岡本綾子
テンプレート:ゴルファー 岡本 綾子(おかもと あやこ、1951年4月2日 - )は、広島県豊田郡安芸津町(現:東広島市)出身の女子プロゴルファー[1]。樋口久子らと共に日本女子ゴルフの基盤を築いた名選手である[2][3][4]。日本の女子選手で初めて本格的にアメリカLPGAツアーに参戦した選手としても知られる。現在は広島県東広島市在住[1]。
日本女子ゴルフツアーで44勝、アメリカLPGAツアーで17勝[5]。日本ツアーの永久シード権を獲得しているほか、1987年には、アメリカ人以外で史上初のLPGAツアー賞金女王になった[5][6][7]。
目次
経歴
生い立ち
瀬戸内海を望む安芸津町木谷の生まれ[8]。木谷は赤土土壌で地元では赤崎と呼ばれる美しい丘陵地[† 1]。この地で収穫されるジャガイモは料亭などに流通する高級品で知られ[9]、岡本の実家もジャガイモやタバコなどを作る農家のため、家の手伝いをすることで強靭な足腰が鍛えられた。お転婆な子供で男の子と野球で遊ぶことが多く、中学で野球部を希望したが女子は入れてもらえず、ソフトボール部へ入部した[10]。
ソフトボール
ソフトボールの強豪・愛媛県今治明徳高校に特待生として進学[11]。同高校卒業後、ソフトボール部を創部した大和紡績福井工場(1995年9月閉鎖)に就職[12]。サウスポーの剛球エース兼4番として1971年、和歌山国体で優勝[13]。国体優勝の褒美で、祝勝ハワイ旅行で初めて子供の頃から憧れたアメリカの土を踏む[14]。ここでゴルフ場を見学したのがきっかけでゴルフと出合う[5]。ゴルフを始めた動機は「アメリカに行けるかも知れない」というものだった[15]。
ゴルフ
1972年に大和紡を退職後、1973年1月に池田CCに入社し、1974年10月に2度目の受験でプロテスト合格。この時「将来の夢は、アメリカに行ってプレーすることです」と答えたが、当時の状況では当然の如く、「やっとプロになったばかりで日本で1勝もしてないのに生意気」と先輩たちの反撥を買う[7][15]。大和紡時代から、その時のための準備に毎月3万円の給料の中から、爪に火を灯すように貯金をしていた[16][17]。アメリカで成功するまで実家にもほとんど帰らなかったといわれる[† 2]。国内のトーナメント試合に欠場して、マスコミの批判を浴びたこともある[15]。
プロデビュー一年目の1975年、美津濃トーナメントで初優勝。杉原輝雄が「オレより30ヤードは飛ぶね。いやになる」と言う程で、ソフトボールで鍛えた強いリストと強靭な腰のバネで、男子プロ並みの飛距離、豪打で鳴らした[18]。当時はヘッドがパーシモンでできたドライバー、ボールは今のようなソリッドボールではなく糸巻きで、飛距離も今のように出ず、当時の女子プロの平均飛距離は210~220ヤードぐらいであったが、岡本は240~250ヤードは飛ばした[19]。岡本の出現は日本女子プロゴルフ界に"パワー時代"を幕開けさせた[15][20]。プロ4年目の1978年、アメリカLPGAツアーテストを受けるが失敗[15]。1979年、日本女子プロゴルフ選手権優勝。通算17アンダーは、当時の54ホール世界女子プロ最小スコア記録[20]。1981年、樋口久子を抜いて初の賞金女王[6][21]。史上初の賞金3000万円突破(3233万円)、年間8勝最多タイ(全29試合)、年間平均ストローク72.55(新記録)[21]。
1981年、日本の女子選手では初めて本格的にアメリカLPGAツアーに参戦し[† 3][† 4][† 5][22]。1982年から1992年の間、計17大会で優勝した[23]。1985年には腰痛で引退の危機に直面したが、1986年に復帰2戦目で優勝。1987年には、アメリカ人以外で史上初のLPGAツアー賞金女王になった。同年、年間最優秀選手(プレーヤー・オブ・ザ・イヤー)も獲得[24]。メジャー大会での優勝はならなかったが、単独2位を4度、2位タイを2度経験している。中にはプレーオフで敗れた大会もあり、ローラ・デービースやパット・ブラッドリーなどに道を阻まれた[25]。特に1987年の女子メジャー最高峰・「全米女子オープン」で、再三に渡る豪雨順延で6日間に及んだローラ・デービース、ジョアン・カーナーらとの名勝負は有名[13][26][27]。日米英3か国のトッププレイヤーが大激戦を演じたこの1987年大会は、全米女子オープンが真の世界一決定戦となった象徴的な出来事としてUSGAの公式HPに紹介され、岡本の名前が刻みこまれている[27][28]。プレーオフが行われた同年の7月28日は、全米のゴルフ史にも大きな意味を持ち続けている[27]。全米女子プロでは1984年から8年連続1ケタ順位(1989年と1991年は2位)[29]、デュモーリエは2位3度(1984年、1986年、1987年)。1983年から1991年までの間に、LPGAツアーの賞金獲得順位トップ10に8回入った。ヨーロッパ女子ツアーでも1984年、メジャー昇格前の「全英女子オープン」で2位に11打差のぶっちぎり優勝[26]、1990年にも「ドイツ女子オープン」でも優勝した。1987年、日本人選手として史上唯一の日米女子ツアー2戦連続優勝[30]。1980年代の岡本の活躍は、当時のマスメディア、スポーツ新聞も大きく報道し、夜中や明け方にテレビで衛星中継もされた[17]。特に当時「世界一速いゴルフ速報」にシフトした東京スポーツは、"世界のアヤコ"をダントツトップで一面に登場させた[26]。東京スポーツは、「世界のアヤコ」活躍の歴史=「東スポゴルフ面の歴史」と言っても過言でないと論じている[26]。
1979年からテレビ東京でレギュラー出演した『岡本綾子のNECスーパーゴルフ』もゴルフ番組として高い評価を得た[5]。1989年、東京都が運営する若洲ゴルフリンクスの監修を行い、以後、国内外の多くのコースの設計アドバイスを手がける[31]。
2006年暮れに最愛の母を亡くしたが、それをバネに、10キロ減量が前提ながら、2007年から再び女子ツアー参戦に意欲を見せていた。しかし、ヒザの故障が自身が思う以上に悪くブランクが長引いて「現在の女子ツアーのレベルを考えると、本格復帰は事実上しんどいと思う」と述べた[32]。また2009年には父も亡くしている[26]。
2008年郷里・安芸津町に近い東広島駅近くに居を構え、広島と東京の半々くらいの生活を始めた[1]。家庭菜園や近所に住む長兄夫婦の畑などで好きな土いじりをしながら、愛犬と暮らしている。今後は広島に生活の基盤を置く予定と話していたが[32]、服部真夕をプロデビュー後から指導して以降、定期的に女子プロゴルファーへの指導を行う。門下生に服部真夕、表純子、青山加織、森田理香子、若林舞衣子らと増えてきて、門下生が口にする「師匠・綾子の教え」が誌面やスポーツニュースに登場する機会も増え、岡本の指導者としての実力も注目を集めるようになった[26][33]。2012年には指導者としての功績によりLPGAから特別賞を受けた[34]。また「全米女子オープン」などのテレビ解説者としても出演している[35]。このため2013年現在も「半農・半ゴルフ生活」中である[26][27][36]。
2013年5月1日より1ヶ月間、日本経済新聞の「私の履歴書」に連載。
受賞・表彰
各種スポーツ賞の受賞歴も多く、1987年に日本プロスポーツ大賞を受賞。女性選手個人では2012年まで唯一の受賞者である。2005年に世界ゴルフ殿堂入りも果たした。日本人ゴルファーの世界ゴルフ殿堂入りは、2003年の樋口久子、2004年の青木功に続いて史上3人目。日米のツアーでの活躍など、世界的な活躍から「国際投票部門」で選出された初の女子選手である[3][12][37]。2006年7月より東京スポーツで「祝! 殿堂入り記念 岡本綾子ゴルフのすべて」が連載された。
2005年12月20日、文部科学省からスポーツ振興に功績があった「スポーツ功労者」に選出された。郷土からは1993年に広島県民栄誉賞を受賞し、2005年には安芸津町名誉町民になっている。2012年には佐伯三貴らとともに初代の「東広島PR大使」に就任した[1]。
評価
女子ゴルフのみならず、戦後の女子スポーツ界に多大な足跡を残した人物[38][39]。また、ジャンルは違えど、野茂英雄をはじめイチローや松井秀喜に代表される現在の日本人スポーツ選手のアメリカにおける成功の先駆けになったアスリートである[13][40]。文藝春秋編集部は、1988年に刊行した『「文藝春秋」にみるスポーツ昭和史』全三巻のあとがきに於いて "昭和のスーパー・スポーツマン十人" に織田幹雄、人見絹枝、双葉山、川上哲治、古橋廣之進、白井義男、力道山、長嶋茂雄、植村直己と共に岡本綾子を選んでいる。
2006年、カナダのCBCスポーツ(CBC Sports)が「日本の偉大なスポーツ選手10人(Top 10: Japanese Athletes)」として、王貞治、アントニオ猪木、木村政彦、イチロー、田村亮子、大鵬、高橋尚子、荒川静香、釜本邦茂と共に岡本綾子を選び、"Golf Great"と讃えた[41]。
影響
イチローのバッティングのベースは岡本のスイングを参考にしたものという。イチローの父・鈴木宣之が岡本の美しいフォームから男子選手顔負けの飛距離を出すその打ち方を見て、か細いイチローに参考にならないかと研究。"イチロー打法"の大きな特徴であるインパクトの瞬間に、体重を軸足から前側の足にスムーズに移すことと上半身の大きな捻りによって、より強い力をボールに与え、速くて強い打球を打つ。こういったアドバイスをイチローに与えた。その後、中学、高校、プロを通じて、間の取り方を除いて、イチローのバッティングの基本は、小学校時代から変わっていないという[42]。
人物
野菜ではピーマンが大の苦手。自宅の家庭菜園でもピーマンだけは絶対に作らないことに決めているという[26]。
出演
TV番組
- 岡本綾子のNECスーパーゴルフ(1979年10月 - 2001年3月、テレビ東京) - レギュラー出演
- ベストゴルフ(1989年4月 - 9月、NHK教育テレビ) - 講師
CM
注
- ↑ 岡本は著書『AYAKO―A LIFE STORY』の中で、ソフトボールを辞めた後、ボウリングやバスケットボールも勧められたが、ゴルフを選んだ理由の一つに「ゴルフ場は空に囲まれたまさに"カントリー"で、田舎者のわたしにはピッタリ。わたしが一番安心できる環境だった」と話している(『AYAKO―A LIFE STORY』、太田出版、1986年10月、p58、59)。
- ↑ しかし、親族への連絡は常に怠らない。横浜在住の兄の長男による私設ファンクラブサイトは一部で愛されている。
- ↑ LPGAツアーテストは二度目の挑戦で合格。
- ↑ 当時の日本の女子ゴルフ界はまだまだ発展途上で、トーナメントは年間20試合ほど。樋口や佐々木マサ子など、極く少数のトッププロだけが、日本で春先の試合の行われていない時期を利用して、アメリカのツアーに遠征した(『岡本綾子のメモリアル・グリーン』、p11、『女の生き方』40選〈下〉、p285―288)。
- ↑ それまで日本人選手は、飽くまでも日本女子ゴルフ協会の会員であり、日本国内でのトーナメント出場を最優先に、日本でのプレーを基本に考えるもの、と考えられてきた。ところが岡本は所属先の大和紡を通じて日本女子ゴルフ協会に「アメリカツアー挑戦」と「国内試合の大部分欠場」の了承を求めた。それまで選手がアメリカへ行ったきりになって帰ってこないという所謂、LPGAツアー、フル参戦の表明などした者はなく、岡本の申し出は前代未聞のものであり協会側と揉めた。さらに「岡本綾子、アメリカ常駐へ」と新聞がスッパ抜くとマスメディアも大きく取り上げ、プロゴルフ界全体を巻き込み騒然となった。ほとんどのマスメディアは岡本のフル参戦を後押しする報道を行ったが、協会側の見解が出ないままに渡米した岡本のあとを追うように、ある週刊誌が岡本のインタビューを歪曲して『岡本綾子激白、さよなら日本!女子プロゴルフにもう愛想がつきました』という記事を掲載しセンセーションを巻き起こした(『女の生き方』40選〈下〉、p285―288、『AYAKO―A LIFE STORY』、p166―180)。
出典
参考文献
- 「文藝春秋」にみるスポーツ昭和史 第三巻、文藝春秋、1988年8月
関連項目
外部リンク
テンプレート:JLPGAツアーシード選手 テンプレート:日本女子ゴルフ歴代賞金女王
テンプレート:日本プロスポーツ大賞- ↑ 1.0 1.1 1.2 1.3 東広島PR大使 - 東広島市公式ホームページ
- ↑ 人間の記録 193巻 岡本綾子 | 日本図書センター
- ↑ 3.0 3.1 2005/12/ 6 岡本綾子が日本人3人目のゴルフ殿堂入り。 - GDO Back9
- ↑ 佐藤彰雄の一喜一憂 先駆者の勇気を感じていたい
- ↑ 5.0 5.1 5.2 5.3 世界ゴルフ殿堂(英語)
- ↑ 6.0 6.1 LPGAの歴史|LPGA|日本女子プロゴルフ協会
- ↑ 7.0 7.1 樺山紘一他編集『人物20世紀』、講談社、1998年、p925
- ↑ 木谷地域まちづくり実行委員会
- ↑ 安芸津のじゃがいも収穫最盛期です - 東広島市公式ホームページ、JA芸南【管内の特産品】
- ↑ 『AYAKO―A LIFE STORY』、p16、17
- ↑ 活躍する卒業生
- ↑ 12.0 12.1 岡本綾子プロ 世界ゴルフ殿堂入り
- ↑ 13.0 13.1 13.2 次世代に伝えるスポーツ物語 ゴルフ・岡本綾子
- ↑ 『岡本綾子のメモリアル・グリーン』、日本放送出版協会、1994年、p9、10
- ↑ 15.0 15.1 15.2 15.3 15.4 山崎朋子『女の生き方』40選〈下〉、文芸春秋、1995年、p274―292
- ↑ 『AYAKO―A LIFE STORY』、p47
- ↑ 17.0 17.1 小倉千加子『アイドル時代の神話 PARTII』、朝日新聞社、1991年、p9―31
- ↑ 週刊新潮、1981年7月23日号23頁
- ↑ 東京スポーツ・2010年9月28日付 21面
- ↑ 20.0 20.1 日本女子プロゴルフ選手権大会の歴史と歴代優勝者ページへ
- ↑ 21.0 21.1 週刊文春、1981年12月10日号134頁
- ↑ 岡本綾子プロが語るミズノクラシックの展望 | MIZUNO CLASSIC
- ↑ 【今日は何の日?】岡本綾子が米ツアー初優勝 - web Sportiva - 集英社
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ 名門ゴルフ一家出身 ブラドリー、メジャー初出場V
- ↑ 26.0 26.1 26.2 26.3 26.4 26.5 26.6 26.7 東京スポーツ・2010年7月30日付 22面
- ↑ 27.0 27.1 27.2 27.3 岡本綾子プロの秘蔵写真!:ゴルフの楽園:東スポWEB-東京スポーツ新聞社
- ↑ U.S. Women's Open History
- ↑ 本田靖春『戦後の巨星 二十四の物語』、講談社、2006年、208頁
- ↑ 藍、岡本綾子以来25年ぶり“日米”連続V決める!…女子ゴルフ
- ↑ 第44回 日本女子プロゴルフ選手権大会 コニカミノルタ杯、打倒岡本綾子! さくらが最終調整(日刊スポーツ)、岡本綾子プロフィール - Okamoto Ayako Official Homepage、若洲ゴルフリンクス|HOME
コース案内|富士OGMエクセレントクラブ 伊勢二見コース(公式サイト)、コース | ロイヤルフォレストゴルフ倶楽部、コース設計アドバイザー 岡本綾子 プロ | 花吉野カンツリー倶楽部、岡本綾子さんからのコメント、新武蔵丘ゴルフコース[営業内容] 、ゴルフ場ガイド - 竹原カントリークラブ(ゴルフ場詳細) - Yahoo!スポーツ、GUAMGOLF.NET::グアム ゴルフ最新情報::グアムインターナショナルカントリークラブ - ↑ 32.0 32.1 「ゴルフダイジェストチョイス」2008年3月号、ゴルフダイジェスト社、p98-105
- ↑ “綾子チルドレン”、女子ゴルフ界で羽ばたく :日本経済新聞、女子ゴルフ、「綾子門下生」はなぜ強いのか :日本経済新聞、門下生は恐々? 服部真夕が受けたユニークなペナルティ (GDO)、日刊ゲンダイ、2011年5月5日37面
- ↑ 2012年 LPGAアワード2012表彰式 受賞者たち|GDO、成田美寿々、全美貞、岡本綾子を表彰 - 国内女子ゴルフニュース
- ↑ 岡本綾子が語る - ニュース - ゴルフダイジェスト・オンライン
- ↑ アヤコ門下生 予選落ちなら草むしり : nikkansports.com - 日刊スポーツ
- ↑ http://www.golfersland.net/okamoto/okamoto.html 岡本綾子プロ世界ゴルフ殿堂入り - ミズノ]
- ↑ 讀賣新聞、2009年9月26日p27
- ↑ 日米交流150周年記念外務大臣表彰状授与式について
- ↑ JBCCホールディングス株式会社 | 道を極めることその先に進むこと
- ↑ Top 10 Japanese Athletes | CBC Sports Online
- ↑ 「溺愛 我が子イチロー」1997年6月、鈴木宣之著、週刊ベースボール、p75-78、イチローにも影響を与えていた岡本綾子のスウィング