風の歌を聴け
『風の歌を聴け』 (かぜのうたをきけ) は、1979年に発表された村上春樹の中編小説である。「僕と鼠もの」シリーズの第1作。
目次
概要
1979年4月発表の第22回群像新人文学賞受賞を受けて、同年5月発売の『群像』6月号に掲載された。同年7月、講談社より単行本化された。表紙の絵は佐々木マキ。本文挿絵は村上自身が描いた。1982年7月、講談社文庫として文庫化された。
当時の村上春樹と同じく1978年に29歳になった「僕」が、1970年21歳の時の8月8日から8月26日までの18日間の物語を記す、という形をとり、40の断章と、虚構を含むあとがきから成る。
2005年時点で、単行本・文庫本を合わせて180万部以上が発行されている。
多くの村上作品が日本国外に翻訳・紹介されているが、初期の長編2作は講談社英語文庫の英訳版(『Hear the Wind Sing』と『Pinball, 1973』)が存在するにもかかわらず、村上自身が長編2作を「自身が未熟な時代の作品」と評価しており、英訳版は日本国外での刊行が一切行われていない[1]。
背景
1978年4月、村上は神宮球場でヤクルトスワローズ=広島カープ戦を観戦中に小説を書くことを思い立ち、真夜中1時間ずつ4か月間かけて書いた。村上にとってまったくの処女作である。ただし、妻である陽子の「つまらない」という感想に従って、頭から全体的に書き直している[2]。群像新人文学賞応募時のタイトルは「Happy Birthday and White Christmas」[3]。この言葉は表紙の上部に小さく書かれている。
後のインタビューによれば、チャプター1の冒頭の文章が書きたかっただけで、あとは展開させただけだったと語っている。この文章は村上自身大変気に入っており、小説を書くことの意味を見失った時この文章を思い出し勇気付けられるのだという[4]。
群像新人文学賞(1979年4月発表)を受賞した際、5名の審査委員のうち特に丸谷才一と吉行淳之介からは高い評価を受けた。しかし講談社の内部では「こんなちゃらちゃらした小説は文学じゃない」[5]という声があり、出版部長にも受け入れられなかったという。第81回芥川賞(1979年上半期)にノミネートされた時も「外国の翻訳小説の読み過ぎで書いたような、ハイカラなバタくさい作」[6]などと評され受賞には至らなかった。
あらすじ
20代最後の年を迎えた「僕」は、アメリカの作家デレク・ハートフィールドについて考え、文章を書くことはひどく苦痛であると感じながら、1970年夏の物語を語りはじめる。
東京の大学に通う僕は、夏休みに港のある街に帰省した。大学で知り合い、付き合っていた女性は春に自殺してしまった。夏休みの間、僕はジェイズ・バーで、友人の「鼠」と、とりつかれたようにビールを飲み続けた。
僕は、バーの洗面所に倒れていた女性を介抱し、家まで送った。彼女は左の小指がなかった。しばらくして、たまたま入ったレコード屋で、店員の彼女に再会した。その後、彼女から電話が来て、何度か会うようになった。一方、鼠はある女性[7]のことで悩んでいる様子だが、僕に相談しようとはしない。
小指のない女の子と僕は港の近くにあるレストランで食事をし、夕暮れの中を倉庫街に沿って歩いた。彼女は「一人でじっとしていると、いろんな人が話しかけてくるのが聞こえる」と言う。そしてアパートについたとき、中絶したばかりであることを僕に告げた。
冬に街に帰ったとき、彼女はレコード屋を辞め、アパートも引き払っていた。
現在の僕は結婚し、東京で暮らしている。鼠はまだ小説を書き続けている。毎年クリスマスに彼の小説のコピーが僕のもとに送られる。
登場人物
- 小指のない女の子
- 1月10日生まれ。8歳の時に左手の小指をなくした。双子の妹がいる。レコード店で働いている。
- 高校時代のクラス・メートの女の子
- 高校時代、ビーチ・ボーイズの「カリフォルニア・ガールズ」のレコードを貸してくれた。ラジオのリクエスト番組で同曲を「僕」にプレゼントする。1970年3月、大学を病気療養のため退学している。
- 病気の女の子
- 17歳。脊椎の神経の病気で、3年間寝たきりの生活を送っている。
- 病気の女の子の姉
- 妹の看病のため大学を退学している。
- デレク・ハートフィールド
- エンパイアステートビルディングから右手にヒトラーの肖像画を抱え、左手に傘をさし飛び降り自殺した作家。「僕」は文章の多くを彼に学んだ。
- 架空の人物であるが、大学図書館などでは、「デレク・ハートフィールドの著作を読みたい」という学生のリクエストに応えて司書が著作を探しては首をかしげるという誤解が後を絶たない(『図書館司書という仕事』久保輝巳著「1章 ある図書館司書の生活」はこのエピソードを描いたものである)。
- 僕が寝た3人の女の子
- 1人目は、高校のクラスメイト。高校を卒業し、数ヶ月後に別れる。2人目は、地下鉄の新宿駅で出会った16歳のヒッピー。一週間ばかり僕のアパートに居候し、去る。3番目の女の子は、大学の図書館で知り合った仏文科の学生。翌年の春休みに林で首を吊って自殺する。
翻訳
翻訳言語 | 翻訳者 | 発行日 | 発行元 |
---|---|---|---|
英語 | アルフレッド・バーンバウム | 1987年2月 | 講談社英語文庫 |
ロシア語 | Вадим Смоленский | 2002年 | Eksmo |
韓国語 | ユン・ソンウォン[9] | 1991年 | 漢陽出版 |
金春美(キム・チュンミ) | 1991年8月26日 | 漢陽出版 | |
金蘭周(キム・ナンジュ) | 1996年 | 열림원 | |
中国語 (繁体字) | 頼明珠 | 1992年2月25日 | 時報文化 |
中国語 (簡体字) | 林少華 | 2001年8月 | 上海訳文出版社 |
タイ語 | นพดล เวชสวัสดิ์ | 2002年12月 | สำนักพิมพ์แม่ไก่ขยัน |
インドネシア語 | Jonjon Johana | 2008年10月 | KPG |
映画化作品
テンプレート:Infobox Film 1981年製作。監督の大森一樹は村上と同じ芦屋市の出身で、かつ芦屋市立精道中学校の後輩に当たる[10]。当時は『ヒポクラテスたち』でブレイクした直後であり、作中の「僕」の設定年齢や原作執筆時の村上と同じ29歳であった。主要キャストにミュージシャンの坂田明や巻上公一を起用している。また、室井滋の女優デビュー作でもある。
カメラワークの美しさを評価する声がある[11]一方、原作の精神を具象化し切れていない[12]、まじめな青春映画になってしまった[13]などの評価がある。監督自身は好きな映画トップ3に入れるほど気に入っており[14]、監督曰く「村上さんも評価してくれていた」という[15]。主演の真行寺君枝も「私の代表作」「大変な低バジェットでしたが、あれほどに楽しかった撮影は後にも先にもこの一本に尽きます」と語っている。なお、途中で流れるビーチ・ボーイズの「カリフォルニア・ガールズ」の楽曲使用料に数百万円が費やされ、映画全体の制作費を圧迫した[16]。現在でもカルト映画として人気がある[3]。
演出手法について
映画の冒頭ではデレク・ハートフィールドの『火星の井戸』の一部が字幕で引用され、大森の『ヒポクラテスたち』と同様の手法となっている[11]。また、終盤の「小指のない女の子」と「僕」のベッドシーンが『アニー・ホール』のようにスーパーインポーズで会話を進めている点、鼠の製作した8ミリ映画の中で『ウディ・アレンのバナナ』のようにコマ落としで人物が走り回る点などについては、ウディ・アレンの影響が指摘されている[17]。
大森は、ヌーヴェル・ヴァーグの作品、とりわけ「ゴダールの『男性・女性』あたり」をかなり意識して作ったと言っている[18]。
原作小説との差異
大森は「自分の映画の一要素として原作を扱った」と語っており[11]、原作のストーリーをなぞりつつも、「小指のない女の子」の双子の姉妹や鼠の女を明示的に登場させたり、10年後の荒廃した「ジェイズ・バー」など独自のエピソードを加えている。また原作で鼠は小説を書いていたが、映画では8ミリ映画製作に替わっている。なお、原作に忠実なシーンとしては鼠と「僕」の出会いのシーンなどが挙げられる。ほか、『1973年のピンボール』のストーリーを意識したと思われる場面も登場する。
また、原作の時代設定は1970年の8月8日から8月26日であるが、同年にはまだ存在していない神戸行き高速バスが登場するなど、原作より数年後に時代が置換されていると考えられている[17]。他方で、新宿騒乱や神戸まつり事件などの描写には1970年前後への大森の強い思いがあるとの指摘がある[19]。ホレス・マッコイの『彼らは廃馬を撃つ』の台詞を引用し、『ベトナムから遠く離れて』のポスターを登場させているのも同様の考えからとされる[19]。
スタッフ
- 監督・脚本 - 大森一樹
- 製作 - 佐々木史朗
- プロデューサー - 佐々木啓
- 企画 - 多賀祥介
- 撮影 - 渡辺健治
- 音楽 - 千野秀一
- 主題歌 - 「カリフォルニア・ガールズ」(ザ・ビーチ・ボーイズ)
- 挿入歌 - ヒカシュー『白いハイウェイ』『新しい民族』
- 編集 - 吉田栄子
- 録音 - 中沢光喜
- 鼠の映画・原案 - 8ミリ映画「土掘り」(杉山王郎作)
- 鼠の映画・音楽 - ヒカシュー『新しい民族』
- TVの音声 - 「彼らは廃馬を撃つ」(角川文庫版、ホレス・マッコイ著、常盤新平訳)
キャスト
- 僕 - 小林薫
- 女 - 真行寺君枝
- 鼠 - 巻上公一
- ジェイ - 坂田明
- 鼠の女 - 蕭淑美
- 三番目の女の子 - 室井滋
- 旅行センター係員 - 広瀬昌助[20]
- 当り屋・学生風の男 - 狩場勉
- 当り屋・柄の悪い男 - 古尾谷雅人、西塚肇
- 精神科の先生 - 黒木和雄
- ディスクジョッキー - 阿藤海
- 声の出演
脚注
- ↑ 都甲幸治『偽アメリカ文学の誕生』(水声社)
- ↑ 村上春樹『「これだけは、村上さんに言っておこう」と世間の人々が村上春樹にとりあえずぶっつける330の質問に果たして村上さんはちゃんと答えられるのか?』朝日新聞社、2006年3月、141-142頁。
- ↑ 講談社100周年記念企画 この1冊!:『風の歌を聴け』講談社BOOK倶楽部公式サイト
- ↑ デレク・ハートフィールドを歩く
- ↑ 『村上ラヂオ』新潮文庫、108頁。
- ↑ 『文藝春秋』1979年9月号、瀧井孝作の選評。
- ↑ 斎藤美奈子「妊娠小説」、石原千秋「謎とき 村上春樹」にこの女性が誰かについての言及がある。
- ↑ この言葉について村上は次のように語っている。「人はもちろん孤独です。僕も孤独です。あなたも孤独です。人と人が理解しあうことなんて不可能です。それは絶対的な真実です。僕らはみんなスプートニク衛星に乗って、地球のまわりをぐるぐるまわって、そのうちにどこかに消えていくライカ犬みたいなものです。でも『風の歌を聴け』に、たしかディスクジョッキーが出てきましたよね。彼が『僕は君たちが好きだ』というとき(たしかそう言いましたよね)、彼は本気でそう言っているんです。そういうことって、何かの役に立つと僕は思うんです。そう思いませんか?」(『少年カフカ』、新潮社、2003年6月、245頁)
- ↑ 『スメルジャコフ対織田信長家臣団』朝日新聞社、2001年4月、村上作品一覧・海外編。
- ↑ 村上春樹、安西水丸共著『村上朝日堂』新潮文庫、58頁。
- ↑ 11.0 11.1 11.2 今野、1982年、P.84
- ↑ 桂、1982年、P.90
- ↑ 川本、1982年、P.86
- ↑ 大森一樹企画による「大阪芸術大学 映像学科研究室一同お勧め映画」[1]より
- ↑ 2005年、「JAGDA ONE DAY SCHOOL in OSAKA」[2]における映画上映後の監督の解説
- ↑ 同上
- ↑ 17.0 17.1 今野、1982年、P.85
- ↑ 『ユリイカ臨時増刊 総特集村上春樹の世界』1989年6月号、52頁。大森一樹「完成した小説・これから完成する映画」。
- ↑ 19.0 19.1 川本、1982年、P.87
- ↑ 映画『八月の濡れた砂』の主演俳優、大森組の主要脇役俳優だった。
参考文献
- 今野雄二「陽炎のメモリ-・メモリ-(「風の歌を聴け」特集)」『キネマ旬報』、827号、1982年、P.84-85
- 川本三郎「「華麗な虚偽」より「貧弱な真実」(「風の歌を聴け」特集)」『キネマ旬報』、827号、1982年、P.86-87
- 桂千穂「邦画傑作拾遺集-32-「風の歌を聴け」「近頃なぜかチャ-ルストン」ほか」『シナリオ』、38巻2号、1982年、P.90-92
関連項目
- 日本アート・シアター・ギルド公開作品の一覧
- ソングオブウインド - 日本の元競走馬。馬名の由来は本小説にちなむ。