1978年の日本シリーズ
テンプレート:Infobox プロ野球日本シリーズ 1978年の日本シリーズ(1978ねんのにっぽんシリーズ、1978ねんのにほんシリーズ)は、1978年10月14日から10月22日まで行われたセ・リーグ優勝チームのヤクルトスワローズとパ・リーグ優勝チームの阪急ブレーブスによる日本プロ野球の日本選手権シリーズである。
目次
戦前の評価
上田利治監督率いる4年連続出場の阪急ブレーブスと、広岡達朗監督率いる初出場のヤクルトスワローズの対決である。
この年の阪急は簑田浩二が台頭、大熊忠義から左翼の定位置を奪い、福本豊との1・2番コンビで合計131盗塁を記録。他にもボビー・マルカーノが打点王を獲得するなど、主力打者は概ね好調。投手陣もエース山田久志を筆頭に山口高志、稲葉光雄、そしてこの年ローテーション入りした今井雄太郎が防御率2点台をマーク。さらに守備でも一塁手[1]を除く8部門でダイヤモンドグラブ賞を独占するなど攻守ともスキのない戦力を揃えていた。ただ、上田監督がシーズン途中で体調を崩し休養するなど健康面の不安を抱えていた。
一方のヤクルトはリーグMVPに輝いた若松勉、大杉勝男、チャーリー・マニエルのクリーンナップトリオに、この年から加入して先頭打者として活躍したデイヴ・ヒルトンの4人が3割をマークし129試合目まで被完封無しの記録を達成(130試合目で広島の大野豊が阻止)した「2割8分打線」と呼ばれた打撃陣が好調な一方、投手陣は松岡弘と安田猛、井原慎一郎、そして最高勝率の鈴木康二朗が2ケタ勝利を挙げるも防御率2点台が1人もおらず、マニエルの右翼守備の拙さもあって守備面では不安を抱え、戦前の予想では前年まで3年連続日本一の阪急が有利と見る向きが多かった。
なお、ヤクルトは本拠地の明治神宮野球場が大学野球と開催日が重複していたため、日本シリーズのナイター開催またはその逆で大学野球のナイター開催を双方が提案したが折り合いが付かず、主管試合は全て後楽園球場での開催となった[2]。
試合結果
第1戦
10月14日 後楽園 入場者34218人
阪急 | 0 | 1 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 4 | 0 | 6 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
ヤクルト | 0 | 0 | 1 | 0 | 1 | 2 | 1 | 0 | 0 | 5 |
(急)○山田(1勝)-中沢、宇野
(ヤ)●安田(1敗)、井原、梶間-大矢
本塁打
(急)高井1号ソロ(5回安田)、河村1号2ラン(8回安田)
(ヤ)船田1号ソロ(5回山田)、マニエル1号ソロ(6回山田)、大矢1号ソロ(6回山田)
[審判]セ岡田(球)パ斎田 セ富澤 パ藤本(塁)セ山本 パ久保山(外)
先発は阪急がエース山田久志、一方のヤクルトは松岡弘ではなく、シーズンの開幕投手も務めた安田猛。
阪急は2回表、水谷新太郎の失策から作った1死1、3塁のチャンスに山田が中前打し1点を先制。しかしヤクルトは3回裏、大橋穣、中沢伸二の連続失策で作った1死2、3塁のチャンスで船田和英がレフトへ犠飛を放ち同点。なおもチャンスが続いたが、若松勉の走塁ミスで追加点機を潰す。5回表、阪急は高井保弘のソロ本塁打で勝ち越すが、すかさずその裏に船田のソロ本塁打でヤクルトが追いつく。さらに6回、ヤクルトはチャーリー・マニエルと大矢明彦の本塁打で2点を勝ち越す。7回にも杉浦亨の適時打で5-2とするが、マニエルのオーバーランで1点止まり。すると8回表、阪急打線が遂に安田を捕らえ、島谷金二の2点適時打のあと、代打の河村健一郎の2ランで6-5と逆転。山田は10安打を打たれながらも踏ん張り、9回裏の2死満塁のピンチも杉浦に11球投じた末に二邪飛に打ち取り、何とかヤクルトを振り切った。投球数169球は延長戦を除きシリーズ最多記録(延長戦では1975年の第4戦で外木場義郎が13イニング、200球を記録)。ヤクルトは再三の走塁ミスが響いた。
第2戦
10月15日 後楽園 入場者39406人
阪急 | 1 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 3 | 0 | 1 | 6 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
ヤクルト | 0 | 2 | 4 | 1 | 0 | 2 | 0 | 1 | X | 10 |
(急)●今井雄(1敗)、三枝、稲葉-中沢、宇野、河村
(ヤ)○松岡(1勝)、井原-大矢
本塁打
(急)福本1号ソロ(1回松岡)、マルカーノ1号3ラン(7回松岡)
(ヤ)マニエル2号2ラン(2回今井雄)、角1号ソロ(6回三枝)、大杉1号ソロ(8回稲葉)
[審判]パ久保山(球)セ山本 パ斎田 セ富澤(塁)パ前川 セ谷村(外)
ヤクルトは松岡がここで登場、一方阪急はこの年の8月31日に完全試合を達成した今井雄太郎が先発。
1回表に阪急は福本豊の先頭打者本塁打で先制。しかしヤクルトは2回裏にマニエルの2試合連続となる超特大の2ラン本塁打で逆転。「あんな大きいのを打たれたのは初めて」と振り返るほどの当たりで気の弱い今井雄はすっかり委縮。ヤクルトは3回裏に右中間方向に5安打を浴びせ4点を奪い今井雄をKO。4回に両軍1点ずつ追加のあと、6回裏にヤクルトは途中出場の角富士夫が三枝規悦からソロ本塁打、さらに大杉勝男の適時打で9-2と突き放す。一方阪急は7回表、今一つ調子に乗れない松岡に対しボビー・マルカーノが追撃の3ラン本塁打を放ち、松岡をKO。広岡監督は「あれだけ点をもらったのだから“任せておけ”というピッチングをしてほしい」とふがいないエースを嘆いた[3]。しかし8回裏に大杉のソロ本塁打で得点を2ケタとしたヤクルトは、2番手の井原慎一郎が9回表のピンチを1点に抑え逃げ切った。
翌日の移動日の練習で阪急の山口高志が腰痛を発症し戦線離脱。佐藤義則も肘痛で欠いていた阪急の投手陣は一気に苦しくなる。
第3戦
10月17日 西宮 入場者20296人
ヤクルト | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
阪急 | 1 | 0 | 1 | 1 | 0 | 0 | 2 | 0 | X | 5 |
(ヤ)●鈴木康(1敗)、西井、小林-大矢、八重樫
(急)○足立(1勝)-中沢
[審判]セ谷村(球)パ前川 セ山本 パ斎田(塁)セ岡田 パ藤本(外)
この年外野に人工芝を敷いた阪急西宮球場に舞台を移して行われた第3戦の先発は阪急が足立光宏、ヤクルトが鈴木康二朗。
1回裏に加藤秀司の二ゴロで阪急が先制、さらに3回にも加藤の中前打で1点追加。いずれも福本の盗塁が絡んでの得点だった。4回にも島谷の適時打で3-0とし、7回にも中沢の2点適時打で突き放した。ひざの故障でシーズン後半を棒に振り、シリーズでの登板が心配された足立だったが、ふたを開ければ5回1死までパーフェクト、許した安打はわずか3本と完璧な出来。圧巻は9回表で、角、若松、大杉をいずれも投ゴロに打ち取り、前年のシリーズ第2戦に続いて2試合連続完封(日本シリーズタイ記録)。1976年の第7戦から続くシリーズ連続無失点記録を21イニングに伸ばした。
試合後のインタビューで足立は「日本シリーズは西宮で終わりますよ」と余裕のコメント。ところが…
第4戦
10月18日 西宮 入場者20456人
ヤクルト | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 4 | 0 | 0 | 2 | 6 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
阪急 | 1 | 3 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 5 |
(ヤ)安田、井原、梶間、○西井(1勝)、S松岡(1勝1S)-大矢
(急)●今井雄(2敗)-中沢
本塁打
(ヤ)ヒルトン1号2ラン(9回今井雄)
[審判]パ藤本(球)セ岡田和 パ前川 セ山本文(塁)パ久保山 セ富澤(外)
試合前、広岡監督が「ウチを強いと思うなら山田、ナメてくるなら今井」と語っていた阪急の先発は今井雄。一方のヤクルトは安田。
試合は阪急が1回にマルカーノの適時打で1点、2回に中沢、今井雄、簑田浩二の適時打で4-0とし早々に安田をKO。さらに2番手井原も5回に簑田の三塁打をきっかけに1点を許す。今井雄も第2戦で見せた弱気な一面を見せることなくヤクルト打線を抑え、試合は一方的な展開になるかと思われた。しかし6回表、代打永尾泰憲とデイヴ・ヒルトンの連打で無死1、2塁とすると、船田のショートへのゴロを2塁走者永尾が守備妨害スレスレの走塁で大橋のエラー(シリーズ3つめ)を誘い満塁に。ここで若松の右前打、大杉の遊ゴロ、マニエルの一ゴロ、杉浦の右前打であっという間に5-4に詰め寄る。
そして9回表、1アウトから水谷がヒットで出塁。ここでヤクルトベンチは代打伊勢孝夫を送る。水谷が盗塁を試みるもアウト。しかし伊勢はショートへの内野安打で出塁。ここで上田監督が投手交代のためマウンドへ向かうが、今井雄は続投を志願。上田は志願を受け入れ「四球になってもいいから低目に投げるように」とだけ指示した。しかし初球は高めに浮くカーブ。2球目も真ん中にカーブが入り、これをヒルトンがフルスイング。逆転2ランとなった。逆転された阪急はその裏、リリーフ登板した松岡を攻め1死1塁、走者福本の場面を作るが、松岡がクイックモーションで投じこれを受けた大矢が矢のような送球で福本の盗塁を刺してツーアウト。そして最後の打者簑田をファーストゴロに打ち取りゲームセット。5点差を逆転したヤクルトがシリーズの流れを一変させる大きな1勝を手にした。
このときリリーフ準備していた山田は今井雄の続投を「上田さんの失敗。これがシリーズ敗戦の伏線になった」と評し、上田自身も「このシリーズで最も悔やまれる試合。(リリーフ予定だった)山田ならあそこで絶対打たれなかった。9割の安定があるのになぜ一か八かに賭けたのか」と振り返っている[4]。
第5戦
10月19日 西宮 入場者18298人
ヤクルト | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 1 | 3 | 7 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
阪急 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 1 | 1 | 0 | 3 |
(ヤ)梶間、○井原(1勝)、小林、S松岡(1勝2S)-大矢
(急)●山田(1勝1敗)-中沢、河村、宇野
本塁打
(ヤ)若松1号ソロ(8回山田)、大杉2号3ラン(9回山田)
(急)マルカーノ2号ソロ(8回松岡)
[審判]セ富澤(球)パ久保山 セ岡田 パ前川(塁)セ谷村 パ斎田(外)
阪急の先発は中4日の山田。ヤクルトの先発は松岡という大方の予想を覆す梶間健一。山田は前日にリリーフ準備していた疲労からか不安定な立ち上がりで、前日の逆転勝利で波に乗るヤクルト打線に初回から捕まり、大杉の2点適時打で先制を許す。一方の阪急は3回までヤクルトの先発梶間にノーヒットに抑えられていたが、4回にようやく梶間を攻略し、2死満塁から2番手井原のワイルドピッチで1点を返す。6回表にヤクルトが、7回裏に阪急がそれぞれ1点を加点。8回表にヤクルトが若松の右越え本塁打で突き放すと阪急もその裏、連日のリリーフとなる松岡からマルカーノが左越え本塁打を放ち4-3。しかし9回表、ヤクルトは松岡の内野安打から作った2死1、2塁で大杉が左越え3ランを放ち勝負あり。山口が使えず、山田を最後まで投げさせた阪急とは対照的に、連日の松岡のリリーフが功を奏したヤクルトが先に王手をかけた。
ヤクルトベンチはこの試合をはじめから継投で乗り切る計算だった。前日の試合終了後、この日の先発候補を4人立ててその中からこの日の試合前に小林国男と梶間の2人に絞り梶間の先発を決断した。阪急の打順が一巡するまで持てばいいという計算だったが4回1死までノーヒットという予想外の好投を見せたことでその後の継投を楽にした。試合後、大杉はヒーローインタビューで「2試合も続けて足立さんに抑えられるという事はウチの打線では考えられない」と、来たるべき足立との再戦に向けて闘志を燃やした。
第6戦
10月21日 後楽園 入場者44956人
阪急 | 0 | 0 | 6 | 0 | 5 | 0 | 0 | 1 | 0 | 12 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
ヤクルト | 0 | 0 | 0 | 1 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 |
(急)○白石(1勝)-中沢
(ヤ)●鈴木康(2敗)、小林、西井-大矢
本塁打
(急)中沢1号3ラン(3回鈴木康)、島谷1号ソロ(5回西井)、ウイリアムス1号ソロ(5回西井)、福本2号2ラン(5回西井)
(ヤ)船田2号2ラン(5回白石)
[審判]パ斎田(球)セ谷村 パ久保山 セ岡田和(塁)パ藤本 セ山本文(外)
後がない阪急の先発は、顔面に打球を受け戦線離脱していたベテラン白石静生。第6戦でのシリーズ初先発は史上初だった。一方のヤクルトは鈴木。しかし鈴木は3回に四球で崩れ、2死満塁から島谷、ウイリアムスの連続適時打に続き中沢に3ランが飛び出しこの回6失点。さらに5回には3番手の西井哲夫が島谷、ウイリアムス、福本に計3発を浴び勝負は一方的に。広岡監督は第7戦に備え投手を温存するため西井を最後まで投げさせた。一方ヤクルト打線は白石の前に3点を返すのが精一杯。結局白石が完投勝利。阪急は第2戦を除く5試合で完投を記録した。
第7戦
10月22日 後楽園 入場者36359人
阪急 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
ヤクルト | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 2 | 0 | 1 | X | 4 |
(急)●足立(1勝1敗)、松本、山田-中沢、宇野
(ヤ)○松岡(2勝2S)-大矢
本塁打
(ヤ)大杉3号ソロ(6回足立)、マニエル3号ソロ(6回松本)、大杉4号ソロ(8回山田)
[審判]セ山本文(球)パ藤本 セ谷村 パ久保山(塁)セ富澤 パ前川(外)
ヤクルトは3度の登板がいずれも勝利に結びついている松岡、一方の阪急は第3戦完封の足立と、たがいにもっとも信頼の置ける投手を先発に持ってきた。足立は3日前にひざにたまっている水を抜いてこの試合に臨んだ。
試合が動いたのは5回裏だった。この回先頭の大矢がプッシュバントで出塁、2死2塁からヒルトンの内野安打の間に一気に生還しヤクルトが先制、足立のシリーズ連続無失点記録は25イニングでストップした。
そして6回裏、1死から大杉が足立の投じた内角シュートをすくい上げ左翼ポール際へ大飛球を放つ。打球はポールに付いている看板の数メートル下をファウルゾーン側に切れながら通過したが、富澤宏哉線審は「ポールの上を通過した」として本塁打と判定。これに対し、上田監督は左翼ポール下の富澤の元まで行き、「ポールの外だからファウル」と猛抗議。さらに全選手をベンチへ引き上げさせた。審判団と阪急首脳陣、一部の選手達も交えて協議を続けるが結論に達しない。その後上田監督は判定に従い試合を再開する条件として富澤線審の交代を主張。これはルール上認められない[5]ため拒否されると、再び態度を硬化。見かねた当時のコミッショナー・金子鋭がグラウンドへ来て、再開するよう上田へ頭を下げた。しかし、上田はこれにも応じず、金子は激怒。「コミッショナー(である私)が頭を下げても駄目か(試合を再開しないのか)」と口走る一幕もあった。結局コミッショナー裁定により試合が再開。抗議による中断時間は1時間19分となり、シリーズ史上最長中断時間として今も残っている[6]。中断のあいだ待機させられていた足立はひざに水がたまり投げられる状態ではなく降板[7]。すでに山田がリリーフ準備していたが、あまりに長い中断に嫌気がさし「もういい、(松本)正志、お前行け」と言い、新人の松本がリリーフ。しかしいきなりマニエルに2者連続となるソロ本塁打を浴び3-0。長い中断も相まって、阪急ナインはすっかり戦意喪失してしまった。福本は「あのままヤマ(山田)がすんなり行っとったら2点くらいわからんかった。」と振り返っている[4]。また、福本はあまりに長い中断に、「もうよろしいやん。はよやりましょうや」と言っていたと述懐している[4]。
阪急は7回から山田が登板。しかし8回裏、大杉が打ち直しだと言わんばかりに2打席連続本塁打を放ち、今度は文句なしの本塁打で阪急にとどめを刺した[8]。中断中もキャッチボールで肩を暖めていた松岡は打つ気力の失せた阪急打線を7安打に抑え完封。最終打者の井上修が遊ゴロに打ち取られた瞬間、ヤクルトの球団創立29年目で初の日本一が決定した。
山田と福本は後年「あのシリーズは今でもなんで負けたのか不思議。でもこれで阪急が本当に強い時代は一回終わった(山田)」「勝っていたらまだ(黄金時代は)続いていたね(福本)」と語っている[4]。
この抗議中に阪急応援団長の今坂喜好とヤクルトファンで口論になり球場最寄りの富坂警察署で30分間事情聴取を受けていた。今坂団長は球場に戻っても抗議が続いていた事に唖然としていた。[9]
表彰選手
テレビ・ラジオ中継
テレビ中継
このシリーズからテレビ中継はセンターカメラ方式になった。
- 第1戦:10月14日
- 第2戦:10月15日
- 第3戦:10月17日
- 第4戦:10月18日
- 第5戦:10月19日
- 関西テレビ≪FNN系列≫ 実況:塩田利幸 解説:岡本伊三美、荒川博 ゲスト解説:古葉竹識
- 第6戦:10月21日
- 第7戦:10月22日
- フジテレビ≪FNN系列≫ 実況:山田祐嗣 解説:岡本伊三美、豊田泰光 ゲスト解説:鈴木啓示
- 備考
- フジテレビはこれまで関西テレビや東海テレビ、変則ネット時代の九州朝日放送から日本シリーズ中継をネット受けしたことはあるが、同局自身が日本シリーズの放映権を獲得したのは開局20年目にして初めてのことだった。
- 第2戦は本来、ヤクルト主管試合の放映権を持たない日本テレビが中継した。これはFNN系列による放映権の独占を阻止するために、日本テレビと密接な関係にある読売ジャイアンツが実行委員会で挙げた後楽園球場の使用許可の条件の一つだと思われる[10]。この影響でヤクルト主管試合の放映権を持っていたテレビ朝日が中継できず、同局は翌年から2年間、放映権をフジテレビに返上している。
- 第7戦の視聴率は日本シリーズ史上最高の平均45.6%、最高61.5%(関東地区)だった。
ラジオ中継
- 第1戦:10月14日
- 第2戦:10月15日
- 第3戦:10月17日
- 第4戦:10月18日
- 第5戦:10月19日
- 第6戦:10月21日
- NHKラジオ第1 解説:鶴岡一人、藤田元司
- TBSラジオ(JRN) 解説:牧野茂 ゲスト解説:野村克也
- 文化放送・ラジオ大阪 解説:別所毅彦、荒川博
- ニッポン放送(NRN) 実況:深澤弘 解説:関根潤三 ゲスト解説:村田兆治(ロッテ)
- ラジオ関西ほか(ラジオ関東(現・ラジオ日本)制作) 解説:青田昇、有本義明
- 第7戦:10月22日
- NHKラジオ第1 解説:加藤進、川上哲治
- TBSラジオ(JRN) 解説:牧野茂 ゲスト解説:野村克也
- 文化放送・ラジオ大阪 実況:中田秀作 解説:別所毅彦、辻佳紀
- ニッポン放送(NRN) 実況:枇杷阪明 解説:土橋正幸、近藤和彦
- ラジオ関西ほか(ラジオ関東(現・ラジオ日本)制作) 解説:青田昇、有本義明
脚注
関連項目
- 日本野球機構
- 富澤宏哉
- 1995年の日本シリーズ
- ※この年と同じ顔合わせだったが、阪急はオリックスに球団譲渡し、本拠地をグリーンスタジアム神戸(現:ほっともっとフィールド神戸)に移転した後だった。(オリックスの現在の本拠地は京セラドーム大阪)
外部リンク
テンプレート:NavboxYears2- ↑ 一塁手部門は日本ハム・柏原純一が獲得。
- ↑ 日本ハムの前身にあたる東映が神宮球場を本拠地としていた1962年にリーグ優勝を果たした際も、日本シリーズの第3戦と第4戦は神宮で開催したが、第5戦は大学野球開催の関係から後楽園での開催となった。ちなみにヤクルトが神宮で初めて日本シリーズを開催したのは次にリーグ優勝を果たした1992年だった。
- ↑ 文春Numberビデオ「熱闘!日本シリーズ 1978年 ヤクルトvs阪急」
- ↑ 4.0 4.1 4.2 4.3 『阪急ブレーブス黄金の歴史 よみがえる勇者の記憶』ベースボール・マガジン社
- ↑ 公認野球規則9.02(d)の規定により、病気や負傷などのやむを得ない場合を除き審判員を変更することは認められない。
- ↑ この出来事は後々まで野球パロディ漫画のネタにされ、やくみつるは1997年のドラフト会議で起きた新沼慎二捕手の指名権を巡るトラブルを描いた際に、当時日本ハムの監督だった上田も当事者だったことからオチに使っていた。
- ↑ 「Number増刊 プロ野球 大いなる白球の軌跡」
- ↑ 本塁打という最高の仕事にケチを付けられ、大杉は「もう一度、左翼方向に本塁打を打ちたい」と考えていた。また大杉自身、抗議になった本塁打はレフトポールを巻いたようにしてボールが入って行くように見えたので本塁打と確信していた。
- ↑ 福本豊「阪急ブレーブス 光を超えた影法師」第6章 「空白の79分」で失ったものPP161-162より
- ↑ ヤクルトは国鉄時代の1952年から1963年まで後楽園を本拠地としていたが、この当時も後楽園でのテレビ中継は主催球団にかかわらず日テレが独占放映権を取得していた。このため、産業経済新聞社とフジテレビが資本参加した1963年も国鉄主管試合が後楽園以外での地方開催時を除いてフジテレビで放送できない状態だった。