板倉重昌

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テンプレート:基礎情報 武士 板倉 重昌(いたくら しげまさ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将大名三河深溝藩主。

生涯

天正16年(1588年)、徳川氏の家臣・板倉勝重の次男として駿河駿府にて誕生。

慶長10年(1605年)4月10日、主君・徳川家康の参内に伺候し従五位下内膳正(ないぜんのかみ)に叙任された[1]松平正綱秋元泰朝とともに徳川家康の近習出頭人と呼ばれた。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では、豊臣方との交渉の任にあたった。

寛永14年(1637年)11月、島原の乱鎮圧の上使となった。嫡子の重矩を伴い、副使の石谷貞清と出陣。動員された西国の諸侯を率いる命を受け下向するが、九州の諸侯は小禄[2]の重昌の指揮に従わず[3]、小身の重昌では統制が取れないことや一揆勢の勢いの強いこと、長期化した際に幕府の権威が揺らぐことや海外からの勢力の参加の恐れなどを鑑みた幕府は老中松平信綱を改めて大将とし、大幅な増援も決定した。

重昌は功を奪われることに焦慮を覚えたとされる。翌寛永15年(1638年)1月1日に総攻撃を命じるが、やはり諸軍の連携を失い4000人とも伝わる大損害を出す。重昌自身は板倉勢を率いて突撃を敢行し、眉間に鉄砲の直撃弾を受け、戦死した。享年51。墓所は島原市江東寺辞世は、「あら玉のとしの始に散花の 名のみ残らば先がけとしれ」とされるが「咲く花の」とする説もある。

残された嫡子の重矩は、元の副使石谷貞清と共に原城陥落の際、抜け駆けを行った佐賀藩に遅れじと突入を行った。この際と当初の敗戦の軍律違反により、一年ほど謹慎処分を受けるが、その後は老中や京都所司代を務め、5万石にまで加増する。重昌の子孫はその後、下野烏山藩武蔵岩槻藩信濃坂木藩陸奥福島藩転封され明治まで続いた。

逸話

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人物・逸話

  • 父で京都所司代の勝重が、重昌と兄の重宗とに対し、ある訴訟の是非について答えよと問うた。重昌はその場で返答したが重宗は一日の猶予を求めたうえ、翌日に弟と同じ結論を答えた。周りのものたちは重昌の方が器量が上だと評価したが、父の勝重は、重宗は重昌同様に結論を早く出していた、ただ慎重を期すためにあの様な振る舞いをしただけであり、重宗のほうが器量が上であると評したという(名将言行録)。のち勝重は京都所司代職を(嫡子ではあるが)兄の重宗に譲っている。
  • 福島市杉妻町には重昌を祀った板倉神社があり、また同市では、重昌の訃報が届いた1月7日門松を片付ける習わしが続いている。
  • 大坂冬の陣における豊臣方との誓紙交換の際、豊臣方は誓書の宛名を大御所の家康か将軍の秀忠のどちらにするか迷って重昌に質問した。すると重昌は迷うことなく家康にするように述べた。帰陣した後、家康にそのことを問われると「私は二君の使いではなく、家康公の家臣です」と述べた。その忠誠心を家康に誉められたという(『寛政重修諸家譜』)

関連項目

参考文献

脚注

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  1. 「柳原家記録」(村川浩平「天正・文禄・慶長期、武家叙任と豊臣姓下賜の事例」『駒沢史学』80号、2013年)
  2. 深溝藩は高直しによってやっと1万5千石余。重昌の幕府役職は御書院番頭でしかない。
  3. 江戸中期に書かれた『常山紀談』19巻388条に、重昌が派遣される際、柳生宗矩が「小藩主(重昌の領地である深溝藩の石高は1万5000石である)である重昌を総大将にすれば九州大名の統制がとれず討伐は失敗する」と考えて反対したという逸話が収録されている。