東峰十字路事件
テンプレート:Infobox 事件・事故 東峰十字路事件(とうほうじゅうじろじけん)とは、1971年(昭和46年)9月16日、成田空港建設予定地であった反対派の土地に対して千葉県による第二次行政代執行が行われた際に、警備にあたっていた機動隊が空港反対派の集団による襲撃を受け、応援派遣されていた神奈川県警察特別機動隊員3名が殉職した傷害致死事件である。
事件概要
対峙
9月16日からの第二次行政代執行警備のため、千葉県警察代執行警備本部は千葉県警察機動隊の他、警視庁機動隊、関東管区機動隊など、総勢5300人の警備部隊を動員した。
当日早朝6時45分に代執行が宣言され、行政代執行法に基づき、警備部隊は一坪地主の土地から退去せず座り込みを続ける日本社会党議員らと、反対派農民と支援学生(左翼セクトを含む)が「砦」と呼んでいた3カ所の団結小屋に立て篭もる空港反対派を排除するすべく、行動を開始した。
一方、前日15日には、中核派などの空港反対派支援グループは約2000人が現地入りし、翌日の代執行当日には5000人を越すとみられていた。中核派は、代執行に先立ち、9月10日に東京で開かれた総決起集会席上で、代表が「権力の手先である機動隊をせん滅、北総地帯を解放区とする」と宣言していた[1]。また過激派グループの間では、「警察は権力の手先であり、すきあらば殺せ」が合言葉になっていた[2]。ただし、東峰十字路における衝突に参加したとされてのちに逮捕・起訴されたのは空港反対派のうち地元反対派の青年行動隊、三高協などと、青年行動隊に近いいわゆる「反中核派ブロック」の支援団体の所属者等であった。
行政代執行の概要
行政代執行が開始されると関東管区機動隊2個大隊は千葉県警察と埼玉県警察の二手に分かれ、千葉県警察機動隊は「一坪共有地」で座り込みを続ける社会党衆参議員や県議、社青同系学生など350人の排除を午前6時45分頃から開始し数十分で制圧、埼玉県警察機動隊は、主に反対同盟員100人が篭城していた木ノ根団結小屋の包囲・排除を午前7時12分頃から開始し、正午すぎまでに終了した。千葉県警察機動隊は、そののち天浪団結小屋の制圧を午前9時55分頃から開始したが、篭城する学生らの激しい抵抗に遭遇した。しかし正午までにこの団結小屋を制圧した。また代執行が始まって間もない午前7時40分、駒井野団結小屋の南西側の大清水地区を走っていた千葉県警察のパトカーが火炎瓶で放火され炎上。午前8時35分頃には、大清水三叉路で警視庁第九機動隊と過激派の学生たちが衝突。過激派が投擲した爆発物により同隊の中隊長(警部)らが負傷した。三里塚十字路では、学生集団が自動車を倒してバリケードを四方に築き、「解放区」を宣言していた。
警視庁機動隊による部隊は、最大の「砦」である駒井野団結小屋の制圧を午前8時8分頃から開始。ここでも過激派の学生らの激しい抵抗に遭遇するが、8時17分、「日赤成田病院に運び込まれた警察官4人のうち1人が死亡」との一報が入った。その後、駒井野の警視庁部隊と天浪の千葉県警察・埼玉県警察部隊のうち、天浪では正午過ぎ同団結小屋に突入、制圧した。 駒井野では、午後0時半過ぎ、機動隊が団結小屋内に突入し、午後3時15分には鉄塔が倒された。セメント150トン以上もつぎ込んだと言われる地下要塞の撤去作業はその後二日かけられたが、撤去しきれず、そのままA滑走路の下に埋められている。
これらの団結小屋に篭城していた反対派農民と支援学生の数は、総勢でも500人程度で、反対派農民と学生の主力約2000人は、鉄パイプ等を所持して、数百人単位の「ゲリラ部隊」を編成し、空港建設予定地周辺の農家や茂み、草むらの中に潜んでいた。
反対派は1971年2月~3月に行われた第一次行政代執行および7月に行われた農民放送塔仮処分阻止闘争の経験から、全員が団結小屋や地下壕に立て篭もる戦術から、「ゲリラ部隊」によって外周警備の阻止線を突破し、機動隊の規制で足止めされていた、当時数千人単位で現地に駆けつけていた成田周辺の一般市民(もしくは野次馬)と篭城部隊を合流させるという戦術に転換していた。「ゲリラ部隊」は代執行が開始された午前6時45分頃から、団結小屋周辺の後方警備を担当する部隊を次々と襲撃した。
一方の警備本部も、第一次代執行の際に多数の一般市民が代執行の現場近くまで見物に押しかけ、時には警備にあたる機動隊の背後から投石を行なうなどした教訓から、第二次代執行に際しては「三重丸作戦」として団結小屋の外周を三重に包囲し、支援の反対派および一般市民を代執行現場に近づけない方針のもと警備部隊を配した。総勢5300名のうち、警視庁機動隊約2500名は駒井野一帯から西側の大清水三叉路にかけて。千葉・埼玉県警察機動隊は一坪用地と天浪方面。本警備実施のために千葉県へ応援派遣された神奈川県警察特別機動隊(神奈川連隊)第2大隊(大隊長は神奈川警察署次長の堀田(警視)で、堀田大隊と呼称されていた)は、団結小屋の包囲部隊の東側(三重丸の一番外側の円にあたる)の東峰、天神峰方面で、後方警備や、道路封鎖を実施することとなっていた。
反対派の襲撃
堀田大隊約240人は当日、午前4時前に集結地点であった川崎臨港警察署を出発し、代執行が宣言される直前の午前6時30分頃、駒井野団結小屋の東側、小見川県道の東峰十字路に到着。十字路付近の草むらの中に反対派の武器、爆発物などが隠されているとの情報に基づき、検索のため十字路を中心に第2中隊が西側に、第1中隊が二手に分かれて南北に展開した。約10分後大隊が展開を終了すると、突然部隊を包囲するかのように、十字路周囲の藪の中から総勢700名以上の反対派集団が一斉に現れ、大隊を襲撃した。20分遅れて到着した第3中隊は別の300名の集団に襲撃された。
特に十字路の北側に展開し、突如襲撃してきた集団に第1中隊第1小隊(小隊長は福島誠一警部補、神奈川警察署外勤第一課係長、当時47歳)は、200人以上の反対派に包囲されて孤立してしまう。第1中隊第1小隊からの救援要請の無線を傍受した大隊本部は、警備本部に対して無線で救援部隊を要請するとともに、検索中の第2、第3中隊を包囲された第1中隊第1小隊の救援に向かわせようとしたが、他の中隊や大隊本部も襲撃を受け指揮系統が混乱し、大隊は総崩れとなった。この襲撃により、大隊長の堀田が腕を骨折したのをはじめ、大隊全体で80名以上が重軽傷を負った。
救援が来ないまま、完全に孤立した第1中隊第1小隊は、包囲する反対派から火炎瓶、鉄パイプ、竹ヤリ、角材、丸太などで激しい攻撃を受けた。隊員たちは火炎瓶を投げつけられ火だるまになり、のた打ち回っているところを竹ヤリ、角材などで滅多打ちにされた[1]。またその場から撤退する隊員たちには、反対派に1人ずつ数人に囲まれて、わきの林や茂みに引きずり込まれ滅多打ちにされた[3]。
この襲撃により、小隊長福島誠一(警部補)、第1分隊長柏村信治(巡査部長、神奈川警察署外勤第一課主任、当時35歳)、隊員森井信行(巡査、神奈川警察署外勤第一課、当時23歳)の3名が集団リンチにより殺害された他、隊員20名以上が重傷を負った。福島誠一警部補は、火炎瓶を投擲され火だるまになり、炎を消そうと苦悶しながら転げまわっていたところへ反対派の集団が襲いかかり、他の隊員から奪った手錠を無抵抗の福島警部補にかけた上、ゲバ棒や鉄パイプで滅多打ちにされて殺害された。柏村巡査部長と森井巡査も、倒れたまま滅多打ちにされ殺害された[4]。
その後、反対派の集団は隊員たちが血まみれで倒れ、うめく中を入れ組んだ地形を利用して逃げ去った[4]。午前7時15分頃に、大隊本部からの救援要請の無線を傍受した警備本部は、警視庁第二機動隊を第1中隊第1小隊の救援に向かわせたが、警視庁第二機動隊が東峰十字路の北側へ到達した時には、反対派は逃げ去った後であった。また第2大隊のうち36名は、一時的に反対派によって連れ去られたが、警視庁第二機動隊によって救出された。
16日午後から成田警察署特別捜査本部が行った現場検証では、現場付近で隊員たちの叩き割られたヘルメットや、引きちぎられた血ぞめの上着やズボン、血まみれの竹ヤリなどが多数発見された[3]。
襲撃を受けた機動隊について
事件当時、神奈川県警察では常設の警備部第一、第二機動隊の他、関東管区機動隊が設置されており、関東管区機動隊も行政代執行警備に派遣されていた。関東管区機動隊員は、平素は地域部集団警ら隊として、各警察署で活動に従事するが、定期的に集合して部隊訓練を行っており、第一、第二機動隊と同様に、錬度の高い部隊である。一方、襲撃を受けた堀田大隊は、隊長が機動隊勤務の経験が無く、隊員は刑事、防犯、交番、パトカー勤務の若手警察官により臨時編成された特別機動隊であり、装備も不十分な後方支援部隊であった。この事件は結果として、常設の精鋭部隊が行政代執行の最前線で警備実施をしている間に、後方支援にあたっていた臨時編成部隊が襲撃され、全滅するという構図であった。
また、代執行時には、警視庁航空隊のヘリコプター2機が上空から反対派の襲撃を警戒していたが、東峰十字路付近を警戒中だったヘリコプターの無線機が飛行中に故障したため、反対派の襲撃隊の動静を警備本部が把握できなかったことも被害を大きくした要因であった。
司法解剖
事件後行われた司法解剖の結果、死亡した3名の機動隊員のうち小隊長の福島誠一は、頭蓋骨亀裂骨折、頭頂部から後頭部にかけ脳内出血、12対の肋骨のうち胸部1本、背中16本が折れ、折れた骨は肺に突き刺さっていた。このほか顔、頭、左右胸部などに28ヵ所の打撲傷があった。同小隊隊員の柏村信治は、顔から左肩にかけて2度(水ぶくれができる)から3度(皮膚がただれたり、黒く焦げる)の火傷、頭蓋骨亀裂骨折、胸肋骨2本折損、頭頂部5ヵ所に打撲傷、左右腕、背中に多数の打撲傷があった。また、同じく同小隊隊員の森井信行は、頭蓋底骨折、頭部に多数の打撲傷。顔、アゴ、および胸から肩にかけて3度の火傷、左肩及び左右の足に打撲傷があった。3名とも死因は脳挫傷と、脳内出血であった[5]。
捜査・裁判
実行犯である空港反対派については身元の特定が難航した。その後、捜査当局は地元住民で空港建設に反対していた空港反対同盟青年行動隊員多数を逮捕、55名を起訴した。
1986年10月4日、千葉地方裁判所での一審判決(石田恒良裁判長)では、事件当日のアリバイを主張していた3名に無罪、他の52名が3年から5年の執行猶予がついた懲役刑(10ヶ月から3年)となり実刑判決は無かった。これは、捜査段階での被告の自白には信用性に疑問があるなどが大きな理由で、当初から警察官への襲撃に全く関わっていなかったか、襲撃に関与していても、多人数による騒乱状態の中で行われたため、誰が誰に対し、どのような行為をしたか、具体的に警察や検察が証拠を提示できなかったことも理由として挙げられる。
この一審判決に対して検察側も控訴しなかったため、上記判決が確定した。なお、裁判中に空港反対同盟が分裂し、被告団および弁護団も熱田派系と北原派系に分裂した。
北原派反対同盟に所属する3名の被告(うち2名はのち小川派反対同盟へ)は無罪を求めて控訴した。二審東京高等裁判所は一審判決を支持し(1990年12月17日判決)、3名のうち1名だけが上告したが1995年2月28日、最高裁判所でも執行猶予付きの有罪判決が確定した。