秋山好古
テンプレート:基礎情報 軍人 秋山 好古(あきやま よしふる、安政6年1月7日(1859年2月9日)- 昭和5年(1930年)11月4日)は、日本の陸軍軍人。最終階級及び位階勲等功級は陸軍大将従二位勲一等功二級。幼名は信三郎。
陸軍騎兵学校を参観に来たフランス軍人に「秋山好古の生涯の意味は、満州の野で世界最強の騎兵集団を破るというただ一点に尽きている」と賞されているとおり、日本騎兵の父と云われた。
日本海海戦で先任参謀として丁字戦法を考案、バルチック艦隊を撃滅した秋山真之は実弟にあたる。
年譜
- 安政6年(1859年)1月7日(1859年2月9日):伊予松山城下(現・愛媛県松山市歩行町)に松山藩士・秋山久敬、貞の三男として生まれる。名前の由来は論語の一節「信而好古」より。秋山家は足軽よりも一階級上の位で家禄10石程の下級武士(徒士身分)だった。藩校・明教館へ入学し、家計を支えつつ学ぶ。このころ、天保銭一枚(100文に相当[1])にて、銭湯の水汲み、釜焚き、番台の管理をやっていた。
- 明治8年(1875年):大阪師範学校受験。その後大阪師範学校合格。
- 明治9年(1876年)7月:大阪師範学校卒業。大阪府北河内(寝屋川市堀溝)58番小学校、名古屋師範学校附属小学校勤務。
- 明治10年(1877年)5月:陸軍士官学校(旧制3期生)に入学。
- 明治12年(1879年)12月23日:陸軍士官学校卒業。任陸軍騎兵少尉。東京鎮台に配属される。
- 明治13年(1880年)
- 明治16年(1883年)
- 明治18年(1885年)12月28日:陸軍大学校卒業。参謀本部勤務。
- 明治19年(1886年)
- 明治20年(1887年)7月25日:サン・シール陸軍士官学校に留学した久松定謨の補導役としてフランスへ渡り、騎兵戦術の習得に努める。
- 明治23年(1890年)12月19日:父・久敬が松山で死去。
- 明治24年(1891年)
- 明治25年(1892年)
- 4月27日:陸軍士官学校馬術教官に異動。
- 明治26年(1893年)
- 明治27年(1894年):日清戦争に従軍。
- 明治28年(1895年)5月10日:任陸軍騎兵中佐。
- 明治29年(1896年)
- 明治30年(1897年)
- 明治31年(1898年)10月1日:陸軍騎兵実施学校長に異動。
- 明治32年(1899年)10月28日:陸軍獣医学校長を兼務。
- 明治33年(1900年)7月17日:第5師団兵站監に異動。
- 明治34年(1901年)
- 明治35年(1902年)
- 明治36年(1903年)4月2日:騎兵第1旅団に異動。
- 明治37年(1904年):日露戦争において、騎兵第1旅団長[3]として出征し、第2軍に属して、沙河会戦、黒溝台会戦、奉天会戦などで騎兵戦術を駆使してロシア軍と戦う。また秋山支隊からロシア軍の後方攪乱のために派遣された永沼挺進隊の活躍は、小説『敵中横断三百里』によって有名となっている。その後、「日本騎兵の父」とも呼ばれた。
- 明治38年(1905年)6月19日:母・貞死去。
- 明治39年(1906年)
- 明治40年(1907年)11月11日:従四位に昇叙。
- 明治42年(1909年)8月1日:任陸軍中将。
- 大正元年(1912年)12月28日:正四位に昇叙。
- 大正2年(1913年)1月15日:第13師団長に異動。
- 大正4年(1915年)2月15日:近衛師団長に異動。
- 大正5年(1916年)
- 大正6年(1917年)8月6日:軍事参議官に異動。
- 大正8年(1919年)
- 大正9年(1920年)12月28日:教育総監となり、陸軍三長官の内の一人となる。また、軍事参事官を併任。
- 大正12年(1923年)
- 大正13年(1924年)4月:私立北予中学校(現在の愛媛県立松山北高校)校長就任。予備陸軍大将、それも三長官まで上った者の仕事としては例のない格下人事であったが、本人の強い希望だったと言われる。
- 昭和5年(1930年)
人物像
- 風貌は特徴的な鼻から「鼻信」とあだ名され、長身で色白、大きな目であり、陸軍大学校時代には教官のメッケルからヨーロッパ人と間違えられたというエピソードがある。
- 青年期の頃から眉目秀麗と称賛され、故郷の松山や留学先のフランスでは女性にかなり人気があったという。しかし、彼自身は「男子に美醜は無用」という価値観を持っていたため、自分の容姿を決して鼻にかけることはなかったという。
- 士官学校教授だった作家の内田百間は「鈴木三重吉にそっくりの意地の悪そうな顔」とも記している。
- 酒を非常に好み、戦場でも水筒の中に入れ持ち歩いていた。それだけでは足りず、従兵が気を利かせて、従兵の水筒にも酒をつめていた。騎乗で身を乗り出し従兵の水筒の酒を飲み干すなどの曲芸まがいのことができ、部下たちを感嘆させた。しかし、酔って自分を見失ったり判断を誤ったりすることはなかった。過度の酒好きにより晩年は重度の糖尿病を患っていた。
- 極度の風呂嫌いで、日露戦争中に入浴したのはたったの2回だけだったと云う。軍服も全く洗濯せずに着用し続けていたため、シラミが湧き、近くにいるだけでも異様な悪臭が漂う程だった。部下や同僚が入浴し身体を清潔にする様に何度となく勧めたが、「軍人たるもの戦場においてはいつ何時でも敵に対処出来る様にしなければならない(入浴している間に異変があった時、対処出来ない)」「風呂に入るためにこれ程遠い戦場まで来たのではない」と言って断っていた。
- 福澤諭吉を尊敬しており、自身の子のみならず親類の子もできるだけ慶應義塾で学ばせようとした。
- 書に長けており、退役後は揮毫を頼まれることが多かった。松山市の近辺には好古の揮毫した石碑等が多数置かれている。
- 晩年は自らの功績を努めて隠していた。校長就任時に生徒や親から「日露戦争の事を話して欲しい」「陸軍大将の軍服を見せて欲しい」と頼まれても一切断り、自分の武勲を自慢することは無かった。
- 愛媛県伊予市の伊予港(郡中港)にある藤谷元郡中町長の胸像の碑文の原本は、秋山によって認められたものである。
逸話
- 弟・真之が生まれた際、生活苦から寺へ出そうかと話がでたが、「将来あし(自分)が豆腐(の固まり)ほど厚い金を稼ぐからに、弟を寺へやらないでくれぞなもし」と両親へ懇願した。
- フランス留学中、腸チフスに罹る。医者に診てもらわずに自力で治したためか頭髪が全て抜ける。その後は自力で頭髪を生やす。
- 非常に質素な生活を送り、贅沢を嫌った。例えば、食事の際のおかずは沢庵漬のみ。真之が居候をしたときも食器は1つで使いまわす。足袋を履かせない。他の兄から貰った縮緬の帯を使わせない。下駄の鼻緒を直している暇があるなら裸足で行け、など。
- 欲の無い人物として知られている。凱旋した際、給料や品の多くは部下に与えていたため、目録や明細書ばかりカバンに入っていた。
- 第2回万国平和会議に参加。各国委員会による演説が行われても鼾をかいて居眠りをしていた。一緒に参加していた都筑馨六から注意されると「演説の要領は分かりましたよ」と応えたという。
- フランスに騎兵留学中、当時の陸軍の最高位にあった山縣有朋にフランス軍内の高級軍人へのお使いを頼まれたことがあったが、使いの途中の電車内において酒を飲みすぎ、居眠りした揚句、置き引きにあっている。
- 陸軍大学校で、学生たちに騎兵の特徴(高い攻撃力と皆無に等しい防御力)を説明する際、素手で窓ガラスを粉砕。血まみれの拳を見せ、「騎兵とはこれだ」と示した。
- 中学校長時代は、「学生は兵士ではない」とし、学校での軍事教練を極力減らし、また生徒らの見聞を広めるために修学旅行先に当時日本の統治下にある朝鮮を選んだ。
系譜
宗清━信久━久良━久軏━軏久━久徴━久敬┳則久 ┣正牟(岡家養子) ┣好古(長兄・則久より家督相続) ┣道一(西原家養子) ┗眞之
栄典
- 40px 勲一等旭日桐花大綬章:1930年(昭和15年)11月1日[4](没後叙勲)
- 40px 勲一等旭日大綬章:1918年(大正7年)11月29日[5]
- 40px 功二級金鵄勲章:1906年(明治39年)4月
- 40px 勲一等瑞宝章:1913年(大正2年)11月28日[6]
- 40px 聖マウリッツィオ・ラザロ勲章コンメンダトーレ
- 40px 2等赤鷲勲章(en)
- 1等文虎勲章
- 40px レジオンドヌール勲章コマンドゥール
- 40px 2等聖スタニスラウス勲章(en)
- 40px 2等聖アンナ勲章(en)
- 40px 明治二十七八年従軍記章
- 40px 明治三十三年従軍記章
- 40px 明治三十七八年従軍記章
- 40px 大礼記念章(大正)
その他
好古の曾孫である秋山純一は陸上自衛隊の三等陸佐であり、第7師団第72戦車連隊第1中隊長を経て[7][8]、現在防衛大学校勤務である(2012年7月26日現在)[9]。
著作
- 『本邦騎兵用兵論』
参考文献
- 『秋山好古』 水野広徳と松下芳男の共著 秋山好古大将伝記刊行会編 昭和11年(1936年)(復刻:マツノ書店、平成21年(2009年))
- 『秋山好古-明治陸軍屈指の名将』 野村敏雄 PHP文庫、平成14年(2002年)
- 『秋山好古と秋山真之 日露戦争を勝利に導いた兄弟』 楠木誠一郎、PHP、平成21年(2009年)
- 『秋山兄弟好古と真之』 瀧澤中、朝日新書、平成21年(2009年)
- 『司馬遼太郎 歴史のなかの邂逅.4 正岡子規、秋山好古・真之~ある明治の庶民』(中央公論新社、平成19年(2007年) / 中公文庫、平成23年(2011年)3・4月)
- 陸軍現役将校同相当官実役停年名簿. 明治45年7月1日調11ページに記載あり。
登場作品
秋山好古を演じた俳優
脚注
関連項目
- 明治の人物一覧
- 愛媛県出身の人物一覧
- 河野氏(秋山氏の本姓とされる)
- 黒溝台会戦
- パウル・フォン・ヒンデンブルク(風体などが似通っていたことからの秋山のあだ名ともなった。川田正澂も参照)
- 坂の上の雲ミュージアム(松山城近くにある)
- 騎兵第1旅団(第2代旅団長)
外部リンク
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
平佐是澄
|style="width:40%; text-align:center"|陸軍乗馬学校・同騎兵実施学校校長
1998年に改称
第2代:1896年8月15日 - 1900年7月17日
|style="width:30%"|次代:
渋谷在明
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
橋本譲二
|style="width:40%; text-align:center"|陸軍獣医学校校長
第5代:1899年10月28日 - 1901年2月23日
|style="width:30%"|次代:
渋谷在明
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
山根武亮
|style="width:40%; text-align:center"|清国駐屯軍司令官
第3代:1901年10月25日 - 1903年4月2日
|style="width:30%"|次代:
仙波太郎
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
渋谷在明
|style="width:40%; text-align:center"|騎兵第1旅団長
第2代:1903年4月2日 - 1906年2月9日
|style="width:30%"|次代:
本多道純
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
長岡外史
|style="width:40%; text-align:center"|第13師団長
1913年1月15日 - 1915年3月15日
|style="width:30%"|次代:
安藤巌水
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
山根武亮
|style="width:40%; text-align:center"|近衛師団長
第13代:1915年2月15日 - 1916年8月18日
|style="width:30%"|次代:
仁田原重行
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
井口省吾
|style="width:40%; text-align:center"|朝鮮駐剳軍司令官
第5代:1916年8月18日 - 1917年8月6日
|style="width:30%"|次代:
松川敏胤
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
大谷喜久蔵
|style="width:40%; text-align:center"|教育総監
第10代:1920年12月28日 - 1923年3月17日
|style="width:30%"|次代:
大庭二郎
- 転送 Template:End
- ↑ 100文銭として発行され、明治維新後は新貨8厘に通用した。『新訂 貨幣手帳』/株式会社ボナンザ/1982年→同書・pp150-151およびp178による。
- ↑ 『官報』第3818号 明治29年3月25日 敍任及辭令
- ↑ 編成としては旅団であったが、実際は歩兵と砲兵を編入していたので戦闘単位としては「支隊」であり秋山支隊と言った。編成は支隊主力、三岳支隊、豊辺支隊、種田支隊の4個支隊からなる。
- ↑ 『官報』第1157号 昭和15年11月6日 敍任及辭令
- ↑ 『官報』第1898号 大正7年11月30日 敍任及辭令
- ↑ 『官報』第402号 大正2年11月29日 敍任及辭令
- ↑ 中隊長は秋山好古のひ孫 北恵庭駐屯地に着任:苫小牧民報社
- ↑ 秋山好古のひ孫は陸自指揮官 研究重ね「信頼されたい」 - 47NEWS
- ↑ 秋山兄弟生誕地 好古の曾孫・秋山純一氏がご来館