明智光秀
明智 光秀(あけち みつひで)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。戦国大名・織田信長の重臣の一人で、日本史の謎の一つとされる本能寺の変を起こした事で有名である。
本姓は源氏で、のちに朝廷より惟任の姓を賜る。家系は清和源氏の摂津源氏系で、美濃源氏土岐氏支流である明智氏。通称は十兵衛。雅号は咲庵(しょうあん)。惟任光秀とも。妻は妻木煕子。その間には、細川忠興室・珠(洗礼名:ガラシャ)、嫡男・光慶(十五郎)、津田信澄室がいる。
善政を行ったとされ、領国の各地で祀られる。忌日に祭事を伝える地域(光秀公正辰祭・御霊神社 (福知山市))もある。後世、江戸時代の文楽「絵本太功記」や歌舞伎「時桔梗出世請状」をはじめ、小説・映画・テレビドラマなどでもその人物がとりあげられている。
目次
生涯
織田家仕官以前
清和源氏の土岐氏の支流明智氏に生まれ、父は明智光綱といわれる。生年は『西教寺過去帳』『明智軍記』『細川家文書』からは享禄元年(1528年)とされる[1]。場所は岐阜県可児市明智の明智城が有力とされる[2]。
青年期の履歴は不明な点が多い。通説によれば、光秀は美濃国の守護土岐氏の一族で、土岐氏にかわって美濃の国主となった斎藤道三に仕えるも、弘治2年(1556年)、道三・義龍父子の争い(長良川の戦い)で道三方であったために義龍に明智城を攻められ一族が離散したとされる。その後、母方の若狭武田氏を頼り、のち越前国の朝倉義景に仕えたという。
永禄8年(1565年)に室町幕府13代将軍足利義輝が三好三人衆や松永久秀によって襲殺されると、その弟義昭が姉婿である若狭国守護武田義統のもとに逃れ、さらに朝倉義景を頼ったことから、光秀は義昭と接触を持つこととなった。義景の母は若狭武田氏の出であり、テンプレート:要出典範囲、義昭の接待役を命じられたといわれる。義昭が上洛を期待しても義景は動かず、そこで義昭は斎藤氏から美濃を奪取した織田信長に対し、京都に攻め上って自分を征夷大将軍につけるよう、光秀を通じて要請した。光秀の叔母は斎藤道三の夫人であったとされ、信長の正室である濃姫(道三娘)が光秀の従兄妹であった可能性があり、その縁を頼ったとも指摘されている。[3]
小和田哲男は、将軍義輝の近臣の名を記録した『永禄六年諸役人附』(『群書類従』収載)に見える足軽衆「明智」を光秀と解し、離散後朝倉義景に仕えるまでの間、足軽大将として義輝に仕えていたとする[3]。『永禄六年諸役人附』は、記載された人名から前半の義輝期と後半の足利義昭の将軍任官前の二部に分かれている。テンプレート:要検証[4]
ルイス・フロイスの『日本史』や興福寺多聞院英俊の『多聞院日記』は、もとは細川藤孝に仕える足軽・中間であったと記す。
織田家臣時代
史料分析によると[5]、永禄12年(1569年)4月頃から木下秀吉(のち羽柴に改姓)・丹羽長秀・中川重政と共に織田氏支配下の京都と周辺の政務に当たり、事実上の京都奉行の職務を行う。各地を転戦して、義昭と信長が対立し始めると、元亀2年(1571年)頃に暇願いを義昭に出すが不許可となる[6]。同年比叡山焼き討ちで中心実行部隊として[7]武功を上げ近江国の滋賀郡(約5万石)を与えられ、天正元年2月今堅田城の戦いをきっかけに義昭と袂を別って信長の直臣となった。同年(1573年)坂本城を築いて居城とした。天正3年(1575年)に、惟任(これとう)の賜姓と、従五位下、日向守に任官し、惟任日向守となる。
城主となった光秀は、石山本願寺(高屋城の戦い、天王寺の戦い)や信長に背いた荒木村重と松永久秀(有岡城の戦い・信貴山城の戦い)を攻めるなど近畿の各地を転戦しつつ、丹波国の攻略(黒井城の戦い)を担当し、天正7年(1579年)までにこれを平定した。
丹波国主
この功績によって、これまでの近江国滋賀郡に加え丹波一国(約29万石)を与えられ計34万石を領し、丹波亀山城・周山城を築城し、横山城を修築して、福智山城に改名した。また家老の斎藤利光をして黒井城の増築をさせ氷上郡の領主とした。
京に繋がる街道の内、東海道と山陰道の付け根に当たる場所を領地として与えられたことからも、光秀が織田家にあって重要な地位にあったことが伺える。
また丹波一国拝領と同時に丹後の長岡(細川)藤孝、大和の筒井順慶等、近畿地方の織田大名の総合指揮権を与えられた。これら与力の所領を合わせると240万石ほどになり近年の歴史家には、この地位を関東管領になぞらえて「山陰・畿内管領」」[8]と呼ぶ者もいる。天正9年(1581年)には、京都で行われた信長の「閲兵式」である「京都御馬揃え」の運営を任された。
本能寺の変
天正10年(1582年)6月2日(西暦6月21日)早朝、羽柴秀吉の毛利征伐の支援を命ぜられて出陣する途上、桂川を渡って京へ入る段階になって、光秀は「敵は本能寺にあり」と発言し、主君信長討伐の意を告げたといわれる。本城惣右衛門覚書によれば、雑兵は信長討伐という目的を最後まで知らされなかったという。本城は信長の命令で徳川家康を討つのだと思っていたらしい。二手に分かれた光秀軍は信長が宿泊していた京都の本能寺を急襲して包囲した。光秀軍1万3000人に対し、近習の100人足らずに守られていた信長は奮戦したが、やがて屋敷に火を放ち自害した。しかし、信長の死体は発見できなかった。その後、二条御所にいた信長の嫡男の織田信忠や、京都所司代の村井貞勝らを討ち取った。また津田信澄(信長の弟織田信行の子)は光秀の娘と結婚していたため、大坂で織田信孝らに討たれた。
山崎の戦い
テンプレート:Main 光秀は京都を押さえると、信長・信忠父子の残党追捕を行った。さらに信長本国の近江に進出して勢多城主の山岡景隆を誘降しようとしたが[9]、景隆は拒絶して逆に瀬田橋と居城を焼いて甲賀に退転した。光秀は6月4日までに近江をほぼ平定し、6月5日には安土城に入って信長貯蔵の金銀財宝から名物を強奪して自分の家臣や味方に与えたりした。6月7日には安土で勅使の吉田兼和(兼見)と面会し、6月8日に安土を発って京都に帰還した[10]。
だが、光秀と仲がよく、味方するだろうと思っていた細川幽斎・忠興親子は信長への弔意を示すために髻を払い、松井康之を通じて織田信孝に二心の無いことを示し、さらに光秀の娘で忠興の正室・珠(後の細川ガラシャ)を幽閉して光秀の誘いを拒絶・義絶した。また、同じく友人であった筒井順慶も羽柴秀吉に味方した[11]。
本能寺の変を知り急遽、毛利氏と和睦して中国地方から引き返してきた羽柴秀吉の軍を、本能寺の変から11日後の6月13日(西暦7月2日)現在の京都府大山崎町と大阪府島本町にまたがる天王山の麓山崎で、新政権を整える間もなく迎え撃つことになった。
決戦時の兵力は、羽柴軍2万7千(池田勝入4000、中川清秀2500、織田信孝、丹羽長秀、蜂谷頼隆ら8000の2万7千、但し4万の説もあり)に対し明智軍1万7千(1万6千から1万8千の説もあり)。兵数は秀吉軍が勝っていたが、天王山と淀川の間の狭い地域では、3千程度しか展開できず、明智軍は当時の織田軍団で最も鉄砲運用に長けていたといわれる。合戦が長引けば、明智軍にとって好ましい影響(にわか連合である羽柴軍の統率の混乱や周辺勢力の光秀への味方)が予想でき、羽柴軍にとって決して楽観できる状況ではなかった。羽柴軍の主力は備中高松城の戦いからの中国大返しで疲弊しており高山右近や中川清秀等、現地で合体した諸勢の活躍に期待する他はなかった。
当日、羽柴秀吉配下の黒田孝高が山崎の要衝天王山を占拠して戦術的に大勢を定めると勝敗が決したとの見方がある[12]。また別の見方では、本来、明智勢は小泉川の後方に陣取り、天王山と淀川の隘路を進撃する細くなった秀吉軍を包み込んで包囲殲滅できるはずが、秀吉軍の淀川沿いに指向して決戦を挑む秀吉勢の勢いをとめることができず、光秀は敗北したとされる[13]。秀吉は「山崎のこと、ひとつにかかって秀吉一個の覚悟にあり」と後に語っている。
同日深夜、坂本を目指して落ち延びる途中、本経寺付近の竹薮で落ち武者狩り(鎧や刀などを売るため、敗戦して逃げる途中の武将を殺すこと)の百姓・中村長兵衛に竹槍で刺し殺されたと伝わる。[14]竹槍で深手を負った光秀は自刃し、股肱の家臣・溝尾茂朝に介錯させ、茂朝はその首を近くの竹薮に埋めたとも、丹波亀山の谷性寺まで持ち帰ったとも、あるいは坂本城まで持ち帰ったともいわれる。また谷性寺と光秀の墓がある西教寺の記録によると、光秀のものとして首実検に出された首級は3体あったが、そのいずれも顔面の皮がすべて剥がされていたという。光秀のものとして実検された首級が暑さで著しく腐敗していたことは他の多くの史料にも記されている。実検の後、光秀の首級は京都の粟田口にさらされたという。
人物・評価
- 従来の説では光秀は『天台座主記』に「光秀縷々諌を上りて云う」とあるように、信長の比叡山延暦寺焼き討ちに強く反対し、仏教勢力とかなり親密だったとされてきた。だが信長の命令とは言え延暦寺焼き討ち、石山戦争などの対宗教戦争に参戦しているほか、自領の山門の領地を容赦無く没収(門跡領も含めて)しているため、宗教に対して必ずしも保守的ではなかったとする見方[15]があった。これを補強して従来の諌止説を覆したのが、叡山焼き打ち10日前の9月2日付けの雄琴の土豪の『和田秀純あて光秀書状』で、叡山に一番近い宇佐山城への入城を命じ「仰木の事は、是非ともなでぎりに仕るべく候」と非協力な仰木(現大津市仰木町)の皆殺しを命じており、叡山焼き打ちの忠実な中心的な実行者だと判明した[3]。
- 高柳光寿は、光秀は従来から言われるような保守主義者ではなく合理主義者であり、だからこそ信長に重用されて信任されたとしている[16]。光秀が信長と信任があったのは事実で、光秀が信長を信奉していたという史料上の記述も、光秀が定めた『明智家法』末尾「自分は石ころのような身分から信長様にお引き立て頂き、過分の御恩を頂いた。一族家臣は子孫に至るまで信長様への御奉公を忘れてはならない」という趣旨の文や、『宗及他会記』に変の3ヶ月前の「茶会において宝器をおく床の間に信長の筆による書を掛け釜も信長拝領のものを使う」とある。また、信長の方も、例えば天正七年の丹波国平定について、「感状」の筆頭に「日向守、こたびの働き天下に面目を施し候…」と讃えている。
- 主君・織田信長を討った行為については、近代に入るまでは“逆賊”としての評価が主だった。特に儒教的支配を尊んだ徳川幕府の下では、本能寺の変の当日、織田信長の周りには非武装の共廻りや女子を含めて100名ほどしかいなかったこと、変後に神君徳川家康が伊賀越えという危難を味わったことなどから、このことが強調された。
- 本能寺の変で信長を討った後、光秀は京童に対して「信長は殷の紂王であるから討ったのだ」と自らの大義を述べた。しかし京童や町衆は光秀が金銀を贈与していたから表面上は信長殺しを賞賛したが、心の中では「日向守(光秀)は己が身を武王に比している。笑止千万、片腹痛い」と軽蔑していたという。(豊内記)。
- 本能寺の変後、光秀と関係の深い長宗我部元親・斎藤利堯・姉小路頼綱・一色義定・武田元明・京極氏等、呼応する形で勢力を拡大している。(他に北条氏・上杉氏・紀伊や伊賀の国人衆等)。
- 誠仁親王は、変の後の7日に勅使として吉田兼見を派遣し京都の治安維持をまかせている。光秀はこの後、9日に上洛し昇殿して朝廷に銀5百枚や、五山や大徳寺に銀各百枚、勅使の兼見にも銀50枚を贈った。[3]
- 『フロイス日本史』中には、
- 「その才知、深慮、狡猾さにより信長の寵愛を受けた」
- 「裏切りや密会を好む」
- 「己を偽装するのに抜け目がなく、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった。友人たちには、人を欺くために72の方法を体得し、学習したと吹聴していた」
- 「築城のことに造詣が深く、優れた建築手腕の持ち主」・・・実際に、本能寺の変の後、光秀の進軍を阻むために安土への道中にある瀬田の唐橋が切断された際、「瀬の深さと流れる水足が極めて速いことから、それ(修理)は不可能な事と見られていた」にも関わらず、「明智の優秀な技能と配慮により、ただちに修理復旧された」という。
- 「主君とその恩恵を利することをわきまえていた」「自らが受けている寵愛を保持し増大するための不思議な器用さを身に備えていた」「誰にも増して、絶えず信長に贈与することを怠らず、その親愛を得るためには、彼を喜ばせることは万事につけて調べているほどであり、彼の嗜好や希望に関してはいささかもこれに逆らうことがないよう心がけ」「彼(光秀)の働きぶりに同情する信長の前や、一部の者が信長への奉仕に不熱心であるのを目撃して自らがそうではないと装う必要がある場合などは、涙を流し、それは本心からの涙に見えるほどであった」
- 「刑を科するに残酷」「独裁的でもあった」「えり抜かれた戦いに熟練の士を使いこなしていた」
- 「殿内にあって彼はよそ者であり、外来の身であったので、ほとんど全ての者から快く思われていなかった」
- 等の光秀評がある。鈴木眞哉・藤本正行は共著『信長は謀略で殺されたのか』の中で、『フロイス日本史』での信長評が世間で広く信用されているのに対し、光秀評は無視されていると記し、光秀に対する評価を見直すべきとしている。
- 宗教面に関しては「悪魔(=神道・仏教)とその偶像の大いなる友」で、イエズス会に対しては「冷淡であるばかりか悪意を持っていた」とフロイスは書いているが、特にキリシタンに害を加えたという記述はない。また本能寺の変の時、光秀の小姓の1人が宣教師たちを宿泊させている。(宣教師に高山重友を説得させるためではあったが)
- 西近江で一向一揆と戦った時、明智軍の兵18人が戦死した。光秀は戦死者を弔うため、供養米を西教寺に寄進した。西教寺には光秀の寄進状が残されている。他にも、戦で負傷した家臣への光秀の見舞いの書状が多数残されている。家臣へのこのような心遣いは他の武将にはほとんどみられないものであった。光秀の家臣団は、本能寺の変でも一人の裏切り者も出さなかった。ただし重臣には直前まで秘匿し「森蘭丸から使いがあり、信長さまが明智軍の陣容・軍装を検分したいとのことだ」としていた。亀岡城出発後の決行数時間前という直前に重臣たちに打ち明けている[3]。
- ルイス・フロイスは本能寺の変のあと、摂津に軍を向けて諸城を占領し、諸大名から人質を取らなかったことが秀吉に敗北した原因であるとしている[17]。ただしこれは結果論であり、当時の光秀の立場を無視しているとも言われる[18]光秀は、近江方面の平定から始めている。これは常識的な判断である。そして秀吉の「中国大返し」という思わぬ事態にそれ以上の展開を阻まれたのである[19]しかし、4日から8日まで5日間も安土にとどまり朝廷工作を優先していたと思われ、これは大きな失敗である[3]。
- 光秀は信長を討った後、味方に付く大名がほとんどいなかったためなりふりかまわぬ行動をしている。特に縁戚関係にあった細川藤孝・忠興父子に対しては「家老など大身の武士を出して味方してくれれば、領地は摂津か、但馬・若狭を与え、他にも欲しいものがあれば必ず約束を履行する。100日の内に近国を平定して地盤を確立したら、十五郎(光秀嫡男)や与一郎に全てを譲って隠居する」などと6月9日付で出された書状「明智光秀公家譜覚書」にある[20]。
- 山崎の戦いでは秀吉側3万5千に対し、各城にも兵を残したため実数1万程度で劣勢であり、戦いが始まりわずかで最大の3千の斎藤利三隊が包囲され敗走し、早くも戦いの帰趨が決まった[3]。テンプレート:要出典範囲
- 諸学に通じ、和歌・茶の湯を好んだ文化人であった。また、内政手腕に優れ、領民を愛して善政を布いたといわれ、現在も光秀の遺徳を偲ぶ地域が数多くある。
- 現代に至る亀岡市、福知山市の市街は、光秀が築城を行い城下町を整理したことに始まる(亀岡市は亀山城の城下町。伊勢の亀山との混同を避けるため、明治2年(1869年)に改称した)。亀岡では、光秀を偲んで亀岡光秀まつりが行われている。福知山には、「福知山出て 長田野越えて 駒を早めて亀山へ」と光秀を偲ぶ福知山音頭が伝わっている。
- 亀岡市観光協会など光秀ゆかりの地の十数団体を中心に、明智光秀が主人公の大河ドラマの制作を目指す署名活動が行われている。また、亀岡市や細川ガラシャゆかりの長岡京市等の京都府内の7市町が、2014年度の大河ドラマ実現に向け、活動をしている[21][22]。
江戸期の編纂書・軍記や伝承の不明説話
- 鉄砲の名手で、朝倉義景に仕官した際、一尺四方の的を25間(約45.5メートル)の距離から命中させたという。当時の火縄銃や弾丸の性能を考えると、驚異的な腕前である。そのほかにも、飛ぶ鳥を撃ち落としたという逸話もある。
- 「一百の鉛玉を打納たり。黒星に中る数六十八、残る三十二も的角にそ当りける」(明智軍記)。
- 20歳位の頃、芥川で光秀は大黒天の像を拾った。それを見た家臣が「大黒を拾えば1000人の頭になれるそうです」と述べて喜んだが、光秀は「ならばこれは必要ない」と捨ててしまった。驚いた家臣が尋ねると、「わしは1000人の頭になることくらいで終わるつもりはない。もっと大きくなる」と述べて大志があることを示したという(山鹿素行の山鹿語類より)。
- 永禄5年(1562年)に加賀で浪人していた光秀は一向一揆と戦う朝倉景行の軍師として参戦した。一揆の動きを見た光秀は景行に対して「夜討ちに備えるべき」と進言した。多くの者は飛び入りの光秀を快く思わず意見を聞き流したが、景行のみは半信半疑ながらも夜討ちに備えた。すると光秀の進言どおりに一揆が夜討ちをかけてきたが、備えを布いていた朝倉軍は一揆に大勝した。景行は光秀の慧眼と非凡な器を知り、光秀に義景への仕官を勧めたという(小瀬甫庵の太閤記より)。
- ある合戦で対陣中の光秀の下に、塩瀬三右衛門という者が陣中見舞いとして光秀の好物を持参した。光秀が喜んで食べていると敵軍の鬨の声が聞こえてきたため、光秀は慌てながら残りを急いで食べると指揮を執った。あまりの急ぎぶりに光秀の口周りは汚れたままで、これを見た家臣は「殿(光秀)ほどの御方でも心遅れされるとは無様なものよ」と呆れたが、心ある者は「名将となる者は軍のことのみを心がけており、寝食など忘れるもの。殿は食事などこだわらず、軍に心を委ねている証である」と述べたという(太閤真顕記)。
- 他に類を見ないほどの愛妻家としても知られており、継室である煕子が存命中はただ1人の側室も置かなかったと言われている。
- 愛宕百韻の際、愛宕神社で意中の籤が出るまで三度おみくじを引いたと伝えられている。ただし、神籤を三度引いて三角に置き、銭を三枚放り投げて一枚だけ表裏異なる位置の神籤を神意として読むという擲銭法による占いは当時はメジャーなものであった。
- 流浪時代に毛利元就に仕官を求めた際に、元就は「才知明敏、勇気あまりあり。しかし相貌、おおかみが眠るに似たり、喜怒の骨たかく起こり、その心神つねに静ならず。(光秀の才気は並々ならぬものがあり非常に魅力的ではあるけれども、彼の中にはもう一つ狼のような一面が眠っている。利益と同じだけの災いをもたらす可能性も大きい。)」と言い断ったというテンプレート:要出典。
辞世
光秀の辞世とされる偈や句が残っているが、いずれも後世の編纂物によるものである。
- 「順逆無二門 大道徹心源 五十五年夢 覚来帰一元」
- (順逆二門に無し 大道心源に徹す 五十五年の夢 覚め来れば 一元に帰す)『明智軍記』[23]
- 「心しらぬ人は何とも言はばいへ 身をも惜まじ名をも惜まじ」[24]
伝承史跡
- 三好宗三が和泉に勢力を誇っていたとき、その弟三好長円が大阪府泉大津市に「蓮正寺」を建て、境内に仁海上人が「助松庵」を建立し、その助松庵に光秀が隠棲したと口碑に伝えられている。大阪府高石市の「光秀(こうしゅう)寺」門前の由来によれば、その助松庵が現在の「光秀寺」の地に移転したと書かれており、門内の石碑には「明智日向守光秀公縁の寺」と書かれている。この地域に残る「和泉伝承志」によれば、本稿「山崎の戦い」に書かれている光秀とされる遺体を偽物・影武者と否定し、京都妙心寺に逃げ、死を選んだが誡められ、和泉貝塚に向かったと書かれている。光秀と泉州地域との関連では、大阪府堺市西区鳳南町三丁にある「丈六墓地」では、昭和18年頃まで加護灯篭を掲げ、光秀追善供養を、大阪府泉大津市豊中では、徳政令を約束した光秀に謝恩を表す供養を長年行っていたが、現在では消滅している。
- 桑田郡(亀岡市畑野町)の鉱山へ度々検視に訪れていた光秀が峠にさしかかったとき、大岩で馬は足をとめた。光秀に鞭打たれた馬は、身をふるわせて“馬力”をかけ何度も蹄で岩をけり、登ったという。その足跡が「明智光秀の駒すべり岩」として伝えられた。しかし、その岩はゴルフ場が建設されたときに地中に埋められたという[25]。
- 光秀が愛宕百韻の際に亀岡盆地から愛宕山へ上った道のりは、「明智越え」と呼ばれ現在ではハイキング・コースになっている。
- 本能寺の変の際、摂丹街道まで行軍していた丹波亀山城からの先陣が京都へ向かって反転した法貴峠(亀岡市曽我部町)には、「明智戻り岩」が残されている。
- 溝尾茂朝が、光秀の首を持ち帰ったとされる谷性寺(亀岡市宮前町)には、明智光秀公首塚がある[26]。
- 明智藪
光秀の謎
出自
定説で光秀は美濃の明智氏の出身で明智光綱の息子とされるが、前半生が不透明なこともあって以下の異説が存在する。
愛宕百韻の真相
愛宕百韻とは、光秀が本能寺の変を起こす前に京都の愛宕山(愛宕神社)で開催した連歌会のことである。
光秀の発句「時は今 雨が下しる 五月哉」をもとに、この連歌会で光秀は謀反の思いを表したとする説がある。「時」を「土岐」、「雨が下しる」を「天が下知る」の寓意であるとし、「土岐氏の一族の出身であるこの光秀が、天下に号令する」という意味合いを込めた句であるとしている。あるいは、「天が下知る」というのは、朝廷が天下を治めるという「王土王民」思想に基づくものとの考えもある。また歴史研究者・津田勇の説では「五月」は、源頼政らによる以仁王の挙兵、後鳥羽上皇の承久の乱、後醍醐天皇や足利高氏らによる元弘の乱が起こった月であり、いずれも桓武平氏(平家・北条氏)を倒すための戦いであったことから、平氏を称していた信長を討つ意志を表しているとされる。
しかし、これらの連歌は奉納されており、信長親子が内容を知っていた可能性が高い(信長も和歌の教養は並々ならぬものがあり、本意を知ればただではおかないはずである)。また、愛宕百韻後に石見の国人福屋隆兼に光秀が中国出兵への支援を求める書状を送っていたとする史料[27]が近年発見されたことから、この時点では謀反の決断をしておらず、謀反の思いも表されていなかったとの説も提示されている。
なお、この連歌に光秀の謀反の意が込められていたとするなら、発句だけでなく、第2句水上まさる庭のまつ山についても併せて検討する必要があるとの主張もある(ただし、第2句の読み手は光秀ではない)。まず、「水上まさる」というのは、光秀が源氏、信長が平氏であることを前提に考えれば、「源氏がまさる」という意味になる。「庭」は、古来朝廷という意味でしばしば使われている。「まつ山」というのは、待望しているというときの常套句である。したがって、この第2句は、源氏(光秀)の勝利することを朝廷が待ち望んでいる」という意味になるという解釈がある。
本能寺の変の原因
本能寺の変でなぜ光秀が信長に謀反をしたのか、さまざまな理由が指摘されているが、確固たる原因や理由が結論として出されているわけではない。以下に現在主張されている主な説を記す。
- 怨恨説
- 主君の信長は短気かつ苛烈な性格であったため、光秀は常々非情な仕打ちを受けていたという説。以下はその代表例とされるもの。
- 信長に酒を強要され、下戸の光秀が辞退すると「わしの酒が飲めぬか。ならばこれを飲め」と刀を口元に突き付けられた。[28]
- 同じく酒席で光秀が目立たぬように中座しかけたところ、「このキンカ頭(禿頭の意)」と満座の中で信長に怒鳴りつけられ、頭を打たれた(キンカ頭とは、「光秀」の「光」の下の部分と「秀」の上の部分を合わせると「禿」となることからの信長なりの洒落という説もある)。
- 丹波八上城に人質として自身の母親を預けて、身の安全を保障した上で降伏させた元八上城主の波多野秀治・秀尚兄弟を、信長が勝手に殺害。これにより、激怒した八上城の家臣は光秀の母親を殺害してしまった。殺害された母親の死体は、首を切断され木に縛られていたと言われる。(絵本太功記による創作とされる)。
- 武田家を滅ぼした徳川家康の功を労うため、安土城にて行われた京料理での接待を任され、献立から考えて苦労して用意した料理を、「腐っている」と信長に因縁をつけられそれを聞いた家臣が怒って安土城の堀や川に投げ捨てた。魚が腐ってしまい安土城全体が魚臭くなってしまったからとの説もある。また、京料理独特の薄味にしたため、塩辛い味付けを好む尾張出身の信長の舌には合わなかったとも言われている。この一件により、すぐさま秀吉の援軍に行けと命じられてしまう。この時の解釈にも諸説あり、安土大饗応の時、実は信長は光秀に対して徳川家康を討てと命じたが光秀がそれを拒否した為に接待役を免ぜられたという説、魚が腐っている(肴が腐っている)というのは毒を入れろと言ったのになぜ入れなかったのかという信長の怒りという説、信長自らがわざわざ台所に行き材料の魚鳥を吟味した説などがある。
- 中国2国(出雲国・石見国)は攻め取った分だけそのまま光秀の領地にしてもいいが、その時は滋賀郡(近江坂本)・丹波国は召し上げにする、と伝えられたこと。(明智軍記)
- 甲州征伐の際に、信濃の反武田派の豪族が織田軍の元に集結するさまを見て「我々も骨を折った甲斐があった」と光秀が言った所、「お前ごときが何をしたのだ」と信長が激怒し、小姓の森成利(森蘭丸)に鉄扇で叩かれ恥をかいた(明智軍記)。
- ルイス・フロイスは、「信長が光秀を足蹴にしたというウワサがあった」と記している(日本史)。日本史は明智軍記よりかなり信憑性は高いとされている。
- 桑田忠親は著書『明智光秀』で、独自の研究を基に「本能寺の変 怨恨説」を唱えた。
- 野望説
- 光秀自身が天下統一を狙っていたという説。この説に対しては「知将とされる光秀が、このような謀反で天下を取れると思うはずがない」という意見や、「相手の100倍以上の兵で奇襲できることは、信長を殺すのにこれ以上ないと言える程の機会だった」という意見がある。高柳光寿著『明智光秀』はこの説を採用している。
- 佐久間信盛の織田家追放を佐久間家の視点で描いた『佐久間軍記』には、追放の要因が何者かの讒言である可能性を示唆している。それが“何者か”については、寛政重修諸家譜の佐久間信栄(正勝)の項には「後明智光秀が讒により父信盛とともに高野山にのがる。信盛死するののち、右府(信長)其咎なきことを知て後悔し、正勝をゆるして城介信忠に附属せしむ。」とある。光秀が讒言を行っていた場合、本能寺の変の理由の1つとして、謂れのない讒言であると明らかにされることを恐れたという可能性もある。
- 恐怖心説
- 長年信長に仕えていた佐久間信盛、林秀貞達が追放され、成果を挙げなければ自分もいずれは追放されるのではないかという不安から信長を倒したという説。これは怨恨説など諸説の背景としても用いられる。
- もしくは、今までにない新しい政治・軍事政策を行う規格外な信長の改革に対し、光秀が旧態依然とした統治を重んじる考えであったという説。
- 理想相違説
- 信長、光秀、それぞれの思い描いた理想が相違したという説[29]。
- これは信長を伝統的な権威や秩序を否定し、犠牲もいとわない手法で天下の統一事業を目指したと歴史解釈したうえで、光秀は衰えた室町幕府を再興し、混乱や犠牲を避けながら安定した世の中に戻そうとした、と考えたところから発生した説[30]。
- この説は、光秀は信長の命とともにその将来構想(独裁者の暴走)をも永遠に断ち切ったと主張する。そして光秀も自らの手でその理想を実現することは叶わなかったが、後の江戸幕府による封建秩序に貫かれた安定した社会は270年の長きに渡って続き、光秀が室町幕府再興を通じて思い描いた理想は、江戸幕府によって実現されたと主張する。
- なお、光秀は自身も教養人であったが、近畿地区を統括していた関係上、与力大名にも名門、旧勢力出身者が多い。特に両翼として同調が期待されていた細川(管領家の分流)、筒井(興福寺衆徒の大名化)は典型であり、こうした状況もこの説の背景となっている。清水義範の小説「金鯱の夢」での、光秀が織田軍団の無骨さや尾張弁にストレスを募らせていたという動機解釈はもちろんギャグであるが、こうした光秀グループ=外様の保守文化人集団という構造をすくいあげた点では、この説の変形でもある。
- 将軍指令説 / 室町幕府再興説
- 光秀には足利義昭と信長の連絡役として信長の家臣となった経歴があるため、恩義も関係も深い義昭からの誘いを断りきれなかったのではないかとする説。
- 朝廷説
- 「信長には内裏に取って代わる意思がある」と考えた朝廷から命ぜられ、光秀が謀反を考えたのではないかとする説。この説の前提として、天正10年(1582年)頃に信長は正親町天皇譲位などの強引な朝廷工作を行い始めており、また近年発見された安土城本丸御殿の遺構から、安土城本丸は内裏清涼殿の構造をなぞって作られたという意見を掲げる者もいる。
- 近年、立花京子は「天正十年夏記」等をもとに、朝廷すなわち誠仁親王と近衛前久がこの変の中心人物であったと各種論文で指摘している。この「朝廷黒幕説」とも呼べる説の主要な論拠となった「天正十年夏記」(「晴豊記」)は、誠仁親王の義弟で武家伝奏の勧修寺晴豊の日記の一部であり、史料としての信頼性は高い。立花説の見解に従えば、正親町天皇が信長と相互依存関係を築くことにより、窮乏していた財政事情を回復させたのは事実としても、信長と朝廷の間柄が良好であったという解釈は成り立たない。三職推任問題等を考慮すると、朝廷が信長の一連の行動に危機感を持っていたことになる。
- 朝廷または公家関与説は、足利義昭謀略説、「愛宕百韻」の連歌師里村紹巴との共同謀議説と揃って論証されることが多く、それだけに当時の歴史的資料も根拠として出されている。ただし、立花説では「首謀者」であるはずの誠仁親王が変後に切腹を覚悟するところまで追い詰められながら命からがら逃げ延びていること、「晴豊記」の近衛前久が光秀の謀反に関わっていたという噂を「ひきよ」とする記述の解釈など問題も多い(立花は「非挙(よくない企て)」と解釈しているが、これは「非拠(でたらめ)」と解釈されるべきであるとの津田倫明、橋本政宣らの指摘がある)。
- 一時期は最も有力な説として注目されていたが、立花が「イエズス会説」に転換した現在、この説を唱える研究者はいない。現在の歴史学界では義昭黒幕説とともに史料の曲解であるとの見解が主流となっている。
- 四国説
- 比較的新しい説とされるが、野望説と怨恨説で議論を戦わせた高柳・桑田の双方とも互いの説を主張する中で信長の四国政策の転換について指摘している。信長は光秀に四国の長宗我部氏の懐柔を命じていた。光秀は斎藤利三の妹を長宗我部元親に嫁がせて婚姻関係を結ぶところまでこぎつけたが、天正8年(1580年)に入ると織田信長は秀吉と結んだ三好康長との関係を重視し、武力による四国平定に方針を変更したため光秀の面目は丸つぶれになった。大坂に四国討伐軍が集結する直前を見計らって光秀(正確には利三)が本能寺を襲撃したとする。
- イエズス会説
- 信長の天下統一の事業を後押しした黒幕を、当時のイエズス会を先兵にアジアへの侵攻を目論んでいた教会、南欧勢力とする。信長が、パトロンであるイエズス会及びスペイン、ポルトガルの植民地拡張政策の意向から逸脱する独自の動きを見せたため、キリスト教に影響された武将と謀り、本能寺の変が演出されたとする説(立花京子『信長と十字架』)。この説には大友宗麟と豊臣秀吉の同盟関係が出てくるが、他にイエズス会内の別働隊が、キリシタン大名と組んで信長謀殺を謀ったとする説も出てきている。いずれも宗教上の問題以外に硝石、新式鉄砲等の貿易の利ざやがあったとされる。しかし、イエズス会の宣教師が本国への手紙で「日本を武力制圧するのは無理です」と書いている事柄からすると、「商業主義」を政策として行っていた信長政権をイエズス会が倒すのはデメリットになる。
- この説を唱える立花京子の史料の扱い方や解釈に問題があり、歴史学界ではほとんど顧みられていない。キリシタン大名との関係では、朝廷と同じように関係を継続していこうとする光秀の考えと、信長の武力による天下統一の考え方に大きなズレが生じたとする傾向の説が出ている。
- 諸将黒幕説
- 織田家を取り巻く諸将が黒幕という説。徳川家康や羽柴秀吉が主に挙がる。
- 家康の場合、信長の命により、長男信康と正室築山殿を自害させられたことが恨みの原因といわれている。ただし近年では、2人の殺害は信長の命ではなく、家康と信康の対立が原因とする説も出されている(松平信康#信康自刃事件についてを参照)。家康は後に、明智光秀の従弟(父の妹の子)斎藤利三の正室の子である福(春日局)を徳川家光の乳母として特段に推挙している(実際に福を推挙したのは京都所司代の板倉勝重)。これの発展として「信長は、自ら仕掛けた罠に自分自身がはまってしまった」という「光秀家康共謀説」を日本テレビ「時空警察」が採り上げている。「信長は、本能寺に家康を呼び寄せ殺害する、という家康潰しの計画を企て、その実行を光秀に命じたが、光秀は信長を裏切り、家康と共謀。光秀と家康は、『信長の命令による家康討ち』の計画を利用し、『信長討ち』にすり替えた」というものである。信長は光秀に全幅の信頼をよせており、襲われるのは家康であって、自分が狙われることなどあり得ないと考えていたため、本能寺での無警戒ぶりが、合点がいくというのである。また、家康が「安土招請」「堺見物」に不思議なまでに無警戒だった理由も合点がいくという主張である。「神君伊賀越え」は予定通りのルートであり、苦難とされたのは、予定通りの行動であることを世間に隠すためのカモフラージュというものである。
- 秀吉の場合は、佐久間信盛や林秀貞達が追放され、将来に不安を持ったという説がある(中国大返しの手際が良過ぎることも彼への疑惑の根拠となっている)。詳細は豊臣秀吉#本能寺の変の黒幕説を参照。
- 他に少数意見として、細川藤孝や織田信忠が黒幕という説もある。
- 本能寺の変の直前に旧武田の家臣、穴山梅雪が共に安土城に信長を訪ねている。確証はないが、武田氏を滅ぼされた梅雪が光秀とともに信長に滅ぼされた伊賀忍者や延暦寺の残党と謀り信長を暗殺した可能性も考えられる(梅雪自身は本能寺の変の直後に、領国の甲斐に戻ろうとしたが落ち武者狩りの土民に殺害されている)。
- 補足
- 上記に加え、「本願寺黒幕説」や比較的近年の研究成果として「明智家臣団の国人衆による要請があったとする説」などもある。
- 信憑性はともかく、信長の革新的な様々な政策は、光秀の家臣団に受け入れがたい点もあったと考えられる。信長の軍団・柴田勝家の北陸統治に見られるように、武士団にとって簡単に国替えを行うことは大きな負担と不安を与える事が考えられる。しかし、この国替えは信長自身も数度行っており、信長はそれらを解決するために家族そのものの移住等を行い、その度にその国を発展させてきたが、信長にとっては大したことでなくとも家臣にとっては難しい問題であって摩擦の原因となった可能性はある。明智氏やその家臣、従者に関わる口伝などはいくつか伝わっており、資料の少ない考証については、従来日の目をみることがなかったこうした信憑性を確定できない資料の分析を行っていく必要がある。
- 長年の恨み説の中で登場する八上城攻囲に関して、人質とされている光秀の母親が偽者(叔母)であったとする説もある。この偽物説は、過去いくつかの書籍で取り上げられていたが、丹波味土野には、口伝として光秀の母堂を隠しその身を守ってきたとする伝承があり、これに信をおくとすれば、長年の恨み説の中で八上城に関する部分は人質である叔母の犠牲は伴うものの、本能寺の変の原因の主因としては考慮から外ずしてもよいことになる。
- これらの理由が決定的でない理由として、怨恨説は元になったエピソードが主として江戸時代中期以降に書かれた書物が出典であること(すなわち、後世の憶測による後付である。例えば、波多野秀治の件は現在では城内の内紛による落城と考えられており、光秀の母を人質とする必要性は考えられないとされている)、織田信長・豊臣秀吉を英雄とした明治以来の政治動向に配慮し、学問的な論理展開を放棄してきたことが挙げられる(ただし、ルイス・フロイスの足蹴の記述など、明らかに同時代の資料も存在する)。
- 光秀は信長から浪人とは思えないほど取り立てられただけではなく、石山合戦における天王寺合戦では光秀と麾下の兵等が1万5千の本願寺軍兵に取り囲まれていたところを、信長はわずか3千ほどの兵で自ら前線に立って傷を負いながら救出している。このことからも光秀は信長からかなり眼をかけられていたようである。本能寺の変当時の光秀の領地は、信長の本拠安土と京都の周辺で30万石とも50万石とも言われているが、史上権力者が本拠地周辺にこれだけの領土を与えた事例は秀吉が弟秀長に大阪の隣地である大和に100万石を与えたくらいしかない。この配置を見ても、信長が相当の信頼を置いていたことが窺える(結果として、これが裏目に出てしまった)。また、『明智家法』には「自分は石ころ同然の身分から信長様にお引き立て頂き、過分の御恩を頂いた。一族家臣は子孫に至るまで信長様への御奉公を忘れてはならない」という文も残っている。このことを根拠に「光秀は恩を仇で返した愚か者」と酷評する歴史研究家も存在する。
- 平成19年(2007年)に行われた本能寺跡の発掘調査で、本能寺の変と同時期にあったとされる堀跡や大量の焼け瓦が発見され、本能寺を城塞として改築した可能性が指摘された。
- いずれにしても、本能寺の変は知将と謳われた光秀にしてはあまりに稚拙とする意見も多い。本能寺の変の際、前田玄以や織田長益(有楽斎)らが三法師(織田秀信)を保護して京都から逃亡するのを許したことも、その例である。
- 光秀は変の前に三回くじを引いた(全て凶だったといわれる)という逸話もあり、決心がつきかねていたのではないかとする者もいる。
- 「敵は本能寺にあり」と言ったのは光秀ではなく、江戸時代中後期に、頼山陽が記した言葉である。
南光坊天海説
光秀は小栗栖で死なずに南光坊天海になったという異説がある。天海は江戸時代初期に徳川家康の幕僚として活躍した僧で、その経歴には不明な点が多い。
異説の根拠として、
- 日光東照宮陽明門にある随身像の袴や多くの建物に光秀の家紋である桔梗紋[31]がかたどられている事や、東照宮の装飾に桔梗紋の彫り細工が多数あること。
- 日光に明智平と呼ばれる区域があり、天海がそう名付けたという伝承があること[32]。天海が「ここを明智平と名付けよう」と言うと「どうしてですか?」と問われ、「明智の名前を残すのさ」と呟いたと日光の諸寺神社に伝承がある。
- 徳川秀忠の秀と徳川家光の光は光秀、徳川家綱の綱は光秀の父の明智光綱、徳川家継の継は光秀の祖父の明智光継の名に由来してつけたのではないかという推測
- 光秀が亡くなったはずの天正10年(1582年)以後に、比叡山に光秀の名で寄進された石碑が残っていること
- 学僧であるはずの南光坊天海が関が原戦屏風に家康本陣に軍師として描かれて、その時、着たとされる鎧が残っていること[33]
- 光秀の家老斎藤利三の娘於福が天海に会った時に「お久しぶりです」と声をかけ、3代将軍徳川家光の乳母(春日局)になったこと
- 光秀の孫(娘の子)にあたる織田昌澄が大坂の役で豊臣方として参戦したものの、戦後助命されていること(天海が関わったかは不明)
- テレビ東京が特別番組で天海と光秀の筆跡を鑑定した結果、「極めて本人か、それに近い人物」との結果が出ている。[34]
- 童謡かごめかごめの歌詞に隠された天海の暗号が光秀=天海を示すという説[35]
しかし、これらの根拠には以下の反証が挙げられている。
- 日光東照宮には桔梗以外にも多くの家紋に類似した意匠があり、さらに桔梗の紋は山県昌景や加藤清正など多くの武将が使用しており、光秀の紋とは限らない[36]。
- 寛永寺の公式記録では天海は会津出身とされており、実家とされる船木氏も桔梗紋である。
- 天海が一時期僧兵として鎧を着たことがあっても不自然ではない。
- 比叡山の石碑に関しては後世の偽造との説も出ている。
- 天海が光秀であるとすると、116歳(記録では108歳)で没したことになり、当時の平均寿命からみて無理(但し、途中から光秀の死後に長男の光慶が天海を演じたなら辻褄が合い、親子で天海を演じたという仮説も存在する)が生じる。
- 諱についても秀忠の秀の字は結城秀康や毛利秀元や小早川秀秋のように秀吉から偏諱を賜ったものであり、家光の諱を選定したのは天海とライバル関係にあった金地院崇伝であり、家綱と家継の元服時にはすでに天海は死亡している。
- 関ヶ原の戦いで西軍に与した光秀と懇意であった長宗我部氏の処分に異を唱えたことが見受けられない。
系譜
明智氏は「明智系図」(『続群書類従』所収)によれば、清和源氏の一流摂津源氏の流れを汲む土岐氏の支流氏族であるとされており、おおよそ伝記・系図類ではこの見解は一致している。ただしその詳細な系譜や近親者については史料によって相違が甚だしく、並列に扱うことが難しい。
発祥の地は、美濃国明智庄(現在の岐阜県可児市または恵那市)とされる。
系図
『続群書類従』所収の「土岐系図」による。頼尚以前と土岐定政の系統は『上野沼田 土岐家譜』とも共通する。
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- 『系図纂要』所収の「明智系図」では土岐頼清の系譜とされている。頼清の嫡男である頼康の子・頼兼を明智氏初代とする。その7代目の子孫が明智光継であり、その子を光綱、そしてその子が光秀とある。
- 『明智氏一族宮城家相伝系図書』では頼清の子・頼兼を明智氏初代とし、頼重は頼兼の養嗣子であったとする。また頼弘の子が頼典となっており、頼典は後に光継と改名したという。欠落した頼定と頼尚は、それぞれ頼典の弟とその長男となっており、頼明は頼尚の弟とされる。
父母兄弟
- 父親は名を光綱・光隆・光国と諸説ある。『明智氏一族宮城家相伝系図書』によると光隆から光綱と改名したとされる。
- 母親は若狭武田氏の出身で名をお牧の方と伝わる。『総見記』などの軍記物では、光秀が老母を敵方へ人質に差し出す話が伝わっているが、事実かは不明。
- 光秀に兄弟がいたとするものは、『鈴木叢書』収録の「明智系図」による。次弟・信教は後の筒井順慶、三弟・康秀は三宅左馬助と号し、後に左馬助を称したという。いずれも別人の存在が明らかであり、事実との相違が甚だしい。
- 光秀の出自を明智氏としない俗説も多い。
妻室
妻は『明智軍記』などに記載のある妻木氏が有名。俗伝として喜多村保光の娘、原仙仁の娘という側室がいたともある。前室に山岸光信の娘がいたとする説もあるテンプレート:要出典。
子女
子女については俗説が非常に多い。
- 『明智軍記』では三男四女がいたとする。
- 『鈴木叢書』所収の「明智系図」では側室の子も含めて六男七女があったとする。
- 大阪府岸和田市にある本徳寺の開基とする南国梵桂は、一説に光秀の子とされるが定かではない。また光慶と同一人物とする説もある。
- 娘の一人に、春日大社の目代である摂津今西氏の今西春房の妻・美津がいたというテンプレート:要出典。
- 宣教師のルイス・フロイスは光秀の子息・子女のことを非常に美しく優雅でヨーロッパの王族を思わせるようだったと伝えている。
縁戚
- 叔父叔母
- 『明智軍記』では光安、光久、光廉の三人の叔父と、その家族の名がある。
- 『明智氏一族宮城家相伝系図書』によると、上記に加えて叔父・光広、叔母に岸信周の室、岸信周の後室、斎藤道三の室[44]など五女があったという。
- 叔父の一人に山岸光信があるともいうテンプレート:要出典。
- 従兄弟
- 子孫
- 織田昌澄 - 光秀の外孫にあたり、大坂の役で豊臣方に加わるが助命され、子孫は旗本となる。
- 細川忠隆 - 細川忠興の嫡男。後、廃嫡され、子孫は細川家臣内膳家となるがガラシャの血を継ぐ。
- 細川忠利 - 細川忠興の三男。熊本藩初代藩主。
- 細川隆元・細川隆一郎 - 細川忠隆の子孫。細川隆一郎は隆元の甥。
- 明智ハナエリカ - 明智の末裔(2011年現在)歌手。母・イタリア系メキシコ人。NHKイタリア語講座に出演。2004年アイフルのCMソング「恋の技を決めてあなたを振り向かせる」を発売。
- 光秀の長女・次女の系統まで含めれば末裔は少なくないが、熊本藩主細川忠利の系統は第8代で男子なく分家より養子を迎えたために光秀の血は途切れている。
- 自称明智氏の子孫で坂本城に由来するという坂本龍馬の坂本家の家紋は組み合わせ角に桔梗だが、坂本姓以前の大浜姓の頃の紋は丸に田の字なので明智氏との関係はない。
- クリス・ペプラー、ALAN J - ペプラー家の母方の祖母が子孫の一人だと語ったという。
家臣
- 美濃衆
- 旧幕臣
- 近畿衆
- 丹波衆
祭礼・イベント
- 光秀公正辰祭(御霊神社 (福知山市))
- 福知山ドッコイセ祭り
- 亀岡市光秀まつり
関連作品
- 文学
- 1767年 『三日太平記』 近松半二・三好松洛・八民平七 共作 (人形浄瑠璃・歌舞伎)
- 1780年 『仮名写安土問答』 近松半二・近松東南・近松能輔・若竹笛躬 共作(人形浄瑠璃)
- 1799年 『絵本太功記』 近松柳・近松湖水軒・近松千葉軒 共作 (人形浄瑠璃・歌舞伎)
- 1808年 『時今也桔梗旗揚』 四代目鶴屋南北 作 (歌舞伎)
- 1968年 『幽鬼』 井上靖 著 (短編集『楼蘭』所収、新潮社文庫)
- 1971年 『国盗り物語』 司馬遼太郎 著 (新潮社文庫)
- 1975年 『細川ガラシャ夫人』 三浦綾子 著(主婦の友社、新潮文庫)
- 1976年 『逆軍の旗』 藤沢周平 著(青樹社、文春文庫)
- 1983年 『桔梗の旗風』 南条範夫 著 (文藝春秋)
- 1983年 『ささら笹船 ― 明智光秀の光と影』 谷正純 作 (宝塚歌劇)
- 1988年 『明智光秀』 徳永真一郎 著 (PHP研究所、ISBN 4-569-56405-4)
- 1989年 『鬼と人と — 信長と光秀』 堺屋太一 著 (PHP研究所)
- 1991年 『明智光秀』 早乙女貢 著 (文藝春秋、ISBN 4-16-723024-0)
- 1991年 『反逆』 遠藤周作 著 (講談社文庫)
- 1991年 『明智光秀 — 本能寺の変』 浜野卓也 著 (講談社火の鳥伝記文庫 ISBN 4-06-147578-9)
- 1991年 『反・太閤記 — 光秀覇王伝』 桐野作人 著 (学習研究社)
- 1993年 『光秀の十二日』 羽山信樹 著 (新人物往来社 ISBN 9784404020420)
- 2006年 『是非に及ばず』 山口敏太郎 著 (青林堂、ISBN 4-7926-0386-2)
- 2006年 『なにわの夢』 山口敏太郎 著 (青林堂、ISBN 4-7926-0393-5)
- 2007年 『天眼 ─ 光秀風水綺譚』 戸矢学 著 (河出書房新社)
- 2008年 『覇王の番人』 真保裕一 著 (講談社) ほか多数
- 映画
- 『旧劇 太功記十段目 尼ヶ崎の段』(1908年、M・パテー商会)
- 『敵は本能寺にあり』(1960年、松竹、演:松本幸四郎)[45]
- テレビドラマ
- 明智光秀〜神に愛されなかった男〜(2007年、フジテレビ 演:唐沢寿明)
- 太閤記 (NHK大河ドラマ)(1965年、NHK大河ドラマ、演:佐藤慶)
- 国盗り物語 (NHK大河ドラマ)(1973年、NHK大河ドラマ、演:近藤正臣)
- 黄金の日日(1978年、NHK大河ドラマ、演:内藤武敏)
- おんな太閤記(1981年、NHK大河ドラマ、演:石濱朗)
- 徳川家康 (NHK大河ドラマ)(1983年、NHK大河ドラマ、演:寺田農)
- 春日局 (NHK大河ドラマ)(1989年、NHK大河ドラマ、演:五木ひろし)
- 信長 KING OF ZIPANGU(1992年、NHK大河ドラマ、演:マイケル富岡)
- 秀吉(1996年、NHK大河ドラマ、演:村上弘明)
- 利家とまつ〜加賀百万石物語〜(2002年、NHK大河ドラマ、演:萩原健一)
- 国盗り物語(2005年、テレビ東京、演:渡部篤郎)
- 功名が辻(2006年、NHK大河ドラマ、演:坂東三津五郎)
- 天地人(2009年、NHK大河ドラマ、演:鶴見辰吾)
- 江〜姫たちの戦国〜(2011年、NHK大河ドラマ、演:市村正親)
- 軍師官兵衛(2014年、NHK大河ドラマ) 演:春風亭小朝
- 舞台
- 漫画
- もとむらえり『愛しの焔 〜ゆめまぼろしのごとく〜』(2007年 - FlexComixフレア)
- 歌謡曲
- 浜北弘二『明智光秀』
- TRPGリプレイ
脚注
参考文献
- 小泉策太郎『明智光秀』、裳華書房、1897年※近代デジタルライブラリー
- 奥村恒次郎『明智光秀』、国立国会図書館、1910年※近代デジタルライブラリー
- 高柳光寿、日本歴史学会編『明智光秀』、吉川弘文館(人物叢書日本歴史学会編 1)、1958年、299p
- 高柳光寿、日本歴史学会編『新装版明智光秀』、吉川弘文館(人物叢書日本歴史学会編集)、1986年、299p
- 青木晃[ほか]編『畿内戦国軍記集(和泉選書 ; 39)』、和泉書院、1989年、238p - 年代記・軍記の4作品を影印・翻刻により紹介している書。明智光秀叛逆の原因からその遺骸のはりつけまでを述べた「山崎合戦記」(聖藩文庫本)を収録。
- 藤田達生『謎とき本能寺の変』、講談社(講談社現代新書#1685)、2003年、200p
- 谷口克広『信長軍の司令官』(中公新書)、中央公論新社1782、2005年:ISBN 4-12-101782-X
- 『歴史群像 No.70』、学研、2006年- 史伝 明智光秀
- 谷口克広『検証- 本能寺の変』 吉川弘文館(歴史文化ライブラリー#232)、 2007年、263p
- 永井寛『明智光秀』、三一書房、1999年
- 『世界人物逸話大事典』、角川書店
関連項目
外部リンク
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