内藤弌信
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内藤 弌信(ないとう かずのぶ)は、越後国村上藩の初代藩主。養父は内藤信良。実父・内藤信光は家祖・内藤信成の次男・内藤信広(旗本5000石)の子。生母は前川氏と記すものがあるが(『村上郷土史』77頁)「寛政重修諸家譜」は「某氏」、国立公文書館蔵「内藤家譜」は「家女」とする他に所見がない。
生涯
万治元年(1658年)、江戸に生まれる。寛文7年(1667年)に徳川家綱に初めて御目見し、のち延宝元年(1673年)に棚倉藩主・内藤信良の養子となる。同年従五位下紀伊守となり、翌2年(1674年)11月16日に家督を継いだ。
宝永2年(1705年)、所領を駿河国・遠江国内に移されて田中城を居所としたが、正徳2年(1712年)に大坂城代となり、従四位下に叙せられ豊前守に改めた。享保5年(1720年)9月19日、越後国岩船・蒲原・三島3郡に移されて村上城に住した。
享保10年(1725年)2月18日に養父・信良が晩年に儲けた信輝に家督を譲った。しかし同年に信輝が死去したため、その子の信興が跡を継いだ。享保15年(1730年)に江戸で死去した。享年73。
葬地は小石川無量院(廃寺)とされている(「寛政重修諸家譜」)。墓所は新潟県村上市の天徳寺に移されている。
子女
「寛政重修諸家譜」が掲げるのは養子「信輝」を除いた次の6男3女である。[1]
- 内藤信盛(長男):実弟・内藤信之の養子となる。早世につき絶家。[2]
- 中坊秀孝(次男):中坊美作守秀広の養子
- 京極高長(三男):京極高之の養子
- 女子
- 男子某(豊松):母は毛利綱広の娘
- 女子
- 男子某:母は豊松に同じ
- 女子:信輝の養女となり、後相馬徳胤の正室となる。[3]
- 内藤信庸(六男):内藤信朋の養子となり、内藤信全を家祖とする旗本分家を継承する。[4]
系譜
太線は実子、細線は養子。
内藤信成 ┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓ 信正 内藤信広(旗本) ┃ ┃ 信照(棚倉藩) 信光 ┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓ ┏━━━━╋━━━━┓ 信良 内藤信全(旗本)弌信 信清 信之 ┝━━━━━━━━┓ | (棚倉藩へ) | 弌信(村上藩) 信輝(弌信養子) 信有 信之 | ┃ | ┝━━━━━┳━━━┳━━━┓ 信朋 信盛(絶家) 信輝 ┃ ┃ ┃ | ┃ 信盛 ┃ 信庸 信庸 信興 ┃ ┣━━━━┓ ┃ 信旭 信凭 京極高長
出典
脚注
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