上座部仏教

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テンプレート:出典の明記 テンプレート:Sidebar 上座部仏教(じょうざぶぶっきょう、テンプレート:Lang-pi-short Theravāda, テーラヴァーダテンプレート:Lang-th-short, thěeráwa^at、テンプレート:Lang-en-short)は、仏教の分類のひとつ。上座仏教テーラワーダ仏教テーラヴァーダ仏教南伝仏教小乗仏教[1]とも呼ばれる。

概要

仏教を二つに大別すると、スリランカタイミャンマー等の地域に伝わった南伝の上座部仏教と、中国チベット日本等の地域に伝わった北伝の大乗仏教に分類される。初期仏教教団の根本分裂によって生じた上座部大衆部のうち、上座部系の分別説部の流れを汲んでいると言われるものが、現在の上座部仏教である。ただし分別説部は分岐に諸説あって、上座部の異端として扱われたり、そもそも上座部系では無いと言う指摘もある。また代表的な部派仏教とされる北伝20部派や南伝18部派には含まれない。

歴史

釈迦生前の仏教においては、出家者に対する戒律は多岐にわたって定められていたが、釈迦の死後、仏教が伝播すると当初の戒律を守ることが難しい地域などが発生した。仏教がインド北部に伝播すると、食慣習の違いから、正午以前に托鉢を済ませることが困難であった。午前中に托鉢・食事を済ませることは戒律の一つであったが、正午以降に昼食を取るものや、金銭を受け取って食べ物を買い正午までに昼食を済ませる出家者が現れた。戒律の変更に関して、釈迦は生前、重要でない戒律はサンガの同意によって改めることを許していたが、どの戒律を変更可能な戒律として認定するかという点や、戒律の解釈について意見が分かれた。また、その他幾つかの戒律についても、変更を支持する者と反対する者にわかれた。この問題を収拾するために、会議(結集第二結集)が持たれ、この時点では議題に上った問題に関して戒律の変更を認めない(金銭の授受等の議題に上った案件は戒律違反との)決定がなされたが、あくまで戒律の修正を支持するグループによって大衆部(現在の大乗仏教を含む)が発生した。大衆部と、戒律遵守の上座部との根本分裂を経て枝葉分裂が起こり、部派仏教の時代に入ることとなった。厳密ではないが、おおよそ戒律遵守を支持したグループが現在の上座部仏教に相当する。

その後、部派仏教の時代には、上座部からさらに分派した説一切有部が大きな勢力を誇った。新興の大乗仏教が主な論敵としたのはこの説一切有部である。大乗仏教側は説一切有部を論難するに際して、(自己の修行により自己一人のみが救われる)小乗(ヒーナヤーナ、Hīnayāna)仏教(しょうじょうぶっきょう)と呼んだとされる。大乗仏教は北インドから東アジアに広がった。

上座部仏教はマウリア朝アショーカ王の時代にインドから主に南方のスリランカセイロン島)、ビルマタイなど東南アジア方面に伝播した。南伝仏教という呼称はこの背景に由来する。現在では、スリランカ、タイ、ミャンマー(ビルマ)、ラオスカンボジアの各国で多数宗教を占める。またベトナム南部に多くの信徒を抱え、インド、バングラデシュマレーシアインドネシアにも少数派のコミュニティが存在する。

アジアの上座部仏教圏のほとんどは西欧列強植民地支配を受けた。宗主国で、支配地の文化研究が植民地政策の補助として奨励されたため、仏教、ヒンドゥー教、イスラム教の経典・教典の文献学的研究はイギリス(スリランカとミャンマーの旧宗主国)を中心に欧州で早くから進んだ。ロンドンパーリ・テキスト協会から刊行されたパーリ三蔵(PTS版)は過去の仏教研究者のもっとも重要な地位を占めた。その後イギリスは植民地の宗主国としての地位を喪失し、大学でも日本のようなインド哲学科が設置されることはなく、サンスクリット語研究はオックスフォード大学で細々と行われている。一方で欧米人の中から上座部仏教の比丘になる者や、またスリランカでは大学を卒業し英語の堪能なスリランカ出身の比丘が中心となり(公用語はシンハラ語タミル語。連結語として英語も憲法上認められている)、大学という枠組みの外でパーリ三蔵の翻訳が活発である。

一方で、イギリスの旧植民地のスリランカやビルマ、タイから移民や難民がアングロサクソン系のイギリス、カナダ、アメリカ、オーストラリアに大規模に流入した関係で、欧米への布教伝道も旺盛に行われている。欧米にはチベット密教系や東アジアの禅宗系と並んで、あるいはそれ以上に数多くの、上座部仏教の寺院団体がある。

特徴

上座部仏教では具足戒(出家者の戒律)を守る比丘サンガと彼らを支える在家信徒の努力によって初期仏教教団、つまり釈迦の教えを純粋な形で保存してきたとされる。しかし、各部派の異同を等価に捉え、漢訳・チベット語訳三蔵に収録された部派仏教の教えや、さらに近年パキスタンで発見された部派仏教系の教典と上座部のパーリ教典を比較研究する仏教学者の立場からは、上座部は部派仏教時代の教義と実践を現在に伝える唯一の宗派であると評価されるに留まる。

教義では、次のようにされている。限りない輪廻を繰り返す生は「苦しみ (dukkha)」である。この苦しみの原因は、こころの執着()である。そして、こころの執着を断ち輪廻解脱するための最も効果的な方法は、経典の学習、戒律の厳守、瞑想の修行であるとする。大乗仏教では部派仏教の形式主義を批判し、釈尊の真精神を発揮するとの立場から、数あまたの如来・諸菩薩が活躍する大乗経典を生み出し、中観唯識に代表される思想的展開が図られていった。それに対して上座部仏教では、釈迦によって定められた戒律と教え、悟りへ至る智慧慈悲の実践を純粋に守り伝える姿勢を根幹に据えてきた。古代インドの俗語起源のパーリ語で記録された共通の三蔵 (tipitaka) に依拠し、教義面でもスリランカ大寺派の系統に統一されている点など、大乗仏教の多様性と比して特徴的なことは確かである。

また、上座部においては古代スリランカにおける戦乱の時代に比丘と比丘尼(尼僧)サンガが両方とも滅亡した。比丘のサンガはビルマに伝播していたために復興がかなったが、比丘尼のサンガはこれによって消滅となった。チベットにはインドから比丘尼のサンガが伝播せず、その後にインド仏教が滅んだため、仏教で比丘尼のサンガが存在するのは中国系の仏教だけという状態であった。上座部で尼僧というと、比丘でも戒律を授けることができる見習比丘尼をさす。正式な比丘尼の戒律を授けるには複数の比丘尼が必要となるからである。だが近年、台湾に残存する、中国仏教の比丘尼の系統を使って上座部の比丘尼のサンガの復興がはかられているが、その地位は、上座部が大乗を異端とみなしているということもあいまって教義的に問題視されている。タイではメーチー (mae chi)、ミャンマーではティラシン (thila shin) と呼ばれている正式な僧とは言えないものの、ほぼ尼僧に近いような生活をしている女性たちがいる。

日本との関係

中国仏教では部派仏教全体を指して小乗仏教と呼び、日本もそれを受け継いだが、「小乗」とは「大乗」に対して「劣った教え」という意味でつけられた蔑称であり、上座部仏教側が自称することはない。世界仏教徒の交流が深まった近代以降には相互尊重の立場から批判が強まり、徐々に使われなくなった。1950年6月、世界仏教徒連盟の主催する第一回世界仏教徒会議がコロンボで開催された際、小乗仏教という呼称は使わないことが決議されている。

仏教伝来以来、長く大乗相応の地とされてきた日本では、明治時代にスリランカに留学した日本人僧である釈興然(グナラタナ)によって、上座部仏教の移植が試みられた。また日本は明治以降欧米に留学した仏教学者によって、北伝仏教の国としてはもっとも早く「南伝大蔵経」の翻訳と研究が進められた国である。しかし伝統的な仏教勢力が大勢を占めるなかで、上座部仏教の社会的認知度は低かった。

上座部仏教に由来する瞑想法である現代ヴィパッサナー瞑想が1970年代頃から世界的に広まったが、この時期には日本では普及しなかった。1990年代からアルボムッレ・スマナサーラの布教活動を中心にして上座部仏教は、ヴィパッサナー瞑想とともに日本に浸透しつつある。現在はタイ、ミャンマー、スリランカ出身の僧侶を中心とした複数の寺院や団体を通じて布教伝道活動がなされているほか、戒壇が作られたこともあって日本人出家者(比丘)も誕生している。

脚注・出典

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関連項目

外部リンク


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  1. 小乗仏教の呼称は大乗仏教側から見た差別的意味を含むとされる。