大森一樹

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大森 一樹(おおもり かずき、1952年3月3日 - )は、日本男性映画監督脚本家株式会社ファーストウッド・エンタテインメント代表取締役。大阪芸術大学芸術学部映像学科教授。

兵庫県芦屋市在住。父は放射線科医で神鋼病院副院長を務めた大森郁乎(おおもり いくや、1912年12月25日 - 1993年7月24日[1][2]

略歴

大阪市生まれ。六甲高等学校京都府立医科大学医学部卒業。医師免許を持っていた珍しい映画監督。

漫画少年でもあり、学生時代は真崎守の作品などに影響を受ける。

一方高校の時から映画監督を目指して自主映画を制作し、村上知彦と知合う。大学在学中の1973年から、村上・西村隆らと映画自主上映グループ「グループ無国籍」を結成し、新開地の映画館で邦画のオールナイト上映企画を行った。また、やはり大学時代に完成させた16ミリ映画『暗くなるまで待てない!』が、キネマ旬報ベスト10で21位に入るなど、高く評価される。

1978年、「城戸賞」受賞のシナリオを自ら監督した『オレンジロード急行』で商業映画デビュー。前年の東宝の大林宣彦、同年の日活の石井聡互らとともに、自主映画作家が助監督経験なしに大手撮影所でいきなり監督をつとめるムーブメントとして話題を呼ぶが、CFの分野で商業映像の経験が豊富だった大林、澤田幸弘との共同監督という形だった石井に対し(脚本もそれぞれ別のプロが執筆している)、まったくのアマチュアでありながらメジャー松竹の番線作品で単独の脚本兼監督を担当した大森の事例は際立っており、今日に至るまで類例がない。この作は必ずしも高い評価を受けられなかったが、自身の体験を元にして大学病院を舞台にした作品『ヒポクラテスたち』で映画作家としてブレイクする。以降、村上春樹作品の映画化『風の歌を聴け』を経て、吉川晃司主演三部作あたりから、会社企画の娯楽映画もきちんと仕上げられる監督として東宝の信頼が厚くなり、斉藤由貴主演の三部作、平成ゴジラシリーズなど、コンスタントに作品を作り続けている。

1998年に『日本沈没1999』の監督に抜擢されるが、松竹の経営不振により、製作中止になった経緯がある。

2000年4月~2005年3月大阪電気通信大学総合情報学部メディア情報文化学科教授。 2005年4月~大阪芸術大学芸術学部映像学科・同大学院教授。

監督作品

映画

(以上自主制作作品)

テレビドラマ

脚本作品

映画

未製作脚本

テレビドラマ

ラジオドラマ

著書

単著

  • 1978年『MAKING OF オレンジロード急行』ぴあ出版
  • 1981年『虹を渡れない少年たちよ』PHP
  • 1986年『星よりひそかに 大森一樹の作った本 』東宝出版事業室
  • 1987年『トットチャンネル シナリオ写真集』東宝出版事業室
  • 1987年『「さよなら」の女たち シナリオ写真集』東宝出版事業室
  • 1989年『映画物語』筑摩書房
  • 1998年『震災ファミリー』平凡社
  • 2001年『あなたの人生案内』平凡社

共著

出演

カメオ出演

ラジオ

CM

その他

脚注

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出典・参考文献

関連項目

外部リンク

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  1. 『CD 現代日本人名録 物故者編1901〜2000』(日外アソシエーツ) より
  2. 週刊現代」(講談社)※1995年7月8日号 より
  3. 3.0 3.1 テンプレート:Harvnb 「平成ゴジラバーニング・コラム」No.006。