畠山稙長
テンプレート:基礎情報 武士 畠山 稙長(はたけやま たねなが)は、戦国時代の守護大名。河内・紀伊・越中守護。足利氏の支流畠山氏出身で河内畠山氏の一流である畠山尾州家(高屋畠山氏)の当主。
畠山尚順(のち尚長)の子で長経、政国、晴熙の兄とされる。通称は次郎。家の慣例により、第10代将軍足利義稙より偏諱を賜い稙長(別名:稙家(たねいえ))と名乗る。官位は右衛門佐、尾張守。法名は大和寺殿覚源悟公。
生涯
父との確執
永正12年(1515年)に元服し、永正14年(1517年)に父の隠居により家督を継承するが、既に永正8年(1511年)に河内高屋城を父より譲られるなど、その活動は河内や京都において数年前から確認でき、同時期に父の活動は越中や紀伊方面に注がれていた形跡があり、家督継承の前から二元的な統治形態を取っていたと考えられている。
父は室町幕府管領の細川高国政権の下で守護職を回復し、明応の政変以前の地位を幕府においてある程度取り戻すことに成功したものの、管領は高国が任命され、山城守護職も大内義興に握られるなど不満があったため、幕府と関係する畿内での活動には稙長を当たらせ、自身は領国を固め将来の対立に備えるためか、隠居以降は紀伊に在国し活動を続けていた。幕府での権力回復になおも執着する尚順の姿勢は、幕府を主宰する高国と、戦乱に飽いて幕府との協調を願う畠山家臣団にとって憂慮すべきことであり、尚順を失脚させるためにまだ若年の稙長が利用されたと思われる。
永正15年(1518年)に義興が周防に帰国し、高国と将軍・足利義稙が対立すると、明応の政変以来の義稙の支持者であった尚順は義稙に味方したが、永正17年(1520年)に紀伊を追放され、堺に逃れることになる。これにより稙長は正式に畠山氏の当主として活動するようになる。同年2月に父の宿敵である畠山義英に高屋城を包囲され、3月に落とされ逃亡したが、5月に高屋城を奪い返し義英を大和へ追放した。同年6月から10月に高国と協議の上で大和に介入、尚順派と義英派に分かれて争っていた筒井順興と越智家栄を始めとする大和国人衆を和睦させ、大和への影響を保った。
一方、尚順は翌大永元年(1521年)にかつての宿敵である義英と結び高屋城を攻撃するが敗れ、義稙を奉じ淡路において再起を図るも果たせないまま翌大永2年(1522年)に病没する。翌大永3年(1523年)に義稙も死去、ほぼ同じ時期に総州家においても義英に代わり畠山義堯が当主となり、敵がいなくなった高国政権は安泰となったが、尚順と義英の和睦で総州家の勢力と尾州家の尚順派の勢力が結びつくことにより、河内畠山氏の内訌が再発する。このため越中においては河内畠山氏の影響力が低下し、分家である能登畠山氏に統治を委ねざるを得ない状況になってしまった[1]。
堺公方との対立と追放、復権
大永2年においては高屋城が焼失するなど、稙長の統治は安泰とはいえなかった。稙長の支持者であった高国が大永6年(1526年)の桂川原の戦い以降の内紛に悩まされる中、享禄元年(1528年)、稙長の高屋城が反高国派の柳本賢治によって陥落させられ、堺公方政権の下で高屋城は畠山義堯のものとなった。
享禄4年(1531年)には高国が大物崩れにおいて自刃するなど稙長は苦境に立たされるが、義堯が細川晴元の家臣三好元長と結んで晴元と対立し、天文元年(1532年)に両者が晴元に加勢した一向一揆に攻められ自刃に追い込まれると(享禄・天文の乱)、これを好機とみた稙長は実権の回復をめざし活動を活発化させた。ところが、晴元は12代将軍足利義晴と和睦し、義堯の元家臣で晴元に寝返っていた木沢長政もまた義晴方に転じると、稙長は実権を回復するため天文3年(1534年)1月に石山本願寺との同盟を画策、高国派の残党とも結ぼうとした。
しかし、この稙長の行動はかつての尚順の行動と同様、幕府への反抗と取られかねないものであり、畠山家臣団の反発を受けることになる。同年8月、河内守護代の遊佐長教により稙長は紀伊へ追放され、長教は弟の長経を擁立するが、長経もまた独自路線を志向することが分かったため天文4年(1535年)に廃し(後に長政に暗殺されたとも)、弟の晴熙を家督代行に擁立した。やがて天文7年(1538年)に晴元や長政と協議し畠山弥九郎に家督を継がせ、弥九郎と総州家当主畠山在氏をそれぞれ河内半国守護として置いた。尾州家と総州家の実力者である長教と長政が一向一揆などの脅威に備えるため両畠山氏の和睦に動き、このような体制を構築したのであるが、実権は2人が握っていた。
天文10年(1541年)、晴元や長教と仲違いした長政が反乱を起こすと、稙長は長教と和睦し弥九郎、在氏を追放し、高屋城を回復し畠山氏の当主に復帰した。孤立した長政は三好長慶と長教によって討伐され、翌天文11年(1542年)の太平寺の戦いにおいて戦死した。長政の勢力の中核はかつての総州家の被官だった国人衆であったため、長政と共に総州家も実質的に滅亡したことになる。
在氏はその後幕府に帰参したが、もはや尾州家と敵対しうる勢力ではなくなっており、この後の畠山氏の内訌は尾州家内部の争いが中心になることになる[2]。
晩年
長政の滅亡後、天文12年(1543年)にかつての高国の残党の盟主として祭り上げられた細川氏綱が堺で挙兵し、「細川氏綱の乱」と呼ばれる争乱が勃発することになる。稙長は氏綱に与力し晴元と敵対するも、強大な軍事力を有する三好長慶を配下に持つ晴元を下すことができないまま、天文14年(1545年)に病没する。
家督は弟政国が継いだとも、氏綱の援助で幕府の敵となった稙長の後継者を認めない晴元の介入で畠山四郎なる人物が継いだともいわれる。また、家督を能登畠山氏の畠山義続へ譲るよう遺言したため、一時家中が混乱し、稙長の葬儀も行えない状況であったともいう[3]。
脚注
- ↑ 朝倉、P190 - P200、弓倉、P42 - P46、福島、P71。
- ↑ 朝倉、P203 - P206、P211 - P212、弓倉、P46 - P48、P309 - P316、福島、P75、P89、P92 - P94。
- ↑ 弓倉、P48、P238 - P243、福島、P97 - P99。
参考文献
- 朝倉弘『奈良県史11 大和武士』名著出版、1993年。
- 弓倉弘年『中世後期畿内近国守護の研究』清文堂出版、2006年。[1]
- 福島克彦『戦争の日本史11 畿内・近国の戦国合戦』吉川弘文館、2009年。
|
|
|
|
|
|