東京箱根間往復大学駅伝競走

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2012年箱根駅伝 一区 東京・丸の内にて

東京箱根間往復大学駅伝競走(とうきょうはこねかんおうふくだいがくえきでんきょうそう)とは、例年1月2日と翌3日の2日間にわたって行われる、大学駅伝の競技会(地方大会)である。関東学生陸上競技連盟が主催し読売新聞社が共催する。一般には箱根駅伝と呼ばれ、その実施については関東学生陸上競技連盟が定める「東京箱根間往復大学駅伝競走に関する内規」に定められている[1](以下、「東京箱根間往復大学駅伝に関する内規」は単に「内規」として説明する)。2014年1月現在、「箱根駅伝」は読売新聞東京本社が商標登録出願中である[2]

目次

概要

ファイル:HakoneEkiden Tasuki.jpg
小田原中継所と予備のたすき
ファイル:Tōkai Univ. track team uniform.jpg
東海大学のユニフォームと襷

出場校は19校でこのほかに出場校以外の競技者による関東学連選抜チーム(5年ごとの記念大会では関東学連選抜チームではなく日本学連選抜チームとしての出場可)の参加が認められている(内規第12条)[1]。なお、学連チームの出場については内規上はあくまでも「認める」として規定されており、その採否については関東学連が判断する(内規第12条)[1]

コースは、東京都千代田区大手町読売新聞東京本社ビル前[3]から、鶴見戸塚平塚小田原の各中継所を経て神奈川県足柄下郡箱根町芦ノ湖までの往復で、往路108km、復路109.9km、計217.9km。1月2日に東京から箱根への往路を、1月3日に箱根から東京への復路を走る。

第1回大会は、アメリカ大陸の継走での横断を実施するための代表選考会という位置付けで、1920年2月14日に行われた。これは、1912年ストックホルムオリンピックに出場した日本人五輪選手第1号の金栗四三が、「五輪で日本を強くするには、長距離、マラソン選手を育成すること」と発案したことがきっかけである。また、学生のための大会ということで、午前中は勉強時間にあてるとして、午後1時から行われた。第二次世界大戦中に一時中断され、1947年に復活した。第32回(1956年)から現在の1月2・3日の開催となった(内規第1条)[1]

箱根駅伝は、関東地方では従前から人気があったが、1987年に日本テレビが全国放送で全区間の生中継(電波を途切れさせることなく完全中継実施は1989年から)を開始して以降、正月の風物詩(国民的スポーツ大会)として関東地方以外でも知名度・注目度が格段に向上した[4](詳細は#中継番組を参照)。また、箱根駅伝出場者からオリンピック世界陸上などに出場を果たした選手も少なくない(詳細は箱根駅伝の人物一覧を参照)。

箱根駅伝は、関東学連が主催する地方大会であり、10位以内に入ると全国大会で駅伝シーズンの開幕を告げる出雲全日本大学選抜駅伝競走(同年体育の日開催。以下「出雲駅伝」という)に、3位以内に入ると同じく全国大会で大学日本一を決める全日本大学駅伝対校選手権大会(同年11月第1日曜日開催。以下「全日本大学駅伝」という)に、それぞれ関東代表として出場できる。一般に、出雲駅伝、全日本大学駅伝、箱根駅伝を併せて「大学三大駅伝」と呼ばれており、同じ年度の全大会に優勝すると「三冠」と称され、大東文化大学(1990年度)、順天堂大学(2000年度)、早稲田大学(2010年度)の3校が達成している。ただし、箱根駅伝は全国大会ではないため、関東学連加盟校以外の大学は三冠を達成することはない。また大東文化大学は復路優勝を、順天堂大学と早稲田大学は往路優勝を逃しており、箱根駅伝を完全優勝しての三冠を達成した大学は1校もない。

出場チームと出場選手

関東学連加盟校のうち、前年大会でシード権を獲得した大学と予選会を通過した大学の計19校と、このほかに学連選抜を加えた最大20チームが出場する[5]。なお、先述したように学連チームの出場について内規ではあくまでも「認める」として規定されており、その採否については関東学連が判断する(内規第12条)[1]

競技者の参加資格

競技者は次の参加資格を満たしている必要がある。

  1. 競技者の所属校が関東学連加盟校で競技者は当該年度の登録を完了していること(内規第4条)[1]
  2. 所属する加盟校が関東学連から処分を受けていないこと(内規第5条)[1]
  3. 本人が関東学連の資格審査委員会によって処分を受けていないこと(内規第6条)[1]
  4. 出場申込回数が4回(予選会のみ出場の場合も回数に含む)を越えないこと(内規第7条)[1]

なお、出場選手については年齢制限はなく、大会出場回数(予選会のみの出場も回数に含まれる)が4回に達していなければ何歳でも出場できる。第68回(1992年)までは、28歳以下という年齢制限があったが、第69回(1993年)から撤廃された。

チームエントリーと区間エントリー

申込み(チームエントリー、区間エントリー)は関東連盟が提示する日時と場所で所定の様式によって行われ、資格審査委員会の審査によって参加資格ありと認められた大学・競技者のみ正式出場が認められる(内規第8条)[1]

チームエントリーは16名以内で、区間エントリーのチーム編成は正選手10名と補欠選手6名以内である(内規第9条)[1]。ただし、留学生については、エントリー2名以内、出走1名以内に制限されている(内規第9条)[1]。現行の16人エントリーになったのは第79回(2003年)からで、背景にはここ数年で体調不良によるブレーキやけがによる途中棄権などが相次いだことで、主役である選手の健康を最優先した主催者側の配慮と言える。第82回(2006年)までは区間エントリーの際にメンバーを16人から14人に減らす必要があったが、第83回(2007年)より区間エントリーでも16人のまま登録することができるようになった。したがって、補欠選手はそれまでの4人から6人に増えた(ただし、後述のように往路・復路の当日エントリー変更は、従来どおり4人までの変更に限られている)。

区間エントリーは1区から10区までにエントリーされた正選手とその他の補欠選手とに大別される。そして、正選手には主催者側が用意したナンバーカードが配布される。ナンバーは1区から順に1、2…となり、補欠選手は11番から16番までとなる。ナンバーカードの記載は「(前年の順位・予選会の順位に従い大学に割り振られた番号)-(1番 - 16番)」となり、例えば前年3位の大学の6区にエントリーされた選手は「3-6」となる(第80回より。それ以前は大学ごとの番号は付されなかった)。

変更は正選手と補欠選手との入れ替えのみで4名までとされ、区間変更は認められていない(内規第10条2項)[1]。つまり、補欠選手は当日のエントリー変更で正選手と入れ替えとしてどの区間にも入ることができるが、既に区間ごとに配置されている正選手はその区間しか走ることができない(例えば2区に補欠から選手を入れることはできるが、2区と4区の走者を変えることはできない)。通常の駅伝では補欠選手との交代には医師による診断書の提出が義務付けられているが、この大会は長時間の移動への配慮からその必要がないため、戦略的に補欠との選手交代が行われるケースが数多くあり、補欠選手は言わばジョーカー的な意味合いを持つ。逆に区間エントリーで補欠選手と交替した選手は走ることができないため、当て馬的な要素もある。2区にチームで最も力のある選手を置くのが通常であるが、選手層の厚い大学では「つなぎの区間」にエースを配置し、他大学の虚を突くこともある。

傾向としては往路での変更は比較的少なく、復路で何人かを変えてくることが多い。また、各校のエースが集う2区の変更が最も少ないようである。逆に言えば、補欠選手になるのはエースとまでは行かないものの、それに準じる選手や力がありながら調子が上がらない選手、全くの無名選手…などが考えられる。近年ではいずれかの区間を走るべき確実な力のある(かつ調子のよい)選手、またエースすらもあえて補欠登録して、他校のエントリー状況や往路の結果を見ながらいずれかの区間に投入する作戦を取る大学も見られるようになった。優勝をねらうチームは、ライバル視するチームの配置を読んだ上で自チームのそれを考える必要がある。逆に予選会を勝ち上がってきたチームや苦戦が予想されるチームの中は、往路重視の布陣を敷いてくることが多い。選手層が薄く、後半区間での巻き返しが難しいため、エースクラスを序盤に配置することで落ち込みを避けるのがねらいである。また、どのチームも特殊区間である5区、6区については候補を複数用意していることが多い。これは他の区間とは違い、コースの特殊性ゆえに突発的なアクシデントなどによる急な抜擢が難しい(起用しても適性がない選手が走ることになるため、結果は芳しくないことが多い)ためである。

4区以外の9区間が20km超という長丁場であることを考慮し、体調不良など万が一の状況に備えて選手の交替が認められている点が他の主要駅伝とは大きく違う点である。また、なかなか調子が上がらない選手の様子をぎりぎりまで見るという点でも、補欠温存ができるのは非常に大きい。

出場チーム

先述したように箱根駅伝には関東学連加盟校のうち、前回大会でシード権を獲得したシード校と予選会を通過した大学の計19校と、このほかに関東学連選抜チームの出場が認められている(内規第12条)[1]

シード校

本競技会で10位までに入った大学は「シード校」として次回の本競技会出場権を取得する(内規第13条1項)[1]。つまり、前回の本競技会で総合10位以内に入賞していれば本競技会出場権を取得し予選会は免除される(シード権、予選免除権)。但しシード権を確保した大学に重大不祥事が発覚した場合、シード権が剥奪される場合がある。

また、関東学連選抜チームが10位以内に入った場合は、シード校は9校となり次回の予選会では10校を選抜する(内規第13条2項)[1]。なお、この場合は次年度の出雲全日本大学選抜駅伝競走への推薦校も9校となる(内規第13条2項)[1]。他の大学駅伝大会に比べると、シード校が10校とやや多くなっている(出雲駅伝は3校、全日本大学駅伝は6校)。

前回大会でシード権を逃した大学と次の大会の予選会で本選出場権を獲得した大学がすべて一致することもあるが、過去に予選枠が6校だった第56回-第57回、第61回-第62回と、予選枠が9校になってからでは第82回-第83回の計3回しか起きていない。

なお、シード校の参加は希望制(日本国内での各学連主催の駅伝大会共通)であるが、不参加チームはいまだ発生していない(出雲駅伝では発生例がある)。

予選会

ファイル:箱根駅伝予選会コース図.jpg
第88回大会予選会のコース図(陸上自衛隊立川駐屯地〜立川市街地〜国営昭和記念公園)

箱根駅伝では第23回(1947年)から予選会が実施されている[13][14]

箱根駅伝の予選会は本競技会の2か月以上前に行われ、別に開催要項が定められている(内規第14条1項)[1]。予選会は、陸上自衛隊立川駐屯地内の滑走路を周回し、立川市内を通過して、昭和記念公園内をゴールとする20kmのコースを各校12名の走者が走って行われる。予選会では本競技会の出場校の数からシード校を除いた残りの出場校数を、まず、タイムにより6校選び(前回の本競技会において関東学連選抜チームが10位以内に入った場合には7校選び)、残り3校はその年の関東インカレの成績に基づくポイント制との併用により選ぶ(内規第13条2項)[1]。具体的には各校上位10人の合計タイムにより、まず上位6校(関東学連選抜が前回大会10位以内だった場合は7校)が予選通過となり、残り3校については関東学生陸上競技対校選手権大会の成績に基づくポイント(インカレポイント)による減算タイムを併用して順位を決定する。

予選会に出場するためには、その年の1月から予選会申込期日前日までの公認記録で、10000m34分00秒00か5000m16分30秒00のどちらかもしくは両方を突破した選手を、補欠も含めて10人以上揃えなければならない[注 1]

インカレポイントは、大学の陸上部全体の成績が反映されるため、駅伝だけではなく陸上競技部全体としての取組が成績に影響する仕組みとなっている。

なお、本戦がテレビメディアに大きく扱われるようになって以後、予選会を突破しての本戦出場には、僅差のタイムにより明暗が分かれることが多い傾向にある。特に第83回大会予選会においては、出場を逃した10位の拓殖大学と9位の国士舘大学とのタイム差は、インカレポイントを含めてわずか1秒だった。

一般論として、予選に出るということは、本大会の約2か月半前に一度チームや個人としての体調やコンディションのピークを構築(ピーキング)する必要がある。そのため、チームとして、年間を通しての調整面で予選突破が不要なシード校に比べてより多くの課題に取り組まなくてはいけないという面がある。

予選会での順位を決定する際の記録の扱いは、下記の通りとなっている[15]

  • (ア) 競技成績での10名の合計タイムが少ない大学を上位とする。
  • (イ) (ア)で同タイムの場合には上位10名の合計順位が少ない大学を上位とする。
  • (ウ) (イ)でも順位が決定しない場合には、各校最上位選手の順位が上位の大学を上位とする。
  • (エ) 関東インカレポイントを加味した選考を行う場合については、ポイントを加味した合計タイムで同記録となった場合には(ア)、(イ)、(ウ)の基準を順に適用し順位を決定する。

当初は関東学生10マイル(約16.1kmコース)での成績を選考材料にしていたが、予選会のコース・距離及び選考方法は、次第に変遷を重ね、現在は陸上自衛隊立川駐屯地→立川市街地→国営昭和記念公園の全長20㎞のコースで予選会を行なっている。

当初は参加校全校が予選会に参加し上位15校が本戦出場する規定となっていたが、第32回(1956年)まではいずれも参加校が15校以下であり予選参加の全校が本戦出場していた。第33回(1957年)からは規定が変更となり、前回大会の総合成績上位10校にシード権を与え、予選会からの本戦出場は予選上位5校のみとなり、これ以降は予選会で敗退校が出るようになった。第48回(1972年)からは予選会からの出場枠が6校となり、第79回(2003年)以降は予選上位9校が本戦出場できる(学連選抜の前回大会成績がシード圏内の場合は上位10校が本戦出場)。

学連選抜チーム

出場校以外の競技者による関東学連選抜チームの参加が認められている(内規第12条)[1]。第79回(2003年)から参加が認められている関東学連選抜チームは、当初はオープン参加として個人記録のみが認められていたが、第83回(2007年)からはチームとして正式にタイムおよび順位が記録されることになっている。先述したように、現行では関東学連選抜チームが10位以内に入った場合は、シード校は9校となり次回の予選会では10校を選抜することとなっている(内規第13条2項)[1]。なお、この場合は次年度の出雲全日本大学選抜駅伝競走(出雲駅伝)への推薦校も9校となる(内規第13条2項)[1]

5年ごとの記念大会は日本学連選抜チームが関東学連選抜チームに代わって参加することが認められている(内規第12条)[1]。最近では第80回(2004年)で特別に日本学連選抜チーム[注 2]がオープン参加で出場した。

第79回(2003年)から参加が認められるようになった関東学連選抜チームのメンバーは、予選会で落選したチームに所属する選手のうち個人成績で上位に位置する選手から、各校最大2名までの枠内で選抜される。第80回(2004年)では日本学連選抜としての参加だったこともあり、見事に6位相当の成績を収めたが、通常の関東学連選抜の場合には下位に低迷することが多かった。もっとも、日本学連選抜チームとしての出場の機会しかない関東以外の各地区の学生が最初から選抜チームのメンバー入りを目指し練習してきたのに対し、関東学連選抜チームの場合、所属大学の一員として箱根駅伝に出たいと言う気持ちがあるのは普通のことであり、予選会で落選したショックからわずか2ヵ月後の本番に選抜チームとして招集されたとしてもモチベーションが上げにくいことも事実である。また、大学ごとの真剣勝負の場に趣の異なるチームが混じることへの違和感も根強い[16]。 このような意見もある一方、選抜チームの経験をチームに持って帰り次回へのモチベーションとすることは大いに意義のあることであり、参加選手からは「この経験を母校に持ち帰り来年に生かす」との声も聞かれ、後年予選会を勝ち抜き本選出場を果たした大学もある。選抜チームは当初はオープン参加とされ、チームとしての順位等は公式には記録されず、個人の区間成績と区間順位のみが公認されていたが、第83回(2007年)からは正式参加とされ、チーム成績が公式に記録されるようになった。これに伴い、選抜チームがシード圏内の10位以内に入った場合には、次回大会のシード校が1つ減る代わりに予選会出場枠が1つ増やされることとなった。これにより全体のレベル拮抗が予選会参加校のレベル向上へと結びつき、第84回(2008年)では関東学連選抜が総合4位という好成績を収め、続く第85回(2009年)も総合9位となり、2大会連続してシード圏内入りを果たした。予選会出場枠が1枠増えることにより自身の所属大学の翌年の箱根出場の可能性がわずかながらも広がることから、関東学連選抜の存在価値が増し、そのレース順位が大きな意味を持つようになった。なお、第80回(2004年)に出場した日本学連選抜については、「東京箱根間往復大学駅伝競走に関する内規」第12条において、5年ごとの記念大会での参加が認められてはいるが、第85回(2009年)については記念大会であるが日本学連選抜ではなく関東学連選抜が選抜チームとして出場している。

関東学連選抜チームについては、第86回(2010年)終了時から廃止・継続または新制度の導入などの議論を重ねた結果、2012年6月6日に行われた関東学連代表委員総会において、第89回(2013年)は現行どおり実施(ただし、各校から1名とし、16校から選出)、第90回(2014年)は不採用。第91回(2015年)以降は、廃止・継続のいずれの可能性も残し検討を重ねた[17]結果、2013年6月10日に行われた委員総会で当初案の5年ごとの記念大会の編成ではなく、第91回以降も継続して実施することが決定した[18]

コースの特徴

コース(競走路)は東京・読売新聞社前から箱根・箱根町芦ノ湖駐車場入口間の往復217.9km(内規11条1項)[1]。東京大手町読売新聞社前、日比谷、西新橋、三田品川六郷橋鶴見横浜駅保土ケ谷戸塚藤沢平塚大磯二宮小田原、箱根町芦ノ湖駐車場入口の各点がコース上の通過点として設定されている(内規11条1項)[1]。また、日本橋については復路のみ通過点とされている(内規11条1項)[1]

以下、各区の主な特徴について述べる(コース途中の括弧書きは主な経由地、および固定テレビカメラ設置地点。通過道路名は国道・主要道以外は割愛する)。

往路(1月2日)

東京・大手町→箱根・芦ノ湖 5区間/108.0km

1区(21.4km)

区間記録保持者(1区)
佐藤悠基
(東海大学2年)
1時間01分06秒
第83回(2007年)

東京・大手町 読売新聞東京本社ビル[3]前(往路スタート)→(東京都道409号日比谷芝浦線)→(国道15号)→(田町)→(品川駅前)→(新八ツ山橋)→(六郷橋)→鶴見中継所

  • 大手町・読売新聞東京本社ビル前を午前8時00分に一斉スタートし、神奈川県の鶴見までを走る区間。
  • スタート前からあらかじめ指定された場所で出場大学の応援団チアリーディングが母校の幟と共に応援合戦を繰り広げる。
  • この区間で重要なのは「次につなげること」(先頭の見える位置でたすきを渡すこと)である。スピードランナーや準エースクラスの投入が多い区間だが、集団になれば牽制などでスローペースになったり、それほど大きくばらけなかったりする傾向にある。そのため、鶴見中継所に多数の選手が僅差で殺到することが多い。一方で、各校を代表するエースクラスが集い、他校よりとにかく1秒でも先に出るべく、超ハイペースで進行することもある。
  • また、スタート直後に飛び出して逃げ切りを狙う(俗に言う大逃げ)学校もあり、各校の戦術が現れる区間の1つである。
  • コース上の大きなアップダウンは新八ツ山橋と六郷橋のみ。この付近における選手同士の駆け引きも見もの。特に六郷橋から川崎市街にかけての区間では、橋からの下りを利用してスパートをかける選手も多い。
  • 六郷橋は東京都と神奈川県の境界に位置しており、六郷橋までの交通規制・先導等は警視庁、六郷橋からの交通規制・先導等は神奈川県警察が担当している[19][20]
  • 第88回まではコース中に京急蒲田第一踏切が存在した(変遷などについては#概要と走行方法の鉄道踏切におけるルールを参照)。

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2区(23.2km)

区間記録保持者(2区)
メクボ・ジョブ・モグス
(山梨学院大学4年)
1時間06分04秒
第85回(2009年)

鶴見中継所→(横浜駅前)→(国道1号)→(権太坂)→戸塚中継所

  • 第37回(1961年)以降は23.2kmの最長距離区間となり、第82回(2006年)から小田原中継所の位置が変更となって最長距離区間ではなくなったが(これにより5区が最長となった)、それでも各校がエース級の選手を揃えて争い「花の2区」と呼ばれ続けている区間。区間内に東海道五十三次で江戸を出て最初の難所として知られる権太坂[21]がある事など、地形的にも走りづらい区間といえる。山梨学院大学日本大学などはこの区間に留学生を当てることが多い。
  • 箱根に限らず2区はその後の流れを決める重要な区間に挙げられることが多いが、各校のエース級の選手はほぼ均等な力を持っているため、ペース配分のミスやアクシデント発生以外の理由では差が広がりにくく、この区間の結果が総合優勝争いに直結することはほとんどない。
  • 鶴見中継所から横浜駅前を経由して保土ヶ谷駅までは標高差がほぼゼロの平坦なコースであるが、そこから東海道五十三次で箱根越えに次ぐ難所といわれた権太坂(ただ国道1号の権太坂は東海道のそれと比べて勾配が緩い)と、戸塚中継所手前残り3km地点の急勾配があり、これら後半の難所をいかに攻略するかが最大のポイントとなる。
  • 上記の理由から鶴見中継所では差が付かないことが多く、ごぼう抜きや大ブレーキが頻繁に起こる区間でもある。エースの結果いかんで後の流れが決まってくるともいわれる。
  • 上記のコースの特徴から分かる通り、地形的にも走りづらい区間といえ、平坦なコース前半にペースを上げ過ぎると権太坂と中継所手前の後半の上りで力尽き、失速することがある。好タイムを出すためにはこの上りにいかに余力を残して臨むかがポイントとなり、第75回(1999年)に区間新記録を樹立した三代直樹は残り3kmの上りを快走した。

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3区(21.5km)

区間記録保持者(3区)
オンディバ・コスマス
(山梨学院大学4年)
1時間01分38秒
第88回(2012年)

戸塚中継所→(遊行寺坂)→湘南新道国道134号→(茅ヶ崎)→(湘南大橋)→平塚中継所

  • 遊行寺坂を下って浜須賀交差点を右折すると湘南海岸に出るフラットなコースではあるが、海風の影響を受けやすい区間である。
  • 従来はこの3区はつなぎの区間とされてきたが、4区の距離短縮に伴い2区と同様の重要区間と位置づけられる事が多くなった。そのため、2区の流れを持続又はつまずきを取り返すために、力のある選手を置くチームも多く、最近はこの区間でもごぼう抜きが見られる様になった。
  • 東京から小田原までのコースは東海道線と接近しているため、ファンはもちろん、出場校の走り終えた選手やコーチ、監督、付き添いなどが電車を使って移動することが多い。従って、大会開催中は移動の車中で選手や監督などに遭遇することもある(学校毎に揃いのグラウンドコートを着ている)。

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4区(18.5km)

区間記録保持者(4区)
西村知修
(帝京大学4年)
54分34秒
第87回(2011年)

平塚中継所→(国道1号)→(大磯)→(二宮)→(酒匂橋)→(小田原市民会館前)→小田原中継所

  • 区間距離が大会唯一20kmを切る最も短い区間。第82回(2006年)にて、往路の小田原中継所が2.5km東京寄りに変更となった(風祭鈴廣前→メガネスーパー本社前)。
  • 4区短縮の背景には「中距離で活躍する選手にも箱根に出場する機会を与えたい」という関東学連の意向があり、短縮1年目の第82回は目論み通り1500mの日本インカレ王者である村上康則(順天堂大学)が区間賞を取った。
  • しかし、平塚中継所から11.8kmの国府津駅入口まで細かいアップダウンが続き、距離のわりにスピードが出にくいため、4区よりも3区にスピードランナーを置く学校も多く、この区間はチームで10番手の選手や1年生を起用する傾向が強まっている。
  • これらのことから、他の区間よりも区間距離が短い割に1kmに平均3分以上かけて走る選手がほとんどである。1km平均3分(55分30秒)を切って走った選手は第90回大会までの計9回で16名しかいない。
  • 晴れた日には選手の前方に富士山の雄大な姿を望むことができる。

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5区(23.4km)

区間記録保持者(5区)(参考[22]
柏原竜二
(東洋大学4年)
1時間16分39秒
第88回(2012年)

新・小田原→旧・小田原→(箱根登山鉄道箱根湯本駅前)→(函嶺洞門バイパス[22])→(大平台ヘアピンカーブ)→(宮ノ下富士屋ホテル前)→(小涌園ユネッサン前)→(恵明学園前)→(芦の湯)→(国道1号最高点)→(元箱根)→箱根・芦ノ湖(往路ゴール)

  • 俗に「山上り」と呼ばれ、標高差864mを駆け上がる区間。第82回(2006年)からは距離が延長され、全区間で最長となった。
  • 小田原中継所から箱根湯本駅前までの約5kmは若干の上り勾配はあるものの、比較的平坦ではあるがゆえに、序盤の平坦な区間では力を温存し、箱根湯本駅前から始まる本格的な上り坂でいかに力を発揮できるかがポイントとなる。
  • 相当な脚力とスタミナが要求され、コース適性が最も必要とされる。その為スペシャリストが担当することが多く、「4年連続同一区間走行選手数」が全区間中最多(36人)となっている。
  • 特殊な区間ゆえに大差が付きやすく、ことに第82回(2006年)の距離延長後は5区での成績如何により往路優勝が決しており、第82回以降5区で区間賞を取った大学が往路優勝できなかった年は2013年現在ない。
  • 山上りが注目される区間ではあるが、反対に最高点を過ぎた残り4kmの下りが勝負という言われ方もされる。事実、上りと下りでは使用する筋肉が異なるので向き不向きがあり、また、いきなり筋肉にかかる負荷が極端に変わることから、寒さも災いして中には下りで痙攣を起こして立ち止まる選手もいる。
ファイル:Tozan Kowakidani cross Ekiden Meidai.jpg
箱根登山鉄道の踏切では、選手が通過する際には電車を停止させる
  • 2014年2月7日をもって従来の通過点となっていた函嶺洞門が通行禁止となり、第91回大会(2015年)から函嶺洞門バイパスへとコースが変更となった[22]。これに伴い第90回大会以前の記録は参考記録となった[22]
  • 小涌園手前には箱根登山鉄道鉄道線踏切(小涌谷踏切)があるが、箱根登山鉄道の協力を得て選手が通過する際には列車を踏切の直前で一旦停止させる措置がとられている(#概要と走行方法の鉄道踏切におけるルールを参照)。
  • 5区および6区は非常に気温の低い山中を走る。平地とは温度差があるため5・6区を走る選手の中にはタンクトップではなく、袖のあるユニフォームやアームウォーマーを着用することが少なからずある。
  • 第80回(2004年)の金栗四三杯創設以来、5区で区間賞を取った選手が同賞を11回中8回(第84回、第87回、第90回以外)受賞している。また、この区間で圧倒的な実力を示した選手に対しては「山の神」(今井正人や柏原竜二など)という異名が付けられることがある。

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復路(1月3日)

箱根・芦ノ湖→東京・大手町 5区間/109.9km

6区(20.8km)

区間記録保持者(6区)(参考[22]
千葉健太
(駒澤大学2年)
58分11秒
第87回(2011年)

箱根・芦ノ湖(復路スタート)→国道1号→(芦之湯)→(恵明学園前)→(小涌園前)→(宮ノ下温泉郷)→(大平台)→(塔ノ沢温泉郷)→(函嶺洞門バイパス[22])→(箱根湯本駅前)→小田原中継所

  • 旧5区の裏返し区間で、「山下り」区間と呼ばれる。
  • 下りでの平均速度は時速25kmに達し、この高速で半径の小さなカーブを多く回るため、ひざに大きな負担がかかる。箱根湯本駅前過ぎからの残り3kmのほぼ平坦な道(若干の下り勾配はある)は選手にとって上り坂に感じると言われ、ここから1分以上の差を付けられることもある。
  • このような事情から、5区の距離延長と同時に6区の距離短縮も検討されたが、中継所の問題等から見送られた。
  • 「4年連続同一区間走行選手数」が5区に次いで多く(32人)、復路中最多。3番目である2区はこの半数以下となっており、山の上り下りという特殊性が現れている。
  • 区間記録は第76回(2000年)からコース変更後のもの(東海道杉並木を通るコース→元箱根を通るコースに変更。距離は変更前と4m違い)。変更前の第75回(1999年)に中澤晃(神奈川大学)が58分06秒という記録を出している。
  • 朝8時台に高地からのスタートという事もあって気温が低く、体温低下を防ぐために長袖のユニフォームで走る選手が多い。また、近年アームウォーマーを用いて体温調節をする選手も増えてきている。
  • 前日の夜の気象状況によっては路面が凍結して滑りやすくなることもある。
  • 2014年2月7日をもって従来の通過点となっていた函嶺洞門が通行禁止となり、第91回大会(2015年)から函嶺洞門バイパスへとコースが変更となった[22]。これに伴い第90回大会以前の6区の記録は参考記録となった[22]
  • 箱根登山鉄道鉄道線の踏切(小涌谷踏切)があり、箱根登山鉄道の協力を得て、選手が通過する際には職員が列車を踏切の直前で一旦停止させる措置がとられている(#概要と走行方法の鉄道踏切におけるルールを参照)。

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7区(21.3km)

区間記録保持者(7区)
設楽悠太
(東洋大学2年)
1時間02分32秒
第88回(2012年)

小田原中継所→(小田原市民会館前)→(二宮)→(大磯)→(国道134号)→平塚中継所

  • ほぼ旧4区の裏返し区間。往路は序盤、平塚中継所通過後直進し、海寄りのコースを通るに対し、復路は終盤、大磯通過後陸寄りのコースを通るため、旧4区よりも若干距離が長い。
  • 10区間中最も走りやすい区間といわれるが、前半に小刻みなアップダウンがある。また、当初は山から吹き降ろす冷気で冷え込むが、太陽が高くなるにつれて気温も上がるため、最も気温差が激しい区間となっている[23]。そのため、山から海に出る際の大幅な気温の変動に注意したい。
  • いわゆる「つなぎ区間」として、10人の中でもさほど走力が高くない選手を置くケースが多かったが、近年、優勝争いをする大学にとっては、7区にいかに力のある選手を置けるかが鍵となっている。

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8区(21.5km)

区間記録保持者(8区)
古田哲弘
(山梨学院大学1年)
1時間04分05秒
第73回(1997年)

平塚中継所→(湘南大橋)→(茅ヶ崎)→(浜須賀交差点)→湘南新道→(藤沢)→国道1号→(遊行寺坂)→戸塚中継所

  • 3区の裏返し区間。前半はフラットで走りやすいが、藤沢を越えると通称「遊行寺の坂」が待ち構えるタフなコース。ここでどれだけ力のあるランナーを置けるかが逆転・シード権獲得への鍵となる。
  • この区間では、日差しが強いと遊行寺の坂付近で脱水症状を起こしやすい。ここでブレーキを起こすと後の2区間に大きな影響を及ぼすこともあるため、体調管理も重要な区間といえる。
  • この区間は当日のエントリー変更が多く、3分の2近くが入れ替わることもある。
  • 区間記録は現在のコースで最も古く、唯一2000年代以前に出されたものである。

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9区(23.2km)

区間記録保持者(9区)
篠藤淳
(中央学院大学4年)
1時間08分01秒
第84回(2008年)

戸塚中継所→(権太坂)→(横浜駅前)→国道15号→鶴見中継所

  • 2区の裏返し区間で、「復路のエース区間」とも言われる。各校のキャプテンないし準エースクラスが集うことが多い。前半は権太坂等の下り主体、後半の保土ヶ谷駅以降はほぼ平坦なレイアウトだが、長い区間なのできっちりとしたペース配分が必要。
  • 交通の便の良さが手伝ってか、例年横浜駅前には大勢の駅伝ファンが押し寄せる。
  • 鶴見中継所の手前は他の中継所と異なり、引き込み口からリレーゾーンまで数百メートルの直線がある。この為繰り上げスタート直前の場合、次走者が目の前に見えているにもかかわらず襷をつなぐことができず、10区のランナーが繰り上げスタートしてしまう光景がいくども見られる。
  • この区間での成績が総合成績に大きく影響する。事実、この区間は逆転が非常に多く、近年では第75回(1999年)の順天堂大学、第79回(2003年)と第84回(2008年)の駒澤大学、第82回(2006年)の亜細亜大学が、いずれも9区での逆転に成功し、総合優勝を成し遂げている。
  • 花の2区に対し松の9区と呼ばれることもある。

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10区(23.1km)

区間記録保持者(10区)
松瀬元太
(順天堂大学4年)
1時間08分59秒
第83回(2007年)
ファイル:Keikyuu kamata station 1.jpg
京急蒲田(空)第一踏切(現在は撤去済)

鶴見中継所→(六郷橋)→(蒲田)→(大森)→(大井)→(新八ツ山橋)→(品川駅前)→(田町)→(都道409号)→(国道1号)→(日本橋)→東京・大手町 読売新聞東京本社ビル[3]前(復路ゴール)

  • ほぼ1区の裏返し区間であるが、馬場先門から日本橋を経由するルートを取るため、1区より距離が長い。日本橋経由のコースになったのは第75回(1999年)から。六郷橋と新八ツ山橋付近のアップダウンを除きコース全体はほとんどフラットだが、時折ビル風が選手を襲うこともある。
  • 最終区間である上に、沿道の観衆も増える事から、プレッシャーが一層掛かる区間。距離が延長に伴って各チームとも準エースクラスを配する様になり、選手層の厚さが問われる区間になりつつある。近年では鎧坂哲哉(明治大)、出岐雄大(青山学院大)など、チームの絶対的エースながらコンディションが万全ではない選手がエース区間を回避して起用されるケースもある。
  • 六郷橋は神奈川県と東京都の境界に位置しており、六郷橋までの交通規制・先導等は神奈川県警察、六郷橋からの交通規制・先導等は警視庁が担当している[24][25]
  • 第88回まではコース中に京急蒲田第一踏切が存在した(変遷等については#概要と走行方法の鉄道踏切におけるルールを参照)。

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競技方法

東京箱根間往復大学駅伝競走競技実施要項並びに東京箱根間往復大学駅伝に関する内規第5章「競技細則」第15条〜第21条に基づいて行われる[26]

概要と走行方法

  • 各競技者とも走行は1区間に限られる(内規第15条第2項)[1]。競技者は競技中に理由の如何を問わずいかなる人の手助けを受けても失格となるとされているが、大会医務員が触診のために競技者の身体にふれても手助けとはならない(内規第15条第4項)[1]。当然ながら禁止薬物の使用は厳禁とされており(内規第15条第5項)[1]、大会の要項にはドーピング検査等に関する規定がある[26]
  • 往路と復路の各区間において給水が実施されるが、給水場所の選定や実施方法については駅伝対策委員会で設定される(内規第15条第6項)[1]。各区間の給水場所(給水ポイント)は、近年、チーム間で給水の必要性が議論され始めた末に設けられたものである(後述)。ただし、マラソンなどで行なわれる給水とは異なり、テーブルに置かれたボトルなどを取るのではなく、控え部員が伴走しながら渡す。ボトルは協賛しているサッポロビールのものが使用されている、商品の変例はヴィッテル→ヴァットヴィレール→富士山麓のきれいな水、この他に監督の任意で2回までの給水が認められている。
  • 鉄道踏切における遮断閉鎖は不可抗力ではあるが、審判員が計時を行い、その間のロスタイムは競技者の所要時間に含まれないこととなる(内規第15条第7項)[1]。実際には近年は鉄道会社の配慮によって電車の一旦停止やダイヤ調整が行われている。2012年の京急蒲田第一踏切の高架化によって第89回(2013年)以降に競走路上に存在している踏切は箱根登山鉄道の小涌谷踏切のみとなった。
    • 東海道踏切(JR東海道線横須賀線。通称・戸塚大踏切) - かつては戸塚中継所の近くにある東海道線・横須賀線の東海道踏切(戸塚大踏切)を通るコースが設定されたが、開かずの踏切だったため、状況によっては長時間の立ち往生を余儀なくされた[27]。当時は踏切での足止めによるタイムロスが計算されず、業を煮やした選手が踏切上で立往生した貨物列車のすき間をかいくぐったり、列車がこない合間を見計らって踏切を突破したりすることもあった。第20回(1939年)では、先行する専修大学を猛追していた日本大学が、ここでの足止めが元で優勝を逃したというケースもあり、このタイムロスを味わった選手は「あの時以来横須賀線には乗らない」と振り返っている。しかし、1953年、当時首相の座にあった吉田茂が大磯の私邸から上京する際にこの区間が渋滞することに激怒し、バイパスが造られ、これによって箱根駅伝のコースもバイパス側に再設定されたため結果として踏切遮断による足止めが解消されることとなった[28](バイパスについては戸塚道路も参照)。なお、東海道踏切については2014年度末の完成に向けてアンダーパスの工事が進んでいる[28]
    • 蒲田第一踏切(京浜急行電鉄空港線) - 第88回(2012年)まではコース上(往路1区・復路10区)には京急空港線の京急蒲田駅に隣接する京急蒲田(空)第一踏切があり、ランナーの通過が予想される時刻を対象に京急本線空港線で臨時ダイヤを組むなどして電車の行き先を変更していた。2007年の第83回から、列車の発車は京急社員の代用手信号によって許可されるなどの措置が取られていた[注 3]。第84回(2008年)では東海大学の選手が踏切内の線路につまづいて足を痛め、その後20km過ぎで棄権に至るというアクシデントが発生した。その後、2010年5月16日、上り線が先行して高架化された為、臨時ダイヤが大幅に変更され、選手通過中は踏切を使用停止にする事が可能となった。その後、2012年10月に立体交差化事業が完成したことによって蒲田第一踏切は廃止となり第89回(2013年)以降は当該ポイントでの踏切通過はなくなった[29]
    • 小涌谷踏切(箱根登山鉄道鉄道線) - 小涌谷駅横のコース上(往路5区・復路6区)にあり、現在では選手が通過する時間帯に箱根登山鉄道の係員が待機し、選手通過時には電車を踏切手前で停止させる措置がとられている[30]。かつては箱根山中で箱根登山鉄道の踏切に駅伝の隊列が引っかかり、やむを得ず選手を先に行かせて関係車両が後から追い掛けるハプニングもあった。最近ではバイクカメラによる中継で選手を後ろから追うことも多くなっているが、このハプニングの際には通常は選手の正面から撮影している大型の中継車が選手の後姿を放映するという、当時としては珍しい映像が放送される事態になった。現在、小涌谷踏切が、コース上唯一の踏切となった。
  • 特殊事情によって審判員に走行を制止された場合のロスタイムも原則として競技者の所要時間に含まれないが、この場合の計時も審判員が行う(内規第15条第8項)[1]

服装・ナンバーカード・タスキ

  • 出場各競技者の服装(ランニング用シャツ、ランニング用パンツ、トレーニング用シャツ等)は、各チーム統一のものを使用した上で胸部と背部に大会本部指定のナンバーカードを取り付けるが、学連選抜チームについては各選手の所属校のものの着用が認められる(内規第16条第1項)[1]。テレビ中継が始まったころからPRの目的でユニフォームを変更する大学も見られた。戦前から出場している伝統校は、胸にアルファベット1文字のユニフォームが多く(早稲田大学の「W」、中央大学の「C」など)、新興校は校名を漢字で記載するケースが多い。また、特に日本テレビによる中継開始後に初出場を果たした大学は、色合いが派手なユニフォームを着用する傾向がある。
  • タスキについては事前に連盟に提出された各チーム独自のタスキ2本のうちの1本を中継し、残りの1本は大会本部が保管することとなっている(内規第16条第2項)[1]。なお、繰り上げ出発のチームは、大会本部で用意する黄色と白色のストライプのタスキを使用することになるが、5区と10区については各校とも事前に本連盟に提出された各チーム独自のタスキを使用する(内規第16条第3項)[1]。繰上げのタスキの色は、早稲田大学のタスキの色に見えるという理由で、白と黄色のツートンカラーに変わった。

走行不可能

途中棄権

競技者が競技中にケガや疾病などによって走行困難となり歩行、立ち止まり、横臥などの行動に移った場合で、本人がなお競技続行の意思をもっている場合にも、運営管理車に同乗の競技運営委員、走路管理員、監督またはコーチの三者の合意によって競技を中止させることができる(内規第17条第1項)[1]。競技中止の通告は、大会の競技運営委員が当該走者に対して赤旗を挙げて示す、という手順で行われる[31]

競技者が走行困難となり競技中止・途中棄権となった場合、その区間の前区間までの記録は公式に認められるが、次区間からはオープン参加として繰り上げ出発し以後走行そのものは許されるが記録は公式に認められない(内規第17条第2項)[1]

大会史上、計11大会でのべ15チームが途中棄権している。

  • 途中棄権は1970年代までの50回以上行われた大会の中で3件しか発生していなかった。しかし第71回(1995年)に19年ぶりの途中棄権が順天堂大によりなされて以降、第90回までの20年間で延べ12件の途中棄権が発生している。この20年の間には同一大会での複数校による途中棄権も3度発生している。
  • 同一大会での途中棄権校の数が最も多かったのは3校が棄権した第84回(順天堂大、大東文化大、東海大)である。また第72回(神奈川大、山梨学院大)、第89回(城西大、中央大)では2校が棄権している。
  • 同一大会の同一区間での複数校による途中棄権は、これまでに第72回(4区、神奈川大と山梨学院大)、第89回(5区、城西大と中央大)の2度生じている。
  • 過去2度の途中棄権をしている大学は、順天堂大(第71回、第84回)、東海大(第77回、第84回)、城西大(第85回、第89回)、山梨学院大(第72回、第90回)の4校である。
  • これまでの計11大会で発生している途中棄権のうち、第71回以降では2年続けて途中棄権が発生するケースが4度生じている(第71回と第72回(2校)、第77回と第78回、第84回(3校)と第85回、第89回(2校)と第90回)。
  • 早い段階での途中棄権については、第77回では東海大が、翌年の第78回では法政大が、第90回大会では山梨学院大が、それぞれ第2区で途中棄権している。最も短い距離での棄権は2区7.2km過ぎ地点での棄権となった第78回の法政大である。
  • ゴール間近での途中棄権については、往路では第84回の順天堂大が5区の芦ノ湖ゴールまで残り500mの地点で棄権している。復路では第52回の青山学院大が10区のゴールまで残り150mの地点で棄権している。
  • 前年優勝校による途中棄権は、これまで2度生じている。第72回の山梨学院大、第84回の順天堂大である。
  • これまで途中棄権が最も多い区間は、過去3チームが棄権している2区、5区及び10区である。一方、まだ途中棄権が発生していないのは1区、6区及び7区である。
  • 途中棄権した大学は以降の区間でオープン参加の扱いとなるが、棄権した以降の区間で参考記録ではあるが区間1位の公式記録を上回るタイムを記録したケースが2度生じている。第85回9区での城西大(復路8区で棄権)、第89回8区での中央大(往路5区で棄権)であるが、いずれの場合も参考記録扱いのため区間賞とはならなかった。ただし、かつては個人記録および一部のチーム記録(往路で途中棄権した場合は復路のチーム記録のみ)が公認されたことがある。第72回の7区と9区の神奈川大(往路4区で棄権)、10区の山梨学院大(往路4区で棄権)が途中棄権した以降の区間で区間賞を獲得している。
  • 5区、10区以外で途中棄権した場合、次の区間のスタート時間は大会規定により繰り上げスタートと同様の扱いとなっているが、交通事情を考慮し、審判主任の裁定によりそのスタート時間を早める場合もある。第72回の4区で神奈川大と山梨学院大が途中棄権した際は、本来は小田原中継所を1位で通過した早稲田大から20分差でスタートとなるが、交通渋滞を考慮して、最下位(13位)の東洋大が1位から10分03秒後に襷リレーを行った1分後に両校が一斉スタートとなった。第78回の2区で法政大学が途中棄権した際は、本来は戸塚中継所を1位で通過した山梨学院大から10分差でスタートとなるが、最下位(14位)の東海大が1位から4分00秒後に襷リレーを行ったと同時にスタートとなった。
  • 棄権には至らないものの故障や体調不良によるブレーキの事例が例年生じている。チーム競技である駅伝の特性上、体調を崩したり故障箇所を抱えている場合であっても、選手は「襷をつなぎたい」と思うがゆえに無理を押して走行を続けようとする傾向が見られる。この場合、指揮官としても止めがたい側面もあるが、場合によっては選手生命にも影響を及ぼしかねないため、途中棄権についての判断の是非は重要課題となっている。
  • 途中棄権を回避するには、コンディションの悪い選手のエントリーからの除外、区間エントリー時での補欠選手との交代といった方策がある。また、エントリー数が20チームに増加した第79回(2003年)からは、本番までのチームマネジメントに余裕を与えるよう配慮がなされている。しかし本番直前の時期に調整不足や体調不良であった場合でも、その選手がそれまで良い成績を記録していたりチームのまとめ役だったりすると、本人が強い責任を感じている傾向にある上、監督としてもチーム事情を考慮した上で強行出場させてしまうケースがまま散見され、途中棄権の解消には至っていない。2012年(第88回)大会の東京農業大学5区の選手の様にエントリー締切後に不調訴えるも、選手が交代できない事案もある。
  • 近年は特に、脱水症状による途中棄権や足が止まってしまうケースが増える傾向にある。

代走(再走)

現行ルールでは存在しないが過去の記録の上では、正規の選手が走行不能となった時に補欠選手を改めて走り直す「代走(再走)」が行われているケースが確認できる。これは当時のルールが「走行不能になった場合、途中棄権とはならず、代走にて再度該当区間初めから走り直し記録は残る」[32]となっていた事による。このケースでは同一区間について複数名の選手名の記載が確認できる資料がある。このような「代走(再走)」で過去の記録の上では5件確認できる[33]

タスキの中継方法

タスキの受け渡しは、前走者が完全に所定の中継線を通過した上で、中継線の進行方向20m以内で次走者に渡して行うこととなっている(内規第18条第2項)[1]

繰り上げ出発(繰上げスタート)

往路の鶴見・戸塚中継所については先頭走者から10分遅れたチーム、往路の平塚・小田原中継所と復路すべての中継所については先頭走者から20分遅れたチームは、車輌混雑が予想されるため、各中継所審判主任の裁定で、前走者が到着しなくても次の走者を出発させる(内規第19条)[1][34]。これを「繰り上げ出発」という[1](報道などでは「繰上げスタート」といわれている)。

内規第16条第3項により、繰り上げ出発のチームは、2区から4区・7区から9区では、大会本部で用意する黄色と白色のストライプのタスキを使用することになる[1][35](ファンの間では俗に「繰り上げタスキ」と呼ばれている[1])。そのため、それまで走っていた選手らにとっては、自らの学校のタスキが全区間つながらなかったという悔しさがにじみ出る瞬間であるといわれ、実際に日テレの放送では「無念の繰り上げ」という表現も使われる。同時に出場校はすべての中継所で繰り上げを回避するべく高い競技レベルを維持することが要求される。

復路のスタート

復路のスタートは、1位から10分以内の大学は時差出発を行い、その他の大学は1位校のスタートから10分後に同時出発する(内規第20条)[1]。つまり、往路のゴールにおいて1位から10分を超えて到達した大学は、翌日の復路では午前8時10分(JST)に同時出発となる(復路の一斉スタートについては「復路一斉スタート」「繰り上げ一斉スタート」などと呼ばれている)。

復路のスタートで同時出発が行われた場合、復路では各チームが走行している順位(見かけ上の順位)と往路から通算した実際の順位が異なる場合を生じるため、チームの総合順位は見た目のタイムに繰上げ分の時間差を加算して算出される。またテレビ中継における順位は、復路同時出発による時間差が換算された上で表示される。

これらの事情もあり、復路で一斉スタートとなったチームの場合、復路で最初にゴールした場合でも、往路のタイムとの関係から総合優勝とならないケースがある。

そのため、復路の一斉スタートも10分ではなく20分にすべきという主張もあるが、交通規制などの関係から難しいとされる。

同タイムの順位

繰り上げ出発などにより、ゴールの着順が成績順位を示さない場合の同タイム校の順位決定は、区間上位者数の多少によるものとされ、まず区間1位の数で比較し、同数ならば区間2位の数と順位を一つずつ下げながら数を比較していき、多い方が上位となる(内規第21条)[1]

この方法でも同タイム校が複数になった場合は、すべて同順位として扱われ、10位同タイム校が複数になった場合は、すべて10位校として翌年へのシード権が与えられる(内規第21条)[1]

歴史

箱根駅伝が着想されるに至ったきっかけは1919年10月、金栗四三が埼玉県鴻巣市で行われた小学校の運動会に審判として招かれたことであった。帰路の車中、金栗は(同じく審判として招かれていた)2人の陸上選手、東京高師の後輩・野口源三郎および明治大学の学生だった沢田英一と語り合った。沢田英一がその年の6月に同窓の出口林次郎と二人で札幌・東京間の走破を成し遂げていたことを踏まえ、3人は世界の耳目を集め、日本の長距離選手を育成するような外地での長距離走はできないものかと考えた。このときの結論が「アメリカ大陸横断駅伝」であった。その「予選会」という位置づけで国内での駅伝大会の実施が企図された。アメリカ大陸横断コースで最も大きな障壁となるであろうロッキー山脈の走破を見据え、この「予選会」のコースとして選ばれたのが山越えをコースに含む東京-箱根間であった。金栗らは大学や新聞社を回って参加と協力を訴え、金策に苦労しながらもなんとか1920年2月14日の第1回箱根駅伝の実施へこぎつけた。

こうして箱根駅伝の歴史が始まるが、肝心の「アメリカ大陸横断駅伝」は実現しなかった。明治大学の出口林次郎と早稲田大学の生田喜代治らは箱根駅伝の実施に協力を惜しまなかった報知新聞社を訪ねて再び計画への協力を願ったが、実現は難しいという答えしか得られなかった。二人はあきらめず毎日新聞社の資金を得て調査のため1922年にアメリカに渡った。結局「アメリカ大陸横断駅伝」の話はそのまま頓挫した。その後、出口はコーネル大学からベルリン体育大学に学び、母校明治大学で教鞭をとることになった。しかし生田は渡米5年目の1927年メキシコのカンセンシコで事業をめぐるトラブルに巻き込まれて横死している。資料によっては「アメリカに渡った学生が殺害されたため、アメリカ横断駅伝の計画はついえた」という書き方がされていることがあるが、実際には計画は早々に頓挫しており、生田の死によって駅伝計画が中止されたわけではない[36]

箱根駅伝は、寒さのため箱根で最も観光客の少ない2月に(第1回開催は2月)、2日間に渡って開催することで、ホテルや旅館に宿泊してもらう事を目的とした町おこしのイベントであり、当時の箱根町郵便局長が小田原に住む河野治平県会議員に開催の相談を持ちかけたのがきっかけという説もある。そのため後述のように地元の協力があり、競技のルールもあいまいであったと言われている。ちなみに河野治平の息子は、第1回箱根駅伝で4区を走った河野一郎であり、孫は関東学生陸上競技連盟の役員を務めた河野洋平である。そもそも駅伝とは飛脚(郵便配達)をもとにした日本独自の競技であり、箱根駅伝は手紙に見立てた襷を、東京から宿駅があった鶴見、戸塚、平塚、小田原で手渡し、日本最古の郵便局である箱根町郵便局まで届けて、東京まで戻るまでの速さを競うという意味があり、箱根町郵便局は当時よく知られていた[37]。なお、郵便局は戦後にゴール地点から移転している。

黎明期は現在のように開催期日が固定されていたわけではなかった。また「学生の本分は勉強」という理由で、午前中に授業をした後で午後からスタートすることもあった[38]。このためにレース途中で日没となり、中でも5区の選手が暗闇の中を走らなければならなかった。実際には地元の青年団の団員が松明を持って伴走したために事なきを得た[39]

山登りの5区は当初はスタートとゴールしか決まっておらず、出場校は箱根山中をできるだけ近道をしようと思っていた。しかし前述のように選手を心配した地元の人たちが松明を持って伴走するなど協力があったので、結局は近道をするチームはなく、全チームが無事に走り終えることとなった。山登りのあまりの苦しさに、道端の木にしがみつき泣きじゃくる選手もいたという。

日本大学は選手の代わりにをもらった人力車夫が走ったこともあり4人抜きを見せたが、翌年の出場を辞退せざるを得なくなった[40]

勤労学生の出場で二重登録による失格処分になったり、ゴール直前で失神した選手を関係者がラインまで引きずり込んだにもかかわらず失格にならなかったりと失格に関する基準も曖昧だった[41]。なお箱根駅伝関係の書籍に出場校の歴代全成績がよく掲載されているが、公式順位がついているものの実際には失格扱いになっている大学がいくつかある模様である。このように、かつての成績については資料によって若干の違いが見受けられる。

第二次世界大戦前は学制の違いもあり、大学予科から大学本科まで入れると5回以上の出場が可能だった。大学専門部から予科を経て本科まで通い、最高で8回出場を果たした選手がいる。

第二次世界大戦前から終戦直後に掛けては学生数の絶対的な不足もあって、1チーム10人のメンバーを組むこと自体が困難だった[42]。そのため、戦後すぐのころまでは他の種目の選手が起用されることは決して珍しいことではなかった。同じ陸上競技である短距離や跳躍、投擲選手が起用されたことはまだいい方で、ラグビースキーの選手が登場した例も多かったという[43]。現在でも高校から陸上を始めた選手は多く見受けられ、第82回(2006年)・第83回(2007年)大会に出場した亜細亜大の岡田晃や第84回(2008年)・第85回(2009年)・第86回(2010年)に出場した大東文化大の清野篤のように大学から陸上競技を始めた選手もいる。また、1970年代ごろまでは実業団経由で入ってきた選手も多かった。

モータリゼーション化で交通渋滞が増えてきたのが高度経済成長のころ。全国的な知名度はまだ低かったがコース沿線地域での人気は高かったため、コース周辺の交通渋滞に警察からも開催中止要請が出たこともあった[44]。主催者側と警察側との折衝で15校制や繰上げスタートなどのルール改正がなされたことにより、中止要請は出なくなり15校制は第78回(2002年)まで続いた。

1960年代から1970年代に掛けては体育系学部を擁する大学が台頭してきたが、この頃は学生運動の時期と重なり、それが好成績にも影響しているとの説もある。

西暦 和暦 テンプレート:Nowrap テンプレート:Nowrap 内容
テンプレート:Nowrap テンプレート:Nowrap テンプレート:01回 テンプレート:Nowrap 第1回大会として2月14日~15日に実施。明治大学、早稲田大学、慶應義塾大学、東京高等師範学校の4校が出場。東京高等師範学校(現・筑波大学)が優勝。開催に当たって東京帝国大学や中央大学、法政大学、立教大学、日本大学、東京農業大学、東洋大学、専修大学など多くの大学・旧制専門学校・師範学校などに対して参加を呼び掛けるが、10人の選手を出場させる状況にある学校が少なく、最終的にこの4校となった。このときは午前中は授業を行い、午後にスタートした。そのため、ゴールしたときには夜になっていた[45]
1921年 大正10年 テンプレート:02回 明治大学 1月8日~9日に実施。東京農業大学、法政大学、中央大学が初出場。明治大学が初優勝。
1922年 大正11年 テンプレート:03回 早稲田大学 1月7日~8日に実施。東大農学部実科、日本歯科大学、日本大学が初出場。早稲田大学が初優勝。
1923年 大正12年 テンプレート:04回 早稲田大学(2) 1月6日~7日に実施。早稲田大学が2連覇。
1924年 大正13年 テンプレート:05回 明治大学(2) 1月12日~13日に実施。
1925年 大正14年 テンプレート:06回 明治大学(3) 1月6日~7日に実施。明治大学が2連覇。大会後、日本大学が3区の走者としてエントリー選手ではない選手を出したことが発覚、順位成績取消は免れたものの、翌年の大会参加を辞退[46]
1926年 大正15年 テンプレート:07回 中央大学 1月9日~10日に実施。中央大学が初優勝。
1927年 昭和テンプレート:02年 テンプレート:08回 早稲田大学(3) 大正天皇崩御の影響により4月9日~10日に開催。そのため参加校は5校のみとなった。早稲田大学が初の完全制覇(総合、往路、復路の全部門で優勝)。
1928年 昭和テンプレート:03年 テンプレート:09回 明治大学(4) 1月7日~8日に実施。明治大学が初めて13時間台の総合成績を記録。関西大学を特別招待。
1929年 昭和テンプレート:04年 第10回 明治大学(5) 1月5日~6日に実施。明治大学が2連覇。
1930年 昭和テンプレート:05年 第11回 早稲田大学(4) 1月4日~5日に実施。9区で日本大学が正規選手の走行不能により初の補欠による再走。
1931年 昭和テンプレート:06年 第12回 早稲田大学(5) 1月10日~11日に実施。早稲田大学が2連覇。関西大学を特別招待。1区で東京文理科大学、4区で明治大学がそれぞれ正規選手走行不能のため補欠による再走を実施。
1932年 昭和テンプレート:07年 第13回 慶應義塾大学 1月9日~10日に実施。慶應義塾大学が初優勝。関西大学を特別招待。
1933年 昭和テンプレート:08年 第14回 早稲田大学(6) 1月7日~8日に実施。早稲田大学が初めて12時間台の総合成績を記録。東洋大学、拓殖大学が初出場。
1934年 昭和テンプレート:09年 第15回 早稲田大学(7) 1月6日~7日に実施。専修大学、立教大学が初出場。
1935年 昭和10年 第16回 日本大学 1月5日~6日に実施。日本大学が初優勝。
1936年 昭和11年 第17回 日本大学(2) 1月4日~5日に実施。日本大学が2連覇。横浜専門学校が初出場。
1937年 昭和12年 第18回 日本大学(3) 1月9日~10日に実施。日本大学が初の3連覇を達成し当時の大会規約により優勝旗が授与された。その後大戦による混乱で紛失し、竿だけが大学内に保管されている[47]。日本大学は翌1938年も優勝し、戦前唯一の4連覇を達成している。
1938年 昭和13年 第19回 日本大学(4) 1月8日~9日に実施。日本大学が4連覇。2着の明治大学が6区の走者の資格疑義により失格、以下順位が繰り上がる。失格の理由は、当該選手が夜間部に在籍する学生で二重登録に当たるというもの[48]
1939年 昭和14年 第20回 専修大学 1月7日~8日に実施。専修大学が初優勝。
1940年 昭和15年 第21回 日本大学(5) 1月6日~7日に実施。
1941年 昭和16年
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第二次世界大戦の激化により東海道・箱根路の使用が禁止され大会中止。代替駅伝として明治神宮水泳場前-青梅熊野神社間往復駅伝を1月と11月に実施(歴代大会には含めない)。
1942年 昭和17年
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戦時命令により日本学連が解体する。
1943年 昭和18年 第22回 日本大学(6) 戦時中により従来の東京-箱根間大学駅伝に代わり靖国神社-箱根神社間往復関東学徒鍛錬継走大会を第22回大会として1月5日~6日に実施。青山学院大学が初出場。
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戦況激化により箱根駅伝は3年間再び中断。
1947年 昭和22年 第23回 明治大学(6) 駅伝大会を復活し、第23回大会として1月4日~5日に開催。神奈川師範学校が初出場。戦時中の旧ビルマ捕虜でマラリアに感染していた当時のアンカーが必死で追い上げた末、中央大学が準優勝となる。初めての予選会(第1回関東大学高専10マイル)を前年12月に実施。読売新聞社が共催に入るが「学生の大会を私企業が催すことは好ましくない」とのGHQからの指導があり、後援となる。
1948年 昭和23年 第24回 中央大学(2) 1月6日~7日に実施。この年の大会からスタート・ゴールを当時の銀座の読売新聞社前(現在のプランタン)とした。
1949年 昭和24年 第25回 明治大学(7) 1月5日~6日に実施。神奈川師範学校(現:横浜国立大学)が大会史上初の途中棄権〈3区〉。日本体育専門学校が初出場(現:日体大、以降現在まで連続出場)。報知新聞社が後援につく。
1950年 昭和25年 第26回 中央大学(3) 1月5日~6日に実施。前年4月に新制大学が発足し、参加チームも再編の影響をうけ新しい校名で参加(神奈川師範学校→横浜国立大学、文理科大学・東京体育専門学校→東京教育大学、日本体育専門学校→日本体育大学、横浜専門学校→神奈川大学)。
1951年 昭和26年 第27回 中央大学(4) 1月5日~6日に実施。中央大学が2連覇。駅伝有害論の影響により慶應義塾大学が大会参加を取りやめを決定(不参加に因る選手数の影響もあり、慶應義塾大学は以後約10年間出場せず)。東京農業大学が復路で失格。
1952年 昭和27年 第28回 早稲田大学(8) 1月6日~7日に実施。成蹊大学が初出場。
1953年 昭和28年 第29回 中央大学(5) 1月4日~5日に実施。NHKラジオによる全国放送が開始。
1954年 昭和29年 第30回 早稲田大学(9) 1月6日~7日に実施。横浜市立大学が初出場。3区で日本体育大学、8区で法政大学がそれぞれ正規選手走行不能のため補欠による再走を実施。
1955年 昭和30年 第31回 中央大学(6) 交通事情を考慮し大会日程を1月2日及び3日に変更。
1956年 昭和31年 第32回 中央大学(7) 中央大学が2連覇。東京学芸大学が初出場。前年11月の予選会で初めて下位成績の4校が予選会落選。予選上位15校が本大会に出場。
1957年 昭和32年 第33回 日本大学(7) 第33回大会からシード権制度を初めて適用。前回大会の上位10校を予選会を免除して参加可能とする。国士舘大学が初出場。同じく予選会を突破していた順天堂大学が本大会でチーム編成が不能となったため、神奈川大学が繰り上がりで出場。
1958年 昭和33年 第34回 日本大学(8) 順天堂大学が初出場。横浜市立大学が途中棄権〈9区〉。
1959年 昭和34年 第35回 中央大学(8) 埼玉大学が初出場。予選会5位が神奈川大学、6位が埼玉大学であったが後に計算ミスが発覚し順位が入れ替わる事態となった為、特例で両校の出場が認められる[8][注 4]。この大会のみ16校が出場。
1960年 昭和35年 第36回 中央大学(9) 中央大学が初めて11時間台の総合成績を記録して2連覇達成。
1961年 昭和36年 第37回 中央大学(10) 中央大学が3連覇。防衛大学校が初出場。
1962年 昭和37年 第38回 中央大学(11) 中央大学が4連覇。
1963年 昭和38年 第39回 中央大学(12) 中央大学が初の5連覇達成。
1964年 昭和39年 第40回 中央大学(13) 中央大学が初の6連覇達成。第40回を記念して立命館大学と福岡大学を招待(オープン参加)し全17校にて実施。
1965年 昭和40年 第41回 日本大学(9)
1966年 昭和41年 第42回 順天堂大学 復路スタートを全校一斉スタートに変更。順天堂大学が初優勝。前年実施の予選会会場が千葉市の検見川ロードレースコースに変更。
1967年 昭和42年 第43回 日本大学(10) 亜細亜大学、駒澤大学が初出場。
1968年 昭和43年 第44回 日本大学(11) 日本大学が2連覇。大東文化大学が初出場。
1969年 昭和44年 第45回 日本体育大学 日本体育大学が初優勝。
1970年 昭和45年 第46回 日本体育大学(2) 日本体育大学が2連覇。
1971年 昭和46年 第47回 日本体育大学(3) 日本体育大学が3連覇。シード権枠を9校に変更。
1972年 昭和47年 第48回 日本体育大学(4) 日本体育大学が4連覇。前年実施の予選会会場が八王子市内の富士森競技場付属コースに変更。
1973年 昭和48年 第49回 日本体育大学(5) 日本体育大学が5連覇を達成。東海大学が初出場。自衛隊車両が大会関係車両として登場。
1974年 昭和49年 第50回 日本大学(12) 第50回を記念して全20校で実施。過去の全優勝校を参加させるためにシード9校以外で過去に優勝した5校を招待参加とし、残り枠6を予選通過校とした。
1975年 昭和50年 第51回 大東文化大学 大東文化大学が初優勝。
1976年 昭和51年 第52回 大東文化大学(2) 復路スタートで上位数チームを時差スタートに変更。大東文化大学が2連覇。青山学院大学が途中棄権〈10区、ゴール前150m地点での棄権〉。
1977年 昭和52年 第53回 日本体育大学(6)
1978年 昭和53年 第54回 日本体育大学(7) 日本体育大学が2連覇。前年実施の予選会会場が大井埠頭周回コースに変更。
1979年 昭和54年 第55回 順天堂大学(2) 大会の模様をテレビ東京が初めてテレビ中継を行う(ダイジェスト版で、最後のゴールのみ生放送)。
1980年 昭和55年 第56回 日本体育大学(8) 2区のみNHKテレビが中継する。
1981年 昭和56年 第57回 順天堂大学(3)
1982年 昭和57年 第58回 順天堂大学(4) 順天堂大学が2連覇。
1983年 昭和58年 第59回 日本体育大学(9)
1984年 昭和59年 第60回 早稲田大学(10) 第60回を記念して全20校で実施。本大会では過去の優勝校を無条件で参加させるのではなく、制限タイムつきでの予選会突破を義務付けたが、対象3校(中央・慶應・明治)はいずれも予選会を突破。東京大学が初出場。国立大の東京学芸大学が23年振りに出場。
1985年 昭和60年 第61回 早稲田大学(11) 早稲田大学が2連覇。
1986年 昭和61年 第62回 順天堂大学(5)
1987年 昭和62年 第63回 順天堂大学(6) 順天堂大学が2連覇。日本テレビによる生中継放送が開始。山梨学院大学が初出場。
1988年 昭和63年 第64回 順天堂大学(7) 順天堂大学が3連覇。
1989年 昭和64年 第65回 順天堂大学(8) 順天堂大学が4連覇を達成。留学生選手が初めて箱根路に登場。
1990年 平成テンプレート:02年 第66回 大東文化大学(3) 伴走車(監督車)が交通事情により廃止。
1991年 平成テンプレート:03年 第67回 大東文化大学(4) 大東文化大学が、出雲駅伝、全日本大学駅伝と合わせて史上初の大学駅伝三冠達成。
1992年 平成テンプレート:04年 第68回 山梨学院大学 山梨学院大学が初優勝。
1993年 平成テンプレート:05年 第69回 早稲田大学(12)
1994年 平成テンプレート:06年 第70回 山梨学院大学(2) 山梨学院大学が初めて総合成績10時間59分台を記録。第70回を記念して例年より5校多い11校を予選通過とし20校にて実施。まず予選通過の9校が選出され、中央学院大学、関東学院大学が初出場。後日特例として慶應義塾大学、筑波大学の出場も決まる。
1995年 平成テンプレート:07年 第71回 山梨学院大学(3) 山梨学院大学が2連覇。順天堂大学が途中棄権(10区)。
1996年 平成テンプレート:08年 第72回 中央大学(14) 史上初の2校(神奈川大学〈4区〉、山梨学院大学〈4区〉)途中棄権[注 5]
1997年 平成テンプレート:09年 第73回 神奈川大学 神奈川大学が初優勝。前年途中棄権からの優勝、予選会突破からの優勝は初めての快挙。監督会議にて給水の必要性が議論され、以後14キロ過ぎに給水ポイントを設置することが決まる。
1998年 平成10年 第74回 神奈川大学(2) 神奈川大学が2連覇。帝京大学が初出場。
1999年 平成11年 第75回 順天堂大学(9) 10区のコースを日本橋経由に変更。
2000年 平成12年 第76回 駒澤大学 5区と6区のコースが一部変更。元の東海道を通るコースになる。駒澤大学が初優勝。
2001年 平成13年 第77回 順天堂大学(10) 順天堂大学が優勝し、史上2校目の大学駅伝三冠達成。國學院大學、平成国際大学が初出場。東海大学が途中棄権〈2区〉。前年実施の予選会の会場が国営昭和記念公園に変更。
2002年 平成14年 第78回 駒澤大学(2) 法政大学が途中棄権(2区。スタートから最短地点(2014年現在)での途中棄権)。
2003年 平成15年 第79回 駒澤大学(3) 第79回大会から前年度成績上位校によるシード枠を10校、予選会からの出場枠を9校に増加、さらにオープン参加として関東学連選抜チームを加えて20チームとする。エントリー人数が16人に拡大。運営管理車の導入など大幅な変更。
2004年 平成16年 第80回 駒澤大学(4) 第80回を記念して同年のみ関東学連選抜に代わり、日本学連選抜がオープン参加した。城西大学が初出場。この大会で陸上自衛隊第1師団からの車両・要員支援が終了。読売新聞社が共催に復帰。箱根町の要望により第80回を記念し、前年10月実施の予選会をこの回限定として芦ノ湖畔コースで実施。また年末にかけてシンポジウムやトークショーなどの記念行事が行われた。
2005年 平成17年 第81回 駒澤大学(5) 距離を再計測し、全区間の距離表示を変更(ルート自体は変更せず)。表彰式を東京ドームホテルで公開して開催。箱根駅伝ミュージアムが往路ゴール脇に完成。予選会での外国人枠は2人までに限定。実際に走るのは1人のみ。駒澤大学が平成初の4連覇を達成。前年10月実施の予選会のコースが陸上自衛隊立川駐屯地立川市街地→国営昭和記念公園のルートに変更された。
2006年 平成18年 第82回 亜細亜大学 亜細亜大学が初優勝。中距離及びマラソンランナーの育成を目的として往路の小田原中継所を東京寄りの位置に変更。4区が20kmを切る最短区間(18.5km)、5区が2区や9区を上回る最長区間(23.4km)になる。
2007年 平成19年 第83回 順天堂大学(11) 関東学連選抜が正式参加となる。
2008年 平成20年 第84回 駒澤大学(6) 史上初の3校(順天堂大学〈5区〉、大東文化大学〈9区〉、東海大学〈10区〉)途中棄権。関東学連選抜が4位に入り、シード枠を1校分減らしたため、第85回大会の予選会枠が1つ増えた。
2009年 平成21年 第85回 東洋大学 第85回を記念して全23チームで実施。シード校9校と選抜チーム以外の13校を予選会で選考。上武大学が初出場[注 6]。青山学院大学が過去最長となる33年振りの出場。東洋大学が初優勝(往路、復路でも優勝する完全優勝)[注 7]。城西大学が途中棄権〈8区〉。関東学連選抜が9位に入ったほか、3位の日本体育大学が跳躍選手の不祥事(大麻使用歴及び偽札製作)によりシード権が剥奪されたため、第86回の予選会枠が2つ増えた。
2010年 平成22年 第86回 東洋大学(2) 東洋大学2連覇。
2011年 平成23年 第87回 早稲田大学(13) 早稲田大学、史上3校目の大学駅伝三冠達成。史上2回目、現コース初の総合成績10時間59分台を記録。
2012年 平成24年 第88回 東洋大学(3) 東洋大学が完全優勝。往路成績、復路成績、総合成績の全部門で記録更新。
2013年 平成25年 第89回 日本体育大学(10) 日本体育大学が前年19位からの優勝。強風の影響もあり、2校(城西大学〈5区〉、中央大学〈5区〉)途中棄権。
2014年 平成26年 第90回 東洋大学(4) 第90回大会を記念して、シード校10校と予選会を通過した13校の最多23校で実施。関東学連選抜は今大会のみ編成せず。東洋大学が完全優勝。復路成績で記録更新。山梨学院大学が途中棄権〈2区〉。予選会でのインカレポイント制度廃止。

成績・表彰・式典

成績

歴代出場校順位成績

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歴代本戦出場校一覧

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表彰

以下のような表彰がある[26]

  • 総合優勝校には、賞状、優勝カップ、金メダル、優勝旗などを授与(内規第24条第1項)[1]。優勝校監督には記念品を授与(内規第24条第6項)[1]
  • 準優勝校、3位校には、賞状、カップ、メダルを授与。
  • 総合1位から10位までのチームを入賞として賞状とトロフィーを授与(内規第24条第2項)[1]。なお、第78回(2002年)までは入賞は8位までとされていた。
  • 往路優勝校、復路優勝校には賞状とトロフィーと副賞を授与(内規第24条第3項)[1]。なお、往路優勝校に関しては往路ゴール後に箱根町から提供される地元の名産寄木細工のトロフィー(箱根町長杯)が第73回(1997年)より授与されている。
  • 区間賞者(各区間1位の者)には賞状とトロフィーを授与(内規第24条第4項)[1]
  • 最優秀選手には金栗四三杯が授与される(内規第24条第5項)[1]。「日本マラソンの父」と評された金栗四三の功績を讃えるため、第80回(2004年)に新設された最優秀選手賞。最も優秀な記録を出した選手に授与される。なお、金栗四三杯の名称は富士登山駅伝でも用いられておりこちらの方が先に命名されている。山登りの5区を中心に往路から選出されることが多い一方、復路からは第84回(2008年)の篠藤淳中央学院大学)と第90回(2014年)の大津顕杜(東洋大学)の2名しかいない。現在のところ、外国人留学生が同杯を授与したことはなく、3・4・6・7・8区(山下りおよび戸塚 - 平塚 - 小田原間の各区間)からの選出もない。

式典

表彰(優勝校・入賞校・区間賞・金栗四三杯等)は「閉会式」の会場で行われるが、往路優勝の表彰については芦ノ湖の特設会場の「往路表彰式」で行われる[26]。閉会式は1月3日の大会終了後に東京ドームホテルで行われている。

大会運営

本大会

現在

  • 主催 - 関東学生陸上競技連盟[26]
  • 共催 - 読売新聞社[26]
  • 特別後援 - 日本テレビ放送網[26]
  • 後援 - 報知新聞社[26]
  • 特別協賛 - サッポロビール[26]
  • 協賛 - トヨタ自動車[26]ミズノ[26]
  • 協力 - 敷島製パン(Pasco)[26][50]
  • 運営協力 - 東京陸上競技協会[26]、神奈川陸上競技協会[26]、名橋日本橋保存会[26]箱根町[26]、陸上競技社[26]
  • その他協力
    • 警視庁神奈川県警察 - 選手の先導及び安全確保任務のため選抜された白バイ隊員は、このために事前に特別訓練を行なって本番に臨んでいる。
      • 大手町 - 六郷橋:警視庁第1方面交通機動隊(先導担当は各方面隊から特に選抜された隊員が担当)
      • 六郷橋 - 芦ノ湖:神奈川県警第一交通機動隊
      • 第88回(2012年)の10区では、かつて箱根を走った日大陸上部OB(第9方面隊所属、1年次に7区で区間賞、4年次に主将を務め総合4位に貢献)が先導を担当するというエピソードが生まれた[51]
    • ウェザーニューズ - 気象面で運営をバックアップしている。具体的には、各中継地点で、気象情報を収集し、主催者や日本テレビに報告、大会運営や実況中継コメントなどで活用されている。第86回(2010年)からはテレビ中継の各中継地点の気象情報表示時に「気象情報 ウェザーニューズ」のクレジットが表示されている。

過去

運営車両の変遷

第79回(2003年)まで三菱自動車が運営車両を提供していた。第80回(2004年)から第86回(2010年)まではホンダが運営車両を提供した。同時に燃料電池自動車の公道走行試験の為、同社のFCX[52]および後継車種のFCXクラリティが先導車・大会本部車に起用された。但しホンダはトラックバスを製造していない為、同時期に、トヨタ自動車も報道カメラ車としてハイブリッド・ディーゼルトラックダイナハイブリッドを提供している。ホンダが第89回(2013年)まで車両提供契約を締結していたが、第87回(2011年)から第90回(2014年)までトヨタが運営車両全て(医務車と一部の車両を除いてハイブリッドカー)を提供しており[53]、両社のハイブリッドカーPR競争激化にも繋がっている。 各チームの運営管理車はホンダがASIMOのステッカーを左側面に、トヨタは各チームのたすきと同じ色のストライプを87回では車両上部に、88~89回では車両上部と前後に、90回では車両上部と前後に加え左側にも掲出している。また、84回からは運営管理車にスピーカーが取り付けられるようになった。

第76回(2000年) - 第78回(2002年)
三菱・パジェロ
第79回(2003年)
三菱・コルト(運営管理車)
第80回(2004年)
ホンダ・FCX(ZC2)(大会本部車)
ホンダ・オデッセイ(RB1)(運営管理車)
第81回(2005年)
ホンダ・FCX(大会本部車)
ホンダ・エリシオン(運営管理車)
ホンダ・ステップワゴン(医務車)
第82回(2006年)
ホンダ・FCX(大会本部車)
ホンダ・ステップワゴン(RG)(運営管理車・緊急対応車・医務車)
ホンダ・シビックハイブリッド(FD3)(広報車・技術総務車)
第83回(2007年)
ホンダ・FCX(大会本部車)
ホンダ・エディックス(運営管理車)
第84回(2008年)
ホンダ・FCX(大会本部車)
ホンダ・ステップワゴン ステップワゴンスパーダ(RG後期型)(運営管理車)
第85回(2009年)
ホンダ・FCXクラリティ(大会本部車)
ホンダ・フリード(運営管理車)
第86回(2010年)
ホンダ・FCXクラリティ(大会本部車)
ホンダ・ステップワゴン(RK)(運営管理車)
ホンダ・エリシオンプレステージ(医務車)
ホンダ・インサイト(ZE2)(広報車・技術総務車)
第87回(2011年)
トヨタ・SAI(大会会長車)
トヨタ・ヴィッツ(大会本部車)
トヨタ・ラクティス(技術総務車)
トヨタ・プリウス プラグインハイブリッド プロトタイプモデル(ZVW30)(運営管理車・広報車)
トヨタ・FCHV-adv(緊急対応車)
第88回(2012年)
トヨタ・カムリ(大会会長車)
トヨタ・アクア(大会本部車)
トヨタ・プリウスα(運営管理車)
トヨタ・エスティマハイブリッド(緊急対応車)
第89回(2013年)
トヨタ・クラウン(大会会長車・大会本部車・広報車)
トヨタ・プリウスα(運営管理車)
トヨタ・ヴェルファイアハイブリッド(緊急対応車)
第90回(2014年)
トヨタ・プリウス プラグインハイブリッド(大会会長車)
トヨタ・ハリアーハイブリッド(大会本部車)
トヨタ・SAI(技術総務車)
トヨタ・アクア(広報車)
トヨタ・プリウスα(運営管理車)
トヨタ・アルファードハイブリッド(緊急対応車)

予選会

  • 主催 - 関東学生陸上競技連盟[54]
  • 共催 - 読売新聞社[54]
  • 特別後援 - 日本テレビ放送網[54]
  • 後援 - 報知新聞社、国営昭和記念公園、立川市、立川商工会議所[54]
  • 特別協賛 - サッポロビール[54]
    • 第63回(1987年) - 第79回(2003年):サッポロビール(旧法人、現・サッポロホールディングス)。
    • 第80回(2004年) - サッポロビール(新法人)[49]
  • 協賛 - トヨタ自動車[54]、ミズノ[54]
  • 協力 - 敷島製パン(Pasco)[54]
  • 運営協力 - 東京陸上競技協会[54]陸上自衛隊立川駐屯地[54]

学生スタッフ

大会を支えているのは関東学連に加盟している加盟校である。創設以来の学生主体を現在も守り、沿道の走路員スタッフとして学生が起用されている。箱根駅伝に出場するチームで選手や付き添い以外の部員、予選会で落選したチームの選手のほかにも1年生を多数スタッフとして送り込んでくる大学、トラック&フィールドも抱える大所帯の大学からも多数のスタッフが派遣される(過去には末續慎吾為末大なども走路員としてスタッフに加わった。また、第89回(2013年)の往路はディーン元気が3区の茅ヶ崎で早大選手に水を渡す係として加わった)。このことからも分かるように、箱根駅伝は実は単に長距離選手だけで行われているのではなく、多くの裏方に支えられている。その裏方とは種目は違えど、一緒に汗を流すチームメイトでもある。

出場チームの取り組み 〜1年間の流れ〜

  • 3月頃まではハーフマラソンなどのロードレースに出て刺激を受ける選手も多い。そのうちに少しずつスピード練習を取り入れていくが、急激な練習の変化で肉離れなどが起きやすいともいわれる。近年は、この時期に合宿を組む大学も現れている。
  • 春の目標は5月中旬の関東学生陸上競技対校選手権大会(関東インカレ)である。参加標準記録があり、種目ごとのエントリー人数も限りがあるので、それまでは各大学などで行われる記録会で標準記録を突破する必要がある。日本体育大学、東海大学、順天堂大学などが主催して大学内で行う長距離記録会が有名で、箱根出場大学や一部の実業団選手、高校生も出場する(この標準記録も有効期限内のものでなければいけない。大体至近2年ぐらいであることが多いようである)。関東インカレ男子は1部校と2部校(ならびに大学院生の3部校)に分かれ、毎年1部校下位2校と2部校上位2校が入れ替わる仕組みとなっているが、長距離部員のみの大学も多く、総合的なポイント獲得が難しいため、必ずしも強豪校が1部校というわけではない。予選会出場校はこの関東インカレの結果によってアドバンテージポイントが決定されるため、長距離部門以外の種目の結果も重要になってくる。6月中旬には全日本大学駅伝関東地区予選会が開催され、シード校を除く多くの大学が顔を合わせる。7月上旬の日本学生陸上競技対校選手権大会(日本インカレ)が上半期の締めくくりとなるが、出場のハードルは関東インカレよりも更に高い。なお日本インカレはここ数年開催時期が頻繁に変わっているが、これは箱根駅伝に重きを置く関東の大学の意向が反映されているともいわれる。しかし開催時期が夏合宿中の9月上旬の年ほど大学によってエントリーに差が出やすく、結果的に関東インカレよりもレベルの低いメンバーしか集まらないこともあり、後述される駅伝偏重につながる批判の矢面に挙げられている。
  • 一部のトップ選手の場合には日本選手権など世界陸上やオリンピックへの出場を目指して実業団選手と走ることもある。また、近年は関東学連による海外遠征に参加する選手もいる。
  • 大学によって時期のずれはあるが、試験の終わる7月下旬からが夏合宿となる。長期間の合宿を組むところや、何回かに分けて練習場所を変えるところもある。また選手の状態に合わせてAグループとBグループに分け、全く別の場所で行うところもあり、練習のスタイルも異なる。しかし月間で1000kmを超えることは珍しくなく、徹底した走りこみを行うことが特徴である。合宿の場所は北海道東北地方長野県などの高地や避暑地などが多い。また、前出の世界大会などに出場する選手は、チームを離れて別メニューとなることが多い。4年生の場合には就職活動卒業論文などと並行しながら行っている。また教員免許をとる選手の場合には、夏又は秋以降に教育実習もあるためにチームを離れることも多くコンディションづくりも容易ではない。
  • 下半期になると各大学のスタイルは、記録会にほとんど出ないところ、予選会突破を目指すところ、出雲駅伝や全日本大学駅伝を目指すところ、というように分かれてくる。特に駅伝では未経験者を試しに使ったり、様々なオーダーを試したりする使い方をする。9月ごろからは再び頻繁に記録会がある。
  • 予選会に出る大学にとっては、10月中旬の本番までに最高の状態にピークを持っていかなければならない。予選会を突破することが最優先のため、本番の準備(特に5区、6区の山の区間)が遅れがちになる傾向にある。
  • 全日本大学駅伝の後から短期の合宿を組むところもある。候補としては伊豆大島房総半島など温暖な場所が挙げられる。
  • 11月下旬に各地で開催されるハーフマラソンや記録会が、事実上メンバー選考の舞台となることが多い。エースクラスはともかく、当落線上の選手達にとってはここが正念場である。多くの大学が一堂に会するので、次第に大学間の力関係も浮き上がってくる。ここでの選手記録上位校がスポーツ新聞などの「下馬評」で上位校として取り上げられることが多い。
  • 12月10日(第82回は2005年12月9日)までに出場校(チーム)は計16名以内のエントリーを関東学連に提出する。この最大16人がすなわち箱根駅伝本番への出場権を得た選手と言える。これ以外の選手は付き添いなど、裏方として本番までを過ごす。なお、当日午後から出場校の監督コーチマネージャーがマスコミ向けに記者会見を行う。
  • 12月29日にエントリーした最大16人の区間エントリーを行う。16人を10人と残りの人数に分け10人を1区から10区までの区間ごとに、残りの人数を補欠選手として登録する。区間エントリーの詳細については後述。
  • 1月2日午前7時に往路のエントリー変更を締め切る。
  • 1月3日午前7時に復路のエントリー変更を締め切る。

トピックとエピソード

紫紺対決

ユニフォームが白地に紫(実況では藤色)のラインが入った駒澤大学と、紺色の順天堂大学が激しい優勝争いを繰り広げていた2000年前後に使われていた言葉。第75回(1999年)から第84回(2008年)までは、亜細亜大学が優勝した第82回(2006年)を除き、駒澤大学、順天堂大学のいずれかが制している。ちなみに東洋大学もユニフォームが鉄紺である。

山の神

第81回(2005年)で5区を担当した順天堂大学の今井正人が山上りで11人抜きを達成した際に、実況で「山の神が降臨しました」と言われた。これは当時同じ5区を担当した日本体育大学の北村聡が、「今井さんは神様のような存在です」と言ったことに由来する。今井は3年間、山上りの5区を担当し2年目以降は「山の神・今井」という言葉で常に紹介された。

その後、第85回(2009年)で5区を担当した東洋大学の柏原竜二が今井の記録を破る区間新を達成した際には、実況で「山の神を越える山の神童がここに誕生」と言われた。さらに第86回(2010年)で柏原は7位で襷を受けた後、自己記録を10秒縮め2位に3分38秒差を付ける快走を見せ「新・山の神」と言われ、紙面などではその名前と箱根芦ノ湖にちなみ「竜神」とも表された。今井・柏原共に福島県浜通り地方(今井は南相馬市、柏原はいわき市)の出身である。

コースへのお辞儀

走者によっては、たすきを次走者へ渡したあと、コースへお辞儀をする選手がいる。これは箱根駅伝へ出場でき、無事に走れたことへの感謝を示す行為で戦前から行われている習慣である[55]。従来は個人的な行為であり、チーム全体としては行われてこなかったが、第85回(2009年)に東洋大学が優勝した際、前年に元部員による不祥事があったにもかかわらず関係者の配慮などで出場できたこと、そして沿道で暖かい声援を送ってくれた全ての観衆へのお礼として自粛した胴上げのかわりに行われた。東洋大学は第86回(2010年)、第88回(2012年)、第90回(2014年)に総合優勝した際も胴上げの前にまずコースに向かって監督・コーチ・選手全員で御礼をした後に胴上げをしている[56][57]。また、第89回(2013年)に総合優勝した日本体育大学もこの習慣を受け継ぎ、胴上げ前にコースに向かってお礼をしてから胴上げを行った[58]

超高速化

ここ数年、優勝争いのレベルが急激なペースで向上しており、第87回(2011年)で優勝した早稲田大学の優勝タイムは、総合記録を5分以上更新し、現行コース・区間割で初めて11時間を切った。そして早稲田大学とはわずか21秒差で2位の東洋大学、3位の駒澤大学も、従来であれば十分に優勝出来るレベルのタイムであった。第88回(2012年)では高速化はさらに進化し、優勝した東洋大学の総合タイムは、前年の早稲田大学の記録を8分以上更新する10時間51分台であった。5区の山登りを(柏原が走ったとはいえ)加味してもなお、全区間の1kmラップが3分を切るという、驚異的なタイムだった。4位早稲田大学でも11時間3分台前半でフィニッシュしており、優勝争いするには11時間前後の実力が求められるようになってきている。第90回(2014年)に至っては、10時間52分台で優勝した東洋大学だけではなく、2位の駒澤大学も11時間台を切る10時間57分台でゴールした。

優勝を目指す大学にとっては、「つなぎ区間」という概念は無くなりつつあり、全ての区間が「重要区間」「エース区間」と位置づけられるようになってきており、いかに力のある選手が万全の体勢で走れるかが鍵となっている。

箱根駅伝ミュージアム

2005年3月には芦ノ湖畔に箱根駅伝を題材にした箱根駅伝ミュージアムがオープンした。スポーツを題材にした博物館は多いが、1つの行事として[注 8]博物館化されることは極めて珍しい。運営は富士屋ホテルが行っている。

もう一つの箱根駅伝

箱根駅伝復路の翌日から2日間、出場した大学の学生たちなどがゴミ拾いして同じコースをもう一度歩く。1998年に神奈川大学のウォーキング活動を復活させる動きがきっかけとなり、2006年に「大学対抗・ゴミ拾い」の形式でリニューアルされた。

日程は往路の5区間を2日に分けて行い、1日目が東京・大手町から神奈川・平塚までの3区間。2日目は平塚 - 箱根の2区間をゴミ拾いしながら歩く。順位は1袋10Pで半分だと5P。到着時間は最後のチームを基準とし、1分早いごとに1Pが加算される。

チーム人数は原則5人だが、5人集まらない限り3人1チームで参加が認められる。

当初は大学のみだったが現在は一般の参加も可能となり箱根駅伝に出場できない女性や社会人、海外からのチームも参加している。

2011年に「もう一つの東海道駅伝」と名称を改め、京都・三条大橋までのゴミ拾い駅伝を実施。東京 - 神奈川間以外に活動を広げた[59]

なお日本テレビが放送している当大会の事後番組「もうひとつの箱根駅伝」とは無関係である。

エピソード

箱根駅伝は日本のスポーツの中でも長い歴史を持つイベントである。そのために様々なエピソードが生まれた。

  • 選手にアクシデントがあった場合には、控え選手を乗せた伴走車を前の中継所まで引き返させ、そこからの再スタートを切る方法が存在した[60]が、現在は交通への影響や選手の安全上認められていない。またこの伴走車には各校の応援団が大挙して乗り込み選手に声援を送っていたが、危険であるため河野洋平日本陸上競技連盟会長・衆議院議長外務大臣を歴任)が廃止させた。現行のルールでは行為が発覚した時点で失格となることが考えられる。
  • 表彰式では総合優勝校に優勝旗が授与されるが、前年優勝校が大学に置いたままにしていたためにあわてて取りに帰り、表彰式の開始時刻が遅れたことがあった。
  • 第63回(1987年)には、最終10区で順天堂大学の選手が、興奮して突然飛び出してきたファンとの接触により転倒した。選手は動揺することなく走り続け、優勝のテープを切ってゴールしたが、この事件は、この年に開始されたテレビ放送の全国中継の影響によるものだとも言われているテンプレート:要出典
  • これまで、ごくまれに悪天候(=降雪)下で開催されたことがあるが、このために交通手段が影響を受け、選手や関係者が到着できずにあわや失格の危機に瀕した事例もある。
  • 緊張のあまり襷をせずに走り出して、あわてて戻ってきた選手もいた。テンプレート:誰
  • 沿道で配られる読売新聞社と報知新聞社の紙製応援小旗には、近年懸賞応募券が付いていた。これは使い終わった小旗を観客が沿道に捨てるのを防ぐための工夫であった。ちなみに2007年の懸賞は1等から8等まであり、1等は「箱根ホテル小涌園 宿泊招待券」だった。なお2010年の応援小旗は布製で、読売新聞社の小旗は読売新聞の社旗デザインが染め抜かれ、上部に「第86回箱根駅伝」と記されている。
  • 下述のように箱根駅伝を目標にする選手が多く、一度大学を卒業、実業団に入ったものの「箱根を走りたい」という思いだけで有力校に再入学し箱根を走った選手がいる。[61]
  • 第79回(2003年)では、本番間近のころ、大学近くで万引き犯を見つけた専修大学の選手が「俺は絶対に箱根駅伝を走るんだ。どこまでも追い掛けてやる」と犯人を取り押さえ逮捕に貢献。この選手は実際に本番で走ったが腹痛で区間最下位に終わった。「前を行く選手までは捕まえられなかった」と新聞のネタにされたものの、一連の善行で知名度が上がり、その本番では「沿道から名前で呼んで応援してもらえて、とても嬉しかった」と喜んだ。

箱根駅伝が抱える問題

箱根駅伝は、1987年以後の全国完全生中継(日本テレビ)による人気沸騰により、多くの問題が浮き彫りにされてきた。以下に主要な議論をまとめる。なおこれらを解決すべく、関東学連に設けられた「駅伝対策委員会」の存在に期待が集まる。

留学生

テレビの全国生中継開始とともに登場してきた山梨学院大学は、出場3年目にしてアフリカ人留学生の選手を呼び入れた。主催者側の判断により箱根駅伝を外国人選手が走ることができるようになり、その圧倒的な走りで新風を巻き起こした。

1980年代後半からレース全体のスピードアップが進んだことにも、留学生の登場が大きく影響している。既に全国高校駅伝ニューイヤー駅伝では、外国人選手の起用制限事項(1チームあたりのエントリー数、起用区間の制限など)があり、箱根駅伝においても第82回(2006年)からは、前述の内規第9条を変更し、16名のエントリー時点では2人まで登録可能だが、実際に本番で走ることができるのは1人に限ると決められ、2005年秋に実施された予選会より適用されている。2006年以降本番で留学生を2名エントリーしたのは山梨学院大学(第85回 2009年)、日本大学(第86回 2010年・第89回 2013年)、拓殖大学(第87回 2011年・第88回 2012年)の例があり、いずれの例も、実際に本番で走ったのは1名のみで、もう1名は補欠選手となった。なお、三大大学駅伝の残り2つのうち「全日本大学駅伝」では2011年より箱根駅伝と同様、人数規制が行われることになったが、「出雲駅伝」においては規制がない。

なお、白人、アジア系留学生選手として選ばれ出場した例はほとんどなく、近年ではわずかに日本育ちのフィリピン人である座間マボロベネディック(後に帰化し、現:座間紅祢)が専修大学で走った。また、在日韓国人では、現解説者の金哲彦が木下哲彦という通名で走ったことがある。1930年代においては、当時は日本国籍であるが、在日台湾人または在日朝鮮人の選手が(通名・本名を問わず)多数出場している。

駅伝偏重とインカレポイント

大学経営策の一環として、箱根駅伝にPR効果を期待する大学が増えている。そのため「陸上競技部」と称しながら実際には長距離部門を中心に運営している大学や、挙句の果てには「駅伝部」を称する大学、「陸上部監督」とは別に、駅伝に特化した「駅伝監督」なるポジションが存在する大学も見られる。予選会に出場する大学の中には予選会に全力を傾けるため、インカレへの出場に消極的になりがちな大学もある。予選会の成績に関東インカレのポイントを導入した背景には、上記の「駅伝偏重」対策が大きく影響している。主催者側も箱根駅伝を「世界に通じる陸上競技者の育成」としており、その原点に立ち返る意味で導入した。このシステムは導入時から物議を醸しており、関東学連も導入後5年を経過した2007年を機にシステムの再構築も考える可能性を残している。一方で廃止論などに対し沢木啓祐は「たまたま同じ大学が悲劇の対象になっているだけ」という見方を示し、既に導入から5年経過しており各大学とも対策を練っていると廃止論を一蹴。青葉昌幸も「出場枠増にも様々な経緯があるだけに、そのような事情を知らないで(落選したチームが)かわいそうだと言われても困る」とコメントしている。総じて関東学連側は、見直し論については当初の予定どおり検討。第84回(2008年)の予選会よりポイント方式が変更されたものの廃止には否定的な見方を示していた。インカレポイントについて、第86回(2010年)終了時から廃止・継続又は新制度の導入などの議論を重ねた結果、2012年6月6日に行われた関東学連代表委員総会において、第89回(2013年)は現行どおり実施、第90回(2014年)は不採用とすることが決定された。第91回(2015年)以降については、廃止・継続のいずれの可能性も残し、継続して検討を重ねてたところ、翌2013年6月10日の関東学連代表委員総会で「インカレポイントは5年に1回の記念大会にのみ採用する」と決定された。具体的な運用については今後決定するとしている[62]。現在検討されている方式は予選会の枠とは別個に予選会が免除される「インカレポイント枠」の創設である。この方式では、直近5年間の関東学生対校選手権の総合順位とエントリー人数をポイント換算して上位1位の大学が本戦の出場権を獲得することになる(時事通信社の報道による)[63]

門戸開放

箱根駅伝を出雲駅伝・全日本大学駅伝とともに「大学三大駅伝」と並び称する人も少なくないが、出雲駅伝と全日本大学駅伝が全国大会(主催:日本学連)なのに対し、箱根駅伝は日本学連傘下の一組織である関東学連が主催する地方大会にすぎないため、大会としての格は明らかに下である[注 9]。しかし、関東の各大学は、年間の最大の目標を箱根駅伝に置く傾向が強く[注 10]、そのため、全国大会で本来最も権威の高いはずの出雲駅伝と全日本大学駅伝を、単なる箱根駅伝の前哨戦又は調整試合という意味合いで戦い、必ずしもベストメンバーを送り込まない大学も少なくない。また、地方大会である箱根駅伝が学生駅伝最大のイベントになったことで、他の大学スポーツと同様、長距離の人材の東京一極集中が起こっている。

このほか、関東地区の地方大会がゆえに当大会の出場は原則として関東学連の加盟校に限られる一方、テレビ報道の影響により箱根駅伝が全国的に知名度が高いスポーツイベントになったことで、他地域の大学にも門戸を開くべきであるという声がしばしば発生する。

関東学連では1960年代に予選会への出場を他地域のチームに開放することを検討したことがあるが、予選会への参加を全国に開放した場合には全国大会となるため、大会の主管を日本学連へ移す必要が生じる。開催の主導権が変わることを避けたかった関東学連有力校のOBらが中心になって反対したため、結局この時の門戸開放は実現しなかった。

この動きを受けた他の学連は、関西学連・東海学連が中心になり、箱根より高い権威を持つ全国大会を創設する目的で全日本大学駅伝の創設に導いた。こうした事情があるため、関東学連は全日本大学駅伝の創設に最後まで反対。これ以降は箱根駅伝を関東以外の大学に開放しようという意見は消滅することになる。なお、第90回(2014年)では記念大会による増枠分3枠を関東以外のチームに与えるとの報道がされていたが、学連選抜としてなのか単独チームとしてなのかは明らかにされていなかった。[注 11][注 12]結局、上記の学連選抜チームの記載のとおり、関東のチームのみとなった。

しかし近年、全日本大学駅伝の出場校が関東の大学と他地域の大学で実力差が如実に出るようになった。これは男子学生陸上競技界特有の現象であるとされる[注 13]。上位をほぼすべて関東の大学が占める一方で、地方から出場している大学が半分も行かない地点で既に繰り上げスタートになってしまう事態が発生するに至って、全日本大学駅伝の権威が著しく低下している。

文部科学省では現在でも、全国大会は、実力本位の選手権大会と、選抜大会の2つしか開催しないよう学生競技団体へ指導を行っており、箱根駅伝が国内の全大学に門戸開放されると、全国大会として運営されている出雲駅伝および全日本大学駅伝との関係が問題となる。しかし現実には箱根駅伝が、現存する日本の駅伝では最も古い歴史を持つ大会であり、知名度も高いことを勘案すると、長年にわたり主催してきた関東学連が当大会を手放すことは考えにくい。

2010年1月に行われた監督会議では、関東学連選抜枠を「廃止」もしくは「『全国』にも門戸を開く」案を含めて見直しの方向に入るとマスメディアによって報じられ[64]、第89回(2013年)までは存続した[65]。それ以降については学連選抜チームの記載を参照。

箱根駅伝不要論

従来はテレビ東京によるゴールのみの放送だったのが後述の通り1987年から日本テレビによる全国ネットでの完全生中継が始まると、大学側の宣伝・PR的な側面も見せ始め、結果的に勝負至上主義的な駅伝競走となっていった。その結果、下記のような弊害を見せ始め「不要論」として語られるようになっている。

駅伝重視によるトラック軽視傾向

「夏季に行われる選手権マラソンは、スピード勝負ではなく耐熱勝負」と以前は言われていたが、2008年の北京オリンピックは夏季の実施でありながら超ハイペースで進行し、旧来の耐熱型マラソンの調整を行った日本勢は惨敗した。

これに対し、2004年のアテネ五輪の女子マラソンで優勝した野口みずきはかつて「ハーフマラソンの女王」と呼ばれ、野口の指導者である藤田信之は、トラックレースの活用をうまく行う指導者であった。

具体的には、20歳前後の教え子にはトラックレースで実績を積ませ、その上で能力が付いた選手に初めてマラソンにチャレンジさせている(それゆえに、藤田の指導する選手はマラソンの失敗が少ない)。また、マラソン経験を積んだ選手にもアーサー・リディアードの提唱するリディアード式のトレーニングを取り入れ、記録・順位に関係なくスピード強化のため10000mのレースに出場したり、チームで1600mリレーに出場させている。

箱根駅伝燃え尽き症候群

箱根駅伝で大活躍した選手が卒業後故障や不調に悩まされ、期待されたほどの活躍ができずに引退するケースが度々見受けられる。例えば早稲田大学時代に箱根駅伝で4年連続区間賞(区間新3回)を記録した武井隆次は、トラック、駅伝と季節を問わずフルに走り続けた影響からか卒業後は長い故障にさいなまれ、ヱスビー食品時代の日本代表歴は、29歳の時のアジア大会・マラソン代表のみにとどまった。

中でも特に、箱根駅伝不要論者が「箱根駅伝で燃え尽きたスター」の代表格として槍玉に挙げるのが、現・早稲田大学駅伝監督の渡辺康幸である。渡辺は早稲田大学在学時、箱根駅伝では2年次に1区区間新、3年次に2区区間新など華々しく活躍し、トラックでも4年次に世界陸上競技選手権イェーテボリ大会10000m12位、ユニバーシアード福岡大会10000m金メダルと輝かしい成績を残した。しかし過密スケジュールによる慢性疲労が徐々に体を蝕み、卒業前に予定していた東京国際マラソンは欠場に追い込まれ、急遽出場したびわ湖毎日マラソンも7位に終わった。ヱスビー食品入社後アトランタオリンピック10000m代表に選ばれるが、左アキレス腱の故障で欠場。以降度重なるアキレス腱の故障に苦しみ、2002年に29歳の若さで引退した。

また、箱根駅伝5区で4年連続区間賞を獲得し、「山の神」と呼ばれた柏原竜二も、実業団入りしてからは全く目立った活躍をしていない。これは、本来スピードを身につけるべき年代に、駅伝の練習ばかり行い、スピードが身につかなかった結果であると考えられる。

逆に、京都の龍谷大学出身である高岡寿成は、高校時代からある程度の実績はあったものの、大学進学後当初はインカレ等でも目立った実績はなかった。しかし学年を重ねることにトラックを中心とした練習に集中できたことから尻上がりに実績を積み上げ、実業団に入社後も世界大会でのメダルこそ獲得できなかったものの、アトランタオリンピックシドニーオリンピックにトラックに連続出場した他、3000m、5000m、10000m、マラソンの日本記録を樹立するなど、30代後半まで第一線で活躍を続けた。このうち5000m以外では現在でも日本記録保持者である。 また、山梨学院大学出身の尾方剛は、箱根駅伝では2年次に、10区区間賞を獲得したことはあるものの、その後は故障続きで駅伝を走ることが出来ず、実業団入社当初まで目立った活躍はなかった。しかし、その後本来の力をつけ始めると、フルマラソンで入賞を重ね、2004年12月の福岡国際マラソンで念願のフルマラソン初優勝を果たす。これにより、世界陸上ヘルシンキ大会男子マラソン代表に即内定となった。そして翌2005年8月の本大会では、2時間11分16秒の好成績で日本人トップの3位入賞、銅メダルを獲得した。なお、尾方を最後に現在まで世界陸上、およびオリンピックで日本人選手でメダルを獲得した選手は現れていない。

また、箱根駅伝創設の目的は「世界に通用する長距離選手の育成」であるが、実際には多くの選手が箱根駅伝を最終目標としており、卒業後は実業団に進まず競技の第一線から退くのが現状である。ただし、学習院大学で学連選抜ランナーとして出場した川内優輝のように、公務員と市民ランナーを両立しながら、実業団の選手に引けをとらない活躍を見せる選手もいる。箱根駅伝という大きな目標があるからこそ、モチベーションを保って陸上競技を続けている選手が多い、という一面もあり、日本の男子陸上長距離界の裾野の拡大に箱根駅伝は貢献していると主張する者も多い。 また、上記の通り箱根駅伝は大学側の宣伝・PR的な側面も見せ始めているが、箱根駅伝に限らず実業団のニューイヤー駅伝でも企業側の宣伝・PR的な側面もあることから箱根駅伝同様ニューイヤー駅伝でも実業団によってはそちらに向けた練習が優先されるため、箱根駅伝だけが批判されるのはおかしいと主張する者も多い。

大学陸上部関係者による不祥事とその対応

大学陸上部関係者が事件や不祥事を起こした場合、各大学で相応の処分がなされるほかに、箱根駅伝参加大学に対しては競技団体である関東学連が同連盟の規約に基づき審査を行い、当事者又は所属大学に対して罰則を与えることがある(規約第62条)。

近年発覚した事件・不祥事の概要と処分
  • 2008年12月1日、第85回(2009年)のシード校である東洋大学の陸上部員(駅伝選手)が、電車内での強制わいせつ行為で現行犯逮捕されるという事件を起こした。本大会出場大学所属の陸上部員による不祥事が発覚したのは、これが初めてのことであった。箱根駅伝本大会まで1カ月を切った時期ではあったが、東洋大学はこの問題に対する処分として、当該学生の退部処分と監督と部長の引責辞任、陸上部長距離部門のチーム練習を無期限自粛する決定をした。この対応を受けた関東学連は特別審査委員会を開き、12月5日に、東洋大学への補助金の支給停止、本大会での集団応援の禁止といった条件を付けた上で、東洋大学の出場を認める決定をした[注 14]。この決定について関東学連は、集団ではなく個人での犯罪であった点、加害者が個人的に責任を問える成人である点、合宿などチームの活動中ではない時に起きた点を挙げた上で「一部員の不祥事によって真摯に勉学とトレーニングに励んだ部員諸君がその成果を発表する機会まで失うことは誠に不憫」との見解を表明した。なお、無期限の活動自粛は12月6日に解除された(自粛期間5日間)。
  • 2009年3月2日、大麻取締法違反容疑で関東信越厚生局麻薬取締部日本体育大学の陸上部合宿所への家宅捜索及び事情聴取を行った。この家宅捜索では大麻の発見には至らなかったものの、大麻の鉢や吸引具が押収された。同日、大学が行った調査に対し、当該陸上部員(跳躍種目選手)は大麻種子の購入・栽培・大麻の吸引の事実を認めた[1]。また、この家宅捜索の際、部屋の中にあった紙幣のコピーが発見され(紙幣偽造・裏が白紙等の紙幣もあり杜撰な紙幣であった)、同室の陸上部員1名がその後通貨及証券模造取締法違反で書類送検された。この一連の不祥事に対し日本体育大学は、3月5日付けで大麻に関わった学生を退学処分、陸上部の部長、監督、コーチをそれぞれ解任、陸上部の10日間活動停止、跳躍種目の男子学生46人の無期限活動停止処分を決定した。また、4月に入ってから、陸上部の4月末までの活動自粛などの方針を追加決定した。ただし大学は、週刊誌による報道がされるまで事実関係を関東学連に報告していなかった。また、陸上部全体への活動停止処分については、試合日程を考慮し当初の10日間の処分を短縮した上で、陸上部員(長距離種目選手)を3月8日の大会に出場させていた。このような経緯を受けた関東学連の特別審査委員会は「合宿所での反社会的行為は極めて重大」として、4月17日、日本体育大学陸上部全体の6月末までの大会出場停止、箱根駅伝の次大会シード権の剥奪、出雲全日本大学選抜駅伝と全日本大学駅伝への推薦取消、関東インカレの2部降格、といった処分を決定した。この処分に対して、日本体育大学側は当初、事件と無関係の女子部員を含めた部全体の連帯責任とした処分内容や処分内容の根拠が不明などとして反発し、関東学連に対して質問状を出すに至った[2]が、その後の学連の処分は妥当との見解を受け、最終的には処分を受け入れた。なお、次大会のシード権が剥奪されたのは箱根駅伝史上初めてのことである。

中継番組

テレビ中継

テレビ東京制作

テンプレート:基礎情報 テレビ番組 第55回(1979年)からテレビ東京が初めてのテレビ放送を開始した。しかし完全中継ではなく、1月3日 12:00 - 13:54の録画ダイジェスト放送(ゴールは生放送)であった。その後、日本テレビが中継することに伴い終了した。

日本テレビ制作

テンプレート:Main2 第63回(1987年)から日本テレビが特別後援に入り、全国ネットの本格的なテレビ中継が開始された。第73回 - 第76回(1997年 - 2000年)はCS★日テレでも同時放送された。

沖縄県など系列局がない地域やクロスネット局のため完全放送できない地域への配慮としての衛星放送の中継はBS日テレで当日に、また日テレG+でも大会終了数日後に、それぞれ3時間程度にまとめたダイジェスト版を放送している。

第90回(2014年)からは予選会についても地上波で生中継されている。

ラジオ中継

ラジオでの中継はテレビでの中継よりも古くから行われ、複数の放送局が中継を行っている(テレビ中継も行っている局はテレビ中継放送ネット局参照)。以下に制作局の体制や概要について記述する。ラジオ中継の実況用の映像はNTVが制作、テレビ放送用とは別に各局に送っている。

NHKラジオ制作

テンプレート:基礎情報 ラジオ番組 NHKラジオ第1で放送。ただし、毎正時の前後にはNHKニュース放送のため、数分程度中継が中断する。基本はラジオセンター132スタジオ内のブースに置かれているモニターに映し出される日本テレビの映像を見ながら実況を行うが、ラジオ中継車を出しており、3位走行中の選手前後に付く。また各拠点にアナウンサーを配置し、携帯電話リポートで臨場感のある実況中継を行う。コースにNHKのラジオ中継車がテレビ取材用報道カメラ車、日本テレビのテレビ中継車などに混じり、選手の動向を追っている。なお、テレビ取材用報道カメラ車は日本テレビの移動1号車の後に付く。

なお、NHKワールド・ラジオ日本では第88回(2012年)までは放送権上の制約および電波運用面の都合上、12時台の中断ニュースを除いて同時放送せず、当該時間帯はFM放送の邦楽関連の年始特集番組や定時番組および地上デジタルラジオ実用化試験放送の音楽番組を中心に別番組へ差し替えていたが、第89回(2013年)からは全編同時放送をしている。

文化放送制作

テンプレート:基礎情報 ラジオ番組 文化放送では『文化放送新春スポーツスペシャル 東京箱根間往復大学駅伝競走実況中継』として中継。2013年現在、文化放送では『出雲駅伝』『全日本大学駅伝』も中継しており、3大駅伝のすべてをラジオ中継している(そのこともあり、「大学駅伝ラジオ独り占め -FIGHT THE FUTURE-」をキャッチフレーズにしている。ただし、『出雲駅伝』はプロ野球のクライマックスシリーズと重複した場合、インターネットラジオのみの放送としている)。

原則としてNRN加盟局で放送。ただしネット局は基本的に8:30・9:00から中継を開始し、更に一部の局では別番組を放送するため、中継が長時間中断する(11:00飛び降り、12:30(13:00)飛び乗りなど)。

中継車を出していないため、基本的に日本テレビの映像(いわゆるオフチューブ)を見ながら実況を行うほか、各拠点にアナウンサーを配置して中継を行う。以下は2010年のネット局(10:00以降に中継を開始する局は併記)。ただし、テレビ・ラジオのネットワークの関係から、テレビで放送される放送局とは異なる場合あり。なお、青森放送や新潟放送などでは、NHKと同様、正時にローカルニュースを放送する局がある。

番組の途中では、ニュース、天気予報、交通情報、さらには首都圏の鉄道情報も挿入されるが、ネット局でもそのまま放送される。そのため、通常の「文化放送ニュース」や「文化放送交通情報」のジングルは使用しないうえ、「全国のニュース」「首都圏の交通情報」といった表現に改め、ネット局に配慮している。

実況は放送事業局報道スポーツセンター所属のスポーツアナウンサーが担当するが、全員総出でもまかないきれないため、制作部所属のアナウンサー(2014年は砂山圭大郎吉田涙子)、文化放送OBのスポーツアナウンサー(2014年は菅野詩朗)、フリーアナウンサー(2014年は鬼頭里枝)、ABCラジオのアナウンサー(2014年は高野純一)が例年担当する。

ラジオ日本制作

テンプレート:基礎情報 ラジオ番組 ラジオ日本日本テレビグループで、コースに当たる神奈川県を放送対象地域とするラジオ局。いわゆる独立局であるが、文化放送とエリアが重複する北関東のNRN加盟局や一部のコミュニティFM局でも放送。エリア内という事で極め細かく交通情報を流すのが特徴。中継車を出していないため、基本的に日本テレビの映像を見ながら実況を行う。ただしスタート・ゴール、各中継所はリポーターが現場で実況する。ネット局は以下のとおり。

インターネット放送

3局ともインターネットラジオを通じて、配信している。

※BBQRとUstreamでは国内はもとより海外でも聴取できる。 これとは別に2014年大会ではニコニコ生放送でも配信されている。但しこちらは大会の映像を配信するものではなく、「年末年始ぶっ通し78時間全局テレビ実況」の一環として配信された。コメンテーターに徳本一善法政大学OB、2000年1区区間賞、現・駿河台大学監督)。

中継番組に関するエピソード

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  • かつてラジオ中継しか行われなかった時代は関東地方、特にコースとなる東海道沿線地域のお正月の風物詩とでもいうような非常にローカルな大会だった。しかしテレビ中継開始(特に日本テレビの完全中継開始)以降、知名度は一気に広がり、年末年始という大型番組が乱立する激戦区の中で常に高い視聴率をマークしている。放送時間も5時間と長いにも関わらず平均視聴率が25%以上を記録する年も多い。今や沿道の観衆は警察の発表では片道だけで50万人を数える。
  • ある年テンプレート:いつの2区で大ブレーキを起こして倒れ込みながら襷リレー。倒れたランナーを追っていたカメラマンに向かって「撮ってんじゃねえよ!」とファンが怒鳴るシーンが放送されるなど、いかにも生放送ゆえのハプニングが何回か起こっている。
  • 8区の茅ヶ崎市付近では元日本テレビアナウンサー徳光和夫が毎年選手に声援を送っており、その声援を聴いたり姿を探す選手がいるほどである[注 15][注 16]
  • スタート・ゴール地点や各中継所付近では出場校のスポーツ記者が自校の大学新聞(学生新聞)を配布していることがあるが、主催者は大手町の特設ブースを除いて、コース沿道全域での大学新聞の配布を禁止している。
  • 近年では中継終了時刻まで完走チームの確定をしないままラジオでの中継を打ち切ることが多い。とりわけ2013年の第89回大会では、往路のテレビ中継においても、中継終了寸前まで完走チームが確定したかが分からず(城西大はスポンサースポット中で途中棄権、中央大は状況未確認[69])そのままスタッフロールを簡略テロップ表示→最終後クレと提供読み→エンディングに「中央大は5区20km地点で途中棄権」と口頭で伝えて往路中継終了となった(VTRでは、当日18:00に放送された『NNNニュース&スポーツ』内で伝えられただけだった)。

雑誌

現在陸上競技を取り扱う専門雑誌はベースボール・マガジン社の『陸上競技マガジン』と、陸上競技社の『月刊陸上競技』(発行は講談社と共同)の2種類がある。

このうち前者が上記の問題を比較的多く取り上げるのに対して、後者は、箱根駅伝そのものは予想なども専門的であるが、一連の問題は取り扱うものの、余り深いところまでは書かない傾向にある。これは後者が箱根駅伝を主催する関東学連とも繋がりが深く、大会協力として当大会に参加しているためでもある。

ただ、『月刊陸上競技』の編集長はたびたび留学生制度に対して苦言を呈していることもある。

なお箱根駅伝の観戦ガイドブックは上記2誌の増刊号として発売されているほか、読売新聞社からも発売されている[70]

参考文献

  • 島田輝男 『日本列島駅伝史』 陸上競技社、1987年。
  • 『箱根駅伝70年史』 関東学生陸上競技連盟、1989年。
  • 箱根駅伝を10倍面白くみる本 日本テレビ箱根駅伝プロジェクトチーム、1995年。
  • 『栄光を讃えて 箱根駅伝80回大会記念誌』 関東学生陸上競技連盟、2004年。
  • 黒木亮(金山雅之)著 『冬の喝采』 講談社、2008年。ISBN 978-4062150415 - 中村清監督時代の箱根駅伝に向けての早稲田大学競走部のトレーニング描写、瀬古利彦のエピソード、中村の人物像に詳しい。

脚注

注釈

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出典

テンプレート:Reflist テンプレート:脚注ヘルプ

関連項目

  • 箱根駅伝の人物一覧
  • 箱根駅伝の記録一覧
  • 読売新聞グループ本社
  • 読売新聞
  • 風が強く吹いている - 三浦しをんの小説。2009年に映画化され、箱根駅伝を目指す学生を取り上げている。映画化に際し、関東学連・「読売新聞グループ」(読売新聞・スポーツ報知・日本テレビ)および一部の協賛社が協力した。
  • 神の領域 - 堂場瞬一の小説。箱根駅伝メンバーに入ることを目指しながら怪我で挫折した元湘南大学陸上競技部員の死体が発見された。神奈川地検の城戸は、かつて自身が箱根駅伝9区15キロを越えたところで、隠していたひざのケガのために途中棄権した経歴を持つ。8区ランナーから2位で渡されたたすきを最終10区ランナーにつなぐことができず、それが今も深い心の傷になっている。城戸は事件の真相を追ううちに陸上競技界を覆う暗い闇に気づいていく。

外部リンク

テンプレート:Sister

テンプレート:東京箱根間往復大学駅伝競走

テンプレート:駅伝競走
  1. 1.00 1.01 1.02 1.03 1.04 1.05 1.06 1.07 1.08 1.09 1.10 1.11 1.12 1.13 1.14 1.15 1.16 1.17 1.18 1.19 1.20 1.21 1.22 1.23 1.24 1.25 1.26 1.27 1.28 1.29 1.30 1.31 1.32 1.33 1.34 1.35 1.36 1.37 1.38 1.39 1.40 1.41 1.42 1.43 1.44 1.45 1.46 1.47 1.48 1.49 1.50 テンプレート:Cite web
  2. 出願番号2012-79627号、出願日は2012年10月2日付。
  3. 3.0 3.1 3.2 読売新聞東京本社千代田区大手町の社屋建て替えのため、2010年9月から中央区銀座日産自動車旧本社ビルに一時移転していた(読売新聞 一時移転のおしらせ(2010.8 読売新聞社))。
  4. ただし沖縄県では生中継がない関係なのか、実業団駅伝の方が人気が高いといわれている。
  5. 箱根駅伝とは -概要-(大会公式サイト)
  6. テンプレート:Cite book
  7. 『箱根駅伝70年史』(1989)p.30.
  8. 8.0 8.1 8.2 『埼玉大学創立60周年を迎えて 埼玉大学同窓会記念誌』(2010)p.12.
  9. テンプレート:Cite press release
  10. テンプレート:Cite news
  11. テンプレート:Cite news
  12. テンプレート:Cite news
  13. 箱根駅伝記録館
  14. 箱根駅伝の記録
  15. 箱根駅伝公式サイトでの過去の記述より引用
    トピックス「第85回東京箱根間往復大学駅伝競走出場枠数の増加について」(2008年09月02日)
  16. 2012年6月9日付け読売新聞朝刊スポーツ面
  17. テンプレート:Cite news
  18. テンプレート:Cite news
  19. テンプレート:Cite web
  20. テンプレート:Cite web
  21. テンプレート:Cite web
  22. 22.0 22.1 22.2 22.3 22.4 22.5 22.6 22.7 テンプレート:Cite web
  23. 第86回箱根駅伝コースマップ - 日本テレビ
  24. テンプレート:Cite web
  25. テンプレート:Cite web
  26. 26.00 26.01 26.02 26.03 26.04 26.05 26.06 26.07 26.08 26.09 26.10 26.11 26.12 26.13 26.14 26.15 26.16 テンプレート:Cite web
  27. 『箱根駅伝70年史』(1989)pp.165-166.
  28. 28.0 28.1 KAJIMAダイジェスト - 鹿島、2013年1月5日閲覧
  29. 京急蒲田駅付近の上下線が全線高架化します! - 京浜急行電鉄、2012年7月17日、2012年7月17日閲覧。
  30. 箱根登山線 小涌谷駅 - 箱根町観光協会、2013年1月5日閲覧
  31. 東京箱根間往復大学駅伝競走競技実施要項(第87回)
  32. 日本大学校友会 神奈川県支部 箱根駅伝歴史シリーズ「箱根・・・遙か」第10話より「ところが9区途中横浜生麦付近で、彼は不運にも、脱水にてふらふらになり走行不可能状態となりコース上で失神し倒れ込みました。このため、再度9区振り出しの戸塚中継所から、補欠の伊藤祐之選手が、同じ区間を走り直す、再走という事になってしまいました。これは、当時のルールで【走行不能になった場合、途中棄権とはならず、代走にて再度該当区間初めから走り直し記録は残る】このような事情からでした。」との記述がある。
  33. 箱根駅伝記録館 HAKONE-EKIDEN「途中棄権・補欠起用」より
  34. 日本大学 駅伝ホームページ
  35. このため各出場校は、1区から使う正規のタスキと、5区が繰り上げになった場合の予備(この襷は6区の走者も使用する)、そして10区が繰り上げになった場合の予備という、3本のタスキを同じデザインで作成し、大会本部に提出して許可を受ける必要がある。
  36. 佐山和夫、『箱根駅伝にかけた夢』、講談社、2011年、pp124-135
  37. 『はこね』 箱根町教育委員会 (1972)
  38. 『箱根駅伝70年史』(1989)p.59.
  39. 『箱根駅伝70年史』(1989)p.140.
  40. 『箱根駅伝70年史』(1989)p.84.
  41. 『箱根駅伝70年史』(1989)p.50.およびpp.270 - 271.
  42. 『箱根駅伝70年史』(1989)pp.45 - 46.
  43. 『箱根駅伝70年史』(1989)p.45.
  44. 『箱根駅伝70年史』(1989)pp.583-585.
  45. 『箱根駅伝70年史』(1989)p.58.
  46. 『箱根駅伝70年史』(1989)p.84.
  47. 『箱根駅伝70年史』(1989)p.2.およびp.188.
  48. 『箱根駅伝70年史』(1989)p.195.
  49. 49.0 49.1 新法人になってからは、ゼッケンの特別協賛のサッポロビールのマークが変わった(サッポロビール→SAPPORO)。
  50. なお、テレビ中継において販路に該当しない地域(県・圏域)の局ではACジャパンの啓発CMに差し替え。
  51. 箱根駅伝、今度は白バイで…日大OBの巡査部長 読売新聞 2011年12月27日14時31分
  52. 燃料電池車「FCX」、第80回東京箱根間往復大学駅伝競走で大会本部車として走行 本田技研工業 四輪製品ニュース 2003年12月10日
  53. [3]
  54. 54.0 54.1 54.2 54.3 54.4 54.5 54.6 54.7 54.8 54.9 テンプレート:Cite web
  55. 新聞の報道やNHKの録画VTRなどにも記録されている。
  56. 総合優勝ではない場合、混雑防止などもあってチーム全員がゴールスペースにいることはほぼないため、チーム全員でお辞儀をすることは出来ない。
  57. 第87回(2011年)は優勝した早稲田大学と2位東洋大学の時間差が21秒と極めて近かったため、ゴールしてから胴上げまでの間、中継が東洋大学の走者に向いており、早稲田大学がチームとしてコースへお辞儀をしたかどうかは未確認。
  58. 2013年日本テレビのテレビ中継より。
  59. [4]
  60. 『箱根駅伝70年史』(1989)pp.28-29.
  61. 【箱根駅伝】“最後の昭和生まれランナー”?東農大・山本、25歳で夢かなえた
  62. 東京箱根間往復大学駅伝競走における関東インカレポトについて(2013年6月10日プレスリリース)
  63. [5]
  64. 「山上り」5区、距離変更せず 学連選抜は見直しも - 47NEWS 2010年1月18日
  65. 読売新聞 2011年2月25日記事より。
  66. 2012年までは10:00ないし11:00 - 14:00。中日新聞ニュースのため一部時間帯に数分間中断。
  67. 沖縄では箱根駅伝より全日本実業団対抗駅伝競走大会(ニューイヤー駅伝)の方が人気がある最大の要因である。
  68. ラジオ日本制作分は関東地方(2013年以前は群馬県を除く)と兵庫・大阪の各府県のみ。
  69. ただし、一部情報ではふらふらと蛇行しながら走り続けていたとの情報がスタッフ内などで入っていた。
  70. ただし、公式ガイドブックとなっているものは協力している陸上競技社発行のものであって、共催である読売新聞社のものは公式ではないことに注意。


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