水野忠清
水野 忠清(みずの ただきよ、天正10年(1582年) - 正保4年5月28日(1647年6月30日))は、江戸時代前期の大名。上野小幡藩主、三河刈谷藩主、三河吉田藩主、信濃松本藩初代藩主。沼津藩水野家初代。
備後福山藩初代藩主水野勝成の弟。正室は前田利家の娘。子は忠次(長男、早世)、娘(京極高三正室)、娘(山内忠直正室)、忠職(次男)、娘(土方氏久正室)、祖活(僧となる)、忠増(四男)、娘(有馬康純正室)、娘(菅沼定実正室)、忠顕(五男、水野忠貞養子)。
生涯
水野宗家6代で三河刈谷を領した水野忠重の四男として刈谷に生まれる。慶長5年(1600年)、父が加賀井重望に殺された後、水野氏の家督は兄の勝成が継ぎ、忠清は徳川秀忠の家臣として仕えることとなった。慶長7年(1602年)、上野小幡に1万石の所領を与えられて大名となり、同年、従五位下に任官し隼人正を名乗った。慶長10年(1605年)には書院番頭に任ぜられ、また奏者番を兼ねた。
慶長19年(1614年)からの大坂の陣では冬、夏の両陣とも参戦し、元和元年(1615年)の夏の陣では敵将・大野治房を破るという大功を挙げた。この際青山忠俊や高木正成と先陣を競い行賞をめぐって争ったため、閉門を命じられたが[1]、元和2年(1616年)に徳川家康死去の寸前に閉門を解かれた。ただし、なおもしばらく謹慎を続けたと伝わる[1]。
その後、父忠重の過去の功績と大坂の役の軍功により、三河刈谷2万石に移封された[1]。
寛永9年(1632年)に2万石を加えられて三河吉田4万石に移封される。
寛永19年(1642年)7月には信濃松本7万石に加増移封された[1]。正保4年(1647年)5月、江戸にて死去した[1]。享年66[1]。法号は真珠院郭誉全忠。墓所は東京都文京区小石川の伝通院。
家督は子の忠職が継いだ[2]。