シベリア抑留
シベリア抑留(シベリアよくりゅう)は、終戦後武装解除され投降した日本軍捕虜らが、ソ連によっておもにシベリアに労働力として移送隔離され、長期にわたる抑留生活と奴隷的強制労働により多数の人的被害を生じたことに対する日本側の呼称。
一般的には「シベリア抑留」という言葉が定着しているが、実際には現在でいうモンゴルや中央アジア、北朝鮮、カフカス地方、バルト三国などソ連の勢力圏全域や中華人民共和国に送り込まれていた。現在でも、それらの地域には抑留者が建設した建築物が残存している。彼らの墓地も各地に存在するが、現存するものは極めて少ない。
厳寒環境下で満足な食事や休養も与えられず、苛烈な労働を強要させられたことにより、多くの抑留者が死亡した。このソ連の行為は、武装解除した日本兵の家庭への復帰を保証したポツダム宣言に背くものであった。ロシアのエリツィン大統領は1993年10月に訪日した際、「非人間的な行為に対して謝罪の意を表する」と表明した[1]。
目次
背景
テンプレート:See also 旧ロシア帝国時代から囚人の強制労働が行われてきたが、ソビエト連邦では1920年後半頃から政治犯などの囚人の労働力が注目され、囚人による過酷な強制労働がより行われるようになった。また当時のソ連では重労働を伴う分野での労働力不足が深刻であり、むしろ労働力確保を目的として囚人を確保する側面もあったテンプレート:Sfn。スターリン体制下(テンプレート:仮リンク)の1930年代以降は強制収容所(ラーゲリ)の数が爆発的に増加し、強制労働の対象となる囚人も増加した。初期の労働環境は非常に劣悪であり、白海・バルト海運河建設などに動員された白海・バルト海強制労働収容所では1932年から1941年にかけての10年間で3万人近い死亡者を出し、死亡率が最も高い1934年には囚人の10.56%が死亡したテンプレート:Sfn。
スターリンの捕虜観をあらわすエピソードとして、ポツダム会談でウィンストン・チャーチルが炭鉱労働者不足を嘆いた際に「ドイツの捕虜を使えばいい。わが国ではそうしている」と答え、4万人のドイツ人捕虜を本国に移送することをすすめたテンプレート:Sfnテンプレート:Sfn。スターリンは捕虜を労働力としてしか見ておらず、人道的な扱いは望むべくもなかった。第二次世界大戦勃発後、ソ連が獲得した外国人捕虜は当然のごとく強制労働の対象となった。また、ヤルタ会談ではかつてドイツが賠償支払いのための外貨を市場で調達したため、世界的な貿易不均衡を生み出した問題(トランスファー問題)を回避するため、賠償は外貨や正貨支払いではなく、役務や現物による支払いで行われることが合意された[2]。この役務賠償の考え方は、捕虜の強制労働を正当化する理由ともなった。ソ連は1929年のジュネーヴ条約に加わっていなかったため、1931年以降独自規定として戦時捕虜の人道的な扱いを定めていたが、実際にはほとんど守られなかった。ポーランド侵攻以降獲得した各国人捕虜は389万9397人におよび、1949年1月1日の段階で56万9115人が死亡し、54万2576人が未帰還のまま抑留されているテンプレート:Sfn。これらの捕虜の多くは内務人民委員部等の各省庁に貸し出され、その監督下で使役された。特にドイツ人の死亡率は高く、スターリングラード攻防戦での捕虜6万人のうち、帰還できたのはわずか5千人であったテンプレート:Sfn。
経緯
ソ連軍侵攻と停戦
第二次世界大戦末期の1945年8月9日未明、ソ連は日本に対して、日ソ中立条約を破棄して宣戦布告をし、満ソ国境に展開する174万人のソ連極東軍に命じて、満州帝国・日本領朝鮮半島北部に軍事侵攻した(ソ連対日参戦)。8月10日には、モンゴル人民共和国も日本に対して宣戦布告した。日本は8月14日に中立国を通して降伏を声明したが、ソ連は8月16日には日本領南樺太へ、8月18日に千島列島へも侵攻して占領した。樺太では直後に、千島の占守島では8月22日に、日本から停戦命令が下り、降伏した。
これらの行動は、ソ連・アメリカ・イギリスのヤルタ会談に基づくものであった。当時非公開であったヤルタ秘密協定では、ソ連に対して対日参戦の見返りとして日本からの南樺太の返還とクリル諸島の引き渡し、満州においては旅順の租借権の回復および大連港や中東鉄道・南満州鉄道に対する優先的権利の認定が記されていた[3]。
日本がポツダム宣言を受諾したのち、8月16日には大本営から即時停戦命令が出たため、関東軍総司令部は停戦と降伏を決定した。8月17日に派遣された皇族・竹田宮恒徳王が新京に到着し、8月18日には満州帝国が滅亡したため、関東軍総司令官山田乙三大将とソ連極東軍司令官アレクサンドル・ヴァシレフスキー元帥は8月19日に東部満ソ国境ハンカ湖の近くで停戦交渉に入り、8月26日頃にはソ連軍とのすべての戦闘が終わった。満州では停戦会談によって、武装解除後の在留民間人保護について、一応の成立を見たが、ソ連軍がその通りに行うことはなかった。日本軍崩壊後の民間人は何の保護も得られず、多くの被害が出た。また捕虜の扱いについては一切言及されなかったテンプレート:Sfn。
抑留の決定
スターリンは8月16日には日本人を捕虜として用いないという命令を内務人民委員ラヴレンチー・ベリヤに下していたが、8月23日にはこれを翻し、「国家防衛委員会決定 No.9898」に基づき、日本軍捕虜50万人のソ連内の捕虜収容所へ移送し、強制労働を行わせる命令を下したテンプレート:Sfn。スターリンの抑留方針決定をめぐってはさまざまな説が唱えられている。
関東軍密約説
8月26日に関東軍総司令部は「軍人、満州に生業や家庭を有するもの、希望者は、貴軍の経営に協力させ、そのほかは逐次内地に帰還させてほしい。帰還までは極力貴軍の経営に協力するよう使っていただきたい」という内容の「ワシレフスキー元帥ニ対スル報告」を作成した。この報告書は関東軍参謀・草地貞吾の述懐によると、草地が関東軍総司令官・山田乙三と関東軍総参謀長・秦彦三郎の決定を受けて作成しソ連側に送付したものだというテンプレート:Sfn。また同日には「大陸方面二於テハ在留邦人及武裝解除後ノ軍人ハ『ソ』聯 ノ庇護下二滿鮮二土著セシメテ生活ヲ營ム如ク『ソ』聯側二依賴スルヲ可トス」ことを記した「關東軍方面停戰狀況二關スル實狀報告」が作成されソ連側に送付された。ただしこれを作成したという大本営参謀・朝枝繁春本人は、この文書が偽造されたものであると主張しているテンプレート:Sfn。
なおこのソ連軍との停戦交渉時に日本側とソ連側との間で密約が結ばれ、日本側が捕虜の抑留と使役を自ら申し出たのではないかというという疑惑が、全国抑留者補償協議会会長・斎藤六郎や近代史が専門のノンフィクション作家・保阪正康らによって主張されているが、ロシア側はそのような史料を公開していない。またこの交渉に同行した瀬島龍三もフジテレビ出版から上梓した『日本の証言』の中で、停戦協定を結んだヴァシレフスキーと秦にはそもそもそうした密約を結ぶ権限はなかったこと反論している。
北海道代償説
8月16日にスターリンは、ヤルタ協定で約束されていた千島列島・南樺太の占領のみならず、日本敗戦直後に米大統領ハリー・S・トルーマンに連絡し、北海道の分割占領(留萌町(当時)から釧路市を結ぶ線の北東側と両市町を占領)を申し入れた。理由は、「日本によるシベリア出兵によってソ連は占領されたため、ソ連も日本の領土を占領しなければ、国民の怒りが収まらない」というものであった。しかし、トルーマンはこれを一蹴した返書を8月18日に送った。このため「北海道の代償として捕虜をシベリアに送った」という説があるが、8月23日に決定された「国家防衛委員会決定 No.9898」は非常に細かい内容であり、トルーマンからの回答後に作られたとは考えにくいテンプレート:Sfn。
移送
占領地域の日本軍はソ連軍によって8月下旬までに武装解除された。この際多数の死傷者が出たという。また、このとき、日本人捕虜は内地への帰還を望んだが、ソ連軍は復員を認めず、すでに離隊していた男性も強引に連行した。日本人捕虜は、まず満州の産業施設の工作機械を撤去しソ連に搬出するための労働に使役され、のちにソ連領内に移送された。9月5日の山田ら関東軍首脳を手始めに、日本軍将兵、在満州民間人・満蒙開拓移民団の男性が続々とハバロフスクに集められた。彼らは日本に帰れることを期待していたが、ソ連は捕虜を1000名程度の作業大隊に編成した後、貨車に詰め込んだ。行き先は告げられなかったが、日没の方向から西へ向かっていることが貨車の中からでも分かり絶望したことが伝えられる。抑留された捕虜の総数は、作業大隊が570あったため、当初は総数57万5千名が連行されたと考えられたが、65万人というのが定説である。一説には70万人近くが移送されたと言われ、最高数としては200万人以上との説がある[4]。モスクワのロシア国立軍事公文書館には約76万人分に相当する量の資料が収蔵されている[5]。
収容所での生活
シベリア抑留では、その過酷で劣悪な環境と強制労働が原因で、厚生労働省把握分では抑留者全体の1割にあたる約6万人の死亡者を出した[6](犠牲者数に関しては後述)。
一方、共産主義の教育が定期的に施され、もともと共産主義的だったり、隠れ共産党員だった捕虜が大手を振い、また「教育」によって感化された捕虜も多数いる。「革命」や「階級闘争」の思想を育てるため、兵卒や下士官に元上官を殴らせる事もしばしばあったため、兵卒や下士官が(もともと農村出身者が多いことも影響しているが)熱心な共産主義者になることが多かった反面、将校クラスではそれが少なかった。共産主義者の捕虜は「民主運動」を行い、革命思想を持たない捕虜を「反動」「前職者」と呼び、執拗な吊るし上げや露骨な暴行を行った(死者も出たという)。
抑留中に起きた事件としてはこの他に「暁に祈る」事件、ハバロフスク裁判がある。
日本側の対応
1945年11月になって、日本政府は、関東軍の軍人がシベリアに連行され強制労働をさせられているという情報を得る。1946年5月、日本政府はアメリカを通じてソ連との交渉を開始し、同年12月19日、ようやく「ソ連地区引揚に関する米ソ暫定協定」が成立した。
当時ソ連と親しい関係にあった左派社会党の国会議員による視察団が収容所を視察した。視察はすべてソ連側が準備したもので、「ソ連は抑留者を人道的に扱っている」と宣伝するためのものであったが、抑留者の生活の様子を視察し、ともに食事を取った戸叶里子衆議院議員は思わず「こんな不味いものを食べているのですか」と漏らしたという[7]。左派社会党視察団は、過酷な状況で強制労働をさせられていた日本人抑留者から託された手紙を握りつぶし、帰国後、「とても良い環境で労働しており、食料も行き渡っている」と国会で嘘の説明を行った。抑留者帰国後、虚偽の発言であったことが発覚し、問題となる。
日ソ共同宣言をまとめた鳩山一郎は訪ソの前に、「北方領土返還が最大の課題として話題になっているが、ソ連に行く理由はそれだけではない。シベリアに抑留されているすべての日本人が、一日も早く祖国の土を踏めるようにすることが、政治の責任である。領土は逃げない、そこにある。しかし、人の命は明日をも知れないではないか」と語り、シベリア抑留問題の解決を重視する姿勢を示した。
帰国
1947年から日ソが国交回復する1956年にかけて、抑留者47万3000人の日本への帰国事業が行われた。最長11年抑留された者も居れば、日本に帰国すれば共産主義を広める活動をすると収容所でソ連側に誓い念書し、早期に帰国した念書組と呼ばれる者、満洲国皇帝であった愛新覚羅溥儀やその弟愛新覚羅溥傑、満洲国国務総理であった張景恵など満州国の要人らと共に1950年代に中華人民共和国に引き渡され、撫順戦犯管理所などに収容される者達もいた。しかしさまざまな事情(ソ連当局の勧誘を受け民主運動に関係した、日本に身寄りがなく帰国しても行くあてがなかった、現地の人間と恋仲になった、など)で帰国せずにソ連に残留して帰化した例、記録が紛失してソ連当局に忘れ去られ、後になってからようやく帰国が実現した例もある。
一方、兵卒や下士官を中心に、抑留中の教育によって共産主義に感化された者が多数おり、占領軍による1950年からのレッドパージも、帰国事業が本格化してから彼らの存在を危惧したことが遠因となっている[8]。しかし、多くは帰国後も共産主義に固執しつづけたわけではなく、しだいに政治活動からは身を引いていった。しかし、日本の公安警察は“共産主義の脅威”を理由に1990年代後半まで彼等を監視下においた[9]。
冷戦終結後に、ロシア側から収容所や墓地の所在地リストが日本政府に手渡されたことに基づき、厚生省(現・厚生労働省)や民間の遺族団体などによって、毎年夏季に現地で抑留中死亡者の遺骨収集事業が進められている。
厚生労働省では、2003年より遺族の希望に応じて遺骨のDNA型鑑定が行うこととしており、2010年までに約828名の身元が特定され、遺族に引き渡されている[10]。
犠牲者数
日本側の調査による死者名簿には約5万3千人が登載されている。ソ連側(現ロシア政府)はこれまでに約4万1千人分の死者名簿を作成し、日本側に引き渡している[11]。従来死者は約6万人とされてきたが、実数については諸説ある。近年、ソ連崩壊後の資料公開によって実態が明らかになりつつあり、終戦時、ソ連の占領した満州・北鮮・樺太・千島には軍民あわせ約272万6千人の日本人がいたが、このうち約107万人が終戦後シベリアやソ連各地に送られ強制労働させられたと見られている。アメリカの研究者ウイリアム・ニンモ著『検証-シベリア抑留』によれば、確認済みの死者は25万4千人、行方不明・推定死亡者は9万3千名で、事実上、約34万人の日本人が死亡したという。
賃金未払い問題
国際法上、捕虜として抑留された国で働いた賃金と、捕虜の給養費は捕虜所属国の負担となっており、この慣習はハーグ陸戦条約などで確認されているが、日本政府はハーグ会議でもこの規定採用に反対していたテンプレート:Sfn。この規定に基づき、捕虜は帰国時に証明書を持ち帰れば、国から賃金を受け取ることができた。日本政府は、南方地域で米英の捕虜になった日本兵に対しては、個人計算カード(労働証明書)に基き賃金を支払った。しかし、ソ連は抑留者に労働証明書を発行せず、日本政府は賃金や給養費の所属国負担が慣習として定着していないと主張していたため、賃金は支払われなかった。1992年12月以後、ロシア政府は旧抑留者の申請に対して労働証明書を発行するようになり、1994年からは正式に日本政府に送付するようになった。未払い賃金については複数の訴訟が行われているが、日本政府は未だに賃金支払を行っていない。
シベリア抑留経験者からなる全国抑留者補償協議会は、2006年10月に未払い賃金の補償を引き続き日本政府に求めることを申し合わせた。
国家賠償訴訟
テンプレート:Sister シベリア抑留を巡っては、日本全国で4件の国家賠償訴訟が行われている。このうち、京都地裁では2009年10月28日に、「国による遺棄行為は認められない」などとして、原告の請求を棄却する判決が出された[12]。
シベリア特措法
旧ソ連、シベリアやモンゴルで強制労働させられた元抑留者に対し1人25万から最高150万円を一時金として支給する、「戦後強制抑留者に係る問題に関する特別措置法(シベリア特措法)」が、2010年5月20日に参院総務委員会で佐藤泰介委員長により提案され、全会一致で参院本会議への提出を決めた。5月21日に本会議で可決し今国会で成立する運びとなる。法案は抑留された期間に応じて、元抑留者を5段階に分類。独立行政法人「平和祈念事業特別基金」の約200億円を財源に支給される[13][14]。
同法案は、第174国会最終日の6月16日に衆議院総務委員会で可決の後、衆議院本会議で可決成立し、同日付けで法律第45号として公布、施行された。</br> 同日において日本国籍を有する戦後強制抑留者が特別給付金の対象になるが、前日までに死亡していると対象外となるので、支給人数はごくわずかであり、支給されない抑留者の数は膨大なものとなる。支給対象者が、特別給付金の支給の請求をする前に死亡した場合は、相続人が請求できる(本人が前記年月日までに死亡していれば支給されない。)ためにする法律でもある。
なお、2007年4月から2009年3月まで同基金が実施した「特別記念事業」により戦後強制抑留者と認定され、慰労品が贈呈された人には、10月中旬までに直接同基金から特別給付金請求書が送付される予定である。
現地慰霊碑
厚生労働省の事業により、抑留された各地に小規模な慰霊碑の建立が進められている。
ロシア
- エラブガ(2000年)
- クラスノヤルスク (2000年)
- チェルノゴルスク(2001年)
- ニジニ・タギル(2001年)
- ケメロボ(2006年)
- ノボシビルスク(2007年)
- ビイスク(2007年)
- オレンブルグ(2008年)
- アルチョーム(2010年)
ウズベキスタン共和国
- タシケント(2003年)
グルジア共和国
- トビリシ(2010年)
関連団体
- 全国抑留者補償協議会(全抑協 1979年結成、シベリア特措法成立と会員の高齢化により2011年5月解散)
- 近畿地区シベリア抑留者未払い賃金要求の会
- 財団法人全国強制抑留者協会
経験した著名人
- 相沢英之 - 大蔵事務次官、元自民党衆院議員。経企庁長官などを歴任。全国強制抑留者協会会長(著書に抑留体験を小説にした『タタァルの森から』がある)
- 青木光一 - NHK紅白歌合戦(1957年、1959年、1960年)に出場した歌謡歌手、日本歌手協会名誉会長
- 朝枝繁春 - 陸軍中佐(大本営作戦参謀として防疫給水部731部隊の証拠隠滅を命じたことで知られる)
- 嵐徳太郎 - 元サイレント映画の子役俳優
- 石井藤吉郎 - 東京六大学野球・社会人野球の選手、早稲田大学野球部第10代監督
- 板垣正 - 元自民党参議院議員(板垣征四郎の次男。帰国後の一時期日本共産党に入党 のち脱党)、日本遺族会事務局長
- 井上頼豊 - 新交響楽団のチェロ奏者(寺尾聰のヒット曲『ルビーの指環』を編曲した井上鑑の父)
- 上原賢六 - 作曲家(石原裕次郎の『俺は待ってるぜ』『錆びたナイフ』『赤いハンカチ』を作曲)
- 内村剛介 - ロシア文学者、元北海道大学教授、元上智大学教授
- 宇野宗佑 - 第75代内閣総理大臣(抑留記『ダモイ・トウキョウ』を執筆)
- 岡野良定 - 元三菱自動車工業会長、三菱重工業サッカー部初代監督、元浦和レッズ取締役会長
- 香月泰男 - 洋画家。『シベリア・シリーズ』で第1回(1969年)日本芸術大賞を受賞
- 加藤九祚 - 人類学者。国立民族学博物館名誉教授。シベリアを中心にユーラシアの民族と歴史の研究を行う。
- 金井清光 - 国文学者、時衆研究者
- 川手良萬 - 実業家。ヴァンフォーレ甲府の前身にあたる甲府サッカークラブの創始者
- 川本泰三 - 1936年ベルリンオリンピックのサッカー日本代表。ポジションはFW。1958年のサッカー日本代表監督
- 菅季治 - 哲学者。帰国後、徳田要請問題に巻き込まれ、鉄道自殺
- 北原薫明 - 1972年の浅間山荘事件の対応に当たった長野県警・警備第2課長
- 清村耕次 - NHKテレビドラマ『事件記者』のレギュラー俳優
- 久保田一竹 - 染色家
- 胡桃沢耕史 - 作家(抑留体験を小説化した著書『黒パン俘虜記』で1983年度上半期の直木賞を受賞)
- 黒田了一 - 元大阪府知事
- 黒柳守綱 - ヴァイオリン奏者(黒柳徹子の父)
- 近衛文隆 - 陸軍中尉(近衛文麿の長男、抑留中に死去)
- 小林謙五 - 海軍中将、戦艦『陸奥』・巡洋艦『高雄』・巡洋艦『球磨』の元艦長。抑留中に死去
- 小林恒一 - 陸軍中将、満州国高等軍事学校長。第23歩兵団長当時、ノモンハン事件に参戦。抑留中に死去
- 小堀宗慶 - 遠州茶道宗家12世(遠州流は小堀遠州を流祖とする茶道)
- 佐藤勇 - 競馬騎手、調教師(騎手で578勝、調教師として1074勝を挙げた)
- 佐藤忠良 - 彫刻家
- 佐藤正之 - 映画・演劇プロデューサー、日本映画テレビプロデューサー協会元会長(女優・菅井きんの夫)
- 四国五郎 - 画家、絵本作家
- 陶隆司 - 東京芸術座の俳優
- 昔々亭桃太郎 - 落語家
- 瀬島龍三 - 陸軍中佐、関東軍参謀。後の伊藤忠商事会長
- 平参平 - 元吉本新喜劇座長
- 高木啓太郎(高木百拙) - 写真作家、美術家(『シベリア抑留記 お陽さんぽつんと赤かった』を出版)
- 高杉一郎 - 出版社編集者、英文学者、児童文学者、エスペランティスト(抑留記『極光のかげに』を執筆)
- 高森文夫 - 中原中也と親交の深かった詩人、元宮崎県東郷町長
- 滝口新太郎 - 戦前の映画俳優(釈放後、ハバロフスク放送局の日本語アナウンサーとなり、亡命していた岡田嘉子と結婚)
- 竹内悌三 - 1936年ベルリンオリンピックのサッカー日本代表。ポジションはDF。抑留中に死去
- 竹内正巳 - 元桃山学院大学学長。1975年の大阪府知事選挙に立候補し、同じく抑留経験者である現職の黒田了一に敗れた。
- 武部六蔵 - 元秋田県知事、関東局総長、満州国国務院総務長官(後に撫順戦犯管理所に移動)
- 谷田比呂美 - 1953年にセ・リーグ初の代打サヨナラホームランを打ったプロ野球選手
- 玉乃海太三郎 - 二所ノ関部屋の大相撲力士(関脇)
- 丹古晴己 - 作詞家(『霧にむせぶ夜』『夜明けの停車場』『みちのくひとり旅』を作詞)
- 千谷道雄 - 歌舞伎評論家(歌舞伎界の裏面を描いた著書『秀十郎夜話』で1958年度読売文学賞『評論・伝記賞』受賞)
- 筒井竹雄 - 初代陸上幕僚長
- 角田文衞 - 歴史学者
- 坪内寿夫 - 実業家。来島どっく社長
- 都倉栄二 - 外交官(作曲家都倉俊一の父、Jリーガー都倉賢の祖父)
- 富木謙治 - 武道家
- 富永恭次 - 陸軍中将
- 中田金一 - 元大阪タイガース(現・阪神)選手、元セ・リーグ審判員
- 中村伊一 - 実業家。ワコール副社長、京都証券取引所理事長
- 名越二荒之助 - 評論家
- 成田啓二 - 元国鉄スワローズ投手(プロ入りから11連敗のプロ野球記録保持者)
- 西尾優 - 元鳥取市長
- 長谷川四郎 - 小説家
- 秦彦三郎 - 陸軍中将、関東軍総参謀長(A級戦犯としての逮捕リストにも名があった)
- 藤田真 - ニュージャパンキックボクシング連盟前理事長
- 古海忠之 - 満州国国務院総務庁次長(後に撫順戦犯管理所に移動)
- 前田長吉 - 競馬騎手(1943年にクリフジで日本ダービーを含む変則三冠達成。抑留中に死去。2006年に遺骨を確認)
- 牧冬彦 - 実業家。神戸製鋼元社長
- 松村知勝 - 陸軍少将、関東軍総参謀副長
- 水原茂 - 東京六大学野球・プロ野球の元選手、元読売ジャイアンツ監督
- 三波春夫 - 歌手
- 南村喬之 - 雑誌『日の丸』『少年ブック』『少年画報』などで活躍した絵物語作家・挿絵画家
- 三橋達也 - 俳優
- 村上信夫 - 元帝国ホテル料理長、NHKの料理番組『きょうの料理』講師
- 山口信夫 - 元旭化成会長、元日本商工会議所会頭
- 山田乙三 - 陸軍大将、終戦時の関東軍総司令官
- 柚木進 - 元南海ホークス投手(終戦後のエース)
- 横山操 - 日本画家
- 吉田正 - 作曲家(『異国の丘』を作曲)
- 米山正夫 - 作曲家(『ヤン坊マー坊天気予報』のテーマ曲や水前寺清子の『三百六十五歩のマーチ』を作曲)
シベリア抑留に関連する作品
- 当事者による手記(小説は除く)
- 伊藤政夫『マホルカ - シベリア抑留記』(2002年、文芸社) ISBN 9784835539515
- 井戸邊正則『シベリヤヤポンスキーサルダート』(2007年、文芸社) ISBN 9784286032665
- 井上三次郎『地獄のシベリア抑留記』(2010年、文芸社) ISBN 4286085600
- 今川順夫『私のシベリア抑留 地獄の記録 - 負けてたまるかの奮闘記』(2011年、岐阜新聞社) ISBN 9784877971663※品切れ
- 内村剛介『生き急ぐ:スターリン獄の日本人』(1967年、講談社 / 講談社文芸文庫) ISBN 4061982605※品切れ
- 宇野宗佑『ダモイ・トウキョウ』(1982年、シベリア抑留叢書)※品切れ
- 蝦名熊夫著・蝦名賢造編纂『シベリア捕虜収容所 四年間の断想 死の家の記録』(1989年、西田書店)※品切れ
- 大塚茂『ダモイの道は遠かった』(1995年、国書刊行会) ISBN 9784336037282)※品切れ
- 小川護『私のシベリヤ物語 - 捕虜生活三年間の青春』(2011年、光人社NF文庫) ISBN 4769827121
- 川越史郎『ロシア国籍日本人の記録 - シベリア抑留からソ連邦崩壊後まで』(1994年、中公新書) ISBN 4121011732※品切れ
- 川島一芳『シベリア抑留の軌跡 - 私にとっての戦争』(2000年、文芸社) ISBN 9784835501543
- 川堀耕平『カラガンダ第八分所 - 中央アジア抑留記』(2008年、溪水社) ISBN 9784863270190※品切れ
- 草地貞吾『地獄遍路』(1958年、日刊労働通信社シベリヤ叢書)※品切れ
- 後藤治夫『シベリア抑留記 - 奥三河の山里から』(2005年、春風社) ISBN 9784861100543
- 後藤敏雄『シベリア、ウクライナ私の捕虜記』(1985年、国書刊行会) ISBN 9784336022516
- 斎藤邦雄『シベリヤ抑留兵よもやま物語 - 極寒凍土を生きぬいた日本兵』(1987年、光人社NF文庫) ISBN 9784769825067
- 坂間文子『雪原にひとり囚われて - シベリア抑留10年の記録』(1975年、講談社)※品切れ
- 佐藤千一『シベリアさすらいの記 一抑留兵の体験記』(1993年、日本図書刊行会) ISBN 978-4773317688※品切れ
- 佐藤友治『朝が来て知る捕虜の命 - シベリア抑留生活千余日』(2002年、文芸社) ISBN 9784835543055
- 佐野巌『シベリア抑留1000日 - ある日系二世の体験記』(1999年、彩流社) ISBN 9784882025955
- 信田守夫『シベリア捕虜紀行』(2006年、文芸社) ISBN 9784286011295※品切れ
- 新宮富士郎『大陸の孤島 - シベリア抑留記』(2008年、文芸社) ISBN 9784286041711※品切れ
- 杉本四郎『シベリア抑留の思い出記』(2011年、文芸社) ISBN 9784286100517※品切れ
- 鈴木祥蔵『シベリア捕虜収容所「ラーゲル」の中の青春 - 一学徒兵五十五年目の回想』(1999年、明石書店)
- 鈴木良男『遥か青春シベリア』(1995年、共和印刷企画センター)※品切れ
- 宗前鉄男『北斗の下で - 私のシベリア物語』(2010年、東京図書出版会) ISBN 9784862233981
- 高木啓太郎『シベリア抑留記 お陽さんぽつんと赤かった』(1983年、サン文庫)※品切れ
- 高杉一郎『極光のかげに - シベリア俘虜記』(1950年、岩波文庫) ISBN 4003318315
- 竹田正直『酷寒シベリヤ抑留記 - 黒パン三五〇グラムの青春』(2001年、光人社NF文庫) ISBN 9784769823063
- 棚橋嘉信『東京ダモイ - 日本に帰る』(1997年、日本図書刊行会) ISBN 9784890391844
- 中村信一『ウラジオストック物語 - シベリア抑留体験記』(2004年、新風舎) ISBN 9784797442854※品切れ
- 西尾康人『凍土の詩 - シベリア抑留八年、爪で書いた記録』(1995年、早稲田出版) ISBN 9784898271636※品切れ
- 西本諦了『命めぐまれ、今を生きる - シベリア・ウクライナ抑留記』(2002年、文芸社) ISBN 9784835533100※品切れ
- 新田直人『シベリアの歌 - 続シベリア抑留体験記』(1987年、シベリア抑留者友の会) ISBN 9784897500225※品切れ
- 萩原金八『俘虜記 - シベリアの詩』(2004年、文芸社) ISBN 9784835570037
- 古川和夫『試練の八年間 - シベリア抑留』(2008年、文芸社) ISBN 9784286039954
- 穂苅甲子男『シベリア俘虜記 - 兵士の過酷なる抑留体験』(2009年、光人社NF文庫) ISBN 9784769826200
- 松井功『青春を埋めた初年兵の抑留記』(1995年、近代文芸社) ISBN 9784773347623
- 三浦庸『シベリヤ抑留記 - 一農民兵士の収容所記録』(1984年、ちくま文庫) ISBN 978-4480024824※品切れ
- 皆川太郎『ダモイ - シベリアからの帰還』(2006年、光陽出版社) ISBN 9784876624201
- 村山常雄『シベリアに逝きし人々を刻す ソ連抑留中死亡者名簿』(2007年、プロスパー企画) ISBN 9784861800214※品切れ
- 村山常雄『シベリアに逝きし46300名を刻む ソ連抑留死亡者名簿をつくる』(2009年、七つ森書館) ISBN 9784822809966
- 森野勝五郎著・森野忠編纂『遺稿 我が抑留記』(2002年、文芸社) ISBN 9784835535661
- 森本良夫『シベリア俘虜記 - 死と絶望からの帰還』(2001年、春秋社) ISBN 9784393436202※品切れ
- 山下静夫『画文集 シベリア抑留1450日・記憶のフィルムを再現する』(2007年、デジプロ) ISBN 9784490206135
- 山本喜代四『シベリヤ抑留記 - 21世紀を拓く青少年たちへの伝言』(1999年、元就出版社) ISBN 9784906631445
- 勇崎作衛『画文集 キャンバスに蘇るシベリアの命』(2010年、創美社) ISBN 9784420310444
- 渡邉雅彬『ダモイの虹』(2004年、新風舎 / 2009年、文芸社) ISBN 9784286072555
- 第三者によるノンフィクション
- V・A・アルハンゲリスキー『プリンス近衛殺人事件』(2000年、新潮社) ISBN 9784105403010※品切れ
- 西木正明『夢顔さんによろしく』(1999年、文藝春秋 / 文春文庫・上下巻) ISBN 9784167534042
- 上記2冊は近衛文隆に関するドキュメント。
- 上記2冊は近衛文隆に関するドキュメント。
- 阿部軍治『シベリア強制抑留の実態 - 日ソ両国資料からの検証』(2005年、彩流社) ISBN 9784779111068
- 阿部軍治『慟哭のシベリア抑留 - 抑留者たちの無念を想う』(2010年、彩流社) ISBN 9784779115738
- 石崎誠一『シベリア抑留者 - 大統領の謝罪と抑留問題の決着』(1997年、全貌社) ISBN 4793801463※品切れ
- 独活章『クロ物語 - 氷海に飛び込んだ犬』(2005年、けやき出版) ISBN 4877512942
- 御田重宝『シベリア抑留』(1991年、講談社文庫) ISBN 9784061849402※品切れ
- エレーナ・カタソノワ『関東軍兵士はなぜシベリアに抑留されたのか』(2004年、社会評論社) ISBN 9784784513109
- 亀井励『シベリア抑留者と遺族はいま』(1992年、かもがわ出版) ISBN 9784876990672※品切れ
- ヴィクトル・カルポフ『スターリンの捕虜たち - シベリア抑留』(2001年、北海道新聞社) ISBN 9784894531352※品切れ
- 栗原俊雄『シベリア抑留 - 未完の悲劇』(2009年、岩波新書) ISBN 9784004312079
- 栗原俊雄『シベリア抑留は「過去」なのか』(2011年、岩波ブックレット) ISBN 4002708047
- 坂本龍彦『シベリア虜囚半世紀 - 民間人 蜂谷弥三郎の記録』(1998年、恒文社) ISBN 9784770409768※品切れ
- 白井久也『ドキュメント シベリア抑留 - 斎藤六郎の軌跡』(1995年、岩波書店) ISBN 4000029541※品切れ
- 白井久也・佐藤清『写真集 シベリア抑留 - 歴史の流れの中で』(1997年、ヒューマン社) ISBN 9784894611016※品切れ
- 白井久也『検証 シベリア抑留』(2010年、平凡社新書) ISBN 9784582855159
- 立花隆『シベリア鎮魂歌 - 香月泰男の世界』(2004年、文藝春秋) ISBN 4163657509
- 長澤淑夫『シベリア抑留と戦後日本 - 帰還者たちの闘い』(2011年、有志舎) ISBN 4903426491
- 中村紀雄『シベリア強制抑留 - 望郷の叫び』(2005年、上毛新聞社出版局) ISBN 9784880589312※品切れ
- ウィリアム・F・ニンモ『検証 - シベリア抑留』(1991年、時事通信社) ISBN 9784788791060※品切れ
- 畑谷史代『シベリア抑留とは何だったのか - 詩人・石原吉郎のみちのり』(2009年、岩波ジュニア新書) ISBN 9784005006182
- 辺見じゅん『収容所から来た遺書』(1989年、文春文庫)講談社ノンフィクション賞・大宅壮一ノンフィクション賞 ISBN 9784167342036
- 辺見じゅん『ダモイ 遥かに』(2008年、メディアパル) ISBN 9784896100839
- 松本宏『告発 シベリア抑留 - 国民に隠された真相』(2004年、碧天舎) ISBN 4883465012※品切れ
- 村尾靖子『クラウディア 奇蹟の愛』(2003年、海拓舎) ISBN 9784907727314※テレビドラマ『遙かなる約束』の原案。品切れ
- 村尾靖子『クラウディアの祈り』(2009年、ポプラ社) ISBN 9784591108536
- 若槻泰雄『シベリア捕虜収容所』(1999年、明石書店) ISBN 9784750311807
- 小説
- 相沢英之『タタァルの森から』(1992年、米子今井書店) ISBN 9784896780130※品切れ
- 井上ひさし『一週間』(2010年、新潮社) ISBN 9784103023302
- 鏑木蓮『東京ダモイ』(2006年、講談社 / 講談社文庫)第52回江戸川乱歩賞 ISBN 9784062764407
- 胡桃沢耕史『黒パン俘虜記』(1983年、文藝春秋 / 文春文庫)第89回直木賞 ISBN 9784167402013※品切れ
- 村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』(1994年 - 1995年、新潮社 / 新潮文庫)
- 山崎豊子『不毛地帯』(1976年 - 1978年、新潮社 / 新潮文庫) ISBN 9784101104409
- 絵本
- 井上こみち『氷の海を追ってきたクロ』(2010年、学習研究社) ISBN 4052032810
- 神津良子・北野美子『氷海のクロ - シベリア抑留(語り継ぐ戦争絵本シリーズ)』(2011年、郷土出版社) ISBN 4863751117
- 村尾靖子・小林豊『クラウディアのいのり』(2008年、ポプラ社) ISBN 9784591104071
- 戯曲
- 漫画
- おざわゆき『凍りの掌』(2012年、小池書院) ISBN 9784862258311 - 著者が実父のシベリア抑留体験を基に執筆
- 滝沢聖峰『幻の豹 The panther in Ukraina 1950』(1995年、大日本絵画) ISBN 9784499226479
- 本宮ひろ志『国が燃える』(2003年 - 2006年、集英社・ヤングジャンプコミックス) - 主人公の本多勇介が抑留された。※品切れ
- 歌曲
- 『異国の丘』(1948年、作詞:増田幸治、補詞:佐伯孝夫、作曲:吉田正、歌:竹山逸郎、中村耕造など)
- 『岸壁の母』(1954年・1972年、作詞:藤田まさと、作曲:平川浪竜、歌:菊池章子、二葉百合子など)
- 映画
- 『異国の丘』(1949年、制作:新東宝、脚本:渡辺邦男・北沢誠、監督:渡辺邦男)出演:花井蘭子・上原謙・大日方伝
- 『帰国(ダモイ)』(1949年、制作:東宝・佐藤一郎、脚本:岸松雄、監督:佐藤武)出演:堀雄二・池部良・藤田進・山口淑子
- 『私はシベリヤの捕虜だった』(1952年、制作:東宝、脚本:沢村勉、監督:阿部豊・志村敏夫)出演:北沢彪・土屋嘉男
- 『岸壁の母』(1976年、制作:東宝、脚本:村尾昭、監督:大森健次郎、原作:端野いせ)出演:中村玉緒・江藤潤
- テレビドラマ
- 『岸壁の母 (テレビドラマ)』(1977年、TBS / 松竹)出演:市原悦子・大和田獏
- 『遥かなる約束 〜50年の時を越えた運命の愛〜』(2006年、フジテレビ)主演:阿部寛・黒木瞳
脚注
参考文献
関連項目
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- 関東軍
- ラーゲリ(ソビエト連邦における強制収容所)
- 日系ロシア人
- コルィマ鉱山
- ヤクーツク
- マガダン
- ワニノ
- コムソモリスク・ナ・アムーレ
- ハバロフスク
- シベリア
- カフカス地方
- シベリア天皇
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- マルクス・レーニン主義
- 社会主義
- 社会党左派
- ヨシフ・スターリン - スターリン主義
- ソビエト社会主義共和国連邦
- ソルジェニーツィン『収容所群島』
- ソ連対日参戦
- 徳田要請問題
- 尋ね人の時間
- ナホトカ
- 日本人墓地
- 「日本新聞」
- 日本新聞友の会
- 太田三郎 (芸術家)
- ジュネーヴ条約 - ハーグ陸戦条約
- 俘虜
- 強制連行
- 北方領土
- 捕虜
- 満州
- 満州国
- モンゴル人民共和国
- 満蒙開拓移民
- 満蒙開拓団
- 共産主義
- グラスノスチ
- 粛清
- ブラーツクダム
- ナヴォイ劇場
- 撫順戦犯管理所
- 中国帰還者連絡会