紫電改
テンプレート:Infobox 航空機 「紫電」(しでん)、「紫電改」(しでんかい)は、第二次世界大戦期における大日本帝国海軍の戦闘機である。紫電の二一型以降が紫電改と呼称される。連合国側のコードネームは「George」。この項ではまとめて紹介する。
局地戦闘機紫電は、水上戦闘機「強風」を陸上戦闘機化したもので、紫電二一型は従来の紫電を低翼に再設計した機体であり、紫電改は新機軸の設計(自動空戦フラップ、層流翼)が特徴であった。
昭和19年4月7日内令兵第27号「航空機の名称」では「試製紫電改」は「試製紫電の機体改造及兵装強化せるもの」として定義づけられており、昭和20年4月11日海軍航空本部「海軍飛行機略符号一覧表」における二一型以降(紫電改)は、「試製紫電改(二一型)」「試製紫電改甲(二一型甲)」「試製紫電改一(三一型)」「試製紫電改二」「試製紫電改三(三一型)」「試製紫電改四」「試製紫電改五(二五型)」が該当する。
目次
性能
諸元
制式名称 | 紫電一一型 | 紫電二一型 |
---|---|---|
機体略号 | N1K1-J | N1K2-J |
全幅 | 11.99m | |
全長 | 8.885m | 9.376m |
全高 | 4.058m | 3.96m |
翼面積 | 23.5m² | |
翼面荷重 | 165.96 kg/m² | 161.70 kg/m² |
自重 | 2,897kg | 2,657kg |
正規全備重量 | 3,900kg | 3,800kg |
発動機 | 誉二一型(離昇1,990馬力) | |
最高速度 | 583km/h(高度5,900m) | 594km/h(高度5,600m) |
実用上昇限度 | 12,500m | 10,760m |
航続距離 | 1,432km(正規)/2,545km(過荷) | 1,715km(正規)/2,392km(過荷) |
武装 | 主翼下ポッド20mm機銃2挺(携行弾数各100発) 機首7.7mm機銃2挺(携行弾数各550発) |
翼内20mm機銃4挺 (携行弾数内側各200発、外側各250発)計900発 |
爆装 | 60kg爆弾4発、250kg爆弾2発 | |
生産機数 | 1,007機 | 415機 |
- 生産機数はそれぞれ一一型全体、二一型以降の数値。
名称
「紫電改」の名称は、兵器名称付与標準に基づき兵器採用前の試製機として「試製紫電改」とされたもので[1]、「仮称紫電二一型」とも称し、兵器採用により「紫電二一型」となった。
日本海軍の搭乗員からは「紫電」と「紫電改」の呼称の他に[2]、紫電が「J」、紫電改が「J改」と呼称されることもあった[2]。343空の戦時日記でも「紫電改」「紫電二一型」の両方の記述があり、呼称は統一されていなかった[3]。
また一般に紫電改は「shidenkai」とワンセンテンスで読まれることが多いがテンプレート:要出典、実際には「紫電(改)」なのであり、「shiden-kai」とツーセンテンスで、それぞれにアクセントをおいて読むのがふさわしい。テンプレート:要出典
連合軍側のコードネームは"George"。紫電改は正面から見ると低翼であることがわかるため、紫電一一型とは別機と認識され、さらに戦時中には情報不足から、疾風や零戦などの他機種と誤認報告されており、戦後になってから紫電がGeorge11[4]、紫電改がGeorge21と分類されて呼ばれた。
歴史
強風から紫電へ
1941年(昭和16年)末、川西航空機(以下、川西)は水上機の需要減少を見込み、川西龍三社長の下、次機種制作を討議した[5]。川西社内で二式大艇の陸上攻撃機化、新型艦上攻撃機開発、川西十五試水上戦闘機(「強風」)の陸上戦闘機化の三案を検討した結果、十五試水上戦機陸戦案が決まった[6]。川西の菊原静男設計技師は12月28日に海軍航空本部を訪れ、技術本部長多田力三少将に計画を提案。三菱で開発の進められていた局地戦闘機「雷電」と零戦の後継機「烈風」の開発遅延に悩んでいた日本海軍は[7]川西の提案を歓迎し[8]、その場で承認された[6]。しかし海軍技術者から陸上機製作の経験が浅い川西の技術力に対して疑問の声があがったため審議会が開かれ[6]、1942年4月15日に「仮称一号局地戦闘機」として試作許可を受けた[6]。
完成を急ぐため可能な限り強風の機体を流用することになっていたが、実際には発動機を「火星」から大馬力かつ小直径の「誉」へ換装したこと、尾輪を装備したことなどから、機首部の絞り込みや機体後部が大幅に変更されており、そのまま使用できたのは操縦席付近のみであった[6]。しかし主翼については、車輪収容部分を加えた他はほぼ原型のままで、翼型も航空研究所で開発されたLB翼型(層流翼)が強風より引き継がれている。自動空戦フラップも装備していたが、初期段階ではトラブルに見舞われた(後述)。
1942年(昭和17年)12月27日に試作一号機が完成し、12月31日に伊丹飛行場で初飛行を行ったが[9]、当初から「誉」の不調に悩まされた。川西は「紫電ではなくエンジンの実験だ」という不満を抱き[10][11]、志賀淑雄少佐(テストパイロット)も「完成していなかった『ル』(誉の略称)の幻を追って設計された」と述べている[12]。搭乗員の岩下邦夫大尉はエンジンの不調と共に紫電の操縦席に排気ガスが入ってきて苦労したという[13]。
紫電は「強風」の中翼形式を継承しており、主脚の寸法を長めに作らねばならなかった。そこで主脚に二段伸縮式の構造を採用した。[6][14][15]。試作型では主脚を縮めるのに1-2分かかり、後に20秒に改善された[16][17]。ブレーキの効きが左右で違うこともあり、ベテランパイロットであっても安心して着陸できなかった[18]。(脚部収納にかかる時間は、零戦12秒、紫電改9秒) また着陸時に油圧で二段式に縮めて格納する引き込み脚部のトラブルにより、343空戦闘301隊では1945年1月1日から8日にかけて、3日に1機の割合で脚部故障により紫電を失っている[18]。
これらに起因する離着陸時の事故の多発、前方視界不良、米軍新鋭機に対する速度不足などの問題は紫電につきまとった。計画では最高速度653.8km/hを出すはずだったが、実測値は高度5,000mで570.4km/hであった。上昇力は6,000mまで5分36s [4]、航続距離(増槽なし)全力30分+巡航(高度3,000m、360km/h)で2.8時間という性能だった[19]。速度低下の原因は、100オクタン燃料(有鉛)のかわりに92オクタン燃料を使用したこと、翼下面に20mm機銃をおさめたポッドを装着したことによる抵抗力の増大等が指摘される[19]。しかし試作機は、問題未解決のまま1943年(昭和18年)7月24日に軍に領収され、8月10日に「紫電一一型」として量産が命じられた[19]。これは、従来の海軍主力戦闘機である零戦では米英軍の新鋭戦闘機に太刀打ちできなくなってきたこと、ようやく完成した局地戦闘機雷電の実戦配備が遅れていたことが主な原因である[20]。だが、紫電の操縦参考書には「紫電は強風を急速に陸上戦闘機に改設計したものだから、計画と設計の不備により、改善の余地大なり」と記されていた[21]。
紫電11型の参戦
紫電は、第一航空艦隊で新編成される10個航空軍のうち4個(341空、343空、345空、361空)が紫電装備を予定するほどの期待を集めたが[22]、1944年1月に紫電を優先配備することが決まっていた第341海軍航空隊でさえ、零戦との交替は遅々として進まず、7月の時点でも編隊飛行訓練を九三式中間練習機で行っていた[23]。紫電の生産は遅れ、343空は零戦で戦い、345空、361空は紫電の供給もなく解隊された。
1944年8月から9月にかけて341空が台湾・高雄に進出し、10月にはウィリアム・ハルゼー提督率いる第38任務部隊を迎撃した。10月12日、紫電31機と米軍機60機が交戦し、米軍機撃墜10、紫電14機喪失という初陣であった[23]。10月15日まで台湾沖航空戦を戦った。11月、341空と201空はフィリピンに進出してレイテ沖海戦に参加する[23]。紫電は米軍新鋭機との空中戦、強行偵察[24]、米魚雷艇攻撃など多様な任務に投入され、機材と搭乗者双方の疲弊により消耗していった[25]。1945年1月7日、341空から特攻機・直掩機ともに紫電で編成された特攻隊が出撃した[26]。こうして341空は全装備紫電を失い[27]、フィリピンから台湾へ撤退した[28]。
宮崎勇は、零戦に比べて機銃の命中率が高く、高空性能・降下速度は優れていたが、鈍重で空戦性能は零戦より遥かに劣る「乗りにくい」戦闘機であったと評する[29]。341空飛行隊長だった岩本邦雄や201空搭乗員だった笠井智一は、紫電はF6Fには手も足も出なかったという[30]。初めて紫電を見た笠井は、紫電がF4Fワイルドキャットと酷似していたと証言。陸軍の誤射で撃墜された機体や、逆に米軍機を誤認させて接近し撃墜した例もあるという[31]。
紫電改の開発
紫電一一型は川西の設計陣にとっても満足できる戦闘機ではなく、紫電の試作機が飛行してから5日後の1943年(昭和18年)1月5日には、紫電を低翼化した「仮称一号局地戦闘機兵装強化第三案」の設計に着手した[32]。海軍は川西の計画を承認し、3月15日、正式に「仮称一号局地戦闘機改 N1K2-J」の試作を指示した[32]。12月31日、試作一号機が完成した。
この試作機は主翼配置を中翼から低翼とし、また胴体全体を「誉」の直径に合わせて絞り込んだことで離着陸時の前下方の視界も改善された[32]。胴体は400mm延長され、水平尾翼は400mm取り付け位置が下げられており、全長が460mm増大、重量が250kg増加したにも関わらず紫電に比べてスマートな印象となっている[33]。トラブルが多かった二段伸縮式主脚も、主翼の低翼化に伴って全長を短縮できたため、廃止された。同時に部品点数を紫電一一型の2/3に削減して、量産性を大幅に高めていた[32]。
試作機は主翼配置が中翼から低翼式に変更されたが、主翼の外形は強風・紫電一一型と同様であった[32]。また紫電一一型・一一型甲(N1K1-Ja)では20mm機銃2挺をガンポッドとして主翼下に外付けしていたが、紫電改では紫電一一型乙(N1K1-Jb)と同様、4挺とも翼内装備としている。また零戦が採用した「操縦索の剛性低下」と同様、低・高速度域における操舵感覚と舵の効きの平均化を可能とする腕比変更装置が導入された。
「強風」以来の自動空戦フラップも装備し、改良により実用性を高めた。当時、川西航空機検査部のテストパイロットだった岡安宗吉はこれを評価している。開発者である田中賀之[34]によれば、紫電のテストパイロットである志賀淑雄は空戦性能の向上を評価したという[35]。試作機や初期量産型紫電において自動空戦フラップのトラブルが続出した[10][35][36]。この初期欠陥は順次改修され、実戦に配備された紫電、紫電改において故障は皆無であった[37]。紫電改のテストパイロットをつとめて空母「信濃」に着艦した山本重久は、紫電では信頼できなかった自動空戦フラップだが紫電改では作動確実とし、1945年2月17日における紫電改での実戦でも有効に活用して米軍機を撃墜している[38]。笠井智一兵曹も、4月12日喜界島上空の戦闘で米軍機と格闘戦を行い、自動空戦フラップの絶大な効果を体感した[39]。
零戦の弱点であった防弾装備の欠如に関し、本機では、主翼や胴体内に搭載された燃料タンクは全て防弾タンク(外装式防漏タンク)であり、更に自動消火装置を装備して改善された。米軍の調査によると、燃料タンクにセルフシーリング機能は無かったとされるが[40]、2007年にオハイオ州デイトンにおいて復元のため分解された紫電二一型甲(5312号機)の燃料タンク外側に防弾ゴムと金属網、炭酸ガス噴射式自動消火装置が確認できる[41]。操縦席前方の防弾ガラスは装備されていたが、操縦席後方の防弾板は計画のみで実際には未装備だったとされている。笠井によれば、後部には厚さ10cmくらいの木の板しかなく、後方に不安を抱えていたという[42]。
1944年(昭和19年)1月、志賀淑雄少佐、古賀一中尉、増山兵曹らによって紫電改のテスト飛行が行われ、志賀は「紫電の欠陥が克服されて生まれ変わった」と高い評価を与えた[32]。また志賀が急降下テストを行った際には、計器速度796.4km/hを記録し、零戦に比べて頑丈な機体であることを証明[43]。最大速度は11.1~24.1km/h、上昇性能、航続距離も向上し、空戦フラップの作動も良好だった[43]。日本海軍は「改造ノ効果顕著ナリ」と判定し、4月4日に全力生産を指示する[43]。1944年度中に試作機をふくめて67機が生産された[43]。1945年(昭和20年)1月制式採用となり「紫電二一型(N1K2-J)紫電改」が誕生した。
そこで乙戦でありながらも甲戦としても使える紫電改を高く評価した海軍は開発中の新型機を差し置いて、本機を零戦後継の次期主力制空戦闘機として配備することを急ぎ決定。1944年3月には三菱に雷電と烈風の生産中止、紫電改の生産を指示した[44]。航空本部は19年度に紫電と紫電改合計で2,170機を発注、20年1月11日には11,800機という生産計画を立てた[44]。しかし空襲の影響で計画は破綻し、川西で406機、昭和飛行機2機、愛知2機、第21航空廠で1機、三菱で9機が生産されたに留まる[45]。 また、紫電改は強風を基に度々改造を重ねた機体故、性能的な陳腐化は零戦より早いと海軍は見込んでいた。実際に制式採用から僅か3,4ヶ月後の昭和20年5月頃には昭和21年以後を見越した次期主力機の開発が開始されていた。間に合わなかったものの、本機の更なる性能向上型の他に、凍結された陣風の試作再開などが検討されていた[46]。
本機は遠方から見るとF6F ヘルキャットとよく似ており、日本海軍パイロット自身が誤認しかけるほどだった[47]。味方から誤射されることもあり、1945年3月20日には戦艦大和 が哨戒飛行中の紫電改(笠井智一搭乗機)を誤射した[48]。陸軍機も紫電改を誤射することがあり、笠井は疾風(四式戦)4機に空戦を挑まれ、交戦直前で陸軍機側が気付いたという[49]。同士撃ちを避けるため、知覧町の陸軍基地に零戦五二型、紫電一一型、紫電改が出張して陸軍兵に実物を見せたことがある[50]。8月12日にも友軍地上砲火で3機が被弾、不時着している[51]。
1943年以降のF6FやF4U、P51ら連合軍新鋭機の登場によって急速に現実問題化した零戦の旧式化にも関わらず、零戦後継機として軍が本命視していた次期甲戦の烈風は1944年になっても試作途中段階に留まっており、量産配備はまだ先と見積もれていた。これに業を煮やした海軍は紫電の生産ラインを多少改変すれば生産可能であった本機を機体分類上は乙戦のまま、1944年4月の段階で零戦の後継機として選定し、生産を指示した。この決定の影響により、分類上は迎撃戦闘機である乙戦のままであったのに関わらず、実際の実戦では主な配備先の三四三空を始めとした部隊では零戦に代わる次世代『制空戦闘機』として運用されていく事になる。[52]
紫電改と同時期に開発され、同じ発動機を搭載する中島飛行機の四式戦闘機「疾風」(以下、四式戦と略)と、紫電改の最高速度をカタログスペック上で比較すると、紫電改の方が劣っている。紫電改の試作時における最高速度は335ノット(620.4km/h)[53]。水平全速で348ノット(644km/h)[54]であった。四式戦初期試作機の最高速度624~640km/h、さらに推力式単排気管に改造された四式戦の後期試作機は、初期試作機より10~15km/hほど速い。昭和20年1月付けの「試製紫電改操縦参考書」の記述によれば、紫電や紫電改の発動機である誉二一型は運転制限のため出力が定格より1割ほど低い状態であった[55]。当然、試作機の最高速度も運転制限下で記録された[56]。カタログスペック上、紫電改が四式戦に比べて30km/hほど遅いのは、四式戦のテスト時よりも誉の工作精度が落ち、燃料やオイルなども誉に適した物が使用できなくなったため、更に出力が低下していたためではないかと推定する者もいるテンプレート:誰。また川西航空機が小型機製造に慣れておらず、主翼の表面仕上げが荒くなっていたことから、設計時に想定されたより抵抗が増えていたことも原因の一つと考えられる[57]。
もっとも、同じエンジンを搭載し自重も同等とはいえ、翼面積は紫電系列が23.5平方メートル、四式戦は21平方メートルであり、紫電改のほうが大きな翼をつけている。翼面荷重(kg/平方m)/馬力荷重(kg/PS)は強風150/2.5、紫電改170/2.2、四式戦180/2.0、零戦21型107/2.5、零戦52型120/2.3、烈風143/2.8、F6F167/2.6、F8F197/2.0 [58]。この数値のみで判断すれば、紫電改は四式戦より空気抵抗が増える分やや遅く、かわりに揚力が大きくて旋回性能がよいということになる。山本重久テストパイロットは、横旋回では零戦に苦戦、縦旋回戦闘では零戦に対し断然優位、零戦2機を相手にしても互角に戦え、加速性能・急降下性能ふくめ零戦より優っていたと評価している[59]。
『The Illustrated Directory of Fighters』(Mike Spick著)P.218によると、N1K2-J(紫電改)は高度19,030フィート(5,800m)において最高速度416マイル(669km/h)、海面高度において最高速度358マイル(576km/h)、上昇率は高度20,014フィート(6,100m)まで6分6秒と性能が記載されている。これらの数値は連合軍による鹵獲機での試験データに基づく数値と注釈で触れられているが、元となった試験情報の出典など詳細は不明である。
1944年12月10日、速水経康大尉が搭乗する紫電改が、紫電6機(笠井智一ら)と共に、F-13(B-29偵察型)の迎撃に出動した[60]。これが紫電改の初陣とされる。1945年2月17日、硫黄島攻略戦の前哨戦として米軍艦載機が関東地区に侵入。指宿少佐指揮のもと、岩下邦雄大尉、羽切松雄少尉、武藤金義飛曹長の紫電改隊、空技廠から山本重久大尉、増山上飛曹、平林一飛曹が乗る試作紫電改が零戦48機、雷電、紫電11機と共に迎撃[61]。米軍機編隊を撃退した上で、岩下、羽切、山本、増久、平林が各1機、武藤が4機撃墜という戦果をあげ、紫電改隊は生還した[28]。零戦は11機、紫電は1機が失われた。
沖縄戦以降
テンプレート:Main 1944年12月源田実大佐(司令)の制空権奪還という構想によって松山基地で編成された第三四三航空隊(通称「剣」部隊)に紫電改が優先的に配備された。「紫電改」と腕の立つパイロットを組み合わせ、更に徹底的な改良が施された無線機(無線電話機)を活用した編隊空戦法により大きな戦果を挙げ[28]、太平洋戦争中盤の1943年後半以降、劣勢の度を濃くしていった日本海軍戦闘機隊に、アメリカ軍を中心とした連合国軍の最新鋭戦闘機と互角に戦える新鋭戦闘機として紫電改は本土防空の任務についた。紫電改の配備が遅れたため、そろわない分は紫電で代用していた。1945年3月19日343空は初陣で米艦上機160機に対し、紫電7機、紫電改56機で迎撃して、米軍機58機撃墜を報告した。日米双方に戦果誤認はあったが、日本最後の大戦果となった。343空の活躍で戦後は「遅すぎた零戦の後継機」として認知され、零戦、隼、疾風と並ぶ代表的な日本軍機として一般に認知される[62]。その経歴やネーミングから人気の高い機体である[62]。
五航艦の命令に従い、343空は紫電改で銀河・彗星等の特攻機の護衛任務に就いたが、もともと特攻戦は想定しておらず、紫電改の航続距離も不足しており[63]、奄美大島や喜界島付近にて特攻隊の前路哨戒の制空戦闘を実施した[64]。343空は通常の援護ではなく、紫電改で制空権を確保して突撃啓開することで経路を確保する戦法をとっていた[65]。
紫電は、沖縄戦で偵察十一飛行隊、偵察十二飛行隊に配備され、台湾から出撃した。ここでは制空任務だけでなく、強行偵察、戦果確認、索敵任務に投入された。本土防空戦にも数多くの紫電が参加した。5月29日は戦闘403飛行隊6機の紫電がB-29を迎撃して2機を撃墜、7月8日には16機の紫電が50機のB-29、250機のP-51マスタングを迎撃して4機を撃墜するなど[66]、劣勢ながら奮戦している。なお、1945年2月17日の米機動部隊艦載機との戦闘では、紫電に搭乗していた山崎卓(上飛曹)が横浜市杉田上空で落下傘降下。[67]。(なお、山崎は降下の後に暴徒化した市民によって殺害され、以降日本海軍ではパイロットに味方であることを示すため、飛行服及び飛行帽に日の丸を縫い付けることとなる)尾翼にカタカナのヨ-のマ-クをつけた紫電は横須賀航空隊に配備され終戦まで京浜地区の防空にあたる。
第三航空艦隊では、三四三空に配備されていた機体を除く全ての紫電改、紫電を集め、彩雲、百式司偵と共に爆装することで、米護衛戦闘機や対空砲火の高速突破による高い命中率(命中率25パーセント)を期待している[68]。もっとも紫電改の生産数が月70機を越えることはなく、計画は中止となった。
昭和20年10月16日に米軍に引き渡すための空輸の際[69]、米軍のハイオクガソリンを用いて全速で飛ぶ紫電改3機(志賀淑雄少佐、田中利男上飛曹、小野正盛上飛曹が示し合わせて実行。武装撤去、銃弾未搭載のため軽量)に、実弾を装備した監視役の6機のF4Uは置き去りにされそうになったという[70]。
紫電改で戦った搭乗員からの評価は高く、三上光雄は「軽戦に対する重戦でありながらも零戦の塁を摩する」「零戦は軽戦、紫電改は重戦と言うべく十分使えた」、磯崎千利、松場秋夫は「零戦同様に使えた」と評し、磯崎は最大の欠点として高速ダイブ中の戻りに対する強度不足を挙げている[71]。笠井智一、佐藤精一郎は失速性その他に注意しながらも紫電改で戦えたことを最高の誇りとし、20ミリ4銃の威力と包路線型フラップの効用を評価した[72]。岩下邦雄や笠井智一はF6Fと互角に戦える素晴らしい機体として歓迎した[73]。笠井によれば、紫電改にとって最も手強かった米軍戦闘機はF6Fで[74]、紫電と紫電改には雲泥の差があり、紫電改配備後の訓練搭乗機に紫電を指定されると、全員が気落ちしたという[75]。 本田稔は、当時の若年搭乗員で12機編隊着陸が一様にできた操縦性、腕比利用による高低速両用の操縦性を評価し、戦後の三菱テストパイロットとしての外遊資料から大戦末期における双璧は紫電改とP51であると述べている[76]。 紫電改のテストパイロットだった志賀淑雄は紫電改は猪のように何にでも食いついていけるおてんば娘で使える機体だと思ったという[77]。当機での実戦経験はないが教育に関わった坂井三郎は、航続力がない点からみれば九六艦戦時代に逆戻りした感があるが、極めて斬新な設計(空戦フラップ)が施された優秀な戦闘機と評していた[78]。しかし、晩年には「制空戦闘機とも局地戦闘機ともいえない中途半端な戦闘機」と評して批判的になった[79]。坂井は、343空に教官として着任した際に『局地戦闘機 紫電一一型空中使用標準参考』を制作したとして、空戦フラップを「旋回性能は良くなるが、作動の面で信頼性に欠けた」「舵が効きすぎた時の修正が難しい」など批判するが、「水銀の表面が酸化して導通が悪くなり、油圧機が誤作動する(水銀は常温で酸化しない)」などの非科学的な内容を含んでいる[80]。
米技術雑誌『ポピュラーメカニック』では、米空軍の試験で紫電改のマグネットを米製に替え、100オクタン燃料を使って空軍で飛行した結果、速力はどの米戦闘機にも劣らず、機銃威力は一番強いと紹介された[81]。 ピエール・クロステルマンの著書「空戦」では、紫電改が高度6,000mでP51マスタング44年型と同程度のスピードを発揮したことからマスタング44年型のカタログスペックを基準とした最高速度時速680km説を採用しており、当時の連合軍の空軍関係者はその程度の速度と認識していた。また、川西航空機設計課長だった菊原静男によれば、昭和26年に来日した米空軍将校団の中にアメリカで紫電改をテストした中佐がおり「ライトフィールドで紫電改に乗って、米空軍の戦闘機と空戦演習をやってみた。どの米戦闘機も紫電改に勝てなかった。ともかくこの飛行機は、戦場ではうるさい存在であった」と評したという[82]。
スミソニアン博物館に展示されている紫電改の説明文に「太平洋で使われた万能戦闘機のひとつである」とされながらも「B-29に対する有効な邀撃機としては高高度性能が不十分であった」と書かれているように、局地戦闘機としては高高度性能が優れているとは言えなかった[83]。これは日本機に共通する欠点で、排気タービン過給器(ターボチャージャー)や二段式機械過給機(スーパーチャージャー)を実用化できなかったためである。なお、この紫電改の高高度性能不足の対策として、一時は生産中止されそうになった雷電の生産促進がなされている。主力戦闘機として大生産計画が立てられたものの、実戦配備がB-29による本土爆撃が本格化した昭和19年末であったこともあって紫電改の生産数は約400機に留まり、「大東亜決戦機」として3,000機以上生産され、文字通り大戦末期における陸軍の主力戦闘機となった四式戦とは対照的と評価されることがある[84]。近藤芳夫(疾風開発者)は「疾風は一撃離脱のキ44(鐘馗)が原点。紫電改は空中格闘戦に拘っていた」と述べている[58]。
英国のブランドフォード社の『原色航空機百科』(K.マンソン著)[85]では「太平洋戦線に出現した日本機中、最もすばらしいもののひとつであった」と高く評価されている。
派生型
紫電
- 仮称一号局地戦闘機/紫電一一型(N1K1-J)
- 発動機を火星一三型から誉二一型に換装した陸上戦闘機型の極初期型。武装は翼下のガンポッドに20mm機銃2挺、胴体7.7mm機銃2挺。
- 紫電一一型甲(N1K1-Ja)
- 胴体の7.7mm機銃を廃止し、翼内20mm機銃2挺を追加した武装強化型。
- 紫電一一型乙(N1K1-Jb)
- 翼下ガンポッド内の20mm機銃を廃止して翼内に20mm機銃4挺を内蔵した型。増速用火薬ロケット6本装着の機体存在。
- 紫電一一型丙(N1K1-Jc)
- 一一型乙の爆装を、60kg爆弾4発または250kg爆弾2発に強化した型。試作のみ。
紫電改
- 仮称一号局地戦闘機改/紫電二一型(N1K2-J)
- 紫電改の最初の量産型で99機生産[44]された。51号機以降は20mm機銃の取り付け角度を3度上向きに変更。爆弾投下は手動式。
- 紫電二一型甲(N1K2-Ja)
- 二一型の爆装を60kg爆弾4発または250kg爆弾2発に強化した型。垂直安定板前縁を削り、面積を13%減積した。テストパイロットを務めた山本重久少佐によると、操縦性と安定性のバランスが改善された。生産機101~200号機[44]。
- 試製紫電三一型(N1K3-J)
- 試製紫電改一。爆弾投下器を電気投下式に改良。発動機架を前方に150mm延長し、機首に三式十三粍機銃一型2挺を追加した武装強化型[44]。生産201号機以降で、1945年2月に少数が生産[44]。
- 試製紫電改二(N1K3-A)
- 試製紫電三一型に着艦フック、尾部の補強などの改造を施した艦上戦闘機型。試作2機。1944年11月12日、山本久重少佐の操縦で東京湾で行われた航空母艦信濃での着艦実験に参加[44][86]。
- 試製紫電三二型(N1K4-J)
- 試製紫電改三。三一型の発動機を低圧燃料噴射装置付きの誉二三型(NK9H-S ハ四五-二三型)に変更した型。鳴尾517、520号機のみ[44]。
- 試製紫電改四(N1K4-A)
- 試製紫電改三(試製紫電三二型)に着艦フックなどを追加した艦上戦闘機型[44]。試作機が製作されたかは不明。
- 試製紫電改五(N1K5-J)
- 二一型甲の発動機を次機艦上戦闘機となるはずであった「烈風」と同じハ四三-一一型(離昇2,200馬力)に変更した型[44]。13mm機銃は廃止され、機首の形状が変わった。完成直前に工場被爆によりテスト飛行中止[44]。二五型、もしくは五三型とも表記される[87]。
- 仮称紫電性能向上型
- 発動機を二段三速過給器付きの誉四四型(ハ四五-四四型)に換装した航空性能向上型。計画のみ[44]。
- 仮称紫電練習戦闘機型(N1K2-K)
- 二一型を複座とし練習機としたもの。胴体は延長されておらず、速力若干低下[44]。小数機生産。
- 紫電改鋼製型
- 紫電改を鋼製化したタイプで、計画のみ。重量が増大するため、翼端延長の予定[44]。
現存する機体
紫電
紫電は試験の為に数機が米国に輸送されたが、現存機は存在しないとされる。紫電改は3機が米国に輸送され[88]、スミソニアン博物館の国立航空宇宙博物館[89]、ペンサコーラ米海軍航空基地内国立海軍航空博物館[90]、ライト・パターソン空軍基地内アメリカ空軍博物館[91][92]に展示されている。各機番詳細は下記参照。
紫電改
1978年11月、愛媛県南宇和郡城辺町(現・南宇和郡愛南町)久良湾の海底で1機の紫電改が発見され、翌1979年7月に引き揚げられた[93][94]。この機体は、1945年7月24日に約200機のアメリカ軍を迎え撃つために発進した、日本軍約20機のうちの1機である[93][95]。着水した機体としては機首部分を除き損傷のない状態で発見されているので[96]、パイロットは戦闘中に機体の不調によって着水を決意し、波の静かな久良湾に見事な操縦で着水を成功させたものの、機体もろとも水没してしまったと推定される[97]。 豊後水道上空で交戦した三四三航空隊の未帰還機6機の内の1機であり、戦闘301隊の所属機体とされる[98]。フットバーの位置が一番手前にあることから搭乗者の身長は低く、「空の宮本武蔵」と言われた武藤金義中尉(戦死後昇進)機もしくは米田伸也上飛曹機の可能性があるが決定的証拠はなく[99]、特定には至っていない。武藤夫人は未帰還パイロット6名共通の遺品とすべきと述べている[93]。引き上げ時、操縦席に遺骨はなかった[100]。この紫電改が沈没した7月24日、附近の横島で20歳前後の日本軍搭乗員の遺体が回収されたが、関連性は不明である[101]。
引き上げには不発弾を懸念する宿毛海上保安部から懸念が寄せられたが、当時は参議院議員となっていた源田実元大佐・343司令が各方面に交渉し、また愛媛県議会も回収予算捻出を決定したことで回収が可能となった[102]。この機体は回収後に、遺族の意思により引き揚げ時の原型を維持する程度に補修・塗装され、日本国内で現存する唯一の実機として愛南町にある南レク馬瀬山公園の紫電改展示館に保存・展示されている[93]。
また、アメリカには、接収された紫電改が3機存在する。川西5341号機はスミソニアン博物館の国立航空宇宙博物館 [103]、川西5128号機が国立海軍航空博物館(ペンサコーラ米海軍航空基地内)[104]、川西5312号機が米空軍博物館(ライト・パターソン空軍基地)[91]に展示されている。5312号機のレストアは2009年春に完了し、現在展示中[105]。
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登場作品
- その他映像
- NHK特集 『紫電改』 (1979年)
脚注
参考文献
- アジア歴史資料センター(公式)(国立公文書館)
- Ref.A03032263000「試製紫電改 仮取扱説明書」壱
- Ref.A03032263100「試製紫電改 仮取扱説明書」弐
- Ref.A03032263200「試製紫電改 仮取扱説明書」参
- 『テンプレート:Small マニュアル特集・紫電/紫電改』(潮出版、1980年)
- 『テンプレート:Small 特集・「紫電」と「紫電改」』(文林堂、1985年)
- 碇義朗『紫電改の六機 テンプレート:Small』
- (光人社、1987年) ISBN 4-7698-0351-6
- (光人社NF文庫、2004年) ISBN 4-7698-2283-9
- 雑誌「丸」編集部 編『テンプレート:Small 紫電・紫電改/九四水偵』
- (光人社保存版、1992年) ISBN 4-7698-0631-0
- (光人社ハンディ判、1999年) ISBN 4-7698-0910-7
- 宮崎勇『還って来た紫電改 テンプレート:Small』(光人社、1993年) ISBN 4-7698-0651-5
- 碇 義朗『最後の戦闘機 紫電改 テンプレート:Small』
- (光人社、1994年) ISBN 4-7698-0671-X
- (光人社NF文庫、2006年) ISBN 4-7698-2519-6
- 『テンプレート:Small 強風、紫電、紫電改』(文林堂、1995年) ISBN 4-89319-050-4
- 野原 茂『テンプレート:Small 川西局地戦闘機「紫電改」』(大日本絵画、1999年) ISBN 4-499-22711-9
- 『テンプレート:Small 局地戦闘機紫電改 海軍航空の終焉を飾った傑作機の生涯』(学習研究社、2000年) ISBN 4-05-602064-7
- 野原 茂『日本海軍戦闘機 強風 紫電 紫電改』(モデルアート社2001年6月号臨時増刊、No.587)
- ヘンリー・サカイダ&高木晃治『源田の剣 第三四三海軍航空隊 テンプレート:Small』(ネコパブリッシング、2003年)ISBN 4-7770-5007-6
- 松葉稔 作図・解説『テンプレート:Small 精密図面を読む9 テンプレート:Small』(酣燈社、2005年) ISBN 4-87357-158-8 p86~p109
- 『テンプレート:Small 強風、紫電、紫電改』(文林堂、2008年) ISBN 978-4-89319-158-8
- 雑誌「丸」編集部 編『最強戦闘機紫電改 テンプレート:Small』(光人社、2010)ISBN 978-4-7698-1456-6
外部リンク
- 試製紫電改 仮取扱説明書 (国立公文書館 アジア歴史資料センター)
関連項目
- 航空 — 航空機 — 軍用機 — 戦闘機 — 戦闘機一覧
- 航空機メーカーの一覧 — 川西航空機
- 日本製航空機の一覧
- 日本の鉄道事故 (1949年以前)#北条線列車脱線転覆事故
- ↑ 壱「試製紫電改 仮取扱説明書」pp.9
- ↑ 2.0 2.1 『最強戦闘機紫電改』160頁。笠井智一海軍上飛曹(343空)と岩下邦雄海軍大尉(横須賀航空隊)の対談より。"J"と"J改"は笠井。岩下は"紫電"と"紫電改"。
- ↑ 『最強戦闘機紫電改』114頁「『紫電改』は何とよばれたか」
- ↑ 4.0 4.1 TAIC Evaluation "George 11" March 1945
- ↑ 『世界の傑作機No.124 強風、紫電、紫電改』36頁、碇義朗『最後の戦闘機紫電改』44-45頁
- ↑ 6.0 6.1 6.2 6.3 6.4 6.5 『世界の傑作機No.124 強風、紫電、紫電改』37頁
- ↑ 碇義郎『最後の戦闘機紫電改』85-86頁「試作計画混乱のしわよせ」
- ↑ 『世界の傑作機No.124 強風、紫電、紫電改』37、74頁
- ↑ 碇義郎『最後の戦闘機紫電改』76頁
- ↑ 10.0 10.1 『最強戦闘機紫電改』107-108頁。菊原静男(元川西設計課長)「最強戦闘機の生涯」
- ↑ 碇義郎『最後の戦闘機紫電改』100頁
- ↑ 碇義郎『最後の戦闘機紫電改』142頁
- ↑ 『最強戦闘機紫電改』160頁
- ↑ 『世界の傑作機No.124 強風、紫電、紫電改』75頁「あまりに拙速だった『紫電』(N1K1-K)」
- ↑ 碇義郎『最後の戦闘機紫電改』94頁「事故が頻発した『紫電』のテスト」
- ↑ 『世界の傑作機No.124 強風、紫電、紫電改』75頁
- ↑ 『最強戦闘機紫電改』160頁
- ↑ 18.0 18.1 碇『紫電改の六機』278-279頁「精鋭三四三空」
- ↑ 19.0 19.1 19.2 『世界の傑作機No.124 強風、紫電、紫電改』38頁
- ↑ 碇義朗『最後の戦闘機紫電改』141頁
- ↑ 『世界の傑作機No.124 強風、紫電、紫電改』77頁
- ↑ 『世界の傑作機No.124 強風、紫電、紫電改』62頁
- ↑ 23.0 23.1 23.2 『世界の傑作機No.124 強風、紫電、紫電改』63頁
- ↑ 碇義朗『最後の戦闘機紫電改』216-218頁「紫電偵察隊の活躍」
- ↑ 碇義朗『最後の戦闘機紫電改』213頁
- ↑ 碇義朗『最後の戦闘機紫電改』218-220頁「特攻出撃した紫電隊」
- ↑ 『最強戦闘機紫電改』145頁
- ↑ 28.0 28.1 28.2 『世界の傑作機No.124 強風、紫電、紫電改』64頁
- ↑ 宮崎勇『還って来た紫電改 テンプレート:Small』157頁
- ↑ 『最強戦闘機紫電改』161頁。岩下邦雄(341航空隊401飛行隊長)、笠井智一(201空)
- ↑ 碇義朗『最後の戦闘機紫電改』218頁
- ↑ 32.0 32.1 32.2 32.3 32.4 32.5 『世界の傑作機No.124 強風、紫電、紫電改』40頁
- ↑ 『世界の傑作機No.124 強風、紫電、紫電改』78頁
- ↑ 『世界の傑作機No.124 強風、紫電、紫電改』田中賀之「自動空戦フラップ操作装置開発の記」81-85頁
- ↑ 35.0 35.1 『世界の傑作機No.124 強風、紫電、紫電改』84頁
- ↑ 碇義郎『最後の戦闘機紫電改』145-147頁
- ↑ 『世界の傑作機No.124 強風、紫電、紫電改』85頁。田中は台湾やフィリピン前線に出張して調査。
- ↑ 『最強戦闘機紫電改』136-137頁
- ↑ 『最強戦闘機紫電改』167頁
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- ↑ 丸1月別冊『蘇る海鷲 最強戦闘機「紫電改」』13頁
- ↑ 『最強戦闘機紫電改』169頁
- ↑ 43.0 43.1 43.2 43.3 『世界の傑作機No.124 強風、紫電、紫電改』41頁
- ↑ 44.00 44.01 44.02 44.03 44.04 44.05 44.06 44.07 44.08 44.09 44.10 44.11 44.12 44.13 『世界の傑作機No.124 強風、紫電、紫電改』42頁
- ↑ 『世界の傑作機No.124 強風、紫電、紫電改』42-43頁
- ↑ 決定版 局地戦闘機 (歴史群像シリーズ 太平洋戦史スペシャル9)ISBN-978-4056063288 内の陣風の項目ページより
- ↑ 宮崎勇『還って来た紫電改 紫電改戦闘機隊物語』181頁
- ↑ 宮崎勇『還って来た紫電改 テンプレート:Small』181-182頁、『最強戦闘機紫電改』166頁
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- ↑ 宮崎勇『還って来た紫電改 テンプレート:Small』216-217頁
- ↑ 決定版 局地戦闘機 (歴史群像シリーズ 太平洋戦史スペシャル9)ISBN-978-4056063288 紫電改の項目より
- ↑ 『最強戦闘機紫電改』116頁
- ↑ 『最強戦闘機紫電改』138頁
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- ↑ 『最強戦闘機紫電改』117頁。古峯文三「決戦戦闘機『J改』完成への軌跡」
- ↑ 碇義郎『最後の戦闘機紫電改』125頁
- ↑ 58.0 58.1 『世界の傑作機No.124 強風、紫電、紫電改』71頁
- ↑ 『最強戦闘機紫電改』138頁 山本久重「紫電改操縦法」。
- ↑ 『最強戦闘機紫電改』164頁
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- ↑ 62.0 62.1 『最強戦闘機紫電改』182頁。前野秀俊「戦後デビューした“アイドル”戦闘機」
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- ↑ 源田実『海軍航空隊始末記』 三四三空最後の勇戦 p333、碇『紫電改の六機』312-322頁「散り行く勇者」。
- ↑ ヘンリー境田『源田の剣』ネコパブリッシング212頁
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- ↑ 『最強戦闘機紫電改』57頁
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- ↑ 海空会『海鷲の航跡』134-135頁
- ↑ 海空会『海鷲の航跡』134頁
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- ↑ 『最強戦闘機紫電改』164頁
- ↑ 海空会『海鷲の航跡』134頁
- ↑ 神立尚紀『零戦 最後の証言』光人社NF文庫 55頁
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- ↑ 世良光弘『坂井三郎の零戦操縦』170頁
- ↑ 世良光弘『坂井三郎の零戦操縦』174-177頁
- ↑ 『最強戦闘機紫電改』108頁
- ↑ 『最強戦闘機紫電改』110頁。菊原静男、元川西航空機設計課長談。
- ↑ 碇義朗『最後の戦闘機紫電改』269-270頁
- ↑ 『世界の傑作機No.124 強風、紫電、紫電改』80頁
- ↑ 日本語版=1970年鶴書房刊--湯浅謙三訳・野沢正監修『第2次大戦戦闘機』
- ↑ 『最強戦闘機紫電改』136-137頁
- ↑ 『最強戦闘機紫電改』118頁
- ↑ 碇義朗『最後の戦闘機紫電改』265頁
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- ↑ 『最強戦闘機紫電改』10頁
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- ↑ 碇『紫電改の六機』45頁「紫電改浮上」
- ↑ 碇『紫電改の六機』11頁「真夏の空中戦」
- ↑ 碇『紫電改の六機』46、50頁
- ↑ 宮崎勇『還って来た紫電改 テンプレート:Small』206頁
- ↑ 碇『紫電改の六機』363頁
- ↑ 碇『紫電改の六機』364頁
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- ↑ 碇『紫電改の六機』53頁
- ↑ 碇『紫電改の六機』48頁
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- ↑ 『世界の傑作機No.124 強風、紫電、紫電改』26頁、『最強戦闘機紫電改』16頁
- ↑ 『最強戦闘機紫電改』10頁