道成寺
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道成寺 (どうじょうじ)は、和歌山県日高郡日高川町にある天台宗の寺院。新西国三十三箇所観音霊場の第五番札所である。道成寺創建にまつわる「髪長姫伝説」(「宮子姫伝記」)や、能、歌舞伎、浄瑠璃の演目として名高い、「安珍・清姫伝説」で知られる。この伝説は、平安時代中期に編纂された『大日本国法華験記』にすでに見える古い話である。
拝観の際には縁起堂で「安珍清姫」の絵巻物を見せながらの絵説き説法が行われる。
目次
歴史
大宝元年(701年)、文武天皇の勅願により、義淵僧正を開山として、紀大臣道成なる者が建立したという。別の伝承では、文武天皇の夫人・聖武天皇の母にあたる藤原宮子の願いにより文武天皇が創建したともいう(この伝承では宮子は紀伊国の海女であったとする)。これらの伝承をそのまま信じるわけにはいかないが、本寺境内の発掘調査の結果、古代の伽藍跡が検出されており、出土した瓦の年代から8世紀初頭には寺院が存在したことは確実視されている。1985年に着手した、本堂解体修理の際に発見された千手観音像も奈良時代にさかのぼる作品である。
寺に残る仏像群は、大半が平安時代初期から中期のもので、この頃は寺勢さかんであったと推定される。現存する本堂は正平12年(1357年)頃の竣工であるが、寺はその後衰微し、天正16年(1588年)の文書によれば、当時は本堂と鎮守社が残るのみであった。明暦元年(1655年)、藩主徳川頼宣の援助で本堂の屋根葺き替え等の修理が行われ、仁王門、三重塔などの諸堂塔は近世を通じて徐々に整備されていったものである。[1]
伽藍
創建時の伽藍
道成寺の境内では、1978年以降、数次にわたって発掘調査が行われ、奈良時代の金堂、塔、中門、講堂、回廊の跡が検出された。中門の左右から伸びる回廊は敷地を長方形に囲み、講堂の左右に達していた。回廊で囲まれた伽藍中心部には、東に塔、西に金堂が位置していた。現存する仁王門、三重塔、本堂はそれぞれ、奈良時代の中門、塔、講堂の跡に建てられている。なお、このような伽藍配置が整ったのは8世紀半ば頃のことで、創建当初(8世紀初頭)は、講堂の位置に寺の中心となる仏堂があり、塔、金堂等は後から整備されたものと推定されている。[2]
本堂
重要文化財。入母屋造、本瓦葺き。桁行(間口)7間、梁間(奥行)5間(「間」は長さの単位ではなく、柱間の数を意味する)。壁板に南北朝時代 正平12年(1357年)の墨書があり、同年頃の竣工と推定される。ただし、天授4年(1378年)銘の鬼瓦が残ることから、細部の造作の完了はその頃までかかったものとみられる。
明暦元年(1655年)、徳川頼宣の援助により、屋根葺き替えを中心とする修理が行われた。その後、文化9年(1812年)から同12年(1815年)にかけて3年がかりで行われた修理は改築に近い大規模なもので、梁間を約1.9メートル広げ、壁板や床板を取替え、間仕切りも変更された。1985年から1991年にかけて解体修理が実施されたが、この際、間仕切りや屋根内部の小屋組などの改変部を中世の姿に復旧した。小屋組は近世の修理で大幅に改変されていたが、古材が屋根裏に格納されていたり、他の場所に転用されていたものも多く、ほぞ穴などの痕跡から、当初の屋根構造を復元することができた。柱は全46本のうち、中世・近世の修理で取り替えられたものが4本、うち2本は屋根裏から元の柱が発見されたため、これを再利用し、46本中44本が当初の柱である。[3]
その他の堂塔
- 仁王門 - 江戸時代 元禄13年(1700年)再建、重要文化財
- 書院 - 江戸時代 元禄15年(1702年)築、和歌山県指定文化財
- 十王堂 - 江戸時代 宝永4年(1707年)築
- 三重塔 - 江戸時代 宝暦14年(1764年)再建、和歌山県指定文化財
- 護摩堂 - 江戸時代 弘化4年(1847年)築
- 縁起堂 - 昭和57年(1982年)築
- 宝佛殿 - 昭和57年(1982年)築
- 念仏堂 - 平成17年(2005年)再建
- 鐘楼跡 - 安珍・清姫事件で消失した鐘楼を再建した二代目の鐘楼跡。二代目鐘楼と梵鐘はいわゆる「道成寺もの」の題材となった由緒ある建物であったが、織田信長軍の全山焼き討ちにあい他の堂宇とともに焼失。梵鐘が京都の妙満寺に安置されている。
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山門
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本堂
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三重塔
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十王堂
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護摩堂
本尊
道成寺本堂には南向き本尊と北向き本尊の2体の千手観音像を安置していた。
- 木造千手観音立像・木造菩薩立像2躯(伝日光・月光菩薩)
- 本堂内陣厨子内に南(正面)向きに安置されていた千手観音像とその両脇侍像で、1994年、国宝に指定された。1982年に収蔵庫(宝仏殿)が完成してからはそちらに移されている。像高は千手観音が291.0センチ、伝・日光菩薩が242.1センチ、伝月光(がっこう)菩薩が241.7センチ。3体とも頭・体の根幹部から蓮肉(蓮華座の中央部分)までの主要部分を一材から造る一木造で、作風から平安時代初期・9世紀の作と推定される。彫像の千手観音像は、42本の手で千手を代表させるのが一般的だが、道成寺像は2本多い44手を有するのが特色である。[4]
- 木造千手観音立像及び木心乾漆千手観音立像
- 前記の国宝の千手観音像の背後に北向きに安置されていた、秘仏の千手観音像とその胎内仏である。木造千手観音像は長年秘仏とされていたが、前述の本堂解体修理に際して像を移動した際、像内に破損の激しい木心乾漆千手観音像が納められているのが発見された。木造千手観音像は像高299.8センチ。南向き本尊と同様、44手を有する。現・本堂の建立と同時期の南北朝時代の作品と推定される。抑揚のない円筒状のプロポーションに造られ、像内に胎内仏を納めることを想定して造られた鞘仏(さやぼとけ)である。胎内仏の木心乾漆千手観音立像は発見時に破損が甚大で、面部を含め、像の前半部はほとんど朽損していたが、背面の頭部から背、腰にかけては比較的当初の造形が残っており、作風から奈良時代の作と推定される。この像に属していた脇手の残片多数が像とともに発見された。また、寺内の蔵に別途保管されていた手首、腕等も本像に属するものと確認された。この木心乾漆像はその後、顔などの欠失部分を補って復元され、本堂に安置されている。復元後の像高は236.0センチ。鞘仏、胎内仏ともに1989年に重要文化財に指定された。[5][6]
文化財
国宝
- 木造千手観音立像・木造菩薩立像2躯 - 解説は前出。
重要文化財(国指定)
- 本堂
- 仁王門
- 紙本著色道成寺縁起 2巻[7]
- 木心乾漆千手観音立像・木造千手観音立像(鞘仏)- 解説は前出。
- 木造毘沙門天立像 2躯 - うち1躯は東京国立博物館に寄託
- 木造十一面観音立像
- 木造四天王立像
- 色紙墨書千手千眼陀羅尼経
史跡
- 境内
和歌山県指定有形文化財
- 三重塔 - 高さ 21.82m、1971年3月22日指定
- 書院 - 1971年3月22日指定
拝観
- 拝観時間:9:00 - 17:00(境内のみの見学は時刻の制限無し)
- 拝観所要時間は宝仏殿・縁起堂に約20分、絵説き説法に約40分が標準である。
交通アクセス
芸能への影響
脚注
- ↑ 鳴海(1991)pp.96 - 98
- ↑ 菅原(1991)pp.110 - 117
- ↑ 鳴海(1991)pp.99 - 110
- ↑ 『月刊文化財』370号の解説
- ↑ 田村(1991)pp.117 - 121、及び『月刊文化財』310号の解説
- ↑ 本像の復元前の写真は『月刊文化財』310号に、復元後の写真は特別展『祈りの道 吉野・熊野・高野の名宝』図録(大阪市立美術館ほか、2004)にそれぞれ収録されている。
- ↑ 『続日本の絵巻24.桑実寺縁起 道成寺縁起』(小松茂美編、中央公論社、1992年)に詳しい。
参考文献
- 鳴海祥博・菅原正明・田村寛康「道成寺本堂」『仏教芸術』195号、1991
- 「新指定の文化財」『月刊文化財』310号、第一法規、1989
- 「新指定の文化財」『月刊文化財』370号、第一法規、1994