日本鉄道建設公団
日本鉄道建設公団(にほんてつどうけんせつこうだん、英称 : Japan Railway Construction Public Corporation、英略称:JRCC)は、かつて日本国有鉄道(国鉄)などの鉄道建設事業を行っていた特殊法人である。日本鉄道建設公団法に基づき1964年(昭和39年)3月23日に発足し、2003年(平成15年)9月30日に解散した。公式な略称は鉄道公団(てつどうこうだん)だが、鉄建公団(てっけんこうだん)とも通称される[1]。
概要
国鉄に代わって新線建設を行い、完成した鉄道施設を国鉄に貸し付けまたは譲渡することを目的に1964年(昭和39年)3月23日に国と国鉄の出資で発足した。建設事業は運輸省の鉄道建設審議会の諮問に基づいて運輸大臣が指示する基本計画に従って行うこととされ、工事線62線、調査線3線の計65線が示された。1970年(昭和45年)には整備新幹線、1972年(昭和47年)には東京都、大阪市、名古屋市とその周辺の民営鉄道(民鉄)線建設事業も追加された。
工事線は地方開発線(A線)、地方幹線(B線)、主要幹線(C線)、大都市交通線(D線)、海峡連絡線(青函トンネル、E線)、整備新幹線(G線)、民鉄線(P線)の7つに区分され、完成した路線は公団が国鉄や民鉄の鉄道事業者に貸し付けた。ただし建設路線の大半を占めた地方開発線及び地方幹線(AB線)は計画段階から黒字が見込めないローカル線で、完成後は国鉄に無償貸し付けまたは譲渡されたが、国鉄の経営を圧迫するもととなった。
1979年(昭和54年)、不正経理問題が発覚し、川島広守総裁が引責辞任、後任には仁杉巌前国鉄総裁が就任した[2]。
1980年(昭和55年)、国鉄再建法施行にともなって運輸省は、同法の特定地方交通線基準に準じ、開業後見込まれる輸送密度が1日当たり4,000人未満の路線については、受け皿となる第三セクターなど国鉄以外の運営主体がない限り建設を凍結することを決めた。このため鹿島線のうち鹿島新線として計画された区間(現在の鹿島臨海鉄道大洗鹿島線)および内山線(現在のJR四国予讃線向井原 - 内子間および新谷 - 伊予大洲間)以外の工事中AB線38線区はすべて工事が凍結された。
- 凍結された線区のうち、着工率が50%以上の線区例[3]
- 美幸線、油須原線、樽見線、鷹角線、阪本線、岩日北線、阿佐東線、久慈線、盛線、智頭線、野岩線、呼子線、宿毛線、佐久間線、阿佐西線、井原線、高千穂線、北越北線、宮福線、白糠線、名羽線、興浜線、今福線
1998年(平成10年)に時限立法の期限切れによって解散した日本国有鉄道清算事業団の業務を継承し、公団内に国鉄清算事業本部を設置。償還スキームが破たんした清算事業団の国鉄長期債務は公団には引き継がれずに国の一般会計に組み込まれ、60年間の国民負担で処理されている。
2001年(平成13年)3月現在の職員数は約1800人であった。国の特殊法人改革の一環で2003年(平成15年)9月30日付で解散し、新設の独立行政法人鉄道建設・運輸施設整備支援機構に統合された。
役員組織 | 本社部局 | 支社など |
---|---|---|
総裁 | 審議役 | 盛岡支社 |
副総裁 | 監査室 | 東京支社 |
理事 | 企画室 | 関東支社 |
理事 | 経理部 | 大阪支社 |
用地部 | 札幌工事事務所 | |
計画部 | 北陸新幹線建設局 | |
工務部 | 九州新幹線建設局 | |
設備部 | 名古屋建設局 | |
新幹線部 | ||
リニア実験線建設部 | ||
電気部[* 1] | ||
設計技術室 | ||
民鉄線部 |
発足の背景とAB線建設
東海道新幹線の建設が進められていた1960年代初頭、国鉄は主要幹線や首都圏の輸送増強策にともなう過大な経営・組織上の負担がネックとなって地方の新線整備が進まない事態となった。また国鉄内部の諮問委員会は、国の政策による国鉄自身の負担が、今後の経営に深刻な影響を与える要因の一つになると警告していた。これに対して政府は地方の新線建設を積極的に推進するため、鉄道公団を新設することで国鉄から新線建設事業を切り離した。
公団発足にあたっては当時自由民主党の有力議員で、鉄道による国土開発を積極的に主張していた田中角栄が大きく関与したとされる[4]。特にAB線は政治的意向を反映したいわゆる「我田引鉄」の温床となり、国鉄の累積債務増大の主な原因となった。
1966年(昭和41年)に赤字転落後、悪化しはじめる経営の建て直しに迫られた国鉄は1968年(昭和43年)、慢性的な赤字に陥っている全国83路線(いわゆる「赤字83線」)を廃止する方針を決めたものの、一方で公団が建設する新しい赤字ローカル線を次々と引き受けさせられる事態となった。1970年(昭和45年)に完成したA線の白糠線上茶路 - 釧路二股(のち北進)間のように、開業しても膨大な赤字が避けられないとして国鉄側が路線の引き受けを拒否したにも関わらず、政府が強制的に国鉄に移管させた例や、油須原線のように国鉄が引き受け拒否を貫いて未開業のまま終わったケースもあった。
こうした鉄道公団による国鉄のAB線整備は、国鉄再建法がスタートした1980年(昭和55年)に運輸省が建設凍結を決めたことで事実上終了した。
結局、国鉄が公団から引き受けて開業したAB線25線区のうち、JRに継承され現存する線区は半数以下の12線区にとどまっている。5線区が国鉄分割民営化までに廃止され、7線区が第三セクターに転換されたが、その後転換3線区とJR継承1線区が廃止に追い込まれている。一方、工事途中で凍結された未成線区のうち14線区は、国鉄に代わる受け皿の第三セクターが設立されて工事が再開され、2002年(平成14年)までにすべて建設が終了した。
- 開業したAB線の一覧(国鉄、第三セクター。廃止された線区を含む。現在または廃止時の名称)[5]
- 田沢湖線、能登線、美幸線、白糠線、富内線、漆生線、上山田線、神岡線、篠栗線、気仙沼線、可部線、南リアス線、鹿島線、大洗鹿島線、中村線、秋田内陸線、吾妻線、只見線、岩泉線、北リアス線、高千穂線、大隅線、越美北線、牟岐線、予土線、三江線、予讃線、会津鬼怒川線、阿武隈急行線、宮福線、樽見線、阿佐東線、智頭線、ほくほく線、宿毛線、井原線、阿佐線(ごめん・なはり線)
関連項目
脚注
外部リンク
- ↑ 「鉄建公団訴訟」(西日本新聞 ワードBOX 2005年3月6日)といった用例がある。
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ 『三セク新線高速化の軌跡』pp.6 - 7
- ↑ 田中の「鉄道による開発」の主張は後年の著書『日本列島改造論』(1972年)にもみられる。
- ↑ [1]
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