大山祇神社
テンプレート:統合文字 テンプレート:神社 大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)は、愛媛県今治市大三島町宮浦にある神社。式内社(名神大社)、伊予国一宮。旧社格は国幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
全国にある山祇神社(大山祇神社)の総本社である。また、主祭神の大山祇神は三島大明神とも称され、大山祇神社から勧請したと伝える三島神社は、四国を中心に新潟県や北海道まで広がる。静岡県の三嶋大社と共に三島神社の総本社とされる。
目次
概要
瀬戸内海に浮かぶ大三島西岸、神体山とする鷲ヶ頭山(標高436.5m)西麓に鎮座する。古くは大三島南東部に位置した。
三島神社や大山祇神社の総本社であり、山の神・海の神・戦いの神として歴代の朝廷や武将から尊崇を集めた。大山積神を祀る代表的な神社ということもあり、山神社の総本社とされることもある。
源氏・平氏をはじめ多くの武将が武具を奉納して武運長久を祈ったため、国宝・重要文化財の指定をうけた日本の甲冑の約4割がこの神社に集まっている。社殿・武具等の文化財として国宝8件、国の重要文化財76件(2014年現在)を有し、境内には国の天然記念物「大山祇神社のクスノキ群」がある。また、昭和天皇の研究を展示した海事博物館が併設されている。
近代においても、日本の初代総理大臣の伊藤博文、旧帝国海軍連合艦隊司令長官・山本五十六をはじめとして、政治や軍事の第一人者たちの参拝があった。現在でも、海上自衛隊・海上保安庁の幹部などの参拝がある。
祭神
- 大山積神 (おおやまづみのかみ、おおやまつみ-)
歴史
当社の鎮座する大三島は古くは「御島」と記された[1]ように、神の島とされていた。大三島に鎮座した由来には諸説がある。
- 『大三島記文』(社伝)
- 大山祇神の子孫・小千命(乎千命、おちのみこと)が大三島に勧請したとする。
- 『伊予国風土記』逸文
- 『予章記』・『予陽河野家譜』
- 越智玉興がこの地での霊験にあやかり、勅宣により社殿を造営したとする[3]。
境内には弥生時代の神宝や祭祀遺跡があるといわれており[3]、いずれにしてもかなり古い時代から存在したとされる。
平安時代の『延喜式神名帳』には「伊予国越智郡 大山積神社」として記載され名神大社に列しているほか、伊予国の一宮とされた。また、朝廷からは「日本総鎮守」の号を下賜されている。
神職(大祝職)は、代々越智氏(のち三島家)が担い、職名を姓とした大祝氏を称した[3]。
大正4年(1915年)、近代社格制度において国幣大社に列格された(四国地方では唯一の大社)。
太平洋戦争の終戦直後の一時期には、旧帝国海軍関係の貴重な資料や教材を戦利品として連合国に没収されることを恐れた海軍兵学校から、厳島神社と合わせて約1万点を「奉納」の名目で預かっていた。そして後に自衛隊が創設されると、自衛隊に返還がなされた。また、GHQは刀剣類の異常な多さを問題視し、国宝級を除いて処分を命じたが神社側は密かに土中に秘匿した。
年表
- 仁徳天皇年代、百済より摂津国御島に大山祇神を祀るという(『伊予国風土記』逸文)
- 推古天皇2年(594年)、大三島瀬戸(遠土宮、現 横殿社。今治市上浦町瀬戸)に移るという (『伊予国風土記』逸文、『三島宮社記』)
- 大宝元年(701年)、現在地(今治市大三島町宮浦)への遷宮に向け造営が始まる (『三島宮御鎮座本縁』)
- 霊亀2年(716年)、16年をかけ造営終了 (『三島宮御鎮座本縁』)
- 養老3年(719年)4月22日、遷宮の儀 (『三島宮御鎮座本縁』)
- 元亨2年(1322年)、戦火に遭い本殿、拝殿が焼失 (『伊予国三嶋社縁起』)
- 天授4年(1378年)、本殿、拝殿再建 (社伝)
- 応永34年(1427年)、本殿再建 (向拝実肘木墨書)
- 天文12年(1543年)、大三島合戦、鶴姫戦死(社伝)
- 慶長7年(1602年)、拝殿建築 (社伝)
- 平成4年(1992年)、「日帝残滓」を焼却処分すると主張した過激派(中核派)の放火により祖霊殿が全焼
神階
- 天平神護2年(766年)4月19日、従四位下 (『続日本紀』)
- 貞観8年(866年)閏3月7日、従三位から正三位 (『日本三代実録』)
- 貞観12年(870年)8月27日、従二位 (『日本三代実録』)
- 貞観17年(875年)3月29日、正二位 (『日本三代実録』)六国史(正史)編纂終了時点での最終神階。
- 寛平9年(897年)正一位(社伝)
境内
社殿
- Ōyamazumi-jinja mikoshiko.JPG
神輿庫
平成9年造営。木造校倉造で入母屋造銅板葺。本社・上津社・下津社の旧神輿3基(愛媛県指定有形文化財)と新神輿3基の6基が収められている。 - Ōyamazumi-jinja roumon.JPG
総門</br>2010年造営
仏堂
- Ōyamazumi-jinja okunoin.JPG
奥の院 ([[[:テンプレート:座標URL]]34_14_53.02_N_133_0_32.06_E_region:JP&title=%E5%A5%A5%E3%81%AE%E9%99%A2 位置])
旧神宮寺の奥の院。
- 東円坊 ([[[:テンプレート:座標URL]]34_14_46.11_N_133_0_17.34_E_region:JP&title=%E6%9D%B1%E5%86%86%E5%9D%8A 位置]) - 神仏習合時にあった神宮寺24坊[7]の1つ。24坊のうち8坊は別宮に移転し、残った16坊も明治の神仏分離の際には本坊のみであった
その他の建造物
- Ōyamazumi-jinja ichinotorii.JPG
一の鳥居
瀬戸内海に面して立つ([[[:テンプレート:座標URL]]34_14_53.08_N_132_59_42.84_E_region:JP&title=%E4%B8%80%E3%81%AE%E9%B3%A5%E5%B1%85 位置])。「日本総鎮守 大山積大明神」の額は、重要文化財指定の木造扁額(伝・藤原佐理筆)の写し。
- 二の鳥居 - 本社境内入り口に立つ。額は一の鳥居に同じ。
名所
- 神水の井戸 - 祭神:水波能売神。本殿向かって左脇にある井戸で、水は祭典に用いられる
- 神池(弁財天池)
- 斎田(神田) - 御田植祭・抜穂祭時に神事が行われる
- みたらし水 (今治市上浦町瀬戸) - 海近くから湧きでる真水。大祭時献上する
クスノキ群
鎮守の森はそれほど広くないが、御神木の「乎千命御手植の楠」や奥の院の門となっている「生樹の御門」など境内や近隣にクスノキの巨木が存在する。1322年の兵火や、1722年の洪水で大被害を受けており往年の姿は無いが、38本が「大山祇神社のクスノキ群」の名称で国の天然記念物に指定、他に境内から離れた場所にある1本が愛媛県指定天然記念物となっている。
- 原始林社叢の楠群
国の天然記念物(指定名称は「大山祇神社のクスノキ群」)。1951年(昭和26年)6月9日指定。境内には多くのクスの古木が残って原生林の名残を留めている。うち38本が指定対象となっている。
- 幹周11.1m、根周り20m、樹高約15.6m。神社境内のほぼ中央にある。伝承樹齢2600年。兵火や洪水・落雷により樹勢は衰えているが下枝は葉をつけている。現在では息を止めて3周すると願い事が叶う、一緒に写真を撮ると長生きできるなどと信仰がある。小千命の手植えとの伝承があり、名称はこれに由来する。根本は柵で保護されているがその周りは踏み固められており、やや枯れ枝が目立つ。
- 能因法師雨乞いの樟(枯死)
- 幹周17m(現在は10m以下)。神池近くにある。伝承樹齢3,000年。かつて日本最古の楠と言われた。18世紀に枯死し腐朽がかなり進行しているが、1990年頃の調査でも胸高幹周10mの大木である。名称は、1066年の大干ばつの際、能因法師がこの木に幣帛を掛け雨乞いを行ったことに由来する。このことは『金葉和歌集』の大治2年(1127年)に詠まれている。
- 河野通有兜掛の楠(枯死)
- 幹周14m(現在は3m以下)。弘安4年(1281年)元寇出兵時、河野通有が大山祗神社に参籠祈願した際に兜を掛けたとされる。1322年の兵火で大被害を受け枯れているが、現在も幹の一部が社殿の脇に横たえている。
- 第三号樹
- 幹周8m(1950年頃)。高い樹高(高さ48m)と大きな根株(根周り70m)が特徴。上記3本に次ぐ大木だが、特筆する伝承などはない。見通しの悪い樹林の中にあるため目立たないが、背が高いため境内裏側に廻れば見える。その他幹周8-10m級クスノキが3本ある。
- 生樹の御門
愛媛県指定天然記念物。1951年(昭和26年)11月27日指定。境内からやや離れているため、国の天然記念物「大山祇神社のクスノキ群」には含まれず、この木単独で愛媛県の天然記念物に指定されている。
- 奥の院への途中に立つ。樹齢は2,000年または3,000年と伝承される[8]。根周り32m、幹周15.5m、高さ10m。主幹は勢いがなく副幹に近接する1枝を除いて枯れているが、副幹は樹勢があり大きく密な樹冠を広げている。周りにはひこばえが数本出ており、着生している植物と合わせ1つの森の様になっている。昭和期には斜面上側、主幹と副幹の間にもう1本細い幹があった。真中の洞(幅2m、高さ3m)が奥の院への参拝通路となっていて、くぐると長寿の利益(りやく)があるなどと信仰されている。
- その他のクスノキ
- 伊藤博文公記念楠樹
- 樹齢100年(1909年3月22日~)、幹周1m程度の若木である。伊藤博文が参拝記念に植樹した。下枝が手頃なところにあるため、よくみくじ掛として使われているが、木の生育にはあまり良くない。他にもクスノキの若木が多数ある。
- 大山祇神社 河野通有兜掛の楠.JPG
河野通有兜掛の楠 枯死
- 大山祇神社 無銘の大楠.JPG
無名の大楠(国の天然記念物)
- 大山祇神社 伊藤博文公記念楠樹.JPG
伊藤博文公記念楠樹
神体山
- 鷲ヶ頭山(436.5m) - 大三島中心に立つ最高峰。古名を「神野山」
- 小見山 - 山名は「お宮の山」からの変形とされる[9]
- 安神山(267m) - 鷲ヶ頭山の西に立つ。大宝元年の本社の現境内地への遷宮の際、安神山山頂に五龍王を祀ったとされ、現在も祠が鎮座する
その他
- 御串山 (今治市大三島町宮浦字御串山) - 宮浦港に接して立つ小山。当社の境内地で摂社の阿奈波神社が鎮座するほか、中世の城跡も確認されている。景勝地として名高く、愛媛県の名勝に指定
- 鯨山の古墳 (今治市馬越) - 伝・小千命墓
摂末社
摂社
- 本殿向かって右手に鎮座。社殿は三間社流造檜皮葺で愛媛県指定有形文化財。
- 下津社
- 祭神:下津姫、高籠神
- 例祭:なし - 祭典は本社に準じて行われる
- 本殿向かって左手に鎮座。社殿は三間社流造檜皮葺。
- 境外摂社
末社
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- Ōyamazumi-jinja massha (mihoko-jinja).JPG
御鉾神社
- Ōyamazumi-jinja massha (Himekomura-jinja).JPG
姫子邑神社
- Ōyamazumi-jinja massha-1.JPG
伊予国総社・祓殿神社・葛城神社
- Ōyamazumi-jinja massha (Jūshichi-jinja).JPG
十七神社
- Ōyamazumi-jinja massha (Sorei-sha).JPG
祖霊社
- 境外末社
- 御子宮神社 (今治市大三島町宮浦字御子宮) - 祭神:大直日神。例祭:1月8日。宝亀10年(779年)11月に鎮座したとされる
- 厳島神社 (今治市大三島町宮浦字厳島) - 祭神:市杵島姫命。例祭:6月17日
- 轟神社 (今治市大三島町宮浦字坂中) - 祭神:啼澤女神。例祭:1月7日。宝亀10年(779年)11月に鎮座したとされる
- 天神社 (今治市大三島町宮浦字小見山[[[[:テンプレート:座標URL]]34_14_55.68_N_133_0_31.02_E_region:JP&title=%E5%A2%83%E5%A4%96%E6%9C%AB%E7%A4%BE%E3%83%BB%E5%A4%A9%E7%A5%9E%E7%A4%BE 位置]]) - 祭神:天之御中主神・高産霊神・神産霊神(相殿に菅原道真公)。例祭:6月25日
別宮
- 別宮大山祇神社 (今治市別宮町[[[[:テンプレート:座標URL]]34_4_7.45_N_132_59_42.42_E_region:JP&title=%E5%88%A5%E5%AE%AE%E5%A4%A7%E5%B1%B1%E7%A5%87%E7%A5%9E%E7%A4%BE 位置]])
その他
- 横殿社 (横殿宮、今治市上浦町瀬戸) - 元宮。養老3年(719年)の現在地への遷座以前の鎮座地
- 三島神社 (御浜殿、今治市大三島町台[[[[:テンプレート:座標URL]]34_14_12.52_N_132_59_49.17_E_region:JP&title=%E4%B8%89%E5%B3%B6%E7%A5%9E%E7%A4%BE%EF%BC%88%E5%BE%A1%E6%B5%9C%E6%AE%BF%EF%BC%89 位置]]) - 旧御旅所[14]。秋の産須奈大祭時、神輿が渡御する。それ以前は別宮まで神輿が渡御していたとされる
- 海岸御休み処 (今治市大三島町宮浦字御串山) - 秋の産須奈大祭時、三島神社から還御する際に駐輿する
- 大山祇神社 横殿社.jpg
横殿社(横殿宮)
- Ōyamazumi-jinja ohamaden (Mishima-jinja).JPG
三島神社(御浜殿)
祭事
年間祭事
- 1月
- 歳旦祭 (1月1日)
- 生土祭 (1月7日)
- 4月
- 御更衣御戸開祭 (旧4月21日)
- 例大祭 (旧4月22日)
- 5月
- 御田植祭 (旧5月5日)
- 6月
- 全国鉱山工場安全祈願祭 (6月27日)
- 五穀豊穣祈願祭 (6月27日)
- 8月
- 産須奈大祭 (旧8月22日)
- 9月
- 抜穂祭 (旧9月9日)
- 11月
- 七五三祝祭 (11月15日)
- 御更衣御戸開祭 (11月22日)
- 12月
- 全国鉱山工場安全祈願祭 (12月1日)
- 酒口祭 (12月)
- 大祓式 (12月31日)
- 除夜祭 (12月31日)
一人角力
毎年春の御田植祭(旧暦5月5日)と秋の抜穂祭(旧暦9月9日)において、大山祇神社の御淺敷殿と神饌田の間に設けられた土俵で行われる相撲神事である。「稲の精霊」と「一力山」による三本勝負で行われ、稲の精霊が2勝1敗で勝つ。「すもう」は一般に「相撲」の字を当てるが、ここでは、相撲を含めた広義の力くらべである「角力」の文字を用いて一般の相撲とは違うこと、神との力くらべを表すとされる。
この神事については「三島大祝安積の松山寺社奉行所差出書」(宝永4年(1707年))に5月5日・9月9日に相撲を取らせたとあり、また大三島の瀬戸地区(現 今治市上浦町南東部)の向雲寺住職慈峯が享保20年(1735年)に「端午(5月5日)神事の節於宮浦邑の斎事有其内瀬戸の独り相撲と名乗る儀式あり役人は甘崎(瀬戸に隣接する地区)より出候得共瀬戸と名乗る」と記しており、古くからの神事であったことが察せられる(貞治3年(1364年)の書物にも相撲奉納の記録が残る)。
春の御田植祭の時には御田植神事の前に、そして秋の抜穂祭の時には抜穂神事の後に行われている。稲の精霊が勝つことによって、春には豊作が約束され、秋には収穫を感謝するという神事である。全国的にも珍しく、昭和39年(1964年)に愛媛県の無形文化財の指定を受け、昭和52年(1977年)に条例改正により県の無形民俗文化財に指定替えになる。
記録によると江戸時代は現在の今治市上浦町瀬戸の力士によって行われ、一番勝負であったとされる。また、明治以降の力士として、堀田金八・藤原岸蔵・藤原初治・越智直治・松岡栄太郎・藤原忠八・元岡敬・藤原荒市などの氏名が記されており、いずれも10年20年と奉仕してきたようである。また、現在使われている「一力山」という四股名は藤原百千の命名による。
昭和59年(1984年)を機に途切れていた一人角力は、大三島中学校教諭 越智秀雄のはたらきかけにより、平成2年の愛媛県地域生活文化研究発表会で大三島中学校生徒により披露されることとなり、以後同中学校において伝承文化発表会で毎年披露されている。平成6年-10年の間には、大三島中学校生徒会 会長・副会長による一人角力が実際の御田植祭と抜穂祭でも奉納された。現在、しまなみ海道開通(平成11年)を契機として、地元の若者の中から選ばれた力士役・行司役の2人により成人の一人角力復活がなされている。
文化財
大山祇神社の文化財には、刀剣、甲冑、弓箭具などの武器武具類の多いことが特色である。これらの多くは三島水軍の河野一族からの奉納品である。特に甲冑は日本の国宝・重要文化財指定品の大半が当神社にある。これらは境内の紫陽殿および国宝館で一般公開されている。
国宝
- 紺糸威鎧(兜、大袖付) 1領 - 伝河野通信奉納、平安時代
- 赤糸威鎧(大袖付) 1領 - 伝源義経奉納、平安時代、大鎧と胴丸の特色を兼ね備えた稀有の遺例。
- 紫綾威鎧(大袖付) 1領 - 伝源頼朝奉納、平安時代
- 沢瀉威鎧(おもだかおどしよろい)(兜、大袖付(金具廻革所欠失)) 1領 - 伝越智押領使好方奉納。平安時代初期、日本式の大鎧としては最古の遺品。
- 禽獣葡萄鏡 1面 - 唐時代、白銅円鏡
- 大太刀(銘 貞治五年丙午千手院長吉) 1口 - 伝後村上天皇奉納。刃長136cm、反り4.8cm
- 牡丹唐草文兵庫鎖太刀拵 1口 - 伝護良親王奉納。鎌倉時代
- 大太刀(無銘 伝豊後友行、附 野太刀拵) 1口 - 伝大森彦七(楠木正成を討った武将)奉納。刃長180cm、反り5.4cm
重要文化財
国の重要文化財には76件が指定されている(2012年現在)。
建造物
- 本殿(宝殿) 1棟
- 拝殿 1棟
- 宝篋印塔 3基
彫刻
- 木造御神像 17躯(明細は後出)
- 木造女神坐像 4躯
- 木造守門神像 4躯
工芸品(刀剣類)
- 螺鈿飾太刀 伝小松重盛奉納 1口
- 革包太刀 銘国吉作 大内義隆奉納 1口
- 赤銅造太刀 銘宗延作 1口
- 太刀 銘恒真 革包太刀拵 1口
- 黒漆太刀 無銘 1口
- 革包太刀 無銘 1口
- 太刀 銘行真 拵 山金造螺鈿鞘野太刀 1口(刀身は1942年盗難)
- 刀 銘慶長九年二月吉日信濃守国広作 依賀茂縣主保経所望打之 1口(1942年盗難)
- 太刀 銘有綱 拵 山金造革包太刀 1口
- 金象嵌両添刃鉄鉾 1口 - 神宝として本殿に安置。
工芸品(武具)
(鎧)
(胴丸)
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(腹巻)
(その他武器武具類)
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工芸品(その他)
書跡典籍・古文書
- 大山祇神社法楽連歌 274帖 附安永六年八月十三日整理目録1巻
- 大山祇神社三島家文書 210通(16巻、2幅、10通)
なお、観光案内書等に「大山祇神社には全国の国宝・重要文化財指定の武具・甲冑類の8割以上がある」とする資料が多いが、「8割以上」は誤りで、2012年現在国宝・重要文化財に指定されている武具類のうち大山祇神社所有品は約4割である[15][16]。
- 「三島明神奉納武器類」のうち
- The black helmet of a Mongolian army.JPG
黒漆塗革張冑鉢(元時代)
- The bow of a Mongolian army.JPG
鯨鬚張半弓(元時代)
- The arrow of a Mongolian army.JPG
木箆箭(元時代)
- The arrow of the Kamakura period (3).JPG
雁股箭(鎌倉 - 南北朝時代)
- The bow of the Kamakura period.JPG
和弓(鎌倉 - 南北朝時代)[17]
「木造御神像17躯」の明細
- 大山祇命(おおやまつみのみこと)坐像
- 中山祇命(なかやまつみのみこと)坐像
- 麓山祇命(はやまつみのみこと)坐像
- 正鹿山祇命(まさかやまつみのみこと)坐像
- 䨄山祇命(しぎやまつみのみこと)坐像(「しぎ」の漢字は篇の上部が「今」、下部が「酉」、旁が「隹」)
- 磐裂命(いわさくのみこと)坐像
- 倉稲魂命(うがのみたまのみこと)坐像
- 磐長姫命(いわながひめのみこと)坐像
- 木之花佐久夜毘売命(このはなさくやひめのみこと)坐像
- 大禍津日神(おおまがつひのかみ)坐像
- 猿田彦命(さるたひこのみこと)坐像
- 闇龗命(くらおかみのみこと)坐像(「おかみ」の漢字は「雨冠」の下に「口」を3つ横に並べ、その下に「龍」)
- 大直日神(おおなおびのかみ)坐像
- 火須勢理命(ほすせりのみこと)坐像
- 日子火々出見命(ひこほほでみのみこと)坐像
- 大直日神坐像
- 大雷神(おおいかづちのかみ)坐像
「兜6頭」の明細
- 黒韋威二十間筋兜 1頭
- 藍韋威二十八間筋兜 1頭
- 白綾威裾藍韋二十四間筋兜 1頭
- 藍韋威肩白十二間筋兜 1頭
- 紫韋威三十二間筋兜 1頭
- 鳶兜 1頭
「大袖7双」の明細
- 色々威大袖 1双
- 熏韋威肩白大袖 1双
- 藍韋威腰萌黄大袖 1双
- 白綾威大袖 1双
- 紫韋威大袖 1双
- 洗韋威大袖(四段以下欠) 1双
- 金小札紅糸威腰浅葱大袖 1双
「三島明神奉納武器類」の明細
天然記念物(国指定)
- 大山祇神社のクスノキ群 - 昭和26年指定
愛媛県指定・今治市指定文化財
- 愛媛県指定文化財
- 上津社社殿 - 昭和29年指定
- 十七社社殿 - 昭和29年指定
- 神輿 - 昭和29年指定
- 大山祇神社古図 - 昭和34年指定
- 金銅長柄銚子 - 昭和34年指定
- 大山祇神社文書27通のうち24通 - 昭和31年指定
- 三島家文書 - 昭和31年指定
- 一人相撲 - 昭和39年指定
- 御串山 - 昭和43年指定
- 生樹の門(クスノキ) - 昭和26年指定
- 今治市指定文化財
- 木造金剛界大日如来坐像 1躯 - 東円坊所蔵。昭和55年指定
- 木造胎蔵界大日如来坐像 1躯 - 東円坊所蔵。昭和55年指定
- 木造南無太子立像 1躯 - 東円坊所蔵。昭和55年指定
- 木造薬師如来三尊像 3躯 - 東円坊所蔵。昭和55年指定
- 木造阿弥陀如来三尊像 3躯 - 奥の院所蔵。昭和56年指定
- 銅鑼 - 東円坊所蔵。昭和55年指定
- 鐃鉢 1対 - 東円坊所蔵。昭和55年指定
- 大般若経 221巻 - 東円坊所蔵。昭和55年指定
甲冑用語説明
指定文化財の名称を理解するために、必要最小限のものについて略説。
- これら3つは中世以前に盛行した日本甲冑の主要形式である。「鎧」は「大鎧」(おおよろい)、「式正の鎧」(しきしょうのよろい)とも言い、武将などが着用した馬上戦用の鎧であり、「胴丸」「腹巻」はいずれも南北朝時代以降に盛行したもので、「鎧」よりは簡便な構造形式になる。それぞれの詳しい構造形式等についてはリンク先を参照。
- 袖(そで)
- 両肩・上腕部を護る防具で、甲冑本体と同様の材料・技法で作られる。形状により大袖、壷袖などに分けられる。
- 威(おどし)
- 甲冑の主要な構成要素である小札(こざね、鉄板または練革製の小板)を組糸や韋(かわ)で縦方向に連結することを「威す」と言う。「威」の語源は「緒通し」、すなわち、小札に開けられた孔に緒を通すところから来ていると言われる。糸や韋の色によって「白糸威」「紫韋威」「藍韋威」「紫糸威腰赤」「藍韋威胸紅白」など、さまざまな名称が付けられる。
- 韋(かわ)
- 甲冑の各所に用いられている鹿のなめし革を指す場合「韋」の字を用いるのが通例となっている。威糸のほか、兜の吹き返しなどの鉄板を包むのにも用いられている。
- 熏韋(ふすべかわ)
- 鹿のなめし革をわら、松葉などを焼いた火であぶって茶色に染めたものを指す。
- 褄取(つまどり)
- 単色の威の褄(隅の部分)を三角形に区切り、その部分のみに別色を用いた装飾方法を指す。「白糸威褄取」のように用いる。
- 腰取(こしとり)
- 単色の威の中に1箇所のみ水平に別色を用いたものを指す。
- 沢瀉威(おもだかおどし)
- 威の種類の1つで、中央部分に二等辺三角形状に別色の糸を用いるもの。
- 素懸威(すがけおどし)
- 威糸をまんべんなく並べる「毛引威」に対して、要所のみを威す方法を指す。中世末期以降の甲冑製作技法の進歩によって行われるようになった。
- 筋兜(すじかぶと)
- 縦長の鉄板を複数枚張り合わせて作った兜のうち、張り合わせ部分に補強と装飾を兼ねて筋を立てたものを指す。筋の数によって「二十八間筋兜」「三十二間筋兜」などと称する。
現地情報
- 所在地
- 交通アクセス
- 宮浦港 (今治市大三島町宮浦) - 徒歩約15分
- 付属施設
- 紫陽殿・国宝館 - 国宝・重要文化財含め、奉納された鎧・兜・刀剣類を展示。開館時間:8:30-17:00
- 海事博物館 - 昭和天皇の採集船・葉山丸を中心に、瀬戸内の動植物や全国の鉱山から奉納された鉱石を展示。開館時間:8:30-17:00
脚注
参考文献
- 『歴史群像No.45武家の尊崇厚き神の社 大山祇神社』学習研究社、2001年
- 谷川健一 編『日本の神々 -神社と聖地- 2 山陽 四国』(白水社)大山祇神社項
- 『日本歴史地名大系 愛媛県の地名』(平凡社)越智郡 大山祇神社項項
- 『大三島詣で』(大山祇神社社務所)
関連項目
外部リンク
- 大山祇神社(愛媛県神社庁)
- 大山積神社(國學院大學21世紀COEプログラム「神道・神社史料集成」)
- 『大三島の宝器と三島水軍』 藤田政助 編 (大三島宮保勝会, 1926)
- ↑ 1.0 1.1 『伊予国風土記』逸文。
- ↑ 『日本霊異記』。
- ↑ 3.0 3.1 3.2 3.3 『愛媛県の地名』大山祇神社項。
- ↑ 大山祇神社 本殿(大三島町ホームページ)。
- ↑ 昭和28年の修理の際に見つかった墨書より。社伝では天授4年(1378年)。
- ↑ 大山祇神社 拝殿(大三島町ホームページ)。
- ↑ 泉楽坊・本覚坊・西之坊・北之坊・大善坊・宝蔵坊・東円坊・瀧本坊・尺蔵坊・東之坊・中之坊・円光坊・新泉坊・上臺坊・山乗坊・光林坊・乗蔵坊・西光坊・宝積坊・安楽坊・大谷坊・地福坊・通蔵坊・南光坊の24坊(『大三島詣で』より)。
- ↑ 出版物は樹齢2,000年としているものが多いが、案内板は3,000年
- ↑ 『大三島詣で』より。
- ↑ 摂末社は公式本の『大三島詣で』を参考に記載。
- ↑ 伊予国総社の論社には、他に今治市五十嵐の伊加奈志神社がある。
- ↑ 諸山積、大気、千鳥、倉柱、轟、阿奈波、比目木邑、宇津、御前、小山、早瀬、速津佐、日知、御子宮、火維、若稚、宮市の各神社。
- ↑ 他に今治市の南光坊がある。
- ↑ 三島神社(台)(愛媛県神社庁)より。
- ↑ 『国宝・重要文化財大全 5 工芸品I』(毎日新聞社刊、1998)によると、国宝・重要文化財指定の大鎧41件のうち11件、胴丸54件のうち27件、腹巻39件のうち14件が大山祇神社の所有である。以上を合計すると134件中52件(39パーセント)が大山祇神社の所有である。
- ↑ 大正8年1月13日の『東京国民新聞』に、志賀重昂が大山祇神社の宝物について紹介する文章を寄せ、その中で「特に兵器類の国宝に至っては日本全国の八割強を占め」と書いたことから「全国の8割」という説が広まったものである(大山祇神社編集・発行『大山祇神社』、1985、p.74による)。
- ↑ 画像中の和弓の名称は以下のとおり。(右から)赤漆塗重籐弓、黒漆塗二引重籐弓(正中二十一年針書銘)、塗籠所糸巻弓(貞治二年墨書銘)、吹寄籐弓、黒漆塗二引重糸巻弓、塗籠二引樺巻弓、塗籠重糸巻弓、塗籠匂糸巻弓(2張)