細川忠利

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細川 忠利(ほそかわ ただとし)は、江戸時代前期の大名豊前小倉藩の第2代藩主。後に肥後熊本藩初代藩主。

生涯

生い立ち

細川忠興の三男で、母は明智光秀の娘・玉子。幼名は光千代。はじめ長岡姓を称したが、慶長5年(1600年)に徳川家康の命で細川へ復姓し、細川内記を名乗った[1]。幼少時は病弱だったため玉子がキリスト教洗礼を受けさせたともいわれている。 同母兄に細川忠隆(細川内膳家)、細川興秋

熊本藩主

世子だった長兄の忠隆慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後に廃嫡されたために、江戸に人質に出されて徳川秀忠の信頼を得ていた忠利が慶長9年(1604年)に世子となり、元和6年(1620年)に父から家督を譲られて小倉藩主となる。なお、次兄の興秋は慶長10年(1605年)に細川家を出奔した。上記の家督相続の決定に不満を持ったためとされる(のち大坂の陣で豊臣氏に与して大坂城に籠城し、慶長20年(1615年)に自害)。

寛永9年(1632年)、肥後熊本藩の加藤忠広改易されたため、その跡を受けて小倉から熊本54万石に加増移封された(後任の小倉城主には忠利の義兄弟である小笠原忠真が就任した)。忠利は熊本藩の初代藩主となり、父・忠興は隠居所として八代城に住んだ。寛永14年(1637年)の島原の乱にも参陣し、武功を挙げている。

寛永18年(1641年)、父に先立って死去した。享年55。長男・光利(光尚と改名)が跡を継いだ。 墓所は熊本県熊本市の妙解寺。

人物

  • 忠利は江戸で人質となっていたため関ヶ原の戦いでは功績がなく、また2人の実兄を差し置いて世子となったことを気にしていたという。残された手紙[2]をみると、徳川家や父・忠興はもちろん、廃嫡された長兄・忠隆ほか叔父・叔母などに細やかに心遣いをしている様子がうかがえる。
  • 武の時代から幕藩体制に移りつつあった新しい時代に、妻の実家・徳川家と個性の強い父・忠興との間の調和に心労しつつも、細川家を大大名家として保つのに成功した名君であった。
  • 加藤家改易後の熊本藩を任されたように幕府からも信頼されており、「いずれ藤堂高虎のように江戸に常駐するのではないか」という噂が立つほどであった。寛永11年(1634年)には参勤交代の改善策を幕閣に提案し、それが採用されてもいる。忠利が死んだ際、徳川家光は「越中早く果て候」(死ぬのが早すぎた)と嘆いている。
  • 外様大名でありながら幕府側の代理者として行動することが多かったため、他の大名には煙たがられたという話も伝わっている。
  • 徳川家光の乳母春日局明智氏の縁者であり、明智氏の血を引く忠利に対しては好意的であったとされる。
  • 少年時代に江戸に居たため、秀忠の代の幕府の有力な旗本たちと幼なじみであったことも、結果的には忠利に有利に働き、旗本たちとの太いパイプを利用して幕府の動向を掴んでいた[3]
  • 武芸に熱心で、特に剣術においては柳生宗矩に師事し、大名の中では鍋島元茂と並ぶ柳生新陰流の代表的な剣士の一人である。宗矩も忠利を高く評価し、秘伝である「兵法家伝書」を与えている。また、晩年の宮本武蔵を招き、客人として遇したことでも知られている。
  • 遺言により、熊本市の岫雲院 (春日寺)にて荼毘に付されたが、鷹が2羽殉職したと伝えられている。


伝記

脚注

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関連項目

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  1. 父・忠興は大坂夏の陣後まで長岡姓を称しており、称号として羽柴姓も名乗っていた。
  2. 山本博文『江戸城の宮廷政治 熊本藩細川忠興・忠利父子の往復書状』(新版・講談社学術文庫、2004年)に詳しい。
  3. 山本博文「細川家、情報戦を制す」『芸術新潮』(2007年10月号、新潮社)より