尼子十勇士

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ファイル:清水寺の絵馬「尼子十勇十介」.JPG
清水寺の根本堂に掲示される奉納絵馬「尼子十勇十介」。天保9年閏4月、伯耆国会見郡車尾に住む深田稲保之助が奉納した。

尼子十勇士(あまごじゅうゆうし)とは、戦国大名尼子氏滅亡後、尼子氏の復興に勤めたとされる10人の勇士である。この10人は、尼子晴久が部下4万人余りの中から選び出した勇力の優れた人物という[1][2]。山中鹿之助(山中幸盛)を筆頭とするが、その構成員は幸盛を除けば不定であり、時代によっても異なる。また、名前の最後に皆「介(助)」が付くことから「尼子十勇十介」ともいう。

十勇士の成立

尼子十勇士は、明治時代に立川文庫から発刊された『武士道精華 山中鹿之助』によって有名になったが、立川文庫の創作ではない。それ以前から、その存在は知られていた。 しかしながら、幸盛が活躍していた当時の史料には「尼子十勇士」の名称は見られない。

十勇士の存在がいつ頃から信じられえていたか定かでないが、史料に初めて出てくるのは、延宝5年(1677年)に発行された『後太平記[3]』である。ただし、十勇士と明記されている人物は、五月早苗介(助)[注 1]、寺元生死助[注 2]、横道兵庫介[注 3]、山中鹿之助幸盛[注 4]の4人だけであり、その他の人物が十勇士であったかどうかは判断できない。

十勇士すべての名が史料に出てくるのは、享保2年(1717年)に刊行された『和漢音釈 書言字考節用集[4]』である。この書は、日常語の用字、語釈、語源などを示した、いわゆる国語辞典のようなものである。そのため、この時代に「尼子十勇士」という名称が一般的に通用するものであったことが分かる。正徳3年(1713年)10月、松山藩士であった前田市之進時棟と佐々木軍六が、幸盛の死を哀れみ建立した墓碑[注 5]にも「尼子十勇」の文字が刻まれている。明和4年(1767年)に湯浅常山が発行した戦国武将逸話集、『常山紀談 [5]』にも10名の勇士の名が連ねてある。

しかし、これら史料は、幸盛以外の人物の記載は乏しく、十勇士の面々がどういった性格で、どんな活躍をしたか等を知ることができなかった。十勇士の人物像について始めて具体的に記述された史料は、文化8年(1811年) - 文政4年(1821年)にかけて刊行された『絵本更科草紙[6]』である。

この書は、幸盛の母である更科姫と、尼子十勇士による活躍を描いた物語である。書と共にこの話は全国的に広まったようであり、この後には、十勇士を題材にした浮世絵の描画[7][8]歌舞伎の上演[9]、また十勇士が描かれた絵馬が神社に奉納される[10]など、世間一般にこの話が浸透していったことが分かる。

明治時代に入ると、先の『絵本更科草紙』と同じ内容で、表題を『尼子十勇士伝[11]』とした書が刊行される。明治44年(1911年)12月、『絵本更科草紙』の内容を簡略化し、大衆向けに噛み砕いた文で表した書、『武士道精華 山中鹿之助[12]』が立川文庫より発行されると、尼子十勇士の名は一躍有名になる。昭和26年(1951年)には『大百科事典』にも掲載された[13]。現在は、『広辞苑[14]』にもその項目がある。

構成員

尼子十勇士の構成員は、山中幸盛を除けば不定であり、時代によっても異なる。

史料 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12
延宝5年(1677年 後太平記[3] 山中 鹿之助 幸盛[注 4] 五月 早苗介(助)[注 1] 秋宅 庵助[注 6] 尤 道理助[注 6][注 7] 寺本 生死助[注 2] 薮中 荊助[注 7] 植田 稲葉助[注 7] 今川 鮎助[注 7] 横道 兵庫介[注 3] 柴橋 大力介[注 8] 大谷 古猪介[注 8] 穴内 狐狸介[注 8]
享保2年(1717年 書言字考[4] 山中 鹿助 秋宅 庵助 寺本 生死助 尤 道理助 今川 鮎助 薮中 荊助 横道 兵庫助 小倉 鼠助 深田 泥助 植田 草苗助
明和4年(1767年 常山紀談 [5] 山中 鹿之介 藪原 茨之介 五月 早苗之介 上田 稲葉之介 尤 道理之介 早川 鮎之介 川岸 柳之介 井筒 女之介 阿波 鳴戸之介 破骨 障子之介
文化8年(1811年 絵本更科草紙[6] 山中 鹿之助[注 9] 大谷 古猪之助[注 10] 早川 鮎之助[注 11] 横道 兵庫之助[注 12] 寺本 生死之助[注 13] 五月 早苗之助[注 14] 高橋 渡之助[注 15] 秋宅 庵之助[注 16] 薮中 茨之助[注 17] 荒波 碇之助[注 18]
天保9年(1838年 清水寺絵馬 [10] 山中 鹿之助 秋上 伊織之助 横道 兵庫之助 寺本 生死之助 植田 早苗之助 今川 鮎之助 小倉 鼠之助 尤 道理之助 薮中 荊之助 深田 泥之助
江戸時代(19世紀) 歌川芳虎浮世絵 [7] 山中 鹿之助[注 19] 大谷 古猪之助[注 20] 早川 鮎之助[注 21] 横道 兵庫之助[注 22] 五月 早稲之介[注 23] 高橋 渡之助[注 24] 秋宅 庵之助[注 25] 寺本 生死之助[注 26] 薮中 茨之助[注 27] 荒波 錠之助[注 28]
江戸時代(19世紀) 豊原国周浮世絵 [8] 山中 鹿之助 大谷 古猪之助 早川 鮎之助 横道 兵庫之助 皐月 早苗之介 高橋 亘之助 秋宅 庵之助 寺本 生死之助 薮中 茨之助 荒波 碇之助
文久3年(1863年 城安寺の絵画[15] 山中 鹿之助 幸盛 秋上 伊織之助 横道 兵庫之助 寺本 生死之助 植田 早苗之助 今川 鮎之助 小倉 鼠之助 尤 道理之助 薮中 荊之助 深田 泥之助
明治16年(1883年 尼子十勇士伝[11] 山中 鹿之助[注 9] 大谷 古猪之助[注 10] 早川 鮎之助[注 11] 横道 兵庫之助[注 12] 寺本 生死之助[注 13] 五(皐)月 早苗之助[注 14] 高橋 渡之助[注 15] 秋宅 庵之助[注 16] 薮中 茨之助[注 17] 荒波 碇(錠)之助[注 18]
明治44年(1911年 立川文庫 [12] 山中 鹿之助 幸盛[注 29] 大谷 古猪之助 幸虎[注 30] 早川 鮎之助 幸高[注 31] 横道 兵庫之助 幸晴[注 32] 寺本 生死之助[注 33] 皐月 早苗之助[注 34] 高橋 渡之助[注 35] 秋宅 庵之助[注 35] 薮中 茨之助[注 35] 荒波 碇之助[注 36]
昭和8年(1933年 読史備要[16] 山中 鹿介 秋宅 庵介 横道 兵庫介 早川 鮎介 尤 道理介 寺本 生死介 植田 早苗介 深田 泥介 薮中 荊介 小倉 鼠介
昭和60年(1985年)? 広瀬少年剣士会[17] 山中 鹿介 秋上 庵介 横道 兵庫介 寺本 生死介 植田 早苗介 小倉 鼠介 早川 鮎介 薮中 荊介 深田 泥介 大谷 古猪介
平成10年(1998年 広辞苑 [14] 山中 鹿介 秋宅 庵之介 横道 兵庫之介 早川 鮎之介 尤 道理之介 寺本 生死之介 植田 早稲之介 深田 泥之介 薮中 荊之介 小倉 鼠之介

人物の信憑性

構成員の名前はすべて駄洒落じみたものとなっており、その実在性が疑問視されていた。しかし、自ら著した書状等が現存しており、実在することが確実な人物もいる。また、十勇士が活躍していた当時の資料にその名が確認でき、存在の可能性を否定できない人物もいる。

実在する人物

次の3名は、自ら著した書状等が現存しており、実在することが確実な人物である。

山中幸盛[18](山中鹿之助、山中鹿助、山中鹿之介、山中鹿介)
秋上宗信[19](秋宅庵助、秋上伊織之助、秋宅庵之助、秋宅庵介、秋上庵介、秋宅庵之介)
横道秀綱[20](横道兵庫介、横道兵庫助、横道兵庫之助、横道兵庫之介)

実在の可能性がある人物

現存する当時の書状等では存在が確認できないが、軍記史料や江戸時代初期の書状等にその名が記載され、実在の可能性がある人物もいる。

五月早苗介(五月早苗之助、植田稲葉助、植田早苗助、上田稲葉之介、植田早苗之助、五月早稲之介、皐月早苗之介、皐月早苗之助、植田早苗介、植田早稲之介、植田早稲之介)
  • 元亀元年6月8日、吉川元春から掘立壱岐守宛への書状に、「上田早苗助」が同年6月3日に佐陀勝間城を攻撃して討ち死にしたと記載される[21]
  • 尼子氏の家臣の知行高を記した文書、『尼子家分限牒(あまごけぶんげんちょう)』に「五月早苗之介」の名前がある[22]備中国の内、8,013石を所領した。
  • 雲陽軍実記』に「五月早苗介」の名が記載されている[23]
藪中荊助(薮原茨之介、藪中茨之助、藪中荊之助、藪中荊介、藪中荊之介)
寺本生死助(寺本生死之助、寺本生死介、寺本生死之介)
  • 太閤記』にその名が記載される[25]。元の名を寺本半四郎といって、山中甚次郎(山中幸盛)、秋宅甚介(秋上宗信)と共に、名前を山中鹿介、秋宅庵之助、寺本障子之助と変えた。
井筒女之介

脚注

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出典

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参考文献

  • 槇島昭武『和漢音釈 書言字考節用集 第十巻 数量、性氏』(1717年)
  • 早稲田大学編集部 編集『通俗日本全史 第六巻』(早稲田大学出版部 1913年) 中に『後太平記』を含む
  • 早稲田大学編集部 編集『通俗日本全史 第七巻』(早稲田大学出版部 1913年) 中に『後太平記』を含む
  • 湯浅常山 原著『戦国武将逸話集-注釈『常山紀談』巻一~七』大津雄一・田口寛 訳注(勉誠出版 2010年) ISBN 978-4-585-05441-2
  • 栗杖亭鬼卵 著・石田玉山 画『勇婦全伝 絵本更科草紙 初編 巻一之~五』(群玉堂河内屋 1811年)
  • 栗杖亭鬼卵 著・石田玉山 画『勇婦全伝 絵本更科草紙 後編 巻一之~五』(群玉堂河内屋 1812年)
  • 栗杖亭鬼卵 著・一峰斎馬円 画『勇婦全伝 絵本更科草紙 三編 巻一之~五』(河内屋茂兵衛 1821年)
  • 和田篤太郎 編纂『尼子十勇士伝 上巻』(春陽堂 1883年)
  • 和田篤太郎 編纂『尼子十勇士伝 中巻』(春陽堂 1883年)
  • 和田篤太郎 編纂『尼子十勇士伝 下巻』(春陽堂 1883年)
  • 雪花散人『武士道精華 山中鹿之助』(立川文明堂 1911年)
  • 東京帝国大学史料編纂所 編著『読史備用』(内外書籍 1933年)
  • 新村出 編『広辞苑-第五版』(岩波書店 1998年)
  • 妹尾豊三郎『尼子盛衰人物記』(広瀬町観光協会 1985年)
  • 島根県立古代出雲歴史博物館『戦国大名 尼子氏の興亡-平成二十四年度企画展』(島根県立古代出雲歴史博物館 2012年)
  • 香川景継『陰徳太平記 全6冊』米原正義 校注(東洋書院、1980年) ISBN 4-88594-252-7
  • 河本隆政『尼子毛利合戦 雲陽軍実記』勝田勝年 校注(新人物往来社 1978年)
  • 小瀬甫庵『太閤記-新日本古典文学大系60』檜谷昭彦・江本裕 校注(岩波書店 1996年) ISBN 4-00-240060-3
  • 岡谷繁実名将言行録(一)〔全8冊〕』(岩波書店 1943年) ISBN 4-00-331731-9
  • 広瀬町教育委員会 編集『尼子氏関係資料調査報告書』(広瀬町教育委員会 2003年)
  • 広瀬町教育委員会 編集『出雲尼子史料集(下巻)』(広瀬町教育委員会 2003年)
  • 米原正義 編『山中鹿介のすべて』(新人物往来社 1989年) ISBN 4-404-01648-4
  • 『後太平記』地部巻第四十 山中鹿之助品川狼介勝負之事
  • 名将言行録』巻三 山中幸盛
  • 3.0 3.1 「多々良 一龍」が編纂した、『太平記』の後の時代、応安元年(1368年足利義満の時代から天正6年(1578年)尼子再興軍の滅亡までを記した軍記物語。延宝5年(1677年)刊行。元禄5年(1692年)に発行された「井上家正」校正の『後太平記』には、「多々良 一龍」の原選80巻を「多々良 一吹」が元和3年(1617年)より集録して42巻としてまとめたと著されるため、1617年には草案ができていたという説もある。
  • 4.0 4.1 正式な名称は『和漢音釈 書言字考節用集』。「槇島昭武」編纂。享保2年(1717年)刊行。日常語の用字、語釈、語源などを示した書で、いわゆる国語辞典のようなもの。「第10巻 数量、性氏」に「尼子十勇十介(あまごじゅうゆうじゅっすけ)」の項目がある。
  • 5.0 5.1 岡山藩士「湯浅常山」がまとめた戦国武将の逸話集。明和4年(1767年)に完成したが、発刊は文政1818年から1830年)年間の後半とされる。巻六に「尼子十勇士」について記載がある。
  • 6.0 6.1 文化8年(1811年)から文政4年1821年にかけて発行された、鹿之助の母、更科姫と、尼子十勇士による活躍を描いた物語。初編、後編、第三篇それぞれ5冊からなる全15巻。著者は栗杖亭鬼卵。画は、初編、後編が石田玉山。第三編の画は一峰斎馬円が担当した。
  • 7.0 7.1 表題は「尼子十勇士之図」。江戸時代に活躍した錦朝楼芳虎(歌川芳虎)<生没不明>の浮世絵。芳虎は歌川国芳の門下生。
  • 8.0 8.1 表題は「尼子十勇士面々会合主家再興評定図」。江戸時代に活躍した豊原国周<1835年-1900年>の浮世絵。国周は歌川豊国の門下生。幸盛の妻とされる九重姫も共に描かれる。
  • 文化10年(1813年)8月27日 京都因幡薬師『絵本更科話』、天保3年(1832年)8月吉日 京都北座『絵本更科話』ほか
  • 10.0 10.1 天保9年閏4月(1838年5月)、伯耆国会見郡車尾(現在の鳥取県米子市車尾)に住む深田稲保之助が清水寺へ奉納した絵馬。表題は「尼子十勇十介」。現在は清水寺の根本堂に掲示される。
  • 11.0 11.1 明治16年(1883年)4月21日、春陽堂より発刊。上巻、中巻、下巻からなる全3巻。内容は『絵本更科草紙』と同じ。編集は出版人でもある「和田篤太郎」。
  • 12.0 12.1 明治44年(1911年)12月10日、立川文明堂より発刊。表題は、『立川文庫 第十七編 武士道精華 山中鹿之助』。著者は「雪花散(山)人」。内容は、『絵本更科草紙』の話をほぼ踏襲するが、処所に脚色や簡易化が見られる。
  • 『尼子盛衰人物記』P270より。『大百科辞典 全16巻・縮刷版』(平凡社 1951年)か。なお、現在の『世界大百科辞典』には記載がない。
  • 14.0 14.1 『広辞苑-第五版』新村出 編(岩波書店 1998年11月11日)。
  • 表題は「尼子十勇士図」。文久3年(1863年)、広瀬藩9代藩主、松平直諒の命により、藩お抱えの絵師であった堀江友声が描いたもの。尼子経久も共に描かれる。
  • 昭和8年(1933年)7月15日、内外書籍より発刊。編集・著者は、東京帝国大学史料編纂所。大日本資料・大日本古文書を調べる際の手引となることを目的に作成された集成資料集。P729、第一類、名数一覧の〔十〕に「尼子十勇士(尼子十介)」として記載。
  • 島根県安来市尼子氏の拠点、月山富田城のあった地)に現在残っている性(山中・秋上・寺本・早川・大谷・高橋・深田・植田・小倉)と、『雲陽軍実記』や『陰徳太平記』に確実に出でくる名前を取り上げて、広瀬少年剣士会がまとめた十勇士。”広瀬少年剣士会”とは、地元の少年剣道団体。『尼子盛衰人物記』妹尾豊三郎 編(広瀬町観光協会 昭和60年(1985年)12月刊行)P271。
  • 天正6年(1578年))7月8日 遠藤勘介宛 山中幸盛書状「吉川家文書」ほか
  • 永禄12年(1569年))12月5日 坪内(次郎右衛門尉)宛 秋上宗信書状「坪内家文書」ほか
  • 永禄12年(1569年))10月1日 富兵部大夫宛 尼子氏家臣連著奉書「富家文書」ほか
  • 元亀元年(1570年))6月8日 掘立壱岐守宛 吉川元春書状「掘立家証文写」
  • 佐々木文書二三六『尼子氏分限牒』。この書は江戸時代に入ってから作成されたとされ、その信憑性については諸説ある。
  • 『雲陽軍実記』第四巻 山中鹿之助、品川大膳、富田川中嶋合戦の事。
  • 『雲陽軍実記』第四巻 山中鹿之助、品川大膳、富田川中嶋合戦の事。
  • 『太閤記』巻十九 山中鹿助伝。
  • 『陰徳太平記』巻四十六 出雲国布部合戦之事。

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