明治神宮野球場

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テンプレート:野球場情報ボックス テンプレート:野球場情報ボックス 明治神宮野球場(めいじじんぐうやきゅうじょう)は、東京都明治神宮外苑に所在する野球場である。

所有者は宗教法人明治神宮であり、「神宮球場(じんぐうきゅうじょう)」の通称で知られる。

概要

東京六大学野球連盟のリーグ戦開催球場として1926年大正15年)に開場以来、アマチュア野球においては大学野球の主要球場として長年使用され、六大学野球のほか東都大学野球1部リーグおよび入れ替え戦を中心に今日まで使用されている。

他にも高校野球の東東京大会および西東京大会や全日本大学野球選手権大会明治神宮野球大会の他、社会人野球JABA東京スポニチ大会。過去には都市対抗野球大会も)など多くのアマチュアの大会が開催されている。日本国内では阪神甲子園球場とならんで「野球の聖地」とうたわれる野球場である。

アマチュア専用として初期はプロ野球公式戦での使用は認められなかったが、徐々に緩和され現在では東京ヤクルトスワローズ専用球場(本拠地球場)として使用している。

なお、本来の表記は「宮」の「呂」の中間の線が入らない『明治神宫野球場』であるが(正面玄関上の球場名の文字看板はこの表記)、一般には常用漢字の「宮」が使用されている(球場公式サイトも同様)。

歴史

建設から戦前まで

神宮球場が完成したのは東京六大学野球連盟が結成された翌年の1926年大正15年)である。明治神宮外苑に明治神宮外苑競技場(現在は国立霞ヶ丘陸上競技場に改築)などの運動施設が建造されるなか建設された。当時の金額で総工費は53万円、うち明治神宮奉賛会が48万円を出費し、東京六大学野球連盟が5万円を本工事に寄付。このことが後述の学生野球の優先使用権につながっている。敷地造成工事に着手したのは1925年(大正14年)12月で、翌年1月に起工式、10月23日に竣功式が行われ、摂政宮裕仁親王(のちの昭和天皇)と閑院宮載仁親王が臨席し、初試合として東京対横浜の中等学校代表および東京六大学選抜紅白試合が行われた。東京六大学はこの年の秋季よりリーグ戦の一部の試合で使用し、1927年昭和2年)からはこの球場を会場として都市対抗野球大会も始められた。

なお、建設されるはるか前、江戸時代は江戸幕府に使えた甲賀者の「百人組」が住んでいた居住地「青山甲賀町」だった。与力、同心の屋敷、鉄砲射撃場などがあったとされ、射撃場のあった場所がちょうど外野ライト前に当たる。忍者頭高峰家の屋敷があった場所が、現在の球団クラブハウスに当たる[1]

早慶戦などで収容能力に不足が見られたため1931年(昭和6年)には東京六大学野球連盟が工費55万円を負担して内野・外野スタンドを増築、球場正面を除いて外形が現在の形となった。公称収容人数は31,000人から58,000人(一説には55,000人、実数としては48,785人とも言われる)に増えている。東京六大学はこの年からリーグ戦の全試合を神宮球場で開催するようになり、1932年(昭和7年)には東都大学野球連盟のリーグ戦も開催され始めた。

建設の経緯、および明治神宮が管理運営するというスタイルから、戦前は「アマチュア野球の聖地」とされ、プロ野球の使用は論外という雰囲気があった。読売新聞社長の正力松太郎は「将来プロにする」ということを伏せて全日本チーム(後に読売ジャイアンツとなる)を組織し、1934年(昭和9年)にアメリカメジャーリーグの招待試合を神宮球場で開催した。正力は翌年2月に右翼に切りつけられる事件に見舞われたが、犯人が取り調べで述べた動機には「読売がアメリカの野球チームを招き神聖な神宮球場を使ったこと」が、天皇機関説支持とともに挙げられており、当時の風潮がうかがえる。

第二次世界大戦前後

日中戦争勃発後の1938年(昭和13年)には都市対抗野球大会が完成直後の後楽園球場に会場を移し、さらに1943年(昭和18年)には太平洋戦争の激化により文部省からの通達で、東京六大学と東都は共に解散となってしまった。1945年(昭和20年)5月には、アメリカ軍による東京大空襲(山の手大空襲)によって被災し、火災によって一部が崩れ落ちた。

日本の敗戦後には、日本占領軍であるアメリカ軍により接収され、連合国軍専用球場として 「Stateside Park(ステイトサイド・パーク)」の名称で使用された。

それでも終戦年である1945年(昭和20年)には日本人の使用にも開放され、東京六大学OB紅白試合、オール早慶戦、職業野球東西対抗戦などが行われた。このうち、東西対抗戦はプロ野球発足後に当球場で初めて開催されたプロの試合である。1946年(昭和21年)からは東京六大学と東都が復活、春季は神宮球場での試合は認められなかったが秋季から一部の試合で開放されている。帝国主義者を養成してきた東京大学に球場を使用させないというのも接収が1952年まで続いた理由の1つであった。

1946年(昭和21年)5月から6月にかけ連合国軍により修復工事が行われ、照明設備が新たに設置され内野にも天然芝が敷かれている。この時期には球場初のプロ野球公式戦、全日本大学野球選手権大会の前身である大学野球王座決定戦、第1回目のプロ野球日本選手権シリーズ第1戦(当時の呼称は「日本ワールドシリーズ」)などが開催されている。東京六大学は上井草球場などと併用してリーグ戦を行っていたが、1950年昭和25年)秋季より全試合での開催を認められている。ただし連合国軍による接収が解除されて明治神宮に返還されたのは、サンフランシスコ条約の発効間近である1952年昭和27年)3月のことである。

プロ野球球団の本拠地へ

連合国軍による接収解除後は内野天然芝と照明が撤去され、バックネット裏前列に1953年(昭和28年)から放送が開始されたテレビ放送席が新設されている。1962年には相撲場跡地に第2球場が完成した。

1962年(昭和37年)からは閉鎖される駒澤野球場の代わりとして東映フライヤーズ(現・北海道日本ハムファイターズ)が使用を開始し、次いで1964年(昭和39年)に後楽園球場から国鉄スワローズ(現・東京ヤクルトスワローズ)が、東映と入れ替わるように移転している。これらの動きには学生野球界は強く反対したものの、結局は認められた(詳細は後述)。

相次ぐ改修

東映の使用開始時の1962年にはバックネット裏の増築、ナイター設備新設、ラッキーゾーンの設置といったプロ基準に合わせる改修を施した。さらに1967年(昭和42年)にはホームベースを動かすなど当時の標準的な球場に近づける大改修が行われた。その後幾たびも改修が重ねられ、個別座席・人工芝グラウンド・照明塔・電光スコアボードなどが取り入れられている。

近年では収益を優先する動きもあり、1981年に一度は廃止されたフェンス広告をのちに再開した。またコンサートなど大型イベントの開催も行うなどの動きもある。

収益の高いプロ野球を人気の低下が見られる学生野球より優先しようとする意見もあるが、優先度の変化のみで学生野球優先の方針は維持されたまま現在に至っている(詳細は後述)。2007年平成19年)11月24日からは大規模な改修工事を実施し、2008年(平成20年)3月6日に竣工式が行われた。スコアボードの全面フルカラーフリーボード化やフィールドの拡張、ロングパイル人工芝への張替えなどを行った。総工費は約15億円。

2011年(平成23年)シーズンからボールカウントの表示方式を、日本国内で旧来使用されていた「SBO」(上からストライク、ボール、アウト)順から、国際ルールに則した「BSO」順に変更した。当球場のカウント表示はコンピューターグラフィックスを使用しているため(後述)表示部分の改修は必要なく、ソフトウェアの更新などで対応した。同年には内野席に、2013年には外野席にウッドデッキ調の特別席が設置された。

2013年オフからは3年計画でスタンドの老朽箇所の改修と、耐震補強工事を実施する[2]。工事は継続的に野球の試合に利用できるようにするため、シーズンオフ(年度下半期)のみに限定し、2016年3月の完全竣工時に耐震改修促進法に基づく耐震認定の検定を受ける予定としている。第1期(2013年度)は内野正面スタンド部(屋根を除く)、第2期(2014年度)は1・3塁側内野スタンドと正面スタンドの屋根、第3期(2015年度)は外野席の改修を予定している。また外壁の改修は耐震補強工事に従って順次行う。正面スタンドは一部が耐震補強壁となることから歴史性を忍ばせ、耐久性に優れたレンガ素材を使用した壁面を使用する。正面スタンドの大屋根は鉄製からテフロン製テント膜に変更される予定。

また正面スタンドの大屋根は現在の鉄骨骨組を補強した際は、2階席から視界が遮られてしまうので、鉄骨の骨組みを盛替えて改修する。屋根の軽量化を図るためにこれまで使用していた鉄板からテフロン膜を使用することで、最小限の構造部材でくみ上げられるような形状とする予定。

建て替え計画

東京都は2021年から神宮外苑の再開発を行う構想を打ち出している[3]。この構想では隣接する秩父宮ラグビー場を解体後に新球場を建造し、その完成後に現球場を解体、ラグビー場を建造することになるほか、周辺の施設も再開発することになっている。2013年現在はまだ地権者との話し合いが行われている段階である。

年表

  • 1926年大正15年) - 10月に完成。東京六大学野球連盟の使用開始。
  • 1927年昭和2年) - 米ニグロリーグ選抜との日米親善試合が行われる。ビズ・マッキーが球場初の本塁打を放った。またこの年より1937年(昭和12年)まで都市対抗野球大会が開催された。
  • 1931年(昭和6年) - スタンド増築工事竣工。初めてバックスクリーンを採用。
  • 1932年(昭和7年) - 東都大学野球連盟の使用開始。
  • 1934年(昭和9年) - 日米親善大会として行われたアメリカ大リーグ選抜チームと全日本チーム(読売ジャイアンツの原型)の対戦でプロが初めて神宮球場を使用。
  • 1943年(昭和18年) - 東京六大学と東都が解散。リーグ戦中断。
  • 1945年(昭和20年) - 空襲により一部損壊。終戦後にアメリカ軍に接収され、「STATESIDE PARK」(ステイト・サイド・パーク)と改称される。
  • 1946年(昭和21年) - 修復工事実施。内野天然芝・照明設備完成。秋季シーズンより東京六大学の使用再開。
  • 1948年(昭和23年) - プロ野球公式戦初試合[4]金星スターズ中日ドラゴンズ戦)と大学野球王座決定戦(第2回、以降1951年(昭和26年)まで)開催。
  • 1950年(昭和25年) - 第1回日本シリーズの第1戦(毎日オリオンズ松竹ロビンス戦)が行われる。
  • 1952年(昭和27年) - 明治神宮に返還される。内野天然芝・照明設備撤去。第1回全日本大学野球選手権大会開催(以降毎年開催)。
  • 1958年(昭和33年) - スコアボード改修。
  • 1962年(昭和37年) - 東映フライヤーズが使用開始(1980年(昭和55年)まで)。ラッキーゾーンがプロ野球開催時のみ登場。バックネット裏スタンド拡張。同年6月には照明設備が完成。
  • 1964年(昭和39年) - 後楽園球場より移転した国鉄スワローズ専用球場となる。東映フライヤーズは後楽園球場に事実上移転。
  • 1965年(昭和40年) - ラッキーゾーン固定、金網フェンスを従来のコンクリートフェンス内側に設置。
  • 1967年(昭和42年) - スタンド・グラウンド改築。グラウンドを縮小(一部拡大)、ラッキーゾーン廃止。
  • 1969年(昭和44年) - フェンス広告設置。
  • 1970年(昭和45年) - 金網フェンス廃止。コンクリートフェンスにラバーを貼り付け。第1回明治神宮野球大会を開催(以降毎年開催)。
  • 1972年(昭和47年) - 第1回日米大学野球世界選手権大会開催(以降不定期開催)。
  • 1973年(昭和48年) - ロッテオリオンズが主催試合の一部で使用する(1977年(昭和52年)まで)。
  • 1975年(昭和50年) - 照明塔ランプ改良。
  • 1976年(昭和51年) - 神宮球場竣工50周年記念試合として東京六大学選抜対東都大学選抜の対抗試合を実施。
  • 1978年(昭和53年) - 外野席改修工事完成。芝生席をプラスチック製の座席に変更。ヤクルトスワローズが初のリーグ優勝。但し、この年の日本シリーズは開催されなかった(下記参照)。
  • 1980年(昭和55年) - 電光スコアボード完成、看板広告を設置。ファウルグラウンド人工芝を敷設。アーケード部分に塗装が施される。8月1日、明治神宮鎮座60年を記念し、第1回神宮外苑花火大会を開催(以後毎年開催)。
  • 1981年(昭和56年) - フェンス広告抹消。フェンスを濃い緑色に変更。
  • 1982年(昭和57年) - フェアグラウンドに人工芝敷設。フェンスを青色に変更。こけらおとし興行として東京六大学と東都の前季優勝校対決を実施。塁ベースを黒土からアンツーカーに変更。
  • 1983年(昭和58年) - マウンドおよびブルペンをアンツーカーに変更。ネット裏にブリヂストンの電動式広告設置。
  • 1985年(昭和60年) - 内野側照明塔4基建て替え。
  • 1986年(昭和61年) - 外野側照明塔2基建て替え。8月井上陽水安全地帯のジョイントコンサートのほか、大沢誉志幸中村あゆみのコンサートを開催。
  • 1987年(昭和62年) - 外野身障者席・トイレ新設。
  • 1988年(昭和63年) - 野球規則の一部変更に対応しマウンドの高さを変更。併せて人工芝も全面張り替え。
  • 1989年(昭和64年・平成元年) - ファウルポールの塗色を黄色から白色に変更。
  • 1992年(平成4年) - ヤクルトスワローズ主催の日本シリーズをこの球場では初めて実施し、デーゲームで行われた。なお、学生野球はナイトゲームで実施。
  • 1993年(平成5年) - 内野部分の人工芝張り替え。内野席の椅子を折り畳み式に取替え。
  • 1995年(平成7年) - スコアボードを改修、カラービジョンを設置。外野フェンス上部に1.5mの金網フェンスを追加。
  • 1996年(平成8年) - 神宮球場竣工70周年記念試合として東京六大学選抜対東都大学選抜の対抗試合を実施。
  • 2000年(平成12年) - 8月12日13日THE ALFEEコンサート開催。
  • 2001年(平成13年) - 内野フェンス改装に伴い、大学野球用の応援台設置用金具をフェンス支柱と一体化(応援台の所有者は東京六大学応援団連盟)。
  • 2003年(平成15年) - 内野部分の人工芝張り替え。
  • 2005年(平成17年) - 第1回セ・パ交流戦(ヤクルトスワローズ対福岡ソフトバンクホークス戦)開幕試合開催[5]
  • 2006年(平成18年) - 広告を大幅変更。11月4日、明治神宮外苑の創建80年を記念して、東京六大学選抜対東京ヤクルトスワローズのプロ・アマ交流試合開催。
  • 2008年(平成20年) - スコアボードを全面LED化、グラウンド拡張、ロングパイル人工芝導入。
  • 2011年(平成23年) - 内野スタンドにウッドデッキ調の特別席「Pontaドリームシート」を設置。
  • 2013年(平成25年) - 外野スタンドにウッドデッキ調の特別席「セブン-イレブンデッキシート」を設置。オフより改修・耐震補強工事を開始。
  • 2016年(平成28年) - 改修・耐震補強工事終了予定。

プロ野球

東映の使用

1961年(昭和36年)、東映フライヤーズ(現:北海道日本ハムファイターズ)の本拠だった駒澤野球場が、東京オリンピック(1964年)の開催に伴い東京都から用地返還を求められたため、閉鎖されることになった。東映は次の本拠を探す中で、明治神宮側へ神宮球場の隣に建設中だった第2球場の使用を申し出た。一度は断られたものの原因を作った都に仲介を持ちかけ、結局は学生野球の試合が開催される場合それを優先すること、6月から9月にナイターで試合を行うことなどを条件に、1962年から神宮球場の方を使用することが認められた。あくまでも仮の処置であり、後楽園球場や東京スタジアム(1962年6月完成)と併用する形で、主催試合数の半数近くが神宮で開催され事実上の専用球場とされた。球場別試合数では神宮が多かったものの、これは半数以上の試合開催を求める現在の日本プロフェッショナル野球協約では認められない試合数である(1962年:神宮32試合、後楽園24試合、東京3試合、その他6試合、1963年:神宮31試合、後楽園26試合、東京18試合)。

その年、パ・リーグ優勝を果たした東映は日本シリーズ阪神タイガース戦の主催3試合中第3、4戦の2試合を開催。第5戦は学生野球優先の取り決めもあり後楽園球場で開催された。また1963年(昭和38年)には東京オリンピックの協賛チャリティーというサブタイトルでオールスターゲームを初開催した。

1964年(昭和39年)から国鉄スワローズが神宮球場を正式に専用球場としたため、その年の東映は日程の余裕が出る後楽園球場で主に試合を開催し(後楽園46試合、神宮25試合、その他3試合)、翌1965年(昭和40年)より正式に後楽園球場を専用球場として結果的に入れ替わることになった。ただし試合数を段階的に減らしながらも1980年(昭和55年)まで準本拠地として使用している。

ヤクルトの本拠地

1963年(昭和38年)のシーズン終了後、今度は後楽園球場を専用球場としていた国鉄スワローズ(現・東京ヤクルトスワローズ)が第2球場を専用球場にしたい意向を明らかにし、産経新聞フジテレビが主体となって具体的な改装計画まで明らかにしたものの、日本学生野球協会は反対の意向を表明。更に学生野球が将来神宮球場から追い出され、第2球場に追いやられるのではという噂まで流布し、国会の文教委員会でも問題となり、更には右翼団体までもが介入し今村均元陸軍大将までもが神宮プロ野球進出反対運動に担ぎ出されたという。結局、第2球場はアマチュア専用にしたいという管理者の意向や、プロ側が要求する球場設備を満たすための拡張用地の確保が既に無理なこともあり、第2球場の使用は却下され改修工事は第1期工事で中断となった。代わりに、国鉄の専用球場として1964年(昭和39年)のシーズンより神宮球場の通年使用が認められた。これは、国鉄を実質的に経営していたフジテレビに対して後楽園球場のテレビ中継権が与えられていなかったことと、それに付随してフジテレビが国鉄戦テレビ中継を強化したかったこと等も絡んでいる[6]。プロ使用への反対はすぐになくなったわけではなく、1965年2月の衆議院体育振興特別委員会では自民党川崎秀二議員が「外苑の経済的維持が困難なら、国立野球場にしてもよいのではないか。またプロ球団に貸さなくても外に財源の道はあるのではないか」と質問したり、予算委員会で愛知揆一文部大臣が「プロ野球の根拠地となることは歓迎できない」と発言するなど、保守系の議員から国会で反対する意見が出されていた[7]

国鉄はプロ野球球団で初めて神宮球場を専用球場にしたものの、球場側には東映と同様に学生野球を優先することを求められた。そのため神宮でのデーゲームは例年、学生野球の行われない時期(4月上旬・6月下旬・9月上旬)に限定される(8月は暑さのため自発的に行わない)。2004年平成16年)まで毎年5月下旬に行われていた千葉マリンスタジアム(現・QVCマリンフィールド)での公式戦は、同時期に神宮で行われる早慶戦の開催を考慮したものである。一般的にプロ野球では試合前の練習を球場のグラウンドで行うが、神宮球場では日中に学生野球の試合が行われる際に外野側場外にある軟式野球場や屋内練習場を使って行われる。2008年(平成20年)までは試合開始時間をずらすことも行われた(詳細は後述)。

1978年昭和53年)にはヤクルトスワローズ(1974年に改称)が初めてリーグ優勝したものの、東京六大学が優先され日本シリーズ(対阪急戦)は後楽園球場で振り替え開催された。その後東京六大学、東都大学両野球連盟との調整により、1992年と翌1993年の日本シリーズ(いずれもヤクルト-西武戦)では、ヤクルトのホームゲームが初めて神宮球場で開催された(デーゲーム。これに伴い大学野球はナイトゲーム開催)。以降、日本シリーズのヤクルト主管試合は全て神宮での開催となっている。1992年には、日本シリーズの表彰式終了直後に六大学野球の試合が行われたため、普段よりはるかに多い観客が六大学の試合を観戦したというエピソードが残っている。1995年(平成7年)以降は日本シリーズがナイター開催となったため、シーズン中同様に大学野球はデーゲームで開催されている。このほかにも1970年代初め頃まで大学野球との日程の絡みで、消化試合を神宮で行えず川崎球場や東京スタジアム、横浜公園平和野球場(現・横浜スタジアム)を借りて行った事例もある。

神宮球場はヤクルトの本拠地ではあるが昔からビジターチームのファンが多い。レフトスタンドは大抵の試合でビジターチームのファンで埋まり、特に読売ジャイアンツ阪神タイガース戦の際にはライトスタンドを除いて巨人・阪神ファンが大半を占めることも珍しくない。加えてヤクルトは1990年代は何度も日本一になったりして人気球団だったが、近年の成績低迷でファンが減少したため、この差はより顕著である。古田敦也が監督就任時に「東京」ヤクルトスワローズへの改称やユニフォームの一新など、「神宮をヤクルトファンで満員にしよう」の合言葉のもと進めた「F-PROJECT」発足の理由の1つとして、この状況が挙げられる。

ロッテの使用

1972年(昭和47年)オフの東京スタジアムの閉鎖に伴い本拠地を失ったロッテオリオンズは、金田正一監督在任時代の1973年(昭和48年)から川崎球場に移転する前年の1977年(昭和52年)まで主催公式戦の一部を神宮球場で開催した。

1973年のパ・リーグ(前期)でロッテは南海と熾烈な優勝争いを展開。優勝がかかった6月の対日拓ホーム3連戦では1試合あたり6万人ものファンが詰めかけロッテ優勝の瞬間を見届けようとしたが、ロッテは惜しくも前期優勝を逃している(この頃のロッテについてはジプシー・ロッテを参照)。

優先使用権

神宮球場が他の球場と決定的に違うのは、学生野球(東京六大学と東都)に優先使用権が認められていることである。これは神宮球場の建設と拡張に東京六大学連盟の尽力や資金提供があったという事実からである。また、所有者の明治神宮がアマチュア野球を優先してきたという歴史的な経緯もある。しばしば他の一般的なプロ野球の本拠地球場になっている球場と同じように「神宮球場はスワローズの本拠地で大学野球は間借りしている」と誤解されることがあるが、スワローズが間借りしているのが事実である(ただし他の球場も大半は球団所有ではなく間借り)。収益力の高いプロの日程を最優先させるべきだとの意見は以前から一部にはあり、時代の経過とともに大学野球全体の人気の低下がその声を後押しする傾向が強まり、近年は興行収入の問題から大学連盟側がヤクルト球団側に譲歩するようになってきている面もある。ただし、神宮球場側の基本的な認識は、前述の歴史的な経緯から、現在でも球場使用の割り当ての最優先権を東京六大学野球連盟に与えている。

明治神宮とヤクルト球団は、神宮球場の使用契約を1年ごとに更新している。このことが、度々取り沙汰されるヤクルトの他地域への移転の根拠として挙げられる。

プロ野球(ナイター開催)と大学野球(日中開催)の併用日には、大学野球の試合開始時間を通常より30分ないし1時間早めたり(東京六大学と東都では別の処置となる)、延長なしの9回打ち切りとなる。2009年平成21年)からは併用日でもプロ野球の試合開始時間が18時となっているが、それまでは遅らせて試合を開催していた。1989年(平成元年)までは一律18時30分、延長戦が15回までに変更されたことをきっかけに1990年(平成2年)から2008年(平成20年)まで18時20分開始となっていた(併用日以外は一部年度を除いて18時)。大学野球が長引いた場合は試合開始時間を遅らせる処置が取られている。このように学生野球のスケジュールが優先されてきたが、1985年(昭和60年)10月16日阪神タイガースが21年ぶりのリーグ優勝を決めたヤクルト対阪神戦の試合当日は、日中に予定されていた東都大学リーグの試合が延期される事態となった。これは前日から阪神ファンが球場前に多数詰め掛けたため、学生野球の試合を開催した場合の混乱を避けるべくなされた措置で、当球場始まって以来の異例のものであった。

ヤクルトではオープン戦期間中と、公式戦でも主として学生野球の試合が組まれない4月初旬、ないしは9月初旬にデーゲームを組むことがある。1990年以降、神宮でのデーゲームは1991年平成3年)と2001年(平成13年)の4月に各2試合開催したのみだったが、近年は大学野球側との折衝交渉を積極的に行うようになり開催数が若干増加している。2005年(平成17年)は6月4日5日東北楽天ゴールデンイーグルス戦、6月18日西武ライオンズ戦(交流戦予備日)と7月2日3日中日ドラゴンズ戦をデーゲームで開催した。更に2006年(平成18年)、「F-PROJECT」の一環としてデーゲーム開催数の増加について大学野球側と折衝を行った結果、前年に引き続き6月3日4日に加えて、従来の東都大学野球連盟のリーグ戦使用分であった5月3日4日もデーゲーム開催(東都大学リーグ戦はナイター開催)に変更した。

2011年(平成23年)も東日本大震災による省エネ・節電の対策により4月の公式戦・ヤクルト主催試合の一部をデーゲームで行うことになり、東京六大学・東都大学両野球連盟の協力を得て、プロと同日開催である場合、学生野球の試合は1試合に減らし(それも午前9時開始)、プロ野球の試合を午後から開催できるようにした。

学生野球の使用割り当てを優先的にするのは、あくまで基本的には春先に行われるその年度の球場使用割り当てを決定する場合においてである。一年を通して、春先に決定した内容が年間を通して遵守される。後日に順延等の都合で調整が必要な場合は、基本的に未使用で空いている日時をやりくりして調整を行うことになる。この手の誤解を招く元になっている代表例として、東京六大学(以下、六大学)と東都の関係を紹介する。

大学野球のリーグ戦期間中は、基本的に六大学が土曜日 - 水曜日、東都が木曜日・金曜日の割り当てとなっている。実際には東都が火・水の日程で組まれているが、これは「六大学のリーグ戦期間中で六大学が使わない日は東都側が使用しても構わない」という六大学と東都間の従来からの協定に従ってのものである。そのため六大学が順延などで月曜までにその週の対戦(前週の未消化試合がある場合はそれも含む)が決着しない場合は、翌日以降も六大学の開催日に変更される。東都の開催日はそれに従い順延され、最悪木・金のみに変更されることもある。この順延の制度のためいつでも六大学が自由に使えるという誤解が一部に生じている。事前の球場使用割り当て時では六大学のリーグ戦の日程および六大学連盟からのその他の使用申し出に従った割り当てを優先的に行う(従来から行われている使用申請がほぼ認められる)が、リーグ戦期間外では優先権はない。そのためリーグ戦後に行う新人戦と、リーグ戦が消化しきれなかった場合では六大学が優先的に割り込めるわけではない。東都側についても同様で、リーグ戦期間外でも東都が木・金曜日を自由に使えるわけではない。シーズン固有の事情などにより事前に何らかの使用権が成立している場合は例外となる。球場の年間使用スケジュールの概況は例年の「神宮球場ガイドブック」春季号に掲載される。

学生野球とプロ野球が同日に開催される場合、観客は通常入れ替え制とするのが原則である(学生野球の観客がすべて出場してから、プロ野球の観客を入場させる)。ただし、曜日・注目カード・優勝決定等の理由で入場待ち列が長くなり、神宮外苑内に並ばせる余地がない場合は学生野球の試合中にプロ野球の観客を入場させることがある。下記はその一例(六大学野球・東都大学野球の双方で例外入場歴あり)である。

  • 1997年(平成9年)9月28日 - ヤクルトの優勝がかかった試合・日曜日などの条件が重なり、さらには隣接する国立競技場でサッカーフランスワールドカップ予選の日韓戦が行われており、神宮周辺は史上最高の人出と言われるほどにまでなったため、外野自由席の客を東京六大学の試合中に入場させた。六大学野球でも高橋由伸慶應)が田淵幸一の持つリーグ戦通算本塁打記録を更新する可能性があり、こちらも多くの集客があった。高橋はヤクルトファンで埋まったライトスタンドにホームランを打って記録を更新している。
  • 2007年(平成19年)10月7日 - ヤクルトの大功労者である古田敦也の引退記念試合であり、日曜日ということもあって早朝から多数の観客が詰めかけたため、東京六大学の試合中に入場させた。

施設概要

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神宮球場の空撮写真(1989年撮影、国土交通省提供)

明治神宮野球場

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球場データ

  • 所在地:東京都新宿区霞ヶ丘町3-1
  • 1926年大正15年)10月完成
  • 収容人数:35,133人
  • グラウンド面積:12,659m²
  • 両翼:97.5 m、中堅:120 m
  • 外野フェンスの高さ:3.3 m(ラバーフェンス:1.8 m+金網フェンス:1.5 m)
  • 内外野:全面透水性モノフィラメント・ロングパイル人工芝住友ゴム工業製 ハイブリッドターフET-62、パイル長62mm)
  • スコアボード:全面フルカラーLED式2基
    • メインスコアボード:東芝ライテックスーパーカラービジョン、表示部大きさ:H 12 × W 27.2m、面積:326.4m²、1,170インチ相当。
    • サブスコアボード:東芝ライテック製 スーパーカラービジョン、表示部大きさ:H 3.6 × W 6.4m、面積:23.04m²、289インチ相当。

グラウンド

1967年昭和42年)から2007年平成19年)までの公称は両翼91m、中堅120mで、グラウンド面積は12,525m²であった。野球場研究家の沢柳政義によれば左中間は112.3m、右中間は112.2m。この広さは1967年の改修当時において標準的なものであったが、1980年代後半以降から日本各地で公認野球規則1.04(両翼は約99.1m、中堅は約122m)に合わせた球場が増えたために相対的に狭くなった。特に両翼は拡張される前の時点でプロ野球の本拠地球場としては最も距離が短く、そのためにファウルポール際の打球は詰まった当たりや低いライナーなどが容易にスタンドインしてしまうことが目立っていた。これを改めるため、2007年オフには改修に着手、両翼の距離は97.5mに拡張された。この際は101mに拡張したと発表されていたが、2013年オフに耐震工事開始前の測量を行った際に誤りだったとされ訂正された。ただしそれ以前から97.5mとする資料も存在する[4]

拡張されて両翼97.5m、中堅120mとなったがこの数値は他のプロ野球の本拠地球場と比較すればまだ狭いものである。また左・右中間から両翼にかけて拡張された面積は僅か134m²でフェンスは直線となっており、東京ドームに似たような広さ・形状となっている。ファウルゾーンはバックネットが直線状であるためダッグアウト前がやや広めである。外野側ファウルゾーンには2組の屋外ブルペンがあるが、プレイングフィールド内にブルペンがあるのは日本プロ野球12球団の本拠地球場中唯一である。ブルペン側のスタンド下にはダッグアウトと別にリリーフピッチャー用の控え室が用意されている。グラウンドは全面ロングパイル人工芝であり、ベース付近やマウンドなどにはアンツーカーを主に使用した土が敷かれている。

完成当初は両翼100 m、中堅118 mでグラウンド面積は13,566m²。内野がクレー舗装(黒土)、外野が天然芝であった。当時としてはかなり広大なものであり、東京六大学ではエンタイトルツーベースを“エンタイトルスリーベース”とするオリジナルルールを適用していた。1962年には東映フライヤーズの要請により、プロ野球開催時のみ左・右中間から両翼にかけてラッキーゾーンを設置した。設置時の両翼は91.4mであった。1965年には前年の東京六大学の試合において、外野手がコンクリートフェンスに激突して怪我を負った事故の対策としてラッキーゾーンが固定式になり、他のコンクリートフェンスの内側にも金網フェンスが付けられた。さらに1967年、ホームベースの位置を中堅方向へ8.5m移動し、内野スタンドと外野スタンドの両翼側を内側へ増築、外野スタンドの中堅部分を削る工事を行った。この工事により両翼が91m、中堅が120m、外野フェンスの高さが1.8mとなり、当時としては標準的な広さとなった。ラッキゾーンは廃止されたが危険防止用の内側金網フェンスは存続、のち1970年に全面ラバーフェンスとなった。

1980年昭和55年)、ファウルグラウンドにのみ人工芝を敷設してテストし、1982年から全面透水性人工芝化。日本初の透水性人工芝と謳われた。マウンドなど土の部分は当初黒土のままであったがまもなくアンツーカーへ変更された。その後、1988年1993年(内野のみ)・2003年(内野のみ)・2008年と張替えを行っている。ロングパイル人工芝となったのは2008年からで、それに合わせ人工芝下の舗装と暗渠も全面改修され、古くなった人工芝は隣接の第2球場に使われた。なお過去にも当球場で使われた人工芝は戸田球場東京大学のグラウンドで再利用されている。1995年平成7年)には人工芝の導入により増加していたエンタイトルツーベースへの対策として、ラバーフェンスの上部に1.5mの金網フェンスが追加され、全体で3.3mとなった。

スタンド

完成当初の公称収容人数は31,000人で、外野スタンドは芝生席、内野スタンドはベンチシート。バックネット裏最上段には貴賓席が設けられた。景観に配慮された設計となっており、貴賓席からレフト場外にある聖徳記念絵画館全体が見えるように高さを調整するため、外野スタンドは内野スタンドに比べ小さく、傾斜も緩くなった。58,000人収容となる1931年の増築ではそのまま外側に継ぎ足すように行われ、内野スタンドと外野スタンドの奥行きが同程度となった。傾斜に関してはそのままとなったため内野スタンドの外野寄りは、外野席側にやや傾きのあるようになった。スタンドの増築分の下にはコロッセオをイメージしたアーケードが作られたが、バックネット裏の球場正面部分は増築されずそのまま残された。

東映フライヤーズが使用を開始した1962年昭和37年)には球場正面部分も増築し、2階席が作られてその下に貴賓席や放送席が設けられた。1967年(昭和42年)の改修ではスタンドの傾斜の見直しと共に座席の前後幅を広げ、背もたれ付きの個別座席も設けられるようになった。その後は断続的に日本人の体格向上に合わせる座席の更新を行ったため収容人数は減少し、1998年平成10年)には公称が45,000人になった。2000年代には収容人数を実数の36,011人と訂正、さらに外野スタンドを削った2008年(平成20年)の改修で収容人数は35,650人となった。なお2008年の改修ではバックネットも鋼製から繊維ネットに張り替えられた。2011年(平成23年)にはボックス式のテーブルシートのPontaドリームシートが設置されて収容人数は35,429人となり、2012年にもPontaペアシートが増設され収容人数は35,133人に、2013年にもセブン-イレブンデッキシートが設置されて収容人数は34,572人となった。

プロ野球の本拠地球場としては延床面積が狭いなどやや施設面で欠点を抱えている。球場外の通路が駐車場として使用されており、試合終了後は観客の通行に支障が出る場合もある他、スタンドの面構成も適切とは言えないものとなっている。1967年(昭和42年)の改修で増設されたスタンドの前方(下段)は内野席、外野席とも傾斜が緩く(中堅部分になるにつれ解消される)、特に外野側(ヤクルト試合時の外野指定席)の一部では、前の客の頭でグラウンドが見えづらい席もある。一方、スタンドの後方(上段)は勾配のある造りとなっているものの、段差が不規則であることから、席により観戦のしやすさはかなり異なる(特に内野寄りにある外野席のはね上げ式座席部分)。選手用のスペースも小さく、クラブハウスと球場との行き来の際は内野スタンドと外野スタンドとの間にある通路から入り、ここからベンチへはグラウンド内を歩いていく。試合前や勝利後はファンとの触れ合いが見られる一方、連敗や惨敗した日は観客からの罵声や野次が飛び交い、時には物が投げ込まれるなど特にビジター側の選手にとっては「つらい移動」と呼ばれている。試合後の移動では取材陣がコメントを取るために監督や選手を囲んでいる様子が見られる(いわゆるぶら下がり)。なお、スワローズの選手は通路とクラブハウスの間は原則として地上を歩いて行くが、地下道もあって選手の移動に支障がある場合に使用される。この地下道は荒木大輔が入団時、ファンに囲まれて身動きが取れなくなるのを避ける為に設置されたため、通称「大輔トンネル」もしくは「荒木トンネル」と呼ばれている(燕太郎は荒木トンネルで生まれたという設定)。ビジター側は通路とクラブハウスが陸橋で繋がっている。

1・3塁のスタンドには、大学野球の応援用に使用するパネルを設置するための金具が設けられている。2011クライマックス・セ1stステージのヤクルト対巨人戦(10月29日 - 10月31日)は、早慶戦と日程が重複したため、慶応の応援団が陣取る3塁側の応援パネルが撤去されずそのままの状態で飾られた中で試合が行われた。

禁止事項

周辺住民に配慮し太鼓を叩いての応援は原則的には禁止。テンプレート:要出典範囲

2009年5月よりジェット風船の使用を禁止している。当初はライトスタンドのみ禁止されていたが、新型インフルエンザの日本国内での感染拡大を受けて、他球場に倣い同年5月から使用自粛を呼びかけ、6月から球場周辺への風船ゴミ飛散防止と観客の衛生面への配慮を理由に全面禁止に移行した。

スコアボード

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神宮球場 電光式スコアボード(2007年)
ファイル:20071007 jingu score interval.jpg
2007年当時のプロ野球開催時の表示。選手名表示部には出場各選手の打率・本塁打数を表示。審判名はイニング間に不定期で表示される(2007年10月7日・ヤクルト対広島最終戦にて)
ファイル:明治神宮野球場ー1.JPG
東京六大学野球平成24年秋季リーグ戦早慶戦
ファイル:明治神宮野球場ー3.JPG
東京六大学野球平成24年秋季リーグ戦表彰式

完成当初はパネル式。1958年昭和33年)に新装され、得点表示部分が巻き取り式となった。1980年(昭和55年)には電光化、次いで1995年平成7年)に高輝度放電管に置き換わって、フリーボードがスーパーカラービジョンとなりフルカラー化された。さらに2008年(平成20年)にはLEDによる全面フルカラーフリーボードとなった。屋外野球場としては国内最大規模の表示面積を誇る。映像表示時は画面アスペクト比16:9ワイドサイズのデジタルハイビジョンに対応している。電光化以降、独特の表示方式を用いており2008年の全面フリーボード化以降もこの方式がCGによってほぼ踏襲されている。特色として以下の点があげられる。

  • 大時計及び両端の広告のレイアウトはかつて存在した後楽園球場および大阪球場と同じで、SEIKO製である。広告主がない時期は「JINGU」「STADIUM」と表記している。
  • 電光化されたと同時に選手名表示部には出場中の全選手の打率・本塁打数を表示することができる。2007年までは両チームとも常時表示していたが、全面LED化後から試合中は広告スペースとなり現在打席に立つ打者の成績のみをスコアボード上部に表示している。選手の登録名に従って旧字体はそのまま表示される。また指名打者制に対応するため選手名の枠が10名分あり、指名打者制がない場合でも空欄の枠が表示されている。また、2008年からはデーゲームとナイトゲーム文字のカラーレイアウトを変更、デーゲームでは新しい表示方法として選手名を白文字・打順など表記を橙文字、ナイトゲーム(なお、デイゲームでも延長などで18時を過ぎるとナイトゲームレイアウトに変更される)ではその逆で従来のスコアボードのレイアウトを継承し、選手名を橙文字、打順など表記を白文字とし、それぞれ視覚性の向上を図っている。
    • 電光化直後は選手名の表示部分が9名分しかなかったため、指名打者制を使用する試合では投手名をチーム名表示の箇所に、後に中央下部にあるビジョンの両端に表示されていた。
  • 得点表示部には各イニングの得点と合わせて安打数も表示される。ただし写真にあるように高校野球等、一部ヒット数の表示がされない場合もある。その関係で通常は得点表示部の上に出すイニング表示が上下のスコア表示部の間にある。また総得点の右横に並べることの多いチームの総安打数は総得点の上側に表示される。エラー数はチーム全体で得た四死球の数と共に、普段何も表示されていない中央下部の両サイドに表示される。イニング表示は9回までで10回以後は一度表示をクリアした上で1回のところから表示する。この場合は最大18回まで表示できるが、規定以上の回は空欄となっている。
    • 電光化前はイニング表示が15回まで用意されていた。これは、東京六大学野球の引き分け規定が延長15回まで(一時期、場合により18回まで)であったためである。電光化直後は、9イニング分までしか枠がなかったため、延長10回時に「計」の部分(スコアが2桁となった場合の十の位の部分)を代用し、合計得点が表示できないでいたが、カラービジョン設置以後は10回の枠もあり、延長戦でも合計得点の表示が出来るようになった。
    • パネル式の時代は1イニングの得点は最大9点までしか表示が出来なかった。このため、1969年5月27日に当球場で行われたアトムズ戦・6回において、阪神が達成した当時の1イニング最多得点・13点を直接は表示できなかったため、6回にとりあえず9点を表示し、残り4点分は10回表の欄に表示して間に合わせするという異例の事態があった。
    • カラービジョン前の1994 - 2007年は、東京ヤクルトスワローズのチームロゴ表記が「Ys」でなく「S」となっていた。また横浜ベイスターズ(1993 - 2007年)は星のない「β」であった。
  • ボールカウントはCGで信号灯を模して上部中央に表示している。その左横には試合開始からの経過時間とプレーの判定表示(H・E・Fc)がある。
    • 電光化以降は数字で表示していたが全面LED化時に変更となった。
  • 映像は普段何も表示されていない中央下部のみで表示される場合と、全画面で表示される場合、スコア表示部分を含めた中間の大きさで表示される場合の3パターンがある。球速の表示も中央下部になっている。
  • 審判名を常時表示する部分がなく、中央下部に適宜表示される。通常はダイヤモンドを模した図で表示されるが、大学選手権神宮大会日米大学野球のように、複数の連盟から審判が派遣される大会では、審判名の他に所属連盟が、横書き縦スクロールで表示される。
  • スコアボードの中央下部には、東芝の広告スペースが設けられている(初期は同社のオーディオ機器のブランド「Aurex」であった)。電光化と同時に設置されたもので、当初はナイターの試合中に常時点灯していた。しかしホームベースからは投手の投球が見えづらいと選手から苦情が出され、試合前後とイニング間に限って点灯されるようになった。
  • スーパーカラービジョン化以降は両端が自由表示による広告スペース(デジタルサイネージ)となった。明治神宮記念館やマイナビなどが日替わりで表示されている。

この他、バックネット裏2階席の屋根にサブスコアボードを1基設置している。メインと同じく2008年に全面フルカラーLEDフリーボードに変わり、映像表示が可能となった。またプロ野球の開催球場ではスコアボード上に5本のポールがあるのが一般的だが、当球場には3本しかない。セ・リーグ連盟旗を通常日本国旗が掲げられる中央に掲げ、代わりに国旗はサブスコアボード上のポールに掲げられている。

広告

広告のある箇所はフェンスやバックスクリーン周辺など、プロ野球の本拠地球場としてはかなり限定されている。広告が最初に設置されたのは1969年昭和44年)で、改修費用の捻出という目的があった。コンクリートのフェンスと金網フェンスの間に差し込む仕組み[8]で、当初はプロ野球使用時のみ、秋から大学野球開催時にも設置されるようになった。

広告を出すようになった経緯として、球場の老朽化があげられ、その改修費用を出すための予算捻出という目的があった。

翌年にはラバーフェンスとなったため、ラバーに貼り付けされた。またこの頃にスコアボード付近(時計のある箇所の両サイドと、スコアボード下)の合計5箇所に広告が貼り付けられた。

1980年(昭和55年)の電光掲示板設置時には、その周辺のみではあるが電光看板広告を設置(その後1998年ごろにスコアボード寄りの左中間・右中間スタンド最上段にも1枚ずつ設置)した。後楽園、横浜スタジアム川崎球場ナゴヤ球場阪神甲子園球場広島市民球場に続いてであった。

逆にフェンス広告は1981年に一度全て撤廃され、1990年代にはオールスターゲーム2013年平成25年)オープン戦までの通常ネット裏スポンサーだったブリヂストン[9]のスペースが使用できなかった為に一時的に掲示したケース以外は全く掲示を行なわなかった。この理由として当時の神宮宮司は「フェンスは芝生の延長であり、芝生に広告を出さないだろう」とした。

その後再び老朽化した球場を含む神宮外苑のスポーツ施設の管理・維持捻出のため2000年代初期からベンチ付近に復活、2006年平成18年)からは外野部分にも貼り付けられた。なお聖教新聞社は、神宮球場を除くプロ野球の本拠地球場で広告を出しているが、神宮球場は経営母体が宗教法人であるため本社が近くにあるにもかかわらず掲出していない。

2006年 - 2009年は外野側にヤクルト球団の協賛スポンサー・ユニデンの広告が集中的に貼り付けられていたが、ユニデンとの契約が切れた2010年から広告が減らされた。2010年は当初、左中間部分に明治記念館、右中間部分にはヤクルトミルミルの二つのみであったが、8月以降はヤクルト製品の広告が外野側に貼り付けられるようになった。2011年平成23年)は左中間・右中間に一部ヤクルト以外のスポンサーの広告(ほけんの窓口・明治記念館、復興応援スローガン「がんばろう!日本」など)も掲示された。

また、バックスクリーンは回転板になる前から三菱自動車、NKホーム(旧・日本鋼管グループの住宅メーカー、すでに解散し現存せず)や東京スタイルの広告が両サイドに掲載されていた。1981年に回転板になってからは中央部分にヤクルト本社1990年ごろまで)→トヨタ自動車1991年ごろから)、両サイドは左がフジテレビ・右はニッポン放送2006年ごろからニッポン放送の箇所もフジテレビに変更)が掲載されており、両サイドも回転板を採用している。ただし節電対策と、バックスクリーン中央部のスポンサー・トヨタの広告自粛の影響のため、2011年は中央部の稼動は中断した時期があった。

スコアボード本体については、2008年の改修実施後のフルビジョン化の実施に伴い、それまで選手の個々の打率・ホームラン数を表示していた箇所に広告が表示されるようになった。

売店

バックスクリーン裏や内野、外野観客席裏に軽食や弁当類、カレーラーメンなどを提供する店舗が多数入居している。なお、ケンタッキーフライドチキンや陳麻家、サーティワンアイスクリームなど、複数のチェーン店の店舗も入居している。また、ヤクルトスワローズを中心としたプロ野球グッズ(ポップコーンビニール傘等)を販売する売店があるほか、試合開催時には対戦チームのグッズを専用に販売する売店も設けられる。なお球場の構造上、観客が内野スタンドとと外野スタンドを行き来することは出来ない(野球以外のイベントでは認められる場合がある)。2011年からは内野席の観客が外野スタンド内の売店を利用することが認められており、場外から再入場する形で行われている(直接の往来は不可のまま)。


明治神宮第二球場

  • 1961年昭和36年)4月19日竣工
  • 両翼:91 m、中堅:116 m
  • 内外野:全面透水性人工芝
  • スコアボード:パネル式(右中間側・15回まで なお合計得点は原則として15回の部分に掲示する。)
  • 収容人数:5,600人

1926年大正15年)、明治神宮相撲場として開設された。1947年昭和22年)から1948年にかけて大相撲の本場所興行が行われた[10]。その後野球場に改築されることになり、1961年に竣工したが国鉄スワローズの移転の見込みに伴いすぐに増改築が行われた。当初は神宮球場のレフトスタンドとセンターが接する形となっていたが[11]、一塁側スタンド(現在のゴルフ練習場)が接する向きに変更された。以前フィールドは全面クレー舗装だったが、1993年平成5年)に人工芝が敷設された。2020年の東京五輪では当敷地を投擲種目の練習場とすることになっているが、具体案は公表されていない。

球場自体の用地が狭隘で外野後方には道路があるため外野スタンドがなく、また1・3塁側についてもベンチの上以外に座席が設けられていない。メインスタンド(バックネット裏)は二層式スタンドで、通常は1階席の部分のみ開放。多客時には2階も開放される。2階席の一部には神宮球場のグラウンドを見下ろすことができるエリアがあり、神宮球場で試合が行われている場合は満員時を除き立ち入り禁止となっている。

通常は東京新大学野球連盟東都大学野球連盟の2部以下のリーグ、並びに東京都高等学校野球連盟主管の大会(夏の甲子園・東ブロック同・西ブロックや春季・秋季大会など)に使用されているが、大学野球は平日が祝日になった場合、加盟校の他のグラウンドや周辺の公設球場などを使用するため、原則として明治神宮大会、及び東京都高野連主管大会で使用する場合を除いて、アマチュア野球が第2球場を週末(土・日)と祝日に使うことはない。

なお東都大学2部リーグでは1973年から第2球場を主会場としていたが、球場が狭いことにより打球が場外に飛び出すケースが比較的多いことや、施設の老朽化などから、2013年秋の大会をもって第2球場の使用を中止することになり、2014年春季大会以後は、基本的に2部リーグに加盟する大学のグラウンド、あるいは町田市小野路球場などで開催する方針を固めている[12](ただし、東京六大学連盟のその週の大会が日曜日までに終わっていれば、神宮球場を会場として使う場合がある[13]

また第2球場は明治神宮外苑ゴルフ練習場(外苑ゴルフクラブ)の西練習場を兼ねており、一塁側ダッグアウト付近から右翼ポール際にかけてゴルフ練習用の打席が121打席設置されている。ゴルフ練習場のうち東練習場は通年営業しているが、第二球場を兼ねる西練習場は、アマチュア野球公式戦の行われる日は早朝(基本的に6時 - 8時45分)と夜間(アマチュア野球大会の試合終了後[14]から深夜)のみの営業となる。アマチュア野球公式戦が行われる時間帯以外はゴルフ練習場として供用しており、野球場としての草野球の一般利用は受け付けていない(ゴルフのみ運営の場合でも9:00-9:30はボールの回収作業を行うため利用不可。また周辺道路や施設への影響を考慮し、練習場では低反発球<飛距離の飛ばし過ぎを抑制した専用ボール>を使用することになっており、一般のゴルフコースや他のゴルフ練習所で使用する通常のボールの使用・持ち込みは厳禁となっている)。ゴルフ西練習所は1973年昭和48年)に設置された(東練習所=第2球場東隣はその前年の1972年開設)。

フェンス広告はないが、ゴルフ練習場として活用されていることを踏まえて、レフト側にゴルフ関連の広告看板が設置されている。また、過去には、神宮球場に合わせて右翼側のスコアボード上に、SEIKOの広告看板が設置されていた。

天覧・台覧試合

初試合に昭和天皇が臨席するなど、皇族を招いての試合が幾つか行われている。1931年昭和6年)の増築は早慶戦を観戦した際、入りきらなかった観衆を見た秩父宮が勧めたのがきっかけであった。2009年平成21年)には愛子内親王と皇太子夫妻(皇太子徳仁親王妃雅子)が若松勉の解説で東京ヤクルトスワローズ対横浜ベイスターズの試合を観戦した。

胴上げ

ヤクルトが1978年昭和53年)にセ・リーグで初優勝した時、ファンが優勝を祝うが余りに客席から飛び出して選手や広岡達朗監督を胴上げするという光景が見られ、優勝記念の表彰式どころの騒ぎではなくなっていた。その模様はフジテレビの製作によって全国テレビ中継された。そういったこともあり、同じ神宮で1985年、21年ぶりの優勝を決めた阪神タイガースの試合のときには警備員を多数増員して、乱入をしないように警戒を強めたという。

2011年現在、当球場で監督の優勝胴上げを行っていないセ・リーグのチームは横浜DeNAベイスターズ(前身球団含む)だけとなっている。胴上げを行ったチームは順にヤクルト(1978年)、阪神(1985年)、広島(1986年)、中日(1999年)、巨人(2008年)となる。

なお、パシフィック・リーグのチームが日本選手権シリーズ優勝で胴上げを行ったのは1992年西武ライオンズの1例だけ。セ・パ交流戦では胴上げこそ行われなかったが、2005年千葉ロッテマリーンズが交流戦初代優勝をこの球場で決めている。

硬式野球以外での使用

人工芝導入後より一般貸し出しが行われており、ストロングリーグでは全国軟式野球統一王座決定戦・ジャパンカップの決勝会場や交流試合などで使用している。周辺に国立霞ヶ丘陸上競技場秩父宮ラグビー場があるために野球以外のスポーツイベントが行われることはほぼないが、1989年8月7日には日本代表マンチェスター・ユナイテッドFCの親善試合が行われている。

コンサートやイベントの会場としても使われることがあり、毎年8月には神宮外苑花火大会日刊スポーツ主催)のメイン会場として使用され、花火の打ち上げを第二球場から行っている。近年行われた主なイベントとしては以下のものがある。

交通機関

脚注

  1. 磯田道史『歴史の愉しみ方』中公新書
  2. 明治神宮野球場耐震補強工事について
  3. 神宮と秩父宮、入れ替え構想 20年五輪を機に再開発朝日新聞デジタル
  4. 4.0 4.1 テンプレート:PDFlink
  5. 他の5球場の前日に試合が組まれたものの、雨天順延により6球場同時開幕となった。
  6. 徳永喜男『ヤクルトスワローズ球団史』ベースボールマガジン社、徳永喜男は元ヤクルト球団代表(国鉄・サンケイ時代を含む)
  7. 井上章一『阪神タイガースの正体』(太田出版、2003年)P215 - 216。
  8. 阪神甲子園球場も内野は1983年(昭和58年)まで、外野はラッキーゾーン撤去前の1991年(バックスクリーン付近のみ1985年)までは差込脱着式の広告フェンスを使用していた
  9. 2008年までは反転フラップ式だったが、2009年から回転式広告板になっている。2013年オープン戦をもって1983年から長年にわたってネット裏スポンサーだったブリヂストンが撤退し、2013年シーズンはマルハン、2014年シーズンからはヤクルト本社がネット裏スポンサーとなっている。
  10. 1945年5月にも、3月の東京大空襲で旧両国国技館が罹災したため、明治神宮相撲場で本場所が開催される予定で、番付も発表されたが、5月の空襲で明治神宮も罹災し、本場所は両国国技館で開催されるように変更された
  11. 明治神宮外苑HP
  12. 球場狭い…東都2部リーグ、神宮第2を来春から使用せず(サンケイスポーツ2013年11月16日付 2014年4月10日閲覧)・神宮第二で開催せず、来春は当該校で土日開催 東都2部(産経新聞2013年12月19日付け 2014年4月10日閲覧)
  13. 東都大学野球連盟・2部リーグ日程表
  14. 営業開始時間については概ね16:30前後であるが、アマチュア野球の試合展開により前後するため、西練習場営業のご案内にも掲載されている

関連項目

テンプレート:Sister

  • 日本の野球場一覧
  • 村上春樹 - 平日の神宮の外野席でヤクルト戦を見ていた際に小説家になろうと思い立って、『風の歌を聴け』が生まれた。
  • 野球狂の詩 - 東京メッツが本拠地としている「国分寺球場」は当球場がモデルとされており、実写による映画版、並びにドラマ版でも神宮が撮影に使用されている。
  • ROOKIES - 実写版のロケに使用された。但し、バックスクリーン周りの広告(フジテレビ・ニッポン放送・コカコーラ・東芝・麒麟麦酒)は隠された。

外部リンク

  1. 転送 Template:S-start


テンプレート:本拠地の変遷 テンプレート:本拠地の変遷

  1. 転送 Template:End

※現在の本拠地は札幌ドーム

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