国鉄C56形蒸気機関車

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C56 44(1993年10月 千頭駅)テンダー側面を大きく欠き取って後方視界を確保した

C56形蒸気機関車(C56がたじょうききかんしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄)の前身である鉄道省が製造した小型軽量テンダー式蒸気機関車である。愛称はシゴロク、またはポニーである。

C56形以前

1872年明治5年)以来続いた鉄道の建設も、主要幹線の整備の目処が立つと、政治的圧力を背景に輸送需要の大きくない閑散支線区の建設促進へと移行していった。

当時こうした線区での蒸気機関車は、幹線の需要増大と速度向上に対応できずに幹線から撤退した旧型機、雑多な旧式輸入機が充てられていた。しかし、幹線と支線との需要落差が広がると、幹線用機関車は旧型機であっても大き過ぎて支線へ転用不可能となることと、輸入車両の老朽化・部品確保困難に起因する整備費用増大が見込まれた。

そこで昭和初期に至って、閑散支線に最適化された、小型軽量で保守の容易な機関車が計画されることとなった。

C56形の開発

上記のとおり本線より著しく低規格な簡易線には、大型機関車は入線できない。このためまず短距離線区向けには1932年昭和7年)にタンク式C12形が開発された。軽量で前後進の容易な小型機である[1]

しかし比較的長距離の線区では、C12形では航続距離が短く運用に適さない。このためC12形から水槽と炭庫をはずし、テンダー式に設計しなおされたのがC56形で、両形式は共通部分の多い系列設計となっている。これは制式蒸気機関車系列化の先達であるドイツにおいて支線区向けに設計された、64形タンク機24形テンダ機の設計手法を参考にしたと思われる。両形式は形態もC12形、C56形にそれぞれ類似している。

当時は簡易線には、転車台が設置されている箇所が少なかった。C12形はタンク機関車のためバック運転は容易であるが、C56形はテンダー機関車のため後方が見にくくならないよう、テンダーの炭庫側面を大きく欠き取って後方視界を確保したスタイルが特徴的である。しかし、実際にはC12形と異なり従輪がなく、バック運転時の走行特性が著しく低下してしまった[2]。これが原因で脱線が多発したため、低速での入換を除けばバック運転はあまり行われなかったといわれている。

製造

鉄道省向けとしては、1935年(昭和10年)から1939年(昭和14年)までの間に160両が製造されている。製造メーカーは川崎車輛汽車製造会社日立製作所日本車輌製造三菱重工業の各社である。このほかに、樺太庁鉄道向けに4両、民間向けに1両が製造されている。

製造年次ごとの番号と両数は次のとおりである。

製造所別の番号と両数は次のとおりである。

  • 川崎車輛(22両)
    • C56 6 - 11(製造番号1551 - 1556)
    • C56 49 - 58(製造番号1699 - 1708)
    • C56 89, 90(製造番号1777, 1778)
    • C56 155 - 160(製造番号2094 - 2099)
  • 汽車製造(24両)
    • C56 12 - 14(製造番号1299 - 1301)
    • C56 23 - 26(製造番号1352 - 1355)
    • C56 59 - 67(製造番号1395 - 1399, 1418 - 1421)
    • C56 112 - 119(製造番号1518 - 1525)
  • 日立製作所(40両)
    • C56 1, 2(製造番号622, 623)
    • C56 15, 16(製造番号628, 629)
    • C56 68 - 73(製造番号737 - 742)
    • C56 91 - 95(製造番号825 - 829)
    • C56 102 - 106(製造番号863 - 867)
    • C56 127 - 146(製造番号970 - 989)
  • 日本車輛製造(27両)
    • C56 17 - 19(製造番号373 - 375)
    • C56 27 - 37(製造番号405 - 415)
    • C56 74 - 78(製造番号416 - 420)
    • C56 96 - 98(製造番号477 - 479)
    • C56 120 - 122(製造番号558 - 560)
  • 三菱重工業(47両)
    • C56 3 - 5(製造番号155 - 157)
    • C56 20 - 22(製造番号166 - 168)
    • C56 38 - 48(製造番号173 - 183)
    • C56 79 - 88(製造番号189 - 198)
    • C56 99 - 101(製造番号203 - 205)
    • C56 107 - 111(製造番号207 - 211)
    • C56 123 - 126(製造番号221 - 225)
    • C56 147 - 154(製造番号229 - 236)

樺太庁鉄道C52形

またC56形の同形車が、南樺太が日本の統治下にあった1942年(昭和17年)に、軌間1067mmで敷設された樺太庁鉄道向けに4両(C52 1 - 4。製造番号961 - 964)が日本車輌製造で製造されている。これらは、1943年(昭和18年)4月1日、南樺太の内地化に伴い鉄道省に編入され、C56 161 - 164となった。その後、1944年(昭和19年)9月に本土から103号機および152号機が樺太鉄道局に転出したが、1945年(昭和20年)の敗戦により、6両全部が樺太を占領したソビエト連邦接収されている。

これらは、酷寒地仕様として内地のような開放的なキャブ(運転室)から密閉式のキャブへと変更されている。1947年に、鉄道職員としてサハリンに残留した日本人鉄道員によって、ユジノサハリンスク機関区でソ連仕様の塗装になっていたのが実見されている。車体色は黒であったものの、動輪は赤、炭水車は水色であったという。また、接収後の動向については資料がなく、詳らかでない。一部の情報では1960年代まで残っていたという。

雄別鉄道C56形

C56形はその特性から地方私鉄での運用にも適性の高そうな機関車ではあるが、私鉄が自社発注したC56形の同形機は、雄別鉄道に納入された1001のみしか存在しない。同機は1941年(昭和16年)に三菱重工業で製造(製造番号290)され、旅客列車牽引などに使用されていたが、先輪脱線により使用停止され、1970年(昭和45年)の同鉄道廃止とともに廃車解体された。最後は、冷蔵庫CM撮影用に真っ白に塗られていたという。

この1001号機は、戦時中アメリカ軍の銃撃にもあった被災機関車でもある。

運用

製造当初は、日高本線米坂線小海線飯山線大糸線越後線七尾線三江北線木次線小松島線妻線宮之城線山野線などの路線に投入された。

軍事供出

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タイより帰還し、大井川鐵道で動態保存されていた当時のC56 44。(2001年7月 新金谷駅)
ファイル:Moving C56 color of Thai.JPG
疾走するタイ国鉄色C56 44。2008年3月

C56形は軽量小型でありながら長距離の運用に適する設計であるために軍部より注目され、太平洋戦争開戦直前の1941年11月および12月に、製造された160両のうち半数以上の90両 (C56 1 - 90) が供出され、タイ・ビルマ(現・ミャンマー)へと送られた。

供出に際しての主な改造内容は

などである。

タイへ送られたC56形は当時建設中だった泰緬鉄道の主力機関車として運用されることになる。しかし太平洋戦争が激化し、ビルマ戦線の戦いも始まった。C56形は、地雷や爆撃・銃撃を受け大破した車両も多数あった。そのためC56形は、昼間は運行せず夜間に細々と運行され続けたという。また、泰緬鉄道は突貫工事のうえ酷使に次ぐ酷使で線路が悪く、上で脱線転落し失われた機関車もあった。敗色濃厚となった戦争末期には、鉄橋が破壊されるなどして緊急の退却の際に機関車を連れて行けない場合も多く、敵に機関車を利用されないために、鉄道連隊の将兵の手によってカマ爆薬を詰められ、機関車を、時には苦楽をともにした将兵も自ら体をくくり付け爆破する「機関車の自決」も度々行われた。そして終戦後、泰緬鉄道は各地で寸断・線路は荒れ果て壊滅的な状況に陥っていた。同時に多くのC56形が廃車置き場に留置され、無惨な姿をさらしていた。

その後、運転が出来るC56形は泰緬鉄道が復旧した戦後も使用され、46両がタイ国鉄700形 (701 - 746) として使われた。番号の新旧対照は次のとおりである。タイに上陸した本形式は下記の他に35と56があるが、両機はインパール作戦の敗北後、ビルマ側に取り残され、戦後、同国の国鉄に引き継がれている。

タイ国鉄 701 - 746 ← C56 3 - 18, 20, 21, 23 - 26, 28, 30 - 32, 34, 36 - 41, 43 - 55

これらは1970年代後半から1980年代前半まで使用され、現在でも713 (C56 15) ・715 (C56 17) がタイ国鉄の手によって動態保存されている。また1979年(昭和54年)には、725 (C56 31) と735 (C56 44) が日本に帰還することになった。この2両は数多い出征機関車の中でも特別な存在である。31号機は泰緬鉄道開通式に使われた機関車で、44号機はタイで使われたC56形の中で、現地で組立てられた機関車の第1号機関車であった。両機ともに、ロッドなどの細部の部品がいたるところ他の同型出征機関車から流用・修理されており、その戦歴を物語る。

現在、C56 31は靖国神社遊就館で静態保存、C56 44は大井川鐵道で動態保存されている。44号機は、帰国後はオリジナルの姿への復元が行われたが、車両限界の関係から切り詰められた屋根(機関銃を乗せるためという説もあった)や、切り落とされた炭水車の一部などにタイ時代の面影が残っていた。大井川鐵道で「SL急行」に用いられた。その後の活躍は動態保存へ。

一方、ビルマ国鉄に編入された機関車は12両あり、クラスC(Class C)として使用されたのが確認されている。機関車番号は次のとおりであるが、タイ側から移った前述の2両以外は、日本時代との番号対照は不明である。なお、ビルマ国鉄の機関車番号は登録順に付されたもので、一連の番号にはなっていない。

0516, 0518, 0521, 0522(C5656), 0523, 0524, 0525(C5635), 0527, 0531, 0656, 0676, 0680

これらは、1977年から廃車が開始され、最後に廃車となったのは1987年の3両(0518, 0522, 0656)で、そのうちの1両(0522)はミャンマー国内で静態保存されている。

国内残存のC56形

戦後に国内に残った68両の本形式は大規模な配置換えが行われ、北陸地方甲信越地方中国地方九州地方で使用された。使用線区は、小海線飯山線大糸線越後線七尾線三江北線木次線妻線宮之城線山野線。ほかにも北海道や横浜などでも、ごく少数が入換用に使用されていた。

運用路線に閑散線区が多かったことや限られた牽引力から、優等列車牽引にはほとんど用いられなかったが、木次線では1953年(昭和28年)から1959年(昭和34年)まで陰陽連絡快速列車ちどり」運用を線内全線通しで担った。

北海道では90両が供出される以前は本形式が多数配置され、各路線で主力機として運用されていたが、供出後の配置換えで数両のみ残り、その後はC11形に取って代わられた。晩年は入換用として過ごし、本州のC56形より一足早く1960年代には姿を消した。

C56形が使用されていた各地の簡易線では、後継のディーゼル機関車がなかなか実用化されなかったのが幸いし、比較的晩年まで貨物列車牽引用に残っていた。しかし、簡易線区用に開発されたDD16形ディーゼル機関車が貨物牽引用に投入・置き換えが始まった。

特筆事項の一つとして、SLブーム1972年10月、鹿児島本線でのお召し列車牽引(91+92号機)がある。92号機は半年後の1973年4月に、日南線でC11 200との重連で再びお召し列車を牽引した。

1973年(昭和48年)夏に、小海線でC56形が2ヶ月間復活した(臨時列車「SLのべやま号」、中込駅 - 小淵沢駅間)。小型軽快で高原地帯を走る姿が小馬(ポニー)を連想させ、「高原のポニー」と呼ばれた。これ以降「ポニー」がC56形の愛称になった。

1974年(昭和49年)、三江北線の貨物列車牽引を最後にC56形は定期運用を退いた。

C56形の被災

国内に残存したC56形の中のうち、前述の雄別鉄道1001号機がアメリカ軍の銃撃によってボイラーや主軸、動輪などが破損したほかに、快速「ちどり」専用機だった111号機も同じく空襲時の銃撃で被災しているが、いずれものちに復旧されており、戦災による廃車は出ていない。

保存

動態保存

C56 44

ファイル:2007 11240004.JPG
タイ国鉄仕様として生まれ変わったC56 44(2007年11月 千頭駅)

軍事供出で「出征」していた先のタイから1979年に帰国し、同年6月29日に大井川鉄道(現・大井川鐵道)に入線し、1980年1月29日に動態復元された。その際、メーターゲージ仕様の動輪はC12 93のものと交換されたが、この時装備されていた動輪はいずれも日本国内で保存されている[3]

動態保存された当初はタイ国鉄在籍当時の姿であったが、後に可能な限り日本仕様に戻された。C56形以外も含め数百両に上る出征機関車のうち、ただ1両、現役機として“奇跡の生還”を果たした出征機関車である。しかし、戦時中の酷使が災いして老朽化が著しくなり、2001年(平成13年)に大修理が行われたが、なおもボイラー状態が芳しくないために同鉄道でC12 164日本ナショナルトラスト所有)とともに非力(単独で牽引出来るのは客車3両までが限界だった)となったことや、C11 190の入線により新金谷車両区が手狭となったことから、2003年(平成15年)12月より休車となり千頭駅で保管された後、2006年9月より新金谷車両区にて再整備が開始された。老朽化が著しいボイラーは、同鉄道が部品取り用として保管していたC12 208のものを整備し流用。外装は、日本とタイの修好120周年を記念してタイ国鉄在籍当時の姿(一部車体は緑色でタイ語も書き込まれる)に復元されている。2007年(平成19年)3月末にボイラー交換作業を行い、同年9月4日に報道陣公開のうえ火入れ式を行った。9月中に再び試運転として大井川本線を走行し、10月7日より運用に復帰している。なお、その際に必要とされたATS装置は、同9月8日をもって老朽化のため引退となったC11 312からの移植で取り付けられている(そのため、同機の試運転はC11 312引退後からの開始)。それから3年が経過した2010年(平成22年)、9月に行われる定期検査に合わせて、再び国内仕様に戻すことが決定され[4]、タイ国鉄仕様の同機の活躍は同年9月までの運用となった。2011年(平成23年)1月29日より日本仕様で営業運転に就いている。ただしこの際、前面のナンバープレートのみ形式入りのものに交換しており、2003年までの同機の姿とはやや違った表情を見せている。2012年7月から放送されているテレビドラマ(フジテレビ系列)、「ぼくの夏休み」の第1話の中で使用された。同機は安全のため、ボイラー交換前と同様客車3両までの単独牽引許容範囲となっている。

主要諸元は以下のとおり。

  • 全長:14.325m
  • 全高:3.900m
  • 全幅:2.936m
  • 重量:37.63t 
  • 空重量:34.27t
  • 炭水車重量:27.90t
  • 炭水車空重量:12.90t

C56 160

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2002年に「SL阿波四国三郎号」として運行されたC56 160(徳島駅にて撮影)。現在のところ、これが平成期の徳島県における唯一の蒸気機関車運転となっている

西日本旅客鉄道(JR西日本)梅小路蒸気機関車館動態保存されている。同機はC56形のラストナンバー機として完成。戦前は津山機関区、戦後鹿児島機関区から横浜機関区を経て1964年(昭和39年)に上諏訪機関区と移り、その後は小海線飯山線七尾線で活躍した経歴を持つ。入換用として虎模様のペイントをされて活躍していた時期もある。1972年(昭和47年)に梅小路入りを果たし、他から転属して来た蒸気機関車の搬入に使用されるなどしたが[5]、梅小路蒸気機関車館開館後は特に目立った動きはなかった。1980年(昭和55年)に「北海道100周年記念号」の牽引機として抜擢されて以降は、走れる路線を選ばないとの特性から全国各地での出張運転に供されるようになった。国鉄時代ならびにJR時代初期は全国からの貸出依頼が多く、各地を走行した。JRとなって全国各地で蒸気機関車が復活した現在は、北陸本線米原駅 - 木ノ本駅間の「SL北びわこ号」をメインに、山口線新山口駅 - 津和野駅間の「SLやまぐち号」でC57 1との重連運転など、JR西日本管内にて使用されるほか、JR東日本や四国、樽見鉄道など他社での運転実績がある。四国の路線を中心に、脱線事故のおそれがあるとされているバック運転も数多く行ってきたが、無事故の運転を行っている。現在の同機の汽笛はかつて同機が山口線へ入線される前までに動態保存されていたC58 1のものを使用している。これは近年、同機の汽笛の鳴りが悪くなったために交換されたとのことである。2006年(平成18年)、「梅小路の蒸気機関車群と関連施設」として、準鉄道記念物に指定された。

臨時列車としての運転記録は以下のとおり。

静態保存

ファイル:C56 PICT2206-2.JPG
タイより帰還し靖国神社遊就館で静態保存されているC56 31。2006年5月撮影

引退したC56形は下記の20両が静態保存されている。同機との縁が深かった長野・山梨両県での保存が極めて多い。

関東地方

  • C56 31:東京都千代田区靖国神社遊就館
  • C56 110:埼玉県草加市「氷川中公園」(氷川神社)
  • C56 139:神奈川県横浜市神奈川臨海鉄道横浜本牧駅機関庫内)原則的に非公開だが、2013年5月27日に行われた神奈川臨海鉄道50周年記念イベントでは、後方にディーゼル機関車を連結した上で構内走行を披露した。また、発煙筒と扇風機を使用し、さも煙を吐いているかのような演出もなされた。

中部地方

  • C56 94:長野県大町市「西公園」
  • C56 96:長野県南佐久郡南牧村「歴史民俗資料館」
  • C56 101:長野県佐久市「成知公園」(旧中込学校
  • C56 124:長野県安曇野市「龍門淵公民館」
  • C56 126:山梨県北杜市「小淵沢小学校」
  • C56 129:長野県飯山市「鉄砲町児童公園」
  • C56 144:長野県小諸市小諸城址懐古園」駐車場
  • C56 149:山梨県北杜市清里駅前 - 以前は同市「美しの森たかね荘」で荒廃状態だったが、外観を修繕し2009年7月に移設[8]
  • C56 150:長野県北安曇郡白馬村「倉下スポーツレジャーランド」

近畿地方

ファイル:C56 135.JPG
播磨中央公園のC56 135

中国地方

  • C56 106:広島県府中市「国府児童公園」
  • C56 108:島根県雲南市「運動公園」(青少年体育館)
  • C56 131:島根県松江市「松江市北公園」 2003年に移転

九州地方

  • C56 92:鹿児島県出水市肥薩おれんじ鉄道出水駅西口。同市内の総合運動公園から2008年3月に移設。
  • C56 99:鹿児島県薩摩川内市ダチョウドリームエコランド。以前は霧島市のユースホステル敷地内にあり、ホステルの閉館後は野ざらしで放置された状態になっていたが、日置市のリサイクル業者である丸山喜之助商店が落札して修復し[9]同社が運営する「ダチョウドリームエコランド」に保存展示されている。ただし塗装は現役時代とまったく異なる色に塗り替えられている[10]

保存後解体

  • C56 91:鹿児島県西之表市(1995年解体)
  • C56 123:石川県七尾市「希望の丘公園」(1997年解体)現在は動輪のみが保存されている
  • C56 159:石川県志雄町「志雄町公民館前子供の広場」(1995年解体)

海外保存車両

泰緬鉄道で使用されていたC56形は、戦後は46両ほどがタイ国鉄で使用されていたが、大半が1970 - 80年ごろにかけて廃車された。このうち15号機(タイ国鉄713号機)と17号機(タイ国鉄715号機)が前述のように動態保存されているほか、静態保存されている車両もある。その状況は、次のとおりである。

ミャンマーでは、0522(C56 56)が、1995年にミャンマー政府の観光振興事業の一環として、タンピザヤ(泰緬鉄道のビルマ側起点)鉄道公園に静態保存されている。

脚注

  1. テンダー機関車は、運転台の機器配置や従台車の逆行脱線限界速度が低いなどの理由で逆向き(バック)運転に適さないものが多いため、終端駅転車台による転向が必要であるが、逆向き運転が常用できればこれも不用となる。
  2. 従輪による横方向の復元作用が無いため、力行時の首振り(左右動)が大きくなる。
  3. 第1動輪は千頭駅、第2・第3動輪は大阪の共栄産業(株)。
  4. 大井川鐵道公式ホームページの「C56タイ国鉄仕様(ご乗車・撮影)ラストチャンスについて」より
  5. 鉄道ファン編集部「梅小路蒸気機関車館が開館」p.22 -p.24 鉄道ファンNo.140 (1972年12月)。
  6. 6.0 6.1 テンプレート:Cite journal
  7. テンプレート:Cite press release
  8. 移設時の外観修復により、小海線(中込機関区)で実車が現役で使用されていた当時とは、煙室扉手すりや装飾などが異なっている
  9. 霧島市の放置SL「C56」修復・展示へ搬出47NEWS2010年5月22日
  10. ダチョウドリームエコランド

参考文献

  • 高田隆雄「最小のテンダ機関車C56雑考」鉄道ピクトリアル(再録 : 日本蒸気機関車特集集成(上))
  • 交友社鉄道ファン』1965年4月号(通巻46号)今村潔 国鉄蒸気機関車素描XII C12・C56
  • 山と渓谷社『ヤマケイレイルブックス1 20世紀栄光の蒸気機関車』p.97, 107
  • 塚本和也「遙かなりC56 ポニーの詩情と宿命の行路」2001年、JTB刊、ISBN 4-533-04070-5

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