後藤田正晴

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

テンプレート:Mboxテンプレート:政治家

ファイル:Gotouda.JPG
衆議院議員選挙当時のポスター(徳島県阿南市)

後藤田 正晴(ごとうだ まさはる、1914年8月9日 - 2005年9月19日)は、日本の警察官僚政治家

警察庁長官(第6代)、衆議院議員(7期)、自治大臣第27代)、国家公安委員会委員長第37代)、北海道開発庁長官第42代)、内閣官房長官(第454748代)、行政管理庁長官第47代)、総務庁長官初代)、法務大臣第55代)、副総理宮澤改造内閣)などを歴任し、「カミソリ後藤田」、「日本のアンドロポフ」、「日本のジョゼフ・フーシェ」などの異名を取った。

来歴・人物

生い立ち

1914年8月9日、徳島県麻植郡東山村(現在の吉野川市美郷)に生まれる。後藤田家は、忌部氏の流れを汲むとされており江戸時代には庄屋を務めた家柄である。

父親の後藤田増三郎は、自由党の壮士として出発し、徳島県議会議員、麻植郡会議長などを務めた地元の名士であった。1921年腎臓病で父を、1923年に母を相次いで失い、姉・好子の婚家で徳島有数の素封家であった井上家に預けられた。

富岡中学を経て、1932年旧制水戸高等学校に入学。1935年東京帝国大学法学部法律学科に入学(1学期修了後に政治学科へ転科)した。早くから官吏を志望していたが、外地勤務の思いも強く、南満州鉄道が第一希望だったといわれる。しかし1937年の満鉄入社試験では東大卒者と京大卒者それぞれに設けられた入社試験日を間違えて断念。高等文官試験にも失敗した。翌1938年には高文に8番の席次で合格、翌1939年に東京帝大法学部を卒業すると、内務省に入省した。

官僚時代

内務省では、土木局道路課に配属される。翌1940年1月に富山県警察部労政課長に出向。3月に陸軍徴兵され、4月に台湾歩兵第二連隊に陸軍二等兵として入営し、5月に台湾歩兵第一連隊に配属される。内務省の高等官であった点と、甲種幹部候補生に合格したため、経理部将校候補生として陸軍軍曹を経て翌1941年10月には陸軍主計少尉に任官した。1945年に主計大尉終戦を迎えると、台湾中国国民政府軍が進駐し、翌1946年4月まで捕虜生活を送った。

1946年5月、復員すると共に内務省に復職し、神奈川県経済部商政課長、10月 本省に戻り地方局に配属された。又、同時期に内務省職員組合委員長となる。以後、1947年8月の警視庁保安部経済第二課長をきっかけに主に警察畑を歩み、内務省廃止後は警察庁に所属して警察官僚となった。

1949年3月、東京警察管区本部刑事部長。1950年8月、警察予備隊本部警務局警備課長兼調査課長。1952年(昭和27年)8月、国家地方警察本部警備部警邏交通課長。1955年7月、警察庁長官官房会計課長。1959年自治庁税務局長の小林與三次らの引きで、自治庁長官官房長、税務局長を歴任した。尚、“軍隊ではない”警察予備隊の階級呼称(尉官相当=警察士 等)を考案したことは、警察予備隊時代の後藤田の携わった仕事の一つである。

その後自治事務次官となった小林の慰留を振り切って、1962年5月に警察庁に復帰し、長官官房長、警備局長、警務局長、警察庁次長を経て、1969年警察庁長官に就任した。長官時代は、よど号ハイジャック事件(よど号乗っ取り事件)を始め、極左暴力集団によるテロハイジャック東峰十字路事件あさま山荘事件、爆弾事件などの対処に追われた。この頃の部下の一人が、後に初代内閣安全保障室長を務める佐々淳行である。佐々の著作によれば、当時要人テロを警戒して護衛をつけて欲しいと再三促されたが、「有り難う。でも私は結構」と かたくなに断り続けたという。なお、後藤田は実際に土田・日石・ピース缶爆弾事件の標的の1人となっている。

1972年に警察庁長官を辞任した。同年7月、第1次田中角栄内閣内閣官房副長官(事務)に就任。田中の懐刀として辣腕を揮った。

政治家時代

政界に進出すべく、1974年7月の第10回参議院議員通常選挙に、郷里の徳島県選挙区から立候補する事を決めた。しかし、徳島には、現職に田中内閣の副総理であった三木武夫の城代家老と言われた久次米健太郎がいた事から、問題が複雑になる。自民党公認を巡り、調整の結果、後藤田が公認を得たが、これに三木陣営が反発。選挙戦は三角代理戦争・阿波戦争と呼ばれる熾烈なものとなった。選挙戦は、当初、後藤田に有利と見られたが、結果は、久次米19万6210票に対し、後藤田は15万3388票で敗北した。また、選挙後、後藤田陣営から268人もの選挙違反者が、徳島県警察によって検挙された。そして「金権腐敗選挙」と強く非難された。後に後藤田は「あの選挙は自分の人生の最大の汚点」と述べている。更に強力な後ろ盾であった田中角栄も、金脈問題をきっかけに首相を辞任し、選挙戦を通じて政敵となった三木が後継総裁に選出され、後藤田にとっては雌伏を余儀なくされる事態が続いた。

1976年第34回衆議院議員総選挙徳島県全県区(当時)から立候補し、三木武夫と直接対決となった。6万8990票を獲得し、三木に続く2位当選を果たした。この頃、徳島の闇社会のドンである山口組尾崎彰春を評して、「尾崎君は紳士だ」と警察官僚のトップにいた後藤田が発言したとして、世人の眉を顰めさせた。以後、自民党田中派に所属し、田中の庇護の下、当選回数が少ないにも拘らず、顕職を歴任した。

1978年自民党総裁選挙において、田中派は大平正芳を支持したが、自民党史上初となる国民参加型(一般党員・党友に投票権付与)による予備選挙が導入されていたため、現職の福田赳夫が優勢と見られていた。しかしこの選挙戦の指揮を執った後藤田は、党員名簿を調達し、東京都の一般党員・党友に対して、ヘリコプターまで利用した戸別訪問を行うなどのローラー作戦を敢行した。予備選挙の結果は大平748点、福田638点。福田は「天の声にも変な声もたまにはある」と発言して本選挙を辞退、大平正芳内閣が成立した。1979年11月、第2次大平内閣自治大臣国家公安委員会委員長北海道開発庁長官として初入閣した。この時、僅当選2回で、年功序列で衆議院当選5回から6回が初入閣対象とされていた当時の政界にあっては、異例の出世であった。

1982年11月、首班指名を受けた中曽根康弘に請われて、第1次中曽根内閣で内閣官房長官に就任し、内外を驚かせた。首相派閥から選出することが慣例である内閣官房長官人事を他派閥から選出したこともあるが、これはロッキード判決に備えた田中角栄に押し切られたものと受け止められ、第一次中曽根内閣は、田中派の閣僚が後藤田も含めた6名に上ったことから「田中曽根内閣」と諷刺されたが、事実は、自派の人材難に悩む中曽根本人の強い求めによるものであった。

当初、後藤田は、『今まで“君付け”していた者の下には就けない』(内務省入省年次では1939年入省の後藤田は、1941年入省の中曽根より先輩に当たる)と就任に難色を示していた。しかし、中曽根は、自派の人材難に加え、行政改革の推進と大規模災害等有事に備え、官僚機構の動かし方を熟知し、情報収集能力を持つ後藤田を必要とした。更に、長期的な視野で見れば田中派に対して中曽根が打ち込んだ楔でもあった。こうして、官房長官となった後藤田は、1983年1月の中川一郎の自殺事件や、同年9月のソ連軍による大韓航空機撃墜事件三原山噴火による住民の全島避難の際に優れた危機管理能力を発揮して、首相・中曽根を支えた。中華人民共和国に対する太いパイプをもち、当時の中国共産党首脳が比較的親日的なこともあり、官房長官在任中の日中関係は靖国神社問題光華寮訴訟に関する摩擦もあったが総じて比較的良好な状態だった。

行革推進

中曽根内閣が最大の課題とした行政改革では、行政管理庁長官、新設された総務庁長官として3公社民営化などを推進した。第2次中曽根第2次改造内閣第3次中曽根内閣では官房長官に再任され、単なる官房長官を越えた「副総理格」と見なされた。イラン・イラク戦争終結に当たり海上自衛隊掃海艇ペルシャ湾に派遣する問題が浮上した際には、「私は閣議でサインしない」と猛烈に反対し中曽根に派遣を断念させ、中曽根に物を言える存在である事を印象付けた。後藤田は5年にわたる中曽根内閣で唯一、閣僚の座を占め続けた。今日では明らかとなっているが1987年の東芝機械ココム違反事件では通産省は半ば黙認し時効になりかけた外為法違反を外事と生活安全課へ圧力をかけて事件とさせたのは後藤田である。日米の摩擦が激化、中曽根首相が訪米した時期とあわせての政治的判断であった。

こうした後藤田の重用は、自民党内、なかんずく出身母体の田中派の議員から嫉視を持たれた。後に首相となった橋本龍太郎は、後藤田よりかなり年下だが、当選回数が自分より遥かに少ない事から、一時期「後藤田クン」と呼んでいたと言われる。これに加え、田中派が膨張策を取り外様の議員が幅を利かせるようになり、元来田中直系ともいうべき、小沢一郎梶山静六羽田孜渡部恒三ら中堅若手は、世代交代を標榜する竹下登金丸信を担いで創政会を旗揚げした。その中で、田中は脳梗塞で倒れる。後藤田は、田中派が竹下派と二階堂進グループに分かれた際は、どちらにも与せず無派閥となる。

総裁候補

竹下内閣成立後は、暫く表舞台から退くが、リクルート事件の発覚により竹下首相が退陣を表明し、竹下同様の疑惑を抱えた派閥領袖が軒並み逼塞を余儀なくされる中、リクルート事件に無縁だった伊東正義田村元、福田赳夫、河本敏夫坂田道太らの長老と共に後継総裁候補に名前が挙がったが、後藤田は「私は総理にならないほうがいい。第一に警察出身者。二に田中角栄に見出してもらい、三に最初の選挙のとき陣営からたくさんの選挙違反者を出している。この三つでダーティイメージになってしまった。四に中曽根に五年仕えたことで、彼の影が拭えない。五番目は糖尿病だ。私は総大将には向かないのだよ」と述べ、総裁就任を固辞した。結局竹下は外務大臣宇野宗佑に白羽の矢を立てたが、リクルート事件や消費税導入、宇野首相の女性問題もあって短命に終わった。

宇野の後を受けた海部俊樹内閣では、伊東正義を本部長に擁する自民党政治改革推進本部の本部長代理となり、伊東や「ミスター政治改革」の異名をとる羽田孜らと共に小選挙区制導入に執念を燃やした。後藤田の案は後に導入された小選挙区比例代表並立制であったが、実際の案との大きな違いは、1票制であることだった。これは、小選挙区に投じた候補の政党が、そのまま比例区の政党票になるというものである。従って、野党各党が比例票を稼ぐには、共倒れを承知で小選挙区に独自候補を立てる必要があるというものだった。その性質上、野党の選挙協力を封じる効果があり、自民党に極めて有利な内容だった。加えて、比例代表区は都道府県別に分割され、県によっては比例区の意味のない定数1となるところもあり、これまた第1党の自民党に極めて有利な内容だった。

この時は結局、小泉純一郎ら自民党内の改革慎重派など、自民党内の反改革勢力によって政治改革法案が廃案に追い込まれ、「(政治)改革に政治生命を賭ける」と明言していた海部が首相続投を断念したために実を結ばなかったが、武村正義北川正恭など三塚派若手を中心とした改革積極派との間に強い信頼関係を築き、1993年に自民党下野の際、後継首班候補として姓名が挙がる背景となった。

副総理

宮澤改造内閣法務大臣に就任。第3次中曽根内閣で内閣官房長官を務めて以来、久々の入閣であった。1993年4月、副総理外務大臣渡辺美智雄が病気辞任したため、法相としては異例ながら副総理を兼務し、大物大臣として閣内において存在感を示した(当時すでに高齢であった後藤田の入閣に対し、政策研究の手間を取らせないため、官僚時代から精通していた治安系の官庁のトップである法務大臣として入閣したと見られる)。

法相在任中は、1989年11月の死刑執行から死刑執行停止状態(モラトリアム)が続いていたことについて「法治国家として望ましくない」との主旨の発言をし、1993年3月に3年4ヶ月ぶりに3人の死刑囚に対する死刑執行命令を発令した。死刑執行当時、警察庁長官として事件解決に携わった連合赤軍事件の永田洋子坂口弘の死刑が確定した時期であったことも注目された。また金丸信摘発にあたり、かつて田中の公判検事であった吉永祐介検事総長に起用するという過去の恩讐を越えた人事を行い話題を呼んだ。またカミソリといわれた官僚時代と異なり、法相就任後は好々爺の雰囲気をかもし出し国民からも親しまれた。

しかし、選挙制度改革をめぐり、かつて政治改革に共に取り組んだ羽田孜らのグループの造反により宮澤内閣不信任決議案が可決される。羽田、小沢一郎らは自民党を離党し、新生党を結党。また、同じく政治改革を推進してきた武村正義鳩山由紀夫らのグループは、内閣不信任案には反対票を投じたものの、羽田らに次いで離党し、新党さきがけを結党した。解散総選挙の結果、自民党は羽田派の集団離党により過半数を割り、三塚博を中心に後藤田をポスト宮澤に推す動きがあったが、新生党の小沢一郎に機先を制され、細川護熙首班の非自民連立政権が成立した。宮澤の後任の自民党総裁には、後藤田が最も寵愛していた河野洋平が就任。後藤田は河野の指南役を務め、自民党の最高実力者となった。

政治家引退後

1996年の総選挙には、高齢のために出馬せずに引退し、政治の第一線を退いた。その後も政治改革、行政改革、外交、安全保障問題などでは積極的に発言した。

河野洋平を非常に可愛がり、与党の対中外交に影響を与えた。また、「つくる会」の新しい歴史教科書(扶桑社発行)の採択では、一貫して反対の立場をとった。

イラク戦争における自衛隊派遣に反対した。小泉純一郎内閣に対して「過度のポピュリズムが目立ち、危険だ」と批判した。また、小泉内閣のスローガンでもあった、「官から民へ」について、「利潤を美徳とする民間企業が引き受けられる限度を明示せずに、官から民へは乱暴である」と発言した。後藤田の死後、当時民主党代表の前原誠司は国会質問でこの発言を取り上げた。

佐々の著書によると、後藤田は政治家引退後も国家的、国際的な安全保障、災害事象が起きると現役の首相など、政権中枢にアドバイスを与えていた他、佐々などかつての部下を首相官邸に送って、処理の補助を行わせていた[1]

警察官僚出身だが、晩年は上記の発言のように左派色を強めた。これに対して右派から批判されたが、後藤田は自分は保守的な政治家であるとし、「自分が左派扱いされるのは、日本が右傾化し過ぎているのではないのか」と反駁した。

最晩年はTBSの『時事放談』に出演するなどしていたが、2005年9月、肺炎のため死去、91歳だった。没後しばらくして公表された。葬儀は大物政治家としては、しめやかに行われたという。

後藤田五訓

中曽根内閣で創設された内閣官房6室制度発足の場で、内閣官房長官の後藤田が、部下である初代の内閣五室長の的場順三(内閣内政審議室)、国広道彦(内閣外政審議室)、佐々淳行内閣安全保障室)、谷口守正(内閣情報調査室)、宮脇磊介(内閣広報官室)に対して与えた訓示を、「後藤田五訓」という。長年仕え、初代内閣安全保障室長を務めた佐々淳行が自著に記したことで世に明らかとなった。内容は次のとおり。

  1. 出身がどの省庁であれ、省益を忘れ、国益を想え
  2. 悪い、本当の事実を報告せよ
  3. 勇気を以って意見具申せよ
  4. 自分の仕事でないと言うなかれ
  5. 決定が下ったら従い、命令は実行せよ

佐々によれば、この五訓を裏返すと、まさに危機管理最悪の敵の「官僚主義」になるという[2]。 本人はこの訓示を忘れていたらしく、佐々のところへ「今、人が来て『後藤田五訓を揮毫してくれ』と言うんだが、後藤田五訓とは何ぞ」と聞きに来て、佐々が説明すると「ワシ、そんな事言うたかな?どうせ君があることないこと吹聴しとるんじゃろう」と佐々が書いたメモを片手に帰っていったという[3]

官房長官談話

中曽根康弘総理大臣の靖国神社公式参拝中止時の談話

「昨年実施した公式参拝は、過去における我が国の行為により多大の苦痛と損害を蒙った近隣諸国の国民の間に、そのような我が国の行為に責任を有するA級戦犯に対して礼拝したのではないかとの批判を生み、ひいては、我が国が様々な機会に表明してきた過般の戦争への反省とその上に立った平和友好への決意に対する誤解と不信さえ生まれるおそれがある」ため「内閣総理大臣靖国神社への公式参拝は差し控えることとした」

またこの件を、「非常に残念だ。参拝というのは純粋に素直な気持ちで行えばいい。それを公人、私人といった分け方で言うのはおかしい。」と話した。 つまり、戦争で逝った人たちを悼むという素朴な気持ちこそが大切である、というのであった。

政治家引退の時の演説

警察庁長官から政界に進出し、内閣官房長官まで務めた後藤田が公職から退く際、演説を行った。その中で後藤田は「私には心残りがある」と語り、その一つは政治改革を掲げつつそれが単なる選挙制度改革で終わってしまったこと、そしてまた一つは、警察官僚として部下に犠牲を強いてしまったことだという。警察庁時代に「のべ600万人の警察官を動員した第二次安保警備で、『殺すなかれ』『極力自制にせよ』と指示した結果、こちら側に1万2000名もの死傷者を出してしまった。いまでも私は、その遺族の方々や、生涯治ることのないハンデキャップを背負った方々に対して、本当に心が重い。これが私の生涯の悔いである」と語っている[4]

後藤田の警察庁時代は学生運動が過激化し、極左過激派によるテロが頻発していた時期であり、警備などに従事していた警察官に多くの死傷者が出て、後藤田はこれへの対処に追われた。例えば、後藤田が警察庁長官であった1971年9月に起きた成田空港闘争東峰十字路事件では、警備に従事していた機動隊が過激派などの空港反対派の集団による襲撃を受け、機動隊員に火炎瓶が投げ付けられ、火だるまになり、のた打ち回っている所を鉄パイプ角材竹ヤリなどで滅多打ちにされて隊員3名が死亡し、約100名が重軽傷を負った。負傷した若い隊員の中にはあごの骨を砕かれ、全ての歯を失い、全身を100針も縫い、一時重体となった隊員もいた[5]。警察庁時代の後藤田の部下であった佐々淳行は著書の中で、これら悲痛な思い出が、後藤田に引退の際の台詞を言わせたのではないかと語っている[6]

エピソード

  • 政界進出後、警察官僚時代を振り返り社会党民社党は警察庁のマークの対象外だったとし「社会党ほどダラ幹(堕落した幹部)の党はない。民社党は記憶にない。あれは何をしておったのだろう。危ないと思うのは共産党公明党だ。この国への忠誠心がない政党は危ない。共産党は前から徹底的にマークしているからいいが、公明党はちょっと危ない」としていた。
  • 当時政局の焦点となっていたロッキード事件の公判の前日、内閣官房長官の記者会見の席上で「ときに、裁判のある日はいつでしたかね」と問いかけ、記者たちを唖然とさせた。
  • 官房長官就任に際し、中曽根は田中にトイレで「後藤田を貸してもらえませんか?」と交渉したという[7]
  • 官房長官の初仕事である閣僚名簿の発表の際、閣僚の名前を読み間違えることがあった(例えば羽田孜農林水産大臣を「はだしゅう」、鈴木省吾法務大臣を「すずきしょうご」、河野洋平科学技術庁長官を「かわのようへい」等と読み間違えた)。これは、通常であれば最初に決まる官房長官ポストの調整が難航し、後藤田が各閣僚の名前の読みを確認する時間がなかったためである。
  • 官房長官当時に発生したビートたけしによるフライデー襲撃事件について、「ビート君の気持ちはよくわかるが、しかし直接行動はいけない」と発言している。
  • 1993年に、村山富市日本社会党委員長に就任時、「自衛隊について社会党と意見の違いはあるけど、自衛隊が武装して海外に出ていくことには反対しなければならない。その点は同じ考えです」と話した。「自衛隊の海外派遣集団的自衛権の行使など、憲法が認めないことがなし崩しになることに危惧を抱いていた」と評価していた。
  • 内務省出身者だが、内務省の復活には否定的な見解を示した。
  • 議員を辞める際、記者が廊下で「総理になれず無念ではありませんか?」というようなナイーブな質問に対し、後藤田は「十年、出てくるのが遅かったわなー」としみじみと、そして淡々と自らの人生を振りかえるかのように語った。
  • 薬害エイズ問題で注目されていた菅直人厚相について、「菅だけは絶対に総理にしてはいかん。あれは運動家だから統治ということはわからない。あれを総理にしたら日本は滅びるで」と発言した。しかし、自社さ連立への影響を考え、発言を削除するよう要求した。
  • 日本の将来と若者については希望を持っていた。2000年12月に放送されたフジテレビのトークバラエティ番組『平成日本のよふけ』に出演した際、今時の若者について「茶髪なんて一時の流行で良くない。良くはないが、だからと言って中身まで悪いなんて何故言えるんだ。サッカー野球オリンピックで活躍している選手たちの、顔の表情と目を見てみろと言うんだ。あの目の輝きを持った者たちが滅びる訳がない。若い者に任せなきゃダメだ。若返りしなければ日本は良くならない」と発言。ホスト役の笑福亭鶴瓶を感動させた。

栄典

親族

著作

  • 『政治とは何か』(講談社, 1988年) ISBN 4062026511
  • 『内閣官房長官』(講談社, 1989年) ISBN 4062047276
  • 『支える動かす 私の履歴書』(日本経済新聞社, 1991年)
    • のち『保守政権の担い手 私の履歴書』に所収 (日経ビジネス人文庫, 2007年) ISBN 4532193737、他は田中角栄・中曽根康弘ら5名。
  • 『政と官』(講談社, 1994年) ISBN 4062072262
  • 『情と理―後藤田正晴回顧録』 (講談社 上・下, 1998年、講談社+α文庫 上・下, 2006年)
御厨貴らによる聞き書き・監修、文庫化に際し「情と理―カミソリ後藤田回顧録」に改題
上.ISBN 4062091135/下.ISBN 4062091143
文庫版 ISBN 406281028X/ISBN 4062810298 
  • 『後藤田正晴の目』(朝日新聞社, 2000年) ISBN 4022575298 
  • 『後藤田正晴二十世紀の総括』 (生産性出版、1999年) 
内田健三佐々木毅早野透による全7回のインタビュー集
  • 『後藤田正晴日本への遺言』 (毎日新聞社, 2005年) <時事放談>での発言録集

関連書籍

  • 保阪正康 『後藤田正晴 異色官僚政治家の軌跡』(文春文庫, 1998年、新版中公文庫、2009年) ISBN 4122050995 
  • 佐々淳行 『わが上司後藤田正晴 決断するペシミスト』(文藝春秋、2000年、のち文春文庫、2002年) ISBN 4167560097
    • 続編 『後藤田正晴と十二人の総理たち もう鳴らないゴット・フォン』 (文藝春秋、のち文春文庫、2008年) ISBN 4167560151
  • 津守滋 『後藤田正晴の遺訓 国と国民を思い続けた官房長官』 (ランダムハウス講談社、2007年)
著者は外務省出身で官房長官時代の秘書官。 ISBN 4270001941
  • 三回忌に『私の後藤田正晴』(同編纂委員会編、講談社、2007年9月)が出された。ISBN 4062139340
政界官界関係者から岡本行夫ジェラルド・カーティス大宅映子等、関りのあった様々な立場の著名人三十名が執筆している。
  • 御厨貴 『後藤田正晴と矢口洪一の統率力』 (朝日新聞出版、2010年) ISBN 4022507098

脚注

テンプレート:Reflist

演じた俳優

関連項目

テンプレート:Sister


  1. 転送 Template:S-start


テンプレート:S-off |-style="text-align:center" |style="width:30%"|先代:
渡辺美智雄 |style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 国務大臣副総理
1993年 |style="width:30%"|次代:
羽田孜 |-style="text-align:center" |style="width:30%"|先代:
田原隆 |style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 法務大臣
第55代:1992年 - 1993年 |style="width:30%"|次代:
三ヶ月章 |-style="text-align:center" |style="width:30%"|先代:
宮澤喜一
藤波孝生 |style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 内閣官房長官
第45代:1982年 - 1983年
第47・48代:1985年 - 1987年 |style="width:30%"|次代:
藤波孝生
小渕恵三 |-style="text-align:center" |style="width:30%"|先代:
創設 |style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 総務庁長官
初代:1984年 - 1985年 |style="width:30%"|次代:
江崎真澄 |-style="text-align:center" |style="width:30%"|先代:
斎藤邦吉 |style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 行政管理庁長官
第43代:1983年 - 1984年 |style="width:30%"|次代:
廃止 |-style="text-align:center" |style="width:30%"|先代:
渋谷直蔵 |style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 自治大臣
第27代:1979年 - 1980年 |style="width:30%"|次代:
石破二朗 |-style="text-align:center" |style="width:30%"|先代:
渋谷直蔵 |style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 国家公安委員会委員長
第37代:1979年 - 1980年 |style="width:30%"|次代:
石破二朗 |-style="text-align:center" |style="width:30%"|先代:
渋谷直蔵 |style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 北海道開発庁長官
第42代:1979年 - 1980年 |style="width:30%"|次代:
原健三郎 |-style="text-align:center" |style="width:30%"|先代:
小池欣一 |style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 内閣官房副長官(事務担当)
1972年 - 1973年 |style="width:30%"|次代:
川島廣守 |-style="text-align:center" |style="width:30%"|先代:
新井裕 |style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 警察庁長官
第6代:1969年 - 1972年 |style="width:30%"|次代:
高橋幹夫

  1. 転送 Template:End

テンプレート:総務大臣 テンプレート:国家公安委員会委員長 テンプレート:国土交通大臣 テンプレート:内閣官房長官 テンプレート:行政管理庁長官 テンプレート:法務大臣 テンプレート:内閣官房副長官

テンプレート:警察庁長官
  1. 元の位置に戻る 佐々淳行 『わが上司 後藤田正晴』、文春文庫、2002年、404~406頁
  2. 元の位置に戻る 佐々淳行 『わが上司 後藤田正晴』、文春文庫、2002年、149頁
  3. 元の位置に戻る 佐々淳行 『わが上司 後藤田正晴』、文春文庫、2002年、152頁
  4. 元の位置に戻る 佐々淳行 『日本の警察』 PHP新書、1999年、54頁
  5. 元の位置に戻る 読売新聞 2007年12月26日付記事
  6. 元の位置に戻る 佐々淳行 『日本の警察』 PHP新書、1999年、54,55頁
  7. 元の位置に戻る 佐々淳行 『わが上司 後藤田正晴』 文春文庫、2002年、232頁