沢田研二
テンプレート:Infobox Musician 沢田 研二(さわだ けんじ、1948年6月25日 - )は、日本の歌手、俳優、作詞・作曲家。本名、澤田 研二。ニックネームはジュリー(由来は沢田本人が女優のジュリー・アンドリュースのファン)。出生は鳥取県鳥取市だが、後に京都府京都市へ引っ越す。妻は女優の田中裕子。前妻は元ザ・ピーナッツの伊藤エミ。
1960年代後半のグループサウンズ全盛期から活躍し、ソロとしてのシングル総売上は1,239万枚(1982 - 1991年の9年間は歴代1位の座を保つ[1])。ザ・タイガース、PYG時代を含めると1,666万枚になる。
目次
来歴
生い立ち
1948年6月25日、京都市左京区の澤田松雄、智恵子夫妻の次男として、両親の実家がある鳥取県岩美郡津ノ井村(現・鳥取市津ノ井)で出生。このためNHK紅白歌合戦の出身地では「鳥取県鳥取市出身」とか「京都府京都市出身」と表記されることもあった。戸籍上の名前では、“研”という文字の右下に点がある。当時、父親が火薬研究所の取引先に勤務しており、二番目の子だったため「研二」と命名された。京都市立第三錦林小学校、同・岡崎中学校卒業後、1964年4月、京都府立鴨沂高等学校入学、後に同校を中退。中学では野球部のキャプテンを務め、高校では空手部に所属。
ザ・タイガース期
テンプレート:Main 京都のダンス喫茶「田園」でドアボーイのアルバイトをしている時にサンダースに声をかけられ、17歳の沢田はローディー兼ボーカリストになった。そのステージを見たサリーとプレイボーイズのサリー(岸部修三(現・岸部一徳))から沢田はリード・ボーカルとして誘われ、翌年の元日にサリーとプレイボーイズに正式加入、グループ名は「ファニーズ」と改めた。
ファニーズは、大阪のジャズ喫茶「ナンバ一番」に出演した際に、上条英男、スパイダクション(現・田辺エージェンシー)、そして共演したロック歌手の内田裕也からも声をかけられた。しかし具体的な話が進まなかったため、当時リーダーであった瞳みのるが東京代々木上原の内田裕也宅を訪ね、瞳の熱意の甲斐あってメンバー全員が渡辺プロと契約。上京後、ザ・ヒットパレードのプロデューサーであったすぎやまこういちによって、テレビ番組の出演直前に「ザ・タイガース」と新たに名付けられる。
1967年2月5日にシングル「僕のマリー」でデビュー。阿波踊りのリズムを取り入れたセカンド・シングル「シーサイド・バウンド」で人気爆発、続く「モナリザの微笑」、そして「君だけに愛を」で一気にグループサウンズ (GS) の頂点へと躍り出る。とりわけ端整な美貌の持ち主である沢田は10代の少女を中心に熱狂的な人気を博し、一躍国民的アイドルとなった。
1968年8月12日にザ・タイガースが後楽園球場で開催した「真夏の夜の祭典」は、日本で初めてのスタジアムコンサート[2]。なお、ソロとしてのスタジアムコンサートは田園コロシアム(ザ・タイガース、PYGとしても開催)、大阪球場、ナゴヤ球場、横浜スタジアム、東京ドーム、京セラドームで開催している。
1969年3月1日、アメリカの音楽雑誌の中でも歴史が長く、最も権威ある音楽雑誌のひとつ『ローリングストーン』 (Vol.28) の表紙に登場。日本版が刊行される前の同誌において、日本人が表紙を飾ったのは、これが最初で最後だった。
1971年1月24日のザ・タイガース「ビューティフル・コンサート」(解散コンサート)は、日本人として初の日本武道館単独公演。 ザ・タイガースは、1971年1月24日、日本武道館で行われた「ザ・タイガース ビューティフル・コンサート」で解散。
PYG期
テンプレート:Main ザ・タイガースの解散後、沢田は1971年2月1日、新たなバンド・PYGに参加する。当時、欧米で結成されたブラインド・フェイスやプラスチック・オノ・バンドのようなスーパーバンドを模した形で、ザ・スパイダースから井上堯之と大野克夫、ザ・テンプターズから萩原健一、大口広司、ザ・タイガースから沢田と岸部修三という6人のメンバーによって結成された。このバンドは沢田と萩原によるツインボーカルで、井上、大野、岸部ら作詞や作曲ができる技巧派が揃い、本格的なニューロックを目指した[3]。
しかし、日本ではまだ反体制のジャンルとするロックを、当時最大手の芸能事務所だった渡辺プロダクションの所属ミュージシャンが演奏することに対し、『芸能界が創り出したもの』としてライブではトマトや空き缶を投げつける聴衆もいた[4]。音楽的には「花・太陽・雨」、「自由に歩いて愛して」など、哲学的で重厚なサウンドの佳曲を発表。短い活動期間だったが、「バンドサウンド」「バンドメンバーによる音楽作り」という現在に至るまで一貫した沢田のミュージックスタイルの基礎となった。
ソロ活動 - 全盛期
1971年11月1日発売のシングル「君をのせて」でソロデビュー。オリコン最高位は23位だった。GSの先輩であったザ・ワイルドワンズの加瀬邦彦プロデュースのもとに、十数年にわたって音楽ランキングトップ10にチャートインし続けた沢田のソロ活動のスタートであった。
1972年3月11日発売の「許されない愛」、続いて「あなただけでいい」がヒット。もう1人のボーカルである萩原健一の俳優活動が本格化してPYGは実質的に形骸化、メンバーは沢田のバックバンド 井上堯之バンドとして活動していくことになった。
1973年4月21日発売の「危険なふたり」が65万枚を売り上げソロ初のオリコン1位を獲得、第4回日本歌謡大賞を受賞(歌謡大賞歴代視聴率最高の47.4%を記録)。この作品からスタイリストとして早川タケジが参加し、以降、斬新なファッションが確立されることになった。翌1974年には「追憶」が58万枚を売り上げ2曲目のオリコン1位を獲得した。1974年、日比谷野外音楽堂ライブでインディアンのようなチークをしたり、1975年の比叡山ライブでブルーのラメ入りのアイシャドウをするなど、化粧はこの時期からステージで行っていた。
1975年5月発売のシングル「巴里にひとり」(仏題「MON AMOURE JE VIENS DU BOUT DU MONDE (恋人よ、世界の果てから僕は来た)」)でフランスに進出。フランスの週間ラジオチャートでトップ4に入るヒットとなり、フランスのゴールデンディスク賞を日本人として初めて受賞する。1978年にかけてフランス、イギリス、ドイツ、ベルギー等でシングル盤を発売した。また、1974年ハワイ、1977年、1978年グアム、1979年シンガポール、1980年、1982年香港でコンサートを開催している。
1975年6月4日の27歳の時、7年間の交際を経てザ・ピーナッツの伊藤エミ(当時34歳)と結婚[5]。同年7月20日、比叡山延暦寺で結婚式を行った。同日、沢田の比叡山ライブ(比叡山フリーコンサート)において夫婦揃ってステージに上がり、ファンに対して結婚報告を行った。
同年8月21日に発売された「時の過ぎゆくままに」は5週連続オリコン1位で92万枚の売り上げを記録、沢田にとって最大のヒット曲となった。同曲は、沢田との仕事を熱望していた久世光彦が渡辺プロダクションに企画書を持ち込み、同じく作詞の提供を望んでいた阿久悠が協力。時効を間近に控えていた3億円事件をテーマにしたTBSドラマ「悪魔のようなあいつ」は、今でいうボーイズラブ (BL) の要素をふくみ、犯人役のクラブ歌手の沢田がけだるく退廃的に歌った。なお、共演した岸部修三はこのドラマの放映開始から間もなく井上堯之バンドを脱退、岸部一徳と改名し俳優の道を進んだ。
久世の企画書には「この曲でレコード大賞を獲る」ということまで書いた作品であったが、同年12月7日に東京駅新幹線ホームにあふれたファンのことで文句を言った駅員と沢田が口論になり、駅員に対して頭突きをする暴行事件を起こす。結果的にその後に行われたレコ大では候補から外れた。翌1976年5月16日にも再び新幹線車中で乗客にからまれ、沢田が揉みあいの末に殴打し、二度目の暴行事件として「暴力人気歌手」とマスコミに報道され、1ヶ月間謹慎。同年9月に久世の作詞、沢田の作曲の「コバルトの季節の中で」で復帰したが、活動再開後もNHK紅白歌合戦、賞レースを全て辞退した。
翌年の1977年2月発売の「さよならをいう気もない」では、金色のキャミソールという衣装で登場。同年5月に発売された「勝手にしやがれ」はソロとして4曲目のオリコン1位を獲得。5週1位を保ち89万枚を売り上げた。曲中にかぶっていたパナマ帽を飛ばすというパフォーマンスは、子どもが学校でマネをするほど大きな話題となった。この曲で、第19回日本レコード大賞を受賞。レコード大賞で歴代視聴率最高の50.8%も記録した。その他第8回日本歌謡大賞(視聴率46.3%)など、同年の主要な賞レースを独占した。ソロデビュー以降、すでに主要な賞レースの常連であった沢田だが、レコ大受賞シーンでは、駆けつけた萩原健一や岸部一徳などのザ・タイガース・PYG時代からの仲間に対して涙を見せた。
バックバンドをひきつれて1日3回もテレビに出演。歌番組だけではなくザ・ドリフターズなどのバラエティ番組にも出演し、「お茶の間のアイドル」として活動した。
ヴィジュアル期
プロデューサーである加瀬邦彦は「もっと色っぽく、いやらしく歌って」「もっと過激にいこうよ」と進言していたが、お茶の間に流れる一般のテレビ番組ではまだ控えていた。しかしマスコミによって「暴行事件」と大きく報じられたことを契機に、沢田はこれまでの意識を変える。謹慎中はテレビの音楽番組を詳細に研究し、「身を削って恥をかき、バカなことをしても怖くない。見て面白いことをしよう」と、「さよならをいう気もない」以降、ヴィジュアルを重視したバンドスタイルをエスカレートさせていく[6]。
「さよならをいう気もない」では金色のキャミソールという衣装だったが、「勝手にしやがれ」ではホストをイメージした衣装で帽子を投げ飛ばし、「憎みきれないろくでなし」(63万枚のセールスを記録)はタバコを吸い、ポリス帽で片目を隠し、黒の皮パンの腰をうねらせ、曲の間奏で井上堯之バンドと身体をすり寄せた。1978年に発売した「サムライ」(52万枚のセールス)はナチスをイメージする黒の上下に裸の入れ墨、「ダーリング」は水兵のセーラー衣装、「LOVE (抱きしめたい)」はスタジオに雨を降らせ、血で染まった包帯を手に巻いた。
「LOVE (抱きしめたい)」は第20回日本レコード大賞最優秀歌唱賞を受賞。同年の第29回NHK紅白歌合戦で、それまで演歌歌手に限られていたトリを、ポップス系の歌手として初めてつとめる(対抗の女性歌手は山口百恵)。この1978年を例にとると、年間のテレビ出演700本以上、ラジオ300本、取材300本、地方公演100日。過剰なほどの露出によって、バンドサウンドをお茶の間に浸透させていく。
1979年に発売された「カサブランカ・ダンディ」ではウイスキーを口にふくんで霧のように吹き、同年「OH! ギャル」ではマレーネ・ディートリッヒをオマージュしたメイクをした。また、PARCOのテレビCMでは全裸で横たわり、上半身裸の新聞全面広告を掲載。PARCO各店には手で胸を隠した裸の沢田のポスターが貼られた。
翌年1980年2月29日に同じシチュエーションで写真集「水の皮膚」を発売した。この写真集は男性歌手として初めてのオールヌード写真集である。「TOKIO」では250万円の電飾衣装にパラシュートを背負った。「TOKIO」のテレビでの初登場は、1980年1月1日午前0時。糸井重里作詞のテクノサウンドであった。同年の「恋のバッド・チューニング」では装着したカラーコンタクトが青や金色に変化し、「酒場でDABADA」ではハンカチを口にした沢田に3人のギタリストがすりよるパフォーマンスをみせた。
プロデューサー加瀬邦彦、衣装早川タケジとともに当時の「ジュリー」をサポートしていた井上堯之バンドのリーダー井上堯之は、過激なコスチュームに走る沢田に対して「もうついていけない」と語り、井上堯之バンドは同年1月24日に突如解散する。PYG以来活動を共にして来た井上バンド解散による心身の疲労、「テレビで沢田研二を見ない日はない」と言われるほどの超過密スケジュール等が重なり、同年4月に胃潰瘍で1ヶ月間入院した。
井上バンドの解散を受け、新たなバックバンドとしてベーシスト吉田建を中心に、ALWAYS、EXOTICSを相次いで編成。吉田建は「渚のラブレター」、「ス・ト・リ・ッ・パ・ー」、「麗人」、「おまえにチェックイン」、「6番目のユ・ウ・ウ・ツ」というオリコン10位以内にチャートインした楽曲はもちろん、80年代後半以降も沢田のアルバム制作に携わり、70年代にトップレベルだった井上バンドのサウンドを、よりロックテイストに進化させていく。1981年発売のシングル「ス・ト・リ・ッ・パ・ー」は、沢田自身の作曲したシングルとしては最高の36万枚のセールスを記録した。
ソロ活動と並行して1981年1月、ザ・タイガースが瞳みのるを除くメンバー5人で10年ぶりに再結成。GS時代に縁のあった日劇が取り壊されることとなり、最後の日劇ウエスタンカーニバルに出演するためだったが、これを契機に同年秋、「同窓会」と銘打った企画で11年ぶりにシングル「十年ロマンス」を発売、翌年に発売された2枚目となるシングル「色つきの女でいてくれよ」は化粧品会社とのCMタイアップもあり、オリコン上位にランクイン、武道館を含む全国ツアーを行う。
第34回NHK紅白歌合戦では、ジャングルビートの「晴れのちBLUE BOY」で金杯(最優秀歌手)を獲得。軍服にサーチライトを装着したコスチュームで登場した。
俳優としては1979年に公開された映画『太陽を盗んだ男』で原子爆弾を作る理科教師を演じ、第4回報知映画祭でグランプリにあたる作品賞と主演男優賞を受賞、キネマ旬報読者選定邦画ベストテン第1位に選ばれた。日本アカデミー賞では主演男優賞にノミネートされる。
1981年の映画『魔界転生』では天草四郎に扮し、これは企画段階から千葉真一の柳生十兵衛と共にキャスティング決定事項として進められた[7]。クランクイン後は本作以外のスケジュールを全てキャンセルして撮影に専念し、ジュリーのイメージを払拭する演技を披露[7]。観客動員数200万人、配給収入10億5千万円となった[8](詳細は ⇒ 魔界転生)。
CMにも多数出演し、中でも、1979年11月に新型となった日産自動車のブルーバードの910型のCMに出演し、「ブルーバード お前の時代だ」のキャッチフレーズで、同車が小型車(1600 - 2000ccクラス)で連続27ヶ月登録台数1位を記録してブルーバードの910型の大ヒットに貢献した。1983年10月に新型となったU11型のCMにおいても「ブルーバード お前はスーパージェネレーション」のキャッチフレーズで引き続き出演し、1979年11月から1985年8月までの約6年の長い期間にわたって日産自動車のブルーバードのCMに出演、自らCMソングも歌った。
独立期
1985年1月からの半年間の休養を経て、沢田はデビュー以来所属してきた渡辺プロダクションから独立。渡辺プロダクション傘下の"株式会社ココロ"を設立し、レコード会社もポリドールから東芝EMIに移籍した。同年6月に自叙伝『我が名はジュリー』(玉村豊男編 / 中央公論社)を刊行。8月発売の移籍第1弾の作品は、沢田自身が作詞・作曲したシングル「灰とダイヤモンド」。ペンネームの「李花幻」は「いいかげん」をもじった遊び心から。新たなバックバンドとしてチト河内を中心にCO-CoLOを結成。
1985年に日米合作映画「Mishima: A Life In Four Chapters 」(日本未公開)で劇中劇「鏡子の家」に出演、カンヌ映画祭に緒形拳らと共に出席。同作品は最優秀芸術貢献賞を受賞。
1987年1月、伊藤エミに慰謝料18億1,800万円を支払い、離婚[5]。1986年8月から伊藤と別居していた沢田は、1982年の映画『男はつらいよ 花も嵐も寅次郎』で共演した田中裕子と不倫していた[5]。田中とは1989年11月に出雲大社で再婚することとなる[5]。1987年3月に京都公演中のステージから転落し、左肘骨折・肋骨打撲で1ヶ月間入院。のちに「転機は離婚だった」と認め、ミュージシャンとして絶頂を極め、俳優まで幅を広げて活動していた沢田にとって、この年はターニングポイントとなった。
生来の無口で地味な沢田の性格が反映された作品が、「CO-CoLO 1 〜夜のみだらな鳥達〜」をはじめとしたCO-CoLO 3部作、独立期初期のアルバムである。CO-CoLO 3部作は、沢田の作詞した作品を技巧派のバンドメンバーがダークなメロディラインで曲を作った。音楽関係者の評価は変わらず高かったが、当時のミュージックシーンには受け入れられなかった。ロングソバージュの髪型で歌った「女神」、「きわどい季節」などのシングルを発表し、1988年、3年間活動を共にしたCO-CoLOを解散。
1989年、吉田建をプロデューサーに迎え、村上'ポンタ'秀一を加えて新バンドJAZZ MASTERを結成し、アルバムでは「彼は眠れない」、「単純な永遠」、「REALLY LOVE YA!!」を発表。
1989年から10年間に渡って継続する音楽劇 ACTシリーズがスタート。同年末の「第40回NHK紅白歌合戦」ではシングル「DOWN」の他、ザ・タイガースとしても出場し、同番組の出場者としては初めて同一回で2度出場した。
1991年デビュー25周年を記念してCD化されていなかった旧譜が東芝EMIより発売。25周年にちなみ、NHK-BS2では5日間計25時間の特集番組「美しき時代の偶像」が放送された。
1992年から、沢田は「懐メロ歌手ではない現役の歌手だから」と、音楽番組での過去の映像の放映を許可しなくなる。 1994年には「HELLO」で紅白に出場。 1995年のアルバム「sur←」以降は、「これからは、自分のやりたい音楽を、やりたいようにやっていきたい」とし、沢田がセルフ・プロデュースを宣言。1996年のツアーでは、髪をピンクに染めて「あんじょうやりや」の全国ライブを行う。1997年には岸部一徳、森本太郎とともにユニット"TEA FOR THREE"を結成し、「君を真実に愛せなくては他の何も続けられない」を発表。
この独立期は、毎年のライブツァーは行うものの、毎日のように出ていたテレビから一線を画す。俳優としてNHKの連続テレビ小説「はね駒」や大河ドラマ「山河燃ゆ」「琉球の風」、映画「カポネ大いに泣く」「夢二」ほか、フジテレビ「プロ野球ニュース」の準レギュラーゲスト、各社大手有名企業のCMに出演した。アルバムでは「架空のオペラ」をはじめとした作品をリリース。だが、東芝EMI時代に発表されたアルバムは現在、廃盤になっており、村上'ポンタ'秀一が「手がけたアルバムの中でナンバーワン」と推した、「彼は眠れない」でさえ再リリースされていない。
2000年以降
2000年11月、雑誌『日経エンタテインメント!』「J-POP巨人列伝-20世紀を駆け抜けた10人」第2位 沢田研二(第1位美空ひばり)[9]。
2001年に過去の映像の放映解禁と同時に音楽番組「うたばん」にシングル「耒タルベキ素敵」で出演、また情報番組「新常識クイズ!目からウロコ」の司会を担当したが、その後、テレビ番組への露出はセープ。NHK紅白歌合戦の誘いも固辞、全国ライブツアーや音楽劇、アルバム制作、舞台の主演俳優として活動している。
2002年自主レコードレーベルとなるJULIE LABELを設立。このレーベルからリリースされた沢田のオリジナル・アルバムは目玉焼きなどの独特のパッケージ・デザインが施されている。この頃から沢田の作詞に「平和」という歌詞が多く用いられるようになる。
2005年には、ポリドール在籍時代のアルバム21タイトルと3枚のベスト・アルバムのリマスター盤が相次いで再発売され、そのうちベスト盤「ロイヤル・ストレート・フラッシュ」がオリコンの邦楽アルバムTOP50にランクインした。
2008年、60歳の還暦を記念して、初の二大ドームコンサート「沢田研二 還暦記念コンサート 人間60年 ジュリー祭り」を開催し、東京ドーム、京セラドーム大阪両日で5万4,000人を集めた。1000人のコーラス隊を従え、約6時間半でフルコーラス80曲を歌いきるというギネスレベルのステージを敢行。このライブは、第21回ミュージック・ペンクラブ音楽賞のコンサート・パフォーマンス賞を受賞。
2010年、長年プロデューサーだった加瀬邦彦とともにザ・ワイルド・ワンズと組んで『ジュリー with ザ・ワイルドワンズ』というユニットを結成[10]。シングル『渚でシャララ』、アルバム『JULIE with THE WILD ONES 』を発表し、全国ツァーを行った[11]。第23回ミュージック・ペンクラブ音楽賞コンサートパフォーマンス賞「JULIE with THE WILD ONES LIVE “僕達ほとんどいいんじゃない”」 受賞。
2011年、長年交流を絶っていた元ザ・タイガースの瞳みのるが40年ぶりにステージに復帰し、岸部一徳、森本太郎らタイガースのメンバーと共に9月8日から全国33都市で38回の沢田研二コンサートに参加。ツァー最終日の2012年1月24日、会場となった日本武道館には岸部四郎も参加し、1971年1月24日「ザ・タイガース ビューティフル・コンサート」で解散した時のメンバーが再集結したメモリアルコンサートとなった[12]。
2012年3月、東日本大震災が起こった3月11日に追悼の意味を込め、全曲震災をテーマにしたアルバム「3月8日の雲」を発表した。
2013年1月6日の渋谷公会堂での正月コンサート初日に、「オリジナル・メンバー(岸部兄、森本、瞳、加橋かつみ、沢田)でザ・タイガースを再結成してコンサートを開催する」ことを自ら発表。12月に日本武道館や東京ドームなどでコンサートを開催する予定と報じられた[13]。予告通り、12月3日に日本武道館で44年ぶりとなるオリジナルメンバーによるライブが行われた[14]。
特徴
- ザ・タイガースは日本で初めての長髪の男性アイドル。1967年当時、ザ・ビートルズを真似た長髪は、不良の偏見が根強くあり、タイガースの公演会場の入り口ではPTA、地婦連が立ち、中高生が入場を締め出され、人気のピーク時にも「ロッテ歌のアルバム」や「NHK紅白歌合戦」への出場が叶わなかった。
- 1960年代、最大手の芸能事務所である渡辺プロダクションは、テレビと並行し、ショービジネスとして全国でのライブを基本にしていた。ザ・タイガースは、デビューの年の1967年9月から10月、西日本縦断公演として長崎・博多・広島・尾道・大阪と、トラックに楽器や機材を積んで各地をまわる。1967年 - 1971年の解散までの4年間で、コンサート230回、のべ200万人を動員した。これが日本における全国縦断ツアーの原型といわれ、沢田はソロ以降も全国ツアーを決行。「日本のショービジネスを変えた男」といわれる[15] ゆえんとなった 。
- タブー視されていた「男性のアクセサリー」や「化粧」、「バンドサウンド」を日本の一般家庭に浸透させ、歌謡曲とロックを融合させたのが沢田研二である[16]。
- 早川タケジのデザインによる、羽毛のマフラー、アメリカのポリス帽、演奏中に煙草を吸う、短剣や拳銃を使用、ハーケンクロイツの腕章、背中に刺青、化粧(時には男装の麗人として赤い口紅をすることすらあった)、またウィスキーのポケットボトル、ブルーやゴールドのカラーコンタクト、金属の仮面、女性の裸身コスチュームを身にまとった。沢田は常に帽子を斜めにかぶり、頰にほくろのある左目しか見せないポーズで歌うなど、エロティシズムと退廃美を帯びたスタイル、いわゆるグラムロックを日本のミュージックシーンにはじめて取り入れた。
- 沢田が率いたPYGからの延長である井上堯之バンドは、歌手がフルバンドの前で歌うのが常識であった日本のミュージックシーンにおいて、異例ともいえるバンドスタイルを定着させる先鋭ともなった。
- 「声の色気では断トツの日本人ナンバーワン」として、音楽界の識者たちから歌のうまい歌手総合第5位にランクイン。[17]
エピソード
キャラクター
- 「中性的」「甘い美貌」といわれた外見に対して、ザ・タイガース時代から周囲の沢田評は、「地味」「無口」「やんちゃ」とすべて硬派。
- 本人いわく「太りやすい体質」。50歳を過ぎたあたりから体重を増加させ始め、一般人には「ジュリーが太った」「ショックすぎる」と揶揄されても、本人は「歌がすべて」と意に介していない。迫力のある豊かな声量と磨きのかかったステージングで、還暦を過ぎてからもコンサートでの動員数が増えている。
楽曲
- 沢田による作詞・作曲は、毎年アルバムを作るため持ち歌は膨大な数にのぼる。ザ・ピーナッツ「東京の女」、内田裕也「きめてやる今夜」、高樹澪、シブがき隊、リタ・クーリッジ、松田優作、田中裕子など、多くの歌手や俳優に詞・曲を提供。中でも1982年にアン・ルイスが歌った「ラ・セゾン」(作詞は三浦百恵)はオリコン10位以内のヒットとなった。
- 楽曲提供者は、大野克夫、加瀬邦彦、阿久悠、安井かずみ、吉田建、覚和歌子、井上陽水のほか、八島順一、佐野元春、大沢誉志幸、DER ZIBETの吉田光、サエキけんぞう、朝本浩文、大村憲司、NOBODY、すぎやまこういち、西平彰、マルコシアス・バンプの秋間経夫、松任谷由実、忌野清志郎、佐藤隆、かまやつひろし、伊集院静、頭脳警察のPANTA、佐橋佳幸、吉田Q(順不同)など、シンガーソングライター、ロックミュージシャン、詩人、作家の垣根を越えて幅広い。その上、沢田の俳優としての資質が加わり、「漂泊者のアリア」で日本のオペラ歌手藤原義江役や、オペラ・歌舞伎・タカラヅカ出身者が入り混じった三代目市川猿之助(現・市川猿翁)演出のスーパーオペラ「海光」の主演スサーノ役、さらに音楽劇ACTシリーズで『愛の賛歌』『 バラ色の人生』というシャンソンまで歌いこなしている。
- 「ザ・タイガース・サウンズ・イン・コロシアム」「Rock'nJulie~JULIEⅤ日生リサイタル72」「JulieRock'nTour'80」などの全国ツアーで、GrandFunkRailroadやJoeCocker、MitchRyder&TheDetroitWheelsらをはじめとする数々の洋楽をカバー。ビートルズやローリングストーンズなどの洋楽のカバーからスタートした沢田にとって、当時最先端の洋楽のミュージックシーンやサウンドを取り入れることはごく当たり前のことだった。
カバー
- ザ・タイガースやPYG、ソロ時代を通して多くのヒット曲を持つことから、B'zの稲葉浩志やDER ZIBETのISSAYをはじめとして、河村隆一、清春、BUCK-TICKの櫻井敦司、福山雅治、ZIGGYの森重樹一ら、楽曲をカバーする歌手は後をたたない。
- アイドル歌手の石野真子によって「ジュリーがライバル」という曲もヒットしたが、沢田好きが高じてリングネームにしているプロレスラー、楽曲をタイトルにしたゲーム、沢田研二・ジュリーという名前が登場する小説、マンガ、オマージュしたBL系、またカバーバンドも多く存在する。
- 過去映像を見た若い世代からも「かっこいい」というコメントが寄せられることもある(テレビ番組での生田斗真、松本潤ら)。最近では平井堅が沢田をモチーフにした「お願いジュリー」というアルバム曲を出している。
- 日本以外での影響は、中国語圏で「時の過ぎゆくままに」が「愛你一萬年」などのタイトルで数々の歌手にカバーされ、2012年現在、カバーされた日本の楽曲では最も多い[18] 。香港では、『日本のデヴィッド・ボウイ』と称され、「OH!ギャル」もヒット。人気歌手で俳優でもある林子祥(ジョージ・ラム)が「澤田研二(ザーテン・インイー)」というタイトルで「香港の歌手は沢田研二の歌曲を賛美する」という内容の曲(作詞は鄭國江、作曲は沢田がフランスで発売した「Itsumi」をカバー)を出している。
その他
- 2008年、60歳の還暦を記念した二大ドームコンサート「人間60年・ジュリー祭り」は、加瀬邦彦、岸部一徳、森本太郎という盟友をはじめ、エディ藩、「いくつかの場面」を提供した河島英五の子息、サエキけんぞう、鮫島秀樹、白井良明、ミッキー吉野、八島順一、吉田建など、多くのミュージシャンが客席で見守った。観戦した湯浅学やスージー鈴木、安田謙一、町井ハジメら音楽評論家も絶賛[19]。江國香織は「ジュリーの声は甘く透明なシロップの川」[20]、佐野洋子は「感動した。そして素晴らしく幸せだった」[21]、ねじめ正一は「ゲストもMCも一切なし。スポンサーもなし、メジャー資本もなし。ジュリー祭りはジュリーとお客のためだけのものだ」[22]と記し、ミュージシャンとしての姿勢を評価した。
ディスコグラフィ
シングル
- | 発売日 | 題名 | 備考 | リリース国 |
1 | 1971年11月1日 | 君をのせて | ||
2 | 1972年3月10日 | 許されない愛 | ||
3 | 1972年6月25日 | あなただけでいい | ||
4 | 1972年9月20日 | 死んでもいい | ||
5 | 1973年1月1日 | あなたへの愛 | ||
6 | 1973年4月21日 | 危険なふたり | 初のオリコン1位を獲得 | |
7 | 1973年8月11日 | 胸いっぱいの悲しみ | ||
8 | 1973年11月21日 | 魅せられた夜 | ||
9 | 1974年3月21日 | 恋は邪魔もの | ||
10 | 1974年7月10日 | 追憶 | ||
11 | 1974年11月21日 | 愛の逃亡者 THE FUGITIVE | ||
- | 1975年01月20日※ | MON AMOUR JE VIENS DU BOUT DU MONDE | 『巴里にひとり』のフランス語バージョン ※フランスでの発売日 |
テンプレート:Flagicon フランステンプレート:Flagicon スイステンプレート:Flagicon カナダテンプレート:Flagicon オーストリアテンプレート:Flagicon ギリシャテンプレート:Flagicon ノルウェーテンプレート:Flagicon ベルギーテンプレート:Flagicon オランダ |
- | 1975年01月21日※ | THE FUGITIVE | ※イギリスでの発売日 | テンプレート:Flagicon イギリステンプレート:Flagicon オーストラリアテンプレート:Flagicon シンガポールテンプレート:Flagicon ニュージーランドテンプレート:Flagicon 香港 |
12 | 1975年3月1日 | 白い部屋 | ||
- | 1975年5月20日※ | ATTENDS MOI | ※フランスでの発売日 | テンプレート:Flagicon フランステンプレート:Flagicon カナダテンプレート:Flagicon ベルギーテンプレート:Flagicon スイステンプレート:Flagicon スペインテンプレート:Flagicon オランダ |
13 | 1975年5月21日 | 巴里にひとり | ||
14 | 1975年8月21日 | 時の過ぎゆくままに | 最大のヒット曲 | |
- | 1975年10月15日※ | FOU DE TOI | ※フランスでの発売日 | テンプレート:Flagicon フランステンプレート:Flagicon ベルギーテンプレート:Flagicon オランダ |
15 | 1976年1月21日 | 立ちどまるなふりむくな | ||
16 | 1976年5月1日 | ウィンクでさよなら | ||
- | 1976年5月15日※ | ELLE | ※フランスでの発売日 | テンプレート:Flagicon フランステンプレート:Flagicon ベルギーテンプレート:Flagicon オランダ |
- | 1976年5月15日 | WHEN THE LIGHT WENT OUT | イギリスでのみリリース | テンプレート:Flagicon イギリス |
17 | 1976年9月10日 | コバルトの季節の中で | ||
18 | 1977年2月1日 | さよならをいう気もない | ||
- | 1977年2月21日 | JULIE LOVE | フランスでのみリリース | テンプレート:Flagicon フランス |
19 | 1977年5月21日 | 勝手にしやがれ | 日本レコード大賞受賞曲 | |
- | 1977年7月30日 | MEMORIES | 西ドイツでの先行リリース | テンプレート:Flagicon ドイツ |
20 | 1977年8月10日 | MEMORIES | ||
21 | 1977年9月5日 | 憎みきれないろくでなし | ||
- | 1977年※ | TU AS CHANGE | ※フランスでの発売日 | テンプレート:Flagicon フランス |
- | 1977年10月10日※ | ROCK'NROLL CHILD | ※西ドイツでの発売日 | テンプレート:Flagicon ドイツテンプレート:Flagicon ベルギーテンプレート:Flagicon オランダ |
22 | 1978年1月21日 | サムライ | ||
- | 1978年1月21日 | IN THE CITY | 西ドイツでのみリリース | テンプレート:Flagicon ドイツ |
23 | 1978年5月21日 | ダーリング | ||
24 | 1978年8月1日 | ヤマトより愛をこめて | ||
25 | 1978年9月10日 | LOVE (抱きしめたい) | ||
26 | 1979年2月1日 | カサブランカ・ダンディ | ||
27 | 1979年5月31日 | OH! ギャル | ||
28 | 1979年9月21日 | ロンリー・ウルフ | ||
29 | 1980年1月1日 | TOKIO | ||
30 | 1980年4月21日 | 恋のバッド・チューニング | ||
31 | 1980年9月21日 | 酒場でDABADA | ||
32 | 1980年12月23日 | おまえがパラダイス | ||
33 | 1981年5月1日 | 渚のラブレター | ||
34 | 1981年9月21日 | ス・ト・リ・ッ・パ・ー | ||
35 | 1982年1月10日 | 麗人 | ||
36 | 1982年5月1日 | おまえにチェックイン | ||
37 | 1982年9月10日 | 6番目のユ・ウ・ウ・ツ | ||
38 | 1983年1月1日 | 背中まで45分 | ||
39 | 1983年5月10日 | 晴れのちBLUE BOY | ||
40 | 1983年9月21日 | きめてやる今夜 | ||
41 | 1984年2月10日 | どん底 | ||
42 | 1984年4月25日 | 渡り鳥 はぐれ鳥 | ||
43 | 1984年9月25日 | AMAPOLA | ||
44 | 1985年8月8日 | 灰とダイヤモンド | 東芝EMI移籍第一弾 | |
45 | 1986年4月23日 | アリフ・ライラ・ウィ・ライラ 〜千夜一夜物語〜 | ||
46 | 1986年10月22日 | 女神 | ||
47 | 1987年3月21日 | きわどい季節-Summer Graffiti- | ||
48 | 1987年7月22日 | STEPPIN' STONES | ||
49 | 1987年11月16日 | CHANCE | ||
50 | 1988年6月25日 | TRUE BLUE | ||
51 | 1988年10月26日 | Stranger -Only Tonight- | ||
52 | 1989年5月24日 | Muda | ||
53 | 1989年9月20日 | ポラロイドGIRL | ||
54 | 1990年2月7日 | DOWN | ||
55 | 1990年5月23日 | 世界はUp & Fall | ||
56 | 1991年5月17日 | SPLEEN 〜六月の風にゆれて〜 | ||
57 | 1992年5月1日 | 太陽のひとりごと | ||
58 | 1993年5月20日 | そのキスが欲しい | ||
59 | 1994年11月16日 | HELLO/YOKOHAMA BAY BLUES | 両A面 | |
60 | 1995年11月29日 | あんじょうやりや | ||
61 | 1996年9月6日 | 愛まで待てない | ||
- | 1997年3月26日 | 君を真実に愛せなくては他の何も続けられない | TEA FOR THREE名義 | |
62 | 1997年6月10日 | オリーヴ・オイル | ||
63 | 1997年8月27日 | サーモスタットな夏 | ||
64 | 1997年10月16日 | 恋なんて呼ばない | ||
65 | 1998年6月24日 | 永遠に | ||
66 | 1999年8月6日 | 鼓動 | ||
67 | 2000年8月9日 | 耒タルベキ素敵 | ||
68 | 2001年6月8日 | あの日は雨 | ||
- | 2001年10月24日 | まごころよりどころ | 研二と慶子名義 | |
69 | 2002年9月1日 | 忘却の天才 | ||
70 | 2003年4月25日 | 明日は晴れる | ||
71 | 2004年2月25日 | オーガニック オーガスム | ||
72 | 2005年5月9日 | greenboy | ||
73 | 2006年4月21日 | 俺たち最高 | ||
74 | 2007年6月25日 | そっとくちづけを | ||
75 | 2008年5月25日 | ROCK'N ROLL MARCH | ||
- | 2010年2月10日 | 渚でシャララ | ザ・ワイルドワンズとのコラボ |
アルバム
オリジナル・アルバム
デビュー以来約40年間、毎年必ず新作アルバムを発表し、1974年以降、毎年全国ツアーを開催しており、これは他に例を見ない連続記録といわれる[23]。
- | 発売日 | 題名 | 備考 | リリース国 |
1 | 1969年12月01日 | JULIE | ザ・タイガース在籍中にリリースされた作品 | |
2 | 1971年12月21日 | JULIE II | ||
3 | 1972年9月10日 | JULIE IV 今僕は倖せです | ||
4 | 1973年8月21日 | JULIE VI ある青春 | ||
5 | 1974年9月10日 | JEWEL JULIE 追憶 | ||
6 | 1974年12月21日 | THE FUGITIVE 愛の逃亡者 | ||
- | 1975年1月21日 | KENJI | 内容は『THE FUGITIVE 愛の逃亡者』と同一 | テンプレート:Flagicon イギリステンプレート:IDNテンプレート:Flagicon 香港 |
7 | 1975年12月21日 | いくつかの場面 | ||
- | 1976年2月1日 | KENJI SAWADA | 内容は日本版と同一 | テンプレート:Flagicon フランステンプレート:Flagicon ドイツテンプレート:Flagicon オランダテンプレート:Flagicon ベルギー |
8 | 1976年4月21日 | KENJI SAWADA | ||
9 | 1976年12月1日 | チャコール・グレイの肖像 | ||
10 | 1977年11月15日 | 思いきり気障な人生 | ||
- | 1978年4月 | rock'n'roll child | 日本国外のみでのリリース | テンプレート:Flagicon フランステンプレート:Flagicon ドイツ |
11 | 1978年8月10日 | 今度は、華麗な宴にどうぞ。 | ||
12 | 1978年12月1日 | LOVE 〜愛とは不幸をおそれないこと〜 | ||
13 | 1979年11月25日 | TOKIO | ||
14 | 1980年7月21日 | BAD TUNING | ||
15 | 1980年12月23日 | G.S.I LOVE YOU | ||
16 | 1981年6月10日 | S/T/R/I/P/P/E/R | ||
17 | 1982年6月1日 | A WONDERFUL TIME | ||
18 | 1982年12月10日 | MIS CAST | ||
19 | 1983年3月5日 | JULIE SONG CALENDAR | 当初カセットテープのみで発売された | |
20 | 1983年10月1日 | 女たちよ | ||
21 | 1984年6月5日 | NON POLICY | ||
22 | 1985年9月21日 | 架空のオペラ | ||
23 | 1986年6月25日 | CO-CoLO 1 〜夜のみだらな鳥達〜 | ||
24 | 1987年5月25日 | 告白-CONFESSION- | ||
25 | 1988年7月24日 | TRUE BLUE | ||
26 | 1989年10月11日 | 彼は眠れない | ||
27 | 1990年6月20日 | 単純な永遠 | ||
28 | 1991年6月14日 | PANORAMA | ||
29 | 1992年6月10日 | Beautiful World | ||
30 | 1993年11月17日 | REALLY LOVE YA!! | ||
31 | 1994年12月14日 | HELLO | ||
32 | 1995年12月13日 | sur← | ||
33 | 1996年9月19日 | 愛まで待てない | ||
34 | 1997年6月25日 | サーモスタットな夏 | ||
35 | 1998年7月15日 | 第六感 | ||
36 | 1999年8月25日 | いい風よ吹け | ||
37 | 2000年9月13日 | 耒タルベキ素敵 | ||
38 | 2001年6月20日 | 新しい想い出 2001 | ||
39 | 2002年9月1日 | 忘却の天才 | 初回ブック型特殊ケース仕様。2010年より通常Pケース仕様 | |
40 | 2003年4月25日 | 明日は晴れる | 初回盾形特殊ケース仕様。2012年9月8日より通常Pケース仕様 | |
41 | 2004年2月25日 | CROQUEMADAME & HOTCAKES | 初回クロックマダム型特殊ケース仕様。2012年9月8日より通常Pケース仕様 | |
42 | 2005年5月9日 | greenboy | 初回6Pチーズ型特殊ケース仕様。2012年9月8日より通常Pケース仕様 | |
43 | 2006年4月21日 | 俺たち最高 | 初回サイコロ型特殊ケース仕様。2012年9月8日より通常Pケース仕様 | |
44 | 2007年6月25日 | 生きてたらシアワセ | ||
45 | 2008年5月25日 | ROCK'N ROLL MARCH | ||
- | 2010年3月24日 | JULIE with THE WILD ONES | ザ・ワイルドワンズとのコラボ。レーベルはJ-more |
ミニ・アルバム
- | 発売日 | 題名 | 備考 | リリース国 |
1 | 2009年6月10日 | Pleasure Pleasure | 全6曲入りミニアルバム | |
2 | 2010年9月1日 | 涙色の空 | 作詞は全曲沢田研二 | |
3 | 2012年3月11日 | 3月8日の雲 | 作詞は全曲沢田研二 | |
4 | 2013年3月11日 | Pray | 作詞は全曲沢田研二 | |
5 | 2014年3月11日 | 三年想いよ | 作詞は全曲沢田研二 |
ベスト・アルバム
- | 発売日 | 題名 | 備考 | リリース国 |
1 | 1973年6月10日 | 沢田研二 GLORIOUS 20(LP2枚組) | ||
2 | 1974年4月10日 | パーフェクト(LP2枚組) | ||
3 | 1975年4月25日 | 沢田研二 パーフェクト14 | ||
4 | 1976年9月10日 | FOREVER 〜沢田研二ベスト・セレクション〜(LP2枚組) | ||
5 | 1977年12月15日 | 沢田研二大全集(LP5枚組限定版) | ||
6 | 1977年7月25日 | Kenji Sawada Nice Songs 勝手にしやがれ | カセットテープのみ | |
7 | 1977年7月25日 | Rock'n Julie with Tigers | カセットテープのみ | |
- | 1978年4月 | YESTERDAY TODAY | 香港のみでのリリース | テンプレート:Flagicon 香港 |
8 | 1978年5月25日 | ダーリング・Julie | カセットテープのみ | |
9 | 1979年4月1日 | Royal Straight Flush | CD再発 | |
10 | 1980年2月25日 | 沢田研二全曲集 | カセットテープのみ | |
11 | 1980年9月25日 | 酒場でDABADA | カセットテープのみ | |
12 | 1981年1月25日 | 沢田研二全曲集 | カセットテープのみ | |
13 | 1981年5月25日 | 沢田研二作品集 | カセットテープのみ | |
- | 1981年 | KENJI SAWADA Greatest Hits | 香港のみでのリリース | テンプレート:Flagicon 香港 |
14 | 1981年12月15日 | Royal Straight Flush II | CD再発 | |
15 | 1982年10月25日 | ジュリー・CMソング・コレクション | カセットテープのみ | |
16 | 1983年10月25日 | 沢田研二全曲集 | カセットテープのみ | |
17 | 1984年3月25日 | Royal Straight Flush III | CD再発 | |
18 | 1985年9月1日 | 全曲集〜灰とダイヤモンド | ||
19 | 1986年6月1日 | Julie Special 〜沢田研二 A面コレクション〜(CD3枚組) | CD再発 (SHM-CD仕様) | |
20 | 1986年8月21日 | 我が名は、ジュリー (芸能生活20周年記念カセット6本セット限定盤) |
カセットテープのみ | |
21 | 1987年9月13日 | SUPER BEST(CD2枚組) | ||
22 | 1991年12月4日 | A SAINT IN THE NIGHT | ジャズのスタンダードをカバーした作品 | |
23 | 1996年11月20日 | 沢田研二 B面コレクション(CD3枚組) | 30周年記念32タイトルCD再発予約特典(非売品) 後にJULIE LABELからコンサート会場限定再発売 |
|
24 | 1996年12月11日 | AFTERMATH | バラード・セレクション | |
25 | 1997年12月10日 | Royal Straight Flush 1971-1979(CD2枚組) | ||
26 | 1997年12月10日 | Royal Straight Flush 1980-1996(CD2枚組) | ||
27 | 1997年12月10日 | Distortion Love | ||
28 | 2008年6月25日 | Cocolo Nooto(CD5枚組) | セルフプロデュース期の沢田研二作詞曲69曲を収録 コンサート会場+一部レコード店で限定発売 |
|
29 | 2012年6月6日 | Royal Straight Flush 1/2/3(限定盤) | 3000セット限定 |
ライブ・アルバム
- | 発売日 | 題名 | 収録 |
1 | 1972年3月10日 | JULIE III SAWADA KENJI RECITAL(LP2枚組) | 1971年12月24日 日生劇場 |
2 | 1972年12月21日 | JULIE V 沢田研二 日生リサイタル(LP2枚組) | 1972年10月17日-21日 日生劇場 |
3 | 1973年12月21日 | JULIE VII THE 3rd 沢田研二リサイタル(LP3枚組) | 1973年10月10日 中野サンプラザ |
4 | 1975年10月21日 | 沢田研二比叡山フリーコンサート(LP2枚組) | 1975年7月20日 蛇ヶ池人口スキー場 |
5 | 1977年8月10日 | 沢田研二リサイタル ハムレット・イン・ジュリー(LP2枚組) | 1977年6月29日-30日 NHKホール |
6 | 1978年10月25日 | JULIE ROCK'N TOUR '78 田園コロシアムライブ | 1978年8月31日 田園コロシアム(カセットテープのみ) |
7 | 1979年8月25日 | JULIE ROCK'N TOUR '79(カセットテープ2本セット) | 1979年7月28-29日 渋谷公会堂(カセットテープのみ) |
8 | 1987年12月25日 | 架空のオペラ '86 (芸能生活20周年記念LP/CD4枚組限定盤) |
正月歌劇: 1986年1月16-18日 NHKホール、1月21-28日 フェスティバルホール SUMMER LIVE '86: 1986年10月8-9日 新宿厚生年金会館、10月10日 フェスティバルホール |
9 | 1992年1月16日 | '91 武道館コンサート "JULIE MANIA" (芸能生活25周年記念武道館コンサートCD2枚組) |
1991年10月11日 日本武道館 |
10 | 1996年11月20日 | 沢田研二 ライブセレクション | 30周年記念32タイトルCD再発予約特典(非売品) |
11 | 2009年7月25日 | 人間60年・ジュリー祭り (CD6枚組 全82曲完全収録) |
2008年12月に行われた東京ドーム公演『人間60年・ジュリー祭り』の模様をおさめたCD6枚組(全82曲完全収録)。 |
その他作品
- | 発売日 | 題名 | 収録 |
1 | 1981年3月21日 | サヨナラ日劇ウエスタン・カーニバル VOL3 | 1981年1月25日 日本劇場 (カセットテープのみ。1998年11月26日CD再発) |
2 | 1989年6月21日 | YOKOHAMAスーパーオペラ“海光”公演記念盤 | |
3 | 1996年 | DORA〜100万回生きたネコ | 1996年6月21日-7月29日 東京芸術劇場。テレビでも放映 |
4 | 1999年10月 | ACT大全集(CD9枚組) | ACTシリーズ全10公演収録 |
5 | 2008年8月27日 | SINGLE COLLECTION BOX Polydor Years | ポリドール在籍時の全シングルのCD-BOX |
映像作品
LIVE
ソロデビュー以降、毎年、欠かさず1月に東京・大阪・名古屋を中心とした正月コンサートと、6月からの全国ツアーを行っている。記録としてツァータイトルとステージ数を挙げることも検討したが、膨大なステージ数となるため、以下、映像化、あるいはテレビなどで放送されているものだけを記す。
- | 発売日・収録年 | 題名 | 媒体 | 収録 | 備考 |
1 | 1975年 | JULIE ROCK'N TOUR75 比叡山フリーコンサート | 日本テレビ放送 | 1975年7月20日 演奏井上堯之バンド&ミッキー吉野グループ ゲスト:内田裕也・森本太郎・岸部修三・デイブ平尾 | |
2 | 1975年 | 音と光の饗宴 沢田研二ショー | 読売テレビ放送 | 大阪球場 1975年12月13日放送 | |
3 | 1976年 | 沢田研二リサイタル ~限りなきロマンを求めて~ | フジテレビ放送 | 日本武道館 | ウエディングドレスのような白い衣装 |
4 | 1980年7月21日 | JULIE PRESENTS'80 BAD TUNING | VHS、β | 1980年5月24日 横浜スタジアム | 2002年VHSのみ再発 |
5 | 1983年3月10日 | JULIE CONCERT TOUR'83 MIS CAST | VHS、β | 2003年VHSのみ再発 | |
6 | 1990年 | KENJI SAWADA With Jazz Master | VHS、DVD | 1990年10月28日 一ツ橋大学学園祭 | DVDは数量限定 |
7 | 1992年1月16日 | 武道館コンサート ジュリーマニア | VHS、DVD | 1991年10月11日 日本武道館 | |
8 | 1992年7月 | A SAINT IN THE NIGHT | VHS、DVD | 1992年2月22日 NHKホール | DVDは数量限定 |
9 | 1994年4月25日 | REALLY LOVE YA!! | VHS、DVD | 1994年1月6日 渋谷公会堂 | |
10 | 1995年1月5日 | ZU ZU Songs | VHS、DVD | 1994年10月2日 渋谷公会堂 | |
11 | 1996年6月 | あんじょうやりや | VHS、DVD | 1996年3月8日 ティアラこうとう | |
12 | 1997年6月 | Concert Tour 96 and 97 愛まで待てない | VHS、DVD | 1997年2月8日 パルテノン多摩 | |
13 | 1997年10月 | tour'97 サーモスタットな夏 | VHS、DVD | 1997年10月18日 日比谷野外音楽堂 | |
14 | 1998年6月 | ROYAL STRAIGHT FLUSH | VHS、DVD | 1998年1月6日 渋谷公会堂 | |
15 | 1999年1月 | 1998 ROCKAN' TOUR | VHS、DVD | 1998年10月3日 松戸森のホール21 | DVDは数量限定 |
16 | 1999年5月 | 1999正月コンサート | VHS、DVD | 1999年1月9日 渋谷公会堂 | DVDは数量限定 |
17 | 2000年3月 | いい風よ吹け | VHS、DVD | 1999年11月14日 東京厚生年金会館 | DVDは数量限定 |
18 | 2000年6月 | 祝・2000年正月大運動会 | VHS、DVD | 2000年1月8日 渋谷公会堂 | DVDは数量限定 |
19 | 2000年12月 | 耒タルベキ素敵 | VHS、DVD | 2000年11月23日 東京厚生年金会館 | DVDは数量限定 |
20 | 2002年4月 | 21世紀初三大都市公演 | VHS、DVD | 2001年1月6日 渋谷公会堂 | DVDは数量限定 |
21 | 新しい想い出 | VHS、DVD | 2001年12月8日 大宮ソニックシティ | DVDは数量限定 | |
22 | 2002年9月 | 糸車のレチタティーボ | VHS、DVD | 2002年1月7日 渋谷公会堂 | DVDは数量限定 |
23 | 2002年11月12日 | 快傑ジュリーの冒険 | VHS、DVD | フジテレビ番組『クイズドレミファドン』出演時の映像を収録(1976年-1987年、共28回) | |
24 | 2003年7月 | 忘却の天才 | VHS、DVD | 2002年10月26日 府中の森芸術劇場 | DVDは数量限定 |
25 | 2003年7月 | LOVE & PEACE | VHS、DVD | 2003年1月7日 渋谷公会堂 | DVDは数量限定 |
26 | 2004年3月 | 明日は晴れる | VHS、DVD | 2003年11月1日 大宮ソニックシティ | DVDは数量限定 |
27 | 2004年7月 | 爛漫甲申演唱会 | VHS、DVD | 2004年1月18日 渋谷公会堂 | DVDは数量限定 |
28 | 2005年5月25日 | CROQUEMADAME & HOTCAKES | DVD | 2004年11月6日 大宮ソニックシティ | |
29 | 2005年6月1日 | 師走 RomantiX | DVD | 2004年12月25日 東京国際フォーラム ホールA | |
30 | 2006年5月15日 | greenboy | DVD | 2005年11月19日 大宮ソニックシティ | |
31 | 2007年5月3日 | ワイルドボアの平和 | DVD | 2006年1月14日 渋谷C.C.Lenmonホール | |
32 | 2008年2月2日 | 生きてたらシアワセ | DVD | 2007年10月13日 渋谷C.C.Lenmonホール | |
33 | 2009年6月25日 | 人間60年・ジュリー祭り | DVD | 2008年12月3日 東京ドーム | 4枚組DVD |
34 | 2011年01月12日 | JULIE with THE WILD ONES LIVE 僕達ほとんどいいんじゃあない | DVD | 2010年8月6日、渋谷CCLemonホールで収録 | |
35 | 2011年12月21日 | 沢田研二 in 夜のヒットスタジオ | DVD | フジテレビ番組『夜のヒットスタジオ』出演時の映像を収録(1975年5月5日-1990年2月21日、共102回) | 6枚組DVD |
36 | 2012年6月29日 | 沢田研二 LIVE 2011~2012 ゲスト:瞳みのる・森本太郎・岸部一徳 | DVD | 2012年1月24日 日本武道館 |
STAGE
1989年から1998年まで続いた音楽劇「ACT」シリーズ(演出・加藤直)では、ほぼ1人芝居で哲学的な内容を演じている。その後に続く久世光彦やマキノノゾミが演出している音楽劇では、主に舞台音楽はアコーディオン奏者coba、振り付けは南流石が担当。客演として招かれた藤山直美との人情芝居はDVD化されていないが、ACTシリーズは9枚組のCD全集が発売されている。
- | 公演年 | 題名 | 媒体 | 公演場所・収録日・その他 | 備考 |
01 | 1975年 | 唐版・瀧の白糸(共演:李麗仙、伊藤雄之助) | 未収録 | 1975年 大映東京撮影所ステージ | 唐十郎作・演出:蜷川幸雄。全26公演 |
02 | 1977年 | ロックオペラ・ハムレット | レコード | NHKホール | リサイタルライブ盤 |
03 | 1978年 | ロックミュージカル・天草四郎 | 未収録 | 帝国劇場 | 構成:加瀬邦彦 演出:蜷川幸雄。4/30~5/2の5回公演 |
04 | 1986年 | 貧民倶楽部(共演:浅丘ルリ子) | テレビ放映 | 1986年12月 帝国劇場 | 演出:蜷川幸雄 音楽:宇崎竜童 作詞:阿木燿子 衣装・辻村ジュサブロー。全26公演 |
05 | 1987年 | 楽劇 The Anzuchi・麗しき魔王の国(共演:役所広司、天宮良、桑名正博、戸田恵子、笹野高史) | 未収録 | 銀座セゾン劇場 10月3日-26日全34公演 | 作:市川森一 演出:加藤直 音楽:久石譲。 |
06 | 1988年 | 音楽劇 ドン・ジョバンニ~超人のつくり方(共演:汀夏子、斎藤晴彦、) | 未収録 | 銀座セゾン劇場 12月3日-26日 | 作・演出:加藤直 |
07 | 1989年 | ACT クルト・ワイル | 未収録 | 東京グローブ座 | 1989年3月にグローブ座公演後、各地のホテルで全26公演 |
08 | 1989年 | YOKOHAMAスーパーオペラ"海光"(共演:大地真央、市川右近、余貴美子など) | CD、VHS | 1989年6月22日-26日 横浜アリーナ(横浜市市制100周年・開港130周年記念イベント) | 演出:市川猿之助(猿翁)、市民コーラス1000人が参加 |
09 | 1990年 | ACT BORIS VIAN | VHS、DVD | 1990年3月7日-27日 東京グローブ座・新神戸オリエンタル劇場 | 夭折したフランスの芸術家を演じた1人芝居 |
10 | 1991年 | ACT NINO ROTA | VHS、DVD | 1991年3月3月-24日 東京グローブ座・神戸オリエンタル劇場 | フェデリコ・フェリーニ監督の音楽を務めた作曲家がモチーフ |
11 | 1992年 | ACT SALVADOR DALI | VHS、DVD | 1992年3月4日-22日 東京グローブ座・ 神戸オリエンタル劇場 | スペインの幻影的な作風で知られる画家ダリがモチーフ。助演:篠井英介。 |
12 | 1993年 | ACT SHAKESPEARE | VHS、DVD | 1993年3月公演 東京グローブ座・神戸オリエンタル劇場 | 音楽は例年のcobaに加えてドラム村上“PONTA”秀一、ベース高橋ゲタ夫が参加。 |
13 | 1993年 | 音楽劇 「漂泊者のアリア」藤原義江の生涯(共演:鮫島有美子、吉行和子、風吹ジュンら) | テレビ放映 | 1993年7月 NHKホール20周年記念公演 東京のほか大阪・名古屋・福岡 | 演出:栗山民也、音楽:宮川良、日本のオペラの基礎を築いた藤原義江役 |
14 | 1993年 | 阿呆劇 三文オペラ(共演:吉田日出子、笹野高史、銀粉蝶など) | 未収録 | 1993年10月全23公演 東京シアターコクーン | ブレヒトの三文オペラで音楽はクルト・ワイル、演出:串田和美 |
15 | 1994年 | 戯曲 かもめ(共演:富士真奈美など) | 未収録 | 1994年2月-3月 新神戸オリエンタル劇場ほか全25公演 | チェーホフの代表的な戯曲。演出:井上思 |
16 | 1994年 | ACT Édith Piaf | VHS、DVD | 1994年東京グローブ座・新神戸オリエンタル劇場で6-7月公演 | フランスのシャンソン歌手エディツト・ピアフの生涯を歌と芝居でえがく |
17 | 1994年 | ミュージカル ザ・近松(共演:杜けあき 荻野目慶子) | テレビ放映 | 1994年11月 大阪近鉄劇場で全34公演 | 演出:大谷亮介 |
18 | 1995年 | 音楽劇 異邦人・ボーダレスラブ(共演:剣幸、熊谷真美など) | 未収録 | 1995年4月-5月 天王洲銀河劇場、シアタードラマシティなど | 『メキシコ近代演劇の父』といわれた佐野碩役。作・曲:斎藤憐、演出:加藤直 |
19 | 1995年 | ACT BUSTER KEATON | VHS、DVD | 1995年6月-7月 東京グローブ座、新神戸オリエンタル劇場で全22公演 | 喜劇役者パスター・キートンがモチーフ |
20 | 1995年 | 阿呆劇 フィガロの結婚(共演:吉田日出子、小日向文世、渡辺えりなど) | テレビ放映 | 10月にシアターコクーンで全26公演 | 演出:串田和美、原作:ボーマルシェ |
21 | 1996年 | DORA 100万回生きたねこ(共演:山瀬まみなど) | テレビ放映 | 1996年6月に東京芸術劇場でスタートし、国内全88公演+フランス公演 | 演出・振付:フィリップ・ドゥクフレ(Philippe decoufle=フランスを代表する演出家) |
22 | 1996年 | ACT 宮沢賢治 | VHS、DVD | 1996年11月14日東京グローブ座で収録、新神戸オリエンタル劇場などで 全21公演 | ベートーベンの「運命」に「雨にも負けず…」と詩をのせて歌った |
23 | 1997年 | ACT ELVIS PRESLEY | VHS、DVD | 1997年5月15日東京グローブ座で収録。神戸オリエンタル劇場をあわせて全21公演 | ロックの王様プレスリーがモチーフ |
24 | 1998年 | ブルーエンジェル(共演:鈴木砂羽) | CD | 1998年2月-3月 シアターコクーン全61公演 | ロイヤル・シェイクスピアカンパニー初演、映画にもなった「嘆きの天使」の翻訳ミュージカル |
25 | 1998年 | ACT むちゃくちゃでごじゃりまするがな | VHS、DVD | 1998年11月19日収録。東京グローブ座など全21公演 | |
26 | 1999年 | ミュージカル ザ・近松(共演:高嶺ふぶき、茂山宗彦、伊藤蘭らで再演) | VHS、DVD | 1999年2月27日 日生劇場。全32公演 | 演出:大谷亮介 |
27 | 1999年 | ミュージカル・ペーパームーン(共演:河合美智子・前田亜紀など) | 未収録 | 1999年7月-8月 シアターコクーンほか全国ツァー | 演出:栗山民也。映画「ペーパームーン」のミュージカル版 |
28 | 2000年 | ミュージカル・ペーパームーン(共演:小松千春・ 田畑亜弥などで再演) | 未収録 | 2000年7月-9月 シアターコクーンほか全国ツァー | 演出:栗山民也 |
29 | 2001年 | 音楽劇 いつかヴァスコ・ダ・ガマのように (共演:藤山直美) | VHS、DVD | 2001年9月-10月 シアターコクーンなど東京・名古屋・大阪で全40公演 | 演出:久世光彦 |
30 | 2002年 | 夢噺 桂春団治 | テレビ放映 | 2002年5月 藤山寛美十三回忌追善のため、大阪松竹座で沢田、東京では中村勘三郎(当時)とのダブルキャスト全42公演。 | 演出:宮永雄平 |
31 | 2002年 | 風狂伝'02(共演:緒形拳、小松政夫ら) | VHS、DVD | 2002年6月28日 東京ル・テアトル銀座、大阪ドラマシティで全33公演 | 演出:久世光彦 |
32 | 2003年 | 沢田・志村の「さあ、殺せ!」(共演:志村けん) | VHS、DVD | 2003年 シアターコクーン | 演出:久世光彦 |
33 | 2004年 | 謎の変奏曲(共演:杉浦直樹) | 2004年5月-7月 東京サンシャイン劇場など | 演出:宮田慶子 | |
34 | 2004年 | 歌劇 人情酸漿蛍(共演:石田えり) | DVD | 2004年7月-9月 シアターコクーンなど | 演出:久世光彦 |
35 | 2005年 | 夫婦善哉 | 未収録 | 2005年2月-3月 東京新橋演舞場、大阪松竹座などで藤山直美の相手役として客演 | 演出:宮永雄平 |
36 | 2005年 | センセイの鞄 (共演:坂井真紀) | DVD | 8月-9月、シアターコクーンをはじめ東京・神戸・名古屋で公演。 | 演出:久世光彦、原作:川上弘美 |
37 | 2006年 | 音楽劇モダン出世双六 天国を見た男(共演:南野陽子) | DVD | 2006年 東京芸術劇場収録、シアタードラマシティ・名鉄ホールで全27公演 | 演出:マキノノゾミ |
38 | 2007年 | 桂 春団治 | 未収録 | 2007年4月-6月 新橋演舞場、博多座、大阪松竹座で再演 | 演出:宮永雄平 |
39 | 2008年 | 音楽劇ぼんち(共演:土居裕子など) | DVD | 2008年4月19日 東京紀伊國屋サザンシアター収録。全28公演 | 演出:マキノノゾミ |
40 | 2009年 | 探偵~哀しきチェイサー(共演:伊藤蘭) | DVD | 2009年4月 東京紀伊國屋サザンシアター収録。公演は東京・大阪で26公演 | 演出:マキノノゾミ |
41 | 2009年 | 桂 春団治 | 未収録 | 2009年10月-12月 京都南座などで再々演 | 演出:宮永雄平 |
42 | 2010年 | 新・センセイの鞄(共演は富田靖子) | DVD | 2010年4月3日 東京紀伊國屋サザンシアターで収録 | 演出:マキノノゾミ。全26公演 |
43 | 2011年 | 探偵~哀しきチェイサー(共演:高泉淳子で再演) | 未収録 | 2011年3月18日-5月2日まで東京紀伊國屋サザンシアター・神戸オリエンタル劇場で全35公演 | 演出:マキノノゾミ |
44 | 2012年 | お嬢さんお手上げだ(共演:朝倉みかん) | DVD | 2012年4月 東京紀伊國屋サザンシアターなど全30公演 | 演出:マキノノゾミ |
45 | 2013年 | 探偵~哀しきチェイサー・雨だれの挽歌(共演:南野陽子) | 2013年3月~5月 東京紀伊國屋サザンシアターなど全35公演 | 演出:マキノノゾミ |
提供した楽曲、カバーされた楽曲
テンプレート:Main 「沢田研二が作詞、もしくは作曲して他アーティストに提供した楽曲一覧」と、「他アーティストによる、沢田研二・カバー楽曲の一覧」について。
出演作品・出演番組
テンプレート:Main 沢田研二が歌手として、俳優として、出演したテレビ番組、映画、テレビドラマ、CMなどについて。
演じた俳優
- 遠藤雄弥 - 「ザ・ヒットパレード〜芸能界を変えた男・渡辺晋物語〜」(2006年フジテレビ)
著書・関連本
- 『ザ・スター沢田研二』(スポーツニッポン・石原信一著)- 1977年発売
- 『沢田研二写真集 僕の中の男たち』(ワールドレジャー・稲腰功一撮影)- 1977年発売
- 『ジョイナス=ブックス 沢田研二』(バンダイ出版事業部)- 1977年発売、表紙は「憎みきれないろくでなし」の衣装。
- 『水の皮膚』(パルコ出版)- 1980年発売、石岡瑛子プロデュースの写真集。
- 『我が名は、ジュリー』(中公文庫・沢田研二著、玉村豊男 編集) - 1985年6月に大型本、1986年12月に文庫本発売。
- 『Paradis,Paradis』(リトルモア)- 2002年2月発売。クリスチャン・ ディオールのポスターや、タカラのCMでシーナ・イーストンなどの衣装を担当した鬼才・早川タケジの衣装・スタイリング・アートディレクションを集大成した大型本。タケジは、1998年アートファッション20世紀ファッションイラストの巨匠たち展で、日本人で唯一選出されている。内容は、ほぼ80%以上、沢田の衣装写真である。
- 『真夜中の天使』(中島梓著) - 登場人物ジョニーのモデル。
脚注
関連項目
人物
- ザ・タイガース - 沢田研二の所属バンド
- PYG - 沢田研二の所属バンド
- 井上堯之バンド - 沢田研二のバックバンド
- エキゾティクス - 沢田研二のバックバンド
- 鉄人バンド - 現在の沢田のバックバンド。それぞれに音楽活動をしているので正式な名称ではないが、ジュリー祭りの80曲を譜面なしでこなし、沢田自身がこの呼び名を捧げた
- 安井かずみ- 沢田研二の作詞提供者
- 加瀬邦彦 - 沢田研二のプロデューサー、楽曲提供者
- 渡辺晋 - 渡辺プロの創業者、沢田研二の恩師
- ザ・ピーナッツ
- 伊藤エミ - 沢田研二の先妻
- 田中裕子 - 沢田研二の妻
- 内田裕也 - GS時代の恩師
- 樹木希林 - 内田裕也、久世光彦など関連の友人
- 志村けん - 1979年まで沢田研二と同じ事務所。沢田研二の尊敬する人物の一人
- 早川タケジ - 現在も継続している沢田研二の衣装デザイナー
- 久世光彦 - 「悪魔のようなあいつ」「源氏物語」のプロデューサー。作家
- 中島梓 - 沢田研二のファン、日本のボーイズラブ小説の草分け、エッセイスト
- 伊豆田洋之 - 「ポールマッカトニーと声が似ている」と、沢田が信頼を寄せてコーラスを依頼しているミュージシャン
- マキノノゾミ - 劇作家・演出家
外部リンク
テンプレート:沢田研二 テンプレート:ザ・タイガース テンプレート:日本レコード大賞受賞 テンプレート:日本レコード大賞最優秀歌唱賞 テンプレート:日本有線大賞 テンプレート:日本歌謡大賞 テンプレート:FNS歌謡祭グランプリ
テンプレート:Music-bio-stub- ↑ 「オリコン」調べ。1982年「6番目のユ・ウ・ウ・ツ」ヒット中に歴代1位になった。
- ↑ prints21 1998年冬「JULIE!JULIE!JULIE!」ほか
- ↑ 「内田裕也対談集・音楽をどう生きるか」創樹社
- ↑ 「Rock Carnival・B.B.キング初来日コンサート」(ニューミュージック・マガジン1971年8月号)中村とうよう、「京都大学西部講堂で行われたロック・フェスティバル 第1回 MOJO WEST」(団塊パンチ4)木村英輝
- ↑ 5.0 5.1 5.2 5.3 テンプレート:Cite news
- ↑ 「我が名は、ジュリー」中央公論社刊、「グループサウンズ時代の証言者・加瀬邦彦」読売新聞
- ↑ 7.0 7.1 テンプレート:Cite journal
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ 日経エンタテインメント!2000年12月号「J-POP巨人列伝-20世紀を駆け抜けた10人」
- ↑ ジュリー&ワイルドワンズが合体 毎日新聞 2009年12月10日閲覧
- ↑ ジュリー、ワイルドワンズと合体! 新曲発売 サンケイスポーツ 2010年1月25日閲覧
- ↑ 第24回ミュージック・ペンクラブ音楽賞コンサート・パフォーマンス賞「沢田研二Live2011-2012ゲスト:瞳みのる・森本太郎・岸部一徳」受賞
- ↑ ザ・タイガースが再結成 44年ぶりオリジナルメンバー スポーツニッポン 2013年1月6日閲覧
- ↑ ザ・タイガース復活!沢田絶叫「ついにこの日がやってきました」 サンスポ.com 2013年12月4日
- ↑ 出典:光文社・女性自身
- ↑ 「rockn'on」2005年11月号渋松対談、「Music pen club」2011年2月号POPULAR Review
- ↑ 週刊現代2013年3月2日発売号「日本一を決めよう・日本で一番歌がうまいのはこの人だ」
- ↑ サザンオールスターズ、中島みゆき、山口百恵など、アジア系では日本の楽曲がカバーされているが、同曲はむこうでのタイトル名で映画になったことも影響。カバー曲最多と報道したテレビ局はカバー歌手7名としたが、鍾鎮濤、葉明德、伍佰& China Blue、甄妮、王雯、周渝民、蘇慧倫、賀一航、刘紫玲…と、10人以上で計測不能。
- ↑ STUDIO VOICE2009年2月号【沢田研二「人間60年ジュリー祭り」を観て】、朝日新聞2008年12月18日号「前人未踏・還暦アイドルジュリー祭り」、ミュージック・ペンクラブ「2011年2月号コンサートレビュー」ほか
- ↑ 女性セブン2008年12月25日号「江國香織が観た沢田研二還暦記念コンサート」
- ↑ 「死ぬ気まんまん」光文社刊
- ↑ 「母と息子の老いじたく」中央公論新社刊
- ↑ BRUTUS 1996年2月1日号