大和民族
テンプレート:Infobox 民族 大和民族(やまとみんぞく)は、日本語を母語とし、日本列島に居住する民族である。しばしば日本民族や和人/倭人(わじん)とも呼ばれる。
同じ意味で、日本人という単語も用いられるが、国内の少数民族や海外からの移民を含めた日本国籍の所有者全体を含むこともあり、曖昧さが存在することため、特に厳密に民族を指す場合には大和民族、日本民族という言葉が用いられる。
目次
概要
起源
大和民族は、縄文時代以前から日本列島に住んでいた人々のうち、弥生時代に大和(奈良盆地の南東部)を本拠地とする人々を中心に形成されたヤマト王権(大和朝廷)に属する民族の呼称。ヤマト王権の勢力拡大に伴い、一地域名であった「大和」が日本を広く指す呼称となり、民族名ともなった。ただし、ヤマト王権の成立過程は現段階でも明らかになっておらず、謎も多い。
大和民族の形成当初は九州地方の隼人や、東北地方の蝦夷が異民族とされていたが、彼らは中世以前に大和民族と完全に同化している。アイヌも、大和民族との混血や文化的同化が進んだ結果、(民族的)日本人と大和民族の範囲はほぼ一致するようになり、ことさらに大和民族という呼称が使われることは稀になっている。
明治時代以降にはアイヌや琉球などが併合、征服された[1]が、大和民族という言葉は、当時日本国民とされた台湾、朝鮮半島、樺太などの人々や、琉球人、アイヌの人々を排除する意味合いを持ち、大日本帝国の支配的立場にいる民族を指す言葉として使われ、敗戦後はあまり使われなくなった[2]とする意見がある。
呼称
古くは中国より「倭」と呼ばれ、大和民族も「倭人」と書いて「ワジン」と自称したり、また「倭」を「ヤマト」と訓じるなどしていたが、やがて「倭」の表記は廃れ、代わりに「大和」の表記が一般的となった。
なお、アイヌ語では大和民族をシサム(「隣人」の意)と呼称しており、日本語でアイヌとの対比で大和民族について言及する時は和人と称されることが多い。また、沖縄方言には自称のウチナーンチュ(沖縄人)に対し、沖縄で言う「本土」の者を表す言葉としてヤマトンチュ(大和人)という呼称がある。日本国籍を持つ者の大半が大和民族であるため「日本人」と「大和民族」は同一視されることが多く、日常一般でも大和民族や和人という言葉はあまり用いられず、日本人と称することが多い。
生物学的考察
明治期における人類学的な区分では、坪井正五郎が先史時代の先住民であるコロボックル、アイヌ(及び樺太アイヌ)、琉球人、朝鮮人・台湾漢人、台湾原住民などを除いた集合を大和民族と主張していた。当時はそのほかに、日本人には上流階級に多い長州タイプ・庶民に多い薩摩タイプという人種的区分が存在するという指摘がエルヴィン・フォン・ベルツらからなされることもあった。戦前の国定地理教科書でも、大日本帝国を構成する民族として、「朝鮮人」「支那民族」「土人」「アイヌ」とともに「大和民族」が挙げられている[3]。
父系
Y染色体(父系)の研究では、日本人の中にはハプログループがD2系統(縄文人)とハプログループO2b系統(弥生人)が存在することが判明した。このうちハプログループD2の系統は日本人に固有に見られるタイプで、朝鮮半島や中国人には全く見られない固有種であることも判明した。これは縄文人の血を色濃く残すとされるアイヌに88%見られることから、D系統は縄文人(古モンゴロイド)特有の形質だとされる。また本州日本人は40.6%にみられるなど、約2人に1人の割合でこの系統に属している。 アリゾナ大学のマイケル・F・ハマー (Michael F. Hammer) のY染色体分析でもYAPハプロタイプ(D系統)が扱われ、さらにチベット人も50%の頻度でこのYAPハプロタイプを持っていることを根拠に、縄文人の祖先は約5万年前に中央アジアにいた集団が東進を続けた結果、約3万年前に北方ルートで北海道に到着したとするシナリオを提出した。(ただし、ハマー博士以外の多くの学者は、ハプログループD2の縄文人は東南アジアを通る南方ルートを経由して日本列島に辿りつき北上したという説を主張している)Y染色とミトコンドリアとの頻度の違いは縄文人が弥生人集落への一方的流入を起こした分布となることから、弥生人が一方的に縄文人を追い払ったとする根拠は確認されていない。[4][5][6] また、弥生人と言われるハプログループO2b1の系統も日本でしか見つかっていない固有種という 根拠も無く、現状ではo2bの経年的変異の一例と見做される。これはD1からD2への変異も同様であるが、形態的な差が大きいという証左も確認されてはいない内容であるテンプレート:要出典。大和民族と遺伝的に最も近縁なのは琉球人である[7][8]。
母系
ミトコンドリアDNA(母系)の研究によると、縄文人も弥生人もどちらも東アジアに類似したDNAが多く分布しており、この研究では縄文人を南方系・弥生人を北方系とする埴原和郎の二重構造説は疑問視されている[9][10]。
また、一方では日本人は北海道から沖縄県に至るまで、遺伝学的には大差はなく、周辺の中国人や朝鮮人より均一性の高い民族であるという研究結果もある。根井正利は、「現代人の起源」に関するシンポジウム(1993年、京都)にて、日本人(北海道から沖縄県まで)は約3万年前から北東アジアから渡来し、弥生時代以降の渡来人は現代日本人の遺伝子プールにはほんのわずかな影響しか与えていない、という研究結果を出している[11][12][13]。
2009年(平成21年)12月10日、日本を含むアジア10ヵ国の研究者によって行われたゲノムの詳細解析の国際共同研究の結果がサイエンスに発表された。数万年前まで遡ると、日本人を含む東アジア集団の起源は東南アジアにあると推定されるという結果であった[14]。
さらに、2010年までに沖縄県石垣島の白保竿根田原洞穴遺跡から発掘された、旧石器時代の人骨を、2013年に国立科学博物館が分析した結果、国内最古の人骨(約2万-1万年前)とされた4点のうち2点はハプログループM7aと呼ばれる南方系由来の系統であることが明らかとなった[15]。
現在では、縄文人の母系のDNAとしては、ハプログループF、B、M7aなどの型があったことが知られている。
分布
大和民族は、主に日本列島に居住しており、日本国の社会で多数派を形成する民族である。日本国は民族別の統計を詳細に取っていないため厳密には不明であるが、日本の外国人(日本国籍を持たない者)が日本の人口全体に占める割合は1.74%(2008年)ほどである。
日本以外には、移民(日系人)としてブラジルを始めとするラテンアメリカ諸国、アジア、ヨーロッパ、アメリカ合衆国など世界中に分布した。ただし、近隣の民族である漢民族や朝鮮民族と比べると日本国外への移住者は比較的少ない。現在、彼らは日系ブラジル人や日系アメリカ人として、それぞれの国の少数民族として暮らしている。
大日本帝国時代には大日本帝国が台湾と朝鮮半島を領有・南洋諸島(マリアナ・パラオ他)を委任統治し、さらにアジアや南太平洋の各地に進出して分布域を広げたことにより、それら外地に一定の社会基盤を築いていったが、太平洋戦争が終結した後、日本政府統治地域(内地)へ帰っていった。
ただし、終戦の混乱によって本人の意思に関係なく、現地に残った人々が存在する。彼らの中には中国残留日本人となったり、またインドネシア独立戦争などに参加した残留日本兵などがいるが、そのほとんどは現在高齢化している。
戦前、日本が領有した地域の中では樺太やパラオ共和国などに、小規模ながら残留日本人の共同体が現存する。
言語
テンプレート:See also 古代から日本語が話されてきた。日本国内の大和民族は日本語、もしくは日本手話を母語としている。日本語が話せれば、日本国内ではほとんど不自由しないので、流暢に外国語を操れる人間は少ない。
古代に語彙面で中国語の大きな影響を受け、漢語が大量に入り込んだ。語彙ほどではないが、拗音や語頭ラ行音・語頭濁音・母音連続の許容等、音韻面で受けた影響も少なくない。近世前期までは京都方言、近世後期には江戸方言が中央語の位置にあったが、日本列島の地理的条件もあって、近代以前の一部の地方には、他の地方と意思疎通に困難を来すほどの方言差があった。
現在では共通語の普及もあって、異なる方言話者の間でも意思疎通に大きな問題を生じることはない。なお、方言の中でも奄美群島と沖縄県の大半で話されていた伝統的な方言は、音韻・語彙が本土の日本語とは大きく異なるため口頭での意思疎通は困難であり、日本語と異なる言語、琉球語とみなす場合もある。また琉球諸島の言語も相互での意思疎通が困難なほど地域差が大きく、諸言語の集合と捉えることもある。エスノローグでは喜界語、北奄美語、南奄美語、徳之島語、沖永良部語、与論語、国頭語、中央沖縄語、宮古語、八重山語、与那国語として分類しそれぞれ別言語とみなしている。ただしこれらは全て日本語と同系統の言語であり、日本語族に入れられる。一方、日本国内で話されてきた言語としては、他にアイヌのアイヌ語があるが、非常に近い場所で話されてきたにもかかわらず、アイヌ語と日本語は、一部の単語の借用を除き、類似性がほとんど認められず、全く別の言語である。
表記については、漢字が伝わる以前の独自の文字は現在まで見つかっていない。漢字流入以前に神代文字と呼ばれる文字があったとする説もあるが、学術的な根拠は存在しない。絵文字とも思われる模様が刻まれた土器が発見された事例はあるが、発掘例も少ないため、文字と呼べるだけの規則性は見受けられないとされている。
漢字の伝来後はこれを表記に用い、後に、漢字を大幅に崩すことで、音節文字の一種である平仮名、片仮名が成立した。これまで全て漢字や万葉仮名で記述されていた日本語をそのまま文章にすることが可能となり、日本文学が発生・発展した。中世には現在の日本語の書き言葉の原型となる和漢混淆文が成立し、日本語は漢語と和語を織り交ぜた自在な表現力を得た。
日本語は多種の文字を組み合わせるという複雑な表記体系を持つが、近現代において日本人の識字率は極めて高い。近世の大和民族は、世界的に見ても識字率が高い民族であった。仮名や簡単な漢字を読むことは江戸時代の庶民の間では常識の域に属し、庶民層を対象にした盛んな出版活動がなされた。江戸時代に日本国外から来日した外国人は、大和民族が身分や男女の別なく文字が読める事を驚きと共に本国に伝えている。
現在では、漢字、仮名の他に企業名や単語の略称などにラテン文字が使われる機会も多い。さらに数字の表記には漢数字の他、アラビア数字、ローマ数字を使用している。 近年では日本語を解さない、ポルトガル語、スペイン語、漢語を母語とする日系人の還流も多い。
宗教
テンプレート:See also 大和民族の信仰は、土着の民族固有の信仰が発展した神道、および外来宗教の仏教が多数派であり、「神様、仏様」といった表現からも伺えるように、一般の日本人はこれら2つを混在して信仰している場合が多い。キリスト教は、日本の文化に強い影響を与えているが、信徒数は少ない。他、新興宗教の信仰者や、無宗教者も存在する。
古代においては在来の神祇信仰であり、その後はその発展形態である神道が信仰されるようになった。また仏教伝来後は仏教も同時に信仰される場合が多く(→日本の仏教、神仏習合)、祖先崇拝などでの影響も大きい。それらが複合した形態をもって、一つの一貫した民俗体系が構築されている。信仰のあり方は一神教的な救済論的なものではなく、習俗的な穏やかなものであり、自らを「信者」とはみなさない場合も多い。しかし、広い意味での宗教的な感覚は、冠婚葬祭や年中行事などの場面で、他宗教とは異質な独自の信念が意識されることがある。時には、臓器移植に対する抵抗などが独特の文化であると主張されていたが、実際にはどの国でも、生命倫理上移植手術は導入時に抵抗があった。
文化
テンプレート:See 大和民族は、独自の文化を土台にして、他民族の文化・宗教を上手く取り入れ、融合・発展させてきた民族である。また、近代以降はアジア諸国を中心に他民族の文化に大きな影響を与えてもいる。
特に中国の中華文化の影響は大きく、自ら遣隋使や遣唐使を派遣し、中国大陸の進んだ技術や文化を貪欲に学んでいった。その一方で、大和民族は朝鮮半島やベトナムなど、他の中華文明圏とは違い、中国に直接支配された経験はなく、また海を隔てるという地理的要因から、強大な中国の脅威にはあまり晒されず、受け入れた外国の文化(とりわけ中華文明)を独自に消化していく余裕があった。やがて、外国の文化と日本独自の文化が融合し、日本文化が生み出されていった。
16世紀、ポルトガル人などの西洋人来航により、日本人は西洋文明を初めて直接受け入れ、南蛮貿易を通じて受け入れたヨーロッパ文化を独自の日本的な形に消化していった。
幕末の条約港開港以降は、米国・英国をはじめとする欧米から西洋の風習が日本に入り、それらは在来文化と融合し、変化・変質して独特な展開を遂げた。しかし、明治維新以降の西洋文明の流入(文明開化)はあまりに急激であり、欧化主義によって日本の文化を旧態依然の古い物とする考え方が登場し、伝統文化が危機に陥った事もあった。これは単なる外国崇拝だけではなく、当時の極端に低い日本の国際的地位を上げるための苦渋の決断という側面も強かった。例えば、鹿鳴館の建設理由や経緯などは、当時の日本人の欧米文化への複雑な感情を端的に示している。しかしながら日常生活では日本の旧来の文化が維持され、着物と洋服を着分けたり、着物しか着ない人などと様々であった。また日本の女性では洋服を着る方が珍しかった。
日本の文化は欧米でも注目を浴び、19世紀後半にはジャポニスムという一種のブームを生んだ。現在でも独特の文化や料理は高く評価されている。また、非欧米圏で初めて近代化に成功し、列強としてアジア諸国に影響力を及ぼした日本の文化は、東アジアや東南アジア諸国に影響を与えた。
戦後は伝統的な生活習慣の多くが失われ、米国の影響を受けた形に大きく変化していった。一方海外では戦前からの古い文化のみならず、アニメや漫画、オタクといった現代的な文化産業も西洋やアジア諸国では注目を浴びてきている。
歴史
前史
日本列島では、まだユーラシア大陸と陸続きの時代に石製加工具類が発掘されており、約3万年前に人類が存在したとされる。この時代の人類には、ホモ・サピエンスやホモ・ネアンデルターレンシスが含まれる。ただし、火山を多く持つ日本列島は火山灰に覆われており、土壌が酸性であるため化石が残りにくくなっている。旧石器時代から人類がいた事を示す遺跡は、日本列島の各地に存在するが、人類の化石そのものは未だに発見されていない[16]。
1万数千年より前の旧石器時代人骨の発掘例は10例ほどだが、2010年(平成22年)2月4日、石垣島から初めて2万年前のものと見られる人骨が発見され、日本人の起源論の重要な手掛かりと見られている[17]。この骨が発見された洞窟からは、2011年11月にさらに2万4000年前の人骨も見つかっている[18]。
今日では、縄文時代の人骨のミトコンドリアDNA(母系)の調査結果では、ハプログループF、B、M7aなどの型があったことが知られており、これらの南方系の縄文人や、ハプログループAやGなどに代表されるシベリア北部の先住民に近い北方系の縄文人の2系統があったことが判っている。北方系の縄文人は、氷河期の時代には海水面が低く、シベリア北部から、樺太、北海道、本州と繋がっていたためと思われる。縄文末期、弥生時代にも人々が海を渡って日本列島に漂着し、南方系の先住民と同化していったと考えられている。
有史
テンプレート:See also 漢字が渡来するまでの文字は現在まで見つかっていないため、日本書紀や古事記が成立する以前の日本列島に居住していた人間に関すると思われる歴史の調査は、大陸の文献を参考にしたり、各地に残る神話や伝承の採取、発掘調査を行う他ない。大和民族について書かれた最も古い文書は、紀元前5世紀以降に書かれたと思われる『山海経』である。これによれば、当時の大和民族(倭)は、燕に属していたとある。ただし、山海経は大陸各地の伝説を集めた書物であり、歴史書としては信憑性に欠ける面がある。正規の歴史書に書かれたものとしては、論衡が最古であり、倭は周の時代(弥生時代)、大陸に朝貢していたとある。
他、有名なものとしては『三国志』中の「魏書」(全30巻)に書かれている東夷伝(東方異民族の列伝)にある倭人の記述、俗に言う魏志倭人伝である。ここで邪馬台国の記述が初めて登場し、倭人の風俗についても、これまでの文献からは比べ物にならないくらい詳細に書かれている。ただし、これらは当時の中華民族による視点から書かれたものであり、倭人自身による歴史の記述は、さらに後のこととなる。
いずれにせよ、これらは断片的な記録であり、大和民族の連合政権とされるヤマト王権の成立過程は、現段階でも明らかになっていない。
支配域の拡大と停滞
330年頃までに、ヤマト王権は現在の南東北から北部九州までの地域を勢力下に置いていたようである。ただし、ヤマト王権は独自性を持った様々な部族の連合政権的な物だったらしく、ヤマト王権の支配域と当時の大和民族の分布域をイコールで結ぶことは必ずしも適切ではないかもしれない。
5世紀には農業生産力が上がり国力が増大し、『日本書紀』や『広開土王碑』には、ヤマトがこの時期に朝鮮半島に兵を送り、一時期は朝鮮半島の一部を領有した(→任那日本府説)と記されている。ただし、5世紀後半から6世紀には既に朝鮮半島での利権は縮小化し、磐井の乱でヤマト王権も朝鮮半島への興味を失うこととなり、もっぱら日本列島内で徐々に勢力を拡大していくようになる。
日本列島内には、王権の支配に従わない九州南部の隼人(熊襲)、東北の蝦夷などがいたが、隼人の反乱の鎮圧や征夷大将軍坂上田村麻呂の活躍、関東・北陸方面から東北地方への入植により、隼人は8世紀に、蝦夷は12世紀までに完全に大和民族に同化したとされる。これによって、本州・九州・四国の全域を大和民族が支配することとなった。
この間、百済滅亡によって亡命してきた百済人(半島居住の大和民族や現在の朝鮮人とは異なる民族)や、大和民族から招かれた仏教の僧侶や技術者など、大なり小なりユーラシア大陸から海を渡ってきた人々(渡来人または帰化人)もいた。ただし、彼ら移住者はそれぞれ少数であり、速やかに大和民族に統合・同化されたため、国内での大和民族の数的な優位性は変わらなかった。
また、元寇・白村江の戦いなど外国との戦争もあったが、領土の奪取、失陥を伴わず、特に大和民族の影響力を増大・減少させるものではなかった。大和民族は、遣隋使や遣唐使を派遣して、自ら海外の文化や技術を吸収していった。
13世紀以降は、鎌倉時代、南北朝時代、室町時代を通じて、大和民族の分布域は、北海道の渡島半島南部に定着した(渡党を参照)程度で、拡大は停滞した。だが、独特の文化が国風文化として花開き、現在まで続く日本の文化もこの流れを汲むものが多い。
日本国外との関わり
この状況が一時的に崩れるのは戦国時代であり、大和民族は日本人として世界各国と貿易するようになり、これまでの価値観とは全く異なるものに触れるようになる。キリスト教が伝来して信者を集め、南蛮貿易を通じて伝わった鉄砲などの最新技術が瞬く間に全国へと普及した。
また、移民としても進出し、東南アジアではアユタヤ日本人町のように一定の基盤を持つ社会を構成した。さらには、支倉常長などのように遠くヨーロッパにも渡った者もいた。
豊臣秀吉によって天下統一が成されると、大和民族は中国大陸へと二度に渡って軍を進め、文禄・慶長の役を起こした。日本軍は一時は朝鮮半島のほぼ全域を征圧、朝鮮王室の王子二人(臨海君・順和君)を捕虜にするなど優勢であったが、明の援軍によって戦況は膠着状態となり、やがて豊臣秀吉の死によって戦争は終結、明と朝鮮国の征服は失敗した。
これら日本国外への拡大の動きは江戸幕府の鎖国政策によって衰退することとなる。
江戸時代
江戸時代には、徳川秀忠の治世に鎖国と呼ばれる体制が始まり、家光の治世に到り完成した。これ以降、外国との交流は中国(明・清)やオランダ、李氏朝鮮などを除いてほぼ断絶したが、250年にわたる「泰平」を築いた。この間、社会は幕府の強大な支配に置かれて安定した社会が築かれ、経済活動が活発化して庶民が台頭、江戸・大坂・京都の三大都市を中心に町人文化が花開いた。
この鎖国体制の中で、一般の大和民族は海外への渡航は基本的に許されず、海外への大和民族の拡大は停止した。例外的に、船を頻繁に利用する商人や漁師などが、嵐や事故によって海外に漂流した事例や、犯罪者や冒険心に富んだ者が、幕府に捕まれば処罰される危険を承知で渡航した例がいくつかあるのみである。
一方、日本列島内での勢力拡大は徐々に続き、この時代の初期に、薩摩藩による琉球王国制圧が起こり、王国は事実上幕藩体制の支配下へと組み込まれた。蝦夷地(現在の北海道、千島列島及び樺太)での勢力も増していき、渡島半島は内地化(和人地化)し、北海道全域と南千島が大和民族の勢力下に置かれるようになった。
蝦夷地には先住民のアイヌが住んでいたが、大和民族の活発な経済活動と、松前藩による支配権確立は、彼らの生活を圧迫していくことになる。江戸時代の初期、この大和民族の勢力拡大に反対した一部のアイヌは、シャクシャインを指導者として、蝦夷地を支配していた松前藩とアイヌが衝突し、シャクシャインの戦いが発生した。戦いは3ヶ月ほど続いたが、最終的には松前藩および幕府の勝利で幕を下ろし、以後、アイヌは時折小規模な反乱を起こすものの大勢は変わらず、大和民族に支配され続けることとなる。
近代国家へ
江戸幕府は様々な問題を抱えながらも、国内外は比較的平和の中にあったが、世界はヨーロッパを主体とする植民地獲得競争とも言える帝国主義の時代となっていた。19世紀になると日本近海にロシアやアメリカを始めとする列強が頻繁に来航するようになる。
新たな時代にどう対応するか、日本国内は様々な主張が噴出し、やがてその中から幕府を打ち倒す勢力(薩摩藩や長州藩)が主体となって、幕府との間に戊辰戦争が発生した。これら一連の出来事は明治維新と呼ばれ、戦争は倒幕派が勝利し、江戸幕府は滅亡した。
明治維新によって新時代を迎えると、西洋列強を手本にした政府や軍隊を整備するなど、近代的な国家運営が開始されるようになる。それまでの鎖国を取りやめ、諸外国と積極的に関わる「開国」の時代に入り、近代国家として大日本帝国を成立させた。日本は、強大な西洋諸国に対抗する形で各国に経済的・軍事的に進出していった。また対外的にも、琉球列島や千島列島といった日本列島の付属島嶼や小笠原諸島の領有を確立し、現在の日本の領土をほぼ確定させた。他に、国策として日本国外への移民を奨励して、ブラジルやアメリカ、ペルー、カナダ、ハワイ、メキシコ、アルゼンチン、パラグアイなどに多数の移民が渡った。
明治・大正期以降、日本は日清・日露戦争や第一次世界大戦で世界の列強と争った。日清戦争での勝利、日露戦争での講和、第一次世界大戦における派兵、満州事変の結果、台湾を領有、大韓帝国を併合、南洋諸島を委任統治領とし、満州国を建国するなど、東アジア・ミクロネシア各地に急速に分布域を広げたために多民族国家となった。帝国主義から現地の住民との大小の衝突、時には反乱を起こされながらも、着実に支配を固め、社会基盤を築いていった。国際連盟の常任理事国にもなり、国際的地位も高まった。
この過程で、台湾や朝鮮から日本列島への他の民族の流入も起こった。さらに、第二次世界大戦においては大東亜共栄圏の構想を打ち出し、当時イギリスやオランダなどの列強が植民地化していた東南アジアに進軍し、欧米の占領軍を追い出して後釜に座る形でほぼ全域を影響下に置いた。この状況は、第二次世界大戦に敗北した事によって終わりを告げる。列島周辺の主権を失ったために、各地に移住していた日本人の大半は日本政府統治地域に再移住した(引揚者)。
戦後
第二次世界大戦後、朝鮮、台湾などの統治権を失い単一民族に近い国家に戻った日本は平和国家として再出発し、アメリカ合衆国の軍事的な保護のもと、急激に諸外国の文化(主にアメリカ文化)を吸収して経済発展(高度経済成長)を成し遂げ、経済大国となった。最近では日本国の国力が世界有数になったため、国策としての海外移民は終了し、集団での移民も見られなくなっているが、個人で海外に職を求めて出て行く人々は現在に至るまで多く存在している。逆に近年では、少子高齢化の影響から国策として移民の受け入れを唱える主張も一部には出てきている。
脚注
- ↑ 網野善彦著「日本の歴史00 「日本」とは何か」講談社、p109
- ↑ 網野善彦著「日本の歴史00 「日本」とは何か」講談社、p221
- ↑ 『尋常小学地理書』巻一、1938年、文部省。
- ↑ テンプレート:Citation
- ↑ テンプレート:Citation
- ↑ テンプレート:Citation要引用
- ↑ http://idoushi.jp/?page_id=86 琉球列島のヒト過去から現代まで 琉球大学大学院医学研究科 石田肇
- ↑ 日本人になった祖先たち—DNAから解明するその多元的構造 篠田謙一
- ↑ 篠田謙一『日本人になった祖先たち―DNAから解明するその多元的構造』(NHKブックス)
- ↑ 尾本恵市『日本人の起源』(裳華房刊)
- ↑ (月刊誌『選択』2007年12月号)。
- ↑ 松本秀雄 『日本人は何処から来たか―血液型遺伝子から解く』日本放送出版協会、1992年 ISBN 4140016523 (アイヌを含む北海道から沖縄県までの)現代日本人は均質性があり、朝鮮半島の人々や中国人とは異質性がある。 日本人は北方系であり南方系との混血率は多く見積もってもせいぜい7-8%程度であるとする説もある。松本秀雄の日本人バイカル湖畔起源説は、該当項目参照
- ↑ 李成柱 「血液分析により民族の移動経路を判明する」東亞日報、2001年1月3日日本人は韓国人以上に純血度が高い
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