織田幹雄

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テンプレート:Infobox 陸上選手 織田 幹雄(おだ みきお、1905年明治38年)3月30日 - 1998年平成10年)12月2日)は、日本の元陸上選手、指導者。広島県安芸郡海田町出身。1928年アムステルダムオリンピック三段跳金メダリスト[1][2][3]

人物

テンプレート:External media日本人初のオリンピック金メダリスト」であり、アジア人としても個人初のオリンピック金メダリストである[4][5]。織田の金メダルにより、日本陸上は一躍世界の第一線に躍り出たと言われるテンプレート:Sfn[6]。当時英語で「ホップ・ステップ・アンド・ジャンプ」(現在はトリプルジャンプ)と呼ばれた競技名を「三段跳」と訳した[1][7]テンプレート:Sfn。三段跳では、織田(1928年五輪)・南部忠平1932年五輪)・田島直人1936年五輪)と3大会連続で金メダルを獲得したことから当時日本のお家芸とも言われた[8]。なお、南部と織田は終生の友人であり、田島は織田の影響で三段跳を始めた関係でもあるテンプレート:Sfn[9][10]。「陸上の神様[7][11]、あるいは「日本陸上界の父[1]テンプレート:Sfnと呼ばれ、戦後日本全国で陸上競技を指導普及したいわば育ての親のような存在であるテンプレート:Sfn国際オリンピック委員会(IOC)オリンピック功労賞受賞。

文化功労者、広島県名誉県民、安芸郡海田町名誉町民、東京都名誉都民渋谷区名誉区民。最終学歴は早稲田大学商学部卒業。朝日新聞社に入社し最終的には朝日新聞運動部部長、のち早稲田大学教授を務めた。

実兄は元中国電力筆頭理事で小水力発電メーカーを立ち上げた実業家の織田史郎[12]。妻は貴族院議員中村純九郎の三女[13]。実業家で第7代住友財閥総理事の古田俊之助は義兄[13]。妻の伯母は天文学者寺尾寿の先妻[13]。長男の正雄と次男の和雄は共に父・幹雄関連の著書で名を連ね関連イベントに登場する。正雄は日独協会理事を務めドイツ関連の書籍をいくつか出しているテンプレート:Sfn。一方で二人は、天皇明仁の学友(正雄は学習院中等科で同級生、和雄は2歳後輩のテニス仲間であり常陸宮正仁親王と同級生[14])として知られ、皇后美智子とを繋いだ関係者でもある。

来歴

若年期

ファイル:Kaita Aerial Shoot.jpg
海田町と近隣の町の空撮。写真中央を横断する川が瀬野川であり織田の若年期における走幅跳の練習場[1]だった。写真中央やや右下が海田市駅であり、稲荷町は駅と左下側(北方向)の山に挟まれた区域にあたる。駅から左斜め上、川を渡ってすぐの広地が海田小学校であるが織田が通っていた時代と場所は違う。
ファイル:Kokutaiji High School.JPG
現在の広島国泰寺高校。被爆により全壊した歴史を持つが、現在も織田が通っていた当時と同じ場所に位置する。

1905年明治38年)、広島県安芸郡海田市町(現海田町稲荷町)に生まれる[3]テンプレート:Sfn

海田尋常小学校(現海田町立海田小学校)へ入学[3]、在学中に海田市町と隣の広島市船越村の尋常小学校3校の合併で鼓浦尋常高等小学校[15]ができ同校を卒業するテンプレート:Sfn。なお鼓浦尋常高小の後進は広島市立船越小学校であるが[15]、この経緯から織田の出身校は海田小[3]テンプレート:Sfnで統一されている。尋常小学校時代に安芸郡の体育大会での200m走で優勝しているテンプレート:Sfn

1918年大正7年)、広島市中心部にある広島県立広島中学校(のち県立広島第一中、現広島県立広島国泰寺高等学校)へ入学するテンプレート:Sfn。同年1年時に校内の8マイルマラソン(約13km)で優勝している[16]。ただ当時同校には、陸上競技部は存在しておらず、足に自信があった織田は西日本で一番強かったサッカー部へ入部するテンプレート:Sfnテンプレート:Sfn。第4代日本サッカー協会会長の野津謙広島カープの設立で知られる谷川昇はサッカー部の6年先輩、サッカー日本代表選手の深山静夫は5年先輩にあたる。利き足は左だったが両足でボールを蹴ることが出来、入部当初は試合に出られなかったが3年生からフルバック(DF)左ウイング(FW)など様々なポジションで試合に出られるようになるテンプレート:Sfn[17]。のちの陸上跳躍競技でも織田はこの左足[18]を使うことになる。

陸上の世界へ

1920年(大正9年)広島一中3年時に、アントワープ五輪陸上十種競技野口源三郎が広島で講習会を開くこととなり、参加することになったテンプレート:Sfn。この時に織田は走高跳で自分の身長(当時155cm)より高く飛んでみせ、それを見た野口から褒められたことが陸上へ進むきっかけとなった[3]。野口の指導を受けた5日間を記したノートは「原点ノート」と呼ばれ、海田町ふるさと館に展示されている[2]

1921年(大正10年)広島一中4年時、徒歩部(陸上部)ができたことから、サッカー部を辞め徒歩部へ入部したテンプレート:Sfn。当時は強豪だったサッカー部がグラウンドを占拠したことから隅で練習を積みテンプレート:Sfn、また徒歩部には指導者がいなかったため本屋を歩きまわり独学で練習した[3]走幅跳の空中での動作がうまくいかず、自宅近くを流れる瀬野川に向かって跳び、足の振り方を練習した[1][2]。同年偶然が重なり佐々木等から練習を見てもらえることになり、走高跳で当時の日本記録を上回る記録を飛べるようになるテンプレート:Sfn。全国中等学校陸上競技大会では、一中は総勢6人で初参加し初優勝を果たし、織田自身も走高跳と走幅跳で優勝したテンプレート:Sfnテンプレート:Sfn。なお徒歩部創設時に入部した1年先輩に沖田芳夫がおり、中国地方の大会ではほぼ二人だけで全競技勝利しており、のち「広島一中の双璧」と謳われているテンプレート:Sfn[16]

1922年(大正11年)、17歳の時に第6回極東選手権競技大会予選会で走高跳1m73、走幅跳6m29の日本新記録を樹立、三段跳は13m38で日本記録にあと7cm届かなかったテンプレート:Sfn[16]

1923年(大正12年)、家庭の経済的理由から授業料のいらない広島高等師範学校臨時教員養成所へ進学するテンプレート:Sfn。なお沖田はこの年に進学しており2人共1922年度つまり同年度に広島一中卒業ということになる[19]。同年、第6回極東選手権で走幅跳、三段跳で優勝テンプレート:Sfn[16]。当時の毎日新聞には「日本一のジャンパー」「跳躍の鬼才」「ジャンプの麒麟児」と謳われている[16]

1924年(大正13年)広島高師臨教2年時、パリ・オリンピックに出場テンプレート:Sfn五輪日本選手団は陸上・水泳テニスレスリングの全28人で、織田は跳躍では唯一の日本代表テンプレート:Sfnだった。当時の日本陸上は世界の情勢に程遠く、オリンピック村で他国のチーム関係者に話を聞いて驚くような状況だった。織田は走高跳では予選落ちするも、三段跳で14m35(日本新記録)をだし日本陸上初の入賞(6位)を果たした[3]テンプレート:Sfn

早稲田と金メダル

1925年(大正14年)、奨学金を得て早稲田大学第一高等学院(現早稲田大学高等学院)へ進学、早稲田大学競走部に所属するテンプレート:Sfnテンプレート:Sfn。同郷で後に"日本レスリング界の父"と呼ばれる八田一朗は同学校の一学年下テンプレート:Sfn、同じく同郷で後に日本水泳連盟会長となる藤田明も後輩にあたる。競走部には広島一中の先輩で親友であった沖田(1923年入部)、そして南部忠平(1924年入部)がおり、特に南部とは以降70余年に及ぶ終生の親友となり兄弟よりも仲がいいと言われお互い切磋琢磨し大きな業績を残したテンプレート:Sfn。五輪に日本代表として出た経験を持つ織田だったが、競走部では1年から雑用をやったことを回想しているテンプレート:Sfn。在学中、走幅跳および三段跳で日本記録を更新しただけでなく、第7回極東選手権競技大会予選会では十種競技で、第13回日本陸上競技選手権大会では400mリレー山口直三大沢重憲・織田・南部)で日本新を記録しているテンプレート:Sfn

1928年昭和3年)、沖田の後を追う形で早稲田大学商学部に進学するテンプレート:Sfnテンプレート:Sfn。引き続き早大競走部に在籍、沖田・南部らと競走部黄金期の立役者となり[9]テンプレート:Sfn、早稲田スポーツの先駆者となった[10]。自身の活躍と共に陸上のコーチはいない時代のため[10]テンプレート:Sfn中島亥太郎や織田を慕って入部してきた西田修平ら後輩を指導したテンプレート:Sfn。当時早大競走部部長テンプレート:Sfnであり同年に発足した日本学生陸上競技連合初代会長で、後に1940年幻の東京オリンピック招致に動いた山本忠興は、織田を通じて陸上競技の知識を習得した[20]

同1928年、アムステルダムオリンピックに出場。五輪日本選手団には早大競走部から織田の他、沖田・南部・大沢・山口・住吉耕作木村一夫井沼清七が選ばれている。7月28日に行われた走幅跳では1m88で8位に終わる。8月2日、三段跳が行われ、予選で15m21を記録しトップで決勝へ進み、結局この記録が残り日本人初の金メダルを獲得するテンプレート:Sfn。この表彰式で有名な出来事があり、詳細は下記#逸話参照。なお、この五輪での金メダルは織田と競泳男子200m平泳ぎ鶴田義行の2人だけであり、織田のメダル獲得の6日後に鶴田が獲得している[21]。この時の祝勝会は国や早稲田大からは開いてもらえず、故郷の海田市町が祝ってくれたと回想しているテンプレート:Sfn

1929年(昭和4年)、早大競走部主将となるテンプレート:Sfn。以降も一線級の陸上競技者として活躍したテンプレート:Sfn

現役後期と戦争

1931年(昭和6年)、大学を卒業し朝日新聞社入社、大阪朝日新聞社運動部に所属する[3]。同年第1回一般対抗学生選手権(神宮)にて、当時の三段跳の世界記録(15m58)を樹立した[22]。なお、織田はいくつも日本記録を更新しているが、世界記録を更新したのはこの記録のみで、この記録も後に南部が更新することになる[22]。また同大会では南部も走幅跳で世界記録を更新している[22]

1932年(昭和7年)3月、台湾での指導中に足を負傷してしまい、これが選手寿命を縮める結果となったテンプレート:Sfn

同1932年、ロサンゼルスオリンピック開幕、織田は五輪日本選手団の旗手を務め、陸上競技日本代表のコーチ・主将・選手として出場したテンプレート:Sfn。選手として出場した三段跳では記録が振るわなかったテンプレート:Sfn。ただ三段跳では南部が15m72の世界新記録を樹立し金メダルを[22]大島鎌吉が銅メダルを獲得している。

五輪が終わった同1932年11月、山本忠興を媒酌人として結婚[23]。以降、怪我もあり陸上の第一線から退き、1934年(昭和9年)第34回日本陸上競技選手権大会での走高跳1m85を飛んで2位に入ったことが記録として最後のものとなるテンプレート:Sfn

その後は陸上競技指導者として活躍した。当時は指導者はおらず、陸上コーチは織田が中心になって始めたテンプレート:Sfn。現役時代の戦前から、一線を退いた戦後にかけて主に朝日新聞毎日新聞主催で、南部らと県庁所在地で行かない所はないというくらい陸上の指導に全国を巡回したテンプレート:Sfn。この間、戦争へ向かって進む中で、スポーツ界に暗い影を落とす。その一つが、1938年(昭和13年)東京五輪開催権返上である。織田は、コーチとして指導する中でアメリカに五輪の跳躍競技で勝てると確信していたが、準備委員会は機能しておらず東京の競技場の建設も止まり、国中が開催する雰囲気ではなかった、と回想しているテンプレート:Sfn。更に太平洋戦争では選手たちが死亡しているテンプレート:Sfn

終戦4ヶ月後にあたる1945年(昭和20年)12月9日、織田の提案で東京大学競技場にて競技会が開かれ陸上競技愛好家が全国から集い織田も走高跳に出場したテンプレート:Sfn。同日、平沼亮三を会長として日本陸上競技連盟(JAAF)新組織発足、織田はJAAF強化担当ヘッドコーチに就任するテンプレート:Sfnテンプレート:Sfn。つまりこの日が日本陸上界復活の日となったテンプレート:Sfn

戦後復興

戦後は世界を相手に戦える人材の育成に奔走[10]1948年(昭和23年)、日本オリンピック委員会(JOC)委員に就任テンプレート:Sfn。同年に行われたロンドンオリンピックには日本はまだ参加が許されず、また日本人の海外渡航も未だほとんど許されない時代、同郷の松本瀧藏らの支援を受け、この年強化の見識を広めるため、単身5ヶ月に渡り欧米競技会を視察するテンプレート:Sfnテンプレート:Sfn

1949年(昭和24年)、戦後スポーツ最初の国際試合となった全米水泳選手権に古橋廣之進ら一行と渡米しアメリカのスポーツ界を見学テンプレート:Sfn、そこで今後はスピード時代であると痛感し陸上界に進言し、また大学の後輩でアマチュアレスリングの八田一朗にも進言すると八田は翌1950年にアメリカレスリングチームを日本に招いたテンプレート:Sfn。それまで力一辺倒の日本レスリングにアメリカから学んだ技が加わり、日本レスリングは急激な進歩を遂げたテンプレート:Sfn。同1949年、米国体育協会(AAU)のダニエル・J・フェリス(ダン・フェリス)事務局長、GHQ民間情報教育局(CIE)のテンプレート:仮リンク体育官に交渉して、米国陸上代表と一緒に欧州遠征に向かい、欧州の新しい技術や世界の新しい情勢を吸収するテンプレート:Sfn。招かれたスペインでは、織田はテンプレート:仮リンクに跳躍技を指導したテンプレート:Sfn。後にアレタは東京オリンピック走幅跳でスペイン陸上史上初の入賞(6位)を果たしたことから、スペインチーム団長だったフアン・アントニオ・サマランチは織田の自宅にお礼に来たというテンプレート:Sfn

これらの渡航資金は、カリフォルニアのフレッド・イサム・ワダ(和田勇)やハワイの米谷克巳などアメリカ在住の日系人たちの支援によるものである[24]テンプレート:Sfn。和田には後にその金を返そうとすると第二の故郷である和歌山の学校に寄付してほしいと言い決してお金を受け取らなかったテンプレート:Sfn第442連隊戦闘団出身で歯医者だった米谷には、織田がロンドン五輪視察前に立ち寄ったハワイでみすぼらしいスーツを着ていたためスーツと帽子を新調してもらっているテンプレート:Sfn。欧州遠征する選手全員のスーツをプレゼントしたのも米谷であるテンプレート:Sfn

1950年(昭和25年)、国際陸上競技連盟(IAAF)への復帰が許され、IOCでオリンピックへの参加が許可されると、織田ヘッドコーチが適時コーチを選出する形でオリンピックだけを目指す強化体制がとられたテンプレート:Sfn。男女別に正月返上の強化合宿を行うテンプレート:Sfn1951年(昭和26年)戦後初の海外遠征となったニューデリーアジア競技大会から1952年(昭和27年)ヘルシンキオリンピック1954年(昭和29年)マニラアジア競技大会まで連続、陸上競技日本代表監督を務めるテンプレート:Sfnテンプレート:Sfn。また1951年7月、14年ぶりに復活させた日米対抗戦を全国12ヶ所で18日間開催、この競技会は戦後の強化に大いに貢献して数十年の遅れを一年で回復したと言われるテンプレート:Sfn

1958年(昭和33年)、国立霞ヶ丘陸上競技場が開場、「織田ポール」(後述)が建てられたテンプレート:Sfn。同年開催の東京アジア競技大会がこけら落としとなり、織田は聖火ランナー最終走者を務めたテンプレート:Sfn

東京五輪

1959年(昭和34年)、西田修平に代わりJAAF強化委員長に就任し、東京オリンピックまでの5年間の強化を一任されるテンプレート:Sfn

1960年(昭和35年)ローマオリンピックでは入賞者0と惨憺たる成績で、織田は中体連高体連学連実業団という一貫したレールの上での強化を考え、強化委員会・指導委員会・研究委員会の3つの委員会が協力して強化にあたるという構想を発表するテンプレート:Sfn。オリンピック東京大会選手強化指導本部を設置し本部長を兼任して組織を統合した。強化指導本部は4年間で成功をおさめるため、世界の優秀なコーチや研究者を招き、科学的な強化法に役立つ理論と実践を学ぶテンプレート:Sfn。また専任コーチの設置、トレーニングセンターの建設などの強化方針を決めたテンプレート:Sfn。特に世界的なコーチといわれたテンプレート:仮リンクのマラソントレーニング方式は、高橋進中村清らに大きな影響を与え、後の日本マラソン界の繁栄に寄与したテンプレート:Sfn

陸上界から完全に引退していた同郷の小掛照二をJAAF強化コーチとして復帰させたり[25] [26]棒高跳盛田久生のために最先端の特注品ポールを五輪直前に渡米し作らせる[27]など、ギリギリまで陸上強化に尽力した。

また陸上競技メダル獲得のため、当時身体能力に優れていたプロ野球入団前の野球選手[28]に声をかけていた。その中で有名なのが、権藤博である。織田は「何とかコイツを東京五輪に出せないものか。出れば金メダルは確実」「400mハードルの選手に転向してほしい」と要請をしたテンプレート:Sfn。具体的な競技種目まで話が進んだのは権藤のみであるテンプレート:Sfn[28]。また長嶋茂雄は「君のスピードなら陸上の中距離に転向すればメダルも夢ではない」と声をかけられたと証言している[28]。実際織田は1953年KRテレビ『日本の百人』に出演した際に「長嶋茂雄のような素質の人が欲しい」とコメントを残しているテンプレート:Sfn

1964年(昭和39年)、東京オリンピックでは織田は陸上競技日本代表総監督(JAAF強化委員長)として指揮を執し、南部が陸上競技監督として活躍したテンプレート:Sfnテンプレート:Sfn[10]円谷幸吉をマラソンに転向させ、織田の狙い通り、円谷、君原健二寺沢徹の三名をマラソン代表に選出、円谷が銅メダルを獲得した[1]テンプレート:Sfn

その後晩年まで

1965年(昭和40年)に母校である早稲田大学教授に就任し、またIAAF技術委員などを務め長く後進を指導、選手育成に尽力したテンプレート:Sfn[29][30]1980年(昭和55年)モスクワオリンピックボイコット騒動の時には、当初から反対つまり五輪参加に向けて動いていたテンプレート:Sfn[31]。同1980年、織田を会長に日本マスターズ陸上競技連合が創立[32]1989年(平成元年)、JAAF名誉会長に就任しテンプレート:Sfn、死去するまで務めた。

晩年、色紙にはこの言葉を好んで書いた[1][3]テンプレート:Quotation

ファイル:OdaMikio20111224.jpg
東慶寺にある織田の墓。隣に銅像が併設されている。

また、1986年4月には以下のものを残しているテンプレート:Sfnテンプレート:Quotation

晩年を夫妻で神奈川県三浦市油壺に暮らしていたが、妻の死を期に藤沢市鵠沼の有料老人ホームに入居した[33]1998年(平成10年)12月2日湘南鎌倉総合病院にて死去。テンプレート:没年齢

同1998年12月25日、国立競技場でお別れ会が開かれたテンプレート:Sfn。墓所は鎌倉東慶寺に在るテンプレート:Sfn

1959年紫綬褒章受章テンプレート:Sfn。1976年IOCオリンピック功労章を授与テンプレート:Sfn。1988年陸上界初の文化功労者に選出テンプレート:Sfn。1984年渋谷区名誉区民、1985年東京都名誉都民、1986年故郷の安芸郡海田町名誉町民、1989年広島県名誉県民に顕彰テンプレート:Sfn[34]

没後

織田の名前を冠したものがいくつか存在する。

ファイル:National Stadium of Japan Kasumigaoka.jpg
国立霞ヶ丘陸上競技場内部。手前に見える白いポールが織田ポールである。

東京にあるものは以下のもの。

  • 「織田ポール」 - オリンピックにおける日本人初の金メダル獲得という偉業を記念して、国立霞ヶ丘陸上競技場開場年である1958年、トラック内に優勝記録と同じ長さの高さ15m21cmのポールが立てられた[7]。なお2014年現在国立競技場は全面建て直しし新国立競技場として再開場する方針であり、このポールはそのまま移設されることが決定している[36]
  • 「織田フィールド」 - 代々木公園陸上競技場の愛称[34]
  • 「織田幹雄記念陸上競技場」 - 母校早稲田大学の所沢キャンパス内にある早稲田大学競走部練習グラウンド。これは2005年に大先輩である織田の生誕100年記念として改名したもの[37][38]
ファイル:Bigarch050423.jpg
広島広域公園陸上競技場。左端に見える白いポールが織田ポールである。

地元広島県にもいくつかある。

  • 「織田幹雄記念ポール(織田ポール)」 - 広島広域公園陸上競技場にも国立競技場と同サイズのポールがある[18]
  • 地元海田町のいくつかの施設の国旗掲揚台メインポールは織田の金メダル記念として高さ15m21cmのものが立てられている[3]。現状は母校海田町立海田小学校、海田総合公園内の野球場及びテニスコートの3箇所[18]
  • 海田総合公園には「顕彰碑」と、「記録体感ゾーン」と呼ばれる15m21cm時の足型3つが地面に付けられている[18]
  • 海田町ふるさと館には、織田の遺品の幾つかが展示されている[18]

特に、故郷の海田町では地元が産んだヒーローとして扱われ、生き様を学校の教材として用いたりしている[3]

2010年4月、IAAFはアジア人として個人初の五輪金メダルを獲得した織田の偉業を称え、織田の長文のインタビュー記事(テンプレート:Harvnb参照)を公式ホームページに掲載した[4]。これは中条一雄[39]が織田の晩年である1996年から1997年にかけてインタビューしたものを、息子である織田正雄たちが主要な部分を抜き出し英文に訳した冊子が元になっている[31]テンプレート:Sfn

逸話

アムステルダム五輪表彰式

1928年昭和3年)のアムステルダムオリンピックで金メダルを獲得したが、当時日本は国力がなく、他国のインチキ臭い記録に文句をつけても何も通らない時代テンプレート:Sfnテンプレート:Sfnアムステルダムデパートにも他国のはあっても日の丸は置いてなく、日本人の優勝はまさに想定外だった[2]。「君が代」は「さざれ石の」と途中から流されたテンプレート:Sfn。掲揚用の日章旗さえなく、係員がうろうろしているのを見て「よしきた」と織田自ら持参した勝者の体を包むための大型の旗を持ち、国旗掲揚台の上に駆け上がった。日本語で「これを上げろ」と言ったが向こうは何のことか分からず、目を白黒させながら旗を受け取ってそれを掲揚した。その結果、織田の日章旗だけが他の旗と比べて図抜けて大きい(四倍)というアンバランスな形になり、写真にも残されている(#人物にあるOlympic.org動画参照)。当時は表彰台は用意されておらず国旗を掲揚する形式でのみの表彰式となっていた。織田が渡した旗はカナダチームが100mで優勝した選手を旗にくるんで皆でかついで場内を一周するのを前に見ていたので、織田が勝ったら南部忠平と身体をくるむために事前に用意していた物だったテンプレート:Sfn。また、メダルは銀台金張りメダルと規定されている筈だが、織田のメダルは銅で作られており、同じ大会で金メダルを獲得した鶴田義行は銀で作られていて規定が必ずしも守られていなかった節が見受けられる。みんなに担がれて控室に行くと当時、オランダ公使だった広田弘毅が来て、全員で「君が代」を泣きながら歌ったテンプレート:Sfn

ダグラス・マッカーサーとの出会い

連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)最高司令官のダグラス・マッカーサーとは、戦前に一度会っている。
これは1924年パリ五輪の時にアメリカやり投代表テンプレート:仮リンクと知り合い、その次の1928年アムステルダム五輪で再会した際に当時五輪アメリカ選手団団長を務めていたマッカーサーを紹介してもらったもの[40]。織田は終戦時にマッカーサーがアメリカの将軍であった事に驚いたという。なおニューフェルドも上記#戦後復興の通り戦後CIE体育担当官として来日しており戦後の日本スポーツ界再建に貢献している。

東京五輪聖火リレー最終ランナー

ファイル:1964 Cauldron.JPG
国立競技場聖火台
東京五輪開会式での聖火リレー最終ランナーは、当時19歳で広島原爆投下の日である1945年8月6日に生まれた坂井義則になったが、初めは織田らメダリストが候補だった。しかし織田は「ぜひ戦後生まれの若いランナーに」と提言した[41]
このことから坂井を選んだことは織田などJOC関係者が政治的意図を持って人選したとも言われるが、織田と同じく広島県出身で当時朝日新聞運動部に席をおいた中条一雄は、異を唱えている。当時決定権を持っていたのは青木半治JAAF理事長・竹田恒徳JOC委員長・久富達夫JOC相談役の3人であり、青木が若手の有望株の中から無作為に坂井を選び、元皇族の竹田に了承させたことにより政府も了承した、つまり選定の段階から広島原爆を全く意識していなかったものであり織田は選定に絡んでいなかった、と証言している[42]

新聞記者

織田は大阪朝日の新聞記者として働いたが、織田の影響で新聞記者となったものが存在する。例えば川本信正は織田の推薦で読売新聞に入社しテンプレート:Sfn矢田喜美雄は織田が進路相談し大阪朝日に入社している[43]

主な記録

以下、早稲田大学競走部が取りまとめた世界および日本記録テンプレート:Sfn[22]を中心に記載する。

日付 大会 記録 所属 備考
三段跳 走幅跳 走高跳 400mR 十種競技
1922年 極東選手権予選 13m38 6m29 1m73 広島一中 走幅/走高日本新
1923年5月 極東選手権 広島高師
臨教
三段/走幅優勝
1924年7月 パリ五輪 14m35 6m83 1m80 三段6位入賞、走幅/走高10位
1925年4月 極東選手権予選 6359.935 早稲田 十種日本新
5月 極東選手権 14m05 優勝
7月 早大対関学 7m19 走幅日本新
9月 東京市民 14m805 三段日本新
11月 日本選手権 14m315 7m24 6307.47 走幅日本新
1926年5月 日本選手権 44秒2 400mR(3走)日本新
1927年6月 関東選手権 43秒6 400mR(2走)日本新
6月 一高対早高 1m92 走高日本新
7月 早大対関学 7m37 走幅日本新
8月 日本選手権 15m343 43秒6 三段/400mR(2走)日本新
8月 極東選手権 15m355 三段日本新
三段/走幅/十種優勝
1928年5月 日本選手権 15m41 三段日本新
5月 日本学生 7m38 走幅日本新
110mH/走幅/三段優勝
走高2位
8月 アムステルダム五輪 15m21 7m11 1m88 三段金メダル、走幅予選落、走高7位
8月 国際学生 110mH/走幅4位
走高/五種競技6位
1929年5月 日本学生 15m45 三段日本新
走幅/三段/400mR優勝
110mH/走高/棒高2位
11月 日本選手権 42秒8 400mR(3走)日本新
三段/400mR優勝、十種2位
1930年5月 日本学生 走幅/三段/棒高/400mR優勝
110mH3位
5月 極東選手権 三段4連覇、走幅2位
6月 学生対比印 42秒8 学生選抜
(早稲田)
400mR(1走)日本新
1931年6月 五輪準備会 15m48 早大クラブ
(大阪朝日)
三段日本新
10月 日本選手権予選 15m50 三段日本新
10月 学生対一般 15m58 三段世界新
1932年7月 ロサンゼルス五輪 13m97 三段跳12位
1934年10月 日本選手権 1m85 走高2位

関連書籍

著書

監修

脚注

テンプレート:脚注ヘルプ テンプレート:Reflist

参考資料

関連項目

外部リンク

テンプレート:Sister

テンプレート:陸上競技オリンピック金メダリスト男子三段跳テンプレート:Normdaten
  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 1.6 テンプレート:Cite news
  2. 2.0 2.1 2.2 2.3 『先人を訪ねて』織田幹雄(広島県海田町)読売新聞、2012年3月26日、30面
  3. 3.00 3.01 3.02 3.03 3.04 3.05 3.06 3.07 3.08 3.09 3.10 テンプレート:Cite news
  4. 4.0 4.1 テンプレート:Cite web
  5. テンプレート:Cite web
  6. 最終回 - SportsClick
  7. 7.0 7.1 7.2 テンプレート:Cite web
  8. テンプレート:Cite web
  9. 9.0 9.1 沖田芳夫・ 織田幹雄・ 南部忠平・ 西田修平 - 早稲田大学
  10. 10.0 10.1 10.2 10.3 10.4 「世界への跳躍、限界への挑戦 ——早稲田スポーツの先駆者たちとその時代」展に寄せて
  11. 朝日新聞、1999年1月10日(夕刊)、3面
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  13. 13.0 13.1 13.2 テンプレート:Cite web
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  15. 15.0 15.1 テンプレート:Cite web
  16. 16.0 16.1 16.2 16.3 16.4 テンプレート:Cite web
  17. 『跳躍一路』日本政経公論社、1956年、77頁
  18. 18.0 18.1 18.2 18.3 18.4 テンプレート:Cite web
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  20. 橋本一夫『幻の東京オリンピック』日本放送出版協会、1994年、14頁
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  22. 22.0 22.1 22.2 22.3 22.4 テンプレート:Cite web
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  24. 「日系人と東京五輪の絆」読売新聞、2013年11月3日
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  29. 長田渚左『こんな凄い奴がいた』ベースボール・マガジン社、2000年、12頁
  30. 読売新聞、2007年5月17日20面
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  32. マスターズ陸上の歴史 | 公益社団法人日本マスターズ陸上競技
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  38. 織田幹雄生誕100年記念行事 - 早稲田大学
  39. 広島一中出身で、元朝日新聞論説委員。そのいずれにおいても織田の後輩に当たる。
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  41. 「検証昭和報道167 高度成長と東京五輪朝日新聞、2009年12月10日、27面
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