香取神宮
香取神宮(かとりじんぐう)は、千葉県香取市香取にある神社。式内社(名神大社)、下総国一宮。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
関東地方を中心として全国にある香取神社の総本社。茨城県鹿嶋市の鹿島神宮、茨城県神栖市の息栖神社とともに東国三社の一社[1]。また、宮中の四方拝で遥拝される一社である。
目次
概要
千葉県北東部、利根川下流右岸の「亀甲山(かめがせやま)」と称される丘陵上に鎮座する。
全国でも有数の古社として知られ、古くは朝廷から蝦夷に対する平定神として、また藤原氏から氏神の一社として崇敬された。その神威は中世から武家の世となって以後も続き、歴代の武家政権からは武神として崇敬された。現在も武道分野からの信仰が篤い神社である。
文化財としては、中国・唐代の海獣葡萄鏡(かいじゅうぶどうきょう)が国宝に指定されている。建造物では江戸時代の本殿・楼門、美術工芸品では平安時代の鏡、中世の古瀬戸狛犬が国の重要文化財に指定されており、その他にも多くの文化財を現代に伝えている。
祭神
祭神は次の1柱[注 1]。
- 経津主大神 (ふつぬしのおおかみ)
- 別名を伊波比主神・斎主神(いわいぬしのかみ)、斎之大人(いはひのうし)。
祭神について
上記のように、香取神宮の主祭神はフツヌシ(経津主)として知られる。その出自について、『日本書紀』(720年)では一書として[原 1]、伊弉諾尊が軻遇突智(かぐつち)を斬った際、剣から滴る血が固まってできた岩群がフツヌシの祖であるとしている。また別の一書として[原 1]、軻遇突智の血が岩群を染め磐裂神・根裂神(いわさく・ねさく)が生まれ、その御子の磐筒男神・磐筒女神(いわつつのお・いわつつのめ)がフツヌシを生んだとしている。その後『日本書紀』本文では[原 2]、天孫降臨に先立つ葦原中国平定においてタケミカヅチ(鹿島神宮祭神)とともに出雲へ派遣され、大国主命と国譲りの交渉を行なったという。なお、『古事記』ではフツヌシは登場しない。
フツヌシと香取の関係については、『日本書紀』では一書として[原 2]「斎主神云々、此神今在于東国檝取之地也」とあり、「檝取(楫取、かとり) = 香取」との関係が記されている。その後、『古語拾遺』(大同2年(807年)成立)[原 3]で「経津主神云々、今下総国香取神是也」、『延喜式』(延長5年(927年)完成)所収の春日祭の祝詞[原 4]で「香取坐伊波比主命」と記されている。
祭神の性格としては、フツヌシが国土平定に活躍したという書紀の説話から、「武神・軍神」と見なされている。名称の「フツ」についても、記紀に見える「フツノミタマ(布都御魂、韴霊)」という神剣と同様、刀剣の鋭い様を表した言葉であるといわれるテンプレート:Sfn。軍神の認識を表すものとしては、平安時代末期の「関より東の軍神、鹿島・香取・諏訪の宮」(『梁塵秘抄』)[原 5]という歌が知られるテンプレート:Sfn。一方、「楫取 = かじ(舵)取り」という古名から、古くは「航行を掌る神」として祀られたという見方もあるテンプレート:Sfnテンプレート:Sfn。そのほか、フツヌシとイハヒヌシ(伊波比主・斎主)という異名称の扱いや原始祭祀氏族には不明な点が多く、香取神宮の創祀も含めて諸説がある(詳細は考証節参照)。
特徴
香取神宮は、常陸国一宮・鹿島神宮(茨城県鹿嶋市、[[[:テンプレート:座標URL]]35_58_07.88_N_140_37_53.37_E_region:JP-08_type:landmark&title=%E5%B8%B8%E9%99%B8%E5%9B%BD%E4%B8%80%E5%AE%AE%EF%BC%9A%E9%B9%BF%E5%B3%B6%E7%A5%9E%E5%AE%AE 位置])と古来深い関係にあり、「鹿島・香取」と並び称される一対の存在にあるテンプレート:Sfn[2]。
鹿島・香取両神宮とも、古くより朝廷からの崇敬の深い神社である。その神威の背景には、両宮が軍神として信仰されたことにある[3]。古代の関東東部には、現在の霞ヶ浦(西浦・北浦)・印旛沼・手賀沼を含む一帯に「香取海(かとりのうみ)」という内海が広がっており、両宮はその入り口を扼する地勢学的重要地に鎮座する。この香取海はヤマト政権による蝦夷進出の輸送基地として機能したと見られており[3]、両宮はその拠点とされ、両宮の分霊は朝廷の威を示す神として東北沿岸部の各地で祀られた(香取苗裔神節参照)。
朝廷からの重要視を示すものとしては、次に示すような事例が挙げられる。
- 神郡
- 鹿島・香取両神宮では、それぞれ常陸国鹿島郡・下総国香取郡が神郡、すなわち郡全体を神領とすると定められていたテンプレート:Sfn(『延喜式』[原 6]に見える)。神郡を有した神社の例は少なく、いずれも軍事上・交通上の重要地であったとされるテンプレート:Sfn。
- 鹿島香取使
- 両宮には、毎年朝廷から勅使として鹿島使(かしまづかい)と香取使(かとりづかい)、略して鹿島香取使の派遣があったテンプレート:Sfn。伊勢・近畿を除く地方の神社において、定期的な勅使派遣は両宮のほかは宇佐神宮(6年に1度)にしかなく、毎年の派遣があった鹿島・香取両宮は極めて異例であったテンプレート:Sfn。
- 「神宮」の呼称
また藤原氏からの崇敬も強く、藤原氏の氏社として創建された奈良・春日大社では、鹿島神が第一殿、香取神が第二殿に祀られ、藤原氏の祖神たる天児屋根命(第三殿)よりも上位に位置づけられた。中世に武家の世に入ってからも、武神を祀る両宮は武家から信仰された。現代でも武術方面から信仰は強く、道場には「鹿島大明神」「香取大明神」と書かれた2軸の掛軸が対で掲げられることが多い。
歴史
創建
社伝では、初代神武天皇18年の創建と伝える。黎明期に関しては明らかでないが、古くは『常陸国風土記』(8世紀初頭成立)[原 7]にすでに「香取神子之社」として分祠の記載が見え、それ以前の鎮座は確実とされる[4]。
また、古代に香取神宮は鹿島神宮とともに大和朝廷による東国支配の拠点として機能したとされるため[4]、朝廷が拠点として両社を祀ったのが創祀と見る説がある[4]テンプレート:Sfn。これに対して、その前から原形となる祭祀が存在したとする説もある(考証節参照)。
概史
奈良時代、香取社は藤原氏から氏神として鹿島社とともに強く崇敬された。神護景雲2年(768年)には奈良御蓋山の地に藤原氏の氏社として春日社(現 春日大社)が創建されたといい[注 3]、鹿島から武甕槌命(第一殿)、香取から経津主命(第二殿)、枚岡から天児屋根命(第三殿)と比売神(第四殿)が勧請された[5]。その後も藤原氏との関係は深く、宝亀8年(777年)[原 8]藤原良継の病の際には「氏神」として正四位上の神階に叙されている。
平安時代以降の神階としては、承和3年(836年)[原 9]に正二位、承和6年(839年)[原 10]に従一位への昇叙の記事があり、元慶6年(882年)[原 11]には正一位勲一等と見える。
延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳には下総国香取郡に「香取神宮 名神大 月次新嘗」と記載されて式内社(名神大社)に列しており、月次祭・新嘗祭では幣帛に預かっていた。なお、同帳で当時「神宮」の称号で記されたのは、伊勢神宮・鹿島神宮と当宮の三社のみであった。また下総国では一宮に位置づけられ、下総国内からも崇敬されたという[注 4]。
中世、武家の世となってからも武神として神威は維持されており、源頼朝、足利尊氏の寄進に見られるように武将からも信仰されたテンプレート:Sfn。一方で、千葉氏を始めとする武家による神領侵犯も度々行われていたテンプレート:Sfn。また、この時期には常陸・下総両国の海夫(漁業従事者)・関を支配し、香取海を掌握して多くの収入を得ていたテンプレート:Sfn。
千葉氏の滅亡後、代わって関東に入った徳川家康の下、天正19年(1591年)に1,000石が朱印地として与えられたテンプレート:Sfn。その後開かれた江戸幕府からも崇敬を受け、慶長12年(1607年)に大造営、元禄13年(1700年)に再度造営が行われたテンプレート:Sfn。現在の本殿・楼門・旧拝殿(現・祈祷殿)は、この元禄期の造営によるものであるテンプレート:Sfn。
明治4年(1871年)5月14日、近代社格制度において官幣大社に列しテンプレート:Sfn、昭和17年(1942年)勅祭社に定められた。戦後は神社本庁の別表神社に列している。
神階
年 | 鹿島神 | 香取神 |
---|---|---|
777年 | 正三位 | 正四位上 |
782年 | 勲五等 | -- |
836年 | 従二位勲一等 →正二位勲一等 |
従三位 →正二位 |
839年 | 従一位勲一等 | 従一位 |
850年 | 正一位? (正一位勲一等?) |
正一位? |
882年 | -- | 正一位勲一等 |
神職
職制
神宮の職制について、延長5年(927年)成立の『延喜式』[原 13][原 14][原 15]では、宮司1人、禰宜1人、物忌2人のほか楽人6人、舞妓8人を記し、宮司は従八位に准じるとしているテンプレート:Sfnテンプレート:Sfn。
平安時代末期から中世にかけて見える神官は、大禰宜、大宮司、副祝、物申祝、行事禰宜、国行事、権禰宜、田所、案主、分飯司、大祝、検非違使使、宮介、録司代、惣検校、権之介、正検非違使、高倉目代など百数十以上に上っているテンプレート:Sfn。
明治以前の神宮祭祀の中心神官は、両社務(大宮司・大禰宜)、六官(宮之介・権禰宜・物申祝・国行事・大祝・副祝)のほか、惣検校・権之介・行事禰宜・録司代・田所・案主・高倉目代・正検非違使・権検非違使・分飯司などであったテンプレート:Sfn。
祭祀氏族
神宮の祭祀氏族は、古くは香取連(かとりのむらじ、香取氏)一族であったといわれるテンプレート:Sfn。「香取大宮司系図」[7]によれば、フツヌシ(経津主)の子にその始祖・苗益命(なえますのみこと、天苗加命)があり、敏達天皇年間(572年?-585年?)に子孫の豊佐登が「香取連」を称し、文武天皇年間(697年-707年)から香取社を奉斎し始めたというテンプレート:Sfn。
このように香取氏はフツヌシの神裔を称する一族であったがテンプレート:Sfn、その後同系図によれば、大中臣氏から大中臣清暢が香取連五百島の養子に入って香取大宮司を、清暢の子・秋雄が香取大禰宜を担ったというテンプレート:Sfn。以後、平安時代末期までは大宮司・大禰宜とも大中臣氏が独占したテンプレート:Sfn。ただし香取神宮は藤原氏の氏神であったため、その補任は中央の藤原氏に管掌されていたテンプレート:Sfn。
関係略系図
- 系図は左から右。実線は実子、点線は養子を表す。
テンプレート:Familytree/start テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree/end
康治元年(1142年)に鹿島神宮大宮司・中臣氏一族から香取神宮大宮司への任命があって以降は、香取大中臣氏と鹿島中臣氏とが香取の大宮司職を巡って対立を見せたテンプレート:Sfn。両氏は鎌倉幕府や摂関家に働きかけて抗争し、最終的に寛喜年間(1229年-1232年)頃に大中臣氏側が勝利したテンプレート:Sfn。
この頃から藤原氏の影響も薄れ、大中臣氏一族の内部で大宮司・大禰宜職や社領を巡っての抗争が展開されたテンプレート:Sfn。この抗争も応安7年(1374年)頃に終息に至り、鎌倉末期・室町期は大禰宜家が主導権を握って安定化したテンプレート:Sfn。その後、近世には江戸幕府の統制下に入ったが、抗争は繰り返されていたことが散見されるテンプレート:Sfn。
社領
『延喜式』[原 6]によれば、神宮の鎮座する下総国香取郡は神郡、すなわち郡全体が神宮の神領に指定されていた。『常陸国風土記』[原 16]には、鹿島神宮の鎮座する常陸国鹿島郡(香島郡)が大化5年(649年)に神郡として建郡されたとあり、香取郡も同様に建郡されたものと推測されているテンプレート:Sfnテンプレート:Sfn。
大同元年(806年)[原 17]には神宮の封戸は70戸であったテンプレート:Sfn。11世紀には藤原氏からの封戸寄進の記事も見えるテンプレート:Sfn。
中世には、神官同士の争いや千葉氏に代表される武家からの神領侵犯があり、訴訟も頻繁に行われたテンプレート:Sfn。また、中世に始まる特殊収入として「海夫(かいふ)」、すなわち香取海の漁業従事者からの供祭料があった。
千葉氏の滅亡後、代わって関東に入った徳川家康の下で天正19年(1591年)に検地が行われたテンプレート:Sfn。その結果社領は大幅に削減され、同年に1,000石が朱印地として与えられたテンプレート:Sfn。元禄期の史料では、神宮領900石、大戸社領100石、神宮寺領20石であったというテンプレート:Sfn。
社殿造営
『日本後紀』[原 18]『日本三代実録』[原 11]『延喜式』[原 19]によれば、弘仁3年(812年)以前から、香取神宮には20年に1度の式年造営(式年遷宮)が定められていた。
平安時代末期からの造替年次は、保延3年(1137年)、久寿2年(1155年)、治承元年(1177年)、建久4年(1193年:大風のため)、建久8年(1197年)、承久元年(1219年:戦乱のため嘉禄3年(1227年)に延期)、宝治3年(1249年)、文永8年(1271年)、正応5年(1292年)、元徳2年(1330年)、貞治年間(1362年-1367年)頃、至徳2年(1385年)頃、応永5年(1398年)、永享2年(1430年)、享禄2年(1529年)頃、元亀3年(1572年)に確認されるテンプレート:Sfn。このほか、正和5年(1316年)、応永31年(1424年)、文明15年(1483年)、明応元年(1492年)にも造営があったとする史料もあるテンプレート:Sfn。このように鎌倉時代にはほぼ20年に1度の造替が守られているが、南北朝時代以降はそれが困難となっていった様子がわかり、その時期は史料もあまり残っていないテンプレート:Sfn。
江戸時代には、幕府によって慶長12年(1607年)に大造営が行われたテンプレート:Sfn。元禄13年(1700年)に再度造営が行われ、この時の本殿始め主要社殿が現在に伝わっているテンプレート:Sfn。
なお現在の本殿の形式は、「アサメ殿(あさめどの)[注 5]」の形式を伝えるものとされる[8]テンプレート:Sfn。アサメ殿とは神宮にかつて存在した社殿で、普段は磐裂神・根裂神(経津主神の祖父母神)を祀る末社で、正神殿(本殿)の式年遷宮の際にその仮殿(かりどの:神体を仮安置する社殿)として使用されていたテンプレート:Sfn。その間には、磐裂神・根裂神の安置のために仮アサメ殿も設定されたというテンプレート:Sfn。正神殿は鎌倉時代の元徳2年(1330年)造営のものを最後として造られなくなったと見られており、以後の本殿はこのアサメ殿の形式を継承したと考えられているテンプレート:Sfn。鎌倉時代における正神殿に関しては、古文書から「桁行五間・梁間二間の切妻造平入の身舎で背面一間通りに庇を有する建物」と推定されており、式年造替の存在から、この形式は平安時代前期に遡るものであろうと推測されているテンプレート:Sfn。
境内
神宮の鎮座する丘は、中央が低く周囲が高いという形状から「亀甲山(かめがせやま)」と称されているテンプレート:Sfn。
神宮境内は神域とされ手付かずの自然が残されているため、多数のスギの巨木や、イヌマキ・モミ・クロマツの大木が生育している[8]。高木層のみでなく亜高木層・低木層・林床にも多数の草木が生育しており、スギの老令林としては県内でも有数なものであるとして、県の天然記念物に指定されている[8]。
社殿
現在の主な社殿は、江戸時代の元禄13年(1700年)、江戸幕府5代将軍・徳川綱吉の命により造営されたものである。この時に本殿・拝殿・楼門が整えられたが、うち拝殿は昭和11年(1936年)から昭和15年(1940年)の大修築に伴って改築がなされ、現在は祈祷殿として使用されている。この昭和の大修築では、幣殿・神饌所も造営された。主要社殿の形式は、大修築前後とも本殿・幣殿・拝殿が連なった権現造である。上記のうち本殿・楼門は国の重要文化財に、旧拝殿(祈祷殿)は県の文化財に指定されており、現拝殿は国の登録有形文化財に登録されている。
本殿は、元禄13年(1700年)の造営。三間社流造、檜皮葺で、南面している。この形式の社殿としては最大級の規模である[8]。前面の庇(ひさし)部分を室内に取り込んでおり、背面にも短い庇を有している[8]。重要文化財指定時の名称では「流造」と記されているが、背面に庇を有することから両流造の一種とする見方もあるテンプレート:Sfn。壁や柱は黒漆塗で、黒を基調とした特徴的な外観である。屋根は現在檜皮葺であるが、かつては柿葺であったとされる[8]。様式は近世前期を象徴するもので、桃山様式が各部に見られる一方、慶長期の手法も取り入れられている[8]。昭和の大修築に際しては、本殿にも大規模な修繕が行われたテンプレート:Sfn。この本殿に関しては、かつて神宮に存在した「アサメ殿(あさめどの)[注 5]」という社殿を継承すると見られているほか(詳細は社殿造営節参照)、通常の両流造では本殿内の神座が身舎(大梁の架かる建築構造上の主体部)に設けられるのに対して、背面庇(身舎の周囲に取り付く部分)にあるという異例の形式が指摘されるテンプレート:Sfn(下図参照)。
拝殿・幣殿・神饌所は、昭和の大修築による造営。木造平屋建てで、檜皮葺である[9]。本殿正面から幣殿・拝殿と接続し、権現造の形式をとっている[8]。また、拝殿正面には千鳥破風が設けられている[8]。それまでの拝殿(旧拝殿)は丹塗であったが、この造営において軸部には黒漆塗、組物・蟇股には極彩色が施され、本殿に釣り合った体裁に改められた[8]。
楼門は、元禄13年(1700年)の造営。三間一戸で、入母屋造。屋根は現在銅板葺であるが、当初は栩葺(とちぶき)であった[10]。純和様の様式であり、壁や柱は丹塗である。楼門内にある随身像は俗に「左大臣・右大臣」と称されるが、正面向かって右像は武内宿禰、左像は藤原鎌足と伝えられている[10]。また、楼上の額は東郷平八郎の筆である[10]。この楼門は、神宮のシンボル的な建物に位置づけられている[10]。
祈祷殿(旧拝殿)は、元禄13年(1700年)の造営。拝殿として造営・使用されていたが、昭和の大修築に伴って南東に移築され、昭和59年(1984年)にさらに西へ1.5メートルほど移動された[8]。間口五間、奥行三間で、入母屋造である[8]。屋根は現在銅板葺であるが、当初は栩葺(とちぶき)で昭和40年(1965年)に改められた[8]。壁や柱は丹塗である。拝殿としては比較的大規模なもので、彫刻等の随所に造営時の様式が示されている[8]。
上記のほか、神庫は明治42年(1909年)の造営で、木造の校倉造(市指定文化財)テンプレート:Sfn。神徳館は昭和36年(1961年)の造営で、旧大宮司邸跡に立つテンプレート:Sfn。その門(勅使門)は旧大宮司邸の表門の転用で、天明元年(1781年)の造営、茅葺(市指定文化財)テンプレート:Sfn。また、北東に立つ香雲閣(かうんかく)は、明治29年(1896年)の造営(国の登録有形文化財)テンプレート:Sfn。
- 香取神宮 本殿内陣.png
本殿平面図
- Katori-jingu haiden.JPG
拝殿(国の登録有形文化財)
- Katori-jingu shinko.JPG
神庫(市指定文化財)
- Katori-jingu shinmon.JPG
総門
- Shintokukan omotemon (Katori-jingu).JPG
神徳館表門(市指定文化財)
要石
要石(かなめいし)は、境内西方に位置する霊石。形状は凸型。
かつて、地震は地中に棲む大鯰(おおなまず)が起こすものと考えられていた。要石はその大鯰を押さえつける地震からの守り神として現在にも伝わっている。鹿島・香取の要石は大鯰の頭と尾を抑える杭と言われ、見た目は小さいが地中部分は大きく決して抜くことはできないと言い伝えられている。貞享元年(1684年)に徳川光圀が神宮を参拝した際、要石の周りを掘らせたが根元には届かなかったというテンプレート:Sfn。なお、鹿島神宮には凹型の要石があり、同様の説話が伝えられる。
- Kaname-ishi-stone,katori-jingu,katori-city.japan.JPG
要石の形状
その他
- 御神木 - 拝殿前に立つ大杉で、樹齢は1,000年といわれるテンプレート:Sfn。
- 斥候杉 (ものみのすぎ) - 源頼義が斥候に登らせたという杉(非現存)テンプレート:Sfn。
- 三本杉 - 源頼義の祈願により三又に分かれたという杉(一本は枯死)テンプレート:Sfn。
- 木母杉 - 楼門左に立つ。徳川光圀が貞享元年(1684年)に参拝した時に、境内に立つ多数の杉の母であろうとして名付けられた(現在は枯死)テンプレート:Sfn。
- 黄門桜 - 徳川光圀が貞享元年(1684年)に参拝した時の手植えと伝えられる桜(現在はそのひこばえが成長したもの)テンプレート:Sfn。
- 大正天皇手植松 - 大正天皇が明治44年(1911年)5月21日に参拝した時の手植えの松テンプレート:Sfn。
- 常陸宮手植松 - 常陸宮正仁親王が昭和41年(1966年)4月7日に参拝した時の手植えの松テンプレート:Sfn。
- 海上自衛隊練習艦かとりの錨
- 神池
- 桜馬場(鹿苑)
- 雨乞塚 - 奥宮付近。天平4年(732年)の旱魃の際、壇を設けて雨乞いを行なった跡というテンプレート:Sfn。
参道
神宮へは参道が2つあり、それぞれに鳥居が設けられている。
表参道は旧佐原市中心部から続く参道で、現在の県道55号にあたる。県道56号との交差点近くに一の鳥居が立っている([[[:テンプレート:座標URL]]35_53_15.71_N_140_30_41.09_E_region:JP-12_type:landmark&title=%E4%B8%80%E3%81%AE%E9%B3%A5%E5%B1%85 位置])。一の鳥居から二の鳥居までは道なりに約1.6km。
もう一つの参道は香取市津宮に始まる。この参道の起点は利根川岸で、川に向かって浜鳥居が立っている([[[:テンプレート:座標URL]]35_54_05.82_N_140_31_34.12_E_region:JP-12_type:landmark&title=%E6%B4%A5%E5%AE%AE%E6%B5%9C%E9%B3%A5%E5%B1%85 位置])。鳥居は祭神がここから上陸したことに由来すると伝えられ、この鳥居からの道がかつての表参道であったテンプレート:Sfn。『小右記』治安3年(1023年)の条[原 20]によれば、鹿島使(朝廷からの奉幣使)が鹿島神宮を出て「渡海参香取宮」とあり、香取神宮へは海を渡っての奉幣が定例であったとされるテンプレート:Sfn。現在も式年神幸祭では、ここから神輿をのせた御座船が出発するテンプレート:Sfn。また鳥居の近くには、往時の舟運繁栄の名残である常夜燈(市指定文化財)や[11]、与謝野晶子歌碑がある。二の鳥居までは道なりに約2.5km。途中には境外摂末社の忍男神社、膽男神社、沖宮が鎮座する。
また参道の終点の神宮側では、現在は二の鳥居から楼門へと参道が続くが、古くは楼門前を直角に曲がり西の奥宮前へと続く道が表参道であった[4]。
- Katori-jingu ichinotorii.JPG
一の鳥居(表参道)
- Katori-jingu tsunomiya-torii.JPG
津宮浜鳥居(利根川河岸)
- Joyatou (Tsunomiya, Katori).JPG
津宮河岸の常夜燈(市指定文化財)
摂末社
摂末社は、摂社9社(境内3社、境外6社)・末社21社(境内7社、境外14社)の計30社[12]。
摂社
テンプレート:座標一覧 摂社は、明治10年(1877年)3月21日に内務省の通達によって公式に定められたテンプレート:Sfn。
- 鹿島新宮社
- 「かしましんぐうしゃ」。本殿の向かって右後方に鎮座する境内社([[[:テンプレート:座標URL]]35_53_11.71_N_140_31_44.49_E_region:JP-12_type:landmark&title=%E5%A2%83%E5%86%85%E6%91%82%E7%A4%BE%EF%BC%9A%E9%B9%BF%E5%B3%B6%E6%96%B0%E5%AE%AE%E7%A4%BE 位置])。武甕槌神は、鹿島神宮の祭神。
- 匝瑳神社
- 「そうさじんじゃ」。本殿の向かって左方に鎮座する境内社([[[:テンプレート:座標URL]]35_53_10.57_N_140_31_42.12_E_region:JP-12_type:landmark&title=%E5%A2%83%E5%86%85%E6%91%82%E7%A4%BE%EF%BC%9A%E5%8C%9D%E7%91%B3%E7%A5%9E%E7%A4%BE 位置])。祭神2柱は、経津主神の父母神。
- 側高神社
- 鎮座地:香取市大倉([[[:テンプレート:座標URL]]35_53_42.38_N_140_33_13.08_E_region:JP-12_type:landmark&title=%E5%A2%83%E5%A4%96%E6%91%82%E7%A4%BE%EF%BC%9A%E5%81%B4%E9%AB%98%E7%A5%9E%E7%A4%BE%EF%BC%88%E7%AC%AC%E4%B8%80%E6%91%82%E7%A4%BE%EF%BC%89 位置])
- 祭神:不詳
- 例祭:12月7日
- 「そばたかじんじゃ」。旧郷社。古来「第一摂社」と称される関係の深い神社であり、本宮同様に神武天皇18年の創建と伝えるテンプレート:Sfn[13]。祭神は古来神秘とされており、今なお明らかではないテンプレート:Sfn。当社には、香取神の命で側高神が陸奥神から馬を奪って馬牧をなしたという伝承が残り、蝦夷征討との関係性や香取神宮の役割が指摘される[14]。本殿は江戸時代初期の造営で県の文化財に、ひげなで祭は市の無形民俗文化財に指定されている。
- 奥宮
- 「おくのおみや」。境内西方に鎮座する。社殿は昭和48年(1973年)の伊勢神宮遷宮の際の古材を使用しているテンプレート:Sfn。
- 又見神社
- 「またみじんじゃ」。祭神の天苗加命は経津主神の御子神で、香取氏の祖神とされる。そのため「若御子神社」ともいうテンプレート:Sfn。武沼井命は鹿島神の御子神、天押雲命は天児屋根命の御子神。本殿右横には古墳の石室が露出して残っており、「又見古墳」として市の史跡に指定されている。
- 忍男神社
- 鎮座地:香取市津宮([[[:テンプレート:座標URL]]35_53_54.33_N_140_31_36.81_E_region:JP-12_type:landmark&title=%E5%A2%83%E5%A4%96%E6%91%82%E7%A4%BE%EF%BC%9A%E5%BF%8D%E7%94%B7%E7%A5%9E%E7%A4%BE 位置])
- 祭神:伊邪那岐命(いざなぎのみこと)
- 「おしおじんじゃ」。「東の宮」ともテンプレート:Sfn。膽男神社の東方傍に鎮座する。古くはここで夏越の祓を行なったというテンプレート:Sfn。当社では明治17年(1884年)まで、「白状祭」として陸奥で捕らえた馬の素性を白状に記すという祭が行われていたといい、側高神社の伝承同様、蝦夷追討との関係が示唆される[14]。
- 膽男神社
- 鎮座地:香取市津宮([[[:テンプレート:座標URL]]35_53_52.95_N_140_31_30.78_E_region:JP-12_type:landmark&title=%E5%A2%83%E5%A4%96%E6%91%82%E7%A4%BE%EF%BC%9A%E8%86%BD%E7%94%B7%E7%A5%9E%E7%A4%BE 位置])
- 祭神:大名持命(おおなむちのみこと)
- 「まもりおじんじゃ」。「西の宮」ともテンプレート:Sfn。忍男神社の西方傍に鎮座する。
- 返田神社
- 「かやだじんじゃ」。旧村社。本宮同様に神武天皇18年の創建と伝えるほか[16]、鎌倉時代の古文書には「返田悪王子社」の名が見える[17]。境内には諸国一宮を祀った石祠が並ぶ[17]。本殿は江戸時代の造営で県の文化財に指定されている。
- Okumiya (Katori-jingu).JPG
奥宮
- Matami-jinja (Katori-jingu).JPG
又見神社
右に又見古墳石室(市指定史跡)。 - Oshio-jinja (Katori-jingu).JPG
忍男神社
- Mamorio-jinja (Katori-jingu).JPG
膽男神社
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- Kayada-jinja (Katori) haiden.JPG
返田神社
末社
テンプレート:座標一覧 境内社
- 天降神社 (あまくだりじんじゃ) - 祭神:伊伎志爾保神、鑰守神。市神社に合祀。
- 諏訪神社 (すわじんじゃ) - 祭神:建御名方神。例祭:4月12日。
- 六所神社 (ろくしょじんじゃ) - 祭神:須佐之男命、大国主命、岐神、雷神二座。例祭:9月11日。
- 花薗神社 (はなぞのじんじゃ) - 祭神:靇神。六所神社に合祀。
- 馬場殿神社 (ばばどのじんじゃ) - 祭神:建速須佐之命。例祭:8月1日。
- 櫻大刀自神社 (さくらおおとじじんじゃ) - 祭神:木花咲耶姫命。例祭:11月4日。
- 市神社 (いちがみしゃ) - 祭神:事代主神。例祭:8月16日。
境外社
- 押手神社 (おしてじんじゃ、香取市香取、[[[:テンプレート:座標URL]]35_53_04.86_N_140_31_39.16_E_region:JP-12_type:landmark&title=%E5%A2%83%E5%A4%96%E6%9C%AB%E7%A4%BE%EF%BC%9A%E6%8A%BC%E6%89%8B%E7%A5%9E%E7%A4%BE 位置]) - 祭神:宇迦之御魂神。例祭:2月4日。
- 姥山神社 (うばやまじんじゃ、香取市香取、[[[:テンプレート:座標URL]]35_53_01.06_N_140_31_50.11_E_region:JP-12_type:landmark&title=%E5%A2%83%E5%A4%96%E6%9C%AB%E7%A4%BE%EF%BC%9A%E5%A7%A5%E5%B1%B1%E7%A5%9E%E7%A4%BE 位置]) - 祭神:一言主命。例祭:2月20日前後の日曜。
- 佐山神社 (さやまじんじゃ、香取市香取、[[[:テンプレート:座標URL]]35_53_06.42_N_140_31_47.75_E_region:JP-12_type:landmark&title=%E5%A2%83%E5%A4%96%E6%9C%AB%E7%A4%BE%EF%BC%9A%E4%BD%90%E5%B1%B1%E7%A5%9E%E7%A4%BE 位置])- 祭神:田心姫神。例祭:2月23日。
- 狐坐山神社 (こざやまじんじゃ、香取市香取、[[[:テンプレート:座標URL]]35_53_05.90_N_140_31_51.86_E_region:JP-12_type:landmark&title=%E5%A2%83%E5%A4%96%E6%9C%AB%E7%A4%BE%EF%BC%9A%E7%8B%90%E5%9D%90%E5%B1%B1%E7%A5%9E%E7%A4%BE 位置]) - 祭神:命婦神。例祭:1月12日。
- 王子神社 (おうじじんじゃ、香取市香取、[[[:テンプレート:座標URL]]35_52_55.06_N_140_31_34.47_E_region:JP-12_type:landmark&title=%E5%A2%83%E5%A4%96%E6%9C%AB%E7%A4%BE%EF%BC%9A%E7%8E%8B%E5%AD%90%E7%A5%9E%E7%A4%BE 位置]) - 祭神:経津主神の御子神。例祭:9月11日。
- 沖宮 (おきのみや、香取市津宮、[[[:テンプレート:座標URL]]35_53_55.72_N_140_31_37.12_E_region:JP-12_type:landmark&title=%E5%A2%83%E5%A4%96%E6%9C%AB%E7%A4%BE%EF%BC%9A%E6%B2%96%E5%AE%AE 位置]) - 祭神:綿津見命。
- 龍田神社 (たつたじんじゃ) - 祭神:級津彦神、級津姫神、倉稲魂神。
- 璽神社 (おしでじんじゃ、香取市香取) - 例祭:1月4日。
- 裂々神社 (さくさくじんじゃ、香取市香取) - 祭神:磐裂神、根裂神。
- 祭神2柱は磐筒男神・磐筒女神(経津主神の親神)の親神とされる。
- 日神社 (香取市香取) - 祭神:天照大御神。
- 月神社 (香取市香取) - 祭神:月豫見命。
- 大山祇神社 (おおやまづみじんじゃ、香取市香取) - 祭神:大山祇命。例祭:1月8日。
- 三島神社 (みしまじんじゃ、香取市香取、[[[:テンプレート:座標URL]]35_53_10.65_N_140_31_20.64_E_region:JP-12_type:landmark&title=%E5%A2%83%E5%A4%96%E6%9C%AB%E7%A4%BE%EF%BC%9A%E4%B8%89%E5%B3%B6%E7%A5%9E%E7%A4%BE 位置]) - 祭神:香取連三島命。例祭:12月18日。又見神社境内に鎮座。
- 護国神社 (ごこくじんじゃ、香取市香取、[[[:テンプレート:座標URL]]35_53_03.93_N_140_31_39.55_E_region:JP-12_type:landmark&title=%E5%A2%83%E5%A4%96%E6%9C%AB%E7%A4%BE%EF%BC%9A%E8%AD%B7%E5%9B%BD%E7%A5%9E%E7%A4%BE 位置]) - 例祭:春の彼岸・秋の彼岸。
- 昭和21年9月創建。明治以降の国難で殉じた香取郡出身者を祀る。
- Ichigami-sha & Amakudari-jinja, Babadono-jinja (Katori-jingu).JPG
天降神社・市神社(左)、馬場殿神社(右)
- Suwa-jinja (Katori-jingu).JPG
諏訪神社
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櫻大刀自神社
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押手神社
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沖宮
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三島神社
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護国神社
元摂末社
次の5社は、現在は神宮と摂末社の関係にないが、古文書にその旨が見えるテンプレート:Sfn。
祭事
式年祭
式年大祭として、式年神幸祭(しきねんじんこうさい)が12年に1度の午年に行われる。境内前までの神幸祭は毎年4月15日に行われているが、式年大祭では4月15日・16日の両日に大規模に行われる。古くは「軍神祭」「軍陣祭」とも称されたテンプレート:Sfn。
この祭は、経津主神による東国平定の様子を模したものといわれるテンプレート:Sfn。元は「式年遷宮大祭」の名で、20年に1度の式年造営に伴って行われたというテンプレート:Sfn。しかしながら式年造営と同じく応仁の乱の頃に衰え、永禄11年(1568年)を最後として明治まで絶えていたテンプレート:Sfn。その後、明治8年(1875年)に復興され毎年執行されていたが、明治15年(1882年)以降は午年毎の執行と定められ、現在に至っているテンプレート:Sfn。
祭事の流れは次の通りテンプレート:Sfn。
- 15日:神輿を中心とした神幸列が神宮を発し津宮に到着。利根川岸で神輿は御座船に移され、船上祭を催行。次いで鹿島神宮による御迎祭。利根川を遡って佐原河口に上陸したのち、御旅所で一宿。
- 16日:神幸列が市内を巡り、神宮へ陸路を還御。
年間祭事
- 御田植祭
- 「おたうえさい」。4月第1土曜・日曜に行われる。1日目は耕田式、2日目には田植式が行われ、いずれも大祭。神宮の斎田で田植を行い、五穀豊穣を祈願する祭。史料では明徳2年(1391年)には既に見えテンプレート:Sfn、祭は「日本三大御田植祭」にも数えられている[注 6][18]。詳しくは「香取神宮御田植祭」参照。
- 例祭・神幸祭
- 4月14日・15日に行われる。いずれも大祭。例祭は、神宮における祭の中でも最も重要な祭。神宮は勅祭社の1つであるため、6年に1度(子年・午年)には勅使の参向を受けるテンプレート:Sfn。例祭の翌日には神幸祭が執行され、平安時代さながらの衣装を着た神幸列が進み、駐車場で御駐輦祭が行われる[18]。
- 大饗祭
- 「だいきょうさい」。1月30日に行われる。中祭。経津主神・武甕槌神が国土を平定した際に神々を労ったことに基づくという祭テンプレート:Sfn。日没後に行われ、数々の珍しい神饌(供え物)が神前に献ぜられる[19]。
- 団碁祭
- 「だんきさい」。12月7日に行われる。中祭。「八石八斗団子祭」ともいわれる、新穀で作った団子を奉納する豊穣感謝の祭。輪団子80余りが神前に献じられる。神酒の奉納がないため、特に大饗祭の接待にあたった比売神を慰労するための祭ともいわれるテンプレート:Sfn[20]。祭典後、団子は参拝者に配られる。
- Bean scattering,mamemaki,katori jingu shrine,katori-city,japan.jpg
節分祭での豆まき
- Rice-transplanting Festival in Katori-jingu 2,katori-city,japan.JPG
御田植祭での斎田までの行列
- Ooharae-chinowa,katori-jingu,katori-city,japan.JPG
大祓の茅の輪
- Niiname-sai,traditional Japanese dance,katori-jingu-shrine,katori-city,japan.JPG
新嘗祭・悠久の舞
- Festival-japanese dumpling made from rice flour,danki-sai,katori jingu shrine,katori-city,japan.JPG
団碁祭の神饌
文化財
(香取神宮に関する文化財のうち、独立境外摂社は除いて記載)
国宝
- 海獣葡萄鏡 1面(工芸品)
重要文化財(国指定)
- 本殿(附 棟札1枚、銘札1枚、海老錠3箇)・楼門(計2棟)(建造物)
- 本殿は昭和52年6月27日指定、昭和58年12月26日に楼門を追加指定。
- 古瀬戸黄釉狛犬 1対(工芸品)
- 阿吽一対の古瀬戸の狛犬。陶製。阿形(あぎょう)像の高さは17.6cm、吽形(うんぎょう)像は17.9cm[8]。技法・作風から、鎌倉時代後期または室町時代初期の作と見られている[8]。宝物館内に展示。昭和28年3月31日指定。
- 阿形像は昭和51年7月1日発売の250円普通切手の意匠になった。
- 双竜鏡 1面(工芸品)
- 香取大禰宜家文書 15巻7冊(381通)(古文書)
登録有形文化財(国登録)
- 香雲閣(建造物) - 平成12年2月15日登録。
- 拝殿・幣殿・神饌所(以上1棟)(建造物) - 平成13年4月24日登録。
千葉県指定有形文化財
- 旧拝殿 1棟(附 棟札4枚)(建造物) - 平成19年3月16日指定。
- 古神宝類(工芸品)
- 神宮に伝わる神宝が一括して指定されている。内訳は、奈良時代から江戸時代までの銅鏡39面、「神代盾(しんたいたて)」とも称される盾形鉄製品2面、鉄釜1口、金銅扇子形御正体2面、金銅扇6柄、銅製供器(椀形)9口、鉄製供器(脚付円盤)10脚、太刀(銘利恒)1口、行器(元和4年在銘)1口、手筥3合、櫛108枚、木造獅子口面等3面、木製神号額(伝亀山上皇宸筆)1面、香取古文書5巻等[8]。宝物館内に展示。昭和35年2月23日指定。
千葉県指定天然記念物
- 香取神宮の森 - 昭和49年3月19日指定。
香取市指定有形文化財
- 神庫 - 平成6年3月1日指定。
- 神徳館表門 - 平成7年6月1日指定。
その他
- 美しい日本の歩きたくなるみち500選「佐原の町なみと香取神宮へのみち」
- ちば遺産100選「香取神宮の神幸祭とおらんだ楽隊」、「香取神宮の本殿と楼門」、「香取神宮の海獣葡萄鏡」、「香取神宮の森」
- 房総の魅力500選「香取神宮」
関係事項
香取苗裔神
香取神宮は東国開拓の拠点であったことから、その苗裔神(びょうえいしん)すなわち御子神(みこがみ)が各地に形成された。『常陸国風土記』[原 7]にはすでに、行方郡に分祠の記載が見える。
『延喜式』神名帳では、陸奥国に「香取」を冠する神社として次の2社が記載される。
- 牡鹿郡 香取伊豆乃御子神社
- 比定論社:香取伊豆御子神社(宮城県石巻市、[[[:テンプレート:座標URL]]38_24_03.73_N_141_24_08.22_E_region:JP-04_type:landmark&title=%E8%8B%97%E8%A3%94%E7%A5%9E%EF%BC%9A%E9%A6%99%E5%8F%96%E4%BC%8A%E8%B1%86%E4%B9%83%E5%BE%A1%E5%AD%90%E7%A5%9E%E7%A4%BE%EF%BC%88%E8%AB%96%E7%A4%BE%E3%81%AE%E9%A6%99%E5%8F%96%E4%BC%8A%E8%B1%86%E5%BE%A1%E5%AD%90%E7%A5%9E%E7%A4%BE%EF%BC%89 位置])
- 比定論社:和渕神社(宮城県石巻市、[[[:テンプレート:座標URL]]38_31_49.02_N_141_13_15.97_E_region:JP-04_type:landmark&title=%E8%8B%97%E8%A3%94%E7%A5%9E%EF%BC%9A%E9%A6%99%E5%8F%96%E4%BC%8A%E8%B1%86%E4%B9%83%E5%BE%A1%E5%AD%90%E7%A5%9E%E7%A4%BE%EF%BC%88%E8%AB%96%E7%A4%BE%E3%81%AE%E5%92%8C%E6%B8%95%E7%A5%9E%E7%A4%BE%EF%BC%89 位置])
- 栗原郡 香取御児神社
- 比定論社:香取御児神社(宮城県栗原市、[[[:テンプレート:座標URL]]38_44_16.20_N_141_00_42.52_E_region:JP-04_type:landmark&title=%E8%8B%97%E8%A3%94%E7%A5%9E%EF%BC%9A%E9%A6%99%E5%8F%96%E5%BE%A1%E5%85%90%E7%A5%9E%E7%A4%BE%EF%BC%88%E8%AB%96%E7%A4%BE%EF%BC%89 位置])
- 比定論社:鹿島神社(宮城県栗原市、[[[:テンプレート:座標URL]]38_46_32.04_N_141_01_19.22_E_region:JP-04_type:landmark&title=%E8%8B%97%E8%A3%94%E7%A5%9E%EF%BC%9A%E9%A6%99%E5%8F%96%E5%BE%A1%E5%85%90%E7%A5%9E%E7%A4%BE%EF%BC%88%E8%AB%96%E7%A4%BE%E3%81%AE%E9%B9%BF%E5%B3%B6%E7%A5%9E%E7%A4%BE%EF%BC%89 位置])
上記の香取苗裔神同様、鹿島神宮でも鹿島苗裔神が陸奥国に展開しており、『延喜式』神名帳には8社が見える。このことから、大和朝廷の勢力が海岸沿いに北進する際に、鹿島神・香取神の神威を仰いだものと考えられているテンプレート:Sfn。併せて、陸奥国一宮・鹽竈神社(宮城県塩竈市、[[[:テンプレート:座標URL]]38_19_08.12_N_141_00_45.47_E_region:JP-04_type:landmark&title=%E9%99%B8%E5%A5%A5%E5%9B%BD%E4%B8%80%E5%AE%AE%EF%BC%9A%E9%B9%BD%E7%AB%88%E7%A5%9E%E7%A4%BE%EF%BC%88%E6%AD%A6%E7%94%95%E6%A7%8C%E3%83%BB%E7%B5%8C%E6%B4%A5%E4%B8%BB%E4%B8%A1%E7%A5%9E%E3%82%92%E5%90%88%E7%A5%80%EF%BC%89 位置])において武甕槌・経津主両神が祀られていることも、その様子を表すものとして指摘されるテンプレート:Sfn。
なお初期段階では、鹿島は外海(蝦夷)、香取は内海(香取海)を志向したとされるテンプレート:Sfn。その後、上記の香取苗裔神が2社のみながら共に栗原郡(現・宮城県栗原市周辺)に祀られており、牡鹿郡(現・宮城県石巻市周辺)を最北端とする鹿島を飛び越して北に鎮座するテンプレート:Sfn。これに関して、栗原郡の統治が可能になった時期が9世紀と見られる点や、弘仁3年(811年)から陸奥国鎮守府将軍として物部匝瑳氏(もののべのそうさうじ:下総国匝瑳郡関係氏族)一族が見える点、承和6年(839年)に香取神の神階が鹿島神に追いつく点、またその記事で「香取、鹿島」の順序で記載されている点から、物部匝瑳氏の活躍に伴う鹿島・香取神の神威逆転を指摘する説があるテンプレート:Sfn。
そのほか、旧下総国西部の利根川・江戸川沿い低湿地においては、10世紀以後に開拓されるにあたって香取神が産土神として勧請された関係で、多くの分祠が分布している(「香取神社」参照)テンプレート:Sfn。また、同じく経津主神を祀る上野国一宮・一之宮貫前神社(群馬県富岡市)も関連性が指摘されるテンプレート:Sfn。
香取神宮寺
かつて香取神宮には神宮寺として、金剛宝寺、惣持院、新福寺の3寺があったテンプレート:Sfn。金剛宝寺は宮中台にあり、神宮の別当寺であったテンプレート:Sfn。惣持院は供僧と称し、真言宗テンプレート:Sfn。新福寺は山号を経津神徳山とし、曹洞宗でテンプレート:Sfn、近世には34石を有していたテンプレート:Sfn。これら3寺はいずれも明治初年に廃寺となったテンプレート:Sfn。
考証
祭神・祭祀氏族について
神宮の草創については、朝廷が東国支配の拠点として両社を祀ったのが創祀と見る説[4]テンプレート:Sfn、それ以前から原形となる祭祀が存在したとする説(下記)がある。
また、現在の香取神宮では主祭神の公称を「フツヌシ(経津主)」としているが、『日本書紀』によるとフツヌシには「イハヒヌシ(伊波比主・斎主)」という別称がある。神宮との関係を示す文献は、『続日本後紀』『日本文徳天皇実録』『延喜式』ではイハヒヌシ、『古語拾遺』ではフツヌシが採用される。これらの神名から、神宮の黎明期に関して次のような議論がある。
フツヌシ (経津主)
- 「フツ」とは刀剣の鋭い様を表した言葉といわれ、刀剣を表す神名とされるテンプレート:Sfn。関連して記紀には「フツノミタマ(布都御魂、韴霊)」という神剣が見え、フツノミタマはタケミカヅチから高倉下に下され、のち物部氏氏神の石上神宮(奈良県天理市)に祀られたという。ただしフツヌシは『古事記』には見えず、『古事記』に見えるタケミカヅチの別名「建布都・豊布都」からの造作と見る説もある[23]。
- 香取神の本質をこのフツヌシと見る説では、『古語拾遺』のみ記載が異なることについて、同書が斎部広成によって記された中臣氏・藤原氏批判の書物であり、より本質に近い記載であると説明されるテンプレート:Sfn。史書が異なる記載をしたのは、祭祀氏族(香取氏)の本源が物部氏であったためとも指摘されるテンプレート:Sfn。
イハヒヌシ (イワイヌシ、伊波比主・斎主)
- 「いわう」にあてられる「斎」「祝」の字義から、「イハヒヌシ」とは「祭事の執行者」を意味する神名と推測されるテンプレート:Sfn。
- 香取神をイハヒヌシと見る説では、『古語拾遺』以外が全てイハヒヌシと記すことを根拠とするテンプレート:Sfn。『古語拾遺』のみ記載が異なることについては、斎部広成が中臣氏の神について正しい知識を持ち合わせなかったと説明されるテンプレート:Sfn。祭神名からは、「鹿島 = 朝廷の神」に対する「香取 = 在地の神(奉仕する神)」という、伊勢神宮の内宮・外宮に似た祭祀構造が指摘されるテンプレート:Sfnテンプレート:Sfn。また神階が鹿島に遅れること、勲等がないことは奉仕する神であったためとも推測されるほかテンプレート:Sfn、神を祀るのは女性の任であったことから祭神を女神とする見方もあるテンプレート:Sfn。
祭祀氏族としては、古くは経津主神の神裔を称する香取氏(かとりうじ)であったことが知られているが、その香取氏の本質として、物部氏を指摘する説があるテンプレート:Sfn。その中で、フツノミタマとフツヌシの関連性、史書に見える周辺の物部氏族の存在から、フツヌシが物部氏の氏神として祀られたと推測がなされているテンプレート:Sfn。一方、香取神宮が下海上国造の氏神であったとし、その国造を担った他田日奉部氏(おさだのひまつりべうじ)を原始氏族に推測する説もあるテンプレート:Sfn。他田日奉部氏は宗教的部民で、直(あたい)という従属性の強いカバネを有しており、「イハヒヌシ」という奉仕する神の性格とも合致すると指摘されるテンプレート:Sfn。
周辺の古墳
神宮の周辺には、次の古墳が見つかっている。
- 又見古墳(市指定史跡)
- 神道山古墳群(しんどうやま、市指定史跡)
- 津宮古墳群
- 神道山の北東部にある古墳群。前方後円墳3基、円墳1基からなる[8]。
これらの古墳と神宮には関係性が指摘されるが、神宮側にはこれら古墳に関する古文書・伝承は残っておらず、詳細は明らかではない。
そのほか、やや東方ながら香取市小見川には、5世紀中頃の三之分目大塚山古墳(前方後円墳、123メートル)、6世紀末の城山一号墳(前方後円墳、68メートル)[26]など規模の大きい古墳が多数あり、下海上国造の本拠地とされている。
現地情報
所在地
付属施設
- 宝物館 - 開館時間:午前9時から午後4時。海獣葡萄鏡(国宝)等の宝物を展示する。
交通アクセス
- 鉄道
- 高速バス
周辺
脚注
原典:記載事項の一次史料を紹介(出典扱いではない)。 テンプレート:Reflist
参考文献
書籍
- 香取神宮発行書籍
- 百科事典
- その他書籍
論文
サイト
関連項目
- 神宮に由来
外部リンク
- 香取神宮(公式サイト)
- 香取神宮(香取市ホームページ「香取遺産」)
- 香取神宮(香取市商工観光課)
- 香取神宮(千葉県ホームページ「ちばの観光まるごと紹介」)
- 香取神宮(千葉県神社庁監修「神社のひろば」)
- 香取神宮(國學院大學21世紀COEプログラム「神道・神社史料集成」)
- ↑ 東国三社(神栖市観光協会)。
- ↑ 神社本庁監修『神社のいろは』(扶桑社)p. 76。
- ↑ 3.0 3.1 山本博文監修『あなたの知らない千葉県の歴史』(洋泉社)Q5(pp. 26-27)。
- ↑ 4.0 4.1 4.2 4.3 4.4 Vol-001 下総国の一宮 香取神宮(香取市ホームページ「香取遺産」)。
- ↑ 稲垣栄三「春日大社」(『国史大辞典』吉川弘文館)。
- ↑ 『奈良県の地名』(平凡社)春日大社項。
- ↑ 『続群書類従』第7輯ノ下所収。
- ↑ 8.00 8.01 8.02 8.03 8.04 8.05 8.06 8.07 8.08 8.09 8.10 8.11 8.12 8.13 8.14 8.15 8.16 8.17 8.18 8.19 8.20 ふさの国文化財ナビゲーション(千葉県教育委員会)。
- ↑ 国指定文化財等データベース。
- ↑ 10.0 10.1 10.2 10.3 宝物・文化財(公式サイト)。
- ↑ Vol-040 津宮河岸の常夜燈(香取市ホームページ「香取遺産」)。
- ↑ 摂末社は『新修 香取神宮小史』pp. 35-40による。
- ↑ Vol-073 側高神社(香取市ホームページ「香取遺産」)。
- ↑ 14.0 14.1 『図説千葉県の歴史』(河出書房新社)p. 73-75。
- ↑ Vol-085 大戸神社(香取市ホームページ「香取遺産」)。
- ↑ 『千葉県の地名』(平凡社)返田神社項。
- ↑ 17.0 17.1 Vol-028 返田神社本殿(香取市ホームページ「香取遺産」)。
- ↑ 18.0 18.1 春(公式サイト)。
- ↑ 秋(公式サイト)。
- ↑ 団碁祭(千葉県「ちばの観光まるごと紹介」)。
- ↑ 『週刊朝日百科 日本の国宝』89号(朝日新聞社、1998(解説執筆は川尻秋生))。
- ↑ 『解説版 新指定重要文化財 4 工芸品Ⅰ』、毎日新聞社、1981、p.260
- ↑ 『国史大辞典』経津主神項。
- ↑ Vol-029 又見古墳(香取市ホームページ「香取遺産」)
- ↑ 25.0 25.1 Vol-039 神道山古墳群(香取市ホームページ「香取遺産」)
- ↑ Vol-034 城山一号墳(香取市ホームページ「香取遺産」)
- ↑ Vol-052 懸仏の最高傑作(香取市ホームページ「香取遺産」)
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