藤原佐理

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テンプレート:Otheruseslist テンプレート:出典の明記 テンプレート:基礎情報 公家 藤原 佐理(ふじわら の すけまさ[1])は、平安時代中期の公卿能書家太政大臣藤原実頼の孫。左近衛少将藤原敦敏の長男。

経歴

応和元年(961年従五位下叙爵し、侍従に任ぜられる。右兵衛権佐右近衛少将を経て、康保4年(967年冷泉天皇即位し、養父藤原実頼関白に就任すると従五位上に、翌安和元年(968年正五位下と続けて昇叙される。

安和2年(969年円融天皇の即位後まもなく右中弁に転任すると、天禄元年(970年従四位下、天禄2年(971年)左中弁、天延3年(975年)従四位上、貞元2年(977年正四位下と、円融朝の前半は弁官を歴任しながら順調に昇進し、天元元年(978年参議に任ぜられ公卿に列した。円融朝末の永観2年(984年)従三位に叙せられる。

同年に花山天皇が即位したのち一条朝にかけて、天皇外戚である藤原義懐(花山天皇外叔父)や、藤原道隆道兼道長兄弟(一条天皇外叔父)らに昇進で次々と先を越される中、正暦2年(991年)には参議を辞して大宰大弐として九州に赴任している。正暦3年(992年正三位

長徳4年(998年)7月25日薨去享年55。最終官位は前参議正三位兵部卿

人物

早くより能書で知られ草書の第一人者としての評価が高く、円融花山一条の3天皇の大嘗会屏風色紙形の筆者を務めた。小野道風藤原行成とともに三跡の一人に数えられ、流麗で躍動感のある筆跡は「佐跡」と呼ばれる。真跡として「詩懐紙」(しかいし、国宝)のほか、「離洛帖」(りらくじょう、国宝)などの書状数点がある。

また、佐理は大層を好んだが、そのために不興を買うことも多かった。また、職務怠慢甚だしく、常識を欠く嫌いがあり、『大鏡』では「如泥人」(だらしのない人の意)と評された[2]。一方、『参議要抄』には『佐理参議抄(佐理抄)』なる書が引用されており、小野宮家の一員らしく、故実について一家言あったと思われる。

逸話

『大鏡』では、太宰大弐の任期が終わり京都へ戻る途中に、夢の中で三島明神の神託を受け佐理が神社扁額を書いた話、当時の関白藤原道隆東三条殿を造営した際、の色紙形にを書くように命じられたが、佐理が参上に遅れ道隆の機嫌を損ねた話、が語られている[2]

真跡

官歴

系譜

脚注

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参考文献

関連項目

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  1. 名前は「すけまさ」だが、「さり」と有職読みすることが多い。
  2. 2.0 2.1 『大鏡』第二巻,太政大臣実頼
  3. 重要美術品認定の官報告示は1940年9月27日