坂井三郎

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テンプレート:基礎情報 軍人 坂井 三郎(さかい さぶろう、1916年(大正5年)8月26日 - 2000年(平成12年)9月22日)は、大日本帝国海軍戦闘機搭乗員(パイロット)。太平洋終戦時は海軍少尉、最終階級は海軍中尉。終戦までに大小多数の撃墜スコアを残す日本のエース・パイロットとして知られる。戦後に海軍時代の経験を綴った著書『大空のサムライ』は世界的ベストセラー。

来歴・人物

戦艦の砲手から戦闘機搭乗員へ

佐賀県佐賀郡西与賀村大字厘外1523番地(現在の佐賀市西与賀町大字厘外)に坂井晴市・ヒデの次男として生まれる(名前は祖父の勝三郎に由来している)。父は農家の三男で貧しかった。坂井が小学校6年生の1928年(昭和3年)、父・晴市が36歳で病没。残された一家5人の生活は困窮したが、坂井は小学校の成績が良かったこともあり、東京在住の伯父に引き取られる形でただ一人上京した。青山学院中等部に進学したが、勉強についていけず、素行不良になり、成績不振で落第して退学処分となった[1]

その後約2年間、農作業に従事した。この頃から自身の将来について真剣に考えるようになった。スピードへの憧れがあり、騎手になろうとしたが本家の反対で挫折。同じ西与賀村出身で佐世保航空隊の平山五郎海軍大尉操縦の飛行艇が故郷で低空を旋回するのを、農作業をしつつ仰ぎながら見た速い物としての飛行機に憧れた。「海軍少年航空兵」募集のポスターを見て受験したが、何度も不合格になった[2]ので、飛行機のある海軍に入れば、近くで見られるだろうし、触るぐらいはできるだろうという思いから、海軍の志願兵に受験し合格、周囲は反対したが1933年(昭和8年)5月1日、四等水兵として佐世保海兵団へ入団する。

同年10月1日には、戦艦霧島に配属され、15センチ副砲の砲手となる。1935年(昭和10年)5月11日、横須賀の海軍砲術学校に入校。翌1936年(昭和11年)、同校を200人中2番の成績で卒業し、5月14日に戦艦榛名に配属。大艦巨砲主義全盛の当時、花形とされた戦艦の主砲の二番砲塔の砲手に任せられるが、演習で榛名の艦載機の射出を見て海軍入隊の目標であった搭乗員への志願を上官の搭乗員に打ち明けると、「指導してやるが、学科試験に合格しなければ道は開けない」と言われ、発奮して年齢的に最後となる[3] 操縦練習生を受験して合格。1937年(昭和12年)3月10日に霞ヶ浦航空隊に入隊、4月1日初飛行。練習生の中では、操縦が下手でソロ飛行が許されたのは、卒業も近い最後だった[4]。卒業後の延長教育の射撃もうまくはなかった[5]。首席を目指して勉強に励んだ結果、希望どおり艦上戦闘機操縦者として選ばれ、同年11月30日に第38期操縦練習生を首席で卒業できた。卒業式では昭和天皇名代の伏見宮博恭王より、恩賜の銀時計を拝受し、海軍戦闘機搭乗員としての道を歩み始める。

中国戦線

坂井は佐伯航空隊での3ヶ月の戦闘機操縦者としての延長教育を終えて、1938年(昭和13年)4月9日、大村航空隊に配属。5月11日には、三等航空兵曹に昇進して台湾高雄航空隊に異動後、同年9月11日には、中国大陸九江に進出していた歴戦の航空隊である第一二航空隊に配属となる。

1938年(昭和13年)10月5日の漢口空襲が初出撃となったが、この日坂井は指揮官相生高秀大尉の三番機として九六式艦上戦闘機に搭乗し、初出撃ながら中華民国国軍I-16戦闘機1機を撃墜。翌1939年(昭和14年)5月1日、二等航空兵曹に昇進。同月、九江基地からの南昌基地攻撃に参加し、6月には占領された南昌基地に進出。10月3日には、進駐していた漢口基地を不意に爆撃したSB(エスベー)爆撃機12機編隊を、迎撃に上がり、単機で宜昌上空8千メートルまで追尾して、1機を撃墜。翌11月には上海基地に移動。翌1940年(昭和15年)5月には、運城基地に進出し、同基地上空哨戒等に従事。

1940年(昭和15年)6月に内地に帰還し、大村航空隊配属となり、8月に横須賀航空隊で行われた新機種の取り扱い講習会で、登場したばかりの零式艦上戦闘機(零戦)と初めて出会う。同年10月17日に再び高雄海軍航空隊に異動するが、この際、搭乗機が九六戦から零戦となり、名古屋で零戦を受け取って、鹿屋基地経由で自ら台湾まで空輸する形で、24日に高雄基地に着任することとなる。翌1941年(昭和16年)春、坂井は高雄空の零戦18機のうちの1機として、海南島三亜基地に前進。更に坂井を含めた12機は、陸軍の北部仏印進駐に呼応する形で、ハノイ飛行場にも進出する。

1941年(昭和16年)4月10日、第十二航空隊の横山保大尉からの「坂井は俺の隊にくれ」との要請を受けて、高雄空から、十二空勤務を臨時に命ぜられ、中国大陸に再進出。漢口基地から華中での作戦に従事し、5月3日には重慶攻撃に出撃する。6月1日に一等飛行兵曹に昇進。7月9日の梁山攻撃、27日の成都攻撃に参加後、8月11日には、零戦16機、一式陸上攻撃機7機による成都黎明空襲(攻撃参加の戦闘機、あらかじめ前日に漢口基地から宜昌飛行場へ移動し、同飛行場を夜間離陸し、漢口出撃の一式陸攻に合流)で、中華民国国軍のI-15戦闘機1機を撃墜。これは坂井にとって零戦搭乗での初撃墜となる。更に8月21日には、再度の成都攻撃で、I-16戦闘機1機を撃墜する。

坂井は、ソ連からの援蒋ルート(北方ルート)を遮断すべく派遣された零戦18機の1機として、運城基地に進出。零戦の長大な航続力を活かしつつ、坂井は、8月25日には、零戦7機のうちの1機として蘭州基地攻撃に出撃、上空を制圧。その数日後、更に奥地の西寧への零戦12機での攻撃にも参加。また8月31日に実施された岷山山脈の谷間という地形的に上空からの攻撃が難しい松潘基地への指揮官新郷英城大尉以下、老練搭乗員のみ零戦4機での攻撃に坂井も参加。同基地上空に達しつつも、天候不良にて引き返す。坂井によれば、支那事変で実戦を数えるほどしかやらなかったと語っている[6]

坂井は、1941年(昭和16年)10月に台湾台南基地に新設された台南航空隊(以下、台南空と略)に配属された。坂井は、先任下士官兵搭乗員となる。坂井によれば小園に頼まれて、新任で上官の笹井醇一中尉の戦闘教育を任せられたという。笹井の手紙には「坂井三郎という男あり、片目0.8ながら、なおかつ私よりも敵を早く発見し・・・」と書かれている。坂井によれば支那事変当時に一度負傷して破片が目に入って瞳孔のど真ん中に突き刺さり、ワリセンで磨いてもらったが、左目が飛行機乗りで最低の0.8になったという。右目は鍛錬でぐんぐん視力がよくなったが、今度はガダルカナルで右目をやられると左目がぐんぐん見えるようになったと言っている[7]

台南空で、下士官のみの小隊が組まれて、坂井は僚機を持つことになる。戦後に坂井は自分の隊が唯一で注目されていたと話しているが、台南空には少なくとも他に4つは存在していた[8]

日米開戦

1941年(昭和16年)12月8日開戦初日、台南空のベストメンバーを組んだフィリピンクラーク空軍基地攻撃では、第一中隊(新郷英城大尉指揮)の第三小隊(坂井一飛曹、横川二飛曹、本田三飛曹)の小隊長として台南基地を出撃。坂井は、台南空零戦36機で護衛した高雄空一式陸上攻撃機27機、一空九六式陸上攻撃機27機の爆撃成功で、黒煙の上がる飛行場500メートル上空で、米陸軍第21追撃飛行隊のカーチスP-40ウォーホーク戦闘機と初の空戦。坂井は零戦得意の左急旋回からの一撃で、P-40戦闘機を大破。サム・グラシオ中尉操縦の同機は、辛うじて滑走路に滑り込む。(坂井とグラシオは、1991年5月に、米国テキサス州で再会。両者の開戦初日の空戦記憶は細部まで一致。)

台南空は、12月25日より、スールー諸島ホロ島へ順次進出。更に翌1942年(昭和17年)1月16日には蘭印タラカンに進出。1月24日、坂井はボルネオ島バリクパパン上空哨戒中、米陸軍第19爆撃飛行隊のB-17フライングフォートレス爆撃機の7機編隊を発見。台南空4機(坂井一飛曹、松田三飛曹/田中一飛曹、福山三飛曹)で、20分にわたり攻撃し、うち3機を大破。翌1月25日、坂井はバリクパパン基地に進出。2月5日、同基地を出撃した坂井は、ジャワ島スラバヤ上空で米陸軍第20追撃飛行隊のP-40戦闘機1機を撃墜。2月8日、坂井は、新郷大尉指揮9機(新郷大尉、田中一飛曹、本田三飛曹/坂井一飛曹、山上二飛曹、横山三飛曹/佐伯一飛曹、野沢三飛曹、石井三飛曹)の第二小隊長として、バリクパパン基地を出撃。同日、日本陸軍が上陸開始のセレベス島マカッサル方面へ爆撃に向かっていた米陸軍第19爆撃飛行隊のB-17爆撃機の9機編隊とジャワ海カンゲアン島上空で遭遇。零戦隊は、その後方から忍び寄りつつ、空の要塞B-17の防御砲火が相対的に弱いと考えられた正面に回って果敢に攻撃。うち2機を協同撃墜し、4機を大破。2月18日には、ジャワ島マオスパティ基地4,000メートル上空で蘭印軍のフォッカーC.XI-W水上偵察機を撃墜。そして2月28日には、バリ島デンパサール基地より出撃し、ジャワ島マラン西方の6,000メートル上空で、蘭印軍のブリュースターF2Aバッファロー戦闘機(C.A.フォンク少尉機)を左垂直旋回から一撃、発射機銃弾わずか160発で撃墜。

坂井は、夜中に現地住民のニワトリを盗み出して、小園安名に「いやしくも日本海軍の軍人が、たとえニワトリの一羽でも、原住民のものを荒らすなどとは、とんでもないことだ」と叱られている。坂井はその後も豚を盗みに行っている[9]

ソロモン、ラエでの活躍

台南空は、フィリピン、インドネシア方面の制圧後はラバウルラエに移動、ニューギニアやソロモンに展開する連合国軍(米豪軍)と激戦を繰り広げた。

坂井が参加した戦闘に、後にアメリカ大統領となるリンドン・B・ジョンソン(当時下院議員)が同乗していたB-26爆撃機が参加しており、撃墜されかけたという話があるが、実際にはジョンソンの搭乗機は、エンジントラブルで引き返しており、議員の安全を優先させたためか、爆弾も投下せず、戦闘には参加していない[10]

ある日、禁止されていた麻薬を混ぜたカナカタバコを吸い、他の下士官たちにもそれを配っていた坂井は笹井に見つかって、「それはカナカじゃないか。それを吸ってはいけないことぐらい知っているだろう。それには阿片が入っているんだぞ!」と叱りつけられた。それでも坂井はやめようとしなかったので、笹井は怒りで唇を噛んで顔を曇らせた。その後、笹井はタバコをいっぱい詰めた箱を持ってきて、「みんなで分けろ。あんなくだらんタバコは捨てろ!」と指示した[11]

戦後、坂井は、1942年(昭和17年)5月27日あるいは6月25日にラエで、坂井は台南空の撃墜王であった西沢広義太田敏夫の3人により、無断でポートモレスビーのセブンマイル飛行場上空にて三回連続編隊宙返りをしたと主張。しかし、実際には5月27日も6月25日も他の日も、そのような出撃は存在しない[12]

負傷と復帰

ファイル:Sakai wounded.jpg
負傷した戦闘から帰還した直後に撮影した写真

1942年(昭和17年)8月7日、ガダルカナル島上空にてアメリカ海軍のジェームズ・“パグ”・サザーランドのF4Fと交戦、これを撃墜。最近になって発見されたサザーランドの機体の残骸の銃跡すべてが当時の壮絶さを静かに物語っている。 そののちガダルカナル島の上空において、坂井はSBDドーントレスの編隊を「油断して直線飛行している」F4Fワイルドキャットの編隊と誤認して不用意に至近距離まで接近したため、坂井機は回避もままならないままSBDの7.62mm後部旋回連装機銃の集中砲火を浴びて機体を損傷。

坂井によれば、その内の一弾が坂井の頭部に命中、致命傷は免れたが右側頭部を挫傷し(そのため左腕が麻痺状態にあった)計器すら満足に見えないという重傷を負った。坂井は被弾時のショックのため失神したが、海面に向けて急降下していた機体を半分無意識の状態で水平飛行に回復させている。一時は負傷の状態から帰還は無理と思い敵艦に体当たりを考えたが発見できず、帰還を決意した。まず止血を行い出血多量による意識喪失を繰り返しながらも、約4時間に渡り操縦を続けてラバウルまでたどり着き、奇跡的な生還を果たした[13]

坂井によれば、ラバウルの軍医では治療できず、内地に帰還、横須賀海軍病院での長時間に及ぶ麻酔無しの手術により失明は免れたが、右目の視力をほぼ失い左も0.7にまで落ちたという。同年10月飛行兵曹長に昇進。指導員からは、指圧師や按摩師の道を勧められて研修も受けていた[14]。佐世保病院に移されたときに、ラバウルより帰国して再編成中の251空(台南空を改称)に行って、司令になっていた小園安名中佐に対して「片目でも空戦経験の少ない戦闘機乗りよりも、私は使えると思う」と説得して、軍医は反対したが、小園も訓練を見てみて具合が悪くて飛べなくても教官にすると言って、坂井は留まった[15]。坂井は後輩たちをバットで殴っており、坂井によればラバウルでは10月になると死者が出て、内地で教える時間がないからまずい戦いをしたやつは殴った、殴ると反省するから効果があったと語っているが、台南空はこの時期は内地で訓練をしているため戦闘もなかった[16]1943年(昭和18年)2月豊橋航空隊で復帰後、訓練をしていたが、ラバウル進出前に1943年(昭和18年)4月大村航空隊に異動して教官になった[17]1944年(昭和19年)4月13日、横須賀海軍航空隊に配属された。

激戦を生き抜く

戦況の悪化、絶対国防圏の重要な一角であったサイパン島への米軍上陸を受け、海軍航空隊の総本山であった横須賀航空隊にもついに出撃命令が下り、1944年(昭和19年)6月22日、坂井を含めた零戦27機は、大村空で教官をしていた坂井を、横須賀空へ引っ張ってきた、ラバウルでの飛行隊長でもある中島正少佐の指揮下、硫黄島へ進出。ラバウル以来の久しぶりの戦地、右目の視力を失いつつも、最前線に戻ることとなった横須賀空の坂井は、硫黄島防衛に加え、マリアナ沖海戦に勝利したばかりで、マリアナ諸島沖に展開の米海軍機動部隊第58任務部隊)を攻撃することも視野に入れつつ、三沢基地で練成中だった第252航空隊他と共に、零戦の他に艦上攻撃機天山艦上爆撃機彗星他も含めて急遽編成された「八幡空襲部隊」の傘下に入る。

もっとも、坂井が参戦したのは、6月24日の敵艦上機邀撃戦闘と攻撃機隊援護だけであった[18]

まだ八幡空襲部隊が硫黄島に移動集結中であった6月24日早朝、先手を打って、米海軍第58任務部隊第1群のVF-1、VF-2、VF-50航空隊のグラマンF6F ヘルキャット戦闘機約70機が、空母ホーネット、空母ヨークタウン 、空母バターンを発艦して硫黄島に来襲。これをレーダー探知して、横須賀空の25機、そして252空と301空(戦闘601飛行隊)の32機、合計57機の戦闘機が6時20分に硫黄島上空に迎撃に上がる。梅雨前線の影響で高度4千メートル付近に厚い雲層が立ち込めるなか、迎撃機は雲上と雲下に分かれ、7,8機引き連れた坂井の雲下組は、離陸後、硫黄島西岸の雲下、高度3千メートルを急上昇中のところ、早くもこの時点で侵攻してきたF6Fヘルキャット戦闘機群に遭遇。坂井の属する雲下組は離陸の順番が遅かったことで、予定の高度をとれず、硫黄島防空戦に突入する。坂井によれば、一機と旋回戦になって左ひねり込みに誘いこみ巴戦で撃墜[19]、視界の利かない右側後方から、不意に敵戦闘機の射撃を受けていることに気付き、途中から、肩バンドを外して何度も右側を振り返って右側の視界を補いつつ撃墜、合計でF6Fヘルキャット戦闘機2機を撃墜したという[20]

坂井によれば、この空戦の終了時に、視力不足から、母艦へ帰還するF6Fヘルキャット戦闘機編隊を味方零戦と誤認して敵戦闘機15機に包囲されたという。しかし、上空からの目撃証言によれば、実際には4機のラフベリーサークルに巻き込まれていたという[21]。坂井は左旋回だけで逃げたと話していたが、目撃証言によれば、右に左に逃げていたという。坂井によれば、戦後、アメリカで攻撃してきた生き残りがいて、坂井の飛び方なら100機のグラマンでかかっても落とせないと賞賛されたという[22]

この早朝の迎撃戦で坂井の僚機であった柏木美尾一飛曹と野口壽飛長が未帰還になっている[23]

坂井の著書「大空のサムライ」の描写では、迎撃戦の後、体調不良のため、一時地上待機して、7月4日に復帰し、7月5日、横須賀空の残存兵力の全てとなった天山8機と零戦9機の合計17機のみで、米機動部隊、第58任務部隊の大艦隊に対し、白昼強襲をかけたとして次のように書いている。

戦闘機隊指揮官は、笹井中尉と海兵、飛行学生共に同期であった歴戦の山口定夫大尉、第二小隊長に坂井、第三小隊長は武藤金義飛曹長であった。出撃前、横須賀空司令の三浦鑑三大佐より、「本日は絶対に空中戦闘を行ってはならない。雷撃機も魚雷を落としてはならない。戦闘機、雷撃機うって一丸となって全機、敵航空母艦の舷側に体当たりせよ。」との訓示がなされ、ここに実質的に日本海軍初の航空特攻命令が下された。攻撃隊は米側レーダーに捕捉され、敵艦隊に達する前に30機以上のF6Fヘルキャットに迎撃を受ける。命令にて零戦隊も空戦もできぬまま、天山は次々と大爆発を起こし、8機中7機までが瞬時に撃墜されてしまう。零戦隊自体も多勢に無勢で、山口大尉も含めて、零戦も5機までがここで撃墜されてしまう。撃墜を逃れたのは、命令に反して、反撃に転じた武藤飛曹長と坂井小隊3機の計4機のみであった。坂井は反撃して、F6Fヘルキャット1機を撃墜[24]するが、その間に武藤機ともはぐれた坂井小隊3機は、敵艦隊を引き続き捜索するが叶わず、坂井は硫黄島への帰還を決意する。ただ、片道を前提に、帰路は全く念頭に置いていなかった状況で、正確な現在地もつかめず、日没迫るなか、硫黄島への帰還は絶望的であったが、坂井の長年の勘で、日没後、奇跡的に硫黄島への帰還を果たす。坂井は、二番機で撃墜王の志賀正美一飛曹と三番機の白井勇二二飛曹とともに暗闇の飛行場で、唯一撃墜を逃れた天山1機の誘導で先に帰還した武藤飛曹長と再会。生き残った4人で三浦大佐に報告に行くと、「御苦労だった。詳しくは明日聞こう」の一言。部屋は酒の匂いで満ちていたという。

しかし、実際に米機動部隊攻撃に発進したのは、最初の迎撃戦が行われた6月24日の午後であり、編成も零戦23機、彗星艦爆3機、天山艦攻9機(内、横空零戦隊は9機)である。攻撃隊の総合被害は未帰還:零戦10機 天山艦攻7機(内、横空被害は未帰還零戦4機、天山艦攻7機)。坂井の著書で戦死したとされる山口大尉はこの攻撃では戦死していない。山口大尉が戦死したのは『7月4日』の第四次硫黄島上空邀撃戦であり、同日午後の米艦隊の艦砲射撃により残存機は全機破壊されている。7月5日に米機動部隊に対する攻撃があった記録は無い[25]

硫黄島から帰還後の1944年(昭和19年)8月少尉特務士官たる少尉)に昇進。同年12月、最新鋭局地戦闘機「紫電改」を装備する第三四三航空隊(2代目。通称は『剣』部隊。以後、三四三空)戦闘七〇一飛行隊『維新隊』に異動となり、紫電改の操縦法などの指導に当たる。1945年(昭和20年)7月、再び横須賀航空隊勤務となり、そこで終戦を迎える。第三四三航空隊から横須賀航空隊への異動は、「空の宮本武蔵」の異名を取る撃墜王であり、友人でもあった横須賀航空隊の武藤金義少尉と交換という形であったがその後、武藤少尉が豊後水道上空の空戦において戦死したため、坂井は武藤少尉が自分の身代わりになって戦死したのではないかと終生気に病んでいた。

第二次世界大戦最後の空戦

ポツダム宣言受諾後、松田司令は厚木の徹底抗戦には同調しない、軽挙妄動を慎むようにと訓示があったが、1945年(昭和20年)8月17日、アメリカ軍をはじめとする連合国軍による占領下の沖縄の基地から日本本土偵察のために飛来したB-32ドミネーター2機と日本海軍機が房総半島から伊豆諸島の上空で交戦した第二次世界大戦最後の空中戦があった。結果はB-32の搭乗員1名が戦死、2名が負傷、日本側に損害なし。ダメージを負った機体は沖縄へ退いた(この戦闘での死者がアメリカ軍兵士の第二次世界大戦での最後の戦死者)。

坂井によれば、この際に、紫電改の他に零戦が準備されたが、紫電改には目もくれずに零戦52型で坂井も攻撃に向かったという。坂井は、上空を米軍機が飛び回ることに我慢できなかった、あるいは松田司令が徹底抗戦を叫んで厚木に同調して、パイロットも引く気がなく、やって来る航空機に対する攻撃は国際法上、正当防衛と聞いたなどと話している[26]。この交戦に参加した小町定は「紫電ですら追いかけるのに苦労したのに、零戦では無理」のような趣旨の発言をして、離陸した坂井が攻撃には参加できなかったことを示唆している[27]。しかし大原亮治上等飛行兵曹は零戦52型で同日にB-32を迎撃し、三撃目までを加えたことを証言している。小町と大原の証言を本にまとめた神立尚紀は、この日飛来したB-32は複数機だったらしく、小町と大原が迎撃したのはそれぞれ別の機体であろうと判断している[27]

「大空のサムライ」としての戦後

戦後は印刷会社を経営するかたわら、太平洋戦争や人生論に関した本を多数執筆した。それぞれの著書にゴーストライターが存在し、『坂井三郎空戦記録』は福林正之が、『SAMURAI!!』はフレッド・サイトウによるインタビューをもとに、マーチン・ケイディンが脚色して書いたもので、『大空のサムライ』は高城肇が書いている[28]。公認撃墜数は28機であり[29]、著書などにある撃墜数64機という数字はマーチン・ケイディンが宮本武蔵の真剣勝負の数から付けた数字である。神立尚紀の取材で、坂井は「実際に撃墜した数は六十四機よりうんと少ないかもしれないし、もっと多いかもしれない。」と把握していないことを述べている[30]。著書などにある出撃回数が200回というのも間違いである。加藤寛一郎の取材で坂井もそれを認めたが、「ただ、空戦回数は200回ぐらいあります。野球にたとえますと、一試合でバッターボックスには4回ぐらい立つ。だから空中戦も、ここで一球、こっちへ来てまたやってということで、なかなか回数と言うのは数えられない」と主張。この数字は少ないほうとの事で、「でも、それで(撃墜の)最高機数をマークされたわけですね」との質問に坂井は「だから(撃墜の)確率は非常に高かった」と主張している。坂井はその理由として「けっきょく相手がへぼだった」と返答している[31]

イラク政府軍では、戦意高揚の一つとして、マーチン・ケイディンの『SAMURAI!!』をアラビア語に翻訳してパイロットに必読を義務付けていた[32]。 著書が売れた事により、また娘の一人がアメリカ軍人と結婚したことにより、何度も渡米する機会を得た。

戦後に一度だけ、1987年7月ワシントン州シャトル市で、エクスペリメンタル機(手作りのプラスティック飛行機)でスタントを体験する機会を得た。老いたパイロットが今も飛行機を見事に操縦した事で賞賛を受けるも、坂井は戦争以来のGに胃袋が腹の底に伸びきったような感じがしたと言った[33]P-51ムスタングを操縦した時(一般人でも教官が同乗することで、訓練用の複座型であるTF-51の操縦桿を握ることができる体験飛行がある)は、感想としてその性能に脱帽したと言っている。

戦後、坂井は、元部下の内村健一が始めたねずみ講組織である天下一家の会に参加して、ほとんどの元下士官搭乗員を勧誘して被害を出すなど広告塔的存在となっていた。訴訟が相次ぎ、規制する法律は間に合わず、ねずみ講は社会問題化していたが、宗教法人が映画によって広報をする時代の中で、1976年(昭和51年)、坂井の『大空のサムライ』が天下一家の会の宗教法人「大観宮」(大観プロダクション)から資金提供を受けて制作された。零戦にねずみ講のイメージが付くことを嫌悪した元士官たちが「零戦搭乗員の会」を一度解散して、新たに「零戦搭乗員の会」を作る事態まで起こっている[34]。このことで坂井はますます居場所をなくしてしまった。

平成7~10年頃、アメリカでも本が売れたはずの坂井が米海軍に招待されることはなく、厚木や横須賀の米海軍では、ゼロファイターといえば志賀少佐であり、田中少尉であり、大原飛曹長だった。あるときから坂井も招待されるようになったのだが、始めのうちは、アメリカのパイロットたちはみんな大原に寄ってきて、坂井のことは「Who?」という感じで誰も知らない。大原も一生懸命先輩を立てようとしていた。しかし、2000年(平成12年)9月22日、坂井は米軍厚木基地の司令官交代式に招待されたときに倒れることになった[35]。帰途につく際、体調不良を訴えたため、大事をとっての検査入院中の同日夜に死去。享年84。検査中に主治医に配慮して、「もう眠っても良いか」と尋ねたのが最期の言葉となった。生前の行いのせいで、坂井の葬儀には、目と鼻の先に元パイロットが30名ほど集まる会合もあったのに、零戦乗りで来たのは4人だけだった[36]

坂井の戦術

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日中戦争での坂井

坂井は戦闘機乗りが最後の頼みとするのは自分だけであると言っている。格闘戦で一騎打ちをやる場合、徹底的な頑張りがなくてはいけない。必ず勝てるという信念で頑張りぬいた者が空中戦で敵に勝つ人で、辛いと思うときは互角かむしろ勝っている方が多い。その苦しい最後のとき、へばったものが落とされる運命であるという[37]

また、坂井は空中戦の鉄則はまず見張りであり、敵を発見したら自分は撃てるが相手は撃てない位置に潜り込め、空中戦は牧羊犬の動きと考えよと言っている[38]。格闘戦に入ったら自分の得意の技に引き込むごとく操縦せよ。相手の尾部が目に入ったらわれ勝てりだという。格闘戦とは自分が不利に立たされた最後の手だと思え、相手を動かさない据え物切りこそ空中戦の極意ともいう[39]。晩年に行われた加藤寛一郎の取材では、格闘戦とは窮地に入ったときの脱出法と心得よ、空戦は据え物斬りと心得よという点を強調していたという[40]。坂井は、目を鍛えたことで2万メートルから2万5千メートル先の敵が見えるようになったことが割と格闘戦をやらないで撃墜できた理由と主張している。ドッグファイトでは自分もピンチになることがあるので、圧倒的有利に立った奇襲一撃で先手を取るという[41]。著書には「左捻り込み」で撃墜する描写がみられるが、最晩年の坂井はただの一度も実戦では使ったことがないと主張している[42]。坂井は、死角であり、気づいてダイブする敵も翼を傾け背面になって絶好の標的になるとして後下方からの攻撃を好んだという[43]

坂井の著書には「昼間に星が見えた」とあるが、南の島で上を向いて頭を固定して、星座表で星の位置をあらかじめ確かめておき、午後二時から三時ごろ、五つか六つ星が見えるという意味であるという[44]。 また空戦空域に入った際の見張り方を「前を2、後ろを9」[45]の割合で索敵するとも言う。坂井は水平線より上の索敵を得意としていたという。

また、零戦の「長大な航続力」を遠隔地の敵を攻撃でき、また燃料切れを気にせず空中戦に集中できる事から高く評価する一方で、戦争末期に沖縄に行く特攻機の護衛が出来なかったのを悔やんでいたらしく、最晩年のインタビューでは、航続距離が短い局地戦闘機紫電改での直掩には懐疑的であった。しかし紫電改の防空力は零戦を凌駕しているとみとめている。ちなみに坂井三郎空戦記録の320ページに、「松山上空に日本の優秀な新鋭機が現れた」との米国側の報告書を引用する形で紹介し、紫電改を高く評価しており、評価は一定ではない。

戦後、坂井は、僚機の被撃墜記録がないと主張していた。しかし、1942年5月12日敵から被弾した小林民夫が帰還中に不時着、沈没している(小林は軽傷)[46]他、1944年6月24日敵艦上機邀撃戦闘で柏木美尾一飛曹、野口壽飛長が未帰還になっている[47]など、実際のところ、坂井の僚機は被撃墜され、失ってもいる。「僚機を殺したことがないこと」と言う坂井の自慢も、他の搭乗員からは「自慢するのではなく優秀な僚機を持った事に感謝すべき」と言う批判も聞かれる。事実、坂井の小隊は、飛行経験に恵まれた搭乗員も多く(緒戦の被害の大きい小隊と比較すると、その差は特に顕著である)、後の多数撃墜者に名前を上げられる者も多いのもその理由である。

また、坂井は、ただの一度も飛行機を壊したことがないと主張していた。しかし、1941年12月12日戦闘で被弾して不時着した際、機体を修理しなければならなくなる[48]など、実際のところは、機体を壊している。坂井は他にも低燃費航行にも長け、最小燃費の最高記録保持者と自負している。

零戦の最大の武器は20mm機銃という一説があるが、坂井は「20mmは初速が遅く、ションベン弾」と低い評価をしており、命中率が悪い上に携行弾数も7.7mmより少なく、弾倉に被弾したら機が四散するほどの誘爆を起す危険を指摘している。しかし「敵機の翼付け根に一発でも命中すれば、翼が真っ二つになった」ともいい、その威力に関しては評価もしている。自身のスコアのほとんどは機首の7.7mm機銃でのものだったと語っている[49]。 空戦に関しては「前縁いっぱいに一三ミリ砲の火を噴くアメリカ軍の戦闘機を羨ましく思った」と語る。

特攻作戦に赴く特攻隊員に対しては、「遅かれ早かれ我々も行かなきゃいかん。遅いか早いかだよ。ただし、どうせ行くんだから命中したいなぁ。それには俺の言うことを聞け。それには(角度を)絶対に深く行っちゃ駄目だよ」と声をかけて送り出していた[50]。戦後、坂井は、硫黄島で特攻を命じられたことについて(実際に命じられた記録はない)、特攻を名誉に思う反面、「なぜおれが」という気持ちがあったと語っている[51]。また、「特攻で士気があがったと大本営は発表したが大嘘。『絶対死ぬ』作戦で士気があがるわけがなく、士気は大きく下がった」とも答えている[52]

著作の評価

テンプレート:出典の明記 『大空のサムライ』はゴーストライター(当時の光人社社長)による聞き書きであり、それ以降の作品もやや感情的かつ記憶が不明瞭なこともあり、資料的価値が低いとする意見も存在する。 ちなみに光人社社長(当時。高城肇)との共著は「続々大空のサムライ 撃墜王との対話」が存在するが、これはゴーストライターの件には含まれない。

ゴーストライターの真意

「零戦の会」の副会長「神立尚紀」は、ゴーストライターの存在を明言している事で知られる。坂井とも親交の深い「武道通信」は「茶店の一服」にてゴーストライターの存在を明らかにしている。また戦史作家の「渡辺洋二」も坂井の作品にに対し懐疑的な人物としても有名である。渡辺洋二は、「大空の決戦」(羽切松雄著)の解説の中で、第2次世界大戦の航空戦史と飛行機に深い関心を持つ私が、零戦関係者の名をいくつも並べられるのは当然だ。しかし搭乗員名を関心の大きな順に語っていくとしたら、坂井三郎はずいぶん後回しになってしまう。今日にいたるまで坂井に取材したいと思ったことはないとも言っている。

ゴーストライターの存在が知られる一方で、生前、東京大学名誉教授の加藤寛一郎の取材で、「著書にはゴーストライターの存在が噂されるが、真実はいかに?」という問いに対し坂井氏は「当初はそれを考えていたが飛行に関する部分がどうしても我慢ならず、結局すべて自身で書き直した」と言い、「一言一句自分で書く」また「何度も何度も書き直す」と、答えている。但し、各エピソードの順番に関しては出版社の意見を聞くこともあるとも回答している(加藤寛一郎 『飛行の秘術のはなし』 講談社〈文庫〉、1999年、178頁)。

しかしゴーストライターを否定した結果、坂井本人のノンフィクション作品執筆に対する姿勢をも否定する結果になった(坂井の作品には多くのフィクションが含まれている)。

坂井には、「零の会」という出版関係者で組織された後援団体が存在する(会内では「坂井教」と呼ばれている)。坂井三郎のフィクションを含む事績宣伝活動を目的にして、坂井の死後も活動している[53]

周囲からの評判と対立

最晩年は太平洋戦争研究家を名乗り、日本海軍上層部の作戦計画や戦況判断に対する批判が多く見られる。しかし批判の根拠となる情報の大半は戦後になって得たものが基になっており、知識に関しても誤ったものが多い。

坂井は元上司が死んで反論できなくなるたびにイニシャルを使ってこきおろしたが、イニシャルが同じ別人まであらぬ詮索をされ、上手いやり方とは言えなかった。また人間には相性があるので、坂井が嫌っていた上官にも慕っている部下はおり、坂井が「敵」と名指しした士官より、味方であるはずの下士官兵搭乗員から多くの反感を買った[54]

彼の作品には戦史作家や当時の同僚である海軍航空隊搭乗員から「内容は眉唾物」「戦争を売り物にしている」といった批判的意見も寄せられている。坂井が海軍航空隊のエース(海軍にエースパイロットは存在しない)と言う世界的評価や戦争を活劇的に描写している批判である。また坂井の負傷による本土帰還後に最も壮絶な航空戦に突入したとして、坂井を評価しない意見もある。

『零戦の秘術』の著者である加藤寛一郎が航空自衛隊を取材した時、遠回しに「坂井三郎には近づきすぎない方がいい」という注意を受けたという[55]。航空自衛隊の士官あるいは幹部(空自のパイロットは全て幹部)は組織戦を好み、戦いを組織の戦いと考えているので、彼らから「自己宣伝をしすぎる」「宣伝が上手すぎる」「単なる職人」「自分のためだけに戦っていた」と見られる坂井は好印象を持たれていない。坂井より腕のいい戦闘機乗りはたくさんいたが坂井だけが有名になっていたと考えている人もいた。[56]。なお、「坂井は単なる職人」という批判を耳にした坂井は、「それこそが我々の誇りである。それによってのみ、我々は存在意義を示せるのだ。」と述べた[57]

逸話

大型輸送機を見逃す

坂井は53年目の真実と言って次のような話をしている。

1942年2月25日、オランダ領東インド(今のインドネシア共和国)・ジャワ島の敵基地への侵攻途中で発見した敵偵察機を攻撃するために味方編隊から離れた坂井は、偵察機撃墜後に侵攻する日本軍から逃れる軍人・民間人を満載したオランダ軍の大型輸送機ダグラスDC-4に遭遇したという。当時、当該エリアを飛行する敵国機(飛行機への攻撃は軍民・武装の有無は通常問わない)は撃墜する命令が出ていて、相手は鈍重な輸送機であり、容易に撃墜可能な相手ではあったが、坂井はこの機に敵の重要人物が乗っているのではないかと疑い、生け捕りにする事を考えたという。味方基地へ誘導するために輸送機の横に並んだ時、坂井は輸送機の窓に震え慄く母娘と思われる乗客たちが見えることに気づいて、それが青山学院中等部時代に英語を教え親切にしてくれたアメリカ人のマーチン夫人と似ており、さすがに闘志が萎えた坂井は、当該機を見逃す事に決めて、敵機のパイロットに行けと合図して逃がし、帰投後上官には「雲中に見失う」と報告したという。坂井によれば、以前の著書で、輸送機を捕虜にしようと威嚇射撃を行ったが、断雲を利用して全速で逃げられたと書いていた理由は、『坂井三郎空戦記録』の執筆に取りかかった昭和25年は、占領下でマッカーサー司令部が戦犯追及をしていたので、関わり合いになりたくないと思ったからだという[58]。機内から坂井機を見ていたオランダ人の元従軍看護婦が、「あのパイロットに会いたい」と赤十字等の団体を通じて照会した、あるいは坂井の著書を読んで知ったことで、2人は再会して、日時が一致し、互いの無事を喜び合ったとも言われる。

しかし、この話の傍証はなく、2月25日も坂井は輸送船団上空直衛についており、またその前後にもそのような出撃は存在しない[59]

空の要塞を初撃墜

戦後、坂井は、空の要塞と呼ばれ、難攻不落と恐れられたボーイングB-17爆撃機を日本が初撃墜した1941年12月10日の共同撃墜者の一人と主張していた。当時「空の要塞』は絶対に墜ちないという考えがあり、援護戦闘機もつけず単機フィリピンのビガン泊地の日本船団上空に現れたものであった。坂井は、墜落するまで機影を見届けずに「戦果未確認」と報告したと話して、AP通信社の東京支局長ラッセル・ブライアンから「あれは撃墜だった」と言われる会見の様子は「日本タイムス」や「スターアンド・ストライプス」に発表された。

しかし、坂井は当日出撃はしたが、当時の台南空・三空の資料に記載されている、B-17を攻撃した複数の搭乗員の中に坂井の名前はない。国内外の調べでも、坂井は共同撃墜には加わっていなかったことがわかっている[60]など、坂井の証言には嘘や誇張が数多く散見されるため信憑性は無い。

Microsoft Combat Flight Simulator 2

晩年には、マイクロソフトで発売された『Microsoft Combat Flight Simulator 2』(フライトシミュレータ)の日本側の考証を務めていた。完成の暁には、アメリカ軍側の考証を務めた元アメリカ軍パイロットとの空中戦も予定されていたが、完成を見る前に他界した。

その他

テンプレート:出典の明記 彼は搭乗員としては零戦・日本海軍航空隊の最盛期である開戦時からガダルカナルの戦いまで活躍したもの、その後はガダルカナルで負傷した目の問題も大きかったために零戦と日本海軍航空隊が凋落の傾向を色濃くしていった1943年後半以降の戦闘には硫黄島で経験した以外はほとんど参加経験はない。そのために戦争後半以後の仲間内の人間関係は決してよいものでは無かった。1943年後半以降の劣勢期に実戦参加経験がある若手搭乗員からは「厄介な古参」としてけむたがれていたとの証言が残されている。343空時代の元上官であった志賀淑雄によると、 彼が教官の任についていた第343海軍航空隊の撃墜王の一人の杉田庄一上飛曹とはそりが合わず、杉田の戦死まで志賀にとって心配のタネだったという。戦後にベストセラーとなった「大空のサムライ」を出版した時には志賀に「坂井が他の元搭乗員と問題を起こさなければいいが」と心配されたという。

戦後の「ゼロ戦」ブームは、ブームの元を作った坂井本人にも制御できないものとなっていった。とある元搭乗員はマスコミから「ラバルウの殺し屋」とレッテルを貼られ(貼ったほうとしては褒め言葉だったが)、不快感を露にした。坂井の著書に登場する人物も『ラバルウの貴公子・笹井醇一』(当時そう呼ばれた事実は無い)、『日本最強の撃墜王・西澤廣義』(坂井の著書が有名になった事からそのように評されたが、実際に撃墜数最多の搭乗員は岩本徹三と言われる)、『好青年でもっとも撃墜ペースの早かった太田敏夫』と、ひとりひとりにファンがつくまでになった。『祖父たちの零戦』の著者の神立尚紀の取材に対し、坂井はそれぞれについて、笹井は腕はまだまだだったが、人物は一流だった。西澤は文句無しに腕が良かった。太田は腕はそれほどでもなかった、とコメントしている。その太田の高い評価は坂井の著書が原因ではないかとの神立の指摘に、坂井は「まあね」と苦笑いしたという[61]

第343海軍航空隊の教官であった坂井は空戦講話をやったが、激戦を経験した若者には不評だった。いわゆる昔語りに過ぎず、暴力をたびたび振るったことも反感を買った[62]。特に坂井より8つ年下でありながら、坂井の撃墜数を超える杉田庄一は、坂井がいなくなった後もずっと勝ちぬいてきた誇りがあり、また後輩に対して面倒見の良い性格だったことから若年搭乗員達をことごとくジャク(未熟者)よばわりする坂井を嫌い、「坂井は敵がまだ弱かった頃しか知らない、坂井がいなくなった後の方が大変であった」と言って対立し、「あんなインチキなこと言うやつはぶん殴ってやる」と公言、折しも杉田が尊敬していた菅野直を坂井が「威勢がいいだけの使えない搭乗員」と発言したことが杉田の逆鱗に触れたこともあって一触即発の状態にまで発展したといわれる。飛行長の志賀は苦慮し、空戦に使える杉田を残し、坂井の経験を活かすため飛行実験を任務としてている横空へ武藤金義とのトレードの形で異動させる事にした[63]。横空は反発し、特に塚本祐造は、片目が見えない坂井と武藤の交換は割にあわない、横空は飛行実験だけが任務ではないとして、猛反発した。結局、野口毅次郎少尉を付けての2対1のトレードでまとまった[64]

坂井が『僚機を殺さなかった』ことを自慢話とすることに反発し、『よい僚機に恵まれたから生き残れたんじゃないか。せめてひと言感謝の言葉があればもっと尊敬されたのに・・・』と批判する証言が残されている。[65]

坂井は、若者について、向上心が足りず、だらしないと苦言を呈している[66]。『朝まで生テレビ』に坂井が出演した際、その場で現在の若者への苦言を期待された質問には、「自分の時代にも若いやつはだめだと言われ続けた」と答えて、スタジオ内で観覧していた若者から拍手が起きた。

生前は自宅の玄関から階段付近に鉄棒を渡し、ひまなときに懸垂やぶら下がりをしていた。70歳過ぎて悠々と懸垂を披露する姿に、多くの来客は驚嘆させられた。

当時の彼の愛車、スカイラインGTを引き合いに出され、「自動車と零戦はどっちがいいですか?」の質問に、「そりゃあ、車の方がよいに決まっています。車はバックができますから」[67]と答え、周囲を笑わせたこともある。晩年は「戦闘機のように見晴らしが良い」という理由でユーノス・ロードスターを愛車としていた。

戦記物の漫画を書いていたが売れずに困っていた水木しげるに「戦記物は勝たなければダメだ」とアドバイスを送っている。しかし、日本軍が優位だった時期に活躍し、劣勢期には負傷して退いていた坂井に対し、負けだしてから戦地に送られたため劣勢期しか知らない水木は、なかなかアドバイスどおりに漫画を描くことができず苦労したという。

1983年、アラバマ州空軍の航空200年祭に招待された坂井は、原爆投下の指揮・立案をしたポール・ティベッツが軍人として命令(原爆投下作戦)を遂行したことを賞讃し、坂井も原爆投下を命令されれば実行したと発言して、二人は握手した。この発言に被爆者たちからは非難の声が上がった。もっとも坂井は、原爆投下の道義的責任はハリー・S・トルーマン大統領にあると話してチペッツの個人的責任を追及しなかっただけで、原爆投下それ自体を問題無しとした訳ではない。

坂井は、雑誌誌上にて日本人を一億総寄生虫と言って「戦後の日本の物質的な繁栄はアメリカに寄生してきたおかげです。日本人の勤勉さがどうとか言いますが、これだけ繁栄することができたのは幸運の一語につきます。(中略)韓国が経済的に苦しかったとき、朴正煕大統領が日本に50億ドルの援助を依頼した。大統領はこう言ったそうです。「朝鮮戦争で我々韓国人が血を流して戦ったからいまの日本がある。50億ドルくらいなんだ」と。それはそうなんです。ベトナムでもいちばん勇ましかったのは韓国兵だった。戦死者が多かったのも韓国軍だ。日本は戦後、血も流さず、汗も流さず、何もせずにひたすら金もうけをしていた。(中略)日本はなにもせず経済発展に邁進した結果、アメリカの寄生虫になってしまった。その寄生虫がてんでに勝手なことを言っている。高校や大学でそういうことを教えないと、日本は危ういと思います。」と持論を展開している[68]

主な著作・考証

著作

  • 『坂井三郎空戦記録』
  • 『大空のサムライ』正・続・戦話
  • 『零戦の真実』
  • 『零戦の運命』
  • 『零戦の最後』
  • 『零戦の勇者』

TV

  • 『大空中戦の果てに』 - 原題:Dogfight Over: Guadalcanal

考証

脚注

テンプレート:Reflist

参考文献

  • 神立尚紀『祖父たちの零戦』(講談社、2010年) ISBN 978-4062163026
  • 加藤寛一郎『零戦の秘術』(講談社、1991年) ISBN 4062054639
  • 加藤寛一郎『知の頂点』(講談社、1998年) ISBN 4062093235
  • 坂井三郎『零戦の運命』(講談社、1994年) ISBN 4062071339
  • 坂井三郎『わが零戦の栄光と悲劇』(だいわ文庫、2007年) ISBN 4479301224
  • 郡義武『坂井三郎『大空のサムライ』研究読本』(光人社、2009年) ISBN 4769814429
  • 田埜哲文『爺言』(集英社、2002年) ISBN 4087803422
  • 『坂井三郎「写真 大空のサムライ」』(光人社、2008年)ISBN 4769813988
  • 松田十刻『撃墜王 坂井三郎 零戦に託したサムライ魂』(PHP文庫、2008年) ISBN 978-4569670522
  • 『零戦の秘術』p45
  • 『零戦の秘術』p46
  • 受験を上官に打ち明けたところ、主砲の砲手を外され、艦底で装薬や砲弾を扱う弾庫員に回される。それでもめげずに受験した
  • 『零戦の秘術』p91
  • 『零戦の秘術』p91~92
  • 『零戦の秘術』p58
  • 坂井・高城『大空のサムライ・完結篇―撃墜王との対話』p.96-p.97
  • 『坂井三郎『大空のサムライ』研究読本』p36
  • 坂井三郎『我が零戦の栄光と悲劇』p.59-p.63
  • 『零戦の秘術』p344
  • 『わが零戦の栄光と悲劇』p89~92
  • 『坂井三郎『大空のサムライ』研究読本』p145~156
  • まともに着陸操作ができる状態ではなかったため、降下角と進入速度のみをコントロールし、椰子の木と同じ高さに来た時、エンジンを足で切って惰性で着陸するという方法を取った。滑走路周回をあと1回行っていたら、燃料切れで墜落していたと言われるほどきわどいものであったという。丹羽文雄が著書「海戦」で重巡洋艦「鳥海」からびっくりするほど低空を飛行している零戦を目撃したと記しているが、これは日時が違うので坂井ではない。
  • 坂井三郎『我が零戦の栄光と悲劇』p.205
  • 坂井三郎『我が零戦の栄光と悲劇』p.212-p.214
  • 『零戦の秘術』p64
  • 坂井三郎『我が零戦の栄光と悲劇』p.218
  • アジア歴史資料センター横空戦闘詳報レファレンスコードC13120487500
  • 坂井三郎『我が零戦の栄光と悲劇』p.232-p.236
  • 坂井三郎著 「坂井三郎空戦記録(全)」改定版 1966年、出版共同社、272頁。
  • 『零戦の秘術』p335
  • 『零戦の秘術』p209
  • アジア歴史資料センター横空戦闘詳報レファレンスコードC13120487500
  • 坂井三郎著 「坂井三郎空戦記録(全)」改定版 1966年、出版共同社、290頁。
  • アジア歴史資料センター横空戦闘詳報レファレンスコードC13120487500
  • 『爺言』p42~43
  • 27.0 27.1 神立尚紀 『零戦 最後の証言〈2〉大空に戦ったゼロファイターたちの風貌
  • 『祖父たちの零戦』p315~325
  • 『坂井三郎『大空のサムライ』研究読本』p277
  • 『祖父たちの零戦』p321
  • 『零戦の秘術』p90~91
  • 毎日新聞 2004年8月17日付国際面記事
  • 『坂井三郎「写真 大空のサムライ」』p270
  • 『祖父たちの零戦』p339~344
  • 神立尚紀ブログ
  • 『祖父たちの零戦』p345~346
  • 坂井三郎『坂井三郎空戦記録上巻』p.201-p.202
  • 坂井三郎『坂井三郎空戦記録上巻』p.235
  • 坂井三郎『坂井三郎空戦記録上巻』p.239
  • 『零戦の秘術』p120
  • 『零戦の秘術』p97
  • 『零戦の秘術』p350
  • 『零戦の秘術』p131~132
  • 『知の頂点』p373
  • テンプレート:Cite web
  • アジア歴史資料センター台南空戦闘行動調書レファレンスコードC08051602800
  • アジア歴史資料センター横空戦闘詳報レファレンスコードC13120487500
  • アジア歴史資料センター台南空戦闘行動調書レファレンスコードC08051601300
  • 坂井の著作・『零戦の真実』『大空のサムライ』
  • 『零戦の秘術』p295
  • 『零戦の秘術』p289
  • 加藤寛一郎によるインタビュー『零戦の秘術』講談社文庫P.304
  • 『知られざる坂井三郎「大空のサムライ」の戦後』などに詳しい
  • 『祖父たちの零戦』p338
  • 『零戦の秘術』p327
  • 『零戦の秘術』p327~328
  • 『零戦の秘術』p328
  • 『零戦の運命』p434~437
  • アジア歴史資料センター台南空戦闘行動調書レファレンスコードC08051602100
  • 『坂井三郎『大空のサムライ』研究読本』p50~51
  • 『祖父たちの零戦』p333-334
  • 『祖父たちの零戦』p329~330
  • 『祖父たちの零戦』p330~331
  • 『祖父たちの零戦』p332
  • 「祖父たちの零戦」講談社 ISBN-978-4062163026より
  • 丸2001年1月号
  • この発言は単なるユーモアではなく、航空機が燃料が切れたら墜落するしかない、空中では停止できないといった真剣な内容を含んでいたとも言われる。
  • 歴史通2012年1月号別冊