森成利

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ファイル:The end of Mori Ranmaru.jpg
本能寺で討ち死にする森蘭丸
右田年英画)
ファイル:Grave of Mori brothers at Kajō-ji.jpg
森蘭丸・坊丸・力丸の墓(可成寺)

森 成利(もり なりとし)は、安土桃山時代武将で、森 蘭丸(もり らんまる)という名で広く知られている織田信長の近習である。本能寺の変で主君と二人の弟と共に討死した。

名前については異説が多く、幼名を(らん)とするものや、諱を長定(ながさだ)や長康(ながやす)とするものなど幾つかあるが、本記事においては諱として有力とされる成利で統一する。

名前に関して

は『寛政重修諸家譜』に長定(ながさだ)とあるが、当時の古文書では「森乱成利[注釈 1]」となっており、成利が諱とされる[1]。また、幼名は一般的には蘭丸とされるが、やはり古文書では「森乱法師[注釈 2]」あるいは「森乱成利」とされており[1]、『信長公記』においても「森乱」と、「蘭」ではなく「乱」の字が使われている[2]

生涯

永禄8年(1565年)、織田信長の家臣・森可成の3男として尾張葉栗郡蓮台[注釈 3]に生まれる。

天正5年(1577年)、織田信長に小姓として弟らと共に召し抱えられる[3][1]。以後、信長の側近として活動する。天正9年(1581年)には近江国に500石の知行を与えられ、この時期からただの小姓ではなく事務官としての役割を果たすようになっていった[1]

天正10年(1582年)、甲斐武田氏滅亡後は甲州征伐に貢献したとして信濃川中島に領地替えとなった兄・長可に替わって美濃金山城の城主[4][5]、或いは美濃岩村城の城主となり、5万石を与えられたという[1][注釈 4]。ただし蘭丸は在城せず、長可の家老・各務元正 が成利に付けられ、城代を務めた[6]。同年、本能寺の変において本能寺で明智光秀配下の安田国継(天野源右衛門)に討ち取られた[6]。享年18[6]。討たれる際、蘭丸は白小袖を着て修善寺の平元結びで髪を茶筅髷に結っていたといわれる[6]

人物像・逸話

  • 主君の信長との関係を示す逸話が『御家聞伝書』・『兼山町史』・『森家先代実録』などに記されている。信長の有能な秘書として描かれている[2]
    • ある時、信長が小姓を集めて自分の刀の鍔の部分に幾つ模様があるかを当てることができれば、褒美として太刀を与えるといった。小姓は思い思いに答えたが、成利のみは答えようとしなかった。信長が不審に思って尋ねたところ、信長が用を足している間に数えて知っているからという返答であり、信長はその正直な回答を誉めて太刀を成利に与えたという[1][3]
    • 信長は爪を切り終えると扇子の上に爪を載せて、成利に捨ててくるように命じた。成利は命令に従って次の間に移ると爪が9つしかなかった。このため成利は信長の部屋に戻って残りの爪を捜したという[1]
    • あるとき、信長は成利に隣の座敷の障子が開いているから閉めてくるように命じた。実際には座敷の障子は閉まっていたが、成利はそのうちの1つの障子を自ら開けて、ぴしゃりと音を立てて閉めた。その上で信長に閉まっていた旨の報告をし、音がしたのはどういうわけかと問う信長に、開いていると信長が言ったにも関わらず閉まっていたとあっては信長の粗忽と思われるから、閉めた音を周囲に聞かせたのだと言ったという[1]
    • 信長は側近や諸大名に対し「自慢できる物」として第一に奥州から献上された白斑の鷹、第二は青の鳥、そして第三は蘭丸と述べたと伝わる[6]
    • 16歳の時、蘭丸の前で明智光秀が食事をとっており、光秀は飯を口に入れたまま何か考え事をしており、そのため箸を落としたがすぐには気付かず、やがて我に返ると箸を拾って再び飯を食べた。光秀は何かの企みに気を取られていると蘭丸は感じて一刻も早く信長に報告しようと馳せ参じたが、信長は一切取り合わなかったと伝わる[2]
    • 信長には眉目秀麗な美少年であり、秀才肌だったために寵愛されたと伝わる。信長が家臣に銀子100枚を与えようとした時に使いとして持参したりするなど信長の手足として働いた[3]
  • 蘭丸の趣味は物珍しい焼物の収集で、得意な物は鉄砲や米の等価計算だったと伝わる[3]

遺品

『決定版図説・戦国甲冑集』などには「森蘭丸所用の具足」とされる当世具足が記載されているが、この具足は日本甲冑史学研究会会長の井伊達夫(当時中村姓)が彦根で発見して川越の古美術商・奥平長良に譲ったものであり、両人とも名前を公表した上で「自分たちが発見、預かった品で(成利のものではなく)無名の鎧」、「もう少しどこかに信憑性が欲しい」と成利所用のものであることをはっきりと否定している。なお発見当時には前立などはなく、また、どのような経緯で成利の具足とされるようになったのかは不明である[7]

関連作品

テレビドラマ・映画

脚注

注釈

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出典

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参考文献

書籍
史料

外部リンク


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  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 1.6 1.7 テンプレート:Cite book
  2. 2.0 2.1 2.2 泉秀樹 著『戦国なるほど人物事典』PHP研究所、2003年、p.178
  3. 3.0 3.1 3.2 3.3 泉秀樹 著『戦国なるほど人物事典』PHP研究所、2003年、p.179
  4. 信長公記
  5. 兼山記
  6. 6.0 6.1 6.2 6.3 6.4 泉秀樹 著『戦国なるほど人物事典』PHP研究所、2003年、p.180
  7. テンプレート:Cite book