藤岡弘、

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
藤岡弘から転送)
移動先: 案内検索

テンプレート:混同 テンプレート:ActorActress 藤岡 弘、(ふじおか ひろし、1946年2月19日 - )は、日本俳優タレント・国際武道家。本名:藤岡 邦弘(ふじおか くにひろ)[1]、旧芸名:藤岡 弘(最後の読点「、」がない)。

1971年(昭和46年)に主演した特撮テレビドラマ仮面ライダー』で一躍人気俳優となり、以来アクション俳優として多くの作品に出演している。また、日本人として初めて全米映画俳優組合SAG、現・SAG-AFTRA)のメンバーとなった事でも知られる。2002年(平成14年)川口浩の後任として『藤岡弘、探検シリーズ』が開始されて以降、“藤岡隊長”が愛称になっている[2]

愛媛県上浮穴郡久万町(現:久万高原町)出身。松山聖陵高等学校卒業。個人事務所である株式会社SANKIワールドワイド[3]所属。身長180cm、体重79kg(『仮面ライダー』出演当時は約67kg)、血液型はO型。

略歴

1946年2月19日、警察官で家伝の流派の古武道を継承する武道家、全国的にも知られた柔道家だった父と、茶道華道の師範だった母との間に生まれる。当時の生家は駐在所で、近所には四国八十八箇所霊場の第四十四番札所である菅生山 大覚院 大寶寺があり、母はよくお遍路さんをもてなしていたのが印象的だったとしている。生まれたばかりの頃は病弱で、肺炎を患った時には「もうダメだろう」と医師から告げられる中、「遺影に…」と写真が撮影された程だった。この時は母の献身的な看病で一命を取り留めるが、小学校に上がってからも、引っ込み思案で恥ずかしがり屋な線の細い子供だった。6歳頃より、病弱な事を心配した父から武道の手ほどきを受け、肉体と精神の修行・鍛練の中、病弱を克服する。少年時代から滝行も経験している [4]

  • 小学校時代は、父の仕事の都合で転校が多く、よくいじめの対象にされた。そんなある日、我慢できなくなって相手に反撃し、重傷を負わせる。すぐさま母の知るところとなり、母から仏壇の前に連れて行かれ、凄まじい形相で「あなたがこれ以上、人様に迷惑をおかけするんだったら、私があなたの命をいただきます。そして私もあなたの後を追います。それでよろしいですか?」と、母子心中も辞さない覚悟で反省を促された。弁解しようとすると「ならぬものはなりません!先祖の血を汚してはいけません、ちゃんと先祖に謝りなさい!」と、一切の反論を認めなかった。その迫力に、武道の怖さとともに母の本気を知り、猛省したという。また、父との思い出としては、家の道場の掃除を言いつけられ、窓の桟や畳の縁など「手抜き」をして掃除をさぼると、父はそれを見抜き、その場所を指でなぞるとそれを舐め「馬鹿者! お前は自分の心を掃除しているということを忘れたのか! 掃除というのは己の心を掃除することなのだ。心を清らかに、掃除をしたところを舐めてもいいくらいの掃除をお前はしてるのか」と、よく怒鳴られたと述べている[4]。また「一子相伝」とされる家伝の古武道について、「人に見せるな、教えるな、商いにするな」と、特に厳しく申し渡されていたという[5]

1957年、小学校6年の時に父が突如失踪。その日から家族の暮らしは貧しさを極め、3度の食事にも事欠き、学校に給食費すら納められない状況に陥る。この頃からアルバイトで生活を支える一方、惨めな生活を誰にも相談できず、後年まで父を許すことができなかった[注釈 1][6]

1961年、松山聖陵高等学校に入学。柔道部に在籍して主将を務めた。長身でその容姿・容貌が一際目立つこともあり、よく不良にからまれた。ある日、「5人以上はいた」という不良にからまれ、相手の攻撃はすべて見切った上で、かわしたり間合いを外したりしていたが、止まらないために堪忍袋の緒が切れて、集団に1人で反撃(逃げた者もいたが、すべて撃退した)。ただ、武道を通じて我慢することや耐えることが日常だったため「堪忍袋の緒は(人より)長いですよ。物凄く我慢強いですよ」と語っている[7]

1964年、高校卒業後は一度は石油会社に就職するも、わずか3ヶ月で退社。少年時代からの映画好きが高じ、アクションスターを夢見て上京し、劇団NLT俳優教室に入所。多種多様なアルバイトや某有名女優宅で下働き同然の居候生活やホームレス生活まで経験し、必死に食い繋ぎながらデビューのチャンスを待つ日々を送る。

1965年アルバイト先で知り合った桑野みゆきの父の口利きで松竹映画ニューフェイスとして入社。香山美子都はるみの主演映画『アンコ椿は恋の花』(監督:桜井秀雄)でデビュー。同年、『若いしぶき』(監督:八木美津雄 )で初主演。

1966年、青春スターとして新藤恵美とコンビ(チャームカップル)で売り出すが、知名度の向上にはあまり繋がらなかった。その後、『小さなスナック』(監督:斎藤耕一)などの歌謡映画にも出演。当時の松竹のこうした路線が気風に合わず、移籍を模索するが、当時の映画界は五社協定で俳優の引抜が禁じられており、移籍は極めて困難だった。また当時、生来のシャイな性格から周囲の人間との関係構築にコンプレックスを持っていた[注釈 2]。悩んだ末、会社に対して新人奨励金を受け取らない代わり、協定に拘らずに各社のオーディションに応募させて欲しいと要求。邦画業界は60年代末から70年代にかけ、TVの普及で衰退期を迎えていたこともあって許可を取り付ける。TV主演作かつ代表作となる『仮面ライダー』(東映毎日放送制作)も松竹在籍中、こうしたタイミングで得た仕事の一つである。

1970年、アクションドラマ『ゴールドアイ』(日本テレビ系・東映制作)第12話「密売大組織」(5月1日放送分)より、「藤弘」役としてレギュラー出演。のちに『仮面ライダー』で共演する千葉治郎も同じ回からレギュラー入りしている。

そして1971年、特撮TVドラマ『仮面ライダー』(毎日放送 - NET系・東映制作)に、主人公・本郷猛 / 仮面ライダー1号役で出演。これがきっかけで一般に広く知られるようになり、一躍人気スター俳優となる。この年、五社協定も事実上の崩壊となり、出演決定を契機に松竹との専属契約を正式に打ち切る。

1972年NHKドラマ『赤ひげ』のオーディションを受けて合格したが、『仮面ライダー』の制作元である東映毎日放送には無断でのことだったため、トラブルが発生。『赤ひげ』への出演は見送られることになった[注釈 3]。藤岡は一時失踪。このことは『仮面ライダー』の第66 - 68話と劇場版『仮面ライダー対じごく大使』の制作に影響を及ぼしている(詳細は『藤岡弘の失踪と制作中断』を参照)。

『仮面ライダー』終了後、『白い牙』(大映テレビ制作、日本テレビ系)などに主演、千葉真一らとともに当時のアクション主体のTVドラマや映画には欠かせない俳優として、その地位を確固たるものにする。

1973年12月29日公開の東宝映画日本沈没』(監督森谷司郎)に主演。1974年邦画部門興行収入第1位の大ヒットとなる。1976年には、坂井三郎・著の同名の自伝的ノンフィクションの映画化『大空のサムライ』(監督:丸山誠治、東宝)に主演。

1974年NHK大河ドラマ勝海舟』の坂本龍馬役に抜擢。大河ドラマではこの作品を含め6作品に出演している。

1977年4月6日からテレビ朝日系でスタートした東映制作の刑事ドラマ特捜最前線』に桜井哲男(哲夫)警部役でレギュラー出演。途中、他作品への参加のため、一時降板しているが、その後復帰。10年間に及ぶ人気長寿番組となった今作品の中で、二谷英明[注釈 4][8]本郷功次郎らと共に「番組の顔」的存在として中枢を支えた。

1982年、この年出演した「リアルゴールド」(日本コカ・コーラ)のCMでのコピー「スパークする役者バカ」が話題となり、ツービートの漫才ネタや当時のお笑い番組等でもパロディーのネタにされている。

1984年アメリカ映画SFソードキル』(監督:J・ラリー・キャロル)で主演。日本人として初めて全米映画俳優組合へ加入する。

1986年東京国際ファンタスティック映画祭でヒーロー賞を受賞。

1987年、『白い牙』で共演した女優鳥居恵子と結婚したが、3年3ヵ月後に離婚。

これと前後して、本人いわく「最も信頼していた者達の裏切り」に遭い、多額の負債を抱える。また、同時期に健康を害した[注釈 5][5]ことでしばらく芸能活動を休止し、一時活動が停滞する事態となった。

1992年統一教会の信者であると報じられたが、関与はないと語った。この件については「俳優以外の活動」を参照。

1997年、家庭用ゲーム機「セガサターン」のテレビCMでイメージ・キャラクター「せがた三四郎」に起用され、CMコピー「セガサターン、シロ!」とともに大人気となる[注釈 6]。11月から1年間オンエアーされたこのCMを契機に本格的に芸能活動を再開。『仮面ライダー』のリバイバルブームも追い風となり、藤岡自身の再評価・本格復帰にもつながった。このセガサターンのCMと翌年のオートレースのCMが、ともにCM大賞を受賞している。

1999年、10月からNHK連続テレビ小説あすか』に竹内結子演じるヒロインの父親役で出演。11月には「天皇陛下御即位十年をお祝いする国民祭典」に招かれている。

2001年11月、24歳年下の女性と再婚。同年12月には長女が誕生している。

2002年、川口浩の後任として、藤岡が2代目隊長に起用された『藤岡弘、探検隊シリーズ』が開始。

2007年8月23日、知人から融資実態がないにもかかわらず、2億円の抵当権を設定され、民事訴訟を起こされる。最高裁の決定により藤岡への4億5000万円の支払い命令が確定する[注釈 7][9]

2008年テレビ愛知 - テレビ東京系『トミカヒーロー レスキューフォース』の劇場版『トミカヒーロー レスキューフォース 爆裂MOVIE マッハトレインをレスキューせよ!』(監督:岩本晶、制作:ドッグシュガー、制作・配給:松竹)では、俳優としての古巣である松竹作品で、変身ヒーロー役、刑部零次 / R0役で出演。「37年ぶりに仮面ライダー以外のヒーローに変身する」として話題となった。この役についても、藤岡自身から「謎の男っぽさや過去の出来事をイメージ」して顔や手の傷、衣装、「変身後は(汚しや傷を入れて)少し古いデザインのスーツに変えてもらえないか」などスタッフに役作りのアイデアが出されている(ただ、変身後のスーツは「全員が同じスーツを着用する」と言う番組上の制約のためデザインの変更はされていない)。また『レスキューフォース』の続編である『トミカヒーロー レスキューファイアー』(2009年4月~2010年3月、テレビ愛知 - テレビ東京系)でも同じ役を演じた。

2014年1月23日、33年ぶりに「徹子の部屋」にゲスト出演[10]。この中で敬愛する母が2013年の春に103歳で他界した事を報告した。下積み時代には自分の着物を質草にし、ハリウッド進出の際には既に高齢だったにも関わらず自ら現地に足を運ぶなど、明治生まれの気丈さで藤岡をまさに物心両面で支え続けた。亡くなる直前まで意識が鮮明で「子供のことを考えて生きるように」と藤岡を諭したあと、眠るように息を引き取ったという[11]

同年5月13日、自ら企画したフジテレビ系のドキュメンタリー番組『海を越えた侍たち〜藤岡弘、がブラジルで見つけた日本人の心〜』[12]の取材・収録のため訪中、過去5回の訪伯でのボランティア支援で日本とブラジルの国際交流に貢献したことや、日系人社会を正しく伝えるための番組作りなどが評価され、ブラジル連邦議会より「感謝表彰」、名誉下院議員より「大十字勲章」が授与された[13]

人物

  • 趣味は世界各地をすること、映画音楽鑑賞、温泉釣りガーデニングサバイバル。座右の銘は「天命に生きる」「不動心」。
  • 特徴的な渋い低声で知られる。
  • 幼少時代から父親から家伝である古武道手裏剣棒術などを習得するとともに、空手居合道(ともに初段)、柔道(三段)、抜刀道、小刀護身道(ともに四段)、刀道(七段・教士) など、現代武道や武術に広く精通する。また「武術や武士道の精神を通して世界平和を目指したい」と提唱している。
  • 自宅地下には自身の主宰する「藤岡道場」を開設しており、現在、門下生は約20名である[14]
  • 大好物自然薯で、特に掘りたてを水で洗い、そのまま食べるのを好んでいる。他には煮物やホヤの酢の物など和食全般、栗、ようかんなどの甘い物も好物。嫌いなものはホワイトアスパラガスで、『とんねるずのみなさんのおかげでした』の「新・食わず嫌い王選手権」で明らかになった(2006年6月8日放送分、対戦相手は若槻千夏で、結果は引き分けだった)。普段は傍らにナッツ類やゴマを常備しており、小腹がすいた時の間食にしている。
  • 所持している資格について
  • 愛車はトヨタ・ランドクルーザー80、スズキ・GSX1300Rハヤブサ
  • 少年時代、蛇が蛙を飲み込む姿を見て以来、蛇がトラウマになっているという[2]。そのためか、事務所の裏には「マムシ注意」と書かれた看板があるという(『トリビアの泉 〜素晴らしきムダ知識〜』で紹介されている)。
  • コーヒーを愛飲しており、1日に5、6杯は飲むという。自ら汲みにいくほどのお気に入りの富士山系の自然水を沸かして「ありがとう」「おいしくなれ」と呟きながら、時間をかけて1滴ずつゆっくりドリップし、抹茶のように茶せんでかき回して十分に空気を含ませてから嗜むという独自の手法が、TVで紹介されて話題となった[15]。コーヒー豆は自ら厳選したものを南米から取り寄せている。また使用する豆の種類によって水を替える程のこだわりを持っている。自身のホームページではオーガニックの珈琲や直筆のコーヒーカップなどの販売も行っている。
  • 酒も嗜んでいたが、2013年8月4日に行われた平山亨の「お別れ会」に参列した際、同席した堀田眞三に「期するところがあって酒を辞めました」と明かしたことが伝えられている[16]
  • 英会話を得意としており、アメリカ映画への出演を通じて知り合った映画監督のジェームス・キャメロンとは「キャメロン」「サムライ」と呼び合うほど、親交が深い。2009年5月に出版された『藤岡弘、の武士道入門』(並木書房)は、著者の小峯隆生が、ある日、旧知の仲で来日中だったキャメロンと浅草で蕎麦を食べている際に、キャメロンから「明日サムライに会いに行くんだ」と、藤岡を紹介されたことがきっかけで小峯が藤岡に「弟子入り」し出版に至った書籍である。またこの中で藤岡は元アメリカ陸軍大尉で軍事評論家の飯柴智亮と対談を行っているが、その際に飯柴からアフガニスタンの戦場で実際に使用した護身用ナイフを譲られている。
  • こうした藤岡のこだわりや暮らしぶりに関して2013年7月3日放送のバラエティ番組『ドラゴンレイディSP[注釈 8][17]』(フジテレビ)では「自称、現代の侍と豪語する藤岡弘、」と紹介、「藤岡がコーヒー1杯を入れるのに30分、車移動込みだと合計2時間かかった」と誇張や虚偽、揶揄を加えて事実と異なる内容を放送。「侍」と自ら名乗ったこともなく、コーヒーの時間も大げさで、ロケ場所などは番組側の指定によるものだった[18]。この事実についてフジは8月20日付けの同局の公式サイトで藤岡とその関係者、ならびに視聴者への「訂正とお詫び」のコメントを掲載[19]。所属事務所も公式ブログでこのことに関する公式コメントを発表している[20]。このトラブルをきっかけに深夜枠からゴールデン枠への移行を目論んでいたこの番組は枠移動はおろか、事実上の打ち切りとなった。
  • テンプレート:要出典

芸名に読点(「、」)を付けるまで

1984年、アメリカ映画『SFソードキル』で、「現代のアメリカにタイムスリップした日本の」を演じることになった。藤岡は、武道家としての精神修養や大河ドラマなど時代劇の役作りなどを通して、かねてから「葉隠」に代表される武士道精神に心酔していた。しかし手元に届いた台本を見ると、外国人が想像する「侍」は史実のそれとは全く異質なものであった。戸惑った藤岡は、通訳を通して日本の伝統文化における侍の地位、役割を粘り強く説明。苦労の甲斐あって藤岡の演じる「侍」は各国で高い評価を得て、パリ国際ファンタスティック&SF映画祭批評家賞を受賞し日本人として初めて全米映画俳優組合員となる。その熱意に深く感銘した現地のスタッフも藤岡のことを「ヒロシさん」と呼び、敬意をもって接するようになったという。

この出来事がきっかけとなり、「昔の武将は一度"、"を打って決意した。周囲に流されることなく立ち止まり自分を見つめる」という覚悟と「『我未だ完成せず』との意味を込めて」芸名の最後に“読点”を付けることに踏み切った。一方で「、」には「てんでダメな男」というシャレもかけられているという[21]

本人にとっては一つの大きな決心であったが、藤岡自身が声高に公言しなかったこともあり、番組クレジットなどにも「、」はほとんど表示されることはなく、一部を除いてこの事実は知られなかった。しかし、モーニング娘。などの台頭で藤岡の「、」も注目されて次第に業界関係者に浸透し始める。当初は“句点”を付けたモーニング娘。の人気に肖ったものとの見方が多くを占めていたが、2003年1月8日関西テレビの『痛快!エブリデイ』に生出演した際、司会の桂南光に芸名について質問されると、そこに至る経緯を説明して句読点及び記号ブームの元祖は藤岡であることが公となり、それ以降は番組クレジットなどでも「、」が表示されるようになった。

俳優以外の活動

俳優として確固たる地位を確立した藤岡は、その活動の傍らお笑いコンビ、とんねるずダウンタウンのバラエティ番組に積極的に出演するようになる。どちらも1960年代の生まれで、『仮面ライダー』世代であり、共に藤岡の大ファンである事を認めている。とんねるずは、『オールナイトフジ』で藤岡と初共演した際には狂喜乱舞、『とんねるずのみなさんのおかげです』では『仮面ライダー』のパロディ『仮面ノリダー』を演じ、人気コーナーにした。また『とんねるずの生でダラダラいかせて』では藤岡とカートレース対決を行っている。

ダウンタウンは自身の番組『ダウンタウンのごっつええ感じ』の1コーナー「藤岡弘と遊ぼう!」で藤岡と共演。鬼ごっこ、ドッジボール、ハンカチ落としなどの遊びを展開。子供に扮したレギュラーメンバーが、大真面目に遊びに取り組む藤岡を集中的に負けに追い込む様子が、笑いを誘った。藤岡はその後も2001年浜田雅功主演のドラマ『明日があるさ』(第7話「健康ダイエット!」)、『ダウンタウンDX』へのゲスト出演や『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで』での企画「藤岡弘、とサバイバル」(2009年11月29日放送分)など、交友は続いている。

民間ボランティア団体『グローバルレインボーシップ』(理事長:五味武 /『国会タイムズ』会長)の理事として、日本国内のみならず世界各地の被災地や紛争地域、難民キャンプなどへの援助・救済活動、国際親善活動に参加、それらの経験を生かした青少年育成などに関する講演も精力的に行っている。

1993年北海道南西沖地震の際には「映画撮影の際にお世話になったので」と水などの援助物資を持てるだけ持って奥尻島に駆けつけ、当時の新聞もこの行動に「仮面ライダーは実在した」と大きく記事になった。また、2011年(平成23年)東日本大震災の際にも、被災地へ1トンの米を寄付している[22]

1990年頃より雑誌、新聞で統一教会との関連性が報道されるようになる。1992年(平成4年)9月、「東京スポーツ」などで「統一教会の信者」と報じられた。桜田淳子などが統一教会(統一協会)の合同結婚式に参加して問題になった後だった。詳細は統一教会の名を隠した自己啓発セミナーの広告塔になっていただけであり、本人はまったく関与がなかった。なお、藤岡はこの件に関しては一切コメントを出していない。

1998年、「梁山泊空手道連盟[23](代表:富樫宜弘[注釈 9])」を中心に結成された「眞日本武道空手道連盟[24]」・名誉会長に就任。

エピソード

『仮面ライダー』関連

当初、藤岡は本郷猛役だけでなく仮面ライダーのコスチュームも着用し、スーツアクターを兼任。危険度の高いアクションを除き、トランポリンを使用したアクションやオートバイで階段を登るバイクアクションなどもこなしており[注釈 10]、当初のレザー(鹿皮)製のライダースーツは汗をかくたびに身体を締め付け、マスクは覗き穴の問題で前が充分に見えず、勘だけを頼りに撮影をすることも多かった。

レザー製の動きにくいライダースーツを、毎回現場でスタッフが手直ししながら撮影しており、藤岡自身も当時の状況について「ヒーローのスーツはどうあるべきかの実験台になった」と語っている。視界の悪いマスクを装着してのアクションでは、武道の有段者でもある藤岡の突きや蹴りが、ショッカー役の大野剣友会のメンバーに手加減なく入り、歯を折ってしまったりすることもあったというが、彼らは笑ってそれを許した。藤岡はメンバーらのアクション魂や心意気に深く感じ入ることも多く、後年のアメリカでの映画出演の際にも大野剣友会を招こうとしたが、契約問題やユニオン(組合)との兼ね合いなどもあり、実現には至らなかった。

こうして心機一転、取り組んだが、第9・10話[注釈 11]撮影中、下り坂をバイクで走り下りるシーンで[注釈 12]、コーナーを曲がる際、たまたま工事中で砂利が多い場所で、オーバースピードだったためにスリップし、曲がりきれないまま電柱を支えるワイヤーに突っ込む。その際にワイヤーに足がひっかかってワイヤーがバウンド。そのまま反動でバイクとともに飛ばされるというアクシデントに見舞われる。藤岡は路上を2〜30メートル転がって動けなくなるが、事故直後はまだ意識があり、背中の後ろの方から肩越しに見えていた自分の左脚を元の位置に戻し、靴がぬげていたため親指が動くか確認し、かすかに動いたことに安心したところで意識を失ったという。結局、全身打撲の上、左大腿部を複雑骨折。骨が粉砕し、筋肉に刺さっている状態で、全治3カ月〜6カ月の重傷と診断され、長期休養を余儀なくされる。[25]後に「この時の事故の瞬間のラッシュ・フィルムを見せて欲しい」とスタッフに頼んだが一切見せられることはなかった。この事故以降、仮面ライダーシリーズの主演俳優は演出上の一部例外を除いて、スーツアクターを兼務することはなくなり[注釈 13]、スーツアクターは全面的に大野剣友会やジャパン・アクション・クラブ(JAC、現・JAE)所属のスタントマンが担当するようになった。

救急搬送後、最初に手術を受けた東京都町田市内の病院は骨の接合手術に関して旧態依然とした技術しか持っておらず、藤岡は同じ病院で手術を受けた患者から「大腿部を複雑骨折して同様の手術を受けて1年ほど入院しているが、まだ完治していない」と聞かされて愕然とし、車いす生活すら覚悟した。この状況を知った知人の紹介で、東京都渋谷区千駄ヶ谷(当時)の前田外科病院に転院できることとなったが、当初、最初の病院は転院希望を断り、転院が決定した後も「(転院に関して)当院は一切保証しない」と、移動のためのストレッチャーなどを用意することなく黙視、カルテレントゲン写真などの必要な情報提供も拒む中、ようやく転院が叶い、前田外科病院で再手術が行われた。ベトナム戦争傷痍軍人のために開発されたという方法で、バラバラになって筋肉に刺さり込んだ左脚の骨片を丹念にすべて拾い集め、大腿骨骨髄に金属パイプを通してその周りに骨片を細いワイヤーで巻きつけるというものだった。それまで日本ではほとんど実例がなく、当時の最新技術だったこの接合手術を受け無事に成功[25][26]。しかし、『仮面ライダー』第1話の放送は病室のベッドで観ざるを得なかった。ギプスが外れると、看護師の眼を盗んで筋肉がすっかり委縮して痩せ細った左脚の筋力強化のため、周囲が寝静まった時間帯にトレーニングを始めるが、その過酷さゆえに夜ごと床には汗だまりができ、時には発熱したため、日中になると疲れきって寝込むという「戦い」の日々を数か月送る。藤岡は「看護婦さんとかに『この人は寝てばっかりだなぁ』って思われたのではないかなぁ」と当時を振り返っている [25]

放送開始前の大事故で主演俳優の重傷という事態は、番組の存続に関わる一大事であり、通常であれば即刻番組降板も止むなしという状況に、緊急企画会議では毎日放送側から本郷猛を死亡させる案も出た。しかし、東映プロデューサー・平山亨は「子供達のオールマイティーの夢を壊すことはできない」としてこれに強硬に反対。代わりに2号ライダー登場のアイデアを取りまとめ、主役交代を機にこれまでの反省点を一気に修正し、番組をリニューアルすることで継続を決めた。これが功を奏し、番組は第14話[注釈 14]から登板となった藤岡の劇団NLT時代の同期である佐々木剛演じる一文字隼人 / 仮面ライダー2号の人気で社会現象となるほどの大ヒット作となった[注釈 15]。藤岡は後年、こうして自分の復帰を待っていてくれたことを述懐し、平山を「生涯の恩人」として敬意を表している。また、「この事故で自省したことで今の自分がある。事故がなければ自分はアクションができるということを鼻にかけ、もっと嫌な人間になっていたかもしれない」と、事故が自身の大きな転機になったとしている。

『仮面ライダー』での本格復帰は第53話[注釈 16]からだが、第40・41話[注釈 17]にゲスト出演という形で現場復帰を果たし、1971年末の桜島阿蘇山でのロケに参加する。この時、骨折箇所にはまだ金属パイプと固定用のボルトが入っており、傷口は絆創膏と包帯で抑えた状態だった。主治医からは「下手すると脚のパイプが曲がって抜けなくなるばかりか、一生歩けなくなるかもしれない」と猛反対されたが、藤岡はこの舞台を用意してくれたスタッフのために、それでも構わないとロケを強行。ただ、最初の撮影シーンがバイクに乗るスタントシーンで、目の前に事故を起こしたバイクが置かれていた時は「頭が真っ白になった」と語っている[27]。撮影時には、傷口にタオルを当てて臨んだが、撮影が終わると傷口から血が滴り、洗面器が真っ赤になるほどだったという。こうした事実をひた隠し、無事ロケを終えた後、主治医に言われた「大丈夫です。脚は異常ありません」との言葉は、一生忘れられないとしている。回復後の左脚はわずかに長くなってしまい、長年の腰痛の元になってしまったと自伝で述べている。

こうした大きなアクシデントを乗り越えて、『仮面ライダー』で全国的に知名度が上がったものの、藤岡はあまりの人気ぶりに、当初は自分自身がそのイメージで固定されてしまうのを怖れたほどだった。こうした理由もあり、のちの仮面ライダーシリーズでは、本郷役での客演が実は少ない[注釈 18]

1975年頃の『アップダウンクイズ』(毎日放送 - TBS系)で、シルエットクイズのゲスト出演時、トークの場面で司会者の小池清に「変身ポーズを見せてほしい」とリクエストされたが、照れ笑いをしつつ「忘れました」と答えてやんわりと拒否したこともあった。ただ、本人は自分の役者としての飛躍が『仮面ライダー』をきっかけにしたものであることは当時から忘れておらず、俳優として地歩を築くことに成功した現在では、「『仮面ライダー』は僕の青春でした」と語り、テレビゲームソフトなどでも本郷を演じている。また、「自分の代わりに怪我をしてくれたアクションチームの裏方のみんなを差し置いて、ヒーロー役だったということで今さら自分だけが表に出るわけにはいかないと思った」とも後年語っている。フジテレビ系列で放送された『快進撃TVうたえモン』(1999年4月27日放送分)では佐々木とともに出演し、藤岡が「変身しようか」と佐々木に声をかけ、揃って変身ポーズをとり、視聴者だけでなく番組出演者を大いに喜ばせた。

1995年11月、愛媛県久万町で新たな2つの小惑星が発見され、2000年(平成12年)3月にそれぞれ「Fujioka(藤岡)」「Kamenrider(仮面ライダー)」と名付けられた。これは、藤岡が久万町出身であることと、『仮面ライダー』にちなんだもので、小惑星に漫画のキャラクターの名前が付けられたのはこれが初である[28]

2001年、映画『劇場版 仮面ライダーアギト PROJECT G4』では直接に本郷と明示はないものの警視総監役で出演し、主人公・津上翔一らに「今の俺にできないことをやってくれ」と激励するという、仮面ライダー1号からのメッセージともとれる意味深な台詞で話題となった。

2005年9月11月11日から13日まで福岡市で開催されたイベント「FUKUOKAヒーローフェスタ2005 国際ヒーロー映画祭」の実行委員長に就任。イベント前の記者会見では「子供たちに夢と希望と生きる勇気を与えてきたヒーローの復権を訴えたい」と語った。そして映画祭の期間中行われたトークショーでは盟友ショッカーO野の進行で往年の映像を交えながら自らの人生を熱く振り返り、最後には「レッツゴー!! ライダーキック」を熱唱した。

2011年4月1日公開の『オーズ・電王・オールライダー レッツゴー仮面ライダー』で、1号の声を担当。声のみとはいえ、映像作品で1号を演じるのはTVスペシャル『全員集合!7人の仮面ライダー』以来35年ぶりとなった。丸の内TOEIにて行われた舞台挨拶にも登壇してコメントを述べたが、壇上で同じく声の出演となった佐々木と宮内洋風見志郎 / 仮面ライダーV3役)がそれぞれ変身ポーズを披露した流れで、観客から「変身ポーズをみせてほしい」とのリクエストが出され始める。藤岡は俯いて困ったような仕草を見せたが、ちょうど隣にいた1号(のスーツアクター)が機転を利かせ、藤岡に代わってポーズを披露して事なきを得た一幕があった[29]

仮面ライダーシリーズの歴代の主演俳優の中で、『仮面ライダーBLACK』と『仮面ライダーBLACK RX』の連続2作品で主役を演じた倉田てつをの98回に次いで59回(事故発生後の第11話から13話と、出演継続のトラブルが発生した66・67話を除く)と2番目に多く、TV版で主役の仮面ライダーを演じている(第3位は『仮面ライダー (スカイライダー)村上弘明の54回)。

仮面ライダーストロンガー』で主人公・城茂を演じた荒木しげるとは、『特捜最前線』でも3年間に渡って共演した仲だった。荒木が2012年4月14日川崎市内の病院で肺炎で死去した際、「いつも明るくて前向きでチャレンジ精神が旺盛な人でした。時をともにした仲間なので非常に胸が痛い。早すぎる。無念です」と、その早すぎる死を惜しんでいる。荒木と顔を合わせたのは、同年1月に死去した二谷英明の通夜が最後だった[30]

同年12月29日、平山とともに仮面ライダーの企画に携わり、『ストロンガー』までのいわゆる第1期ライダーシリーズに関わった東映の元チーフ・プロデューサーである阿部征司拡張型心筋症で死去した際、思い出として「とにかく子供が好きで、子供のための番組を真剣に作り、何度も現場に足を運んでいたこと」が印象に残っており、「現場では『ヨッ!』と気さくに声をかけてくれましてね。今思えば、僕たちにプレッシャーをかけない配慮だった」と故人の人柄を偲ぶとともに「尊敬すると同時に、自分もその遺志を受け継ぎ、子供たちを失望させることなく、夢を与える責任を持って生きていきたい」とコメントを寄せている[31]

2013年7月31日、平山が心不全で死去し、堀田眞三・村上弘明・高杉俊介(『仮面ライダースーパー1』の主人公・沖一也)・新堀和男らとともに、8月4日に行われた「お別れ会」に参列している[16]。前年の10月2日にはスケジュールの合間を縫って、入院中の平山を見舞っている。「これだけたくさんのヒーローを生み出して子供達に良い影響を与えてくれたのですから」「早く元気になって、また平山先生に活躍してもらわなきゃ」と話しかけ、既に認知症を発症していた平山もこの時は状態が安定し、満面の笑みだった事が伝えられている[32]。恩人の死に際して、自身のブログでは「私の師であるプロデューサー平山亨先生がお亡くなりになりました。日本の映像界を通し、世界中の子ども達に夢と希望、感動と勇気を与え続けられた数多くの偉業は、確実に我々の心に刻まれております。我々に残してくださった功績に心より感謝申し上げます。今はただゆっくり休まれますよう、心よりご冥福をお祈り申し上げます。合掌」とのメッセージを寄せている[33]

2014年3月29日公開の劇場版『平成ライダー対昭和ライダー 仮面ライダー大戦 feat.スーパー戦隊[34]にて、『全員集合!7人の仮面ライダー!!』以来38年ぶりに本郷役を演じた。本郷役として撮影に臨み、変身シーンでは「自分の歴史がよみがえり、血が騒いだ。不思議なもので体は覚えていたんですね。演じるというより、本郷はそのままの自分。何とも言えない感動がありました」と感慨深げに感想を語っている[35][36]

藤岡弘、探検シリーズ

近年、藤岡の幅広い人気を決定的にしたのはテレビ朝日の『スイスペ!』枠で不定期に放送された「藤岡弘、探検シリーズ」である。もともと同局では1978年(昭和53年3月から『水曜スペシャル』枠で俳優川口浩を探検隊長に「川口浩探検隊シリーズ」が放送されており人気番組となったが、1985年(昭和60年)10月に同局の『アフタヌーンショー』で発覚した「やらせリンチ事件」の影響や、川口のがん発病もあり、同年11月に終了。その後、川口が1987年(昭和62年)11月17日に死去したことで自然消滅の状態になっていた。しかし、探検シリーズ復活を希望する声が途絶えないことと、藤岡のワイルドなイメージや以前から旅番組や海外紀行番組を通じて、旅好き・アウトドア好きは知られていた事もあり、藤岡を2代目隊長に起用し2002年(平成14年)12月25日に復活。「藤岡弘、探検隊」はこれまでに6度の探検を行っている[37]

全6回の平均視聴率(関東)が9.7%と、高視聴率には至らなかったが、これ以降、川口に代わり「隊長といえば藤岡弘、」と広く認知され、パブリック・イメージ、タレントキャラとして浸透することとなった。バラエティ番組などに出演する際のスタイルとして、サファリ・ルックやサバイバルベストが定番となったのもこの頃からである[注釈 19]。結局、2005年(平成17年)3月19日の第6弾が事実上の最終作となった。また、2014年現在まで再放送などの機会は得られていない。単発では2009年(平成21年)2月1日に放送された『よゐこの無人島0円生活』(テレビ朝日開局50周年記念番組)内のコーナーとして4年振りに復活している。

  1. 今夜復活! あの伝説の探検隊が帰ってきた! アマゾン奥地1500km! テラプレータの密林に 謎の猿人 ジュンマは実在した!(2002年12月25日放送)
  2. ベトナム・ラオス国境地帯 死の密林踏破! 呪われた竜の使い ヅォン・ドゥーは実在した!(2003年4月9日放送)
  3. 失われた大地・・・南米ギアナ高地 切り裂かれた大地の闇に 謎の地底人 クルピラは実在した!!(2003年10月1日放送)
  4. エチオピア奥地3000km! 幻の白ナイル源流地帯! 古代裸族に人類の原点を見た!!(2004年1月2日放送)
  5. アマゾン奥地6000km! 密林の恐怖 イプピアーラ 大追跡! これが半魚人伝説の正体だ!(2004年9月8日放送)
  6. ミャンマー奥地 赤い密林縦走3000km! 伝説の野人 ナトゥーを追え!(2005年3月19日放送)[38]
  • 番外. 衝撃!無人島の大蛇伝説! 松の木よりもでかい蛇!(『よゐこの無人島0円生活』内にて放送。隊員は内藤大助&よゐこ

また、『シルシルミシルさんデー』(テレビ朝日系)では探検シリーズのパロディとして、藤岡が企業や巷の謎を調査するコーナー「藤岡弘、探検隊」を、また同局の『ナニコレ珍百景』では自然界の珍百景を紹介する「探検珍百景」「ワイルド珍百景」、照英とコンビを組んでの「洞窟珍百景」などで藤岡がリポーターを務めている(どちらも不定期放送)。

出演作品

テレビドラマ

NHK

日本テレビ系列

TBS系列

フジテレビ系列

  • 愛のはじまるとき(1973年)
  • 新選組(1973年)- 藤田精一郎
    • 第1話「芹沢鴨死す 豪雨止まず」
    • 第6話「三条大橋に黒い人影」
  • 霧氷(1977年)
  • 汽笛が響く!(1978年) - 主演・宮崎康平
  • 時代劇スペシャル / 二人の武蔵 - 岡本武蔵
  • 望郷 美しき妻の別れ(1983年) - 石泊守幸
  • カバチタレ! 第5話「免停と交通違反キップで警察と対決!」 第11話「セクハラ男に置き去られ結婚式で恥をかく」(2001年) - さわやかなライダー

NET→テレビ朝日系列

テレビ東京

映画

オリジナルビデオ

テレビアニメ

OVA

劇場アニメ

ゲーム

吹き替え

ラジオドラマ

  • ラジオドラマ/NHKFMシアター『あのゴミを捨てるのはあなた』(作・小林政弘)

シングル

  • レッツゴー!! ライダーキック 仮面ライダーのうた(1971年)※『仮面ライダー』第13話までの主題歌(第14話からは藤浩一に交代)。藤岡バージョンが収録されているのは初回盤のみ。
  • 夕陽没ちても / 霧の友よまた逢おう(1972年)
  • 愛の挽歌 / 雨(1976年)
  • 右手に枯れたバラ / BYE-BYE MEMORY(1985年)
  • セガサターン、シロ! / セガサターン、シロ!(せがた三四郎 Ver.) / セガサターン、シロ!(カラオケ)(1998年)※『セガサターン』CMソング
  • レッツゴー!! ライダーキック 〜2000 Ver.〜 / Power Child 君と共にライダーはいる(2000年)
  • 荒野のサムライ〜明日に向って走れ〜 / レッツゴー!! ライダーキック2006 / 稲妻の魂(アコースティックバージョン)/ 愛 Part2(2006年)

アルバム

  • 愛こそすべて 合掌、(2005年)

バラエティ

CM

著書

脚注

テンプレート:脚注ヘルプ

注釈

テンプレート:Reflist

出典

テンプレート:Reflist

関連項目

外部リンク

  • テンプレート:Cite book
  • 2.0 2.1 テンプレート:Cite news
  • 3.0 3.1 テンプレート:Cite web
  • 4.0 4.1 テンプレート:Cite web
  • 5.0 5.1 テンプレート:Cite news
  • テンプレート:Cite book
  • テンプレート:Cite web
  • テンプレート:Cite news
  • テンプレート:Cite web
  • テンプレート:Cite web
  • テンプレート:Cite web
  • テンプレート:Cite web
  • テンプレート:Cite news
  • テンプレート:Cite web
  • テンプレート:Cite news
  • 16.0 16.1 テンプレート:Cite web
  • テンプレート:Cite web
  • テンプレート:Cite news
  • テンプレート:Cite web
  • テンプレート:Cite web
  • ゲーム雑誌「CONTINUE」のインタビューより
  • テンプレート:Cite news
  • テンプレート:Cite web
  • テンプレート:Cite web
  • 25.0 25.1 25.2 テンプレート:Cite web
  • テンプレート:Cite web
  • テンプレート:Cite web
  • テンプレート:Cite news
  • テンプレート:Cite news
  • テンプレート:Cite news
  • テンプレート:Cite news
  • テンプレート:Cite web
  • テンプレート:Cite web
  • テンプレート:Cite web
  • テンプレート:Cite news
  • テンプレート:Cite news
  • 水曜スペシャル川口浩探検隊シリーズ」を参照のこと。
  • テンプレート:Cite web
  • テンプレート:Cite web
  • テンプレート:Cite web
  • テンプレート:Cite news

  • 引用エラー: 「注釈」という名前のグループの <ref> タグがありますが、対応する <references group="注釈"/> タグが見つからない、または閉じる </ref> タグがありません