前田利為

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テンプレート:基礎情報 軍人 前田 利為(まえだ としなり、1885年(明治18年)6月5日 - 1942年(昭和17年)9月5日)は、日本華族陸軍軍人陸軍大将正二位勲一等侯爵。旧加賀藩前田本家第16代目当主である。

経歴

陸軍士官学校第17期卒業。先妻は15代当主前田利嗣の娘・前田漾子(なみこ、夫と同行したヨーロッパ滞在中に病没)。後妻は伯爵酒井忠興の娘・菊子。ちなみに菊子は久邇宮朝融王に理由不明のまま一方的に婚約を破棄されたという経歴を持つ。子女は、先妻との間に前田利建(第17代当主)、後妻との間に前田利弘[1](子爵 大聖寺藩主家を相続)、酒井美意子(長女、従兄の酒井忠正の子の酒井忠元の妻)。

人物・エピソード

陸士で同期でありながら四年遅れて陸大を卒業した東條英機とはソリが合わず、利為は東條を「頭が悪くて先が見えない男」と批評し、東條は利為を「世間知らずの殿様に何がわかるか」と反発していた。利為は首相になった東條を「宰相の器ではない。あれでは国を滅ぼす」と危ぶんでいた[4]

利為の墜落の原因は、戦後になってアメリカ太平洋艦隊の某提督の、「ジェネラル・マエダはB-29の編隊が撃墜した」との話が伝えられたが、それも確かな説ではなく不明である。当初、その死は、陣歿と発表された。陣歿だと相続税を払わねばならないが、戦死だと免除される。相続税目当てに、故意に陣歿扱いにしたのではないかと国会で取り上げられ、河田烈蔵相が「陸軍のお指図次第」と答弁して、戦死に変更された[5]。 戦時においても軍人の事故による死亡は陣没(殉職)であるが(例:古賀峯一)、利為の場合は特に戦死と認定された。なお、この時期B-29はまだ実戦配備されておらずボルネオは敵機の空襲圏内ではなかった。

葬儀委員長は東部軍司令官中村孝太郎大将、副委員長は参謀次長田辺盛武中将と陸軍省軍務局長佐藤賢了少将(すべて石川県出身)。参列者は、林銑十郎阿部信行、小栗大将、氏家中将、伍堂中将らの旧加賀藩士。弔辞は生前互いに反目し合っていた東條英機が読んだ。「英機、君ト竹馬ノ友タリ。陸軍士官学校ニ於テハ、寝食ヲ同シ、日露ノ役ニ於テハ、同一旅団ニ死生ヲ共ニセリ。爾来、星霜四十年、相携ヘテ軍務ニ鞅掌シ、交情常ニ渝ハルコトナク、互、許スニ信ヲ以テシ、巨星南溟ニ墜チテ再タ還ラズ。哀痛何ンゾ譬ヘン。英機、君ノ声咳ニ接スルコト長ク、今、霊位ニ咫尺シテ猶生クルガ如キ……」と、ここまで読み上げた後、東條は慟哭し絶句したという。

前田利為と東大本郷キャンパス

利為は相続により現在の東大本郷キャンパスの南西部(現在の東大総合博物館・東洋文化研究所付近)に壮大な敷地(旧加賀藩邸の敷地の一部)を所有し、天皇を迎えるため当地に和館(1905年(明治38年))・洋館(1907年(明治40年))を築造していた。1926年、彼はこれらの敷地・邸宅を東京帝国大学(当時)に譲り、代替用地として当時東京帝大農学部が所在していた駒場校地の一部を取得、ここに邸宅を新築した(現在の駒場公園内に現存。ただし戦後、前田家の所有を離れている)。なお、本郷の旧邸(和館・洋館)は東大の迎賓館「懐徳館」としてしばらく使用されたが、1945年(昭和20年)の東京大空襲により全壊・全焼した(瓦礫となった旧構の一部は本郷キャンパスの一角に保存されている)。

親族

関連項目

脚注

  1. 『人事興信録. 第13版(昭和16年)』(国立国会図書館近代デジタルライブラリー)
  2. 『官報』第8085号、明治43年6月6日。
  3. 『官報』第1283号、大正5年11月10日。
  4. 酒井美意子『ある華族の昭和史』.主婦と生活社(1982年(昭和57年)) 第八章父─悲劇の将軍 三
  5. 酒井美意子『ある華族の昭和史』.主婦と生活社(1982年(昭和57年)) 第八章父─悲劇の将軍 四

参考文献

  • 酒井美意子『写真集 酒井美意子 華族の肖像』(清流出版 1995年(平成7年))

テンプレート:前田氏歴代当主