紀伊国
テンプレート:Otheruseslist テンプレート:Pathnav テンプレート:基礎情報 令制国 紀伊国(きいのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。南海道に属する。
目次
「紀伊」の名称と由来
7世紀に成立した当初は、木国(現代の標準語・共通語表記:きのくに)であった。名称の由来として、雨が多く森林が生い茂っている様相から「木国」と命名された、という説がある。また、今の和歌山県北部が、有力豪族である紀氏が支配していた地域であるから「紀の国」というようになった、という説もある。実際に、律令制以前の紀伊国は紀伊国造の領土のみであり、熊野国造の領土(牟婁郡)を含まなかった。
和銅6年(713年)に「雅字(良い文字の意)二文字で国名を表すように」との勅令が出された時、紀伊国と表記するようになった。現代の近畿方言では「木」(きい)、「目」(めえ)、「手」(てえ)のように、標準語・共通語における1拍語を母音を変化させて2拍語にする例が見られるが、木国も同様、もともと当地の発音で「きいのくに」だったため当て字して「紀伊国」とした、とする説がある[1]。逆に、「紀伊国」と書きながら「伊」は黙字で、後に「きいのくに」と読まれるようになった、とする説もある[2]。ただし、奈良時代の日本語の発音は不明の点も多く、はっきりしない。
沿革
7世紀に成立した。
紀伊国は歴史が古く、『古事記』には神武天皇が大和に入る時に紀伊熊野を通ったとされるなど、事実はともかく、奈良盆地を地盤とするヤマト王権から知られた国であった。王権は、海人集団を部民に編成する海部の設定を進めた。また、忌部の設定は「紀氏集団」の在地の祭祀権を揺るがした。しかし、部民の設定は充分に展開しなかった。王権はつぎに国造制の導入と屯倉の設定という方策をとった。
天皇や皇后の紀伊行幸で史料に現れた確実な例は、斉明天皇の658年(斉明4年)紀温湯(牟呂温湯)行幸である。 この11月に有馬皇子の事件が起きた[3]。
奈良時代の官衙遺跡の確実な例として、御坊市の堅田遺跡が挙げられる。この遺跡では、周りに柵か塀をめぐらしており、その内区には庇のついた掘立柱建物を中心に建物が全体として「コ」の字状に建てられており、外区には倉庫群が二組建てられていたようである。この堅田遺跡は8世紀前半から後半にかけての遺跡で、付近に「西郡」の名の字が残っているところから考えて、日高郡衙跡に比定されている。
平安時代後期に熊野三山(熊野本宮、熊野新宮、熊野那智の連合体)が成立し、太上天皇(上皇)による熊野御幸がおこなわれるようになると、熊野古道が整備され熊野詣が流行った。その他、紀州の三井寺とされた紀三井寺、空海の高野山金剛峯寺、道成寺、根来寺など大寺大社が紀州の地に建てられた。
平安時代末期には、特に有田郡の湯浅地方を中心に湯浅党の武士団、口熊野の田辺・奥熊野の新宮付近に熊野別当家を総帥とする熊野水軍が発達し勢力を伸ばした。この湯浅党の武士団は平氏方、熊野水軍は源氏方として源平合戦にも関与した。
平安時代までは現在の大紀町南部や紀北町、尾鷲市は志摩国に属していたが、後に紀伊国に入れ替えられた。
南北朝時代は湯浅党を中心に南朝勢力が強い国の一つだった。
南北朝合一後は畠山氏が守護であったが、寺社勢力が強力なために、その支配力は限定的なものにとどまった。
戦国時代には、ルイス・フロイスが「紀州の地には四つ五つの共和国的な存在があり、いかなる権力者もそれを滅ぼすことができなかった[4]」と述べている通り、雑賀衆に代表される国人衆や寺社勢力が割拠する状態が続いた。紀伊の割拠状態は1585年(天正13)の羽柴秀吉による紀州征伐によって終焉した。紀伊の最有力勢力である雑賀衆と根来寺は、小牧・長久手の戦いの際、秀吉の留守に乗じ岸和田城や大坂に侵攻していたが撃退され、秀吉の信雄・家康らとの和睦後、雑賀攻めを招いた。秀吉方は3月20日に出兵し、和泉の諸城を落として紀州に攻め入り、23日に根来寺を焼き討ちした。紀州の国人や各地の戦闘で敗れた残党なども加わって小さな太田城で抵抗したが、秀吉は水攻めで約一ヶ月後に降伏させた。平定後は刀狩りを命じ、跡を秀長に任せ、和歌山城を築造した。
関ヶ原の戦いの後は浅野幸長が入封した(紀州藩)。1619年に浅野氏が安芸広島へ転封されると、徳川家康の十男徳川頼宣が和歌山に入封し、幕末まで紀州徳川家が統治した。
近世以降の沿革
- 「旧高旧領取調帳」に記載されている明治初年時点での国内の支配は以下の通り。太字は当該郡内に本拠が所在。新宮領は和歌山藩附家老水野氏、田辺領は和歌山藩附家老安藤氏が領有[5]。
- 慶応4年1月24日(1868年2月17日) - 新宮領・田辺領が立藩して新宮藩・田辺藩となる。
- 明治2年(1869年)8月 - 高野山領が堺県の管轄となる。
- 明治3年4月27日(1870年5月27日) - 堺県の管轄地域が五條県の管轄となる。
- 明治4年
- 明治9年(1876年)4月18日 - 第2次府県統合により、度会県牟婁郡が三重県の管轄となる。
国内の施設
国府
国府は名草郡に存在した。現在の和歌山市府中の府守神社([[[:テンプレート:座標URL]]34_16_4.75_N_135_14_1.30_E_region:JP-30_type:landmark&title=%E7%B4%80%E4%BC%8A%E5%9B%BD%E5%BA%9C%E6%8E%A8%E5%AE%9A%E5%9C%B0%EF%BC%9A%E5%BA%9C%E5%AE%88%E7%A5%9E%E7%A4%BE 位置])付近と推定されるが、遺構は発見されていない。
国分寺・国分尼寺
- 紀伊国分寺跡 (紀の川市打田町、[[[:テンプレート:座標URL]]34_16_7.60_N_135_20_21.00_E_region:JP-30_type:landmark&title=%E7%B4%80%E4%BC%8A%E5%9B%BD%E5%88%86%E5%AF%BA%E8%B7%A1 位置])
- 国の史跡。跡地上の八光山醫王院国分寺が法燈を伝承する。
- 紀伊国分尼寺跡
- 不詳。西国分廃寺跡(岩出市西国分、[[[:テンプレート:座標URL]]34_15_57.14_N_135_19_53.66_E_region:JP-30_type:landmark&title=%E8%A5%BF%E5%9B%BD%E5%88%86%E5%A1%94%E8%B7%A1%EF%BC%88%E7%B4%80%E4%BC%8A%E5%9B%BD%E5%88%86%E5%B0%BC%E5%AF%BA%E8%B7%A1%E3%81%8B%EF%BC%89 位置]、国の史跡)を国分尼寺跡とする説がある。
神社
- 伊都郡 丹生都比女神社
- 名草郡 日前神社
- 比定社:日前神宮・國懸神宮 (和歌山市秋月、[[[:テンプレート:座標URL]]34_13_40.58_N_135_12_8.78_E_region:JP-30_type:landmark&title=%E7%B4%80%E4%BC%8A%E5%9B%BD%E4%B8%80%E5%AE%AE%E3%80%81%E5%90%8D%E7%A5%9E%E5%A4%A7%E7%A4%BE%EF%BC%9A%E6%97%A5%E5%89%8D%E7%A5%9E%E5%AE%AE%E3%83%BB%E5%9C%8B%E6%87%B8%E7%A5%9E%E5%AE%AE 位置])
- 名草郡 国懸神社
- 比定社:日前神宮・國懸神宮 (和歌山市秋月)
- 名草郡 伊太祁曽神社
- 比定社:伊太祁曽神社 (和歌山市伊太祈曽、[[[:テンプレート:座標URL]]34_12_6.17_N_135_14_59.77_E_region:JP-30_type:landmark&title=%E7%B4%80%E4%BC%8A%E5%9B%BD%E4%B8%80%E5%AE%AE%E3%80%81%E5%90%8D%E7%A5%9E%E5%A4%A7%E7%A4%BE%EF%BC%9A%E4%BC%8A%E5%A4%AA%E7%A5%81%E6%9B%BD%E7%A5%9E%E7%A4%BE 位置])
- 名草郡 大屋都比売神社
- 比定社:大屋都姫神社(和歌山市宇田森、[[[:テンプレート:座標URL]]34_15_39.59_N_135_14_59.02_E_region:JP-30_type:landmark&title=%E5%90%8D%E7%A5%9E%E5%A4%A7%E7%A4%BE%EF%BC%9A%E5%A4%A7%E5%B1%8B%E9%83%BD%E5%A7%AB%E7%A5%9E%E7%A4%BE 位置])
- 名草郡 都麻都比売神社
- 比定論社:都麻津姫神社 (和歌山市吉礼、[[[:テンプレート:座標URL]]34_12_18.49_N_135_14_6.79_E_region:JP-30_type:landmark&title=%E5%90%8D%E7%A5%9E%E5%A4%A7%E7%A4%BE%E8%AB%96%E7%A4%BE%EF%BC%9A%E9%83%BD%E9%BA%BB%E6%B4%A5%E5%A7%AB%E7%A5%9E%E7%A4%BE 位置])
- 比定論社:都麻都姫神社 (和歌山市平尾、[[[:テンプレート:座標URL]]34_12_30.30_N_135_14_49.90_E_region:JP-30_type:landmark&title=%E5%90%8D%E7%A5%9E%E5%A4%A7%E7%A4%BE%E8%AB%96%E7%A4%BE%EF%BC%9A%E9%83%BD%E9%BA%BB%E9%83%BD%E5%A7%AB%E7%A5%9E%E7%A4%BE 位置])
- 比定論社:高積神社 (和歌山市禰宜、[[[:テンプレート:座標URL]]34_14_2.19_N_135_15_17.06_E_region:JP-30_type:landmark&title=%E5%90%8D%E7%A5%9E%E5%A4%A7%E7%A4%BE%E8%AB%96%E7%A4%BE%EF%BC%9A%E9%AB%98%E7%A9%8D%E7%A5%9E%E7%A4%BE 位置])
- 名草郡 鳴神社
- 名草郡 伊達神社
- 比定社:伊達神社 (和歌山市園部、[[[:テンプレート:座標URL]]34_15_52.78_N_135_11_45.49_E_region:JP-30_type:landmark&title=%E5%90%8D%E7%A5%9E%E5%A4%A7%E7%A4%BE%EF%BC%9A%E4%BC%8A%E9%81%94%E7%A5%9E%E7%A4%BE 位置])
- 名草郡 志磨神社
- 名草郡 静火神社
- 在田郡 須佐神社
- 牟婁郡 熊野早玉神社 - 名神大社ではない。
- 牟婁郡 熊野坐神社
- 『中世諸国一宮制の基礎的研究』に基づく一宮以下の一覧[6]。
地域
郡
- 伊都郡 - 指理
- 那賀郡 - 那賀・荒川・□前
- 名草郡-大屋・直川・大川・忌部・旦来、片岡
- 海部郡 - 可太・浜中・木本・□
- 現在は海草郡に統合(海部郡+名草郡)
- 在田郡(有田郡) - 吉備・英太・幡陀
- 日高郡 - 財・清水・内原・南部
- 牟婁郡 - 岡田・牟婁・栗栖
※はじめの郡名は『延喜式』・『和名抄』による。 ※郡の後は8世紀の史料に見える郷名。
江戸時代の藩
藩名 | 居城 | 藩主 |
---|---|---|
紀州藩 | 和歌山城 | 桑山家 (1600年~1601年、2万石)→大和新庄藩2万石に転封 浅野家 (1601年~1619年、37万6千石)→安芸広島藩42万石に転封 |
紀伊田辺藩 | 田辺城 | 安藤家 (紀州藩附家老、1619年~1871年、3万8千石) |
紀伊新宮藩 | 新宮城 | 水野家 (紀州藩附家老、1619年~1871年、3万5千石) |
人物
国司
紀伊守
- 山村王(従五位上):天平宝字3年(759年)任官
- 占野王(従五位下):天長3年(826年)任官
- 文室海田麻呂(従五位下):天長8年(831年)任官
- 紀良門(従五位上):承和元年(834年)任官
- 藤原豊仲(従五位上):承和3年(836年)任官
- 伴龍男(従五位下):承和13年(846年)任官
- 文室真室(従五位上):嘉祥3年(850年)任官
- 紀真高(従五位下):斉衡元年(854年)任官
- 在原善淵(従五位下):天安2年(858年)任官
- 紀恒身(従五位下):天安2年(858年)任官(権守)
- 文室益善(従五位上):貞観2年(860年)任官
- 並山王(従五位上):貞観5年(863年)任官
- 在原善淵(従四位下):貞観6年(864年)任官
- 藤原仲統(従四位上):貞観7年(865年)任官
- 菅野利陰(従五位下)):延喜12年(912年)任官
- 紀文利(従五位下):康保5年(968年)任官
- 藤原棟利(従五位下):天禄3年(972年)任官
- 藤原景斉:天延2年(974年)任官
- 藤原景斉:貞元2年(977年)任官
- 大江景理:長徳4年(998年)任官
- 源経相:長和4年(998年)離任
- 高品成章(従五位下):寛仁3年(1019年)任官
- 平定家:永承2年(1047年)任官
- 平教成:天喜2年(1054年)任官
- 藤原兼綱:天喜6年(1058年)任官
- 藤原重経:康平6年(1063年)任官
- 藤原範永:康平8年(1065年)任官
- 源師俊:治暦3年(1067年)任官
- 藤原師仲:延久4年(1072年)任官
守護
鎌倉幕府
代 | 氏名 | 在職期間 | 出身家 |
---|---|---|---|
1 | 豊島有経 としま ありつね |
治承8年 - 不詳 1184年 - 不詳 |
豊島家 |
2 | 佐原義連 さはら よしつら |
不詳 - 建仁3年 不詳 - 1203年 |
三浦家 |
3 | 後鳥羽上皇御計 |
建永2年 - 承久3年 1207年 - 1221年 |
- |
4 | 三浦義村 みうら よしむら |
承久3年 - 不詳 1221年 - 不詳 |
三浦家 |
5 | 佐原家連 さはら いえつら |
貞応2年 - 嘉禎3年 1223年 - 1237年 |
佐原家 |
6 | 北条久時 ほうじょう ひさとき |
弘安3年 - 不詳 1280年 - 不詳 |
赤橋流北条家 |
7 | 北条時兼 ほうじょう ときかね |
正応4年 - 不詳 1291年 - 不詳 |
普恩寺流北条家 |
8 | 北条氏 |
不詳 - 元弘3年 不詳 - 1333年 |
北条家 |
室町幕府
代 | 氏名 | 在職期間 | 出身家 |
---|---|---|---|
1 | 畠山国清 はたけやま くにきよ |
建武3年 - 観応2年 1336年 - 1351年 |
河内畠山家 |
2 | 畠山国清 はたけやま くにきよ |
延文5年 1360年 |
河内畠山家 |
3 | 細川氏春 ほそかわ うじはる |
応安6年 - 不詳 1373年 - 不詳 |
細川家 |
4 | 細川業秀 ほそかわ なりひで |
永和4年 1378年 |
細川家 |
5 | 山名義理 やまな よしただ |
永和4年 - 明徳2年 1378年 - 1391年 |
山名家 |
6 | 大内義弘 おおうち よしひろ |
明徳3年 - 応永6年 1392年 - 1399年 |
周防大内家 |
7 | 畠山基国 はたけやま もとくに |
応永6年 - 応永13年 1399年 - 1406年 |
河内畠山家 |
8 | 畠山満慶 はたけやま みつのり |
応永13年 - 応永15年 1406年 - 1408年 |
河内畠山家 |
9 | 畠山満家 はたけやま みついえ |
応永15年 - 永享5年 1408年 - 1433年 |
河内畠山家 |
10 | 畠山持国 はたけやま もちくに |
永享5年 - 嘉吉元年 1433年 - 1441年 |
河内畠山家 |
11 | 畠山持永 はたけやま もちなが |
嘉吉元年 1441年 |
河内畠山家 |
12 | 畠山持国 はたけやま もちくに |
嘉吉元年 - 享徳4年 1441年 - 1455年 |
河内畠山家 |
13 | 畠山義就 はたけやま よしひろ |
享徳4年 - 長禄4年 1455年 - 1460年 |
河内畠山家 |
14 | 畠山政長 はたけやま まさなが |
長禄4年 - 応仁元年 1460年 - 1467年 |
河内畠山家 |
15 | 畠山義就 はたけやま よしひろ |
応仁元年 1467年 |
河内畠山家 |
16 | 畠山政長 はたけやま まさなが |
応仁元年 - 明応2年 1467年 - 1493年 |
河内畠山家 |
17 | 畠山義豊 はたけやま よしとよ |
明応2年 - 明応8年 1493年 - 1499年 |
総州畠山家 |
18 | 畠山義英 はたけやま よしひで |
明応8年 - 永正元年 1499年 - 1504年 |
総州畠山家 |
19 | 畠山尚順 はたけやま ひさよし |
永正4年 - 永正14年 1507年 - 1517年 |
尾州畠山家 |
20 | 畠山稙長 はたけやま たねなが |
永正14年 - 天文14年 1517年 - 1545年 |
尾州畠山家 |
21 | 畠山政国 はたけやま まさくに |
天文14年 - 天文19年 1545年 - 1550年 |
尾州畠山家 |
22 | 畠山高政 はたけやま たかまさ |
天文19年 - 不詳 1550年 - 不詳 |
尾州畠山家 |
戦国大名
- 紀伊国は国人領主の力が強く、強力な戦国大名は誕生しなかった。
- 豊臣政権の大名
武家官位としての紀伊守
江戸時代以前
- 織田広遠:戦国時代の武将
- 畠山高政:戦国時代の紀伊・河内の守護大名
- 三村家親:戦国時代の武将、備中国の戦国大名。備中松山城主
- 松平光重:戦国時代の武将。大草松平家初代当主。
- 青木一矩:戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。紀伊入山城主、播磨立石城主、越前北ノ庄城主
- 池田恒興:戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。尾張犬山城主、摂津兵庫城主、美濃大垣城主
- 池田元助:池田恒興の嫡男で、池田輝政の兄
- 佐伯惟教:戦国時代から安土桃山時代の武将。豊後佐伯氏第12代当主
- 立花道雪:戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。立花宗茂の養父
- 和田惟政:戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名(摂津半国守護)。足利義昭、後に織田信長の家臣
- 内藤信正:戦国時代から江戸時代にかけての武将・大名。近江長浜藩第2代藩主、摂津高槻藩、山城伏見藩主
- 松平家忠:戦国時代から江戸時代にかけての武将。形原松平家第5代当主
江戸時代
紀伊国の合戦
脚注
参考文献
- 角川日本地名大辞典 30 和歌山県
- 旧高旧領取調帳データベース
関連項目
歴史
列車名
かつて存在した列車名
鉄道駅名
ほかの駅との区別などの目的で「紀伊」を冠している駅が全部で25駅ある。他に紀伊駅もある。
テンプレート:紀伊国の郡- ↑ テンプレート:PDFlink(名古屋女子大学)
- ↑ 紀伊國屋文左衛門や紀伊國屋書店のように、後世においても「伊」を読まない例がある。
- ↑ 孝徳天皇の子で、事件を有馬皇子の変という。『万葉集』巻二の「挽歌」の項に有馬皇子の歌二首がおさめられている。
- 有馬皇子、自ら傷みて松が枝を結ぶ歌二首
- 磐代(いわしろ)の 浜松が枝を 引き結び ま幸くあらば またかへりみむ(2-141) 磐代は現在の日高郡南部町岩代
- 家にあれば 笥に盛る飯を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る(2-142)
- ↑ 『中世終焉――秀吉の太田城水攻めを考える』(清文堂出版、2008年) ISBN 978-4-7924-0652-3 冒頭より。
- ↑ 記載はすでに新宮藩・田辺藩となっている。
- ↑ 『中世諸国一宮制の基礎的研究』(岩田書院、2000年)pp. 522-525。