坪内寿夫
坪内寿夫(つぼうち ひさお、1914年9月4日 - 1999年12月28日)は愛媛県伊予郡松前町生まれの日本の実業家。倒産寸前の企業を数多く再建させた手腕から、一時はマスコミによって「再建王」、また船舶・造船・ドック会社を多数抱えたことから「船舶王」、四国を中心としたグループ形態から「四国の大将」とも称された。
本名は桧三夫であったが、妻の姓名判断により寿夫に改名した。
略歴
- 1934年(昭和9年) 弓削商船学校(現弓削商船高等専門学校)卒業後、南満州鉄道に就職。第二次世界大戦に従軍。
- 1945年(昭和20年) シベリアに抑留される。
- 1948年(昭和23年) 帰国し、愛媛に戻る。娯楽がこれから儲かると着目し、松山市で映画館経営を手がけ利益を上げる。因みに日本の映画館での違う系列の映画の二本立て上映を初めて行ったのは、坪内のこの劇場である。
- 1953年(昭和28年) 來島船渠(くるしませんきょ)株式會社(現新来島どっく)社長に就任。販路の見直し及び徹底したコスト削減を行い軌道に乗せる。
- 1978年(昭和53年)6月29日 福田赳夫内閣総理大臣、永野重雄日本商工会議所会頭、池浦喜三郎日本興業銀行頭取らに推され、佐世保重工業の社長に就任。
- 1994年(平成6年) 佐世保重工業相談役に退く。
- 1999年(平成11年) 松山市内の病院で死去。
業績・エピソード
シベリア抑留で何度も生死の狭間をさまよった後帰国し、その後一代で造船・海洋を中心とした来島グループ(来島ドックグループ)とも呼ばれる180社を超える巨大企業群を作り上げるまでに至った。しかし、遠洋漁業が衰退し、大型客船が旅客機輸送に取って代わられるなどしたため、造船不況に陥るなど、決して順風満帆ではなかった。
その経営手腕は、徹底した「コスト削減」と「必賞必罰人事」を軸とし、最終的には「組織の簡素化」による意思決定のスピード化と役割のダウンサイシング(平社員が課長級の仕事をし、課長が部長の仕事をし、部長が役員の仕事をし、役員が社長の仕事をし、社長が遊んでいる状態)をもって完成系とした。人事に関しては「エレベーター人事」と自ら名づけた抜擢と降格なども行った。極端な例ではあろうが、自著によれば平社員から役員への昇格や役員から平社員へ降格人事も行ったようである。また、銀行再建時は、倒壊しそうになった店舗を前に顧客と取引先を集め「立派な建物を建て直すか、つっかえ棒による補強を行うか」と問いかけた上で「棒による補強でよければ、その分みなさまに還元でき、金利を上げる事ができる」と公言する事により、顧客の信頼を勝ち得、預金額を増やした。これらの例のようにコスト削減と人事を軸にした上で、顧客や従業員などの人心掌握あるいは刺激する心理的手法を併用した再建例が多く、それら再建経験を基にした著作も数多い。また、企業形態を広げる時にその隣接する業種(例:造船・フェリー運航会社・バス会社といった隣接)を基本とし、他業種に一気に参入しないなど手堅い姿勢も見せた。赤字の続く国鉄の中でも、「四国の国鉄を俺に任せれば5年で黒字にしてみせる」という発言もあった。
なお、企業買収を仕掛けるときに強引であったり、一代で企業を大きくしたという自負からか、信念が強く他者の意見を聞かないという一面もあったようである。同じ企業再建の名手と言われた早川種三は、坪内のやり方に対し「あんなやり方でほんとにやる気が出るもんですかねぇ」と疑問を呈している。
一方で、実子に恵まれなかった事もあり、財産は自分の物ではない、経営とは世のため人のためにするものだなどと公言するなど、その強烈な個性・手腕・信念・姿勢などに対する熱烈な支持者も数多くおり、前愛媛県知事の加戸守行は「坪内さんは政商ではなく、清商であった」と、坪内の潔さを褒め称えている。
1980年代の造船不況、韓国の台頭、円高によりグループの収益も悪化。鳴り物入りで乗り込んだ佐世保重工業の再建については、評価が分かれるところである。作家・高杉良は著書にて、坪内がいなければ佐世保重工業は手形の決済資金を調達できず間違いなく倒産していたと述べており、この事実関係をしっかりと踏まえる必要がある。
小佐野賢治が経営を受け持っていた造船会社(三重造船)の再建に取り組もうとしたものの、小佐野の経営方針と相容れず、経営に参画しなかった。その直後、失意に暮れる小佐野が病死したというエピソードがある。
マスコミにも進出し、日刊新愛媛の社長となった。極端な廉価販売で部数を伸ばしたが、当時「白石天皇」、あるいは独裁者などと地元から呼ばれた愛媛県知事・白石春樹と徹底的に対立し取材拒否を受けたりもした(日刊新愛媛取材拒否事件)。その後、日刊新愛媛は、1986年に廃刊となった。取材拒否事件に端を発した各方面からの取材拒否が要因とも、坪内のワンマン経営が要因とも言われているが事実は不明である。
1961年、來島船渠大西工場敷地内に塀のない刑務所「松山刑務所大井造船作業場」を作った。犯罪者の社会復帰などにも熱心で傘下企業に出所者を多数雇い入れたりもしている。
青木一三は著書の中で、坪内がプロ野球に興味を示し、奥道後温泉に球場を建てて新球団を持つ構想を持っていたことや、南海および近鉄から坪内に球団買収の働きかけがあったことを記している[1]。1980年代前半に新球団の立ち上げ構想に関わっていた稲尾和久も、球団を持つ意思のある実業家として坪内に面会したと述べている[2]。
コスト削減
戦前・戦中から戦後にいたるまでの労働慣習を見直し、現在では一般的とされている労働方式を取り入れた。
- 従来の労働時間管理は、大雑把であり見なし労働を止め、入退社管理を厳しく管理し、8時間労働1時間休憩を取り入れた。
- 繁忙期に合わせて雇い入れを行っていたのを、季節労働や下請け・孫請けを中心とした人件費の削減及び設計図の作成を厳しくした。
- 役職が多かった旧来の会社を部課制にしポスト削減、年功序列から実力主義へ変更した
- 設計にコストを要求し、その管理権限者を強化し裁可権を与えスピード化を図った。
ただ一方で、世間で週休2日制が定着した後も来島グループでは長らく週休1日制を維持したため、佐世保重工業再建の際にはその点が労使紛争の大きな問題点となるなど(佐世保重工業は来島グループ入りの時点で既に週休2日制を導入していたが、坪内は来島グループ他社と足並みを揃える目的で週休1日制への変更を求めた)、晩年には時代の変化に遅れを取る部分もあったようである。
坪内が関わった有力企業
- 新来島どっく(旧称:来島どっくが前身、三井物産、商船三井などとも親密)
- カナサシ(旧称:金指造船、新来島どっくが継承)
- カナックス(新来島どっくが継承)
- 新高知重工(旧・高知重工業から継承)
- 佐世保重工業(元佐世保海軍工廠が前身)
- 日刊新愛媛(1986年廃刊→その後会社解散)
- 関西汽船(商船三井傘下、住友グループ色)
- ダイヤモンドフェリー(商船三井子会社、住友グループとも関係が強い)
- オリエンタルホテル
- 函館どつく
- 東邦相互銀行(普通銀行に転換できなかった最後の相互銀行となり、伊予銀行に救済合併される)
関連書籍
- 柴田錬三郎『大将』(集英社文庫、1982年)ISBN 4-087-50175-2 - 坪内をモデルとした小説・柴田と坪内は個人的にも交友関係が深かった
- 高杉良『小説会社再建-太陽をつかむ男』(集英社文庫、1991年 - 佐世保重工業の再建にあたり坪内を社長に起用することの経緯
- 半村良『億単位の男』(集英社、1996年)- 坪内寿夫の人物立志伝
- 落合信彦『戦い、いまだ終わらず』(集英社文庫、1990年)- 佐世保重工業の再建を中心に描く
- 青山淳平『夢は大衆にあり~小説・坪内寿夫』(中央公論新社、2004年)
- 佐伯正夫『坪内イズムの真実を今 再建人生ここにあり』(愛媛ジャーナル、2008年)