから出させてくれ」と頼み出演している[100][252]。深作を敬慕する萩原健一は、かつて「深作さんの『仁義なき戦い』をみてると、腹立ってくるわけよ。なぜ、オレがここに出ていないかってね」と話した[253]。奥山和由は、本作や「ゴッドファーザー」を観て映画が好きになり、自身が実話ばかりを映画化するのは、事実に食い込んでいったこれらの映画に凄い迫力を感じ、その時代に育ったせいと思うと話している[254][255]。きうちかずひろもこの映画に強い影響を受けたとインタビューで述べており[256]、「頂上作戦」の山場で梅宮辰夫扮する岩井信一が放つ「おんどれらも、吐いた唾飲まんとけよ!」は「ビー・バップ・ハイスクール」にも語り継がれた名ゼリフ[4][257]。映画が大好きだという安倍晋三は、政界を引退したら映画監督に転身したいと話し、「自分で撮るとしたらヤクザ映画ですかね。『仁義なき戦い』をさらにドキュメンタリータッチにして、 それと『ゴッドファーザー』を足して2で割ったものとかね」とラジオで話した[258]。
2010年のカンヌ国際映画祭のコンペティション部門に『アウトレイジ』で参加した北野武は、現地の公式記者会見で「影響を受けた作品は?」の質問に、「『仁義なき戦い』シリーズは好きだけど、手法としてはカメラを持って振り回したり、役者で空間を埋めるのも好きじゃない。“深作監督のような撮り方をしない”というのが、ある意味影響を受けたことかな」と『仁義なき戦い』からの影響を話した[259][260][261]。この他、日本のマスメディアのインタビューでも「あまり会話がないと『ソナチネ』とかあっちに行っちゃうんで。『仁義なき戦い』のような、文句の言い合いみたいなのをやらなきゃいけないと思った」[262]、「同じに見えないよう気をつけた」[263]、「実録調のナレーションなんかを入れ込んだら「仁義なき戦い」と同じになっちゃう」[264]などと「仁義なき戦い」からの強い影響があったことを話している[265]。「アウトレイジ」の続編製作を発表したたけしは「まあ『仁義なき戦い』のシリーズと同じでさ、死んだ役者がもう一回出てもいいということにしよう」と、アウトレイジ続編は“仁義なき”方式でやると話し[266]、その『アウトレイジ ビヨンド』で「『仁義なき戦い』の呪縛を解いた」と話した[267]。
新仁義なき戦いシリーズ
『新仁義なき戦いシリーズ』になっての特徴の一つに〈女〉が前面に出てきたことが挙げられる[268]。新シリーズが始まった1974年は洋画人口が邦画人口を上回り、女性客が急増してきたという時代の流れ、実録路線が続くにつれてネタがだんだんなくなり、題材として扱えない現在進行形の事件が多くなる中、何かと差し障りのある抗争事件より女絡みの世話話や濡れ場を増やそうと考えたことなどの理由があるが、何より新シリーズになって脚本家が高田宏治に変わることで、その傾向は助長された[268]。『仁義なき戦い 完結篇』で笠原から脚本を交代した高田は、「何でここまで言われなあかんのや」と呆れ果てる程、笠原の比較、批判を容赦なく受けた[104][268]。シリーズ五部作の後の新シリーズ1本目『新仁義なき戦い』は、前の五部作の焼直しで広島を舞台にしていたが、『新仁義なき戦い 組長の首』は、脚本の佐治乾と田中陽造が当初考えていたプロットは、「広島山守組の元幹部が、預かった客分の不始末を買って出て刑務所暮らしからの下関落ち」という『仁義なき戦い 完結篇』四部作を受けての〈外伝〉となる予定だった。ところが高田が脚本に入った決定稿で、四部作からスピンアウトした設定は全て消してしまい、舞台を北九州に変更して主人公を広島抗争とは縁もゆかりもないただの流れ者に変えてしまった。高田は四部作との臍の緒を断ち切り『新仁義なき戦い 組長の首』は、『仁義なき戦い』とは名ばかりの、五部作とはまったく関連性もない「純粋アクション映画」にしてしまった[268]。続く『新仁義なき戦い 組長最後の日』は最初から高田に脚本が委ねられたが、本作も『新仁義なき戦い 組長の首』同様、実録ではなくモデルのいないフィクションであった。高田は四部作で笠原があまり表に出さなかった〈女〉を笠原へのアンチテーゼとして前面に出した。これは後に高田が脚本を手掛けた『鬼龍院花子の生涯』や『極道の妻たちシリーズ』などの「東映やくざ女性映画」に繋がっていく[104][268][269]。
前述のように『新仁義なき戦い』が四部作の焼直しで、『新仁義なき戦い 組長の首』と『新仁義なき戦い 組長最後の日』はフィクションであるため実録シリーズといえないが、同シリーズには最終作として製作を予定されていた映画があった。それが『北陸代理戦争』で、本作は映画の製作が原因でモデルとなったやくざを刺激して映画と全く同じシチュエーションで実際にモデルとなった組長が殺害されるという(三国事件)「実録シリーズ」の最たる映画となった[104][270]。五部作は実録の過去を映像化したものであったが『北陸代理戦争』は、現実を同時進行させた。本作が同シリーズに主演していた菅原文太が病気のため降板して主演が松方弘樹に代わったのため「新シリーズ」に入れられてない[271]。菅原の病気降板は表向きの理由で、実際は『トラック野郎シリーズ』で主演していた菅原がやくざ映画を続けるのを嫌がったといわれる[271]。深作は「彼(菅原)も飽き飽きしていたんじゃないですか」と回顧している[272]。本作は現在進行中の抗争を映画化したことで福井県警から干渉を受けたり、大雪で撮影が難航したり、主役、準主役の交替など撮影時から多くのトラブルにも見舞われたが、飛び交う雑音を無視して岡田社長が「こういう生々しいのはええ」と製作を推し進めさせたといわれる[270]。しかし『仁義なき戦い』というネームバリューを外されたこと、興行力のある菅原が降板したこと、客層が変化したことなどの理由で配収が2億円に届かない記録的な不入りとなった[271]。深作は『北陸代理戦争』を機に実録路線を切り上げたといわれており[269]、実録ヤクザ映画からの脱皮第一作が空手・拳法アクションを卒業しようとしていた千葉真一を主演に据えた映画『ドーベルマン刑事』で、千葉と深作は1966年の日本・台湾合作映画『カミカゼ野郎 真昼の決斗』以来11年ぶりにタッグを組み、新しいアクション映画に挑むこととなる[273]。
演劇
映画のヒットを受けて、1974年(昭和49年)10月24日 - 同年11月2日に、新宿紀伊國屋ホールで上演された[274][275]。山守役を気に入った金子信雄が自らプロデュースして、金子が当時主宰していた「劇団マールイ」の全面協力のもと、深作欣二と福田善之が共同演出として参加。深作は舞台初演出[275]。キャストも金子が映画そのままに山守役を演じ、広能昌三役には室田日出男、坂井鉄也が峰岸徹、新開宇一が曽根晴美。その他、山城新伍・池玲子・成田三樹夫、中原早苗ら、映画にも出演している役者達が多数出演した[275]。新聞、週刊誌、テレビとよく取り上げられたという[276]。公演当日の会場には、黒い背広に短髪の若い役者がずらっと並んで、全階自由席の客席の壁には、墨で大きく「四方同席」と書かれた垂れ幕が下がっていた[276]。曽根が一時間半くらい大遅刻したことがあり、何度も場内放送で開演時間遅れのお詫びを放送したが、お客はあまりいなかったという[275]。赤字が200万程度出て、金子は公演後二週間寝込んだ[276]。そんなことは初めてだったという[276]。
参考文献
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脚注
- 注釈
- 出典
外部リンク
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