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テンプレート:基礎情報 武士 水野 勝成(みずの かつなり)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。三河刈谷藩主、大和郡山藩主を経て備後福山藩の初代藩主となる。
目次
経歴
少年期
勝成は幼名を国松といい、若名を藤十郎といった。『寛政重修諸家譜』では母は都築吉豊の娘としているが、水野家の文献では本願寺光佐の妹となっている[1][2]。永禄7年(1564年)に三河国刈谷の生まれたとされるが、父・水野忠重は勝成誕生の永禄7年には三河国岡崎に住んでおり、記録と矛盾している。忠重が鷲塚城主をしていた時代の子供であるから、鷲塚生まれとも考えられる。
高天神城の戦い
初陣は天正7年(1579年)の遠江高天神城攻めで忠重に従って出陣するが、このときは武田勝頼の撤退により戦にはならなかった。同年、徳川秀忠が誕生すると、勝成は乳兄弟とされた。天正8年(1580年)、父の忠重が織田信長に引き抜かれ、刈谷の大名[3] になる。勝成は奥田城、細目城を任される。
同年の第2次高天神城の戦いに忠重と共に参加し城を攻めた。しかし、戦いは翌年(天正9年)まで続き最後は城から城兵全員が討って出て大激戦になったといわれる。このとき勝成は16歳にして首級をあげ、信長から感状を与えられる。なお、このとき勝成は城内に祀られていた天神社より渡唐天神像を奪い、以後これを守り本尊として肌身につけたという。
天正壬午の乱
天正10年(1582年)、勝成は父の許を離れ徳川家康の天正壬午の乱に参加する。甲斐古府(現在の甲府市)において家康と北条氏直が対峙すると、勝成は鳥居元忠、三宅康貞と共に北条氏忠の陣に攻め込んだ(黒駒合戦)。これを見た北条氏勝は氏忠の救援に向かうが、勝成と三宅康貞はこれを返り討ちにした。なお、この攻撃に際し鳥居元忠は勝成に出陣を知らせず自軍のみで行動していたが、これを知った勝成は元忠に追い付いて、抜け駆けだとして抗議したうえで「今日より貴殿の指図は受けず、自らの才覚により戦を行う」と、先頭を切って敵陣に突入したという。この戦いで勝成は自ら内藤某[4]の首級をあげ、数多くの首級をあげる。その後、北条氏と徳川氏の講和を成立。10月29日、和議の証として、大道寺孫九郎某[5]等が人質として送られてくると、家康は人質は不要として勝成、鳥居元忠、榊原康政に見坂の城まで送らせる。[6]
小牧・長久手の戦い
天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは織田信雄の与力である父・忠重に従い徳川軍の石川数正と共に岡田善同の籠もる星崎城を攻略する。勝成はここでも自ら先頭を切って城に突入するが、岡田善同は夜陰に紛れて逃げ延びたため、城を占拠した。次に小牧山から酒井忠次、榊原康政、大須賀康高、本多康重らと木幡城に移り三好秀次を攻撃した。
この際に勝成が結膜炎の眼痛で兜を着用しておらず、鉢巻をしていたのを忠重が見つけ、「お前は兜を小便壺にしたのか」と強く叱責する。これに勝成は反発し「父上ながらあまりのお言葉。兜がないことで頭を割られても、それは時の運である。一番首を取るか、自分が取られるか見ているがよい」と、暇乞いを申し出て馬に乗ると[7]、そのまま豊臣秀次麾下の白江成定の陣に突入し一番首を取って[7]、徳川家康に持参した。以後は家康の下で行動し家康配下の井伊直政と武勇を競った。森長可は水野家臣・水野太郎作清久の足軽・杉山孫六が射殺した[8]。しかし父からは「先駆けは軍法に背く者、許さぬ」と怒りを買った[7]。
出奔
天正12年(1584年)の蟹江城合戦では家康の旗本衆と行動を共にする。このとき服部保英(服部正成の甥)は勝成に属して武功をあげた。家康・信雄が秀吉と伊勢桑名で睨み合う陣中において、父・忠重の部下を自らの不行状を報告したとして斬り殺したことから、忠重は激怒し勝成を奉公構(事実上の他家への仕官禁止)として勘当した[7]。その後しばらく家康によってかくまわれ須賀口(清洲)の寺に引きこもっていたが、忠重の追求があり逃れた。美濃、尾張の関係城主を訪ねて、その地に逗留していたが、忠重よりの奉公構に各城主は遠慮して、長居はできず、遂には京都にいく。
京都では従者も連れず闊歩し、京都南禅寺の山門に寝泊まりし、町に出ては多くの無頼の徒と交わり、清水では大いなる喧嘩を始め、多くの人を殺害する事件を起こした[9]。天正13年(1585年)に四国征伐(第2次四国征伐)が行われることになると、仙石秀久家中としてこれに加わった。この戦の直後、勝成は豊臣秀吉から摂津豊島郡700石の知行を授かっているが、間もなく知行を捨てて中国地方に逃亡し「六左衛門」と名乗るようになった。秀吉から刺客を放たれた[10]というから、相当の怒りを買ったと思われるが、勝成自身はこの時期の行動を記録に残しておらず、詳細な成行は不明である[11]。
九州転戦
天正15年(1587年)には肥後領主・佐々成政に1,000石で召し抱えられており、成政配下の隈部親永の反乱(肥後国人一揆)鎮圧に参加し菊池城を攻めた。ここでも勝成は一番槍をあげ、隈本城救援でも功名をあげた。また、この戦いの最中で同じ成政家中で武勇を知られた阿波鳴門之介(後に尼子十勇士に挙げられる)と戦功を競ったという。首謀者の隈部親子を勝成が討ったという説もある[12]。しかし、佐々成政は一揆発生の責めを受け切腹し肥後は小西行長が治めることになる。このため天正16年(1588年)に勝成は行長に1,000石で仕官することになった。
天正17年(1589年)、宇土城普請に際して天草五人衆の反乱(天正天草合戦)が発生すると、勝成は小西行長の弟・小西主殿介の副将としてこれに参加し、ここでも阿波鳴門之介(勝成と同様に小西氏に仕官していた)と戦功を競った。勝成は志岐鎮経の本拠である志岐城を加藤清正の援軍と共に攻略し、続いて天草種元の本渡城を攻め落とした。この反乱の鎮圧後、勝成は小西行長の元を去り清正に仕官するが、間もなく立花宗茂の相伴衆[13]、さらに黒田孝高の家中となり豊前国一揆鎮圧に参加する。この戦いでは野中鎮兼が籠もる長岩城を攻略した。しかし、長岩城の守りは堅く黒田軍は一時退却することになるが、このとき後藤基次と殿の栄誉を争った。なお、長岩城は黒田軍に攻め落とされ、戦は和議により終結する。
天正17年(1589年)、黒田孝高の長男・長政が豊臣秀吉に拝謁するため肥前から船で大坂に向かうことになり、これに勝成も随伴していたが、その途中の備後鞆の浦において船から降り逃亡した。これは勝成が船上で長政に操船の手伝いを命じられたことに憤慨したためだといわれるが、過去に秀吉の怒りを買っていたことにより、大坂行きを嫌ったためともいわれる。
貴種流離譚
ここから勝成の流浪生活が再び始まり、その足取りは、さまざまな伝説と憶測と逸話に彩られ、諸説紛々としている。備中・備後においては流浪の勝成伝説が多く出来あがっており、その中には明らかな作り話もある。鞆の安国寺に隠れた。芦田郡土生城主豊田美濃守の所に泊した。行き倒れて老婆に飯を恵んでもらった。またこの老婆の紹介で姫谷焼の人夫として働き、「日ならずして無類の上手になり」立ち去った。さらには徳川家康の密偵として全国を旅していた[14]。以上のような伝説の類のあと、最終的に備中成羽の国人・三村親成の食客となった。文禄3年(1594年)9月、三村親成の月見会の席上で、作法上の問題で茶坊主の処置を無礼なりとして、これを斬って出奔する。翌4年(1595年)正月、再び三村氏の成羽に帰り食客になった。このとき勝成は世話役の娘に手を付け子供をもうける。これが室となる「お(於)登久(おとく)(藤井皓玄の末)」であり、この子供が後に備後福山藩第2代藩主となる勝俊である。
家督相続
慶長3年(1598年)、秀吉の死去により豊臣政権が混乱の様相を呈し始めると、翌慶長4年(1599年)、勝成は妻子を残して上洛し徳川家康の幕下に加わった。そして、家康の要請を受けた山岡景友の仲介により父・水野忠重と15年ぶりに和解する。勝成36歳のときであった。同年4月22日、勝成の妹かな姫(のちの清浄院。当時18歳)が家康の養女となって、加藤清正(38歳)と結婚[15]。慶長5年(1600年)に家康に従って会津征伐のため下野小山に宿陣している[16]7月18日、三河池鯉鮒にて、水野忠重は加賀井重望から西軍に誘われるも断ったので殺害された[17]。殺害された加賀井重望の懐から、石田三成より家康関係者を殺害することによって領地恩賞を与えるとの書状がでてきた[18]。7月25日、家康に従軍していた勝成は、一旦、刈谷城に帰り、三河国刈谷3万石の家督相続[19]を命じられた。
関ヶ原の戦い
水野家当主となった勝成は会津征伐中止により刈谷城に戻り、関ヶ原の戦いへと出陣する。9月13日、島津義弘の足軽が曽根城に鉄砲を撃ちかけてきた。井伊直政、本多忠勝から「六左衛門殿でなくては、この戦は手に合わないので、直ちに島津勢に軍勢を差し向けてもらいたい」と懇願される。勝成は弟・水野忠胤と共に曽根城の防衛に向かう。勝成が楽田の陣の櫓に鉄砲を撃ちかけると、島津はさっさと楽田より引き上げてしまった。テンプレート:要出典範囲、大垣城への抑えとされた。そこで14日深夜松平康長・西尾光教・津軽為信[20]・松下重綱らと共に、石田三成が出撃した直後の大垣城を攻めた。三の丸を占拠。二の丸に攻め入るもその場で火を放って撤退[21]。関ヶ原本戦の勝利の情報が届くと、囲みを解いて曽根に撤退。そのため、本戦の敗残兵が入り、大敗を吹聴したため城内の士気は瓦解する。テンプレート:要出典範囲[22]。16日の夜、相良頼房・秋月種長・高橋元種が内通を申し出る。18日に垣見一直・熊谷直盛・木村由信・木村豊統の首級をもって来た。23日に守将の福原長堯は降伏して城を明け渡した。この際に勝成は石田三成から長堯に与えられていた名刀を奪っており、この刀は後に水野勝成の官名「日向守」から「名物日向正宗」と名称付けられ、現在は国宝に指定され三井記念美術館に収蔵されている。 攻城軍が城兵に逃散を呼び掛けていたこともあり、城内には三十人程度しか残っていなかったが、その中に、加賀井重望の息子・加賀井弥八郎が残っていたので、これを殺して、父の仇打ちとした。勝成は福原長堯の助命を願いでるも、許されず切腹となった。 テンプレート:要出典範囲これは旧主、小西行長への義理と考えられる[23]。
三河刈谷藩主
刈谷城は勝成の手によって近世城郭へと改修され、徳川家康の故郷である三河国の重要拠点となる。勝成が築いた江戸時代の刈谷城は、多数の河川が合流し海まで繋がる入江となっていた場所に突き出す小山を利用した平山城で、その姿から別名で亀城と呼ばれた。慶長6年(1601年)に勝成は従五位下に叙任され「日向守」を名乗った。テンプレート:要出典範囲慶長7年(1602年)8月28日、勝成の伯母にして、家康の母・於大の方が亡くなる。慶長13年(1608年)、勝成は備中成羽から妻子(お登久と勝俊)を呼び寄せ、同年勝俊は徳川秀忠に仕えることになった。
大坂の陣
慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では勝俊を連れ参加。博労淵砦の視察を永井直勝と行う。その後、攻略のため博労淵に仕寄(攻城設備)を築くが、テンプレート:要出典範囲蜂須賀至鎮が翌朝に砦を攻め落とした。12月1日、森忠政が天満橋を挟んで銃撃戦をしていると、家康の指示で戦闘の収拾に出向く。
夏の陣では大和口方面(大和方面軍)の先鋒大将[24]に指名されるが、勝成の性格を知る家康はこれに先立って「将であるから昔のように自ら先頭に立って戦ってはならない」と厳しく命じている。京都を発った勝成は山城国長池から奈良に進み大野治房の奈良焼討ちを阻止した(郡山城の戦い)。テンプレート:要出典範囲大野軍は勝成の馬印を見るや退却していったという[25]。
奈良に着いた勝成は法隆寺から河内国府に軍を進め、本多忠政・松平忠明・伊達政宗・松平忠輝らと合流すると大坂城大和口へと兵を進めた。この途中、河内国志紀郡道明寺村付近において後藤基次と交戦する(道明寺の戦い)。テンプレート:要出典範囲ここで勝成は家康の命を無視し軍の大将にも関わらず一番槍[26]をあげ、基次の部隊を壊滅させた[27]。そのまま追撃戦になり、薄田兼相は勝成の家臣に討ち取られた[28]。さらに誉田村に兵を進め、渡辺糺と戦端を開き、糺に深手を負わせた[29]。そこに大坂方の後衛の真田信繁、毛利勝永、明石全登、大野治長らの軍が進軍してきたためこれと対峙。ここで勝成は、敵を討ち取りたいため、戦端を開きたい旨を、隣に陣を構える伊達政宗に両三度申し入れるたが、二度、無視された。三度目には政宗が直接、勝成の許に訪れ、弾薬不足や死傷者の多さを理由に拒絶[30]。そのため大坂方と徳川方は睨み合いの状態となり、のち豊臣方が撤退したため、戦いは終結した。翌日、大和方面軍は家康の命により住吉に向かった。天王寺口において、真田信繁隊が家康の旗本へ攻め込んで、家康をあわやの目に合わせたとき、水野隊は天王寺へ駆けつけ、越前勢松平隊とともに戦って茶臼山[31]を落とし[32]、後方を遮断。勢いを失った真田信繁は、松平忠直と本多思政[33]、松平忠明に足止めされていた。そこに勝成は勝愛院の西の方から六百人許り、踊を揚げて攻寄せた[34][35]。三方から敵を受けた信繁はついに壊滅した[36]。信繁麾下の大谷吉治は、勝成の隊に討たれたとの情報もある[37][38]。テンプレート:要出典範囲[39]。テンプレート:要出典範囲[40][41]。大坂城桜門に一番旗を立てる[42]。
大和郡山藩主
元和元年(1615年)に行われた大坂の役の論功行賞では「戦功第二」[43]とされ、大和郡山に3万石加増の6万石で転封される。これは依然政情不安な旧豊臣領[44]に睨みをきかすために、テンプレート:要出典範囲勝成を配置したものであるが、テンプレート:要出典範囲、勝成自身は2、30万石の知行を期待していた[45]が、テンプレート:要出典範囲。この処遇に勝成は立腹するが、徳川秀忠は勝成を呼び止めてなだめ、家康隠居後に10万石の知行を約束したという水野氏側の伝承が伝わっている[45][46]。郡山では破壊された城を再整備し刈谷から寺社を移転させるなどし、城下を整備した。元和3年(1617年)11月22日、生母の釈尼妙瞬が亡くなる。
初代福山藩主
元和5年(1619年)、福島正則の改易に伴い勝成は秀忠から郡山に替わって備中西南部と備後南部の福山10万石を与えられる。テンプレート:要出典範囲テンプレート:要出典範囲入封に際しても海上交通を重視し当時の中心地であった神辺と政庁であった神辺城に代えて瀬戸内海に近い今日の福山市に新たな城(福山城)と城下町(福山)を築いた。福山城は『武家諸法度』で新規築城が禁止された中で例外的に認められた近世城郭で最後の城(詳しくは「福山城 (備後国)」を参照)であり、5重の天守に7基の3重櫓や長大な多聞櫓を持つ10万石の城としては破格の巨城であった。
福山入封後は藩政に尽力し、放浪時代に臣従し後に没落していた三村親成を高禄で家老職に迎えるなど、放浪時代の人脈を生かし、在地領主・郷士を積極的に登用した。城下町の建設に当たっては、江戸の神田上水に次ぐ規模を持つ上水道網(福山旧水道)を整備し、瀬戸内海から運河を城まで引き入れると共に大船団を組織し城下に係留させた。産業育成では土地を無償で与え地子を免除するなどして城下の振興を図り、寛永7年(1630年)には全国初ともいわれる藩札を発行[47][48]した。また、イグサの生産を統制し、福山藩で生産される畳表は「備後表」と呼ばれ全国に最高級品として知られた。治水工事や新田開発や鉱山開発、タバコの栽培も積極的に行い、現在の福山市の礎を築いた。特に新田開発は後の第5代藩主の勝岑死去に伴う改易の際の検地では約5万石分の新たな石高を有していた。この他、備後国一宮である素盞嗚神社、吉備津神社を始めとする備後国内各地の寺社を復興し、旧領である郡山や刈谷からも寺社を移転させるなど、宗教の保護にも積極的であった。
家臣の統制には目付などの監視役を置かず、法度の発布や誓詞を取ることもなかったが、問題は生じず、この噂を耳にした隣国の備前岡山藩藩主・池田光政は「良将の中の良将」と評したという。逆に勝成の領国経営は池田光政の政策に影響を受けたといわれる。
寛永元年(1624年)、浅野家の亀田高綱出奔騒動を調停する。寛永3年(1626年)には第3代将軍・徳川家光の上洛に従い、従四位下に昇進し、相模愛甲郡厚木村(現在の神奈川県厚木市)の1,000石を加増される。寛永10年(1633年)、徳川家光の不興をかった酒井重澄を預かる。寛永14年(1637年)、江戸城本丸天守の建設に功があり、水野家の江戸屋敷の奉行は銀、時服等を賜った。
島原の乱
寛永15年(1638年)、幕府から島原の乱鎮圧への参加を要請された勝成は嫡子・勝俊、孫の水野勝貞を伴い約6,000人を率いて幕府軍に加わった。これは幕府上使を除き九州の大名以外で唯一の参陣であり、老齢(当時75歳)にもかかわらず勝成の戦歴を評価されてのことであった。田尻村、高浜において同村産の巨樟を船材として軍船「大転輪丸」を造る[49]。
徳川家光は、勝成に松平信綱、戸田氏鉄と同格の相談相手になることを命じる[50]。軍師テンプレート:誰範囲[51]。
勝成は2月24日に島原に到着し、同日松平信綱の陣で諸将が集い、軍議が行われた。テンプレート:要出典範囲総攻撃が決定され、2月28日に開始されることになったが、鍋島勝茂の抜け駆けにより27日に攻撃が始まった。勝成の陣は原城包囲の最後列であったが、鍋島軍が三の丸から攻めるのに対し、水野軍は本丸を直接攻略し、勝成の嫡子・勝俊と有馬直純の嫡子・康純が本丸の一番乗りを争った。テンプレート:要出典範囲、水野勢は同時に100人を超える戦死者を出すことにもなり、テンプレート:要出典範囲となった。
戦後、勝成は板倉重昌を討ち取った駒木根友房の首級の前で一曲舞う。駒木根友房は、小西家の旧臣であり、テンプレート:要出典範囲板倉重昌の息子・板倉重矩が、父の仇を討たんと奮戦したことを賞して、勝成は自らの千多国房[52]の刀を与えた。
黒田家臣の郡正太夫(郡宗保の後継)の活躍を称えて盃を与えた[53]。黒田一成、黒田一任親子の活躍を称える手紙を出した[54]。
隠居・最期
島原の乱の翌年、寛永16年(1639年)に家督を嫡子・勝俊に譲り一分斎[49]と号する。しかし、隠居料の1万石を領内の投資に注ぎ込むなど、藩政への関与は続けた。寛永20(1643年)、80歳の勝成は、京都大徳寺で1年間、禅の修行をする。正保元年(1644年)、法躰となり宋休と号す[49]。慶安4年(1651年)に福山城内において88歳で死去し、福山城下の菩提寺、賢忠寺に葬られる。
神道の礼では聡敏明神として祀られ、福山城北にある福山八幡宮の境内に聡敏神社があるほか、茨城県の結城城址脇にも聡敏社がある。また、徳川二十八神将として日光東照宮に配祀される。
人物・逸話
江戸時代
慶安3年(1650年)5月7日、87歳の勝成は、鉄砲を放ち、的に当ててみせ、諸人を驚かせる。この的は現在も茨城県立歴史館に保管されている[55]。
寛永11年(1634年)、各大名に対し幕府から江戸に人質を送るよう通知があったとき、勝成は「人質として出すような者はおりません」と返事をするが、これに対し幕府から「誰でもよいから出すように」と言われたため、「自分は浪人をしていたとき、備中国成羽にて召し使えいていた下女に倅(水野勝俊)を産んだものがいるが、これより外にはいない」と、お登久を江戸に差し出した。その後、勝成は正室「お珊」を迎え、お登久は入れ替わりに都築右京に再嫁させた。なお、お登久は正保4年(1647年)に死去するが、遺骨は当時備後福山藩第2代藩主となっていた勝俊が福山に持ち帰り葬っている。
水野時代の福山藩は、表石高10万石なのに対して、実質15万石とか30万石といわれるように大変豊かだった。しかし、阿部氏時代の福山藩は、水野時代の七割の領地しか与えられておらず、表石高10万石なのに対して、実質も10万石であった。そのためどうしても水野時代よりも税金を高くしなくてはならなず、水野氏の治世を懐かしむ領民の扱いに苦慮する。そこで水野氏の治世を辱めるべく「五霊鬼」や「お糸伝説」といったデマを流す。後年、阿部氏の治世が終わると、福山市民はこれらの悪評を払拭して、水野勝成を福山開祖として慕うようになる。ちなみに下記に紹介されている法螺貝の修験者善養の逸話も五霊鬼のひとつである。
熊本城受け取りの折、立花宗茂の家臣に十時連貞の消息を訊ねている。勝成と連貞は、肥後一揆の兵糧入れの戦いでともに合言葉を言い合いながら作戦を成功させた仲であるが、この二人にはそれ以外にも不思議な縁がある。連貞が江戸の町で暴漢に襲われ格闘した事件を土井利勝に審議されたことが、立花宗茂の大名復活のきっかけである。その後、宗茂は徳川秀忠に寵用されていく。利勝と勝成は従兄弟。秀忠と勝成は乳兄弟である。また、宗茂の妻誾千代が、滞在していたのは、勝成の妹の嫁いでいる加藤家である。もしかしたら、立花宗茂の大名復活の裏には、なんらかの形で勝成がかかわったのかもしれない。
勝成は諸国を流浪した苦労人だったため、晩年になってかつての旧臣に出会った。その旧臣は勝成の下で300石を食んでいたが、辞去して他家に仕えて1000石を食んでいた。しかし高禄を得ても勝成の下の者をいたわる慈悲に満ちた処遇は禄に代えがたいとして帰参を願い、勝成も喜んで承諾した。『常山紀談』には「全ての士に、身分の貴い、賤しいはない。主君となり、従者となって、互いに頼み合ってこそ、世は立つ習いである。だから大事の時は身を捨てて忠義をなすのだ。汝らは我をば親と思われよ。我は汝らを子と思わん」という勝成の言葉が伝わっており、さらに勝成は若い日を回想して「尺八1本を携えて虚無僧となって、日本国を巡り、ある時は堂塔で夜を明かし、ある時は野にも山にも寝て、様々な艱難にあい、人に謗られもした。しかし一言も嘘をつかず、仁に背く振る舞いをしなかったから、今の福山10万石があるのだ。下の者への情を知ったのは、虚無僧をしたからだ」と語っている[56]。
一族
加藤清正の正室、徳川家康養女の清浄院は、実は勝成の父忠重の女、即ち勝成の妹である。加藤家断絶の時に勝成・勝俊は熊本城受け取りの役目を勤め、この時に清浄院を福山に引き取った。
「旗本奴」として知られた旗本の水野成之(十郎左衛門)は勝成の孫である。勝成はこの孫をとても可愛がったという。水野十郎左衛門は白柄組という有名な旗本奴集団を作るが、肖像画や長久手の合戦屏風に描かれる勝成の刀の柄も白い。十郎左衛門が祖父に影響されたのではないか、と思われる。十郎左衛門が、幡随院長兵衛を殺した時にも、「御家創業の功臣の血統を、やみくもに罰せられない」と老中評定で無罪になっている。十郎左衛門が賜死となったのは、旗本白柄組の無法ぶりが、それからますます激しくなり、勝成が亡くなったあとである。
初代信濃松本藩(現在の長野県松本市)主の水野忠清は勝成の実弟。
水野勝成の弟水野遠江守忠直(水野八十郎)は慶長7年(1602)、宝飯郡内で三千石を領した。寛永11年(1634)忠直が没し、子政直が継承したが、翌年、家禄は没収され、屋敷も取り壊された。同地に水野八十郎の墓がある。
水野長勝の母親は於丈の方(忠政の娘)。つまり、勝成や家康の従兄弟。信長に仕え、妻は森成利(蘭丸)の姉。本能寺の変のあと、北条氏邦に仕え、北条滅亡後に徳川に仕え、旗本寄合席となる。
鳥居元忠の正室の母親於丈の方(於上の方。松平家広の妻)は、水野忠重の姉である。つまり、元忠と勝成は、義理の従兄弟ということになる。
酒井忠次の正室の碓井姫(父は松平清康、母は華陽院)は、水野忠重の異父妹である。つまり、勝成とは義理の叔父と甥ということになる。
結城秀康の母親於万の方(長勝院)。彼女の母親は、水野忠政の娘である。家康と於万の方は従兄妹という関係だったのだ。
奥平貞能の母親は、水野忠政の妹。
水野流弥和羅(やわら)、水野新当流柔術、水野流居合術の流祖水野柳滴斎(水野新五左衛門重治あるいは勝重)との関係は不明。しかし、水野姓に「重」の付く名前である。無関係とは思えない。備後福山藩士朝比奈平兵衛の長男・朝比奈半左衛門可長が学んでいる。
『日本家紋研究会』の高澤等は『太閤素生記』を参照にして、秀吉一族が用いる沢瀉紋と秀吉の通称「藤吉郎」、また姉日秀、妹朝日の夫の出身地などの関係から、織田信秀の同朋衆あるいは水野氏説のある継父・竹阿弥を含め、秀吉自身も水野氏族を意識していたのではないかとの推測の説を『歴史読本』に寄稿しているが、真偽の程は不明である。そもそも秀吉は、忠重の12万石ともいわれる石高を2万石にまで順次削減している。秀吉と水野氏が親密だったフシはまったく感じられない。
現代
京都日向の町名は、勝成の屋敷があったことに由来する。
水野勝成記念という地方競馬の大会がある。細目城には勝成の埋蔵金伝説がある。
毎年、福山市の姉妹都市である岡崎市で行われる家康行列では、徳川家臣として四天王以外でただひとり選ばれている武将である。
福山かなりや幼稚園は菩提寺の賢忠寺が運営する幼稚園で勝成公の教えを子供達に伝えている。
グレート家康公「葵」武将隊の一人に選ばれている。刈谷城築城盛上げ隊の一人に選ばれている。刈谷市のマスコットキャラクター「かつなりくん」は、水野勝成をモチーフにしている。
現在刈谷市内には、勝成奉納の総髪の兜、獅子頭、棟札などが残っている。
麦焼酎、刈谷城築城浪漫鬼日向がある。
福山市鞆町で毎年五月初旬から五月末に行われている鯛網は、江戸時代初期福山藩主水野勝成の命により寛永二年(1632)考案されたと云われている。
文化人として
刈谷城主であった慶長12年(1607年)に歌舞伎女「出来島隼人」を身請けし、慶長13年(1608年)に京都で勧進法楽(公演)の歌舞伎を行わせている。この公演を京都の町人は褒め称え、若者で見ないものはいなかったという[57]。出来島隼人の名前は『慶長見聞集』にもみられる。慶長13年(1608年)、出来島隼人一座は家康によって「淫佚である」として駿府から追放された。
肖像画は、正保2年(1645年)、水野勝成晩年の姿を描いた画である絹本著色水野勝成画像(広島県重文)のほか、長久手合戦図屏風、大坂夏の陣図屏風に描かれている。
菱川師宣と交流があり、勝成が注文した美人画がある。
利休丸壷は漢作の大名物で銘は千利休所持に由来し、金森氏から水野勝成へ伝わった。
喜多七太夫の息子・寿見が勝成の機嫌を損ねさせたので、親の七太夫がわざわざ福山までやってきて、「道成寺」を舞って勝成のご機嫌を直した。
仕舞では「屋島」を好んで舞ったという。
勝成は文学が好きで、特に俳諧を好んだ。能楽も好み、秀忠から伏見城内にあった秀吉遺愛の組立式能舞台を拝領し、自ら演能した。愛用の笛、銅簫「不絶」が伝わっている。
連歌や和歌もよく嗜み、自ら作歌詠吟している。勝成と智箭が連歌した百句が現存しており、言葉の使い方や辞句の配置などなかなか質の高いものだという。晩年は、京都から俳仙といわれた野々口立圃を福山に呼ぶなどして福山藩の俳諧の興隆の礎を築いた。また学問奨励にも努め、福山藩水野時代に、崎門学派の三傑と称せられる佐藤直方・中島道允・永田素庵を輩出している。
武将として
安田国継とは京都で知り合った。「天野源右衛門(安田国継)は上方に在り(死んでしまったが)、今も友人である」と語っている。
『続日本随筆大成』には「水野勝成ハ、藩翰譜ニハ、腹悪シキ人ノ様ニカキタレドモ、楢埼景忠ナル者、備後府中ノ人ニテ、大坂城中ニ籠リ、善ク戦ヘリ。勝成福山ニ入部ノ時、首ニ景忠ガ事ヲ問フ。土人大城ノ事、吟味ニナランカト恐レテ、既ニ死セリト云フ。千石ヲ取ラセント思ヒシニ、死シタルカト云テ、惜マレケルヨシ。人材ニ汲々タルハ、サスガ名将ナリトゾ 」とある。
官職の日向守にその勇猛さをかけられて、鬼日向と称された[56]。
名将言行録には「倫魁不羈」[58]と書かれている。
常山紀談には「勝成あら者にて人を物ともせず」と書かれている。
その他
福山の郷土料理うずみ。これは福山藩主水野勝成が行った倹約政策の最中にできたとされるが、その根拠はない。第一に勝成が倹約令を出した記録がないのだそうだ。普通に考えれば、倹約令を多発した阿部時代の産物であろう。
備後府中の白味噌に惚れ込んだ勝成は、参勤交代の道中、諸大名にこれを贈呈してまわった。これが諸大名に絶賛され、注文が殺到。いつの間にか「府中に味噌あり」と全国に名を馳せ、日本三大味噌どころになった。
街道を行く旅人のための「休み堂」として、領内に辻堂を一斉に建築[59]。勝成が備後を治める以前に建てられた堂宇もあるらしいが、本格的に普及させたのは勝成である。この習俗は、浅野領内にまで伝播している。備後縞は水野勝成が綿花の栽培を奨励し、綿織物の生産が行われたのが始まりといわれている。
現在の神石高原町に「善養」という修験者がおり、ほら貝の名手として知られ、その音は十里四方に響いたという。勝成はこの人物を召抱えようとするが、善養は自分のほら貝が戦に使われることを好まず断ったことから、怒った勝成は善養院を井戸で石詰めにして殺したという。人々は善養院を祀って祠を建て息長神社と呼ばれるようになり、この井戸は現在も息長神社の傍らに存在している[60]。五霊鬼のひとつであるこの言い伝えは、虚構であることがわかっている。仙養坊の墓は、水野勝成に殺されて約30年後の建立されたといわれ、高さ約1メートルの円筒形墓石には「大蔵坊霊位・延宝六」(1678年・神石郡詩)とあり、仙養坊霊位はない。また、郡詩に仙養坊は「慶安年中(1648-1651)の頃の人」とあるが、仙養原で修行した年代なのだろう。生年没年不る。とはいえ、史実では勝成死去が同じ51年で享年88。12年前の1639年には76歳で城主を退き宗休と改名して隠居。これでは勝成の権力行使の条件と年代が仙養坊に結びつかない。まして、セリフ入りは「歴史」として致命傷。[61]
主な家臣
- 鈴木治兵衛
- ?~? 勝成を水野家当主になるように徳川家康が書状を出した水野家の三家老の一人。
- 鈴木久兵衛
- ?~? 勝成を水野家当主にするように徳川家康が書状を出した水野家の三家老の一人。
- 中山重盛
- ?~? 通称は将監。水野家第2家老。勝成が水野家当主になるとき、家康が連れていくように命じた。祖父の中山勝時は、忠重の姉婿。父親の中山光勝は、本能寺の変のおり明智軍の襲撃を受けて討死。ちなみに桶狭間の戦いのあった桶狭間の地は、中山氏の領地であった。一族に快翁龍喜がいる。
- 中川志摩之助
- ?~? 勝成と宮本武蔵を結ぶ人物として著名。若い時より仙石秀久に奉公し、数度戦に参戦、鉄砲頭1,000石。その使用紋を許され、「永」の字を使った。四国長宗我部攻めのとき、勝成と知り合って仲良くなった。上杉景勝が会津にいるときには、赤堀源太と名乗り、3,000石を取り、度々戦場に出た。勝成が刈谷城主のときに武者奉行を頼みたいからと呼ばれ、鼻紙代として600石。道明寺の戦いに従軍。
- 水野清久
- 天文13年 (1544年)~? 水野忠政の兄弟・水野清重の子。名は正重としても知られている。通称は太郎作、左近。妻は都築吉豊の娘。水野忠重の相婿。娘は渡辺重綱の正室。桶狭間の戦いでは一番首の手柄を取る[62]。鷲塚城を築く。三方ヶ原の戦い、長篠の戦いに従軍。高天神城攻めでは勝成の陣代。長久手の合戦では、清久の足軽杉山孫六が、森長可を射殺。渡辺守綱と連署で豊臣秀吉を挑発した逸話もある。関ヶ原の直前、江戸に向かう家康が、長束正家の水口城を挑発しながら通ったときの家臣として名前をみることができる[63]。関ヶ原の戦いでは、家康本陣の鉄砲頭の一人(おそらく勝成と家康の連絡係)。慶長7年(1602年)に1,000石を与えられて徳川の旗本になる。のちに徳川頼宣に付けられて紀伊で6,000石。水野太郎作家は、紀州藩の五家の一つ。「水野正重画像」は楞厳寺に保存されており、刈谷市指定文化財。寛永18年に提出された水野勝成覚書とともに、従弟水野左近大軸清久の伝記写が提出された。水野正重の遺談「水野左近働覚」[64]。無銘大磨上(名物太郎作正宗)は、正重から徳川秀忠に献上。徳川家光の代に家光の養女大姫(徳川頼房息女、前田光高室)が前田家に輿入れするに持参し、以後前田家に伝来する。
- 都築忠兵衛
- ?~? 妙舜尼の兄。長久手の戦いでは、勝成に従い三番首を家康に献じている。元和3年(1617年)入海大明神に短刀正宗を寄進(愛知県東浦町町指定文化財)。
- 杉山孫六
- ?~? 水野清久の足軽。長久手の合戦において、森長可を射殺した。井伊家の記録では、井伊隊の足軽・柏原与兵衛が森長可を射殺したとあるが、柏原与兵衛はれっきとした士分であり、このころまだ井伊家に仕官していない。小説『血槍三代』では準主役。勝成の郎党として一緒に旅したことになっている。
- 鈴木重親
- ?~? 通称は与八郎、輿八郎[65]。忠重の小姓。星崎城の戦いで、須藤太左衛門と一騎打ちをし、橋から突き落したことで勇名を馳せた。のちに加藤嘉明に召し抱えられた須藤太左衛門は、与八郎は口の臭い男で、高禄を取るような人物ではないと称した。鈴木は筋目正しき者なれど、日頃だらしないと評判だった。水野忠重暗殺事件に立ち会い、堀尾吉晴を犯人と勘違いする水野家臣たちを押しとどめ、堀尾吉晴の無実を証言した。大垣城の戦いに従軍。
- 神谷長直
- 1536~1593 通称は金七郎。小牧・長久手の戦いでは織田信雄に属した忠重にしたがい、豊臣秀吉と対陣。忠重が秀吉から三河遠江2カ国の条件で誘われたとき諌めた。秀吉の書状を家康に献上。家康から「小鳥しろごま」という名馬を与えられる。[66]
- 神谷金七
- ?~1600 大垣城の戦いで討死。
- 神谷長次
- ?~? 通称は治部。名は長直とも。「木工の名人」と呼ばれ、さまざまな土木事情で偉業を残した。服部大池造成時の「お糸伝説」では悪代官の汚名を着せられている。
- 南条宜政
- 1587~1660 通称は作十郎。勝成の姪婿。小鴨元清の子。豊臣家臣。大坂の陣にも豊臣方として参戦し、主家滅亡後は水野勝成・加藤忠広(6,075石余)・細川家・森長継らに仕え、最後は旗本600石。南条元忠の従兄であることも併せて考えると、勝成が豊臣家に送り込んでいた間諜なのかもしれない。
- 荻野重富
- 1578~1652 姓は荻濃ともかく。通称は新右衛門。大坂冬・夏の陣で戦功をあげる。鞆奉行や福山総奉行を歴任。著作に「鞆記」「鞆浦さすらひの記」など。荻濃(荻野)一族が祀られている荻野大明神がある。
- 本庄重政
- 1606~1676 福山藩主・水野氏に仕えた本庄重昭の嫡子として生まれたが、家督を弟重幸にゆずり、江戸に出て兵法を修業し、島原の乱の際には戦功をたてた。半生の放浪を終え、備前岡山藩主・池田光政に仕えた後、福山藩に帰り、新田開発、干拓や塩業の発展に努力した。
- 杉野数馬
- ?~? 相撲奉行。四国出兵のころより、勝成が連れ歩くようになったという三人の家臣の一人。道明寺の戦いでは一番槍一番首。
- 近藤弥之介
- ?~? 四国出兵のころより、勝成が連れ歩くようになったという三人の家臣の一人。大垣城の戦いで活躍。『水野家中由諸書』によると、孫に勝成の記録を語った。
- 林茂之助
- ?~? 四国出兵のころより、勝成が連れ歩くようになったという三人の家臣の一人。
- 鈴木小右衛門
- ?~? 渡り浪人。勝成とは佐々成政の下で同僚。勝成が水野当主になるときに同道した。大垣城の戦いで活躍。のちに上田氏を継ぐ。
- 三好次郎九郎
- ?~? 勝成の小姓。「島原の乱」で大いに奮闘。この働きぶりに感心した幕府軍の武将が、彼に名を尋ねたところ、前もって作っておいた名刺を鎧から取り出して渡した。彼は勝成から大いに褒められ、とくに名刺を配ったことについても、その周到な心がけに感心させたという。日本で名刺を渡した最初の人とも言われている。
- 庵原朝昌
- 1556~1640 通称は助右衛門。井伊家臣。勝成が九州にいた折、門番をしていた。正体を見抜いた勝成は、自らの禄高1,000石のうち200石を与えた。のちに勝成の計らいで井伊家に帰る。大坂の役では木村重成を殺す。
- 林半右衛門
- ?~? 渡り浪人。小早川秀秋の旧臣。塙団右衛門の友人。一時期、水野家に仕官していた。団右衛門は大坂冬の陣のあと、水野家臣黒川三郎右衛門に半右衛門の所在を尋ねている。このころの林半右衛門は池田家に仕官していた。
- 岡田弥源太
- ?~? 勝成の小姓。大垣城の戦いのおり、勝成が槍を持って突き倒した敵の首を取った。
- 権田兵八郎
- ?~? 家康より付けられた軍監であり、勝成を若いころより指導した。高天神城攻めで、勝成とともに真っ先に攻め込むも、負傷。
- 竹本吉久
- ?~1615 通称は左門。水野忠重暗殺事件に立ち会い、鈴木与八郎とともに、犯人の加賀井秀望を討って、髷を報ず[67]。片山合戦(道明寺の戦い)の直前に、勝成から名馬檜木を下賜される。戦闘中、伊達勢の同士討ちを受けた。戦が終わって帰るとき、檜木が伊達勢にあることを知った勝成は、淀の橋に家中の者をおき、伊達政宗の軍勢が通るのを待ち受けさせ、檜木を率いて通りかかった馬取り、付添いの徒士まで切り捨てて、この馬を奪い返した。しかし、これに対して政宗方より一言の異議も出なかった[68]。
- 廣田図書
- ?~? 広田儀太夫。広田図書、広幡図書とも書かれる。小身で右筆であったが、大坂夏の陣で活躍。明石全登との戦いで戦死したが、水野勝成の飲ませた薬で生き返った[69]。その後大幅加増されて家老になった。大和では、上田掃部、中山将監に次ぐ家老として名前が見られる。福山では、領内の総奉行を任され、農業生産に関する改革にあたった。
- 佐橋甚五郎
- ?~1582 徳川家臣。強弓の精鋭。三河一向一揆では水野忠重と活躍[70]。悪事を働いて逃亡していたが、黒駒の戦いでは勝成の下で陣借りして活躍した。勝成のとりなしで徳川家に帰ったが、結局、家康の命令を受けた阿部正勝に暗殺された。森鴎外の小説『意地』の主役として知られる。
- 三箇重則
- ?~1637 三箇頼武の3男。角兵衛。曾祖父・三箇頼連は、明智光秀の反乱に加担している。頼連は光秀亡きあと、小西行長に仕えている。重則は備後福山藩主・水野勝成に仕えた。重則以後、三箇氏当主は代々角兵衛を通称とした。
- 甲斐荘正房
- ?~1630 甲斐荘正儀の子。家康に仕え、父とともに小田原征伐に従軍し、関東で采地300石を賜う。のち、父の遺領と合せて600石となる。関ヶ原の戦いや大坂冬の陣・夏の陣に従軍、夏の陣に際し水野勝成に所属し、戦功があり、その功により関東の采地六百石に代わり、河内国錦部郡で2,000石を賜う。四天王寺の造営奉行を勤め、河内錦部郡に1万3,000石の幕府領を預かるが、のち、これを返却し、寛永7年(1630年)7月に死没。
- 城昌茂
- 1552~1626 城景茂の子。和泉守。初名は伊織介。鉄砲衆。武田勝頼の侍大将。武田滅亡後は徳川家康に仕えた。長久手の戦いに従軍。関東入府後忍・熊谷に7,000石を給される。大阪の陣では軍監7人のひとり。森忠政の軍監を務めていたが、勝成に監督不行き届きを咎められ改易された。真田昌幸の友人だったらしく、その死を悼んだ手紙が真田家に残っている。愛刀の城和泉正宗(津軽正宗)は、のちに陸奥弘前藩主の津軽家に伝えられた。
- 小坂利直
- ?~? 藤井皓玄の4男。藤井の反乱のとき10歳にも満たない少年だったことから、成羽の三村親成に預けられていた。のちに、美作国久米郡神月村の小坂氏に預けられた。三村親成の庇護の下に成長し、元服して、小坂信濃守利直と名乗り、晩年は一族の根源地である吉井村田中の地に閑居して藤井道斉と名乗り、医業を営んだといわれる。『水野記』では、元は備中国と美作国の境にある城の城主であったが、落城後、三村宗親を頼り鶴首城に居候し、藤井道斎を名乗ったという[71]。娘の於登久が、備中放浪中の水野勝成と懇ろになり、のちの福山藩第2代藩主勝俊を生んでいる。井原市芳井町吉井にある重玄寺は、藤井一族の菩提寺である。
- 宮本武蔵
- 1584?~1645。著名な剣豪。武蔵と勝成の関係の深さを物語る逸話は多い。大坂夏の陣では勝成の軍勢の客将として嫡男勝重(勝俊)を守護したことは、『大坂御陳御人数附覚』『宋休様御出語』『黄耈雜録』などから確実。武蔵の最初の養子・宮本三木之助は水野軍武者奉行・中川志摩之助の3男で、大坂陣後に4男・九郎太郎と共に武蔵が養子に貰い受けたものである。後に武蔵が福山を訪れた際に家老・中山将監の屋敷に立ち寄り腰掛けたという庭石が、水野家の後の阿部家家老屋敷となっても伝えられ、今は備後護国神社境内に移されて現存している。また、武蔵が勝成に「兵道鏡」を相伝した写本なるものが現存しているが、これは偽書とされる。しかし、このようなものが出回っているくらい、武蔵と勝成が昵懇な間柄であったことは江戸時代までは有名だった。
参考文献
- 書籍
- 福田正秀著『宮本武蔵研究論文集』歴研 2003年 ISBN 494776922X
- やまと太郎著『福山物語開祖水野勝成一代記』東京図書出版会 2006年 ISBN 4862230075
- 平井隆夫著『福山開祖・水野勝成』
- 森本繁著『戦国武将水野勝成』
- 中山善照著 『水と焔 水野勝成(福山のル-ツをさぐる)』
- 立石定夫著『元和の栄光-水野勝成の政治』
- 早乙女貢著『こんな男が乱世に勝つ』
- 森本繁著 別冊歴史読本『戦国妖星伝』
- 川口素生著『スーパー忍者列伝』
- 加賀康之著『大坂の陣・なるほど人物事典』
- 歴史雑学BOOK 図解戦国大名全39武将格付け 織田・豊臣・徳川軍団編 ローレンスムック
- 水野勝之・福田正秀著『加藤清正「妻子」の研究』ブイツーソリューション 2007年 ISBN 9784434110863
- 古文書調査記録〈第1集〉水野勝成覚書 (1978年) 福山城博物館友の会 (編集)
- 水野勝成公支干祭記念誌〈第7回〉 (1984年) [古書]
- 刈谷市史
- 福山市史
- 週刊戦国武将データファイル №36、65、69、99
- 水野勝成公報恩会発足五十周年記念 妙蓮寺文書 会報 沢瀉 水野勝成報恩会
- 磯田道史著『日本人の叡智』
- 歴史魂編集部著『ビジュアル日本の名将100傑』
- 楠戸義昭『戦国武将名言録』PHP研究所、2006年。
- 大塚卓嗣『戦国時代100の大ウソ武将烈風記』
- 史料
- 『常山紀談』
関連作品
- 小説
- 早乙女貢著『血槍三代』(集英社文庫 全3巻)ISBN 4087502988、ISBN 4087503054、ISBN 4087503119
- 竹内けん著『戦国艶武伝』(全4巻)
- 海音寺潮五郎著「かぶき大名」(短編集『かぶき大名』収録)
- 火坂雅志著『人斬り水野』(短編集『桂籠とその他の短篇』『桂籠』『羊羹合戦』収録)
- 仲路さとる著『覇戦』(全3巻)
- 黒川十蔵著『駆けろ、鬼日向 水野勝成』
- 永岡慶之助著『バサラ武人伝』
- 大塚卓嗣著『天を裂く:水野勝成放浪記』
; 漫画
- 中山善照著 村上正名監修『まんが物語 福山の歴史 放浪の大名・水野勝成』(上下巻)
- 木村栄志著 『水野勝成〜大坂夏の陣 鬼日向の決断』(『戦国武将列伝』2010年4月号に掲載)
- すずき孔著『福山藩主となった流浪の猛将 水野勝成』(岡崎文化vol.36に掲載)
- 映画
- アニメ
- 刈谷偉人伝その2 初代刈谷藩主 水野勝成物語~鬼日向と呼ばれたお殿さま~
脚注
註釈
出典
関連項目
外部リンク
テンプレート:備後福山藩主- ↑ 母(妙舜)の菩提寺である妙蓮寺(福山市)に収蔵される肖像画には顕如の署名があるほか、顕如の書状も残されている。
- ↑ 『福山開祖・水野勝成』では、都築吉豊の養女になってから嫁いだのではないか、と推測している
- ↑ 「織田信雄分限帳」(天正13-14年成立)によると、忠重は刈屋、緒川のほか北伊勢にも所領を持ち都合1万3,000貫文(10万石以上)を領するとなっているから、このときからそのぐらいはあったと考えられる
- ↑ 状況からみて、相模津久井城主内藤大和守康行と思われる
- ↑ 『関東古戦録』によると、大道寺新四郎。後に前田家、尾張徳川と仕え、代々家老職を輩出した尾張大道寺家の祖、大道寺直重と思われる。
- ↑ 新訂寛政重修諸家譜 6 著者: 高柳光寿
- ↑ 7.0 7.1 7.2 7.3 楠戸義昭『戦国武将名言録』P14
- ↑ 『柏崎物語』
- ↑ 『福山開祖・水野勝成』
- ↑ 西国太平記
- ↑ この時期、美作の豪族・安東国貞の娘婿になっていたようで、のちに安東助之進が、水野家に縁故仕官している。
- ↑ 『寛政重修諸家譜』
- ↑ 『血槍三代 青春編』磯貝勝太郎の解説
- ↑ 勝成忍者説は出所不明ながら根強い。勝成の紹介文にはたいてい憶測付きで書かれている。『スーパー忍者列伝』や『江戸の隠密・御庭番』のような本にまで項目が立てられているし、小説『人斬り水野』などもこの説を下地にして書かれている。
- ↑ 『東照宮御事蹟』。多くの小説では、旧主加藤清正とのコネを見込まれ、この婚姻を整えるために家康に呼び出されたのではないか、と推測をされている。実際はどうかは不明だが、加藤清正と榊原康政は昵懇であり、こちらの繋がりがメインであろう。
- ↑ 『武功雑記』によると、このとき勝成は家康から300人扶持を与えられている。
- ↑ 『水野家家譜』
- ↑ 『徳川実記』によると、加賀井重望の黒幕は大谷吉継。
- ↑ 秀吉に幾度にもわたって削られた忠重の石高は、『当代記』によると2万石である。勝成が家康からもらっていた300人扶持を合わせて3万石ということなのかもしれない
- ↑ 為信は参加しておらず、津軽軍を率いたのは津軽信枚
- ↑ この炎は関ヶ原の戦いにも少なからぬ影響を与えたようである。南宮山の西軍は、山が邪魔になり主戦場をみることはできないが、大垣城はみることができる。また、戦場を中央突破で脱出してきた島津勢は当初、大垣城に籠城するつもりでいたが、大垣城から火の手が上がっているのを見て、城に籠るのは諦め、伊勢路に向かった(『大重平六覚書』)
- ↑ この使者を務めたのが服部康成と思われる
- ↑ [新訳]名将言行録: 大乱世を生き抜いた192人のサムライたち 著者: 岡谷繁実
- ↑ ただし水野側の伝記にそうあるだけである。例を挙げるなら、『福山開祖・水野勝成』や『開祖水野勝成一代記』では、勝成が「大和口の総大将」と書かれている。また、吉本健二著『真説 大坂の陣』では、「名義的にはともかく、実質的な幕府方大和口方面軍の大将に任じられていた先鋒大将・水野勝成 」という書かれ方になっている。水野勢は600人余に過ぎない。
- ↑ ただし水野側の伝記にそうあるだけである。
- ↑ 『日向守覚書』によれば、片山村(小松山)の攻防戦で後藤隊を追い崩した時、一番乗りが勝成、二番目に中山勘解由、三番目に勝俊、四番目に村瀬左馬という順だという。
- ↑ 史実では、後藤隊と正面から交戦したのは本多忠政・松平忠明・伊達政宗であり、水野隊は後藤隊の側面という好位置に陣取っていたにも拘らず、さしたる戦闘は行っていない。
- ↑ 余談となるが、『黄耈雜録』によると、この道明寺河原の戦いで、宮本武蔵は橋の上で数人をなぎ倒したという。
- ↑ 菊池寛 西永達夫 株式会社文襲春秋『日木合戦言軍』
- ↑ この史実により、道明寺の戦い前半戦においてやはり水野隊は主戦力として戦っていないため、そもそも600ほどしかいない自軍の消耗が(主戦力として戦った伊達勢らと比べて)少なかったこと、また、勝成は実戦場での軍行動がわかってない”戦下手”であると推測できる。
- ↑ 『日向守覚書』
- ↑ 地理上では、真田隊が家康本陣に突入していたならば、とっくに茶臼山から出払っているはずである。
- ↑ 菊池寛 西永達夫 株式会社文襲春秋『日木合戦言軍』より、本多忠政の誤字と思われる
- ↑ 菊池寛「日本合戦譚」では「勝曼院の西の方から六百人許り、鬨を揚げて攻寄せて来た」となっている。
- ↑ 史実では茶臼山から家康本陣までのほぼ直線上に勝成の隊が配置されており、真田隊の家康本陣突入が史実であるなら、勝成隊も突破されていることになる。
- ↑ ここまでの越前隊との正面衝突、および三度に渡ったとされる本陣突入により、真田隊は自然消耗していたはずであり、また真田隊の残存は毛利勝永隊が吸収収容し、大坂城へ引き上げに成功しており、”勝成隊による壊滅”は史実にはない。
- ↑ 『九桂草堂随筆』
- ↑ 史実では、越前の松平忠直隊は真田隊を中央突破し、首級3700を挙げてそのまま大坂城へ突入している。越前兵の挙げた首級の中には真田信繁や大谷吉治の首が含まれている。
- ↑ 史実では、明石軍は越前軍に打ち掛かって壊滅、全登はそのまま行方不明となっている。精強を謡われた越前軍が崩れた史実はなく、その後も諸軍の先頭に立って城攻めを敢行している。また、1万5千もの大軍勢の越前松平隊と600人の勝成隊では規模が違い過ぎ、そのような大隊が小隊の勝成隊に逃げ込むことは不可能である。
- ↑ 史実では、明石全登は行方不明。著名な部隊長クラスの首級が本当に水野隊に挙げられていたのなら、”戦後の論功行賞の正規の記録”に残るはずであるが、一切ないどころか、戦後徳川方は明石全登を恐れ「明石狩り」と称される落ち武者狩りを行っている。
- ↑ 『徳川実記』『大坂記』。『秋月のキリシタン書、著者H、チースリク。教文館』によると、「全登が首は水野家人、汀三古衛討とり」となっている。神父ロトリゲスは、日本に1586~1614年滞在し国外に追放、マカオにて日本からきた年度報告を整理しローマへ送告していた。当時の外国神父からみた日本の現状、明石一族のことも大部分事実と考えられる。大坂の明石屋敷に戦いの当日現場にいて、助かったトレス神父の体験に基づく書簡
- ↑ 史実では、戦後の10日、大坂城一番乗りについての裁定が二条城で開かれた際、他者の目撃証言などにより勝成の訴えは却下され、一番乗りは越前松平隊とその家老の本多富正と公式に認定されており、本多富正は家康から黄金50枚を拝領している。
- ↑ 「戦功第一」は大坂城の堀埋めを指揮した松平忠明とされているが、この第一、第二に水野側の家伝以外の、”史実に基づく根拠”はない。
- ↑ 大和郡山は旧豊臣領ではない。
- ↑ 45.0 45.1 歴史図書社「福山領分語伝記」『続備後叢書(中)』1971年。
- ↑ 勝成が加増の少なさを嘆いた逸話は『福山開祖・水野勝成』では伝説として紹介されている。テンプレート:要出典範囲
- ↑ 文献に残る藩札としては最古である
- ↑ 福山史編纂委員会編「福山市史 中巻」 1968年(1978年再版)
- ↑ 49.0 49.1 49.2 2002年度秋季特別展「水野氏五代展」-築城380周記念-
- ↑ あくまで水野氏側の家伝を基にした『福山開祖・水野勝成』に拠る。
- ↑ 『坐談武蔵』
- ↑ 菊池寛 西永達夫 株式会社文襲春秋『日木合戦言軍』より、宇多国房の誤字と思われる
- ↑ 黒田続家譜
- ↑ 黒田続家譜
- ↑ 『福山城築城三百七十年記念誌』『福山城築城三百七十年記念特別展 水野勝成とその時代 天下統一の流れと水野氏の動向』
- ↑ 56.0 56.1 楠戸義昭『戦国武将名言録』P15
- ↑ 戸田茂睡 塚本学著 東洋文庫643『御当代記』平凡社 1998年
- ↑ 「りんかいふき」と読む。「あまりにも凄すぎて、誰にも縛ることができない」という意味。
- ↑ 『沼隈郡誌』
- ↑ 『広島県の民話・伝説・民謡』広島県商工部観光課 1967年
- ↑ 毎日新聞 2002.1.31
- ↑ 『常山紀談』
- ↑ 『慶長年中卜斎記』
- ↑ 織田信長がやった黄金の髑髏の逸話は、これに書かれている。
- ↑ 新訂寛政重修諸家譜 6 著者: 高柳光寿
- ↑ 水野信元の家臣神谷金七が、榊原康政が家康の旗本に抜擢を祝い、中古の具足を譲った。この具足が榊原家の家宝になったという逸話があるが、状況からみてこの長直ではないか、と思われる。
- ↑ 新訂寛政重修諸家譜 6 著者: 高柳光寿
- ↑ 『水野記』
- ↑ 『勇士物語』
- ↑ 『三河物語』
- ↑ 広島県史近世資料編Ⅰ『水野記』P.884