三嶋大社

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

テンプレート:神社 テンプレート:座標一覧

三嶋大社(みしまたいしゃ)は、静岡県三島市大宮町にある神社式内社名神大社)、伊豆国一宮総社旧社格官幣大社で、現在は神社本庁別表神社

概要

静岡県東部の伊豆半島基部、三島市の中心部に鎮座する。境内は交通上の要衝に位置し、大鳥居前を東西に旧東海道、南に旧下田街道が走る。当地は伊豆国の中心部として国府のあった地で、のちに三嶋大社の門前町として発達、いつしか地名も大社に由来して「三島」と称されるようになったとされる。

社名の「三嶋」とは伊豆大島三宅島を含む伊豆諸島を指すと言われ、主祭神は伊豆諸島の開拓神である。当社は、古代には伊豆諸島の噴火を畏れた人々から篤く崇敬された。中世に入ると、伊豆国の一宮として源頼朝始め多くの武家からの崇敬を集めた。近世以降は三島が東海道の宿場町として発達したことに伴い、東海道を往来する庶民からも篤く信仰された神社である。

境内では本殿・幣殿・拝殿が国の重要文化財に、キンモクセイが国の天然記念物に指定されている。また社宝では、北条政子の奉納と伝わる国宝の「梅蒔絵手箱」を始めとして、多数の宝物が国の重要文化財や静岡県の文化財に指定されている。

社名

当社は戦前「三島神社」と称したが、戦後は「三嶋大社」を称している。史料には次の呼称が見えるテンプレート:Sfn

通説では、「三島」の呼称は伊豆諸島に対する尊称「御島(みしま)」に由来するとされるテンプレート:Sfnテンプレート:Sfn[注 1]。伊豆諸島を指す地名の「三島」としては、古くは天平13年(731年[原 3]に「伊豆三島」の記載がテンプレート:Sfn平安時代の『和名類聚抄』では伊豆国賀茂郡に「三島郷(みしまごう)」の記載が見えるテンプレート:Sfn。ただし別説として、伊予国一宮大山祇神社(大三島神)を由来とする説があるテンプレート:Sfn

現在の鎮座地の地名は「三島」であるが、これは先の伊豆諸島を指す「三島」とは異なり、古代の史料には見えない地名であるテンプレート:Sfn。当地は、古代には伊豆国国府があったことから「国府(こう)」と称されたテンプレート:Sfn。そして三嶋神が国府に祀られたのち、13世紀末頃から大社にちなんで地名も「三島」と呼ぶようになったとされるテンプレート:Sfn

以下本項では、神名としては社名にならって「三嶋」の字を使用するが、史料の引用では簡体字を使用する関係上「三島」の字を使用して解説する。

祭神

祭神は次の2柱[注 2]

2柱は総称として「三嶋大神(みしまのおおかみ)」または「三嶋大明神(みしまだいみょうじん)」と称されるテンプレート:Sfnテンプレート:Sfn本地仏薬師如来テンプレート:Sfn

祭神について

三嶋大社の祭神に関しては、古くは大山祇命祭神説・事代主神祭神説が存在した。大山祇命説は、鎌倉時代の『東関紀行』に始まって『源平盛衰記』『釈日本紀』『二十一社記』『日本書紀纂疏』等の諸史料に見える説であるテンプレート:Sfn。三嶋神が伊予国一宮大山祇神社(大三島神)に由来するという伝説に基づきテンプレート:Sfn、事代主神説が唱えられるまでは広く定着していたテンプレート:Sfn。一方事代主神説は、江戸時代後期の平田篤胤の『古史伝』での主張に始まる説であるテンプレート:Sfn室町時代の『二十二社本縁』に「都波八重事代主神(中略)伊豆賀茂郡坐三島神、伊予国坐三島神同体坐云」とある記載に基づくテンプレート:Sfn

江戸時代までの祭神は大山祇命とされていたが、幕末に事代主神説が国学者の支持を得たため、明治6年(1873年)に事代主神に改められたテンプレート:Sfn。その後大正期に入って大山祇命説が再浮上したため、2柱説が昭和27年(1952年)に制定されて現在に至っているテンプレート:Sfn

近年の研究では、三嶋神は「御島神」すなわち伊豆諸島の神を意味するとして、上記2説とも後世の付会とする見方が有力視されるテンプレート:Sfnテンプレート:Sfnテンプレート:Sfnテンプレート:Sfn。この中で、噴火の盛んな伊豆諸島で原始的な造島神・航海神として祀られたのが「ミシマ神」の始まりであるというテンプレート:Sfn。そして「ミシマ」の音から、後世に他の神に結び付けられたともいうテンプレート:Sfn

歴史

創建

創建は不詳テンプレート:Sfn。後述のように『延喜式神名帳には伊豆国賀茂郡(伊豆半島南部・伊豆諸島)の所在と記載され、現在地(当時は田方郡)と相違することから、遷座説・郡名誤記説等の諸説が提唱されているテンプレート:Sfn。文献上で現在地の鎮座が確実なのは、『吾妻鏡治承4年(1180年)の記事[原 4]からであるテンプレート:Sfn

現在通説として知られるのは、初め賀茂郡三島郷(伊豆諸島テンプレート:Sfn)、のち賀茂郡大社郷白浜(伊古奈比咩命神社付近かテンプレート:Sfn)、さらに田方郡小河郷の伊豆国府(現社地)へと遷座したとする説であるテンプレート:Sfn。一方郡名誤記説では、『延喜式』の記載を疑って太古より当地に鎮座とする[1]。そのほか「三嶋」の神名から、伊予国一宮大山祇神社(大三島神)との関係を想定する説もある。

概史

平安時代

史料の初見は天平宝字2年(758年[原 5]で、「伊豆三島神」に対して10月2日に封戸9戸が、12月に4戸が授けられているテンプレート:Sfn。その後国史では天長9年(832年)の記事[原 6]で、神異により三嶋神・伊古奈比咩命神(伊古奈比咩命神社)を名神となし、地2,000に「神宮二院・池三処」を作ったというテンプレート:Sfn[注 3]。同記事の3日前の記事[原 7]では、日照りの原因が「伊豆国神」の祟りであると記されているが、この「伊豆国神」は三嶋神・伊古奈比咩命神と同一神であるとも考えられるテンプレート:Sfn

続日本後紀』の記事[原 1]によると、承和5年(838年)7月5日夜に上津島(神津島)で激しい噴火が発生した。占いの結果、それは三嶋神の後后が位階(神階)を賜ったにも関わらず、本后たる阿波神(阿波咩命;阿波命神社)には沙汰がないことに対する怒りによるものだと見なされたテンプレート:Sfn。同記事では「後后」に関する具体的な言及はないが、これは伊古奈比咩命を指すとされるテンプレート:Sfn[注 3]。この記事を受けて約一ヶ月後[原 8]には、阿波咩命と物忌奈命(阿波神の御子神物忌奈命神社)の神階が無位から従五位下に昇ったテンプレート:Sfn

その後、当社には嘉祥3年(850年[原 9]に従五位上の神階が授けられたのち、仁寿2年(852年[原 10]に従四位下、貞観元年(859年[原 11]に従四位上、貞観6年(864年[原 12]に正四位下、貞観10年(868年[原 13]に従三位が授けられたテンプレート:Sfn

延長5年(927年)成立の『延喜式神名帳[原 2]では、伊豆国賀茂郡に「伊豆三島神社 名神大 月次新嘗」として、名神大社に列するとともに月次祭新嘗祭幣帛に預かった旨が記載されているテンプレート:Sfn。また、『延喜式』主税寮[原 14]によれば、当社には「三島神料」として2,000束が下されていたテンプレート:Sfn

承平年間(931年-938年)頃の『和名類聚抄』では伊豆国賀茂郡に「大社郷(おおやしろごう)」の地名が見えるが、これは伊豆三島神社・伊古奈比咩命神社に基づく郷名とされるテンプレート:Sfn[注 4]

鎌倉時代

中世に入ると、当社は伊豆国で一宮の地位に位置づけられたほか(初見は建武元年(1334年))、伊豆国の総社も兼ねたとされるテンプレート:Sfn。『伊豆国神階帳』(康永2年(1343年)以前成立)では「正一位三島大明神」と記載されているテンプレート:Sfn

吾妻鏡治承4年(1180年)の記事[原 4]によると、源頼朝は挙兵直前に安達盛長に対して当社への奉幣を命じ、その後山木兼隆の討ち取りを行なったテンプレート:Sfn。また、頼朝は同年に平家軍との戦のため西に向かう際にも三嶋神を拝んだというテンプレート:Sfn。このような戦勝祈願に見えるように当社は源頼朝から篤く崇敬され、頼朝からは治承4年(1180年)10月に御園・河原谷・長崎の神領の寄進、元暦2年(1185年)6月に臨時祭料として河原谷・御園の寄進、同年8月には放生会料として糠田・長崎の寄進、文治4年(1188年)正月に参詣、建久6年(1195年)に神馬・剣の奉納が行われたテンプレート:Sfn。頼朝が開いた鎌倉幕府からは、当社は鶴岡八幡宮や二所権現(伊豆山神社箱根神社)と並んで信仰されたテンプレート:Sfn。頼朝以後も鎌倉幕府将軍は代々当社に参詣しており、特に4代将軍・藤原頼経は最も多くの参詣を行なったテンプレート:Sfn

この時代、鎌倉幕府の将軍・御家人は東海道を従来の足柄越ではなく箱根越を利用したテンプレート:Sfn。これによって箱根路が活性化し、箱根手前に位置する当社には数多くの旅人が参詣したテンプレート:Sfn。東海道の紀行文には必ず当社のことが記されており、『東関紀行』の作者(未詳)や、竹崎季長(『蒙古襲来絵詞』上巻)、阿仏尼(『十六夜日記』『夫木抄』)、冷泉為相飛鳥井雅有(『夫木抄』)、一遍(『一遍聖絵』)、後深草院二条(『とはずがたり』)などが参詣の様子を描写しているテンプレート:Sfn

南北朝時代以降

南北朝時代に入り争乱が増えると、当社では戦勝祈願を行う例が多く見られたテンプレート:Sfn。当社は室町幕府鎌倉公方からも篤い崇敬を受けたため、社領寄進が度々なされていたテンプレート:Sfn

戦国時代には当地を治めた後北条氏の保護を受け、後北条氏からは造営の支援も行われたテンプレート:Sfn永禄11年(1568年)の甲相駿三国同盟解消に伴って当地は対武田氏の最前線になったため、度々兵火に遭ったとされるテンプレート:Sfn。後北条氏は積極的に当社の造営を支援したが、それが後北条氏にとっての重荷になったともいわれるテンプレート:Sfn

江戸時代江戸幕府からは文禄3年(1594年)に社領330石が寄進された(地割は神主100石、護摩堂25石、刑部大夫20石、在庁免25石、惣社人55石等)テンプレート:Sfn慶長9年(1604年)にはさらに200石が加えられ、江戸時代を通じて計530石を有していたテンプレート:Sfn

明治維新後、明治4年(1871年)に近代社格制度において官幣大社に列し、「三島神社」と称したテンプレート:Sfn。戦後は「三嶋大社」と改称し、神社本庁別表神社に列している。

神階

神職

三嶋大社の神主職は、伊豆国造の後裔を称する矢田部氏(やたべし)が代々世襲するテンプレート:Sfn

伊豆国造について『先代旧事本紀[原 16]では、神功皇后の時に若建命(わかたけのみこと)が国造に任じられたといい、この若建命は物部連祖・天御桙命(あめのみほこのみこと)の8世孫であるという[2]。矢田部氏に伝わる系図『伊豆国造伊豆宿禰系図』では、初代に天御桙命、第9代に若多祁命(若建命を指す)を記載するテンプレート:Sfn

矢田部氏は、元々は日下部直(くさかべのあたえ、日下部氏)であったとされる[3]。『続日本紀』では天平14年(742年[原 17]に外従七位下の日下部直益人(ますひと;系図では第19代)が「伊豆国造伊豆直(いずのくにのみやつこ いずのあたえ、伊豆氏)」姓を賜った[3]。また、宝亀2年(771年[原 18]に外従五位下の伊豆国造伊豆直乎美奈(おみな;系図では益人の子)が従五位下を賜ったと記載される[3]

系図によると、その後裔の伊豆貫盛(第30代)が三嶋神主となって以降、代々当社の祭祀に携わったというテンプレート:Sfn。伊豆久恒(第33代)の時には久恒に子が無かったため、弟の国盛(第34代)が「東神主五郎大夫」を、末弟の貞盛が「西神主四郎大夫」を称して後を継いだテンプレート:Sfn康和5年(1103年)の国盛の宮司補任を示す文書は現在にも残っているテンプレート:Sfn(ただし検討余地のある史料とされるテンプレート:Sfn)。その後は東大夫西大夫が並び立って当社の社務を分担し、西大夫は二宮八幡宮の神主も兼務したというテンプレート:Sfn。東大夫と西大夫は代々継承されたが、南北朝期以降は西大夫は没落して東大夫のみとなったテンプレート:Sfn。以降の神主職は東大夫の世襲となり、一族は元禄年間(1688年-1704年)に姓を「矢田部」に改めた上で、現在の宮司(第70代)に至っているテンプレート:Sfn

社僧としては愛染院(別当)、大徳院・竜宝院・法正院(役僧)の4子院があったテンプレート:Sfn。また、神宮寺には「国分寺」の称も見えるテンプレート:Sfn

社殿造営

三嶋大社は元は下田市白浜に所在したといわれる。『日本後紀』逸文[原 6]では社地に関する次の記載があるが、これは白浜鎮座時の描写とされる。 テンプレート:Cquote

三島市での所在を示す最古の史料は『吾妻鏡治承4年(1180年)記事[原 4]であるテンプレート:Sfn鎌倉時代の『一遍聖絵(一遍上人絵伝)』第6巻では、弘安5年(1282年)に一遍が参詣した際の楼門・拝殿・楼門(神門)・幣殿・本殿からなる社殿が描かれている(ただし『一遍聖絵』には建築史学的に疑義がある)テンプレート:Sfn。現在、その様子は三嶋大社宝物館に模型で再現されている。

鎌倉時代以降の文書に見える造営・修復年次は、文治3年(1187年)、建永元年(1206年)、嘉禎元年(1235年)、文永9年(1272年)、正安4年(1302年)、嘉暦4年(1329年)、延文3年(1358年)、応安3年(1370年)、永徳2年(1382年)、応永13年(1406年)、応永25年(1418年)、大永6年(1526年)、慶長9年(1604年)、寛永13年(1636年)、承応3年(1654年)、寛文11年(1671年)、正徳元年(1711年)、宝暦5年(1755年)、安永5年(1776年)、寛政8年(1796年)、文化9年(1812年)、天保3年(1832年)、慶応4年(1868年)、大正12年(1923年)、昭和10年(1935年テンプレート:Sfn

上記のうち特に、江戸幕府3代将軍・徳川家光による寛永期の造営で大規模な社殿が整えられたテンプレート:Sfn。その後の江戸期の社殿の様子を示す史料は多く、絵図では五重塔や護摩堂・経蔵といった仏教施設も見える。しかし嘉永7年(安政元年、1854年)に発生した安政東海地震によってほとんどは倒壊したため、社殿は幕末の慶応4年(1868年)にかけて再建されたテンプレート:Sfn。その後は、大正12年(1923年)の関東大震災、昭和5年(1930年)の北伊豆地震による被害の修復を経て現在に至っているテンプレート:Sfn

境内

境内の広さは14,057坪(4.6ヘクタール)テンプレート:Sfn。他に境外地として約2,200坪(0.72ヘクタール)を所有するテンプレート:Sfn

社殿

ファイル:Mishima-taisha honden.JPG
本殿(左)・拝殿(中間の小屋根は神饌所)(重要文化財
ファイル:Mishima-taisha haiden-2.JPG
拝殿(重要文化財)

主要社殿は、本殿・幣殿・拝殿からなる権現造の複合社殿である。大社側ではこれらを「御殿(ごてん)」と総称する。いずれも江戸時代末期の嘉永7年(安政元年、1854年)の安政東海地震後に再建されたもので、慶応2年(1866年)9月9日に落成した。境内にある主な建造物も同時期の再建で、明治元年(1868年)にかけての再建である。テンプレート:Sfn

社殿形式は、寛永年間(1624年-1645年)の徳川家光造営の社殿を踏襲したものとされる。本殿は三間社流造で、銅瓦葺。幣殿は桁行三間、梁間一間、一重、両下造で、銅板葺。拝殿は桁行七間、梁間四間、一重、入母屋造、正面千鳥破風付、向拝三間、軒唐破風付で、銅瓦葺。本殿・幣殿・拝殿いずれも総欅素木造で、国内有数の規模の社殿である。また本殿脇障子の神功皇后の説話に基づく彫刻を始めとして、本殿の内法上の小壁、本殿と拝殿の蟇股などの要所に彫刻が施されているが、これらは伊豆国名工の小沢希道、駿河国名工の後藤芳治良が競い合って完成させたものとされる。これら社殿3殿は、江戸時代を代表する建造物であるとして国の重要文化財に指定されている。[4]テンプレート:Sfnテンプレート:Sfn

拝殿前に立つ舞殿(ぶでん)は、本殿等と同時期の慶応2年(1866年)12月18日の再建。古くは「祓殿」と呼ばれる神楽祈祷を行う場であったが、のちに舞の奉納が主となったので「舞殿」と称されるようになったという。現在では、舞のほか各種神事でも使用される。舞殿には、中国・元代に郭居敬編纂の「二十四孝」を基にした彫刻が巡らされている。この舞殿は三島市の文化財に指定されている。テンプレート:Sfnテンプレート:Sfn

神門(しんもん)もまた、本殿等と同時期の慶応3年(1867年)8月10日の再建。御殿同様に総欅造である。舞殿とともに三島市の文化財に指定されている。テンプレート:Sfnテンプレート:Sfn

そのほか、境内には神馬舎(戦後完成)、総門(昭和6年(1931年)完成)、旧総門の芸能殿(慶応4年(1868年)2月11日完成)、客殿等の社殿があるテンプレート:Sfn

社叢

著名な老木として、神門内にキンモクセイ(金木犀)がある。この樹木はウスギモクセイ(薄黄木犀)の雄木で、樹齢約1,200年、樹高10メートル以上を測る老木・巨木である。この木は「2度咲き」の性質を持つが、特に2度目の9月下旬から10月上旬にかけては淡黄色の花で満開になる。このキンモクセイは国の天然記念物に指定されている(詳細は「三島神社のキンモクセイ」を参照)。テンプレート:Sfnテンプレート:Sfn

また、大社の境内には鎮守の森が広がる。この樹叢は「三嶋大社社叢」として三島市の天然記念物に指定されている。テンプレート:Sfn

その他

  • 神池(しんち) - 『吾妻鏡』[原 19]によれば源頼朝がこの池で放生会を行なったというテンプレート:Sfn。『一遍聖絵』でも描かれているテンプレート:Sfn
  • 神鹿園(しんろくえん)
  • 頼朝腰掛石、北条政子腰掛石 - 神馬舎の隣に所在。
  • 牛石(うしいし) - 三島七石の1つ。社務所近くに所在。
  • たたり石 - 昔は東海道にあって交通整理の役割を担ったというテンプレート:Sfn。境内入り口近くに所在。

摂末社

現在の摂末社は、摂社2社・末社13社の計15社(いずれも境内社)テンプレート:Sfn。古くは他にも多数の摂末社があったが、現在は事実上独立しているテンプレート:Sfn

摂社

若宮神社
「わかみやじんじゃ」。古くは「八幡宮」「若宮八幡宮」「若宮社」等とも称された[5]。祭神の物忌奈乃命は三嶋神の御子神で、神津島物忌奈命神社祭神。
古くは「元ツ神」と呼ばれた地主神で、大社西の二ノ宮町に鎮座したという(西若町の若宮神社付近と推定。移転時期不明)テンプレート:Sfnテンプレート:Sfn。社家は西大夫で、『吾妻鏡』[原 19]では「二宮八幡宮」に料所を付す記事が見えるテンプレート:Sfn。鎌倉時代中期の西大夫没落とともに衰退、のち「若宮」と称されるようになり、さらに大社境内に遷されたテンプレート:Sfn。この遷座とともに三宮の浅間神社が二宮に格上げされたというテンプレート:Sfn。現在の社殿は慶応4年(1868年)8月20日の再建[5]
社地に関しては、三嶋神が若宮八幡に藁一把分だけの土地を譲るよう頼み、若宮八幡が了承すると三嶋神は藁束を解いて一本ずつ輪にして広大な社地を占有したという伝承があるテンプレート:Sfn
見目神社
  • 祭神:波布比売命、久爾都比咩命、伊賀牟比咩命、佐伎多麻比咩命、伊波乃比咩命、優波夷命 - 三嶋神の后神6柱。総称して「見目6柱」ともテンプレート:Sfn
  • 例祭:11月14日
「みるめじんじゃ」。6柱は三嶋神の后神で、「見目(みめ)」とは「御妃(みめ)」を意味するともいわれるテンプレート:Sfn。古くは、本社例祭の前々日に幕府から奉献された玉簾を見目神社の前で渡す儀礼が行われたという[5]。現在の社殿は慶応4年(1868年)9月3日の再建[5]

末社

東五社
舞殿の東方に鎮座し次の5社を祀る。祭神はいずれも不詳。
西五社
舞殿の西方に鎮座し次の5社を祀る。東五社同様、祭神は不詳。
祓戸神社
「はらえどじんじゃ」。通称「浦島さん」[5]。境内西方、桜川が流れ込む池中の島に鎮座する。当社は国司によってこの地に奉斎され、国司の大社参拝の際は必ず当地で祓いを行なったという[5]。『一遍聖絵』では相当な規模の社殿が描かれている[5]。現在の社殿は昭和11年(1936年)7月8日の改築[5]。本殿は春日造、拝殿は入母屋造[5]
厳島神社
境内南方の神池中の島に鎮座する。北条政子の勧請と伝える[5]
伊豆魂神社
「いづたまじんじゃ」。伊豆出身の戦没者2372柱を祀る。

元摂末社

かつて三嶋大社に属した摂末社。下記はいずれも大社境外に所在する元摂社で、現在は独立。

祭事

年間祭事

例祭

  • 若宮神社例祭、菅奉納祭、宵宮祭 (8月15日
  • 例祭、手筒花火神事 (8月16日
  • 崇敬会大祭、流鏑馬神事、後鎮祭 (8月17日

三嶋大社の例祭(れいさい)は、毎年8月16日に行われる。例祭自体は16日であるが、各種神事が15日の摂社・若宮神社の例祭に始まって17日まで執り行われるテンプレート:Sfn。三嶋大社では古くから4月・8月・11月の2の酉日に大祭が行われたが、明治に入って特に8月の祭が例祭に定められたテンプレート:Sfn。4月・11月の祭は、現在も「酉祭」として続いている。8月15日から17日の3日間は三島市内でも「三島夏祭り」と称して、源頼朝の出陣を模した行列が催されるほか、山車が出て「三島囃子(みしまばやし)」(県指定無形民俗文化財)が披露されるなど最も賑わいを見せるテンプレート:Sfn

特殊神事

お田打ち神事
1月7日。正月に五穀豊穣を祈る予祝神事。本殿で「田祭」を行なったのち舞殿で行う。神事では舞殿中央に荒むしろを敷いて田所とし、田打に始まって種蒔きや鳥追いまでを模擬的に演じる。終盤では雷鳴として太鼓を鳴らして夕立に遭う所作を行う(雨乞いを意味する)。この神事から、三嶋神に農耕神の性格を見る指摘もある。神事は静岡県の無形民俗文化財に指定されている。テンプレート:Sfnテンプレート:Sfn
粥占神事
1月15日。「かゆうらしんじ」。年頭に作物の収穫を占う神事。神事の前には「小豆粥祭」として、小豆の粥の中に餅を割り入れて各種神饌と共に供える祭を行う。そして粥占として、この粥の中に作物の名前を書き込んだ篠竹の筒を入れて炊き、竹筒への粥の入り具合から作物の収穫占いを行う。テンプレート:Sfn
奉射神事
1月17日。「ほうしゃしんじ」。年頭に悪病退散を祈る神事。本殿で「奉射祭」を行なったのち射場で行う。神事では大的に矢を放って平穏を祈る。神事の後に大的を破り取って災難除けのお守りとする習わしがある。テンプレート:Sfn
鳴弦式
節分の日。「めいげんしき」。悪霊退散を祈る神事。本殿で「追儺祭」を行なったのち舞殿で行う。神事では舞殿中央に祭壇を設け、祝詞奏上ののち弓の弦を鳴らす。これによって邪気が祓われるとする。テンプレート:Sfn
流鏑馬神事
8月17日(例祭翌日)。天下泰平・五穀豊穣を祈り流鏑馬を奉納する神事。神事は平安時代から続くといい、記録では源頼朝が文治元年(1185年)6月に流鏑馬を奉納したことが見える。古くは4月・8月の酉祭と6月20日の年3回行われたというが、明治初年に廃絶した。その後昭和59年(1984年)に再興されて現在に至っている。テンプレート:Sfn

文化財

国宝

ファイル:Mishima Jinsha Toilet Case (475).jpg
梅蒔絵手箱(蓋表)(国宝)
  • 梅蒔絵手箱 一具(工芸品)
鎌倉時代、源頼朝の妻・北条政子の奉納と伝わる手箱。縦25.8センチメートル、横34.5センチメートル、高さ19.7センチメートルで、代表的な鎌倉時代の蒔絵工芸品である。合口造の箱で、蓋には甲盛りがあり、典型的な鎌倉期の手箱の器形を示す。蓋表と身側面には沃懸地(いかけじ)[注 6]に梅樹、几帳、飛雁、水禽などを高蒔絵で表し、梅花には銀の平文(ひょうもん)[注 7]を用いる。蓋表には図中にまぎれるように銀の平文で「榮・傳・錦・帳・雁・行」の6文字が散らされているが、これは白居易(白楽天)が友と昇進を遂げた慶びを綴った漢詩(『白氏文集』所収)の詩意を表したものであり、「榮傳錦帳花聯萼 彩動綾袍雁趁行」(栄は錦帳を伝え花は萼を聯(つら)ねたり、彩は綾袍を動かし雁は行を趁(お)う」という詩句に由来する。
手箱内には以下の内容品(化粧道具)一式が納められており、これらも箱とともに国宝に指定されている。
白銅鏡 1面、蒔絵鏡箱 1合、蒔絵歯黒箱 2合、蒔絵白粉箱 1合、蒔絵薫物箱 2合、蒔絵櫛 18枚、螺鈿櫛残欠 4枚、平元結 2本、銀軸紅筆 1本、銀軸眉作 1本、銀鋏 1箇、銀鑷 1箇、銀笄 1本、銀髪飾 4枚(附:銀菊形鋺 1口、金銅扇形箱 1合、金銅菊文箱 1合、組紐残欠 1綴、袋残欠 1綴)
この手箱は、鎌倉期に盛行する高蒔絵の技法を駆使したこの時代を代表する漆工芸品であり、内容品を存する手箱としては現存最古のものである。現在は東京国立博物館に寄託中。三嶋大社宝物館には、3年半かけて再現された復元品が展示されている。昭和27年11月22日指定。[8]テンプレート:Sfnテンプレート:Sfn[9][10]

重要文化財(国指定)

  • 本殿、幣殿及び拝殿(附 棟札1枚)(建造物) - 平成12年5月25日指定。テンプレート:Sfn
  • 太刀 銘宗忠(工芸品)
    鎌倉時代初期、備前国福岡一文字派の宗忠による作刀。刃長81.8センチメートルで、平安時代末期の風潮を残す。本刀は、明治20年に旧宮内省から三嶋大社に寄進されたものである。 明治45年2月8日指定。テンプレート:Sfnテンプレート:Sfn
  • 短刀 銘三嶋大明神他人不与之 貞治三年藤原友行(工芸品)
    南北朝時代、貞治3年(1364年)の作刀。明治44年4月17日指定。昭和23年に盗難[注 8]
  • 脇差 銘相模国住秋義伊豆三嶋大明神奉拝 佐藤松千代貞成(工芸品)
    南北朝時代、相模国の刀工・秋義による作刀で、佐藤貞成による奉納。大正9年4月15日指定。テンプレート:Sfnテンプレート:Sfn
  • 紙本墨書般若心経 源頼家筆(書跡)
    鎌倉時代、建仁3年(1203年)8月10日に鎌倉幕府第2代将軍・源頼家が奉納したもの。頼家は将軍に就任したものの政争の中で病床につき、平癒祈願としてこの般若心経を筆写・奉納したとされる。現存では唯一の頼家自筆の書とされる。平成6年6月28日指定。テンプレート:Sfnテンプレート:Sfn
  • 三嶋大社矢田部家文書 592通(古文書)
    三嶋大社とその宮司家の矢田部家に伝わる、平安時代から江戸時代にかけての古文書群。三嶋大社所蔵分155通、矢田部家所蔵分437通からなるが、一括で指定されている。中世では鎌倉時代の源頼朝・北条時政、南北朝時代の足利尊氏・足利直義といった主立つ武将の文書が見える。また近世では、三嶋大社境内や三島地域の変遷を伝える。平成6年6月28日指定。テンプレート:Sfnテンプレート:Sfn

国の天然記念物

静岡県指定文化財

  • 有形文化財
    • 日本書紀並びに具書(典籍)
      室町時代、応永35年(1428年正長元年)の奉納で、『三島本日本書紀』と称される。『日本書紀』は全30巻から成るが、本書では巻1から巻3まで(神代上、神代下、神武天皇紀)と具書3巻(中臣祓解除・神口決、二十一社守護記)が保存される。流出部の一部は國學院大學図書館にある。良海・快尊・重尊・真尊(助筆)ら4人が応永35年(1428年)に大社に参籠して書写を行い、願主・施主の正本が奉納したと見られる。昭和24年4月13日に国の重要美術品に認定[11]、昭和55年11月28日に静岡県の有形文化財に指定。テンプレート:Sfnテンプレート:Sfn
  • 無形民俗文化財

三島市指定文化財

その他

関係事項

三嶋一族神

40座以上の式内社を有する郡テンプレート:Sfn
国郡 式内社数 郷平均
1 出雲国出雲郡 58座 7.25座
1 伊勢国度会郡 58座 4.46座
3 大和国高市郡 54座 7.7座
4 伊勢国多気郡 52座 7.43座
5 出雲国意宇郡 48座 6.0座
6 伊豆国賀茂郡 46座 9.2座
6 近江国伊香郡 46座 5.75座
8 越前国敦賀郡 43座 7.0座

古代伊豆国の祭祀には度重なる伊豆諸島の火山活動が深く関係した。その活動は7世紀半ばから8世紀初めにかけてと、9世紀にそれぞれピークを迎えたとされるテンプレート:Sfn。当時の火山活動は人々にとって重大な関心事で、その噴火は神の業と見なされていたテンプレート:Sfn。そのため、伊豆国では火山に関連した多数の神社が祀られるとともに、卜占の技術も発達したテンプレート:Sfn

当時の祭祀の様子を示す史料として、平安時代の『延喜式神名帳がある。同帳では伊豆国に全国9位相当の92座の式内社を載せるが、1郡あたりにした場合には神の国である伊勢国出雲国をも大きく上回るテンプレート:Sfn。伊豆国でも特に賀茂郡(伊豆半島南部と伊豆諸島)が重要視されたと見られ、賀茂郡には伊豆国の半数の46座が記載されるが、1郷あたりで見ると全国でも突出した密度になる(右表参照)テンプレート:Sfn。この46座のうち20数座は伊豆諸島の鎮座とされるテンプレート:Sfn。それらの神々の中でも筆頭に位置づけられたのが「伊豆三島神社」、現在の三嶋大社であるテンプレート:Sfn。「三島」とは「御島」の謂とされるように、「三嶋神」とは伊豆諸島全体を象徴する神を意味するとされるテンプレート:Sfn

三嶋神については『続日本後紀[原 1]において、本后として阿波神、阿波神の御子神として物忌奈乃命、その他に後后(伊古奈比咩命とされる)のあった旨の記載があるテンプレート:Sfn。神名帳記載の神々も、同記事のように三嶋神の一族に位置づけられたと考えられているテンプレート:Sfn。神名帳に見えない一族神の縁故関係を考証する史料としては、中世に記された「三宅記」が知られるテンプレート:Sfn。「三宅記」は伊豆地方の神々に関する縁起本地物で、所載の神名には神名帳との一致も見られることから、一族神の類推に使用されている。神名帳や「三宅記」から三嶋一族神と考証される神々の一覧は次の通り[12](赤字は女神)。現在の比定社はそれぞれ「伊豆国の式内社一覧」「三宅記」を参照。

身分 神名帳・国史 三宅記
三嶋神 伊豆三島神社名神大 三嶋大明神
随身 若宮
剣の御子
テンプレート:Color
大島の妻子 テンプレート:Color
 阿治古命神社
 波治命神社
テンプレート:Color
 おほい所(太郎王子)
 すくない所(次郎王子)
新島の妻子 テンプレート:Color
 多祁美加々命神社
テンプレート:Color
 大宮王子(大三王子)
 弟三王子
神津島の妻子 テンプレート:Color名神大
 物忌奈命神社名神大
テンプレート:Color
 たたない
 たうない
八丈島の妻子 テンプレート:Color
 許志伎命神社
テンプレート:Color
 五郎王子
御蔵島の妻子 テンプレート:Color
 伊大弖和気命神社
利島の妻子 テンプレート:Color
 阿豆佐和気命神社
身分 神名帳・国史 三宅記
三宅島の妻子 テンプレート:Color名神大
 阿米都和気命神社
 穂都佐和気命神社?
テンプレート:Color
 あんねい(飯王子)
 まんねい(酒王子)
テンプレート:Color テンプレート:Color
 4子(名称不明)
テンプレート:Color テンプレート:Color
 うらみ子
 二宮
テンプレート:Color
 南子命神社
 加弥命神社
 夜須命神社
 弖良命神社
 志理太宜命神社
 久良恵命神社
 片菅命神社
 波夜志命神社
テンプレート:Color
 なご
 かね
 やす
 てい
 しだい
 くらゐ
 かたすげ
 へんず
テンプレート:-

三島暦

テンプレート:See also 三島暦(みしまこよみ)は、三嶋大社の暦師・河合家(大社の下社家とされる)から頒布された暦テンプレート:Sfn。起源不詳ながら古くから使用された暦で、伊豆地方を中心に東海・関東・甲信地方に広まったテンプレート:Sfn。初出は『空華日用工夫略集』応安7年(1374年)3月4日条テンプレート:Sfn、最古の暦は永享9年(1437年)の版暦テンプレート:Sfn

現地情報

所在地

参拝時間

  • 参拝は夜間も自由。ただし、境内駐車場の利用や社務所・売店等の営業時間は、通常朝8時30分頃から夕方5時頃まで。

付属施設

  • 宝物館
    • 開館時間:午前9時 - 午後4時30分(入館受付は午後4時まで)
    • 拝観料:一般500円/大学生・高校生400円/小中学生300円

交通アクセス

周辺

脚注

テンプレート:脚注ヘルプ 注釈 テンプレート:Reflist

原典:記載事項の一次史料を紹介(出典扱いではない)。 テンプレート:Reflist

出典 テンプレート:Reflist

参考文献・サイト

史料

書籍

サイト

関連文献

史料

  • 『三嶋大明神縁起』
    通称「三宅記」。鎌倉時代末期の完成か。伊豆地方に伝わる神仏縁起で、三嶋神を中心とした神々の由緒を記す(詳細・翻刻は「三宅記」を参照)。
  • 『伊豆国三嶋神主家系図』
    三嶋大社宮司家・矢田部家の家系図。
  • 『伊豆国造伊豆宿禰系図』
    同じく矢田部家の家系図。『伊豆国三嶋神主家系図』とは異なる系図を載せる。

文献

関連項目

  • 阿波命神社[[[:テンプレート:座標URL]]34_13_45.38_N_139_8_21.77_E_region:JP-13_type:landmark&title=%E9%98%BF%E6%B3%A2%E5%91%BD%E7%A5%9E%E7%A4%BE%EF%BC%88%E4%B8%89%E5%B6%8B%E7%A5%9E%E3%81%AE%E6%9C%AC%E5%90%8E%EF%BC%89 位置]) - 祭神の阿波咩命は三嶋神の本后。
  • 物忌奈命神社[[[:テンプレート:座標URL]]34_12_30.65_N_139_8_4.69_E_region:JP-13_type:landmark&title=%E7%89%A9%E5%BF%8C%E5%A5%88%E5%91%BD%E7%A5%9E%E7%A4%BE%EF%BC%88%E4%B8%89%E5%B6%8B%E7%A5%9E%E3%81%A8%E9%98%BF%E6%B3%A2%E5%91%BD%E3%81%A8%E3%81%AE%E5%BE%A1%E5%AD%90%E7%A5%9E%EF%BC%89 位置]) - 祭神の物忌奈命は三嶋神と阿波命との御子神。
  • 伊古奈比咩命神社[[[:テンプレート:座標URL]]34_41_37.21_N_138_58_22.87_E_region:JP-22_type:landmark&title=%E4%BC%8A%E5%8F%A4%E5%A5%88%E6%AF%94%E5%92%A9%E5%91%BD%E7%A5%9E%E7%A4%BE%EF%BC%88%E4%B8%89%E5%B6%8B%E7%A5%9E%E3%81%AE%E5%BE%8C%E5%90%8E%EF%BC%89 位置]) - 祭神の伊古奈比咩命は三嶋神の後后。

外部リンク

テンプレート:Sister

テンプレート:神道 横

テンプレート:Good article
引用エラー: 「原」という名前のグループの <ref> タグがありますが、対応する <references group="原"/> タグが見つからない、または閉じる </ref> タグがありません


引用エラー: 「注」という名前のグループの <ref> タグがありますが、対応する <references group="注"/> タグが見つからない、または閉じる </ref> タグがありません
  1. 『三島市史』を代表とする説(テンプレート:Harvnbより)。
  2. 『国造制の研究 -史料編・論考編-』八木書店、2013年、p. 79。
  3. 3.0 3.1 3.2 『日本古代氏族人名辞典 <普及版>』(吉川弘文館、2010年)伊豆氏項。
  4. テンプレート:国指定文化財等データベース
  5. 5.00 5.01 5.02 5.03 5.04 5.05 5.06 5.07 5.08 5.09 5.10 5.11 境内説明板。
  6. 元摂社の記載は『増訂豆州志稿 巻八上』君澤郡節、『三島市史 下』第7章第2節における各社の解説に基づく。各社の読み・鎮座地は、静岡県神社庁の三島市の神社一覧のページ[1]による。
  7. 7.0 7.1 7.2 7.3 各所説明板(三嶋大社境外)。
  8. テンプレート:国指定文化財等データベース
  9. 『週刊朝日百科 日本の国宝』86(朝日新聞社、1998)、pp.9 - 189 - 190(解説執筆は奥村徹也)
  10. 荒川浩和『漆工芸』(カラーブックス579)(保育社、1982)、p.19
  11. 『重要美術品等認定物件目録』(思文閣、1972)、第3部p.28
  12. テンプレート:Cite book - 『道守』(近代デジタルライブラリー)参照。