小松姫
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テンプレート:出典の明記 小松姫(こまつひめ、天正元年(1573年) - 元和6年2月24日(1620年3月27日)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての女性。上田藩、のち松代藩の藩主・真田信之(信幸)の正室。徳川氏譜代家臣の本多忠勝の長女(第1子)で[1]、母は側室の乙女。幼名を稲姫(いなひめ)、または於小亥(おねい)と称する。もり姫(奥平家昌室)、本多忠政、本多忠朝の姉。 徳川家康の養女(徳川秀忠の養女という説もある)となり、天正14年(1586年、17年(1589年)あるいは18年(1590年)の説もある)に真田信之に嫁ぐ[1]。信政、信重、まん(高力忠房室)、まさ(佐久間勝宗室)らを生んだ。
生涯
各種史料を基にすると、上田合戦における真田の軍略に惚れ、また恐れた忠勝が真田家を取り込むため、家康に自らの娘を嫁がせることを提案。それに対して家康は、上田合戦後に面会した信之(当時は信幸)の器量に感じ入っており、自陣営の武将として取り込んでおきたいという思いがあったことから快諾、小松姫を自らの養子(一説には秀忠の養子)として、真田家へ嫁がせることとしたようである。なお、小松姫と信之の孫にあたる松代藩3代藩主・真田幸道が幕府に提出した書状には「台徳院(秀忠)」の養女と記されている。
晩年、病にかかり江戸から草津温泉へ湯治に向かう途中、武蔵鴻巣で亡くなり、夫・信之は「我が家から光が消えた」と大いに落胆したという。戒名は大蓮院殿英誉皓月大禅定尼。墓は鴻巣市勝願寺、沼田市正覚寺、上田市芳泉寺に分骨されている。また、長野県長野市松代町松代の大英寺に霊廟がある。上田城内には小松姫が用いたとされる駕籠が残されている。
人物・逸話
- 信之は戦で城を留守にすることが多ったが、彼女に全てを任せることに対し、憂うことがなかった。
- 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの際、徳川方に味方することを決めた信之と袂を分かった舅の昌幸が、居城である上田城に向かう途中、小松姫が留守を守る沼田城に立ち寄ったが、小松姫は敵となった舅の申し出を断って、家臣の家族を城内に囲い、また野営する昌幸軍との争いを統御したため、その手並みを昌幸も褒め称えた。[1]
- 側室との仲も良好で、自身になかなか子どもが出来ないと分かると他に側室を取ることをすすめた。また小野お通の存在は知っていたようで、病に倒れ亡くなる前に「そろそろ京の人を迎えてみてはどうですか?」と言ったという。しかし結局小松姫の死後も彼女が後妻になることはなかった。
- 大阪の陣の後、無事に生還した息子たち二人に向かって(これは信之が言ったとされる説もあるが)「どちらかが討ち死にすれば我が家も忠義を示せたのに」といった趣旨の発言したという逸話が残っている。同時に真田家家臣団には、金子と共に息子たちをよろしくお願いしますと言った内容の書状を送ったという逸話も残っている。
脚注
参考文献
- 西山酉三『豪傑と奥方』 (大学館、1900年12月)