マカオ
- テンプレート:Small
- 中華人民共和國澳門特別行政區
中华人民共和国澳门特别行政区
Região Administrativa Especial de Macau da República Popular da China -
マカオの旗 マカオの紋章 (地域の旗) (地域の紋章) - 地域の標語:無し
- 地域の歌:義勇軍進行曲・Marcha dos Voluntáriosファイル:March of the Volunteers instrumental.ogg
- マカオの地図
- マカオの位置
公用語 中国語・ポルトガル語(共通語:広東語、英語など) 主都 花地瑪堂区(ファティマ堂区) 最大の都市 花地瑪堂区 通貨 マカオ・パタカ(MOP) 時間帯 UTC +8(DST:なし) ISO 3166-1 MO / MAC ccTLD .mo 国際電話番号 853 </dd> </dl> テンプレート:Chinese 中華人民共和国マカオ特別行政区(ちゅうかじんみんきょうわこくマカオとくべつぎょうせいく)、通称マカオ(テンプレート:Lang-pt-short、澳門=広東語イェール式:Oumùhn、普通話:Àomén)は、中華人民共和国の特別行政区の一つ。中国大陸南岸の珠江河口(珠江デルタ)に位置する旧ポルトガル植民地で、現在はカジノや世界遺産を中心とした世界的観光地としても知られる。
目次
概要
マカオは中華人民共和国広東省の珠江の最下流域に位置し、広州からは南西に145km、香港からは南西に70km離れている。珠海市に接し、中国大陸本土南海岸に突き出たマカオ半島と、沖合いの島から構成される。この島は、もともとタイパ島とコロアネ島という二つの島であったが、島の間は埋め立てられてコタイと呼ぶ地域となり、全体がひとつの島のようになっている。現在、半島部と旧タイパ島の間は3つの橋でつながれ、コタイから西に珠海と結ぶ橋もできている。
1999年までポルトガルの植民地であったマカオは、中国大陸のヨーロッパ諸国の植民地の中ではもっとも古く、域内に植民地時代の遺構が数多く点在する。このため、2005年7月15日に、マカオの8つの広場と22の歴史的建造物がマカオ歴史地区という名前でユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。
域内には多くのカジノが運営されていることから、「東洋のラスベガス」ともいわれている。歴史的建造物とカジノが、香港や中華人民共和国本土のほか、東南アジア、東アジア域内から多くの観光客をひきつけ、それに隣接しているホテルを含む観光産業が盛んである。また、ドッグレースなどのユニークなギャンブルも存在する。毎年11月に市街地を使って行われるマカオグランプリは世界的に著名で、この時期に多くの観光客をひきつけている。
マカオ・香港間は24時間高速船が約1時間で結んでおり、ほかにもヘリコプターによる定期便・チャーター便が頻繁に運航される。日帰りで訪れる香港人や旅行客も多い。
名称
マカオという名称の由来には多数の説があり定かではないが、マカオ半島にある道教の廟、媽閣廟に由来する説が有名である。ポルトガルの船員がマカオの媽閣の前から上陸するときに地名を聞いたら、廟の名前を聞かれたと思って「媽閣」(広東語:Ma1gok3)と答えたからと伝えられている[4]。媽閣廟は、1448年に媽祖を奉るために建設されたもので、現存し、海運、漁業の神として崇拝されている。
漢字表記澳門は、「澳」が「水が奥深く入り込んだ湾や入り江」を表し、「門」は門のようにそびえ立つ南台山と北台山を指している。歴史的には、蠔鏡という名が明代に記録されているのが最初で、澳門のほか濠鏡澳、海鏡、香山澳などの名称もあった。文語的な表現でマカオは「濠江」(北京語:ハオジアン、広東語:Hou4gong1 ホウゴーン)とも表記される。また、蓮が多いことから蓮島、蓮海などの呼称もあり、区旗のモチーフにも使われている。
なお、「Macau」の広東語音訳として馬交(広東語:Ma5gaau1 マーガーウ)と言う表記が用いられることもある。また、ポルトガル領時代の正式名称は Cidade do Nome de Deus de Macau, Não Há Outra Mais Leal(「最も忠貞なる主の名の街・マカオ」の意味)であった。
歴史
明朝以前
珠江と南シナ海の境目に位置するマカオは、もともと、漁民や蛋民と呼ばれた水上居民を中心とする漁業の村であった。その後、東南アジアなどとの通商が始まると、貿易の町として栄えてきた。
ポルトガル人の居留開始
1513年に、当時世界有数の海洋大国として世界各地にその覇権を誇っていたポルトガル人がマカオに初渡来し、明王朝との交易を開始した。
その後、1557年にポルトガルが明から居留権を得、中国大陸における唯一のヨーロッパ人居留地となった。但し、この時期のマカオの領有権はポルトガルではなく明にあり、明がマカオに税関を設置するなど主権を有していた。
なお、この前後にカトリック教会の宣教師でイエズス会の創設メンバーの1人であるフランシスコ・ザビエルが、ポルトガル政府の支援の下、マカオを拠点に東南アジア各地でキリスト教の布教活動を行っていた。
この頃のマカオは、日本が鎖国するまでは長崎との貿易で繁栄を極めた。しかし、その後は明清交替期の動乱や広東(広州)の対外開放により、アジアにおける一大貿易港としてのマカオは次第に衰えていった。
ポルトガルの植民地に
大英帝国がアヘン戦争に勝利して、1842年に香港島を獲得すると、ポルトガルも1845年に「マカオ自由港」の成立を宣言して清の税関官吏を追い出し、ポルトガル軍がタイパ島とコロアネ島を占領し、最終的に1887年にはポルトガルが統治権を獲得し正式に同国の植民地とした。
しかし、天然の良港に恵まれアジアにおける要衝として発展した香港とは対照的に、マカオの貿易港としての機能は低下し、その地位は全く凋落してしまった。マカオは珠江の土砂が堆積しやすい位置にあり、大型の船舶が入港しにくくなっていたこと、当時ポルトガルの国力は凋落していたことも衰退の原因に挙げられよう。
第二次世界大戦
その後、清に代わって中国大陸を支配した中華民国と日本との間に1937年より起きた日中戦争においては、両国と国交を持ち中立的立場にあるポルトガル領であることから戦火とは遠い存在であった。また、その後1939年9月に起きた第二次世界大戦においてポルトガルは中立国となり、その後1941年12月に勃発した太平洋戦争(大東亜戦争)を通じて東南アジアにある欧米諸国の植民地の殆どを占領した日本とは交戦状態に入らなかったため、ポルトガルの植民地政庁のもとで中立港として機能した。このため、戦禍を逃れようとした大量の難民が中国大陸から流れ込んだ。
なお、大戦中に日本陸軍がポルトガル政府に無断で特務機関を設け、様々な対中工作、謀略活動を行っていたことが明らかになっており、1945年には福井保光駐マカオ領事が中国人の襲撃に会い、拳銃で射殺されるという事件が起きている[5]。
戦後
1945年8月に第二次世界大戦が終結し、日本軍が中国大陸から撤退した後に、中華民国総統である蒋介石率いる中国国民党と、毛沢東率いる中国共産党の間に国共内戦が勃発した。
その後1949年には、ソビエト連邦からの多大な軍事支援を受け勝利した毛沢東率いる中国共産党が、北京を首都とした中華人民共和国を設立し、中華民国に代わって中国大陸の大部分を統治するようになったものの、その後もイギリスが統治を続けた香港同様、マカオも依然としてポルトガルの統治が続いた。
なおポルトガルは、中国政府を早くも1950年に承認したイギリスとは異なり、強烈な反共産主義者であったアントニオ・サラザール首相による独裁政権下にあったこともあり、中華人民共和国との国交は持たないままであった。
マカオ暴動
テンプレート:Main 中華人民共和国内で文化大革命が行われていた1966年11月に、中国共産党系小学校における無許可での増築工事に対する代理総督による制裁が行われ、この制裁に怒った住民によるデモがセナド広場などで数度にわたり行われた。当初は平和的なデモであったが、その後中国共産党系の住人によって暴動化し、12月3日には、これを鎮圧しようとしたポルトガル軍警察がデモ隊に発砲したために、数人のデモ隊が死亡する惨事となった。
これに怒った中華人民共和国政府は、人民解放軍によるマカオへの軍事侵攻をほのめかしながら、ポルトガル政府に対して事件の謝罪と責任者の処罰、共産党系の遺族に対する慰謝料の支払い、以後の中国共産党系住民による統治参加、そして中華民国の国務機関(諜報機関)によるマカオ内での活動の停止などを要求した。
当時のポルトガルは国力が低下し、マカオにわずかな軍事力しか駐留させていなかった上に、サラザール首相による独裁政権下にあったために、同年の香港暴動の際のイギリス政府のようにアメリカなどの西側政府による軍事的支援を受けられないことから、軍事対立が起きた場合全てを失うと判断したポルトガル政府はそれらの要求をほぼ全面的に呑み、総督が中国共産党系の住人組織に対して謝罪と慰謝料の支払いを行い、代理総督と警察幹部ら数名は国外へ追放された。
以後マカオにおいて中華人民共和国(中国共産党)の影響力が増すことになり、その後もポルトガル政府が中華民国との国交を保ち続けたにも関わらず、その植民地であるマカオが単独で中華民国と「断交」するなど、事実上中華人民共和国政府の間接的統制下に入る。
返還
オテロ・デ・カルバーリョ大尉率いる国軍左派による1974年4月25日のカーネーション革命の後に、ポルトガル政府は民主化され当時所有していた全ての海外領土を放棄する方針を採ることになった。1976年にポルトガル政府は、マカオを「特別領」として再編成し行政上及び経済上の自治を多くの点で認めた。
その後1979年に、ポルトガル政府は中華人民共和国政府との国交樹立(と中華民国との断交)を行った。第二次世界大戦後に国力が低下しており、しかも地元民による自治が進んだマカオを植民地として統治することに興味を持たなくなったポルトガル政府は、即時移譲(返還)を望んだ。しかし、同じく植民地下にある香港市民の動揺を恐れた中華人民共和国政府はマカオの主権を主張しつつ、当分の間のポルトガルによる統治を希望したと言われており、主権と統治権(行政管理権)を分離した形を取ることを希望した形となった。
その後、1984年に行われたイギリスと中華人民共和国の香港返還交渉に続いて、1987年4月13日にポルトガルと中華人民共和国がマカオ返還の共同声明に調印し、マカオの行政管理権は1999年12月20日に中華人民共和国へ返還され、マカオを特別行政区にすることになった。
現在
返還後のマカオの行政長官は、選挙委員会が選んだ者を中華人民共和国の中央政府が任命する形となっているなど、政治的には中華人民共和国の下に入ることとなったが、返還後50年間は現状の保全が取り決められているため、現在もポルトガル語が公用語として使用されるほか、ポルトガル統治時の法律の多くがそのまま適用され、一党独裁国家で宗教活動や思想、表現の自由などが制限されている中華人民共和国と違い、住民にはこれらの自由が保障されている。しかし2009年に共産党批判などを禁止して違反者には禁固最高20年を科す「国家安全法」が施行され、香港の民主化活動家ら数十人の入境が拒否されているなど、その自由はかなり制限されている。
ポルトガル語は中国語(広東語)と並ぶ公用語とされ、政府の公文書におけるポルトガル語表記や、道路表示や看板などの全ての表示にはポルトガル語と広東語の表記が義務付けられている他、一部のカトリック系学校においてポルトガル語の授業が設けられているものの、少数のポルトガル系住人を除くほとんどのマカオ住民が日常的に使用する言語は広東語である。尚、上述の通り、以前より中華人民共和国との結び付きが強かったため、香港に比べ若い世代を中心に普通話の理解度が高い(広州とほぼ同程度)。
2002年には、カジノ経営権の国際入札を実施し、その結果これまでスタンレー・ホー経営の「Sociedade de Turismo e Diversões de Macau,S.A.(STDM/澳門旅遊娯楽股份有限公司)」が独占してきたギャンブルを含むカジノ産業を、香港系の「ギャラクシー・カジノ(銀河娯楽場)」社とアメリカの「ウィン・リゾーツ(永利渡暇村)」社にも開放し、その結果多くの外国からの投資を呼び込むことに成功し、コタイを中心に多くの新しいカジノやホテルができるなど、経済的発展が進んでいる。
地理
南シナ海に面するマカオは、中心地となる半島部と、タイパ島とコロアネ島の間を埋め立ててつなげた島からなる。半島部は、東には珠江(パールリバー)、西には西江があり、中華人民共和国の本土の珠海経済特区と隣接している。
1970年代以降に大規模な埋立が行われたため、マカオの地形は概ね平坦であるが、多数ある険しい丘が、元の地形の名残をとどめている。マカオ半島は元々島だったが、徐々に砂州が伸びてゆき、狭い地峡になり、その後の埋め立てにより狭い水路を残して大陸と一体化した(陸繋島)。
マカオは高度に構造物が密集した都市であり、耕地、放牧地はなく、実質的に農業は殆ど行われていない。このために、マカオの人々は伝統的に海に目を向けて生計を立ててきた。
行政地域
マカオには2つの行政上の下部地域がある。
気候
マカオは、温帯夏雨気候 (ケッペンの気候区分: Cwa)に属し、年間の平均湿度が75% ~ 90%[6]とかなり高い。他の華南地域同様、モンスーンの影響を強く受け、夏と冬の気温差・湿度差が、大陸内部ほどではないにせよ、顕著である。年間平均気温は22.7℃[7]であり、7月が平均気温28.9℃と最も暑く、1月が平均気温14.5℃で、もっとも寒冷な月となる[6]。
マカオは、中国の南岸地域に位置しているので、年間降雨量2120mmと多雨地帯に属する。しかし、冬季はシベリア高気圧の影響を受け、比較的乾燥する。10月から11月にかけての秋季は、晴天に恵まれ、温暖で湿度も低いなど過ごしやすい季節となる。12月から3月初旬の冬季は、平均的最低気温は13℃と穏やかであるが、時折、8℃を割るほど低下することもある。3月から、湿度が上昇し始め、夏季は気温がかなり高くなり(しばしば、日中30℃を超える)、亜熱帯性の豪雨や時には台風に見舞われる[6]。 テンプレート:Weather box
政治
マカオの行政長官は、各業界団体から選出された委員からなる選挙委員会が選んだ者を、中華人民共和国の中央政府が任命する。行政長官は7〜11人からなる行政会と呼ばれる内閣を組織する。マカオの中国系住民の名望家であり、銀行家でもあったエドモンド・ホー(何厚鏵)が1999年12月20日にポルトガル統治下で任命されたロシャ・ヴィエラ(Rocha Viera)総督に代わるマカオ特別行政区初代行政長官に中華人民共和国から任命された。
立法機関はマカオ特別行政区立法会であり、マカオ住民の直接選挙で選ばれた12人の議員と各種職能団体を通じて間接的に選出される10人の議員、及び行政長官が指名する7人の任命議員で成り立っている。立法会はあらゆる分野での法規定立の責任を負っている。現在のマカオには政党を名乗る政治集団が存在せず、住民は政治目的ごとに社団を組織して議員選挙に参加している。(社団の一覧についてはマカオの政党を参照のこと。)
司法
マカオでは長年、大陸法系ポルトガル法に基いた司法制度が運用されてきたが、中国返還後も継続している。返還に際して制定されたマカオ基本法は、中国中央人民政府が澳門特別行政府に対して自治権および一部の対外事務につき、これらを授権する旨規定された。これによりマカオは将来も「中國澳門」名義により外交的行為を行い、広汎な裁量権に基づいた地方自治は継続する。
三審制であり、第一審は初級法院と行政法院がマカオ域内のほぼ全域を管轄している。中級法院(控訴裁判所)は五名の裁判官、終審法院(CFA)は三名の裁判官により構成される。陪審制が規定されているが、実例はない。裁判官は選出委員会が選出し、行政長官が指名する。マカオには死刑制度は存在しない。
1991年以前、マカオはポルトガルの司法管轄区分によるものとして、リスボン地方裁判所管区の支部として運用されていた。
経済
世界銀行の統計によると、2009年のマカオのGDPは185.99億ドル(約1.6兆円)であり[8]、鳥取県(約2兆円)よりやや小さい経済規模である[9]。一人あたりのGDPは非常に高く、また税収も潤沢であるため、マカオ市民には一人あたり年間約10万円相当の年金が支払われ、また教育、医療費は無料である。
通貨
域内の法定通貨はマカオ・パタカであるが、流通通貨の相当部分は香港ドルである。1香港ドル=1.0261パタカ(2010年10月30日現在)と、パタカがわずかに価値が低いが、ほとんどの店では等価に扱われたり、流通レート以上に値上げされることがある。
なお、香港ドルで支払っても釣り銭はパタカで返ってくることがある。パタカを香港での支払いに使うことはできない。
産業
マカオの経済はギャンブルを含む観光産業と織物や衣類、花火の生産に大きく依存しているが、多角化に努めた結果、小規模ながら玩具や造花、電子機器の製造も始まった。
織物や衣類は輸出金額のおよそ4分の3を占めているが、実際はGDPの40%程度、政府歳入の70%程度はギャンブルに依拠すると推測されている。なお、2005年度のGDPは116億アメリカドルに上る。
観光とギャンブル
2000年には800万人を越える観光客がマカオを訪れた。近年では、中華人民共和国本土からの訪問客が成長を押し上げる主な要因になっているが、香港からの観光客が現在でも最も多い他、台湾・日本をはじめとしたアジア各国・地域からの観光客がそれに続く。世界最大のカジノ設備が集客に貢献しているのは確かであるが、その他にも、世界遺産に登録されたマカオ歴史地区や、東西を融合した独特の食文化、また、カジノに隣接するブランド品の直営店など、ギャンブル以外の観光資源にも恵まれている。
なお、返還直前の1998年頃には経済の暗黒面である暴力団(黑社會)(マフィア、ギャング)の抗争により治安の悪化が伝えられたが、観光産業はそれほど影響を受けなかった。
2002年には、カジノ経営権の国際入札を実施し、その結果これまでスタンレー・ホー経営の「Sociedade de Turismo e Diversões de Macau,S.A.(STDM/澳門旅遊娯楽股份有限公司)」が独占してきたギャンブルを含むカジノ産業を、香港系の「ギャラクシー・カジノ(銀河娯楽場)」社とアメリカの「ウィン・リゾーツ(永利渡暇村)」社にも開放した。
このことが功を奏し外国からの投資が急増し、2009年5月現在、「リズボア(Lisboa、葡京娯楽場)」、「グランド・リスボア(Grand Lisboa、新葡京)」、「サンズ(Sands、金沙娯楽場)」、「ウィン・マカオ(Wynn、永利澳門)」や、新たに埋め立て開発されたコタイ・ストリップの「ザ・ベネチアン・マカオ(Venetian Macao-Resort-Hotel、澳門威尼斯人度假村酒店)」など20を超える大規模なカジノが運営されている。
これに伴い、観光客も2000年の800万人から2005年の1900万人と倍増したように、観光産業の隆盛で経済は活況を呈しており、中華人民共和国本土の一部直轄市や省がマカオ入境を解禁した。2006年のカジノ売り上げが69億5000万アメリカドル(約8400億円)に達し、これまで世界最大であったアメリカのラスベガスの推計65億ドルを超え、世界最大のカジノ都市となった。カジノ市場の対外開放からわずか4年でカジノ都市として世界首位に躍り出た背景には、膨張する中華人民共和国の経済からあふれ出る「チャイナ・マネー」と、新たな市場であるマカオの国際カジノ産業に流れ込む外資があると分析されている。
なお、マカオで合法とされているギャンブルは数多いが、人気があるのは駆け引きの要素の無い大小やバカラである。また、ほぼ全てのカジノにスロットマシーンが備えられている。
この他、古くからドッグレースが盛んである。競馬も行われているが、他のギャンブルの陰に隠れてあまり人気が無い。
交通
海運
マカオ半島にあるニュー・マカオ・マリタイム・フェリーターミナルと、タイパ島にあるタイパ臨時フェリーターミナルから、香港・上環のマカオ・フェリーターミナルまでTurboJET社やCotaiJet社運航によるジェットフォイル(ボーイング929など)と高速双胴船が24時間、15分-30分間隔で運航されている。所要時間はおよそ60分。香港とは九龍尖沙咀のチャイナ・フェリーターミナルとの間にも30分-1時間間隔でFirst Ferry Macauブランドによる高速双胴船が就航しており、こちらも約60分で結んでいる。また、同じく香港の新界にある屯門にある Tun Mun Ferry Terminalとの間にも、Hong Kong North West Express社による高速双胴船が一日に4往復就航しており、香港郊外北部とのダイレクトアクセスとなっている。
マカオ・中国本土間(深セン福永フェリーミナル・深圳蛇口フェリーターミナルなど)にも高速双胴船の定期船が頻繁に運航されており、特に2006年の区域自由化以降は中国本土籍利用客が急増した。
香港国際空港スカイピアとマカオ間を発着する高速双胴船は、香港国際空港に発着する航空機との乗り継ぎ専用で、空港内で直接到着便から・出発便へ乗り換えて利用することができる。また、ニュー・マカオ・マリタイム・フェリーターミナルでは、香港空港を発着する一部航空会社の搭乗手続を行うことも出来る。出来ない航空会社の場合は、香港国際空港スカイピアに搭乗手続カウンターが設けられている。香港国際空港までの所要時間は1時間弱。
このほか、内港(Ponte 16)から、珠海の湾仔を結ぶ渡し舟がある。
航空
24時間運用のマカオ国際空港があり、マカオ航空などが中華人民共和国内の主要都市のほか、台北や東京、大阪、シンガポール、バンコク、クアラルンプールなどのアジア諸国の主要都市との間に定期便を運航している。
他にもエバー航空やチャイナエアライン、エアアジア、中国東方航空など多数の航空会社が乗り入れている。なお、同空港の開港当時は、宗主国のポルトガルの首都のリスボンとの間にTAPポルトガル航空が直行便を運航していたが、その後まもなく廃止された。
近年は日本からの観光客の増加に対応し、2007年7月26日から関西国際空港とマカオ国際空港間にマカオ航空による定期便が就航を開始し2008年7月16日より毎日就航している。2010年3月、成田国際空港にも定期便を就航させた。
また、アウターハーバーフェリーターミナル屋上のヘリポートから発着する、Sky Shuttleという名称のヘリコプターによる定期便が運航されており、香港・マカオフェリーターミナル屋上にあるヘリポートや深セン宝安国際空港との間を結んでいる。香港との間はおよそ30分間隔で運航されており、おおよその飛行時間は約15分。
域内
Sociedade de Transportes Públicos Reolian, SA(レオリアン)、Transportes Urbanos de Macau SARL(Transmac、澳門新福利公共汽車有限公司)とTransportas Companhia de Macau(TCM、澳門公共汽車有限公司)の3社の路線バスやミニバスの路線が域内を網羅している。なお、これらの路線バスのルートマップなどは全てポルトガル語と広東語の両方で表記されて、バスの車内放送では広東語→ポルトガル語→普通話→英語 の順で案内される
他にも、サンズ・マカオやウィン・マカオ、ザ・ベネチアン・マカオなどの主なカジノやホテルが、5分から10分に1本程度の頻度でフェリーターミナルと各カジノの間の無料バスを運行している。
また、タクシーが安価な交通手段として市民だけでなく観光客の足として利用されている。また、市民の足としてスクーターが重宝されている。現在のところ地下鉄やモノレールなどの鉄道は無い。交通渋滞を緩和するため澳門軽軌鉄路という新交通システムが計画されている。
ちなみにマカオでは香港同様自動車左側通行となっている。これはかつてポルトガルが左側通行だった頃の名残とされている(ポルトガル本国では1928年に右側通行へ変更)。
人口
テンプレート:Main 人口はおよそ52万人(2007年3月)。マカオを1つの「地域」とみれば、マカオは世界でもっとも人口密度が高い国・地域である。1平方キロメートル当たり実に約1万8000人が住んでいる。
人種構成
マカオの人口は95%が華人であり、最も多いのが広東人で、客家人もおり、いずれも近隣の広東省から来ている。残りはポルトガル人や、マカイエンサと呼ばれる華人とポルトガル人の混血である。
公用語
書き言葉としての公用語は、ポルトガル植民地時代からポルトガル語と中国語の2言語と定められ、官報を始めとする各種公布や注意表示、道路標示などの公的表示にはほぼ全て2言語併記が義務付けられている。また市中の看板における表記なども、その多くで2言語併記がなされているのが目立つが、香港の影響も大きいのか英語も含めた3言語表記になっている広告も目立つし、とりわけバスの言語表記では広東語、ポルトガル語、普通話、英語の4言語表記になっている。
しかし口語では、中国語方言のひとつである広東語が広く使われ、ポルトガル語はポルトガル人とマカイエンサなどを除けば殆ど使用されていない。マカイエンサの内、ごく少数はマカオ語とも呼ばれるクレオール言語を話す。
また、年配者でも流暢に英語や普通話も話せる人が多く、隣の大陸では英語が話せる人が若者だけであるのに比べて、語学力が高い地域でもある。そして主な観光地では稀に日本語を話す職員もいて、世界遺産の墓標の支柱の説明書にも漢文(繁体字中国語)、ポルトガル語、英語、日本語が常に表記されていて、域外からの観光客が訪れても苦痛を感じる事が少ない。
文化
食文化
中国系住民は広東料理系(順徳料理に近い)の中華料理を、ポルトガル系住民はポルトガル料理を基本とした食生活をしているが、これらの料理だけでなく、かつてポルトガルの植民地があったインドやマレーシア、アフリカ、ブラジルの料理の要素や、交易のあった日本料理の影響をも取り入れて融合した、マカオ料理が生まれている。
マカオ料理は一見ポルトガル料理風であるが、中華料理の様に皆で取り分けて食べることも当たり前で、中国大陸近辺でとれる食材もうまく活かしている。食事の際にはポルトワインもよく飲まれる。ただし、マカオ現地では「ポルトガル料理」(「葡国菜」)と区別されずに、呼称されることも多い。
また、香港同様に茶餐廳や麺類、粥、パン、菓子などの専門店も発達している。マカオ料理は香港をはじめとする中華圏で高い人気を誇っており、マカオ式のエッグタルトは、日本にもアンドリューのエッグタルトというチェーン店を出している例がある。
芸能
基本的に香港の芸能の影響が強く、香港や台湾などの中華圏の芸能人、そしてヨーロッパの芸能人に人気が集まっている。ポルトガル音楽のファドを歌うグループや粤劇の劇団がいくつかある。
教育
住民には、3年間の幼児教育、6年間の初等教育、6年間の中等教育、合計15年間の無償教育の機会が提供されている。
識字率は、93.5%で、非識字者の大多数は65歳以上の高齢者であり、若年層(15-29歳)では、99%以上となっている[10]。現在、授業にポルトガル語を用いている学校は1校のみである。
マカオは、統一的学制を有しておらず、中等教育までは英国式、中国式、ポルトガル式のものが並立している。10の高等教育機関があり、内、4機関は公立である[11]。国際学習到達度調査によると、2003年実施のもので実施41カ国(地域含む)中、数学的リテラシー9位、科学的リテラシー7位、問題解決能力6位、2006年実施のもので実施56カ国(地域含む)中、数学的リテラシー8位と上位を記録している。しかしながら、マカオの進学率は、他の高収入諸地域に比べ高いとはいえず、2006年の統計によると、14歳以上の住民のうち、中等教育を受けたものは51.8%であり、高等教育は 12.6%となっている[10]。
マカオ基本法第6章第121条において、以下の条項が定められている。
- マカオ政府は、教育組織、管理・運用、教育に用いる言語、資金配分、入試制度、到達度の認識及び学位制度を含んだ政策について、教育的発展を促進するよう、教育政策の方針を定めなければならない。
- 政府は法律に従って、順次、義務教育制度を整備するしなければならない。
- 地域社会と個人は、法律に基づき、各種の教育的事業を営むことができる。
スポーツ
モータースポーツ
1954年より行われているモータースポーツの祭典であるマカオグランプリが世界的に有名で、1983年より国際格式のフォーミュラ3のマシンによって行われるようになって以来、アイルトン・セナやミハエル・シューマッハ、佐藤琢磨など多くのレーシングドライバーがここで勝利を挙げた後にフォーミュラ1へとステップアップしている。
また、2000年のマカオグランプリでマカオ出身のレーシングドライバーとして初優勝したアンドレ・クートが、SUPER GTや国際F3000選手権など世界各国のレースで活躍している。
マラソン
毎年12月初旬に、旧3地域を一巡するマカオマラソンが行われる。
トライアスロン
- 毎年9月初旬に、国際規格ITU公認のコンチネンタルカップ兼アジアカップのトライアスロン大会が開催される。
国際バレーボール連盟・ワールドグランプリ
- 毎年バレーボール・ワールドグランプリの予選ラウンドが行われる。2001年と2011年の決勝ラウンドが行われる。
国際大会
マカオには、中華人民共和国の中国オリンピック委員会とは独立したマカオオリンピック委員会が存在する。 ただし、マカオオリンピック委員会はアジアオリンピック評議会からは承認済みであるが、国際オリンピック委員会からの承認は得ていない。このためアジア大会や東アジア大会には選手団を送り込めるが、オリンピックには出場できない。ちなみに、国とは独立したオリンピック委員会を持つ地域としては、他に、香港がある。
2005年10月に第4回東アジア競技大会が行われた他、2007年にはアジア室内競技大会が開催された。
観光名所
マカオ歴史地区も参照のこと。
- 聖ポール天主堂跡
- マカオ博物館
- ペンニャ教会
- 媽閣廟
- 仁慈堂
- セナド広場
- モンテの砦
- マカオ・フィッシャーマンズ・ワーフ
- タイパ大橋
- マカオタワー
- カジノ
- ドッグレース場
- マカオグランプリ
- 石排湾郊野公園パンダ館
宿泊施設及びカジノ
- リスボアホテル
- グランド・リスボア
- マカオ・パレス
- サンズ・マカオ
- ウィン・マカオ
- ザ・ベネチアン・マカオ
- フォーシーズンズホテル
- MGMグランド
- スター・ワールド
- ハードロック・ホテル
- マンダリン・オリエンタルホテル
- ポウサダ・デ・サンチャゴ(カジノなし)
- フォーチュナホテル
姉妹都市・友好都市
- マカオ全体
- Concelho das Ilhas地区
舞台にした作品
- 漫画
- テレビドラマ
- 映画
関連項目
- 歴代マカオ総督一覧
- マカオの歴史
- テディ・イップ
- 中華人民共和国の行政区分
- 香港関係記事の一覧 - マカオ関係記事の一覧も記載
- 中国本土・マカオ経済貿易緊密化協定
- 健康都市連合
- ロイヤル・スーパーマーケット
- 世界三大夜景#世界新三大夜景
脚注
外部リンク
- 政府
- 日本政府
- 観光
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テンプレート:Link GA- ↑ 澳門特別行政區政府統計暨普查局>統計資料>澳門主要統計指標 2009年7月19日閲覧 [1]
- ↑ World Bank>World Development Indicators database>Gross domestic product 2008 2009年7月19日閲覧[2]
- ↑ World Bank>World Development Indicators database>Gross domestic product 2008, PPP 2009年7月19日閲覧[3]
- ↑ 黄翊、『澳門語言研究』p3、北京・商務印書館、2007年
- ↑ 森島守人著、『真珠湾・リスボン・東京 続一外交官の回想』、岩波新書、1956年
- ↑ 6.0 6.1 6.2 テンプレート:Cite web
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- ↑ 世界銀行のGDP調査
- ↑ 国民経済計算
- ↑ 10.0 10.1 テンプレート:Cite book
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