縁起
縁起(えんぎ)
- 仏教の縁起。下記で詳述。
- 一般には、良いこと、悪いことの起こるきざし・前兆の意味で用いられ、「縁起を担ぐ」、「縁起が良い」、「縁起が悪い」などと言う。このような意味から、「縁起直し」、「縁起物」などという風俗や習慣がうかがわれる。
- 寺社縁起。故事来歴の意味に用いて、神社仏閣の沿革(由緒)や、そこに現れる功徳利益などの伝説を指す。
テンプレート:Sidebar 縁起(えんぎ、テンプレート:Lang-sa-short, プラティーティヤ・サムトパーダ、テンプレート:Lang-pi-short, パティッチャ・サムッパーダ)とは、仏教の根幹をなす発想の一つで、「原因に縁って結果が起きる」という因果論を指す。
開祖である釈迦は、「此(煩悩)があれば彼(苦)があり、此(煩悩)がなければ彼(苦)がない、此(煩悩)が生ずれば彼(苦)が生じ、此(煩悩)が滅すれば彼(苦)が滅す」という、「煩悩」と「苦」の認知的・心理的な因果関係としての「此縁性縁起」(しえんしょうえんぎ)を説いたが、部派仏教・大乗仏教へと変遷して行くに伴い、その解釈が拡大・多様化・複雑化して行き、様々な縁起説が唱えられるようになった。
概要
仏教の縁起は、釈迦が説いたとされる「此があれば彼があり、此がなければ彼がない、此が生ずれば彼が生じ、此が滅すれば彼が滅す」という命題に始まる。これは上記したように、「煩悩」と「苦」の因果関係としての「此縁性縁起」(しえんしょうえんぎ)であり、それをより明確に説明するために、十二因縁(十二支縁起)や四諦・八正道等も併せて述べられている。
部派仏教の時代になると、膨大なアビダルマ(論書)を伴う分析的教学の発達に伴い、「衆生」(有情、生物)の惑業苦・輪廻の連関を説く「業感縁起」(ごうかんえんぎ)や、現象・事物の生成変化である「有為法」(ういほう)としての縁起説が発達した。
大乗仏教においては、中観派の祖である龍樹によって、説一切有部等による「縁起の法」の形式化・固定化を牽制する格好で、徹底した「相互依存性」を説く「相依性縁起」(そうえしょうえんぎ)が生み出される一方、中期以降は、唯識派の教学が加わりつつ、再び「衆生」(有情、生物)の内部(すなわち、「仏性・如来蔵」「阿頼耶識・種子」の類)に原因を求める縁起説が発達していく。7世紀に入り密教(金剛乗)の段階になると、「曼荼羅」に象徴されるように、多様化・複雑化した教学や諸如来・菩薩を、「宇宙本体」としての「大日如来」を中心に据える形で再編し、個別性と全体性の調和がはかられていった。
歴史的変遷
初期仏教
経典によれば、釈迦は縁起について、 テンプレート:Quotation と述べた。またこの縁起の法は、 テンプレート:Quotation と述べ、縁起はこの世の自然の法則であり、自らはそれを識知しただけであるという。
縁起を表現する有名な詩句として、『自説経』では、 テンプレート:Quotation と説かれる。
この「此縁性縁起」(しえんしょうえんぎ)の命題は、「彼」が「此」によって生じていることを示しており、この独特の言い回しは、修辞学的な装飾や、文学的な表現ではなく、前後の小命題が論理的に結び付けられていて、「此があれば彼があり」の証明・確認が、続く「此がなければ彼がない」によって、「此が生ずれば彼が生じ」の証明・確認が、「此が滅すれば彼が滅す」によって、それぞれ成される格好になっている。
既述の通り、この「此」と「彼」とは、「煩悩」と「苦」を指しており、その因果関係は、「十二因縁」等[1]や「四諦」としても表現されている。
また、この因果関係に則り、「煩悩」を発見し滅することで「苦」を滅する実践法(道諦)として、「八正道」や戒・定・慧の「三学」等が、説かれている。
また、上記した人間の内面、心理的・認知的側面に焦点を当てた「此縁性」の他に、
テンプレート:Quotation
といった、後に部派仏教で(「不相応行法」を含む)「有為法」(ういほう)として分析対象となったり、大乗仏教で「諸行無常」の拡張的な意味として理解されるような、より広い意味での縁起も、「初転法輪」[2]から『大般涅槃経』に至るまで、繰り返し述べられていることも、憶えておく必要がある。
(したがって、分別的に言えば、仏教には元々、「縁起(現象)的現実」全般を表現する「有為法」的な「大きな縁起」と、人間(有情)の認知的・心理的な「煩悩と苦」の因果関係としての「此縁性」的な「小さな縁起」という、大きく分けて2種類の縁起説があるとも表現できるが、両者は「人間の認知的・心理的な縁起も、「縁起(現象)的現実」の一部・一環である」とか「「縁起(現象)的現実」も人間の認知的・心理的な縁起によって形作られたものに過ぎない」といったように、それぞれ一方が他方を包含・吸収できる関係にあるため、両者の区別は必ずしも自明ではない。実際、特に後世の大乗仏教においては、両者の区別は極めて曖昧になる。)
以上の初期仏教の内容をまとめると、ありのままの「縁起(現象)的現実」に対する「無明」(無知)に端を発する、「煩悩」や「習慣」を背景とした、特定の事物・概念への「愛着」「執着」(という本来的には誤認的・錯誤的な態度)によって、それが得られなかったり失われたりする(と「錯覚」した)自己原因的な「苦しみ」(苦)を繰り返す「自縄自縛」状態から抜け出すために、戒律によって「習慣」的態度を改め、禅定・観想を通して「自分の認知的なあり方」や「縁起(現象)的現実」に対する理解・知見(智慧)を深め、「無明」(無知)という根本的原因を克服し、「自縄自縛」の「苦しみ」(苦)の連鎖を断ち、そこから脱することの推奨ということになる。
特定の「概念的認識」への囚われから脱して、ありのままの「縁起(現象)的現実」を感得することが「悟り」であり、それによって「生死」「有無」といった「二辺」の迷い・境涯を超えた「解脱」(再生の遮断)の境地に至った段階が、修行完成形態としての「阿羅漢(果)」と呼ばれる。
部派仏教
部派仏教の時代になり、部派ごとにそれぞれのアビダルマ(論書)が書かれるようになるに伴い、釈迦が説いたとされる「十二支縁起」に対して、様々な解釈が考えられ、付与されていくようになった。それらは概ね、衆生(有情、生物)の「業」(カルマ)を因とする「惑縁(煩悩)・業因→苦果」すなわち「惑業苦」(わくごうく)の因果関係と絡めて説かれるので、総じて「業感縁起」(ごうかんえんぎ)と呼ばれる。
有力部派であった説一切有部においては、「十二支縁起」に対して、『識身足論』で 「同時的な系列」と見なす解釈と共に「時間的継起関係」と見なす解釈も表れ始め、『発智論』では十二支を「過去・現在・未来」に分割して割り振ることで輪廻のありようを示そうとするといった(後述する「三世両重(の)因果」の原型となる)解釈も示されるようになるなど、徐々に様々な解釈が醸成されていった。そして、『婆沙論』(及び『倶舎論』『順正理論』等)では、
- 「刹那縁起」(せつなえんぎ)--- 刹那(瞬間)に十二支全てが備わる
- 「連縛縁起」(れんばくえんぎ)--- 十二支が順に連続して、無媒介に因果を成していく
- 「分位縁起」(ぶんいえんぎ)--- 五蘊のその時々の位相が十二支として表される
- 「遠続縁起」(えんばくえんぎ)--- 遠い時間を隔てての因果の成立
といった4種の解釈が示されるようになったが、結局3つ目の「分位縁起」(ぶんいえんぎ)が他の解釈を駆逐するに至った。説一切有部では、この「分位縁起」に立脚しつつ、十二支を「過去・現在・未来」の3つ(正確には、「過去因・現在果・現在因・未来果」の4つ)に割り振って対応させ、「過去→現在」(過去因→現在果)と「現在→未来」(現在因→未来果)という2つの因果が、「過去・現在・未来」の3世に渡って対応的に2重(両重)になって存在しているとする、輪廻のありようを説く胎生学的な「三世両重(の)因果」が唱えられた。
(なお、この説一切有部の「三世両重(の)因果」と類似した考え方は、現存する唯一の部派仏教である南伝の上座部仏教、すなわちスリランカ仏教大寺派においても、同様に共有・継承されていることが知られている[3]。)
これはつまり、「前世の無明・行によって今生の自分の身体・感覚・認識(すなわち総体としての「存在」)が生じ、今生の愛着・執着によって再び来世へと生まれ変わっていく」という輪廻の連鎖を表現している。こうした輪廻を絡めた解釈・説明は、各種の経典で言及されている「四向四果」の説明(すなわち、一度だけ欲界に生まれ変わる「一来果」、二度と欲界に生まれ変わらない「不還果」、涅槃への到達を待つだけの「阿羅漢果」といった修行位階の説明)や、『ジャータカ』のような釈迦の輪廻譚など、釈迦の初期仏教以来、仏教教団が教義説明の前提としてきた輪廻観とも相性がいいものだった。
過去因→現在果 | 現在因→未来果 | ||
---|---|---|---|
因 | 惑 | 無明 | 愛・取 |
業 | 行 | 有 | |
果 | 苦 | 識 | 生 |
名色・六処・触・受 | 老死 |
また、説一切有部では、こうした衆生(有情、生物)のありように限定された「業感縁起」だけではなく、『品類足論』に始まる、「一切有為」(現象(被造物)全般、万物、森羅万象)のありようを表すもの、すなわち「一切有為法」としての縁起の考え方も存在し、一定の力を持っていた(参考 : 五位七十五法)。
一般的に「因縁生起」(いんねんしょうき)の有為法として説明される縁起説[4]もその一形態である。これは、ある結果が生じる時には、直接の原因(近因)だけではなく、直接の原因を生じさせた原因やそれ以外の様々な間接的な原因(遠因)も含めて、あらゆる存在が互いに関係しあうことで、それら全ての関係性の結果として、ある結果が生じるという考え方である。
なお、その時の原因に関しては、数々の原因の中でも直接的に作用していると考えられる原因のみを「因」と考え、それ以外の原因は「縁」と考えるのが一般的である。
大乗仏教
大乗仏教においても、部派仏教で唱えられた様々な縁起説が批判的に継承されながら、様々な縁起説が成立した。
ナーガールジュナ(龍樹)は、『般若経』に影響を受けつつ、『中論』等で、説一切有部などの「法有」(五位七十五法)説に批判を加える形で、「有為」(現象、被造物)も「無為」(非被造物、常住実体)もひっくるめた、徹底した「相依性」(そうえしょう、相互依存性)としての縁起、いわゆる「相依性縁起」(そうえしょうえんぎ)を説き、中観派、及び大乗仏教全般に多大な影響を与えた。
(特に、『華厳経』で説かれ、中国の華厳宗で発達した、「一即一切、一切即一」の相即相入を唱える「法界縁起」(ほっかいえんぎ)との近似性・連関性は、度々指摘される[5]。)
大乗仏教では、概ねこうした、「有為」(現象、被造物)も「無為」(非被造物、常住実体)もひっくるめた、壮大かつ徹底的な縁起観を念頭に置いた縁起説が 、醸成されていくことになるが、こうした縁起観やそれによって得られる「無分別」の境地、そして、それと対照を成す「分別」等に関しては、いずれもそうした認識の出発点としての「心」「識」なるものが、隣り合わせの一体的な問題・関心事としてついてまわることになるので、(上記の部派仏教(説一切有部)的な「業感縁起」等とは、また違った形で)そうした「心」「識」的なものや、衆生(有情、生物)のありようとの関連で、縁起説が唱えられる面がある。(大乗仏教中期から特に顕著になってくる、仏性・如来蔵の思想や、唯識なども、こうした縁起観と関連している。)
主なものとしては、
- 「唯心縁起」(ゆいしんえんぎ)--- 『華厳経』十地品で説かれる、三界(欲界・色界・無色界)の縁起を一心(唯心)の顕現として唱える説(三界一心、三界唯心)。
- 「頼耶縁起」(らやえんぎ)--- 瑜伽行唯識派・法相宗で説かれる、阿頼耶識(あらやしき)からの縁起を唱える説。
- 「真如縁起」(しんにょえんぎ)・「如来蔵縁起」(にょらいぞうえんぎ)---「一切有為」(現象(被造物)全般、万物、森羅万象)は、真如(仏性・如来蔵)からの縁によって生起するという説。馬鳴の名に擬して書かれた著名な中国撰述論書である『大乗起信論』に説かれていることでも知られる。
などがある。
また、 真言宗・修験道などでは、インドの六大説に則り、万物の本体であり、大日如来の象徴でもある、地・水・火・風・空・識の「六大」によって縁起を説く「六大縁起」(ろくだいえんぎ)などもある。
その他
機縁説起
縁起は、「機縁説起」として、衆生の機縁に応じて説を起こす、と解釈されることもある。
たとえば華厳教学で「縁起因分」という。これは、さとりは、言語や思惟をこえて不可説のものであるが、衆生の機縁に応じるため、この説けないさとりを説き起すことをさす。
脚注
関連項目