クイズ100人に聞きました
テンプレート:基礎情報 テレビ番組 『クイズ 100人に聞きました』(クイズ ひゃくにんにききました)とは、1979年4月2日から1992年9月28日までTBSで放映されていたクイズ番組である。司会は関口宏。2003年2月3日から2009年1月26日までCS放送のTBSチャンネルにて再放送されていた。
目次
概要
一般人100人に対して行ったアンケートを設問とし、その結果を推測して回答するという独自形式のクイズ番組である。これはアメリカABCのクイズ番組『Family Feud』(フリーマントルメディア制作、1976年開始、2011年現在も放送中)がベースとなっている。 当初は1978年4月2日から1979年3月25日まで『家族対抗クイズ合戦』(毎週日曜14:30 - 15:00、一部地域のみ)として放送、これが好評だったため、ゴールデンタイムへ移動・ネット局拡大・番組タイトルを改題して1979年4月2日に本番組(『クイズ 100人に聞きました』)の放送が開始された。番組名こそ変わったが、司会者や番組内容は全く同じである。
放映データ
通常放送
- 放映期間:1979年4月2日 - 1992年9月28日
- 放映日:毎週月曜日19:00 - 19:30(1979年4月 - 1984年9月、1987年10月 - 1992年9月)、19:20 - 20:00(1984年10月 - 1987年9月)。全て日本時間。
※1984年10月 - 1987年9月は『JNNニュースコープ』の延長の関係で19:20 - 20:00になっていた) - 司会・進行役:関口宏[1](放送期間中は無遅刻無欠勤ですべての回に登場。『家族対抗クイズ合戦』時代から通算して14年半。関口はこの番組を機に俳優から本格的な司会業となる)。
- ナレーター:橋本テツヤ(通称「屋根裏のアナウンサー」。関口はこれを「屋根裏の中年男」などと揶揄することもあった)。
- 最高視聴率:30.7%(1979年10月22日放送分)
- なお当時、関口は同局で『わくわく動物ランド』の司会も担当しており、TBSで1987年 - 1991年の春・秋(1991年は春のみ)に放送された『クイズまるごと大集合』では関口の他、ビートたけしや大橋巨泉も司会を行っていた(6問あり、1人あたり2問ずつ担当)。それより以前にも1983年と1984年には「スター対抗クイズ番組大集合」においてタモリが司会をしたこともある。
司会スタイル
- これまでのクイズ番組の司会者は司会者席に座っての方式が多かったが、関口は司会者席には座らずタイピンマイクを付けてスタジオを回ったりする方式の司会をしていた(その後のクイズ番組やバラエティー番組にも影響を与える)。一時期、関口が出題中に行うひじを付く姿勢が視聴者からクレームを浴びたが、逆にある視聴者からは司会者にも気楽な姿勢でやっている、別にひじを付いても悪くないという声もあったことから、その後定番としてすっかりお馴染みになった。この姿勢は、番組のヒントになったアメリカのクイズ番組(後述)での司会者に倣ってのものとされる。
- 出題は関口自身が読み上げるが、関口は問題を読み上げるためのカード(前期は大きめだったが、後期は小さめになった。従来のクイズ番組は原稿用紙がほとんどだったため、その後のクイズ番組にも影響を与える)を持っているために問題自体は知らされているが、たとえ答えを知っていても本当の正解や正解の順番は何番目にあるのかは一切わからない。すなわち、問題カードには正解は一切書かれておらず、パネルを開いた際に本当の正解がわかる。もちろん、先攻・後攻を決めるための早押し問題(早押しボタンが押された際に問題読み上げが止まり、問題カードが後ろに隠される)以外(順番に解答する時)は解答者も覗くことはできる。そのため、答えの展開によっては関口の意外な表情も見られることがあった。また、オープニングのトークは「関口メモ」と書かれた二つ折りの紙を見ており、「トラベルチャンス」の時に関口が正解を確認する際はフロアディレクターが持つカンニングペーパーを見ている。
声援
また、観客の「ある!ある!ある!」の声援も定番のフレーズに。また、絶対に正解になりえない珍答をした時でも、観客は一瞬の間の後「ある!ある!ある!」と声援を送っていた。
進行役とナレーターの役割分担
番組のタイトルコール、出場チームの紹介・進行役の紹介、冒頭の提供読み[2]、宿題クイズの応募のお知らせ、トラベルチャンスの説明、番組のエンディングの締め、視聴者プレゼントのお知らせもナレーションの橋本が一括して担当していた。これは番組進行と収録を円滑に行い、司会の関口が進行役、橋本が屋根裏のアナウンサーと言う体裁を取っていたためである。従って橋本が実質的に総合司会的な役割を持ち、関口は番組のタイトルコール、出場チームの紹介・進行役の紹介や番組のエンディングの締めでの挨拶はしていない。過去に1回だけ、司会の関口が進行役と屋根裏のアナウンサーの二役を務めた回もあるが、これは屋根裏のアナウンサーの橋本が都合により収録を休んだためである。オープニング「せきぐちーひろし」も毎回同じだった(橋本により紹介。初期は姓の語尾をあまり伸ばさなかった)。『クイズまるごと大集合』では「おおはしーきょせん」や「ビートーたけし」もあった。
また橋本は中CMのたった1分間の間に、トラベルチャンスへ進む出場者の特徴を捉え「○○さん、美人ですねぇ、特に唇が可愛いですよー。では頑張って参りましょう!トラベルーチャンス!」などと紹介。出場者の特徴の捉え方が実にうまく、お茶の間の笑いを誘った。時に関口と屋根裏(橋本)とのやり取りもあり、その絶妙な会話の面白さが受けた。進行役とナレーターの役割分担の体裁と番組構成の手法は、後に1995年以降から放送されているクイズ番組・バラエティ番組・ドキュメンタリー番組等やテレビ朝日の『料理バンザイ!』などの番組のリニューアルに生かされた。
最終回
番組編成見直しにより、1992年9月28日に放送された1時間スペシャルをもって終了し13年半の歴史に幕を下ろした。この最終回1時間特番は公開生放送による「感謝大棚ぞろえスペシャル」として行われ、芸能人が多数出場した。
- 最終回の主な出場者
- CCガールズ(初代)
- CoCo・中嶋美智代合同チーム
- 外国人タレントチーム(ケント・ギルバート、ケント・デリカット、チャック・ウィルソンら)
- ボクシングチャンピオンチーム(第1回出場メンバーだった具志堅用高ら)
- TBSテレビアナウンサーチーム
- サンデーモーニングレポーター
- ムーブのレギュラーメンバーなど
- 他に一般視聴者から3組の家族も「駆け込み参加」として出場した
- 最終回の特徴
- 生放送で時間の許す限り、できるだけ多くのチームに回答して、ハワイ旅行に行ってもらうため一発勝負(一問限り)とし、そこで勝ったチームがトラベルチャンス(通常と同じ形で、ハワイ旅行決定時は天井から紙吹雪が降ったが、風船は通常より少なかった。また通常使用したトラベルチャンス用のパネルは使わず、マルチビジョンを使って回答を行った。また、何人行くかの表示は百太郎のマークではなく、最上部のデジタル表示を使った)を行うという形だった。
通常放送終了後のリバイバル
- TBSのバラエティ番組などで何度か番組のセットが使用されたことがあったが(放送期間中でもドラマ番組『うちの子にかぎって』で本番組のセットが使われていた)、番組終了約3ヶ月後の1993年1月に正月特番で復活したのが最初のリバイバル版である。
- 2回目は2000年12月30日に放送された長時間特別番組『SAMBA・TV』の1コーナー(司会:福留功男、薬丸裕英)で復活。関口の司会で「SANBA・TV」チーム(薬丸・爆笑問題・中澤裕子・矢口真里)と「シドニー五輪女子競泳メダリスト」チーム(田中雅美・中村真衣・大西順子・源純夏・中尾美樹)が対戦した。
- 3回目は2004年4月5日に放送された『ぴったんこカン・カン春の祭典スペシャル』で復活。「ぴったんこカン・カン」vs「渡る世間は鬼ばかり」、当時の新ドラマ「オレンジデイズ」vs「新しい風」、長寿番組「水戸黄門第33部」vs「はなまるマーケット」の対戦カードが組まれた。ただし、過去2回担当した関口ではなく、久本雅美(「ぴったんこvs渡鬼」、「水戸黄門vsはなまる」)とTBSアナウンサー・安住紳一郎(「オレンジデイズvs新しい風」。また、ぴったんこチームの解答者としても出演)司会での再復活となった。なお、マスコットマークは百太郎ではなく同番組のキャラクター「ぴったんこガエル」が使われた。さらに新ドラマ対決ではチャンス問題(先行チームが予め決まっている問題。それ以外は通常のルール)が出題されたり、長寿番組対決では放送上途中で打ち切られて勝利を確定されたり、「トラベルチャンス」での出題が3人になるなど、レギュラー番組時や最初のリバイバル時、『SAMBA TV』放送時とは違う番組進行となった。また、チームの獲得賞金の金額表示やトラベルチャンスの得点表示が反転式からデジタル表示に変わっていた。
趣旨
問題レベル
- 解答パネラーは一般の視聴者5人でチームを組み、2チームで得点を争う(通常は家族・親類同士。『SAMBA TV』などは芸能人など。大学クイズサークル同士も稀にあり)。そのため大概、出場申し込みの告知テロップが番組内で表示された場合、5人全員の名前とそれぞれの続柄(例として「長女」もしくは「いとこ」など)を記入する旨が表示されていた。
- 問題は「都内に勤務するOL100人に聞きました、答えは7つ。昼休みにオススメの休憩スポットといえばどこ?」のように出題される。
- より多くの人が答えた回答から1・2・3…と並んでいる。
- 答えとなりうるのは基本的に2人以上が答えたものであるが、答えの数は表示パネルの都合上最大でも9つであるため回答者が同数になった答えが複数ある場合は2人以上答えていても少数意見になる場合もある(この「少数意見」すなわちボツとなった意見については途中のCM前に紹介される場合がある。中には珍答も多く、スタジオ内が大爆笑になる)。このため大概は全部開けても100点にはならなかったが、まれに全部開けて100点になる場合もあった。また、答えの数は最大でも9つであるが、ほとんどの問題で答えは5 - 8つになっている。ごくまれに4つの場合もあり、番組史上最も少なかったのは3つである。答えが8つまでの場合、余ったパネルには百太郎マークが表示されるが、答えが9つある場合は百太郎マークは表示されない。
オープニング
- 画面向かって左側が赤チーム、右側が青チームに分かれており、タイトル表示後に橋本の紹介で赤チーム→青チームの順に出場者が登場。そして青チームの登場口から関口が登場(初期は、手前から画面にフレームインする形で登場した)、各チームの出場者と手をタッチする。その後、関口の笑いを交えたオープニングトーク後にクイズ開始となる。
- なお、2000年大晦日放送のSAMBA・TVのオープニングトークは、銀座の30・40代の男女100人に聞いた「『クイズ100人に聞きました』と聞いて、まず何を思い出すか」の結果が発表され、1位は「関口宏」で80人、2位は「ある!ある!ある!」で11人、3位は「司会者がひじをつく」で3人、4位は「トラベルチャンス」で2人、5位は「キツネのマーク」で2人であった。これらの人数を合計すると98人となり、残りの2人が少数意見として発表され、1人は「『見送り』の旗」、もう1人は「友人が出場してハワイへ行った」であった。
- なおオープニングは、初期から後期は正面の9分割スクリーンでタイトル表示をしていたが(上段・下段にアンケートに答えてくれた一般の人、中段に「ク」「イ」「ズ」と表示され、スクリーンの切り替えで上段に「10」「0人」「に」、中段に「聞」「き」「ま」、下段に「し」「た」「百太郎マーク」と表示される)、音楽が変わった末期は9分割のスクリーン全部にアンケートに答えてくれた一般の人、タイトル表示がテロップ表示に変更される。最終回SPではスクリーン全体に「100人に聞きました 最終回 感謝大棚ざらえ スペシャル」のタイトルが映し出され、それを斜め上から映して同じタイトルテロップを表示させた。
ルール
通常問題
- 問題は全5問(40分時代は全6問、1990年10月から1992年4月頃までは4問)で30分時代は最後の問題で、40分時代は最後の2問(5問目と6問目)に限り、得点が倍になる。
- 問題毎に先攻・後攻を決める為、各チームから解答者が1人ずつパネルの前に設置されている解答台に出る。2問目以降は順に後方に移る。6問目は代表戦で、任意のメンバーが出る。その際、互いに握手を交わすこととなっており、交わさなかった場合でも関口が握手を促す。これは第1回目の放送で、最初の解答者が解答台に出てきた時に関口が「お互いに握手でもしましょうか」と促したのがきっかけである。
- 関口が問題を読み上げ、早押しで解答権を得て、順位の高い回答を当てる(相談は不可)。早く押した解答者が解答して1位を当てると、無条件にそのチームが先攻となるが、1位を当てられなければ相手チームに解答権が移り、前の回答より高い順位の回答を当てれば先攻となる。回答人数が同じ回答を答えた場合はパネルの番号に関係無く、早押しを早く押したチームが先攻となる(例えば早押しを早く押した側が6番、後に答えた側が5番の回答を開けたとしても、5番と6番の回答人数が同じなら、早押しを早く押した側のチームが先攻となる)。但し両者正解が出ない場合は、1つでも正解が出るまで続く。
- 先攻チームは1人ずつ順番に解答する(相談可)。なお、2つ以上の答えが含まれるなど答え方があいまいだった場合は、アタック音の途中でピンポン音が数回鳴らされ、より具体的な回答を求められるため言い直しをしなければならない。正解するとピンポン音ともにパネルが開き、答えた人数が得点としてパネル上部の白い7セグの得点盤にプールされていき、全てのパネルが開くと先攻チームがその合計点を獲得できる。
- 不正解の場合(パネルにない回答または1度出た回答を言う)や制限時間内(制限時間いっぱいで警告としてブザーを短く数回鳴らされる)に答えられないなどの場合は、ブザーを鳴らされお手付きとなり(画面には□の中に×マーク(ジャギー、赤色)が出る)、四角の白地に赤く縁取りされた赤いバツマークのプラカードを持たされる。3回のお手つきで解答権が無くなり、後攻チームに解答権が移る(先攻チームが解答中の間に、後攻チームは相談をして答えをまとめる)。後攻チームは解答権は1回、関口の「せーの」の掛け声の後に全員で答え、パネルが開けば正解分の得点と先攻チームのプールされていた得点の合計点を獲得、不正解の場合はプールされていた得点を先攻チームが獲得する。
- 最終的に得点の多いチームが(その際、「勝利 ○○チーム」のテロップが出る)、LOOK JTB(当初は「日本交通公社」で後にJTBに社名変更)で行くハワイ旅行をかけた「トラベルチャンス」の挑戦権を得る。
宿題クイズ
40分放送時に設定されたコーナーで4問目終了後に行われ、100人から調査した結果の内1つを視聴者が当てるコーナーで大抵は1位だが1位が圧倒的多数の場合2位または3位を当てるコーナーである。それ以外の答えは予め開かれ、ヒントとしている。問題の答えを応募して正解者から抽選で百太郎のぬいぐるみがプレゼントされる。宿題クイズの解答は次週に「おさらいクイズ」として宿題クイズの後に前回の宿題クイズの解答が発表される。答えの数は通常問題に比べ少ないケースが多かった(答え4 - 6つが殆ど、稀に3つということもあった)。30分短縮後は直前の問題を宿題クイズとしていた。まれに第1問出題前に行う時もあった。クイズのヒントとして司会者から「宛先、その他は屋根裏の○○がご案内します」と○○の部分には正解のヒントになることを言っていた(TBSチャンネルでの再放送では一部の回をのぞき、CM前に入っていたためその部分はカットされている)。
作戦
- 家族対抗のクイズ番組ということもあり、作戦的なものはほとんど存在せず純粋に答えを出し合って競うことが基本だが、稀に「勝敗にこだわった」作戦を実行するチームも存在した。最終問題の解答権を早押しで得たチームがあえて何も回答せずに×3つで相手チームにそのまま解答権を返したことが数回あった(以下は一例)。
- その時点で開いていたパネルは5位の18点のみ。答えは8つ。
- 5位のパネルは、このチームが早押しで開けたもの。相手チームは早押しでパネルを開けられなかった。
- 解答権を得た(先攻チームがあえて放棄した)相手チームは1回だけしか解答できないため最善でも1位のパネルを開けることしかできない。
- 少数意見でない以上、6位、7位、8位は最低でも各2点。計6点。
- 5位の18点を加えるとすでに24点は5位以下に確定。
- 残りの76点が1位から4位の最大合計点数。
- 当然、1位≧2位≧3位≧4位≧5位=18点である。
- 1位を最大化するために2位から4位も全て18点と仮定すると、ここでさらに54点分が確定。
- 1位は最大でも、100-24-54=22点である。
- このときの両チームの点差は81点。相手チームが1位のパネル(最大で22点)を開けてプール分(5位の18点)を加算し、倍にしても最大80点しか獲得できず、逆転できない。
- 先攻チームが何か回答をしてパネルを開けると後攻チームにも逆転勝利の可能性があるが、先攻チームが回答を放棄してしまうと逆転はできない。後攻チームは先攻チームのその戦略に気がついても(先攻チームが何か打ち合わせた後、不自然に黙り込んでしまうので気がつくことが多い)何も対抗手段が無い。
トラベルチャンス
- 勝利チームが挑戦し、5人それぞれに1問1答の問題を出す(当初は1問毎にアンケート対象が異なる問題が出題されたが、後にテーマを発表して5問全てアンケート対象が同一である問題を出題する方式に変わった)。解答出来る権利は1人1回(相談可)で5人が挑戦、得た点数によってハワイ旅行に行ける人数が決定した。
- 解答者が答えを言った後、関口が「トラベルチャンス!!」と発すると、ドラムロールが鳴ってメインのフラップ板が動き、その際飛行機のマークが左から右へ動いた後(パラパラ漫画みたいなもの)、その答えがある場合はチャイムが鳴りながらメインのフラップ板に答えと順位、右側のフラップ板に人数を表示、その答えがない場合はメインのフラップ板に四角の白地に赤く縁取りされた赤いバツマークが表示されるとともにブザーが鳴り(画面にも□の中に×マーク(ジャギー、赤色)が出る)、右側のフラップ板に「0」が表示される。右上の「TOTAL」の部分に1問ごとに合計得点が表示され、更に上部に百太郎のランプが5つ並んでおり、獲得人数に応じてランプが点く。なお、2チーム対戦形式のトラベルチャンスと最終回生放送スペシャルでは通常問題と同じく9分割のマルチスクリーンが使われた。また、2004年3月の『ぴったんこカン・カン春の祭典』では得点部分がデジタル表示となった。スタート当初は総合計が記されなかったが、後に「TOTAL」と記された。
- 最終的に60点以上を獲得するとファンファーレが鳴り、天井に吊るされている板に乗った紙雪崩に近いほどの大量の紙吹雪と風船(赤チームは赤・橙・桃・白が各2個ずつ、青チームは青・緑・黄・白が各2個ずつの計8個)が降り、さらには客席から紙テープが飛んだ。なお降ってきた風船は出場者あるいは観客の子供たちがもらうことができた。
- 得点と行ける人数は以下の通り(番組でのルール説明では、☆ではなく百太郎マークが表示される)。
- 120点以上…☆☆☆☆☆
- 100点 〃 …☆☆☆☆
- 80点 〃 …☆☆☆
- 70点 〃 …☆☆
- 60点 〃 …☆
- 59点以下…0
- クイズ中にハワイ旅行獲得が1人決定する毎に、関口がチームカラーの百太郎マークが入った帽子を解答者に被せ、最終的な人数が決定すると関口からハワイ旅行を獲得した解答者にLOOK JTBの旅行カバンを渡され、獲得出来なかった解答者と負けチームの解答者はチームカラーに白字で「見送り」と書かれたペナントの形をした旗を持つ。またテレビ画面には「おめでとう!! ハワイの旅○名様ご招待」の字幕スーパーが表示される(1991年3月までは勝利したチームの色の文字で[3]。1991年4月からは金色の文字で表示された[4])。また59点以下の場合は間が抜けたBGMが流れ、紙吹雪と風船は降らず旅行獲得者なし・全員見送りで失格(画面上では「残念!」表示)となり、客席からの紙テープも飛ばなかった。高得点を稼ぎつつ、問題途中で120点以上に達した場合は先述の規定に倣いつつ、その時点で問題が残っていてもそのまま打ち切って全員ハワイ旅行獲得決定となる。
- 前身の「家族対抗…」時代の前期は解答者席ではなく、「トラベルチャンス」のパネルの前で紙吹雪が降った。
- 海外旅行は当初、シンガポール・バンコク・香港の3カ所で後にグアム・サイパンの2カ所だったが、最終的にハワイに落ち着いた。前身の『家族対抗クイズ合戦』も同じパターンだった。
- 回によっては、1人ずつ用意された5問の中から問題・アンケート対象を選択できる「えらべるトラベル」や、一方の集団に聞いた結果を参考に、対照的なもう一方の集団に同じ質問をした時の結果を予測する「くらべるトラベル」(当時同局で放送していたクイズ番組「仰天!くらべるトラベル」とは無関係)等、趣向を変えた企画で行った事もあった。これらの場合はフラップ版ではなくめくりフリップを使用した。
- ハプニングとして、スタッフのミスで失格になったのに紙吹雪と風船を降らせてしまった回もあったり、誰もいない敗者チームの解答席に紙吹雪と風船を降らせてしまった回もあった。また「トラベルチャンス」の最中に板に乗っかっていた風船が落ちて来たり(関口が「もう5人獲得になったの?」と発言した)、何かの拍子で風船が割れてしまうハプニングもあった。
- 全員見送り・失格となるBGMは3代のパターンがあって、初代は前半のクイズで3問×がついたときと逆転チャンスで失敗した時と同じもの(最後に「コケ」と入る音調のもの)、2代目は「ヒューードン」の音調のもの、3代目はしおれた雰囲気のものとなる(なお、3代目のBGMは出身大学別の芸能人チーム対戦で最下位になったチームでも流れていた)。
- 不正解をしたり下位の答えを挙げて5人全員獲得が困難になると、答えた解答者に予め見送りの旗を持たせることも見られた。逆に上位の答えを挙げて5人全員獲得に貢献した解答者には60点に到達しない段階から帽子をかぶせることもあった。
- ほとんどの回で最低1人ハワイ獲得者が出来たが、ハワイ旅行全員見送り、失格となった回も毎年数回は必ずあった(4人目まで不正解で0点、または低得点しか獲得出来ず、アンカーでようやく1位の点数を獲得しても1人獲得条件の60点にならず、失格するケースもあった。また、ある出場者が5人全員獲得すると宣言しながら、結局失格となる不運な結果になった回や2週連続で失格となったことも過去にあった)。中にはハワイ旅行が1人も獲得できず、あまりの悔しさに号泣した人もいた。
- 1989年5月1日放送の第515回では10周年スペシャルトラベルチャンスの時は史上初のチーム対戦を実施。回答表示はフラップボードではなくセンターのスクリーンを使い、センターの早押し台での1対1の対決で、関口の問題を読み上げ後に早押し、早く押した先攻の解答者が答えて回答した人数が点数として加算、次に押せなかった後攻の解答者が答えて答えた人数が点数として加算され、合計得点は各チームのスコアボード、獲得人数は各チームのスコアボード上部に出された百太郎ランプに表示される。これを順番に5回行い、獲得した点数の多いチームが優勝となり、点数に応じた人数分の旅行獲得(獲得人数の点数の条件は通常と同じ)、点数の少なかったチームは点数にかかわらず全員「見送り」となる。なので先攻の解答者は1位を狙う、後攻の解答者はは先攻が1位なら2位を狙う、先攻が2位以下なら1位を狙う必要があり、無条件で1位・高得点を狙える先攻が有利、1位・高得点を当てられない様に運を天に任せるしかない後攻は、やや不利である。10周年スペシャルトラベルチャンスはハワイ旅行ではなく、オーストラリア旅行だった。この対戦形式のトラベルチャンスはそれ以降もスペシャル版や1992年8月10、17、24日放送(第678回 - 第680回、夏休み高校生大会)でも行われた。
- 過去の放送の中には4人目までに得点が120点以上を獲得・全員獲得が確定して、アンカーを行わずに終了した回があるが、放送されなかった問題は宿題クイズとして扱われた。
- 1989年12月18日と同年12月25日と1990年1月8日の放送(第547回 - 第549回)では、3回連続でトラベルチャンスで全員が獲得しハワイ旅行に行くことができた事もあった。
- ハワイ旅行獲得人数が4人以下の場合、司会の関口は女性解答者を優先的に帽子をかぶせ、男性解答者に見送りの旗を持たせることが多かった。そのために、「関口は女性に対する態度が甘い」、「帽子は高得点を取った順からかぶせるべき」などという批判の投書が番組に多く寄せられていた。時には子供を優先に帽子をかぶせるケースもあったが、こちらはあまり批判の投書は無かった(子供に楽しい思い出を作らせるための配慮と思われる)。1989年5月22日放送の第518回ではトラベルチャンスで女の子が答えた回答が×だったが、関口はその女の子に見送りの旗を持たせないで赤い百太郎の帽子をかぶせていた事もあった。
- 2004年3月30日の『ぴったんこカン・カン春の祭典』での「トラベルチャンス」は解答者が1・2回戦が3人、3回戦が6人で、1・2回戦では70点以上で全員獲得、60点台で4人、50点台で3人、40点台で2人、30点台で1人、30点未満だと失格、3回戦のみ75点以上で全員獲得、65点から74点までだと5人、55点から64点だと4人、45点から54点だと3人、35点から44点だと2人、25点から34点だと1人で、24点以下だと失格となった。また、「素晴らしい!全員ハワイ獲得!」(久本が担当して全員獲得)、「うん、ちょっと迷っているか?」(最後の問題)→(その問題が0人で不正解となってしまい)「残念!ハワイ旅行はお二方のみ!」(安住が担当して2人しか獲得出来ず)などと実況までしていた。
- 『クイズ100人に聞きました』時代では関口がハワイ獲得者確定時に実況することはなく、エンディングの歓声と拍手が渦巻く中、橋本がハワイ獲得人数と獲得賞金を早口で紹介。5人獲得時の「よかったですねえ」と心から喜ぶ声に好感が持たれた。その一方、失格になった時やハワイ旅行獲得人数が4人以下だった時は「うーん、残念。おしかったですね」などと激励、その人柄の良さが評判だった。
- フジテレビのクイズ番組『クイズ!年の差なんて』でも旅行を獲得した際、行けない解答者に白地に赤文字の見送り旗を持つという、この番組を模倣した演出があった。
賞金
- 賞金は1点につき500円(後に1987年10月から700円に変更、1991年4月から4問目が最終問題の時期と末期・SAMBA TVは1,000円)。このほかに1987年10月5日放送の第438回では19:00に引越しした記念として7時(7:00)にちなんで両チームに700円が、1991年1月28日放送の第600回では記念に両チームに600円が特別に賞金に加算されたり、300回、400回、500回、600回ごとにお祝いとしてスタジオの観客に記念品として放送回数が焼印された紅白饅頭がプレゼントされた。
- 最終回に関しては1点につき700円だった。
団体戦ルール
1992年8月10、17、24日放送の「夏休み高校生大会」(第2次予選)や「クイズまるごと大集合」などでは団体戦で行われる事もあった(なお、『クイズまるごと大集合』では1990年秋の回(1990年10月2日放送)から)。ルールは以下の通り。
- 関口が問題を読み上げた後、早押しで早く押したチームから順番に、最大で早押し4番目のチームまで解答権を得る。それ以降のチームには解答権は無い。
- 早押し1番目チームから解答。正解で答えた人数がチームの得点としてプールされ、回答を全部開けると得点を総取り。不正解で早押し2番目チームに解答権が移る。
- 早押し2番目チームは、1番目チームと同様のルールで解答、回答を全部開けると1番目チームがプールした得点も横取りとなって得点を総取り。不正解で3番目チームに解答権が移り、やはり同様のルールで解答、不正解で早押し4番目チームに解答権が移る。
- 早押し4番目チームは解答権は1回。正解で正解の得点に加え、1番目から3番目チームがプールした得点を総取り、不正解で1番目から3番目のチームがそれぞれプールした得点を獲得。
スタッフ
- 構成:日野原幼紀、福岡秀広、大倉利晴、植竹公和、高橋秀樹、零弘幸、池田裕幾他
- 音楽:服部克久、安川宙志
- プロデューサー:森勲、三角英一、岩原貞雄(プロデューサーの殆どが居作昌果の元で育った部下たちである)
- ディレクター:加藤嘉一(当番組司会の関口が司会を担当していた「クイズまるごと大集合」の後番組「オールスター感謝祭」立ち上げ初代プロデューサー、現・TBSラジオ&コミュニケーションズ会長)、伊佐野英樹、小玉滋彦、熊谷信也他
- 美術デザイン:加藤昌男
- 美術制作:和田一郎、金野寿雄
- 作画:阿部明
変動
期間 | 音楽 | セット概要 | スクリーン色概要 | |
---|---|---|---|---|
1979.4 | 1984.9 | 服部克久1・2 | セット中央のフェード表示式スクリーンの背景板は青かった。 トラベルチャンスのパネルは、空港の出発案内板を模したソラリー式(フラップ式)表示装置が使われ、CM中にキャスター式のパネルをスタジオ中央に移動する作業方式だった。 |
第1問から第4問目までの上段と下段は水色。 第1問から第5問目まで中段は黄色。 第5問目の上段と下段は赤色。 トラベルチャンス時は奇数は水色、偶数は黄色3。 |
1984.10 | 1987.10 | セット中央のフェード表示式スクリーンの背景板が茶色の丸い凸凹形に出場チームの背景板が丸型にそれぞれ変更。 トラベルチャンスのパネルは丸型にCM前のアタック音の時に天井からパネルが降りていく仕組みで、終了後は天井へ戻るものとなった。4 |
第1問から第4問目までの上段と下段は水色。 第1問から第4問、第6問目までの中段は黄色。 第5問から第6問目までの上段と下段は赤色。 第5問目の中段は黄緑色。 宿題クイズはトラベルチャンスのものを使用。 | |
1987.10 | 1989.3 | 色の塗り替えと、床の段差部分に「WE ASKED 100 PEOPLE」の英文表記の文字が書かれている。 | 第1問から第4問目までの上段と下段は赤色、中段は黄色。 第5問目の上段と下段は黄緑色、中段は赤色。 トラベルチャンス時は奇数は赤色、偶数は黄色。 | |
1989.4 | 1989.12 | 出場チームの背景板が半径型に変更。5 | 第1問から第4問目までの上段と下段は黄緑色。 第1問から第5問目まで中段は黄色。 第5問目の上段と下段は水色。 トラベルチャンスは前回のものを使用6。 | |
1990.1 | 1991.3 | 安川宙志7 | ||
1991.4 | 1992.9 | セット中央のフェード表示式スクリーンの背景板が丸型に背景板も変更。 | ||
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- セット中央に9枚のフェード表示式スクリーンが設置される(番組を始める時はタイトルロゴを表示した状態)。スクリーンの左に赤チームの赤色・右に青チームの青色のデジタルのスコアボード、上部に得点がプールされる白色のデジタルのスコアボードが設置されている。得点の加算の際は、加算されるチーム側のスクリーン周りの電飾が点滅する。オープニングではスコアボードが三つとも「100」と表示されていた。
- 団体戦 解答席の上部にプールされた得点、下部に獲得得点がフラップ式のスコアボードに表示される。クイズダービーの予想席と類似している。
ネット局
- 系列はネット終了時点(打ち切り時はネット打ち切り時)のもの。
放送対象地域 | 放送局 | 系列 | ネット形態 | 備考 |
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関東広域圏 | 東京放送 | TBS系列 | 制作局 | 現:TBSテレビ |
北海道 | 北海道放送 | 同時ネット | ||
青森県 | 青森テレビ | |||
岩手県 | 岩手放送 | 現:IBC岩手放送 | ||
宮城県 | 東北放送 | |||
秋田県 | 秋田放送 | 日本テレビ系列 | 遅れネット | |
山形県 | 山形放送 | 日本テレビ系列 テレビ朝日系列 |
1984年9月打ち切り | |
テレビユー山形 | TBS系列 | 同時ネット | 1989年10月開局から | |
福島県 | 福島テレビ | フジテレビ系列 | 1983年9月打ち切り 1983年3月まではTBS系列とのクロスネット局[5] | |
テレビユー福島 | TBS系列 | 1983年12月4日から | ||
山梨県 | テレビ山梨 | |||
長野県 | 信越放送 | |||
新潟県 | 新潟放送 | |||
静岡県 | 静岡放送 | |||
中京広域圏 | 中部日本放送 | 現:CBCテレビ | ||
富山県 | 北日本放送 | 日本テレビ系列 | 1984年9月打ち切り[6] | |
テレビユー富山 | TBS系列 | 現:チューリップテレビ 1990年10月開局から | ||
石川県 | 北陸放送 | |||
福井県 | 福井放送 | 日本テレビ系列 | 遅れネット | 1979年9月打ち切り[7] |
近畿広域圏 | 毎日放送 | TBS系列 | 同時ネット | |
岡山県 →岡山県 香川県 |
山陽放送 | 1983年3月までの放送エリアは岡山県のみ 1983年4月より相互乗り入れに伴い香川県でも放送[8] | ||
鳥取県 島根県 |
山陰放送 | |||
広島県 | 中国放送 | |||
山口県 | テレビ山口 | |||
愛媛県 | 南海放送 | 日本テレビ系列 | 遅れネット | 一時期のみ[9] |
高知県 | テレビ高知 | TBS系列 | 同時ネット | |
福岡県 | RKB毎日放送 | |||
長崎県 | 長崎放送 | |||
熊本県 | 熊本放送 | |||
大分県 | 大分放送 | |||
宮崎県 | 宮崎放送 | |||
鹿児島県 | 南日本放送 | |||
沖縄県 | 琉球放送 |
補足
- 番組開始当初は、YKKの一社提供で、「YKKファミリーアワー」というオープニングキャッチがあった(ナレーションは伊武雅刀で「YKKがお送りいたします」とコメント。)。複数社提供移行後もYKKは筆頭スポンサーに連ねたが、末期は撤退。
- この番組は、門戸が狭い視聴者参加のクイズ番組の一つに挙げられていた。実際1980年代前半には競争率1000倍[10]にもなったといわれている。
- センターの早押し台の早押しボタンは、オレンジ色の大きな透明プラスチックカバーの中に電球が入っており、早く押すと電球が点く仕組みになっている。過去の放送の中には本番中に早押しボタンを押す際に勢いをつけ過ぎて、プラスチックカバーが割れるハプニングがあった。1回は最終問題だったため事なきを得たものの、もう1回は最初の問題で発生したので、スタッフが修理してその後再開。
- セットの9分割スクリーン(リアプロジェクション式9画面マルチスクリーン)の作り方、操作方法は(1975年までTBS系列で放送していた)ABC製作のクイズ番組『霊感ヤマカン第六感』のスタッフに作り方を聞いて作られたものであった。「家族対抗クイズ合戦」時代の初期は画面の切り替わりが一旦消灯して再表示するしくみだったが、後にフェード表示で切り替わるしくみに変更された。消灯した時点で正解か不正解かがわかってしまい面白みが減るのを防ぐためだと思われる。東海テレビ「家族対抗チャンスクイズ」でも使用された(こちらは、「霊感…」同様に一旦消灯して再表示するものだった)。
- マスコットとして「百太郎(ひゃくたろう)」が番組開始当初から設定されていた。当初はイラストばかりだったが後に着ぐるみが作られ、スタジオやロケなどに登場するなど活躍していた。百太郎はホッキョクギツネであるが、「これは何の動物だと思うか」という問題が出題されたことがある(多くの人が思った答えを当てる)。
- 1回だけトラベルチャンス中にニュースが番組を中断して挿入されてしまい、次番組『わいわいスポーツ塾』以降の番組が10分繰り下がってしまったことがあった。他系列の同時ネット番組が無いJNN系列ならではのエピソードである。
- 番組では答えが1つになる問題を探したり、毎年プロ野球のペケチーム予想(今年優勝しそうもないチームの予想)を行っていた。死者に鞭を打つと困るためトップのチームは公表しなかったが、残りのチームが全て出ている為、結局は分かってしまう。
- 「耳の大きな動物といえば?」という問題で全部の回答が開いて合計が99だったということがあった。「じゃあ、残り1つはなんだったんでしょう?」と回答外の答が紹介されたことがあった。残り1つは「江川卓」だった。
- 1979年4月2日放送の第1回は、当時プロボクシング世界チャンピオンで8度目の防衛戦を1週間後に控えていた具志堅用高の家族(テロップでは「協栄ジム 具志堅チーム」)と一般人家族の対戦だった。「トラベルチャンス」は具志堅チームが挑戦したが、第1回早々海外旅行獲得はならず、失格となった。このときの橋本の関口紹介のコメントは「進行は、100人に聞いた結果選ばれた関口宏(この時は「せきぐちー」とは伸ばさなかった)」であった。この回で出題された「しりとりで卵と言ったら次は何?」という問題は12年後の600回記念でも出題された。また、具志堅は最終回にも「ボクシングチャンピオンチーム」として出場した。
- 1981年ごろ、山田邦子も芸能界デビュー前に家族で挑戦したが予選で敗退した。またこのころ、芸能界デビュー前の山口美江が出題用の街頭アンケートに答えている。山田は後に芸能界に入る前、父から芸能界に入ることを反対されて、山田が芸能界に入るときに関口が懸命に山田の父を説得し最終的に認められたという逸話がある。現在も山田に取って関口は恩人である。
- 1984年ごろ、島田奈央子(島田奈美)もアイドルとしてデビューする前に一家で番組に出場した(島田がパーソナリティを務めていたラジオ番組『RADIO-izm』(FM-FUJI)でも話したことがある他、『ザ・ベストテン』でもVTRが放送された。1989年5月1日放送の「10周年記念チャンピオン大会」(第515回)でも紹介があった)。
- 1986年の当番組で現在日本未来の党所属で当時自民党所属の小沢一郎代議士(『学校別大学OB大会』で、慶應義塾大学の出身として出演)も解答者として出場したことがある。
- 1987年12月28日放送の第450回では本放送期間中で唯一の同点決勝があった。最終問題が終わった時点で同点となったため。万が一同点の場合に備えての決勝問題が通常問題とは別に用意されていた。最終回ではこのときの決勝問題をそのまま流用して通常対戦を行った。
- 1988年頃、通称「屋根裏のアナウンサー」こと、ナレーターの橋本テツヤの声が「怖い」という投書が全国各地から番組宛に寄せられた事を番組冒頭で紹介。司会の関口は秋田県と山形県からだけはそういった投書が一通も来なかった旨を話し、「スタッフが調べました。秋田と山形では番組をやっていなかったんですねー。」と話した事がある。
- フジテレビのバラエティ番組『ウッチャンナンチャンのやるならやらねば!』で、本家がOA中にもかかわらず番組のパロディがOAされた(タイトルは「クイズ5,6人に聞いちゃいました」)。司会役は関口に扮した内村光良(その時の役名"関ロ(カタカナの「ロ」)宏")であったがなんとゲリラで関口本人が登場し、司会を務める。本家同様、解答席に寄りかかるが、一見同じように見えるセットが本物に比べて高さが低かったらしく、「低いんだよねー」と言ったり、内村扮する関ロに対して司会ぶりや進行振りのダメ出しを行った。
- その後、1992年2月17日放送の第654回で『やるならやらねば』のレギュラー出演者(内村光良、南原清隆、ちはる、名古屋章、神田利則)が出場し、『サンデーモーニング』チーム(新堀俊明、三屋裕子、ケント・ギルバート、高木希世子、ペマ・ギャルポ)と対決した(TBSチャンネルでは再放送なし)。『やるやら』で乱入したことからウッチャンナンチャンとの因縁が始まり、その後『関口宏の東京フレンドパーク』で「パーフェクトを達成して関口の(当時白くなりだしていた)前髪を染めてやる!」とウンナンが何度も来園したあたりまで続いた。ちなみに2度挑戦して、ともに最後のアトラクション(ハイパーホッケー)で失敗したため関口の前髪を染めさせることは阻止され、逆にウンナンがスタジオ内の清掃係をさせられたが『関口宏の東京フレンドパークII』の2002年6月10日放送で内村がウルトラキャッツのメンバーとして出演、グランドスラムを達成し内村にとっては2度の雪辱を果たす形となった。
- 1992年7月20日放送の第675回では対戦チームの苗字がいずれも「鈴木」だった(TBSチャンネルでは2006年1月9・16日に再放送)。
- 1992年8月3日放送の第677回ではウルトラマンチーム対仮面ライダーチームが対決(TBSチャンネルでは放送なし)。
- なお小林はウルトラシリーズにも出演(ムラマツ隊長……ウルトラマンに登場)しているため、ウルトラチームから「裏切り者!」と呼ばれ、場内の笑いを誘った。
- レギュラー放送での番組対抗戦は、既に『家族対抗クイズ合戦』の時に1回だけ行われていた。出場番組は、『スポーツケンちゃん』と『コメットさん(新)』だった。どちらも国際放映の作品であり、さらに家族がテーマの番組だった。
- 1992年9月28日の最終回(第684回)では1時間の生放送スペシャルで、ハワイ旅行大放出の回であった。人気番組出演者、タレント、TBSアナウンサー、一般家族の計10チームが出場。対戦相手はくじ引きで決定、1問だけの勝負で、勝ったチームがその場でトラベルチャンスに挑戦。そのため両チームのテーブルには予め帽子と「見送り」旗が置いてあった。全チーム対戦後、残り時間があれば1度勝負に敗れたチーム同士での敗者復活もあり、1回だけ行われた。最後は出演者全員、ナレーターの橋本、番組スタッフが集まってエンディングとなり、9分割スクリーンには「14」「年」「間」「あ」「り」「が」「と」「う」「百太郎マーク」と出された。また生放送で時間がなかったため、巻きで進行する忙しさのあまり関口が3問お手つきで3つ目の「×」のプラカードを渡すつもりが「見送り」の旗を渡す、トラベルチャンスではフラップ板ではなく9分割スクリーンを使う為、解答者が答えたランキングが常時表示されず、ハワイ行き確定の帽子を被せる際に誰が1位か分からずに(1位を答えた解答者を優先させるため)解答者の自己申告や女性優先で帽子を被せる、「見送り」旗ではなく「×」のプラカードを持たせる場面も見られた(TBSチャンネルでは放送なし)。
- 1988年3月29日放送の『クイズまるごと大集合1988年春』で『100人に聞きました』の問題の中に南極越冬隊員37人に聞いた問題も出題された(質問は「仕事がない時は何をして過ごす?」だった。出場チームの解答者の中には「人形と遊ぶ」という珍解答もあった)。この時の『クイズまるごと大集合』の第1次予選の『100人に聞きました』では1問勝負で勝ったチームには無条件で100点(回によっては1000点、1500点)が加算される設定となっていた。また別の回では、プロゴルファーの岡本綾子1人に聞き、回答に優先順位を付けた「ゴルフをする時、これが無いと困る物」という問題が出題、勝者チームに500点加算されるルールであった為、本放送にはまったくない100人に満たない人数で聞いた問題も存在していた。
- また、1991年春の『クイズまるごと大集合』では競馬にまつわる問題で別の回答から「調教師」が開いてしまい、スタジオで控えていた大橋巨泉からクレームがあった。そのため得点こそ認めるが不正解扱いで解答権は失うと言う異例の措置が取られた。
- 解答後はカメラがパネルに向かってズームするが、最後の1枚の際はそのパネルに向かってズームする。
- 答えた解答が正解の解答と微妙な場合、判定の為少しの間が空く事がある。それで不正解の場合は大きなヒントとなる。
- 解答者が上手く説明出来ず、まとめられない解答があると、関口は少しの間の後「それ!」と言って判定を委ねる事があった。大抵は不正解の場合が多い。
- 曖昧な答の言い直しを促すチャイム音を、司会の関口は「チンポン」と表現していた。視聴者から言葉の響きに「違和感」がある等の投書が寄せられたりしたものの、関口は「別におかしくないと思いますが」として、言い替えることは無かった
- 1990年頃、出身大学対抗の芸能人大会があり、日本大学をはじめ、同窓生同士の男女混成の5人衆がクイズに挑んでいた。また同時期の正月特番で芸能人の出身県別対抗大会があった。男女3人組で1問先取勝ち抜きトーナメント方式だった。山梨県代表ではプロレスラーのジャンボ鶴田も出演していた。
- 番組終了から3カ月後の1993年1月、正月特番で再登場した(チームは大学生チーム、解答者はみのもんた・渡辺正行)。
- 得点表示は一般的なデジタル数字(7セグメントディスプレイ)表示であるが、唯一「4」だけ通常のデジタル表示で使われるデザインではなく、横棒の右側部分が突き抜けていた。
- 1990年1月8日の放送(第549回)で、使用されている音楽(テーマソングや、あるあるあるーの時や、3人×の音楽)がリニューアルされた。その後今回のリニューアルが良かったか良くなかったか葉書によるアンケートが行われた。良かったと書いた人には抽選で賞品(リニューアルした音楽を収録したカセットテープ)が当たるというアンケートだったにもかかわらず、良くなかったという葉書が届いていた(番組内では「大失敗」と書かれた葉書を紹介していた)。やはり違和感があったためか1991年4月にあるあるあるーのBGMは元の曲をアレンジしたものに変えられた(テーマソングはアレンジされ、3人×の音楽はそのまま使われた)。
- 番組後期辺りから、スタッフクレジットに感謝の意味をこめてアンケートに答えてくれた100人も(「○○(サラリーマン、高校生など)100人のみなさん」の後に「ありがとうございました」と)クレジットされる。
パロディ
- 1983年ごろ放送のフジテレビジョン「オレたちひょうきん族」の「タケちゃんマン・クイズ番組の巻」でビートたけしらがクイズ100人に聞きましたのクイズに挑戦するストーリーがあった。
- 本家との相違点
- パネル表示の画面の切り替わりが手動式で下にパネルが下がる方式となっていた。
- マスコットマークも西武ライオンズのレオマークが使われていた(球団からの使用許諾が降りた為、使用出来たと思われる)。
- トラベルチャンスが無く、優勝チームはハワイ獲得となった(あくまでもパロディで、実際にはハワイ獲得していない)。
- 本家との相違点
- ビートたけしの全日本お笑い研究所(日本テレビ)でも1988年6月15日放送の「北野さん一家のクイズ日記」のコーナーで「クイズ100人に聞いてしまいました」があった。
- 本家との相違点
- 解答パネラーは1チームで3人だった。
- 答えの数が4個である。
- 点数表示がデジタル式ではなく、電球方式であった。
- パネル表示の画面の切り替わりが手動式で、パネルが横回転出来る方式となっていた。
- 先攻チームが1つでも「×」マークが付くと、解答権は後攻チームに移っていた。
- マスコットマークも番組オリジナルのウサギをイメージしたイラストが使われていた。
- トラベルチャンスが有り、優勝チームはハワイ獲得となった(あくまでもパロディで、実際にはハワイ獲得していない)。
- 本家との相違点
- 邦ちゃんのやまだかつてないテレビ(フジテレビ)でも「クイズ役人に聞きました」のコーナーがあった。司会は関根勤が本家の関口の物まねで司会。
- ウッチャンナンチャンのやるならやらねば!!(フジテレビ)でも「クイズ5,6人に聞きました」のコーナーがあった。司会は内村光良扮する関ロ宏(せきろひろし、「関ロ」の「ロ」は片仮名の「ロ(ろ)」)。
- それゆけ!マーシー(MBS制作・TBS系)でも「芸能人とデート」のコーナーがあり、クイズ100人に聞きましたと同じ手法だった。
- 本家との相違点
- 答えが芸能人にまつわるエピソードで9個あった。
- 出場チームが女性チーム3人1組で2チームだった。
- パネルの前に設置されている解答台がなく問題の早押しも解答席から押す形でシンキングタイムの音楽も流れていた。
- 解答席の賞金表示のソラリー表示が無かった。
- 誤答時のテロップが「×」マークではなく田代まさしの似顔絵が流れていた(涙を流すアレンジが施されていた)。
- トラベルチャンスが無く、賞品は勝者の代表者に芸能人とのデートタイムと収録したテープをプレゼントだった。
- 本家との相違点
- スーパークイズスペシャル(日本テレビ系列)では、「クイズ100人に聞いたら1人しか答えませんでした」といったコーナーがあった。
- 本家との相相違点
- ある事柄に対して、100人にアンケートをした結果、「1人」しか答えなかったものを当てるクイズ。「2人」以上答えたものが回答した場合、即失格となる。
- 本家との相相違点
クイズ100人に聞きました形式のクイズを行っていた番組
- とんねるずの生でダラダラいかせて!!(日本テレビ):「クイズ100人ぐらいに聞きました」- この時は4人×で相手に解答権が移るというルールだった。
- ハロー!モーニング。(テレビ東京):「クイズ1000人に聞きました」
- タモリのボキャブラ天国(フジテレビ):「クイズ100人がボキャブりました」
- EXテレビ(読売テレビの担当日):「クイズ100人が言いませんでした」→「クイズ1人しか言いませんでした」
- この形式は『スーパークイズスペシャル』と『島田紳助がオールスターの皆様に芸能界の厳しさ教えますスペシャル!』でも行われた。
脚注
関連項目
外部リンク
テンプレート:前後番組 テンプレート:前後番組 テンプレート:関口宏en:Family Fortunes
id:Super Family
- ↑ 後番組『関口宏の東京フレンドパーク』も続投。
- ↑ オープニングの提供クレジットはVTRに組まれた。また、エンディングの提供読みはTBSの女子アナが担当。クレジットはブルーバックになっていた。
- ↑ 画面に何度も点滅する表示だった。
- ↑ 文字が画面中央から拡大してきて、ファンファーレが終わると同時にそのまま前に行く表示だった。
- ↑ 福島テレビは1983年4月にTBS系列・フジテレビ系列とのクロスネット局からフジテレビ系フルネット局にネットチェンジしたが、視聴者保護のために1983年4月~9月までは番販扱いで放送していた。未放送期間中はTBS・東北放送・新潟放送で視聴可能だった。
- ↑ 富山県に工場を持つスポンサーのYKKの意向により同時ネットを行っていたが、1984年秋に『JNNニュースコープ』の放送時間拡大に伴って、同年9月下旬でネットを取り止め、アニメ『キャッツ・アイ』(日本テレビ系列)に切り替えた。ただし、1984年10月―1990年9月の間も、新潟放送または北陸放送、さらには現在の岐阜県飛騨市と隣り合う中部日本放送の受信が可能な地域では視聴可能であった。
- ↑ CATV局経由で北陸放送(MRO)など視聴可能。
- ↑ ただし、香川県では相互乗り入れ以前から山陽放送やMBSを通じて視聴可能であった。
- ↑ 愛媛県のTBS系新局であるあいテレビは1992年9月21日付で開局前サービス放送を開始しているが、開始当日は『わいわいスポーツ塾』最終回スペシャルの放送日に当たっており、当番組は同年9月28日のやはり最終回スペシャルだけが放送された。
- ↑ 1983年8月24日のスポーツニッポン内の記事より。