東條英機
テンプレート:表記揺れ案内 テンプレート:政治家 東條 英機(とうじょう ひでき、1884年(明治17年)7月30日(戸籍上は12月30日) - 1948年(昭和23年)12月23日)は、日本の陸軍軍人、政治家。階級は陸軍大将。位階は従二位。勲等は勲一等。功級は功二級。現在の百科事典や教科書等では新字体で東条 英機(とうじょう ひでき)と表記されることが多い[注 1]。
陸軍大臣、内閣総理大臣(第40代)、内務大臣(第64代)、外務大臣(第66代)、文部大臣(第53代)、商工大臣(第25代)、軍需大臣(初代)などを歴任した。
現役軍人のまま第40代内閣総理大臣に就任(在任期間は1941年(昭和16年)10月18日 - 1944年(昭和19年)7月18日)。階級位階勲等功級は陸軍大将・従二位・勲一等・功二級。永田鉄山の死後、統制派の第一人者として陸軍を主導する。
日本の対米英開戦時の内閣総理大臣。また権力の強化を志向し複数の大臣を兼任し、慣例を破って陸軍大臣と参謀総長を兼任した。敗戦後に拳銃自殺を図るが、連合国軍による治療により一命を取り留める。その後、連合国によって行われた東京裁判にてA級戦犯として起訴され、1948年(昭和23年)11月12日に絞首刑の判決が言い渡され、1948年(昭和23年)12月23日、巣鴨拘置所で死刑執行された。享年65(満64歳)。
目次
生涯
生い立ちと経歴
東條英機は1884年(明治17年)7月30日[注 2]、東京府麹町区(現在の東京都千代田区)で生まれた。父は東條英教陸軍歩兵中尉(後に陸軍中将)、母はその妻千歳。英機は三男であったが、長男・次男はすでに他界しており、実質「家督を継ぐ長男」として扱われた。
東條家は桓武平氏繁盛流大掾氏分流多気氏の末裔で江戸時代、宝生流ワキ方の能楽師として盛岡藩に仕えた家系である。英機の父英教は陸軍教導団の出身で、下士官から将校に累進、さらに陸大の一期生を首席で卒業したが(同期に秋山好古など)、陸軍中将で予備役となった。俊才と目されながらも出世が遅れ、大将になれなかったことを、本人は長州閥に睨まれたことが原因と終生考え、この反長州閥の考えは英機にも色濃く受け継がれたというテンプレート:要出典。[注 3][注 4]。
番町小学校、四谷小学校、学習院初等科(1回落第)、青山小学校、東京府城北尋常中学校(現・都立戸山高等学校)、東京陸軍地方幼年学校(3期生)、陸軍中央幼年学校入学、陸軍士官学校卒業(17期生)。
陸軍入隊
1905年(明治38年)3月に陸軍士官学校を卒業、同年4月21日に陸軍歩兵少尉に任官。1907年(明治40年)12月21日には陸軍歩兵中尉に昇進する。
1909年(明治42年)、伊藤かつ子と結婚。1910年(明治43年)、1911年(明治44年)と陸軍大学校(陸大)に挑戦して失敗。東条のために小畑敏四郎の家の二階で勉強会が開かれ、永田鉄山、岡村寧次が集まった[1]。同年に長男の英隆が誕生。
1912年(大正元年)に陸大に入学。1913年(大正2年)に父の英教が死去。1914年(大正3年)には二男の輝雄が誕生。1915年(大正4年)に陸大を卒業、陸軍歩兵大尉に昇進。近衛歩兵第3連隊中隊長に就く。
1918年(大正7年)には長女が誕生、翌・1919年(大正8年)8月、駐在武官としてスイスに単身赴任。1920年(大正9年)8月10日に陸軍歩兵少佐に昇任、1921年(大正10年)7月にはドイツに駐在[2]。同年10月27日に南ドイツの保養地バーデン=バーデンで永田・小畑・岡村が結んだ密約(バーデン=バーデンの密約)に参加。これ以前から永田や小畑らとは勉強会を通して親密になっていたという[3]。
1922年(大正11年)11月28日には陸軍大学校の教官に就任。1923年(大正12年)10月5日には参謀本部員、同23日には陸軍歩兵学校研究部員となる(いずれも陸大教官との兼任)。同年に二女・満喜枝が誕生している。1924年(大正13年)に陸軍歩兵中佐に昇進。1925年(大正14年)に三男・敏夫が誕生。1926年(大正15年)には陸軍大学校の兵学教官に就任。1928年(昭和3年)3月8日には陸軍省整備局動員課長に就任、同年8月10日に陸軍歩兵大佐に昇進。1929年(昭和4年)8月1日には歩兵第1連隊長に就任。同年には三女が誕生。1931年(昭和6年)8月1日には参謀本部編制課長に就任し、翌年四女が誕生している。
この間、永田や小畑も帰国し、1927年(昭和2年)には二葉会を結成し、1929年(昭和4年)5月には二葉会と木曜会を統合した一夕会を結成している。東條は板垣征四郎や石原莞爾らと共に会の中心人物となり、同志と共に陸軍の人事刷新と満蒙問題解決に向けての計画を練ったという[4]。編成課長時代の国策研究会議(五課長会議)において満州問題解決方策大綱が完成している[5]。
1933年(昭和8年)3月18日に陸軍少将に昇進、同年8月1日に兵器本廠附軍事調査委員長、11月22日に陸軍省軍事調査部長に就く。1934年(昭和9年)8月1日には歩兵第24旅団長(久留米)に就任。
関東軍時代
1935年(昭和10年)9月21日には、大陸に渡り、関東憲兵隊司令官・関東局警務部長に就任[6]。このとき関東軍将校の中でコミンテルンの影響を受け活動を行っている者を多数検挙し、日本軍内の赤化を防止したという[7]。1936年(昭和11年)2月26日に二・二六事件が勃発したときは、関東軍内部での混乱を収束させ、皇道派の関係者の検挙に功があった[8]。同年12月1日に陸軍中将に昇進。
1937年(昭和12年)3月1日、板垣の後任の関東軍参謀長に就任する[9]
日中戦争(支那事変)が勃発すると、東條は察哈爾派遣兵団の兵団長として察哈爾作戦に参加した。チャハル及び綏遠方面における察哈爾派遣兵団の成功はめざましいものであったが、自ら参謀次長電で「東條兵団」と命名したその兵団は補給が間に合わず飢えに苦しむ連隊が続出したという[10]。
陸軍次官
1938年(昭和13年)5月、板垣征四郎陸軍大臣の下で、陸軍次官、陸軍航空本部長に就く。次官着任にあたり赤松貞雄少佐の強引な引き抜きを人事局額田課長に無理やり行わせる[11]。同年11月28日の軍人会館(現在の九段会館)での、陸軍管理事業主懇談会において「支那事変の解決が遅延するのは支那側に英米とソ連の支援があるからである。従って事変の根本解決のためには、今より北方に対してはソ連を、南方に対しては英米との戦争を決意し準備しなければならない」と発言し、「東條次官、二正面作戦の準備を強調」と新聞報道された。
板垣大臣の下、参謀次長多田駿、参謀本部総務部長中島鉄蔵、陸軍省人事局長飯沼守と対立し、板垣大臣より退職を迫られるが、「多田次長の転出なくば絶対に退職願は出しませぬ」と抵抗。結果多田次長は転出となり、同時に東條も新設された陸軍航空総監に補せられた[12]。
陸軍大臣
1940年(昭和15年)7月22日から第2次近衛内閣、第3次近衛内閣の陸軍大臣を務めた(対満事務局総裁も兼任)。近衛日記によると、支那派遣軍総司令部が「アメリカと妥協して事変の解決に真剣に取り組んで貰いたい」と見解を述べたが、東條の返答は「第一線の指揮官は、前方を向いていればよい。後方を向くべからず」だったという。
1941年(昭和16年)10月14日の閣議において日米衝突を回避しようと近衛文麿が「日米問題は難しいが、駐兵問題に色つやをつければ、成立の見込みがあると思う」と発言したのに対して東條は激怒し「撤兵問題は心臓だ。撤兵を何と考えるか」「譲歩に譲歩、譲歩を加えその上この基本をなす心臓まで譲る必要がありますか。これまで譲りそれが外交か、降伏です」と唱えたという。これにより外交解決を見出せなくなったので翌々日に辞表を提出したとしている。辞表の中で近衛は「東條大将が対米開戦の時期が来たと判断しており、その翻意を促すために四度に渡り懇談したが遂に説得出来ず輔弼の重責を全う出来ない」とした。近衛は「戦争には自信がない。自信がある人がおやりなさい」と言っていたという。また対米英開戦を諌めた関東軍第4師団経理局長・網本浅吉陸軍少将を、自分に逆らったとしてその場で免職。網本は敗戦後の1945年9月、全てを明らかにして自殺した[13]。
首相就任
近衛の後任首相については、対米協調派であり皇族軍人である東久邇宮稔彦を推す声が強かった。皇族の東久邇宮であれば和平派・開戦派両方をまとめながら対米交渉を再び軌道に乗せうるし、また陸軍出身であるため強硬派の陸軍幹部の受けもよいということで、近衛や重臣達だけでなく東條も賛成の意向であった。ところが木戸幸一内大臣は、独断で東條を後継首班に推挙し、天皇の承認を取り付けてしまう。この木戸の行動については今日なお様々な解釈があるが、対米開戦の最強硬派であった陸軍を抑えるのは東條しかなく、また東條は天皇の意向を絶対視する人物であったので、昭和天皇の意を汲んで戦争回避にもっとも有効な首班だというふうに木戸が逆転的発想をしたととらえられることが多い。天皇は木戸の東條推挙の上奏に対し、「虎穴にいらずんば虎児を得ず、だね」と答えたという。この首班指名には、他ならぬ東條本人が一番驚いたといわれている。
木戸は後に「あの期に陸軍を押えられるとすれば、東條しかいない。(東久邇宮以外に)宇垣一成の声もあったが、宇垣は私欲が多いうえ陸軍をまとめることなどできない。なにしろ現役でもない。東條は、お上への忠節ではいかなる軍人よりも抜きん出ているし、聖意を実行する逸材であることにかわりはなかった。…優諚を実行する内閣であらねばならなかった」と述べている[14]。
東條は皇居での首相任命の際、天皇から対米戦争回避に力を尽くすように直接指示される。天皇への絶対忠信の持ち主の東條はそれまでの開戦派的姿勢を直ちにあらため、外相に対米協調派の東郷茂徳を据え、一旦、帝国国策遂行要領を白紙に戻す。さらに対米交渉最大の難問であった中国からの徹兵要求について、すぐにということではなく、中国国内の治安確保とともに長期的・段階的に徹兵するという趣旨の二つの妥協案(甲案・乙案)を提示する方策を採った。またこれら妥協案においては、日独伊三国同盟の形骸化の可能性も匂わせており、日本側としてはかなりの譲歩であった。
東條率いる陸軍はかねてから中国からの撤兵という要求を頑としてはねつけており陸相時の東條は「撤兵問題は心臓だ。米国の主張にそのまま服したら支那事変の成果を壊滅するものだ。満州国をも危うくする。さらに朝鮮統治も危うくなる。支那事変は数十万人の戦死者、これに数倍する遺家族、数十万の負傷者、数百万の軍隊と一億国民が戦場や内地で苦しんでいる」「駐兵は心臓である。(略)譲歩、譲歩、譲歩を加え、そのうえにこの基本をなす心臓まで譲る必要がありますか。これまで譲り、それが外交とは何か、降伏です」「支那に対して無賠償、非併合を声明しているのだから、せめて駐兵くらいは当然のことだ」[15]とまで述べていた。しかし内閣組閣後のこの東條の態度・行動は、陸相時の見解とは全く違ったものの表れであり、昭和天皇の意思を直接告げられた忠臣・東條が天皇の意思の実現に全力を尽くそうとしたことがよく伺える。外相の東郷が甲案・乙案をアメリカが飲む可能性について疑問を言うと、東條は「交渉妥結の可能性は充分にある」と自信ありげだったという。
しかし、日本側の提案はアメリカ側の強硬な姿勢によって崩れ去ってしまう。11月末、アメリカ側はハル・ノートを提示し、日本側の新規提案は甲案・乙案ともに問題外であり、日本軍の中国からの即時全面徹兵だけでなく、満州国の存在さえも認めないという最強硬な見解を通告してきた。ハル・ノートを目の前にしたとき、対米協調をあくまで主張してきた東郷外相でさえ「これは日本への自殺の要求にひとしい」「目がくらむばかりの衝撃にうたれた」といい、東條も「これは最後通牒である」と認めざるをえなかった。これによって東條内閣は交渉継続を最終的に断念し、対米開戦を決意するに至る。対米開戦決定を上奏した東條は、天皇の意思を実現できなかった申し訳なさから幾度も上奏中に涙声になったといわれ、また後述のように、開戦日の未明、首相官邸の自室で一人皇居に向かい号泣しながら天皇に詫びている。こうして東條とその内閣は、戦時下の戦争指導と計画に取り組む段階を迎える。
なお現在ではごく普通になっている衆議院本会議での首相や閣僚の演説の、映像での院内撮影を初めて許可したのは、就任直後の東條である。1941年(昭和16年)11月18日に封切られた日本ニュース第76号『東條首相施政演説』がそれである。東條は同盟国であるドイツのアドルフ・ヒトラーのやり方を真似て自身のやり方にも取り入れたとされている。東條自身は、極東国際軍事(東京)裁判で本質的に全く違うと述べているが、東條自身が作成したメモ帳とスクラップブックである「外交・政治関係重要事項切抜帖」によればヒトラーを研究しその手法を取り入れていたことがわかる。東條が多用した「今や……であります」という言い回しは、当時の青少年たちにも真似された。
また東條は組閣の際に自らの幕僚を組閣本部に参加させないなど、軍事と政治の分離を図る考えを持っていたテンプレート:Sfn。これは軍事と政治が相互に介入を行うことを忌避する考えによるものであったテンプレート:Sfn。
東條は首相就任に際して大将に昇進しているが、これは内規を変更して行ったものである[16]。
太平洋戦争(大東亜戦争)
開戦
1941年(昭和16年)12月8日、日本はイギリスとアメリカに宣戦布告し太平洋戦争(大東亜戦争)に突入した。マレー作戦と真珠湾攻撃を成功させた日本軍はその後連合国軍に対して勝利を重ね、アジア太平洋圏内のみならず、インド洋やアフリカ沿岸、アメリカ本土やオーストラリアまでその作戦区域を拡大し、影響圏を拡大させた。
この時の東條はきわめて冷静で、天皇へ戦況報告を真っ先に指示し、また敵国となった英米大使館への処置に関して、監視は行うが衣食住などの配慮には最善を尽くす上、「何かご希望があれば、遠慮なく申し出でられたし」と相手に配慮した伝言を送っている。しかし8日夜の総理官邸での食事会を兼ねた打ち合わせの際には、上機嫌で「今回の戦果は物と訓練と精神力との総合した力が発揮した賜物である」、「予想以上だったね。いよいよルーズベルトも失脚だね」などと発言し、緒戦の勝利に興奮している面もないわけではなかった。[17]
海軍による真珠湾攻撃と東條
連合国は東京裁判でハワイへの攻撃は東條の指示だったとし、その罪で処刑した(罪状:ハワイの軍港、真珠湾を不法攻撃、米国軍隊と一般人を殺害した罪)が実際には、東條が、日本時間1941年(昭和16年)12月8日にマレー作戦に続いて行われた真珠湾攻撃の立案・実行を指示したわけではない。開戦直前の東條は首相(兼陸軍大臣)ではあっても、統帥部の方針に容喙する権限は持たなかった。東條が戦争指導者と呼ぶにふさわしい権限を掌握したのは、参謀総長を兼任して以降である。
小室直樹は栗林忠道に関する著書の中で、東條は海軍がハワイの真珠湾を攻撃する事を事前に「知らなかった」としている[18]が、昭和16年8月に海軍より開戦劈頭に戦力差を埋めるための真珠湾攻撃を研究中と内密に伝達され[19]、11月3日には永野海軍軍令部総長と杉山陸軍参謀総長が昭和天皇に陸海両軍の作戦内容を上奏するため列立して読み上げた。[20]ハワイ奇襲実施についてもこのときに遅くとも正式な作戦として陸軍側に伝わっており、東條自身、参謀本部作戦課に知らされている。[21][22]。また、11月30日には天皇よりハワイ作戦の損害予想について下問されており[23]、「知らなかった」とするのは正確ではない。
しかし、そもそも東條自身が東京裁判において、開戦1週間前の12月1日の御前会議によって知っていたと証言している[24]とおり、海軍の作戦スケジュール詳細は開戦1週間前に知った状況である。開戦時の東條は、政府の最高責任者の地位にはあっても海軍と統帥部を管轄する権限は持たず、海軍による真珠湾奇襲や外務省による開戦通知の遅れは東條の責任に帰することはできないものであった[25]。
戦局の行き詰まり・東條首相罵倒事件・求心力の低下
緒戦の日本軍の快進撃も、日本軍が予想を上回るスピードで勝ち進んだ結果、占領地域が東南アジア一帯に伸びたばかりか、戦線がアメリカ本土沿岸からアフリカ沿岸、オーストラリアにまで伸びたことや、ミッドウェイ海戦の敗北によりその勢いは陰りを見せ始める。
参謀本部は戦局を打開するため、オーストラリアを孤立化させる目的のFS作戦等を考案し、ガダルカナル島を確保するべく海軍はこの付近に大兵力を投入する作戦に出た。陸軍にも応援を要請しておこなわれた過去3度にわたるガ島争奪作戦はいずれも失敗する。多くの海戦がおこなわれ、第一次ソロモン海戦や南太平洋海戦などでは日本側はアメリカ軍やオーストラリア軍の多くの軍艦を撃沈撃破した。しかし日本側も損害も少なくなく、とくに日本側の陸軍輸送船団はガダルカナル到着以前にその多くが撃沈され、輸送作戦のほとんどが失敗に終わった。このためガダルカナル方面の日本軍地上部隊は極度の食糧不足と弾薬不足に陥り、作戦どころの話ではなくなってしまった。しかし参謀本部は海軍と連携してさらなる大兵力をガダルカナルへ送り込もうと計画する[26]。参謀本部は民間輸送船を大幅に割くことを政府に要求するが東條はそれを拒否する。元々東條はガダルカナル方面の作戦には補給の不安などから反対であった。過去に投入した輸送船団は援護が少ないこともあり輸送作戦の成功の可能性は少なく、また参謀本部の要求を通すと国内の軍事生産や国民生活が維持できなくなるためである。
東條の反対に怒った参謀本部の田中新一作戦部長は閣議待合室で12月5日、東條の見解を主張する佐藤賢了陸軍軍務局長と討論の末とうとう殴り合いになった。さらに田中は翌日、首相官邸に直談判に出向いて激論を展開、東條ら政府側にむかって「馬鹿野郎」と暴言を吐いた。東條は冷静に「何をいいますか。統帥の根本は服従にある。しかるにその根源たる統帥部の重責にある者として、自己の職責に忠実なことは結構だが、もう少し慎まねば」と穏やかに諭した。これを受け参謀本部は田中に辞表を書かせ南方軍司令部に転属させたが、代わりにガダルカナル方面作戦の予算・増船を政府側に認めさせた。
しかしガダルカナル作戦はさらに行き詰まり、1943年(昭和18年)2月にはガ島撤退が確定する。その後も日本軍は各地で連合国軍と互角の戦いを見せたものの、ニューギニア方面に陸軍の輸送船団が送られたがその多くが連合国軍に撃沈され、南方方面の日本軍はこの年の末には各地で補給不足に陥ることになった。また緒戦の敗北で多くの船舶や航空機を失ったアメリカは、これを補うための軍事生産力の大拡充計画をスタートさせ、同年中にこの結果が出てくることになった。これにアジア太平洋地域に展開していたイギリスやオーストラリア、中華民国軍の軍事力を合わせると日本と連合国軍の軍事力に明らかな開きがあらわれはじめた。
1943年(昭和18年)と1944年(昭和19年)を通して日本が鉄鋼材生産628万トン、航空機生産44873機、新規就役空母が正規空母5隻・軽空母4隻だったのに対し、アメリカは鉄鋼生産1億6800万トン、航空機生産182216機、新規就役空母は正規空母14隻、軽空母65隻に達した。また技術面でもそれまで優位を誇っていた日本側の零戦と隼を研究して作られたテンプレート:要出典F6Fやヨーロッパ戦線で活躍していたP47、イギリス製のエンジンを搭載したP51などの新戦闘機がアメリカ側に登場、また戦前に軽視していた電子戦分野でその差は顕著に表れ、レーダー、ソナー、VT信管などの開発においてもイギリスやアメリカが格段に優位をみせていく[27]。これらの状況を受け、1944年に入ると各地での日本軍と連合国軍の攻勢は完全に逆転することになる。
このように、日本軍が各方面で次第に押され始めた1943年8月頃から東條の戦争指導力を疑問視する見解が各方面に強くなりはじめ、後述の中野正剛らによる内閣倒閣運動なども起きたが、東條は憲兵隊の力でもってこれら反対運動をおさえつけた。
大東亜会議主催
日本軍の優勢が揺らぎ始める中、東條は戦争の大義名分を確保するため、重光葵外相の提案を元に1943年11月大東亜会議を東京で開催し、同盟国のタイ王国や満洲国、中華民国(汪兆銘政府)に併せて、イギリスやアメリカなどの宗主国を放逐した日本の協力を受けて独立したアジア各国、そして日本の占領下で独立準備中の各国政府首脳を召集、連合国の「大西洋憲章」に対抗して「大東亜共同宣言」を採択し、欧米の植民地支配を打倒した有色人種による政治的連合を謳いあげた。
旧オランダ領でまだ独立準備中にあったインドネシア代表の不参加などの不手際もあったが、外務省や陸海軍関係者のみならず、当時日本に在住していたインド独立運動活動家のA.M.ナイルまでの協力を受けて会議は概ね成功し、各国代表からは会議を緻密に主導した東條を評価する声が多く、今なおこのときの東條の功績を高く評価している国も存在する。『大東亜会議の真実』(PHP新書)の著者深田祐介はかかる肯定的な評価をあげる一方、念には念を入れる東條を「準備魔」と表現している。
会議開催に先立って、1943年(昭和18年)3月に満州国と中華民国汪兆銘政府[28]、5月にフィリピン、6~7月にかけてタイ、昭南島(シンガポール)、インドネシアを歴訪している[29]。
会議の開催に先立つ1942年(昭和17年)9月に、東條首相は占領地の大東亜圏内の各国家の外交について「既成観念の外交は対立せる国家を対象とするものにして、外交の二元化は大東亜地域内には成立せず。我国を指導者とする所の外交あるのみ」と答弁しているが、この会議の成功を見た東條は戦後「東條英機宣誓供述書」の中で、「大東亜の新秩序というのもこれは関係国の共存共栄、自主独立の基礎の上に立つものでありまして、その後の我国と東亜各国との条約においても、いずれも領土および主権の尊重を規定しております。また、条約にいう指導的地位というのは先達者または案内者またはイニシアチーブを持つ者という意味でありまして、他国を隷属関係におくという意味ではありません」と述べている。
三職の兼任
大東亜会議が開催された1943年11月にタラワ島が陥落、1944年(昭和19年)1月には重要拠点だったクェゼリンにアメリカ軍が上陸、まもなく陥落した。またこの頃になると、戦力を数的・技術的にも格段に増強したアメリカ機動艦隊やオーストラリア海軍艦艇が太平洋の各所に出現し日本側基地や輸送艦隊に激しい空爆を加えるようになった他、ビルマ戦線においてもイギリス軍の活動が活発化してきた。
戦局がますます不利になる中、統帥部は「戦時統帥権独立」を盾に、重要情報を政府になかなか報告せず、また民間生活を圧迫する軍事徴用船舶増強などの要求を一方的に出しては東條を悩ませた。1943年(昭和18年)8月11日付の東條自身のメモには、無理な要求と官僚主体の政治などから来る様々な弊害を「根深キモノアルト」と嘆き、「統帥ノ独立ニ立篭り、又之ニテ籍口シテ、陸軍大将タル職権ヲカカワラズ、之ニテ対シ積極的ナル行為ヲ取リ得ズ、国家ノ重大案件モ戦時即応ノ処断ヲ取リ得ザルコトハ、共に現下ノ最大難事ナリ」[30]と統帥部への不満を述べるなど、統帥一元化は深刻な懸案になっていく。
1944年(昭和19年)2月17日、18日にオーストラリア海軍の支援を受けたアメリカ機動艦隊が大挙してトラック島に来襲し、太平洋戦域最大の日本海軍基地を無力化してしまった(トラック島空襲)。これを知り、東條はついに陸軍参謀総長兼任を決意し[31]、2月19日に、木戸内大臣に対し「陸海軍の統帥を一元化して強化するため、陸軍参謀総長を自分が、海軍軍令部総長を嶋田海相が兼任する」と言い天皇に上奏した。天皇からの「統帥権の確立に影響はないか」との問いに「政治と統帥は区別するので弊害はありません」と奉答。[32]2月21日には、国務と統帥の一致・強化を唱えて杉山総長の勇退を求め、自ら参謀総長に就任する。参謀総長を辞めることとなった杉山元は、これに先立つ20日に麹町の官邸に第1部~第3部の部長たちを集め、19日夜の三長官会議において「山田教育総監が、今東條に辞められては戦争遂行ができない、と言うので、我輩もやむなく同意した」と辞職の理由を明かした[33][34]。海軍軍令部の永野総長も辞任要求に抵抗したが、海軍の長老格伏見宮博恭王の意向もあって最後は折れ、嶋田海相が総長を兼任することになった[35]。
行政権の責任者である首相、陸軍軍政の長である陸軍大臣、軍令の長である参謀総長の三職を兼任したこと(及び嶋田の海軍大臣と軍令部総長の兼任)は、天皇の統帥権に抵触するおそれがあるとして厳しい批判を受けた。統帥権独立のロジックによりその政治的影響力を昭和初期から拡大してきた陸海軍からの批判はもとより、右翼勢力までもが「天皇の権限を侵す東條幕府」として東條を激しく敵視するようになり、東條内閣に対しての評判はさらに低下した。この兼任問題を機に皇族も東條に批判的になり、例えば秩父宮は、「軍令、軍政混淆、全くの幕府だ」として武官を遣わして批判している[36]。東條はこれらの批判に対し「非常時における指導力強化のために必要であり責任は戦争終結後に明らかにする」と弁明した。
このころから、東條内閣打倒運動が水面下で活発になっていく。前年の中野正剛たちによる倒閣運動は中野への弾圧と自殺によって失敗したが、この時期になると岡田啓介、若槻礼次郎、近衛文麿、平沼騏一郎たち重臣グループが反東條で連携しはじめる。しかしその倒閣運動はまだ本格的なものとなるきっかけがなく、たとえば1944年(昭和19年)4月12日の「細川日記」によれば、近衛は「このまま東条にやらせる方がよいと思ふ」「せっかく東条がヒットラーと共に世界の憎まれ者になってゐるのだから、彼に全責任を負はしめる方がよいと思ふ」と東久邇宮に具申していたという[37][38]。
退陣
1944年(昭和19年)に入り、アメリカ軍が長距離重爆撃機であるボーイングB29の量産を開始したことが明らかになり、マリアナ諸島をアメリカ軍に奪われた場合、日本本土の多くが空襲を受ける可能性が出てきた。そこで東條は絶対国防圏を定め海軍の総力を結集することによってマリアナ諸島を死守する事を発令し、サイパン島周辺の陸上守備部隊も増強した。東條はマリアナ方面の防備には相当の自信があることを公言していた。
しかし1944年(昭和19年)6月19日から6月20日のマリアナ沖海戦で海軍は失態を犯して大敗した。連合艦隊は498機をこの海戦に投入したがうち378機を失い、大型空母3隻を撃沈され、マリアナにおける制空権と制海権を完全に失ってしまった。地上戦でも1944年6月15日から7月9日のサイパンの戦いで日本兵3万名が玉砕(日本軍の実質的壊滅は7月6日であった)サイパンでマリアナ方面の防衛作戦全体の指導をおこなっていた南雲忠一中部太平洋方面艦隊司令長官は自決した。こうして絶対国防圏はあっさり突破され、統帥権を兼職する東條の面目は丸つぶれになった(ただし、これらの作戦は海軍の連合艦隊司令部に指揮権があり、サイパンの陸軍部隊も含めて東條には一切の指揮権は無かった)。サイパンにつづいてグアム、テニアンも次々に陥落する。
マリアナ沖海戦の大敗・連合艦隊の航空戦力の壊滅は、そのあとに訪れたサイパン島の陥落より遥かに衝撃的ニュースであった。連合艦隊の戦力が健全でありさえすれば、サイパン島その他が奪われたとしても奪回はいくらでも可能であるのに、それが以後まったく無理になったことを意味するからである。こうして、マリアナ沖海戦の大敗後、サイパン島陥落を待たずして、東條内閣倒閣運動は岡田・近衛ら重臣グループを中心に急速に激化する。6月27日、東條は岡田を首相官邸に呼び、内閣批判を自重するように忠告する。岡田は激しく反論して両者は激論になり、東條は岡田に対し逮捕拘禁も辞さないとの態度を示したが、ニ・ニ六事件で死地を潜り抜けてきている岡田はびくともしなかった。東條を支えてきた勢力も混乱をみせはじめ、6月30日の海軍大将全員を集めた戦局説明会議で、マリアナ海戦敗戦に動揺した嶋田海相が、幹部や退役海軍大将の今後の戦局に関しての質問に答えられないという事態が出現、さらにそれまで必勝へ強気一点張りだった参謀本部も7月1日の作戦日誌に「今後帝国は作戦的に大勢挽回の目途なく、戦争終結を企画すとの結論に意見一致せり」という絶望的予想が書かれている(実松譲『米内光政』)
東條はこの窮地を内閣改造によって乗り切ろうとはかり内閣改造条件を宮中に求めた。7月13日、東條の相談を受けた木戸内大臣は、「1.東條自身の陸軍大臣と参謀総長の兼任を解くこと」、「2.嶋田繁太郎海軍大臣の更迭」、「3.重臣の入閣」を要求。実は木戸は東條を見限ってすでに反東條派の重臣と密かに提携しており、この要求は木戸へ東條が泣きつくと予期していた岡田や近衛たち反東條派の策略であった。
木戸の要求を受け入れて東條はまず国務大臣の数を減らし入閣枠をつくるため、無任所国務大臣の岸信介に辞任を要求する。岸は長年の東條の盟友であったがマリアナ沖海戦の敗退によって戦局の絶望を感じ、講和を提言して東條と対立関係に陥り、東條としては岸へ辞任要求しやすかったためである。しかし重臣グループはこの東條の動きも事前に察知しており、岡田は岸に「東條内閣を倒すために絶対に辞任しないでほしい」と連絡、岸もこれに同意していた。岸は東條に対して閣僚辞任を拒否し内閣総辞職を要求する(旧憲法下では総理大臣は閣僚を更迭する権限を有しなかった)。
東條は岸の辞任を強要するため、四方諒二東京憲兵隊長を岸のもとに派遣、四方は軍刀をかざして「東条大将に対してなんと無礼なやつだ」と岸に辞任を迫ったが岸は「兵隊が何を言うか」、「日本国で右向け右、左向け左と言えるのは天皇陛下だけだ」と整然と言い返し、脅しに屈しなかった[39]。同時に佐藤賢了を通じておこなった重臣の米内光政の入閣交渉も、すでに東條倒閣を狙っていた米内の拒否により失敗、佐藤は米内の説き諭しに逆に感心させられて帰ってくるというありさまであった。
追い詰められた東條に、木戸が天皇の内意をほのめかしながら退陣を申し渡すが、東條は昭和天皇に続投を直訴する。だが天皇は「そうか」と言うのみであった。頼みにしていた天皇の支持も失ったことを感じ万策尽きた東條は、7月18日に総辞職、予備役となる。東條は、この政変を重臣の陰謀であるとの声明を発表しようとしたが、閣僚全員一致の反対によって、差し止められた。
東條の腹心の赤松貞雄らはクーデターを進言したが、これはさすがに東條も「お上の御信任が薄くなったときはただちに職を辞するべきだ」とはねつけた[40]。東條は次の内閣において、山下奉文を陸相に擬する動きがあったため、これに反発して、杉山元以外を不可と主張した。自ら陸相として残ろうと画策するも、梅津美治郎参謀総長の反対でこれは実現せず、結局杉山を出す事となったとされる[41][42]。赤松秘書官は回想録で、周囲が総辞職しなくて済むよう動きかけたとき、東條はやめると決心した以上はと総辞職阻止への動きを中止させ、予備役願を出すと即日官邸を引き払ってしまったとしている[43]。
広橋眞光による『東条英機陸軍大将言行録』(いわゆる広橋メモ)によると、総辞職直後の7月22日首相官邸別館での慰労会の席上「サイパンを失った位では恐れはせぬ。百方内閣改造に努力したが、重臣たちが全面的に排斥し已むなく退陣を決意した。」と証言しており、東條の無念さがうかがわれる。[44]
東條英機暗殺計画
戦局が困難を極める1944年には複数の東條英機暗殺が計画された。
1944年(昭和19年)9月には陸軍の津野田少佐と柔道家の牛島辰熊が東條首相暗殺陰謀容疑で東京憲兵隊に逮捕された。この時、牛島の弟子で柔道史上最強といわれる木村政彦が鉄砲玉、実行犯として使われることになっていた(「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」増田俊也)。軍で極秘裡に開発中の青酸ガス爆弾を持っての自爆テロ的な計画だった(50m内の生物は壊滅するためガス爆弾を投げた人間も死ぬ)。この計画のバックには東條と犬猿の仲の石原莞爾がいて、津野田と牛島は計画実行の前に石原の自宅を訪ね「賛成」の意を得てのものだった。計画実行直前に東條内閣が総辞職して決行されなかった[45]。
また、海軍の高木惣吉らのグループらも早期終戦を目指して東條暗殺を立案したが、やはり実行前に東條内閣が総辞職したため計画が実行に移されることはなかった[46]。
重臣会議
辞任後の東條は、重臣会議と陸軍大将の集会に出る以外は、用賀の自宅に隠棲し畑仕事をして暮らした。鈴木貫太郎内閣が誕生した1945年(昭和20年)4月の重臣会議で東條は、重臣の多数が推薦する鈴木貫太郎首相案に不満で、畑俊六元帥(陸軍)を首相に推薦し「人を得ぬと軍がソッポを向くことがありうる」と放言した。岡田啓介は「陛下の大命を受ける総理にソッポを向くとはなにごとか」とたしなめると、東條は黙ってしまった。しかし現実に、小磯内閣は陸海軍が統帥権を楯に従わず、苦境に陥っていた[47]。正しく「軍がソッポを向いた」のであり、東条の指摘は的確であった。重臣の大半が和平工作に奔走していく中で、東條のみが抗戦を徹底して主張し重臣の中で孤立していた。
終戦工作への態度
1945年(昭和20年)2月26日には、天皇に対し「知識階級の敗戦必至論はまこと遺憾であります」と徹底抗戦を上奏、この上奏の中で、「アメリカはすでに厭戦気分が蔓延しており、本土空襲はいずれ弱まるでしょう」「ソ連の参戦の可能性は高いとはいえないでしょう」と楽観的予想を述べたが、この予想は完全にはずれることになった[48]。
終戦工作の進展に関してはその一切に批判的姿勢を崩さなかった。東條はかつて「勤皇には狭義と広義二種類がある。狭義は君命にこれ従い、和平せよとの勅命があれば直ちに従う。広義は国家永遠のことを考え、たとえ勅命があっても、まず諌め、度々諫言しても聴許されねば、陛下を強制しても初心を断行する。私は後者をとる」と部内訓示していた[49]。だが、御前会議の天皇の終戦の聖断が下ると、直後に開かれた重臣会議において、「ご聖断がありたる以上、やむをえないと思います」としつつ「国体護持を可能にするには武装解除をしてはなりません」と上奏している。御前会議の結果を知った軍務課の中堅将校らが、東條にクーデター同意を期待して尋ねてくると、東條の答えは「絶対に陛下のご命令にそむいてはならぬ」であった。さらに東條は近衛師団司令部に赴き娘婿の古賀秀正少佐に「軍人はいかなることがあっても陛下のご命令どおり動くべきだぞ」と念押ししている。だが、古賀は宮城事件に参加し、東條と別れてから10時間後に自決している[50]。
しかし東條が戦時中、すべての和平工作を拒絶していたかというわけではない。戦争初期、1942年8月20日にアメリカでの抑留から戦時交換船で帰国した直後の来栖三郎に対して「今度はいかにしてこの戦争を早く終結し得るかを考えてくれ」と言ったと伝えられており[51]、終戦について早い段階から視野に入れていなかったわけではないことが近年判明している。
敗戦と自殺未遂
1945年(昭和20年)8月15日に終戦の詔勅、9月2日には戦艦ミズーリにおいて対連合国降伏文書への調印が行われ、日本は連合国軍の占領下となる。 東條は用賀の自宅に籠って、戦犯として逮捕は免れないと覚悟し、逮捕後の対応として二男以下は分家若しくは養女としたり、妻の実家に帰らせるなどして家族に迷惑がかからないようにしている。その頃、広橋には「大詔を拝した上は大御心にそって御奉公しなければならぬ」。「戦争責任者としてなら自分は一心に引き受けて国家の為に最後のご奉公をしたい。…戦争責任者は『ルーズベルト』だ。戦争責任者と云うなら承知できない。尚、自分の一身の処置については敵の出様如何に応じて考慮する。」と複雑な心中を吐露しており、[52]果たして、1945年(昭和20年)9月11日、自らの逮捕に際して、東條は自らの胸を撃って拳銃自殺を図るも失敗するという事件が起こった。
- GHQによる救命措置
銃声が聞こえた直後、そのような事態を予測し救急車などと共に世田谷区用賀にある東條の私邸を取り囲んでいたアメリカ軍を中心とした連合国軍のMPたちが一斉に踏み込み救急処置を行った。 銃弾は心臓の近くを撃ち抜いていたが、急所は外れており、アメリカ人軍医のジョンソン大尉によって応急処置が施され、東條を侵略戦争の首謀者として処刑することを決めていたマッカーサーの指示の下、横浜市本牧に設置された野戦病院において、アメリカ軍による最善を尽くした手術と看護を施され、奇跡的に九死に一生を得る。 新聞には他の政府高官の自決の記事の最後に、「東條大将順調な経過」、「米司令官に陣太刀送る」など東條の病状が付記されるようになり、国民からはさらに不評を買う。入院中の東條に、ロバート・アイケルバーガー中将はじめ多くのアメリカ軍高官が丁重な見舞いに訪れたのに比べ、日本人は家族以外ほとんど訪問者はなく、日本人の豹変振りに東條は大きく落胆したという。
- 未遂に終わったことについて
これまでにも東條への怨嗟の声は渦巻いていたが、自決未遂以後、新聞社や文化人の東條批判は苛烈さを増す。戦犯容疑者の指定と逮捕が進むにつれ、陸軍関係者の自決は増加した。
拳銃を使用し短刀を用いなかった自殺については、当時の朝日・読売・毎日の各新聞でも阿南惟幾ら他の陸軍高官の自決と比較され、批判の対象となった[53]。
なぜ確実に死ねる頭を狙わなかったのかとして、自殺未遂を茶番とする見解があるが、このとき東條邸は外国人記者に取り囲まれており、悲惨な死顔をさらしたくなかったという説[54]や「はっきり東條だと識別されることを望んでいたからだ」という説[55]もある。
東條が自決に失敗したのは、左利きであるにもかかわらず右手でピストルの引き金を引いたためという説と、次女・満喜枝の婿で近衛第一師団の古賀秀正少佐の遺品の銃を使用したため、使い慣れておらず手元が狂ってしまったという説がある。
- 米軍MPによる銃撃説
なお、東條は自殺未遂ではなくアメリカ軍のMPに撃たれたという説がある。当時の陸軍人事局長額田坦は「十一日午後、何の予報もなくMP若干名が東條邸に来たので、応接間の窓から見た東條大将は衣服を更めるため奥の部屋へ行こうとした。すると、勘違いしたらしいMPは窓から跳び込み、イキナリ拳銃を発射し、大将は倒れた。MPの指揮者は驚いて、急ぎジープで横浜の米軍病院に運んだ(後略)」との報告を翌日に人事局長室にて聞いたと証言しているが、言った人間の名前は忘れたとしている[41]。 歴史家ロバート・ビュートーも保阪正康も銃撃説を明確に否定している[55][56]。自殺未遂事件の直前に書かれたとされて発表された遺書も保阪正康は取材の結果、偽書だと結論づけている(東條英機の遺言参照)。
- 戦陣訓
下村陸相は自殺未遂前日の9月10日に東條を陸軍省に招き、「ぜひとも法廷に出て、国家のため、お上のため、堂々と所信を述べて戴きたい」と説得し、戦陣訓を引き合いに出してなおも自殺を主張する東條に「あれは戦時戦場のことではありませんか」と反論して、どうにか自殺を思いとどまらせその日は別れた[41]。
重光葵は「敵」である米軍が逮捕に来たため、戦陣訓の「生きて虜囚の辱めを受けず」に従えば東條には自決する以外に道はなかったのだと解した[57]。笹川良一によると巣鴨プリズン内における重光葵と東條との会話の中で「自分の陸相時代に出した戦陣訓には、捕虜となるよりは、自殺すべしと云う事が書いてあるから、自分も当然自殺を計ったのである」と東條は語っていたという[42]。
東京裁判
東京裁判は、戦勝国が検事と裁判官をかねて敗戦国の「開戦責任」と「経過責任」を断罪する「勝者の裁き」であった[58]が、同時に文明的な裁判方式を取った「文明の裁き」として、日米弁護人の弁護を受けつつ、敗戦直後の占領下の日本において戦勝国を恐れず対等な主張が可能な唯一の場ともなった[59]。
東條の国家弁護
東條は東京裁判を通して自己弁護は行わず、この戦争は侵略戦争ではなく自衛戦争であり国際法には違反しないと「国家弁護」を貫いたが、「敗戦の責任」は負うと宣誓口述書で明言している[60]。東條の主任弁護人は清瀬一郎が務め、アメリカ人弁護士ジョージ・ブルーウェットがこれを補佐した[61]。
東條の国家弁護は理路整然としており、アメリカ側の対日戦争準備を緻密な資料にもとづいて指摘し、こうしたアメリカの軍事力の増大に脅威を感じた日本側が自衛を決意したと巧みに主張するなどしてキーナンはじめ検事たちをしばしばやり込めるほどであった。また「開戦の責任は自分のみにあって、昭和天皇は自分たち内閣・統帥部に説得されて嫌々ながら開戦に同意しただけである」と明確に証言し、この証言が天皇の免訴を最終的に確定することになった。検察側は弁護人を通じて東條に、天皇免訴のためにスケープゴートとなることを要請しており、東條の証言はそれを受け入れてのものであったテンプレート:要出典。
日暮吉延によれば、他の被告の多くが自己弁護と責任のなすり合いを繰り広げる中で、東條が一切の自己弁護を捨てて国家弁護と天皇擁護に徹する姿は際立ち、自殺未遂で地に落ちた東條への評価は裁判での証言を機に劇的に持ち直したとする[59]。
秦郁彦によると、東條にとって不運だったのは、自身も一歩間違えればA級戦犯となる身の田中隆吉や、実際に日米衝突を推進していた服部卓四郎や有末精三、石川信吾といった、所謂『戦犯リスト』に名を連ねていた面々が、すでに連合国軍最高司令官総司令部に取り入って戦犯を逃れる確約を得ていたことであった[62]。
判決
テンプレート:See also 極東国際軍事裁判(東京裁判)の判決は、1948年(昭和23年)11月4日に言い渡しが始まり、11月12日に終了した。7人が絞首刑、16人が終身刑、2人が有期禁固刑となった。東條は「真珠湾を不法攻撃し、アメリカ軍人と一般人を殺害した罪」で絞首刑の判決を受けた。
仏教への信仰
A級戦犯容疑者として収容されてからは、浄土真宗の信仰の深い勝子夫人や巣鴨拘置所の教誨師、花山信勝の影響で浄土真宗を深く信心した。花山によると、彼は法話を終えた後、数冊の宗教雑誌を被告達に手渡していたのだが、その際、東條から吉川英治の『親鸞』を差し入れて貰える様に頼まれた。後日、その本を差し入れたのだが、東條が読んでから更に15人の間で回覧され、本の扉には『御用済最後ニ東條ニ御送付願ヒタシ』と書かれ、板垣征四郎、木村兵太郎、土肥原賢二、広田弘毅等15名全員の署名があり、現在でも記念の書として東條家に保管されているという。
浄土真宗に深く学ぶようになってからは、驚くほど心境が変化し、「自分は神道は宗教とは思わない。私は今、正信偈と一緒に浄土三部経を読んでいますが、今の政治家の如きはこれを読んで、政治の更正を計らねばならぬ。人生の根本問題が書いてあるのですからね」と、政治家は仏教を学ぶべきだとまで主張したという。
また、戦争により多くの人を犠牲にした自己をふりかえっては、「有難いですなあ。私のような人間は愚物も愚物、罪人も罪人、ひどい罪人だ。私の如きは、最も極重悪人ですよ」と深く懺悔している。
さらには、自分をA級戦犯とし、死刑にした連合国の中心的存在の米国に対してまで、「いま、アメリカは仏法がないと思うが、これが因縁となって、この人の国にも仏法が伝わってゆくかと思うと、これもまたありがたいことと思うようになった」と、相手の仏縁を念じ、絞首台に勇んで立っていったと言われる。
処刑の前に詠んだ歌にその信仰告白をしている。
- 「さらばなり 有為の奥山けふ越えて 彌陀のみもとに 行くぞうれしき」
- 「明日よりは たれにはばかるところなく 彌陀のみもとで のびのびと寝む」
- 「日も月も 蛍の光さながらに 行く手に彌陀の光かがやく」
死刑執行
1948年(昭和23年)12月23日午前零時1分、巣鴨拘置所(スガモプリズン)内において東條の絞首刑が執行された。満64歳没(享年65〈数え年〉)であった。
辞世の句は、
- 「我ゆくもまたこの土地にかへり来ん 国に報ゆることの足らねば」
- 「さらばなり苔の下にてわれ待たん 大和島根に花薫るとき」
- 「散る花も落つる木の実も心なき さそうはただに嵐のみかは」
- 「今ははや心にかかる雲もなし 心豊かに西へぞ急ぐ」
死後
遺骨と墓
- 遺骨
絞首刑後、東條らの遺体は遺族に返還されることなく、当夜のうちに横浜市西区久保町の久保山火葬場に移送し火葬された。遺骨は粉砕され遺灰と共に航空機によって太平洋に投棄された。
小磯國昭の弁護士を務めた三文字正平と久保山火葬場の近隣にある興禅寺住職の市川伊雄は遺骨の奪還を計画した。三文字らは火葬場職員の手引きで忍び込み、残灰置場に捨てられた7人分の遺灰と遺骨の小さな欠片を回収したという。回収された遺骨は全部で骨壷一つ分程で、熱海市の興亜観音に運ばれ隠された。1958年(昭和33年)には墳墓の新造計画が持ち上がり、1960年(昭和35年)8月には愛知県旧幡豆郡幡豆町(現西尾市)の三ヶ根山の山頂に改葬された。同地には現在、殉国七士廟が造営され遺骨が祀られている。
- 墓
墓は雑司ヶ谷霊園にある。
合祀
東條英機はみずからが陸軍大臣だった時代、陸軍に対して靖国神社合祀のための上申を、戦死者または戦傷死者など戦役勤務に直接起因して死亡したものに限るという通達を出していた[63]が、彼自身のかつての通達とは関係なく刑死するなどした東京裁判のA級戦犯14名の合祀は、1966年(昭和41年)、旧厚生省(現厚生労働省)が「祭神名票」を靖国神社側に送り、1970年(昭和45年)の靖国神社崇敬者総代会で決定され、靖国神社は1978年(昭和53年)にこれらを合祀した。[注 5]
政治手法
戦争指導者としての東條
大戦中、戦後を通じて東條は、日本の代表的な戦争指導者と見なされることが多く、第二次世界大戦時の日本を代表する人物とされている。一方で戦史家のA・J・P・テイラーは、大戦時の戦争指導者を扱った記述の中で、アメリカ、イギリス、ドイツ、イタリア、ソ連についてはそれぞれの指導者を挙げているものの、日本については「戦争指導者不明」としているテンプレート:Sfn。これは、総理大臣・陸相・参謀総長を兼任し、立場上は大きな指導力を発揮できるはずの東條の権力が、他の戦争指導者と同列に扱えないとテイラーが判断したことによるものであるテンプレート:Sfn。しかしこの書籍の表紙には他国の戦争指導者とともに東條の肖像が描かれており、第二次世界大戦時の日本の指導者を一人に絞る場合には、やはり東條の名前が挙がることになるテンプレート:Sfn。
東條は「対米英蘭蒋戦争終末促進ニ関スル腹案」などの政府案を支持していたが、「敵の死命を制する手段が無く」、長期戦となる確率は80パーセントぐらいであろうと考えていたテンプレート:Sfn。また短期で勝利できる可能性は、アメリカ主力艦隊の撃滅、ドイツの対米宣戦やイギリス本土上陸によるアメリカの戦意喪失、通商破壊戦によってイギリスを追い込むことしかないと考えていたテンプレート:Sfn。真珠湾攻撃でアメリカの主力艦隊は大きなダメージを負い、東條はこれを構想以上のものと考えた。東條は西アジア方面に主力を派遣し、イギリスの離脱を促進するよう望んでいたが、海軍は太平洋方面への進出を望んだテンプレート:Sfn。この際に東條は陸海軍の調停を積極的に行うこともせず、玉虫色の合意が形成されるに終わったテンプレート:Sfn。これは東條が陸海軍の摩擦や衝突を回避しようと考えていたことによる。
東條は、1942年(昭和17年)には佐藤賢了軍務局長に対し、陸海軍の間でもめ事が起こった場合には、大臣にまであげず、局長クラスで解決するようにという指示を与えている。これは陸海軍間の争いとなった場合には首相が調停を行わなければならないが、陸相を兼任している以上それが不可能であるというものであったテンプレート:Sfn。東條の権力は陸海軍間の問題に関与できるほど大きなものではなく、この点でも主要国の戦争指導者と異なっているテンプレート:Sfn。また陸軍に対する権力も大きなものではなく、統帥部がガダルカナル戦の継続を行おうとした時も、軍事物資の輸送を押さえて牽制することしかできなかったテンプレート:Sfn。井本熊男は、東條が「統帥権独立のもとでは戦争はできぬ」とこぼすのをよく聞いたというテンプレート:Sfn。1944年(昭和19年)2月にはそれを打開するために参謀総長に就任するが、この際にも首相や陸相が兼任するのではなく、東條という人格が参謀総長になる「二位一体」だという説明を行っているテンプレート:Sfn。その後も東條は、あくまで参謀総長と陸相、首相としての立場をそれぞれ使い続け、相互の対立や摩擦を防ぐことに力を注いだテンプレート:Sfn。佐藤賢了は「東條さんは決して独裁者でもなく、その素質もそなえていない。」と評しているテンプレート:Sfn。
東條は会議で戦争の行く末に関してしばしば示唆や疑問をなげかけたものの、具体的なビジョンや指針を示すことはなく、代替案を提示することもなかったテンプレート:Sfn。伊藤隆は「東條は、当面の最大の課題として、戦争に勝たなければならないことを繰り返し強調するが、それが具体的にどのような形をとるものかというイメージは全く語っていない」と指摘しているテンプレート:Sfn。
また敗北を認めるような発言を行うことは非常に希であった。インパール作戦が失敗に終わりつつあった1944年(昭和19年)5月の時点でも、作戦継続困難を報告した秦彦三郎参謀次長に対し「戦は最後までやってみなければ分からぬ。そんな弱気でどうするか」と叱責しているテンプレート:Sfn。しかし東條にとってこれは真意ではなく、秦と二人きりになった時には、「困ったことになった」と頭を抱えて困惑していたというテンプレート:Sfn。1945年(昭和20年)2月、和平を模索しはじめた昭和天皇が個別に重臣を呼んで収拾策を尋ねた際に、東條は「陛下の赤子なお一人の餓死者ありたるを聞かず」「戦局は今のところ五分五分」だとして徹底抗戦を主張した。侍立した藤田尚徳侍従長は「陛下の御表情にもありありと御不満の模様」と記録している。[64]。
軍事責任者としての東條
渡部昇一によれば、政治家としての評価は低い東條も軍事官僚としては抜群であったという。強姦、略奪禁止などの軍規・風紀遵守に厳しく、違反した兵士は容赦なく軍法会議にかけたという。ただし、場合によっては暴虐ともとれる判断であっても、厳しく処罰していない事例もある。例えば、陽高に突入した兵団は、ゲリラ兵が多く混ざっていると思える集団と対峙して強硬な抵抗に遭い、実際にかなりの死傷者が出た。ところが、日本軍が占領してみると降伏兵は全くいなかった。その際、日本軍は、場内の住民の男性をすべて狩り出し、戦闘に参加したか否かを取り調べもせずに全員縛り上げたうえ処刑してしまった。その数350人ともいわれる[65]。しかし、この事件に対して東條は誰も処分していない。この事件が東京裁判で東條の戦犯容疑として取り上げられなかったのは連合国側の証人として出廷し東條らを追い詰めた田中隆吉が参謀長として参戦していたからだろうと秦郁彦は推察している。
民政に対する態度
「モラルの低下」が戦争指導に悪影響を及ぼすことを憲兵隊司令官であった東條はよく理解しており、首相就任後も民心把握に人一倍努めていたと井上寿一は述べている。飯米応急米の申請に対応した係官が居丈高な対応をしたのを目撃した際に、「民衆に接する警察官は特に親切を旨とすべしと言っていたが、何故それが未だ皆にわからぬのか、御上の思し召しはそんなものではない、親切にしなければならぬ」と諭したというエピソードや、米配給所で応急米をもらって老婆が礼を言っているのに対し、事務員が何も言おうとしていなかったことを目撃し、「君も婆さんに礼を言いなさい」といった逸話が伝えられている[66]。
- ゴミ箱あさり
また、テンプレート:要出典範囲、旅先で毎朝民家のゴミ箱を見て回って配給されているはずの魚の骨や野菜の芯が捨てられているか自ら確かめようとした。東條はのちに「私がそうすることによって配給担当者も注意し、さらに努力してくれると思ったからである。それにお上におかせられても、末端の国民の生活について大変心配しておられたからであった」と秘書官らに語ったという[67][68]。これに関連して、1943年(昭和18年)に西尾寿造大将は関西方面を視察していた時に記者から何か質問され「そんな事は、朝早く起きて、街の塵箱をあさっとる奴にでも聞け」と答えた。塵箱あさりとは東條首相のことである。東條は烈火の如く怒り、西尾を予備役とした[69]。
- 言論統制に関して
中外商業新報社(後の日本経済新聞)の編集局長を務めていた小汀利得は戦前の言論統制について、不愉快なものであったが東條自身は世間でいうほど悪い人間では無く、東條同席の座談会でも新聞社を敵に回すべきではないというような態度がうかがえたという。また小汀自身に対して東條は、言論界の雄に対しては、つまらぬことでうるさく言うなと部下に対する念押しまであったと聞いたと述べている。実際に小汀が東條政権時代に記事に関するクレームで憲兵隊に呼び出された時も、小汀が東條の名前を出すと憲兵はクレームを引っ込めたという一幕も紹介している[70]。
懲罰召集や敵対者迫害との批判
東條は「一度不信感を持った人間に対しては容赦なくサディズムの権化と化してしまう、特異な性格」[71]であり、政治的に敵対した者を陰謀で死に追いやったという批判が多い。
竹槍事件[72]では新名丈夫記者(当時37歳)を二等兵として召集し硫黄島へ送ろうとしたとされる。新名が1944年(昭和19年)2月23日毎日新聞朝刊に「竹槍では勝てない、飛行機だ。海軍飛行機だ」と海軍を支持する記事を書いたためであった。当時、陸海軍は航空機の配分を巡って激しく争っており、新名は海軍の肩を持つ記事を書いたために陸軍の反感を買っていた。
また、逓信省工務局長松前重義を勅任官待遇だったにもかかわらず42歳(徴召集の年限上限は40歳であったが、昭和18年11月1日法律第110号で改正された兵役法で、上限が45歳に引き上げられた。この改正にあたっての審議日数はわずか三日であった[73])で二等兵として召集し、南方に送った[74]。松前が、技術者を集めて日米の生産力に圧倒的な差があることを綿密に調査し、この結果を軍令部や近衛らに広めて東條退陣を期したためであったとされる。このことについて、高松宮は日記のなかで「実に憤慨にたえぬ。陸軍の不正であるばかりでなく、陸海軍の責任であり国権の紊乱である」と述べている[75]。また、細川護貞は『細川日記』1944年(昭和19年)10月1日において「初め星野書記官長は電気局長に向ひ、松前を辞めさせる方法なきやと云ひたるも、局長は是なしと答へたるを以て遂に召集したるなりと。海軍の計算によれば、斯の如く一東条の私怨を晴らさんが為、無理なる召集をしたる者七十二人に及べりと。正に神聖なる応召は、文字通り東条の私怨を晴らさんが為の道具となりたり」と批判している。なお、高松宮と細川は東条内閣倒閣工作に深く関与していた反東条派であり、東条の政敵である。倒閣工作に協力していた松前は、彼らから見れば「身内」であった。結局、松前は輸送船団にて南方戦線に輸送された。逓信省が取り消しを要請したものの、富永恭次陸軍次官は「これは東條閣下直接の命令で絶対解除できぬ」と取り合わなかった[76]。松前は10月12日に無事にマニラに着いたが、松前と同時期に召集された老兵数百人はバシー海峡に沈んだ[41][77]。ただし松前の召集日は東条内閣倒閣と同日である。また、富永は東条内閣崩壊後の7月28日には早くも人事局長を辞任させられ、8月30日には第四航空軍司令官に転出させられるという状況であり、上記のエピソードは時系列的に疑問があるが、東条内閣が崩壊し、東条派が失脚していく中でも、新名や松前のような懲罰召集の犠牲者に対する召集解除は行われなかった。
旧加賀藩主前田本家当主で陸軍軍人であった前田利為侯爵は、東條を「頭が悪く先の見えない男」として批評していた[78]。しかし、東條が台頭すると前田は予備役に編入された。1942年(昭和17年)4月に召集された前田は、9月5日ボルネオ守備軍司令としてクチンからラプラン島へ移動途中、飛行機ごと消息を絶ち、10月18日になって遭難した飛行機が発見され、海中から遺品と遺骨の一部が収集された。搭乗機の墜落原因は不明であり、10月29日の朝日新聞は「陣歿」と報じているが、前田家への内報では戦死となっており、11月7日クチンで行われたボルネオ守備軍葬でも寺内総司令官が弔辞で戦死とした。11月20日、築地本願寺における陸軍葬の後で、東條は馬奈木ボルネオ守備軍参謀長に対して「今回は戦死と認定することはできない」とし、東條の命を受けた富永人事局長によって「戦死」ではなく「戦地ニ於ケル公務死」とされた。これにより前田家には相続税に向けた全財産の登録が要求された。当時、当主戦死なら相続税免除の特例があり、東條が戦費欲しさに戦死扱いにしなかったと噂する者もいた。このことは帝国議会でも取り上げられ紛糾したが、最終的に「戦地ニ於ケル公務死ハ戦死ナリ」となり、前田家は相続税を逃れた[79]。但し、その後同じく飛行機で消息を絶った古賀峯一大将は戦地での公務死であるにもかかわらず戦死とはならなかった(しかし、死後元帥に任じられた)。
尾崎行雄は天皇への不敬罪として逮捕された(尾崎不敬事件)。これは1942年(昭和17年)の翼賛選挙で行った応援演説で引用した川柳「売家と唐様で書く三代目」で昭和天皇の治世を揶揄したことが理由とされているが、評論家の山本七平は著書『昭和天皇の研究』で、これを同年4月に尾崎が発表した『東條首相に与えた質問状』に対しての東條の報復だろうとしている。
政府提出の市町村改正案を官僚の権力増強案と批判し反対した3人の衆議院議員、福家俊一、有馬英治、浜田尚友に対して、東條が懲罰召集したとする主張がある[80][81]。
東條の不興をかって前線送りになった将校は多々おり、例えば陸軍省整備課の塚本清彦少佐は戦局に関して東條に直言し、即日サイパン送りとなった。塚本は1944年(昭和19年)6月13日、第31軍の守備参謀として送り出され、1ヵ月後グアムで玉砕している。[82]
第17師団の師団長だった平林盛人中将は、太平洋戦争初期に進駐していた徐州で将校らを前に米英との開戦に踏み切ったことを徹底批判する演説を行った。その中で平林は東條を「陸軍大臣、総理大臣の器ではない」と厳しく指弾した。なお、平林は石原莞爾と陸軍士官学校の同期で親しかった。しかし、平林は東條と馬が合わなかったといわれる。彼もまた、後に師団長の任を解かれて予備役に編入された[83]。
テンプレート:要出典範囲1943年(昭和18年)10月21日、警視庁特高課は東條政府打倒のために重臣グループなどと接触を続けた衆議院議員中野正剛を東方同志会(東方会が改称)ほか右翼団体の会員百数十名とともに「戦時刑事特別法違反」の容疑で検挙した[84][85][86]。中野は26日夜に釈放された後、まだ憲兵隊の監視下にある中、自宅で自決する。全国憲友会編『日本憲兵正史』では陸軍に入隊していた子息の「安全」と引きかえに造言蜚語の事実を認めさせられたので、それを恥じて自決したものと推測している[87][88]。また秦郁彦は、中野の取り調べを担当し嫌疑不十分で釈放した43歳の東京地検検事である中村登音夫に対して、その報復として召集令状が届いたとしている[89](大日本帝国憲法第53条で定められた不逮捕特権を持つ国会議員たる中野は現行犯および内乱外患に関わる罪のいずれでもなかったため、そもそも拘留されること自体が法に反していた)。
評価
批判的な評価
政治姿勢に対する批判
自分を批判した将官を省部の要職から外して、戦死する確率の高い第一線の指揮官に送ったり、逓信省工務局長松前重義が受けたようないわゆる「懲罰召集」を行う等、陸軍大臣を兼ねる首相として強権的な政治手法を用い、さらには憲兵を恣意的に使っての一種の恐怖政治を行った(東條の政治手法に反対していた人々は、東條幕府と呼んで非難した)[90]。
「カミソリ東條」の異名の通り、軍官僚としてはかなり有能であったとされたが、東條と犬猿の仲で後に予備役に編入させられた石原莞爾中将は、関東軍在勤当時上官であった東條を人前でも平気で「東條上等兵」と呼んで馬鹿にすることしばしばであった。スケールの大きな理論家肌の石原からすると、東條は部下に気を配っているだけの小人物にしか見えなかったようである。 戦時中の言論統制下でも石原は東條について容赦なく馬鹿呼ばわりし、「憲兵隊しかつかえない女々しい男」といって哄笑していた。このため石原には東條の命令で常に内務省や憲兵隊の監視がついたが、石原の度量の大きさにのまれて、逆に教えを乞う刑事や憲兵が多かったという(青江舜二郎『石原莞爾』)また戦後、東京裁判の検事団から取調べを受けた際「あなたと東條は対立していたようだが」と訊ねられると、石原は「自分にはいささかの意見・思想がある。しかし、東條には意見・思想が何も無い。意見・思想の無い者と私が対立のしようがないではないか」と答えている。 東條と石原を和解させ、石原の戦略的頭脳を戦局打開に生かそうと、甘粕正彦その他の手引きで、1942年年末、両者の会談が開かれている。しかし会談の冒頭、石原は東條に「君には戦争指導の能力はないから即刻退陣しなさい」といきなり直言、東條が機嫌を悪くして会談は空振りに終わった。
その他、国内での批判など
秦郁彦は「もし東京裁判がなく、代わりに日本人の手による国民裁判か軍法会議が開かれた、と仮定した場合も、同じ理由で東條は決定的に不利な立場に置かれただろう。裁判がどう展開したか、私にも見当がつきかねるが、既定法の枠内だけでも、刑法、陸軍刑法、戦時刑事特別法、陸軍懲罰令など適用すべき法律に不足はなかった。容疑対象としては、チャハル作戦と、その作戦中に起きた山西省陽高における集団虐殺、中野正剛以下の虐待事件、内閣総辞職前の策動などが並んだだろう」 と著書『現代史の争点』中で推測している。
司馬遼太郎はエッセイ「大正生まれの「故老」」[91]中で、東條を「集団的政治発狂組合の事務局長のような人」と言っている。
元海軍軍人で作家の阿川弘之は、東京帝国大学の卒業式で東條が「諸君は非常時に際し繰り上げ卒業するのであるが自分も日露戦争のため士官学校を繰り上げ卒業になったが努力してここまでになった(だから諸君もその例にならって努力せよ)」と講演し失笑を買ったと自らの書籍で書いている[92]。
福田和也は東條を「日本的組織で人望を集める典型的人物」(『総理大臣の採点表』文藝春秋)と評している。善人であり、周囲や部下へのやさしい気配りを欠かさないが、同時に現場主義の権化のような人物でもあった。首相就任時点ではもはや誰が総理になっても開戦は避けられず、その状況下でも東條が開戦回避に尽力したのは事実であって開戦そのものに彼は責任はないが、開戦後、陸軍の現場主義者としてのマイナス面が出てしまい、外交的和平工作にほとんど関心を示さなかったことについては、東條の致命的な政治的ミスだったとしている。
好意的な評価
昭和天皇からの信任
日米開戦日の明け方、開戦回避を熱望していた昭和天皇の期待に応えることができず、懺悔の念に耐えかねて、首相官邸において皇居の方角に向かって号泣した逸話は有名である。これは近衛内閣の陸相時の開戦派的姿勢と矛盾しているようにみえるが、東條本人は、陸軍の論理よりも天皇の直接意思を絶対優先する忠心の持ち主であり、首相就任時に天皇から戦争回避の意思を直接告げられたことで東條自身が天皇の意思を最優先することを決心、昭和天皇も東條のこの性格をよく知っていたということである。首相に就任する際、あまりの重責に顔面蒼白になったという話もある。『昭和天皇独白録』で語られている通り、昭和天皇から信任が非常に厚かった臣下であり、失脚後、昭和天皇からそれまで前例のない感謝の言葉(勅語)を贈られたことからもそれがうかがえる。
昭和天皇は、東條首相在任時の行動について評価できる点として、首相就任後に、自分の意志を汲んで、戦争回避に全力を尽くしたこと、ドーリットル空襲の際、乗組員の米兵を捕虜にした時に、参謀本部の反対を押し切って正当な軍事裁判を行ったこと、サイパン島陥落の際に民間人を玉砕させることに極力反対した点などをあげている。また内閣退陣のときの東條の態度に関しても、いさぎよく立派なものであったと述べている[93]。
東條内閣が不人気であった理由について、天皇は「憲兵を用い過ぎた事と、あまりに兼職をもち多忙すぎたため国民に東條の気持ちが通じなかった」と同情的に回想し、内閣の末期には田中隆吉、富永恭次などのいかがわしい部下や憲兵への押さえがきかなかったとも推察しており、東條という人間は思慮周密で仕事熱心、話せばよくわかるすぐれた人物であったと高く評価している。「私は東條に同情している」という発言さえみえる[94]。
『昭和天皇独白録』は昭和前期の政治家・軍人の多くに対し、きわめて厳しい昭和天皇の評価がいわれているが(たとえば石原莞爾、広田弘毅、松岡洋右、平沼騏一郎、宇垣一成などは昭和天皇に厳しく批判されている)その中で東條への繰り返しの高い評価は異例なものであり、いかに東條が昭和天皇個人からの信頼を強く受けていたがわかる。
国内の好意的な評価
- 木戸幸一の評
- 「東條って人は非常に陛下の命というと本当に一生懸命になってやるわけでね、その点はある意味ではまた大変強い。東條って人はよくみんなに言われるような主戦論者でもなければ何でもないんだ。極めて事務的な男で政治家でもないんですよ」と語っている。[95]
- 重光葵の評
- 重光葵は「東條を単に悪人として悪く言えば事足りるというふうな世評は浅薄である。彼は勉強家で頭も鋭い。要点をつかんで行く理解力と決断力とは、他の軍閥者流の及ぶところではない。惜しい哉、彼には広量と世界知識とが欠如していた。もし彼に十分な時があり、これらの要素を修養によって具備していたならば、今日のような日本の破局は招来しなかったであろう」と述べている[96]。
- 徳富蘇峰の評 -日露戦争指導層との対比-
- 徳富蘇峰は「何故に日本は破れたるか」という考察の一端で、自らも良く知っていた日露戦争当時の日本の上層部とこの戦争時の上層部と比較し「人物欠乏」を挙げて「舞台はむしろ戦争にかけて、十倍も大きくなっていたが、役者はそれに反して、前の役者の十分の一と言いたいが、実は百分の一にも足りない」とした上で、首相を務めた東條、小磯、鈴木について「彼らは負け相撲であったから、凡有る悪評を受けているが、悪人でもなければ、莫迦でもない。立派な一人前の男である。ただその荷が、仕事に勝ち過ぎたのである。(中略)その荷物は尋常一様の荷物ではなかった。相当の名馬でも、とてもその任に堪えぬ程の、重荷であった。況や当たり前の馬に於てをやだ。」と評し、東條が日露戦争時の一軍の総帥であったならそれなりの働きをしたであろうに、「咀嚼ができないほどの、大物」があてがわれてこれをどうにもできなかったことを「国家に取ては勿論、当人に取ても、笑止千万の事」と断じている[97]。
- 井上寿一の評
- 井上寿一は硬直化した官僚組織をバイパスして、直接、民衆と結びつくことで東條内閣への国民の期待は高まっていったのであり、国民モラルの低下を抑えることができたのは、東條一人だけであったとしている。国民の東條への期待が失望に変わったのはアッツ島の玉砕後あたりからであり、政治エリートの東條批判の高まりも、これらの国民世論の変化によるものであったと分析している[98]。
- 来栖三郎の評 -大東亜主義に対する姿勢-
- 来栖三郎は、東條の大東亜主義現実化に関する姿勢は極めて真摯であり、行事の際の文章に「日本は東亜の盟主として云々」という字句があったのに対して、「まだこんなことを言っているのか」といいながら自ら文章を削ったというエピソードを紹介し、東條自身は人を現地に派遣して、理想の実践を督励する熱の入れようだったが、現場の無理解により妨げられ、かえって羊頭狗肉との批判を浴びる結果になってしまったと戦後の回顧で述べている[99]。
- 山田風太郎の評
- 山田風太郎は戦後の回顧で、当時の日本人は東條をヒトラーのような怪物的な独裁者とは考えていなかった、単なる陸軍大将に過ぎないと思っていたとしている[100]。自決未遂直後は東條を痛烈に批判した山田風太郎だが(「東條英機自殺未遂事件#反応」を参照)、後に社会の東條批判の風潮に対して『戦中派不戦日記』において以下のように述べている。
- 東條大将は敵国から怪物的悪漢として誹謗され、日本の新聞も否が応でもそれに合わせて書き立てるであろう。日本人は東條大将が敗戦日本の犠牲者であることを知りつつ、敵と口を合わせてののしりつつ、涙をのんで犠牲者の地にたつことを強いるのである(9月17日)。
- GHQの東條に対する事実無根の汚職疑惑発表と訂正について、がむしゃらに東條を悪漢にしようという魂胆が透けてみえる(11月12日)。
- 敗戦後の日本人の東條に対する反応はヒステリックに過ぎる(11月20日)。
外国からの好意的な評価
- バー・モウの評
- ビルマ(現ミャンマー)のバー・モウ初代首相は自身の著書『ビルマの夜明け』の中で「歴史的に見るならば、日本ほどアジアを白人支配から離脱させることに貢献した国はない。真実のビルマの独立宣言は1948年の1月4日ではなく、1943年8月1日に行われたのであって、真のビルマ解放者はアトリー率いる労働党政府ではなく、東条大将と大日本帝国政府であった」と語っている。
- レーリンクの評
- 東京裁判の判事の1人でオランダのベルト・レーリンク判事は著書『Tokyo Trial and Beyond』の中で東條について「私が会った日本人被告は皆立派な人格者ばかりであった。特に東條氏の証言は冷静沈着・頭脳明晰な氏らしく見事なものであった」と述懐し、また「被告らの有罪判決は正確な証言を元に国際法に照らして導き出されたものでは決してなかった」「多数派の判事の判決の要旨を見るにつけ、私はそこに自分の名を連ねることに嫌悪の念を抱くようになった。これは極秘の話ですが、この判決はどんな人にも想像できないくらい酷い内容です。」と東京裁判のあり様を批判している。
- トケイヤーの評
- ラビ・マーヴィン・トケイヤー著『ユダヤ製国家日本』という本の中に東條について以下のような記述があり樋口季一郎と同様にトケイヤーから「英雄」と称えられている。トケイヤーが東條英機を「英雄」と称える理由については、1937年(昭和12年)にハルビンで開催されたドイツの暴挙を世界に訴えるための極東ユダヤ人大会にハルビン特務機関長だった樋口らが出席したことに対し、当時同盟国であったドイツが抗議したがその抗議を東條が握りつぶし、処分ではなく栄転させた。ただし樋口の回想録によると東條は樋口の意見を陸軍省に伝えたことになっている[101]。
腹心の部下とされる人物
- 鈴木貞一
- 加藤泊治郎
- 陸軍中将。憲兵司令部本部長など。
- 四方諒二
- 陸軍少将。中支那派遣憲兵隊司令官。東京憲兵隊長。
- 木村兵太郎
- 陸軍大将。ビルマ方面軍司令官など。
- 佐藤賢了
- 陸軍中将。陸軍省軍務局長など。
- 真田穣一郎
- 陸軍少将。参謀本部第一部長など。
- 浜本正勝
- 赤松貞雄
- 陸軍大佐。内閣秘書官。赤松は東條の陸軍大学校の兵学教官時代の教え子で、陸軍次官時代に引き抜くなど厚遇し、赤松もそれによく応え東條を支えた。回想録『東条秘書官機密日誌』を残している。
- 田中隆吉
- 陸軍少将。
- 富永恭次
- 陸軍中将。陸軍省人事局長、陸軍次官など。
- 評価
東條に近かった人物は「三奸四愚」と総称されることがある[102]。
- 三奸:鈴木貞一、加藤泊治郎、四方諒二
- 四愚:木村兵太郎、佐藤賢了、真田穣一郎、赤松貞雄
田中隆吉と富永恭次は、昭和天皇から「田中隆吉とか富永次官とか、兎角評判のよくない且部下の抑へのきかない者を使つた事も、評判を落した原因であらうと思ふ」と名指しされた[103]。 田中は兵務局長として、東條の腰巾着と揶揄されるほどだったが、戦後は一転連合軍側の証人として東京裁判であることないこと証言したとして評判が悪い[104]。富永は、これも東條の陸軍大学校兵学教官時代の教え子で、東條陸軍大臣時代に仏印進駐の責任問題で他の二人の将官が予備役編入される中、半年後に人事局長に栄転し陸軍次官も兼任。のち、富永はフィリピンで特攻指令を下し、自らも特攻すると訓示しながらも、自身は胃潰瘍を理由に台湾島へ移動して温泉で英気を養うなど、帝国陸軍最低の将官との評価を受けている[105]。
パーソナリティ、エピソード
- 大川周明は東條を評して「下駄なり」と言った。足の下に履くには適するも頭上に戴く器ではないという意味である。[106]
- 学習院や幼年学校時代の成績は振るわなかった。陸士では「予科67番、後期10番」であり、入学当初は上の下、卒業時は上の上に位置する。将校としての出世の登竜門である陸大受験には父英教のほうが熱心であり、薦められるままに1908年(明治41年)に1度目の受験をするが、準備もしておらず初審にも通らなかった。やがて父の度重なる説得と生来の負けず嫌いから勉強に専心するようになり、1912年(明治45年)に3度目にして合格。受験時は合格に必要な学習時間を計算し、そこから一日あたりの勉強時間を割り出して受験勉強に当たったという。陸大の席次は11番、軍刀組ではないが、海外勤務の特権を与えられる成績であった[107]。
- 非常な部下思いであり、師団長時代は兵士の健康や家族の経済状態に渡るまで細かい気配りをした。テンプレート:要出典範囲
- テンプレート:要出典範囲
- 女性に対し禁欲的であり、それを親族に対しても徹底した。次妹の息子山田玉哉(陸軍中佐)が末妹の嫁ぎ先で戯れに女中の手を握ったことを聞き、わざわざ彼を官邸に呼びつけ殴打した。東條の目には涙が浮かんでいたという[108]。
- 首相秘書官を務めていた鹿岡円平が、重巡洋艦那智艦長としてマニラ湾で戦死すると、家で飼っていた犬に「那智」と名づけて鹿岡を偲んでいたらしい[109]。
- 1941年(昭和16年)頃に知人からシャム猫を貰い、猫好きとなった東條はこれを大変可愛がっていた[110]。
- 日米開戦の直後、在米の日本語学校の校長を通じて、アメリカ国籍を持つ日系2世に対して、「米国で生まれた日系二世の人達は、アメリカ人として祖国アメリカのために戦うべきである。なぜなら、君主の為、祖国の為に闘うは、其即ち武士道なり…」というメッセージを送り、「日本人としてアメリカと戦え」という命令を送られると予想していた日系人達を驚かせた[111]。
- 部下の報告はメモ帳に記し、そしてその内容を時系列、事項別のメモに整理し、箱に入れて保存する。また(1)年月順、(2)事項別、(3)首相として心掛けるべきもの、の3種類の手帳に記入という作業を秘書の手も借りずに自ら行っていた[112]テンプレート:Sfn。
- かつて部下として東條を使った宇垣一成大将は「几帳面だが経綸が無い」と彼を評している。またある人は「東條は村役場の戸籍係が一番適任だ」と言った。いかなる小事でも手帳に書く癖があり、書類の整理はその最も得意とするところだからである。小事にこだわって大局から物事を判断する能力はゼロである。経綸の無い所以である。[113]
- 精神論を重要視し、戦時中、それに類する抽象的な意見をしばしば唱えている。一例をあげれば、コレヒドール島での日本軍の猛攻に対して、米軍が「精神が攻撃した」と評したことに同感し「飛行機は人が飛んでいる。精神が飛んでいるのだ。」と答えている。[114]
- 何代もの総理大臣に仕えた運転手が、「歴代総理のうちでだれが一番立派だったか」と聞いたところ、「東條閣下ほど立派な方はおられない」と答えた。理由は「隅々まで部下思いの方だったから」ということで、『あることをすれば、どこの誰が困り、面目を失するか』と相当の気配りを懸念していた人物だから案外と人気があった。それ故に総理のときには陸軍大臣を兼任し、最後には参謀総長まで兼任できるだろうと答えた。[115]
- 東條はドイツ留学時、騎兵将校として軍用馬の研究に生かすため、欠かさず競馬の観戦に行っていた。しかし、ある日、下宿先に帰ってくると、「競馬に行くのは、もうきょうかぎりで止めにした」と下宿先のエルゼ・シュタム夫人に宣言した。理由は「きょうの競馬の最中、一頭の馬がつまずいて転倒して、脚を折ってしまった。無用の苦痛をあたえないために馬はその場で射殺されたが、その有様があまりにも残酷で、とても見ていられなかった。競馬があんなにむごいものだとは、知らなかった。もう二度とふたたび、競馬には行かない。」とのことで、競馬の残酷な側面に気づかされたためであった。[116]
遺言
東條の遺書といわれるものは複数存在する。ひとつは1945年(昭和20年)9月3日の日付で書かれた長男へ向けてのものである。他は自殺未遂までに書いたとされるものと、死刑判決後に刑が執行されるまでに書いたとされるものである(逮捕直前に書かれたとされる遺書は偽書の疑いがある)。
- 家族に宛てたもの
日本側代表団が連合国に対する降伏文書に調印した翌日の1945年(昭和20年)9月3日に長男へ向けて書かれたものがある。東條の直筆の遺言はこれの他、妻勝子や次男など親族にあてたものが複数存在する。
- 処刑を前にした時のもの
処刑前に東條が書き花山教誨師に対して口頭で伝えたものがある。書かれた時期は判決を受けた1948年(昭和23年)11月12日から刑が執行された12月24日未明までの間とされる。花山は聞いたことを後で書いたので必ずしも正確なものではないと述べている。また東條が花山教誨師に読み上げたものに近い長文の遺書が東條英機の遺書として世紀の遺書に収録されている[117]。
- 逮捕前に書かれたとされるもの(偽書の疑いあり)
1945年(昭和20年)9月11日に連合国に逮捕される前に書かれたとされる遺書が、1952年(昭和27年)の中央公論5月号にUP通信のE・ホーブライト記者記者が東條の側近だった陸軍大佐からもらったものであるとの触れ込みで発表されている。この遺書は、東京裁判で鈴木貞一の補佐弁護人を務めた戒能通孝から「東條的無責任論」として批判を受けた。また、この遺書は偽書であるとの疑惑も出ている。保阪正康は東條の口述を受けて筆記したとされる陸軍大佐二人について本人にも直接取材し、この遺書が東條のものではなく、東條が雑談で話したものをまとめ、米国の日本がまた戦前のような国家になるという危惧を「東條」の名を使うことで強めようとしたものではないかと疑問を抱いている。[118]。
子孫
長男の東條英隆は、首都圏警察に勤め、英機が関東軍憲兵司令官であったときに仕事で満州にあり、1936年に結婚。新京神社で挙式した。その後、鴨緑江発電職員になった。弱視のため兵役免除を受けていたが、太平洋戦争末期に海軍から召集を受け、横須賀で終戦を迎えたという[119]。敗戦が近くなると、東條家の通字の「英」を持つこともあり、一家は特に迫害の対象になり、転職や就学もままならず、長く東京を離れて伊豆の伊東に居住し、英隆は英機が収監された巣鴨に行くこともなかったという[120]。
次男の東條輝雄は、零戦や戦後初の国産旅客機である日本航空機製造YS-11、航空自衛隊のC-1の設計に携わった技師で、三菱重工業の副社長を経て、三菱自動車工業の社長・会長を1981年から1984年まで務めた。
三男東條敏夫は、息子たちの中で唯一軍人の道を進み、陸軍予科士官学校(59期)に進学、士官学校在校中に終戦を迎えた。戦後、航空自衛隊に入隊し、空将補にまで昇進した。
他には長女光枝(陸軍軍人・自衛官・実業家の杉山茂と結婚[121])、次女満喜枝(陸軍軍人で宮城事件で自刃した古賀秀正と結婚、後に社会学者田村健二と再婚)、三女幸枝(映画監督の鷹森立一と結婚)、四女君枝(アメリカの実業家デニス・ルロイ・ギルバートソンと結婚しキミエ・ギルバートソンと名乗る)がいた。
英機とかつ子とには孫が14人いたとされる[122]。A級戦犯分祀反対を唱えた東條由布子(本名:岩浪淑枝)は長男の英隆の子。
栄典
- 正三位 :1942年(昭和17年)8月15日[123]
- 50px 勲一等旭日大綬章 :1940年(昭和15年)9月11日[124]
- 50px 功二級金鵄勲章 :1940年(昭和15年)4月29日
- 50px 勲一等瑞宝章 :1937年(昭和12年)7月7日
- 50px 白象勲章勲特等 :1942年(昭和17年)2月9日[125]
- 特級同光勲章:1943年(昭和18年)6月2日[126]
- 勲一位龍光大綬章 :1942年(昭和17年)9月14日[127]
- 50px チュラチョームクラーオ勲章グランド・クロス :1943年(昭和18年)7月23日[128]
- 50px テンプレート:仮リンク :1940年(昭和15年)1月18日[129]
- 建国神廟創建記念章 :1942年(昭和17年)2月20日[130]
東條英機を描いた作品
東條は独特の風貌(剥げ頭と髭)とロイド眼鏡、甲高い声音と抑揚を持つ。東條役の俳優にとっては、それらの特徴を強調したメーキャップや演出を施せば、たとえ容姿がそれほど似通っていなくても演じることができた。
小説
- 有馬頼義 『左利きの独裁者-東条英機の悲劇』(『(時代小説大全集6)人物日本史 昭和』 ISBN 4101208158 に収録)
- 松田十刻 『東条英機-大日本帝国に殉じた男』 ISBN 4569577881
映画
- 『総統の顔』(1943年) - 東條役:不詳(日本では未公開)
- 『日本の悲劇・自由の声』(1946年) - (本人出演)
- 『大東亜戦争と国際裁判』 (1959年) - 東條役:嵐寛寿郎
- 『皇室と戦争とわが民族』(1960年) - 東條役:嵐寛寿郎
- 『激動の昭和史 軍閥』 (1970年) - 東條役:小林桂樹
- 『トラ・トラ・トラ!』(1970年) - 東條役:内田朝雄
- 『戦争と人間 第三部 完結編』(1973年) - 東條役:井上正彦
- 『大日本帝国』(1982年) - 東條役:丹波哲郎
- 『プライド・運命の瞬間』(1998年) - 東條役:津川雅彦
- 『スパイ・ゾルゲ』(2003年) - 東條役:竹中直人
- 『南京の真実』第一部「七人の死刑囚」(2008年) - 東條役:藤巻潤
- 『終戦のエンペラー』(カナダ2012年・アメリカ&日本2013年) - 東條役:火野正平
テレビ
- 『落日燃ゆ』(1976年、NET)- 東條役:若宮大祐
- 『日本の戦後 審判の日』(1977年、NHK)-東條役:小沢栄太郎
- 『大いなる朝』(1979年、TBS)- 東條役 : 南原宏治
- 『山河燃ゆ』(1984年、NHK)- 東條役:渥美國泰
- 『命なりけり 悲劇の外相東郷茂徳』 (1994年、TBSテレビ) - 東條役:すまけい
- 『あの戦争は何だったのか 日米開戦と東条英機』(2008年、TBS) - 東條役:ビートたけし
参考文献
一次資料及び当事者の証言、回想録
- 小田俊与 『戦ふ東條首相』、博文館新社、1943年4月 ISBNコード無し
- 花山信勝 『平和の発見-巣鴨の生と死の記録』朝日新聞社 1949年 ISBNコード無し
- 田中新一 『田中作戦部長の証言』芙蓉書房 1956年
- 寺崎英成 『昭和天皇独白録・寺崎英成御用掛日記』 ISBN 4163450505 (寺崎英成の娘、マリコ・テラサキ・ミラーが編集に協力)
- 木戸幸一・木戸日記研究会『木戸幸一日記』東京大学出版会 1966年 ISBN 9784130300117
- 参謀本部 『杉山メモ』原書房 1967年2月 ISBN 9784562001040
- バー・モウ『ビルマの夜明け』太陽出版 1973年6月 (1995年再版)ISBN 9784884691141
- 全国憲友会連合会 『日本憲兵正史』 全国憲友会連合会本部 1976年10月
- 細川護貞 『細川日記』中央公論新社 1978年8月
- 赤松貞雄 『東條秘書官機密日誌』文藝春秋 1985年
- 加瀬俊一 『加瀬俊一回想録』山手書房 1986年5月
- 保阪正康『東条英機と天皇の時代(上)-軍内抗争から開戦前夜まで』、伝統と現代社、1979年12月。ISBN 4167494019
- 同上 『東条英機と天皇の時代(下)-日米開戦から東京裁判まで』、伝統と現代社、1980年1月。ISBN 4167494027
- 佐藤早苗『東条英機「わが無念」-獄中手記・日米開戦の真実』、光文社、1991年11月。ISBN 4334970664
- 同上『東條英機 封印された真実』、講談社、1995年8月(絶版)。 ISBN 4-06-207113-4
- 伊藤隆・広橋眞光・片島紀男 編『東條内閣総理大臣機密記録・東条英機大将言行録』東京大学出版社 1990年 ISBN 4-13-030071-7 c3031
- 重光葵 『巣鴨日記』(文藝春秋昭和27年8月号掲載)
その他
- 平泉澄『日本の悲劇と理想』 原書房 1977年3月
- 平泉澄『悲劇縦走』 皇學館大学出版部 1980年9月
- 東條由布子『祖父東條英機「一切語るなかれ」』増補改定版(『文春文庫』)、2000年3月 ISBN 4-16-736902-8
- 東條由布子編『大東亜戦争の真実』、ワック、2005年8月、 ISBN 4898310834 (1948年発行「東條英機宣誓供述書」を改題、ワック版ではGHQ発禁第一号と宣伝されているが完全な誤りである。GHQの検閲は1945年の占領直後から始まっているため、花田紀凱が宣伝用に話を作ったものと思われる。)
- 小林よしのり『いわゆるA級戦犯 ゴー宣 special』、幻冬舎 2006年6月 ISBN 4344011910
- 伊藤俊一郎 『至誠・鉄の人 東条英機伝』(天佑書房、1942年)
- 山中峯太郎編 『一億の陣頭に立ちて 東条首相声明録』(誠文堂新光社、1942年)
- 『大東亜戦争に直面して 東条英機首相演説集』(改造社、1942年)
- 『必勝の大道 東条総理大臣議会演説答弁集』(同盟通信社、1943年)
- 牛村圭『「戦争責任」論の真実』PHP研究所 2006年
- 深田祐介『黎明の世紀-大東亜会議とその主役たち』文藝春秋 1991年
- 森下智『近衛師団参謀終戦秘史』 私家版 2006年
- 森下智『水戸教導航空通信師団事件秘史 昭和の彰義隊の悲劇』 私家版 2009年
- 戸部良一「戦争指導者としての東條英機」『平成14年度戦争史研究国際フォーラム報告書』所収 2002年
脚注
- 注
- ↑ 現在の百科事典、辞典類、学術誌、研究書、文部科学省検定教科書 等における歴史人物名としての表記は「東条英機」。存命当時の『職員録』など印刷物における表記は「東條英機」、御署名原本における大臣副書は「東條英機」であった。
- ↑ 誕生日は「明治17年7月30日」だが、長男・次男を既に亡くしていた英教は英機を里子に出したため、戸籍上の出生は「明治17年12月30日」となっている。本籍地は岩手県。
- ↑ 当時の陸軍は明治維新の元老たる山縣有朋を中心とする薩長軍閥が幅を利かせ、戊辰戦争では賊軍扱いとなった東北地方諸藩の出身者は様々な差別をうけたと言われることがある。もっとも八幡和郎『歴代総理の通信簿』(PHP研究所)によれば、予備役になった原因は日露戦争の作戦失敗という明確な理由があるという
- ↑ また、陸軍大将を複数輩出した陸大31期までの首席31名のうち、大将にまで昇進した者は15名に過ぎないことから、首席が大将になれないことは珍しいことではなく、ほぼ同世代の一戸兵衛(弘前藩)、松川敏胤(仙台藩)、柴五郎(会津藩)は大将となっており、この世代(1855-60年生まれ)の大将計12名のうち、東北地方出身者3名を除くと、皇族、長野県、静岡県、福井県、兵庫県、愛媛県、高知県、福岡県、宮崎県それぞれの出身者が1名ずつであり、出身地によって大将への昇進に差別があった事実は認められないとするテンプレート:要出典。
- ↑ 靖国神社には一般的に、どの戦死者の遺骨も納められていない。神社は神霊を祭る社であり、靖国神社では国のため戦争・事変で命を落とした戦没者、およびその他の公務殉職者の霊を祭神として祀っている。
- 出典
関連項目
- Portal:大東亜共栄圏
- 戦陣訓
- 『ウィキニュース』東条英機元首相が合祀基準を通達
- フランクリン・ルーズベルト
- ベニート・ムッソリーニ
- アドルフ・ヒトラー
- ウィンストン・チャーチル
- 観阿弥
- 樋口季一郎
- キ44 二式単座戦闘機「鍾馗」本機のアメリカ軍のコードネームは「Tojo」
- プレスコード
- 加州清光(東條英機元首相の軍刀)
- バーデン=バーデンの密約
外部リンク
- 大日本帝國陸海軍史料館
- 教科書が教えない軍人伝
- 硫黄島と東条英機
- WW2DB: 東條英機
- 一日本人にとって、「Noose」(絞首縄)の持つ意味合い。昭和23年、以前、以後。
- 「Tojo Hanged 」1948年12月23日
テンプレート:S-off
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
近衛文麿
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 内閣総理大臣
第40代:1941年 - 1944年
|style="width:30%"|次代:
小磯國昭
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
創設
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 軍需大臣
初代:1943年 - 1944年
|style="width:30%"|次代:
藤原銀次郎
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
畑俊六
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 陸軍大臣
第31代:1940年 - 1944年
|style="width:30%"|次代:
杉山元
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
田辺治通
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 内務大臣
第64代:1941年 - 1942年
|style="width:30%"|次代:
湯沢三千男
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
東郷茂徳
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 外務大臣
第66代:1942年(兼任)
|style="width:30%"|次代:
谷正之
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
橋田邦彦
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 文部大臣
第57代:1943年(兼任)
|style="width:30%"|次代:
岡部長景
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
岸信介
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 商工大臣
第25代:1943年(兼任)
|style="width:30%"|次代:
廃止
テンプレート:S-mil
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
梅津美治郎
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 陸軍次官
1938年
|style="width:30%"|次代:
山脇正隆
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
板垣征四郎
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 関東軍参謀長
1937年 - 1938年
|style="width:30%"|次代:
磯谷廉介
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
岩佐禄郎
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 関東憲兵隊司令官
1935年 - 1937年
|style="width:30%"|次代:
藤江恵輔
- 転送 Template:End
テンプレート:日本国歴代内閣総理大臣 テンプレート:陸軍大臣 テンプレート:外務大臣 テンプレート:内務大臣 テンプレート:文部科学大臣 テンプレート:商工大臣 テンプレート:軍需大臣
テンプレート:A級戦犯- ↑ 須山幸雄『小畑敏四郎』芙蓉書房
- ↑ このとき、山下奉文・河辺正三らとも交流があったという(佐藤早苗『東條英機の妻 勝子の生涯』96頁)。
- ↑ 大江志乃夫『張作霖爆殺』31-48頁
- ↑ 大江志乃夫『張作霖爆殺』31-48頁
- ↑ 大江志乃夫『張作霖爆殺』176頁
- ↑ この人事については皇道派による左遷であるという見方がある(佐藤早苗『東條英機の妻 勝子の生涯』107頁)
- ↑ 中西輝政2011「日本軍の敢闘とソ連の謀略…それは歴史の一大分岐点だった」『歴史街道』277」
- ↑ 佐藤早苗『東條英機の妻 勝子の生涯』110頁
- ↑ この時期の満州国経営の重要人物を一まとめにし、弐キ参スケと称すことがある。
- ↑ 秦郁彦『現代史の争点』文春文庫254~255頁
- ↑ 額田坦回想録23頁
- ↑ 額田坦回想録79頁
- ↑ 伯父、身を賭して開戦に反対 朝日新聞2013年12月17日付け『声 語りつぐ戦争』。投書者は網本の姪
- ↑ 『昭和天皇独白録・寺崎英成御用掛日記』、『木戸幸一日記』、『細川日記』など。
- ↑ 1937年12月のトラウトマン工作の条件が賠償を含む厳しい条件に吊り上がり、1938年の近衛文麿による「国民政府相手とせず」により日中関係が最悪になっていたが、1940年の桐工作で一時期対立していた蒋介石の国民政府との和睦を考え、「汪・蔣政権の合作」「非併合・非賠償」「中国の独立」をもとにした条件が行われたが、蔣介石は中国本土への日本軍の防共駐屯には断固反対し、一方東條英機も日本軍の無条件撤退に断固反対した。
- ↑ 当時、大将への昇進条件の一つに、中将で5年活動するというものがあった。内閣成立時の東條の中将在任歴は4年10ヶ月であった。
- ↑ 広橋眞光・伊藤隆・片島紀男『東條内閣総理大臣機密記録』480-481頁
- ↑ 小室直樹『硫黄島栗林忠道大将の教訓』
- ↑ 明治百年史叢書杉山メモ 下巻 資料解説 P6
- ↑ 戦史叢書(76)大本営陸軍部 大東亜戦争開戦経緯<5> P336
- ↑ 『海軍大学教育』「第三章 真珠湾作戦と海大」実松譲 光人社
- ↑ 『明治百年史叢書 杉山メモ -大本営・政府連絡会議等筆記- 上下巻』参謀本部編 原書房
- ↑ 11月30日 東条首相拝謁時 『(前略)海軍ノ一部ニ作戦ニ就キ不安ヲ懐キ居ル者アルヤニ拝謁セラルル御話アリシトノコト(布哇作戦ノ予想ニテ犠牲ノ多カルヘキ御話ナリシカト思ハル)ニテ、首相ガ拝謁ノ時首相ニ御下問アリシ (首相)少シモ聞及無之旨奉答』昭和天皇発言記録集成 下巻(芙蓉書房出版)p.96
- ↑ 『東京裁判尋問調書』日本図書センター
- ↑ 保坂正康『さまざまなる戦後ー天皇が十九人いた』(角川文庫)角川書店 2001年
- ↑ 『小説太平洋戦争』
- ↑ 児島襄『太平洋戦争 上』中公新書 (84) 312頁 『歴代陸軍大将全覧 昭和篇/太平洋戦争期』中公新書クラレ79頁
- ↑ 東条首相、満洲国を訪問 大阪朝日新聞 1943.4.2(昭和18)
- ↑ 戦争指導者としての東條英機
- ↑ 広橋・伊藤・片島『東條内閣総理大臣機密記録』27頁
- ↑ 『東條秘書官機密日誌』128-133頁
- ↑ 歴代陸軍大将全覧 昭和編 太平洋戦争期』83頁 中央新書クラレ
- ↑ 額田坦回想録148頁
- ↑ 『杉山メモ(下)』資料解説27頁
- ↑ 『杉山メモ(下)』資料解説32頁
- ↑ 額田坦回想録149頁
- ↑ 細川日記180頁
- ↑ 吉田裕『昭和天皇の終戦史』34頁
- ↑ 太田尚樹 『東条英機と阿片の闇』 角川ソフィア文庫 ISBN 978-4044058050、230-231p
- ↑ 赤松貞雄『東条秘書官機密日誌』p.160
- ↑ 41.0 41.1 41.2 41.3 『額田坦回想録』
- ↑ 42.0 42.1 『巣鴨日記』
- ↑ 『東條秘書官機密日誌』160-161頁
- ↑ 広橋・伊藤隆・片島紀男『東條内閣総理大臣機密記録』556-557頁
- ↑ 津野田忠重『秘録東条英機暗殺計画』
- ↑ 『東条英機暗殺計画と終戦工作』(別冊歴史読本 17)新人物往来社
- ↑ 小磯が予備役のままだったためである。小磯自身は大命降下の際に現役に復帰して陸相を兼ねることを希望したが、陸軍がそれを認めなかった。
- ↑ 保阪正康『東條英機と天皇の時代』ちくま文庫550頁
- ↑ 『加瀬俊一回想録』
- ↑ 保阪正康『東條英機と天皇の時代』ちくま文庫562~569頁
- ↑ 来栖三郎 『泡沫の三十五年』 2007年3月25日 P168
- ↑ 広橋・伊藤・片島『東条内閣総理大臣機密記録』559頁
- ↑ 1946年9月16日朝日新聞等
- ↑ 『日本の100人 東条英機』
- ↑ 55.0 55.1 ロバート・J・ビュートー『東條英機(下)』第14章 名誉の失われし時(215-245頁)時事通信社 1961年
- ↑ 『東條英機と天皇の時代』ちくま文庫版590頁
- ↑ 牛村圭『「戦争責任」論の真実』66頁
- ↑ 『「戦争責任」論の真実』50頁
- ↑ 59.0 59.1 日暮吉延『東京裁判』
- ↑ 『「戦争責任」論の真実』52頁、74-75頁
- ↑ 『東條英機と天皇の時代』(ちくま文庫 614ページ)
- ↑ 秦郁彦『東京裁判 裁かれなかった人たち』『昭和史の謎を追う・下』
- ↑ 「陸密第二九五三号 靖国神社合祀者調査及上申内則」1944年7月15日付、「陸密第三○○四号 靖国神社合祀者の調査詮衡及上申名簿等の調製進達上の注意」1944年7月19日付 いずれも「陸軍大臣東条英機」名で出されたもの
- ↑ 『現代史の争点』229頁 秦郁彦 文春文庫
- ↑ 『野砲四連隊史』
- ↑ 井上寿一『日中戦争化の日本』 P171-172
- ↑ 『東條秘書官機密日誌』34-35ページ
- ↑ 『黎明の世紀』28頁
- ↑ 『歴代陸軍大将全覧 昭和篇 満州事件・支那事変期』312-313頁中央新書ラクレ
- ↑ 『私の履歴書 反骨の言論人』2007年10月1日 P277
- ↑ 太田、39p
- ↑ 毎日新聞社編『決定版・昭和史--破局への道』『毎日新聞百年史』に詳しい海軍側の証言『証言 私の昭和史』学芸書林、陸軍側の証言『現代史の争点』文藝春秋
- ↑ 兵役法中改正法律 - 会議録一覧 | 日本法令索引
- ↑ 太田、221p
- ↑ 『高松宮日記 第7巻』522頁 1944年(昭和19年)7月補記欄 中央公論社
- ↑ 秦郁彦『現代史の争点』文春文庫243頁
- ↑ 『二等兵記』東海大学出版
- ↑ 『ある華族の昭和史』146頁
- ↑ 『陸軍大将全覧 昭和編/太平洋戦争期』中公新書クラレ 249-252頁
- ↑ 纐纈厚『憲兵政治』p.97, 新日本出版社、2008年、ISBN 9784406051170
- ↑ 吉松安弘『東條英機 暗殺の夏』
- ↑ 歴代陸軍大将全覧 昭和篇/太平洋戦争期』中公新書クラレ85頁
- ↑ 中日新聞2009年12月7日 朝刊「陸軍中将が太平洋戦争を批判 平林師団長、将校40人の前で演説」
- ↑ 保阪正康『東條英機と天皇の時代 下』79頁
- ↑ この検挙の理由をめぐっては、中野が昭和18年元日の朝日新聞に執筆した『戦時宰相論』が原因との説もある
- ↑ 但しこの時、特高警察を指揮する内務大臣は安藤紀三郎。
- ↑ 『日本憲兵正史』p.716下
- ↑ 本来の取り調べは警視庁の担当で、陸軍の憲兵隊ではない。東郷は中野を26日からの第83回帝国議会に登院できないよう拘束しておくことを望んだが、検事総長と警視総監は拘束しておくだけの罪状はないとしたため、憲兵隊長が中野の身柄を引き取って流言飛語の「自白」を引き出させたのである。保阪正康『東條英機と天皇の時代 下』79-80頁
- ↑ 秦郁彦『現代史の争点』210頁文藝春秋
- ↑ 『秘録・石原莞爾』
- ↑ 『小説新潮』第26巻第4号、1972年4月。新潮文庫 『歴史と視点』 新潮社 ISBN 978-4101152264 に収められている。
- ↑ 阿川弘之『軍艦長門の生涯』
- ↑ 『昭和天皇独白録』 文藝春秋社 --参考文献
- ↑ 前出『昭和天皇独白録』P103-104
- ↑ 昭和42年、木戸幸一本人へのインタビューにて。
- ↑ 小林よしのり『いわゆるA級戦犯 ゴー宣 special 』P192、幻冬舎 2006年6月 ISBN 4344011910
- ↑ 徳富蘇峰『終戦後日記IV』25-27頁
- ↑ 井上寿一『日中戦争化の日本』 P172 ,P186
- ↑ 来栖三郎 『泡沫の三十五年』 2007年3月25日 P174
- ↑ 『戦中派不戦日記』9月17日
- ↑ なお、帝国陸軍内においてドイツとイタリアとの三国同盟締結を推進したのは当時陸軍次官の東條であった。
- ↑ 『現代史の争点』
- ↑ 昭和天皇独白録103頁
- ↑ ただし田中は1965年(昭和40年)の「文藝春秋」において、東京裁判における自身の証言の真の目的は「天皇をこの裁判に出さずに無罪にし、国体を護持する」ことだったとしている。田中隆吉「かくて天皇は無罪になった」(40.8)『「文藝春秋」にみる昭和史 第二巻』文藝春秋 1988年
- ↑ 『昭和陸軍の研究 下』438 - 439頁 保阪正康 朝日文庫
- ↑ 『敗因を衝く 軍閥専横の實相』田中隆吉 山水社(1946年1月20日)134p
- ↑ 保阪正康『東條英機と天皇の時代』ちくま文庫62 - 63頁
- ↑ 児島襄「素顔のリーダー」保阪正康『東條英機と天皇の時代』ちくま文庫499頁
- ↑ 太田、68p
- ↑ 平岩米吉『猫の歴史と奇話』
- ↑ 映画「442日系部隊・アメリカ史上最強の陸軍」より。なお、松岡洋右も日米開戦前に行ったハワイでの講演会において、同様の発言をしている。
- ↑ 秘書官赤松貞雄の回想『東條秘書官機密日誌』39頁
- ↑ 『敗因を衝く 軍閥専横の實相』 田中隆吉 山水社(1946年1月20日)64~65
- ↑ 広橋・伊藤・片島『東條内閣総理大臣機密記録』492頁
- ↑ 小室直樹『『大東亜戦争、こうすれば勝てた』138頁
- ↑ 篠原正瑛『ドイツにヒトラーがいたとき』121-122項
- ↑ 『世紀の遺書』巣鴨の章
- ↑ 『昭和良識派の研究』保阪正康 光人社FN文庫 56頁
- ↑ 佐藤早苗『東條英機の妻 勝子の生涯』141頁
- ↑ 佐藤早苗『東條英機の妻 勝子の生涯』154頁
- ↑ 仲人は服部卓四郎夫妻(佐藤早苗『東條英機の妻 勝子の生涯』239頁)
- ↑ 佐藤早苗『東條英機の妻 勝子の生涯』250頁
- ↑ 『官報』1942年09月21日 敍任及辭令
- ↑ 『官報』1940年09月13日 敍任及辭令
- ↑ 『官報』1942年02月12日 敍任及辭令
- ↑ 『官報』1943年06月05日 敍任及辭令
- ↑ 『官報』1942年09月16日 敍任及辭令
- ↑ 『官報』1943年07月30日 敍任及辭令
- ↑ 『官報』1940年1月24日 敍任及辭令
- ↑ 『官報』1942年02月24日 敍任及辭令