本多忠政
テンプレート:基礎情報 武士 本多 忠政(ほんだ ただまさ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。伊勢桑名藩第2代藩主。後に播磨姫路藩初代藩主。忠勝系本多家宗家2代。正室は家康の孫の熊姫である[1]。
生涯
天正3年(1575年)、徳川家康の重臣・本多忠勝(後に桑名藩の初代藩主)の長男(第3子)として生まれる[2]。
天正18年(1590年)の小田原征伐に初陣し、武蔵岩槻城攻めで功を立てた[2]。慶長3年(1598年)3月、従五位下に叙せられて美濃守と称した[2]。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは徳川秀忠軍に属して中山道を進み、第2次上田合戦にも従軍[2]。慶長14年(1609年)6月に父が隠居したため、家督を相続して桑名藩の第2代藩主となる[2]。
大坂の陣にも参加し、冬の陣では慶長19年(1614年)10月11日に徳川軍の先鋒を命じられた[2]。忠政は大坂城包囲においては北側の天神橋方面に陣取っていた[2]。なお、冬の陣が終わって家康が帰途についた際、桑名で一泊している[2]。なお、冬の陣の休戦和議締結で大坂城の堀を埋め立てた際、埋め立て奉行を松平忠明達と担当している。慶長20年(1615年)の夏の陣では京都御所の警備を勤め、その後に家康の軍勢と南下して5月7日に豊臣方の薄田兼相や毛利勝永らと戦った[2]。薄田軍との合戦には勝利したが、毛利軍との戦いには敗れている[3]。この合戦で忠政は292の敵首をとった[3]。
戦後には、それらの功績を賞されて西国の押さえとして、元和3年(1617年)7月14日に姫路城主となって15万石を領した[3]。寛永3年(1626年)8月に従四位下に叙せられ侍従に任命された[3]。
寛永16年(1631年)8月10日に姫路で死去した[3]。享年57[1]。嫡男の忠刻が寛永3年(1626年)に早世していたため、家督は次男の政朝が継いだ。
人物
- 義兄の真田信之と上田城に真田昌幸を説得しに行ったという話でも有名である。長姉・小松姫の夫である信之とは仲が良かったようである。
- 父の死後、その遺産をめぐって弟の忠朝と争い、相続が認められたものの、家康から「(決定に対して異議を唱えなかった)忠朝のほうが忠勝に似て武将にふさわしい」と皮肉られたという。
脚注
注釈
引用元
- ↑ 1.0 1.1 郡 p.20
- ↑ 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 2.5 2.6 2.7 2.8 引用エラー: 無効な
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