岡田功
テンプレート:Infobox baseball player 岡田 功(おかだ いさお、旧名:和也(かずや)1931年6月20日 - )は、プロ野球選手、プロ野球審判員。元セントラル・リーグ審判副部長。兵庫県尼崎市出身。
来歴・人物
プロ野球選手から、1956年に審判員へ転身。以後着実と力を発揮し、プロ野球審判員現役37年、一軍実働36年、13年連続日本シリーズ出場、日本シリーズ通算94試合出場、日本シリーズ通算21回出場(1963年~1967年、1969年~1981年、1983年、1991年)、レギュラーシーズン通算3899試合出場という、いずれも今後破られそうにない日本記録を樹立、昭和プロ野球界を代表する審判員となり、1992年シーズン終了後に引退。
その後セ・リーグ審判総務に勤務していたが、総務廃止と同時に退職。現在はマスターズリーグで審判を務め、マスターズリーグ委員会審判部ルール委員長(事実上の審判部長といえる)も務めている。野球教室などでの審判指導も精力的に行っている。
審判員としてのキャリアは申し分なく、長らくセ・リーグ審判員の顔であったが、下記にあるようなトラブルに巻き込まれたり、広岡達朗に槍玉に挙げられたり[1]、1986年に雑誌記者に話した雑談の内容が「巨人びいき」と取られ副部長を解任される(および翌年春まで謹慎処分)など、やや不運な面も持ち合わせている(これは決して巨人寄りの審判ではない、という面からもいえる)。また、インサイドプロテクター転向後の1988年夏にはファウルチップを受けて鎖骨を骨折し、その後のシーズンを棒に振る大怪我を負っている。
1963年に32歳で日本シリーズ初出場を果たすなど、若い時期から高い評価を受けていた一方、引退前年の1991年にもオールスター・日本シリーズにダブル出場を果たし、また最多出場記録更新をこの年に成し遂げ、鉄人健在ぶりをみせていた。1960年代、1970年代、1980年代、1990年代の各年代に、オールスター・日本シリーズ両方で出場経験のある審判は彼一人であり、日本シリーズ第7戦で2回球審(1964年の日本シリーズと1980年の日本シリーズ)を務めた審判も、セ・リーグでは第1号である(パ・リーグでは二出川延明)。
通称「岡ちゃん」。中肉中背ではあるが、足のサイズが28cmもあり、また扁平足のため、「エンタープライズ」とも呼ばれていた。
パ・リーグでほぼ同時期に活躍した同姓の岡田豊(旧名:哲男)審判とは、高校の1年先輩である。
1971年7月17日オールスターゲーム第1戦で江夏豊がそれまでの記録を更新する9者連続奪三振を達成した際の球審を務めた。
セ・リーグ袖番号は7(1988年初採用から1992年引退まで、7は2004年以降西本欣司が番号変更により継承)。
エピソード
土井の足
岡田を名審判として世に知らしめたジャッジとして非常に有名なのが、1969年10月30日に後楽園球場で行われた日本シリーズ第4戦のジャッジである。
4回表、無死一・三塁で読売ジャイアンツは、一塁走者の王貞治が二塁に向け、続いて三塁走者・土井正三が本塁に向けてスタートをきる、いわゆるディレードダブルスチールを仕掛けた。
ボールは、捕手・岡村浩二 - 二塁手・山口富士雄 - 岡村と転送され、土井は捕手・岡村に跳ね飛ばされた形となったことから、このプレイはアウトと思われた。しかし、この試合で球審を務めていた岡田は「セーフ」の宣告をし、この判定に、完璧に土井をブロックしていたと確信していた岡村は激高し岡田を殴打。岡田は岡村に日本シリーズ初の退場事件となる処分を下した[2]。岡村に代わりマスクをかぶった岡田幸喜は、投手からの投球をわざと捕球せず、かわすなどして球審を投球の的にするという報復に出た。防具を付けているとはいえ、これは非常に危険な行為である。この報復に反発して、その直後に岡田球審はボールを直接投手に送球して渡さずに三塁に転がすという行為に走ったのだ。
試合終了後、岡田はこの試合を観戦していたコミッショナー委員や両リーグ会長、および両球団の代表らがいた貴賓席に呼び出され、ボールを三塁側に転がした行為に対して厳重注意処分を受けた[3]。
その厳重注意処分を受けた後、記者に囲まれた岡田は「どうみてもアウトではないのか?」「モニターでは土井の足はホームに達していないぞ!」と詰め寄られた(岡田は後に「確かにモニターを見る限り、土井の足はホームに達していなかった」と述懐している)。帰宅後、ミスジャッジをしてしまったかもしれないと考えた岡田は辞表を提出しようと考えていたところ、報知新聞記者近藤唯之から電話が入り、「あなたのジャッジのとおりの写真が出た」と知らされた。そして、翌朝の各新聞に問題となった本塁でのクロスプレイの写真が大きく引き伸ばされて掲載された。宮崎仁一郎カメラマンの撮影した写真である。そこには、土井が跳ね飛ばされる直前に彼の左足が岡村の両足の間をかいくぐり、しっかりと本塁を踏んでいる瞬間が見事に写し出されていたのである[4]。これにより、問題のジャッジは正しかったことが証明され、周囲からの非難は一気に沈静化。逆に「鋭い部分を見ていた」との称賛の声も出た。また、岡田自身がフジテレビ739で語ったところによれば、第6戦で岡田がライト外審として出場したときは、(ジャッジの正当性が証明されたにもかかわらず)真上にいる阪急ファンから大ブーイングを受けたという。また、阪急監督の西本幸雄は、証拠写真を突きつけられてもなお、「写真がどうした?アウトはアウトだ」と自らの正当性を変えることはなかった。もっとも「アウトかセーフかが、いつの間にか足が入っていたかどうかの話に摩り替えられた。巨人の選手が見逃せば全部ボールか、巨人の選手がベースに近ければ全部セーフなのか」と岡田の判定を批判している。
この岡田のジャッジや審判としての葛藤についてはアニメ「巨人の星」第148話「グラウンドの孤独者」の中で描かれた。なお、この話の中には岡田の妻と「かおり」という娘が登場する。また、舞台は日米野球のサンフランシスコ・ジャイアンツ戦で、退場者もジャイアンツの捕手という設定だった。 テンプレート:See also
岡田審判と暴力事件
1956年から1992年までの通算37年(総務の時代を含めると通算46年)にも及ぶ審判人生では数度暴力事件に巻き込まれている。
最初に巻き込まれた試合は1957年8月21日に中日球場で行われた中日ドラゴンズ対国鉄スワローズ戦である。この試合では国鉄の金田正一が史上4人目となる完全試合を達成したが、9回裏の判定トラブルが原因で観客が乱入・暴動という事態に至った。この試合で岡田審判は右翼外野線審を務めていたが、観客が乱入した時に逃げ遅れたために標的となった。
次に巻き込まれた試合が1969年10月30日に後楽園球場で行われた読売ジャイアンツ対阪急ブレーブスの日本シリーズ第4戦であった。これについては上述の通りだ。
さらに巻き込まれた試合が1982年8月31日に行われた横浜スタジアムでの横浜大洋ホエールズ対阪神タイガース戦である。この試合で三塁塁審を務めていた鷲谷亘審判が判定に不服を訴えた島野育夫コーチに殴られ退場を宣告した。そのため球審を務めていた岡田審判は島野コーチを止めようとしたが逆に同コーチに襲われ、柴田猛コーチからも殴る蹴るの暴行を受け、岡田球審は全治2週間の大怪我を負うことになった。
この時、審判側はプロ野球史上、日本はもとより世界でも初めて「暴力行為による没収試合」を検討していたが、当時の阪神監督安藤統男が謝罪して没収試合は回避された(出典:阪神タイガース 昭和のあゆみ 1991年発行)。テンプレート:See
詳細情報
年度別打撃成績
テンプレート:By2 | 阪神 | 4 | 3 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | 0 | -- | 0 | 0 | 0 | .000 | .000 | .000 | .000 |
テンプレート:By2 | 6 | 5 | 5 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | 0 | 0 | 0 | .200 | .200 | .200 | .400 | |
テンプレート:By2 | 31 | 13 | 13 | 5 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | .000 | .000 | .000 | .000 | |
通算:3年 | 41 | 21 | 21 | 5 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | .048 | .048 | .048 | .095 |
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背番号
- 48 (1950年 - 1951年)
- 46 (1952年 - 1953年)
- 27 (1954年 - 1955年)