大中臣氏
テンプレート:日本の氏族 (古代氏族) 大中臣氏(おおなかとみうじ/し)は、「大中臣」を氏とする氏族。日本古代の中央政権において祭祀をつかさどった貴族である。
概要
中臣鎌足が藤原姓を賜った後、その子藤原不比等が幼かったため、鎌足の甥で婿養子とも言われる中臣意美麻呂が暫定的に藤原氏を継いだ。後に、不比等の成長を待ち、正式に文武天皇の命令によって改めて鎌足の嫡男として不比等とその子孫のみに藤原姓を許し、他の者は中臣氏に復するように命じられて意美麻呂も中臣姓に戻る。意美麻呂は不比等の後押しで中納言に昇進した。意美麻呂の息子である大中臣清麻呂(正二位・右大臣、702年 - 788年)は、神護景雲3年(769年)6月に「大中臣朝臣」を賜姓されて、以後その子孫は「大中臣氏」と称した。
また、後には中臣氏の嫡流あるいはそれに近いとされた「三門」(『中臣氏系図』)と呼ばれる家々[1]があったが、平安時代に入るとこれらの家々に対しても大中臣氏の名乗りが許されるようになった[2]。
大中臣氏の中で最も力を振るったのは嫡流とされた清麻呂の系統で、神祇伯や伊勢祭主を世襲した。平安時代の大中臣能宣とその子大中臣輔親その孫伊勢大輔は歌人としても事績を残している。
だが、平安時代中期の中臣逸志[3]を最後に中臣氏(大中臣氏)の神祇伯は姿を消し、代わって白川家が神祇伯を世襲するようになると、伊勢祭主及び神祇大副を世襲するようになる。また、地方の有力神社の神職も掌握するようになる。
系図
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脚注
- ↑ 「三門」は中臣可多能祜の男子3名の末裔の事で中臣御食子の子孫(ただし、鎌足は藤原氏となったため、その弟垂目の子孫となる)を「第一門」、中臣国子の子孫を「第二門」、中臣糠手子の子孫を「第三門」と称した。
- ↑ 延暦16年(797年)から翌年にかけて「第一門」「第二門」(清麻呂子孫を除く)にも大中臣朝臣が与えられ、遅れて元慶元年(877年)には「第三門」にも大中臣朝臣が与えられた。
- ↑ 逸志は「第三門」では唯一の神祇伯であり、「第三門」への大中臣朝臣賜姓もその功績によるところとされている。