小栗忠順
小栗 忠順(おぐり ただまさ)は、江戸時代末期の幕臣、勘定奉行、江戸町奉行、外国奉行。
通称は又一。安政6年(1859年)、従五位下豊後守に叙任[1]。文久3年(1863年)、上野介に遷任され、以後小栗上野介と称される。三河小栗氏第12代当主で、父方の祖父は同じく勘定奉行を務めた中川忠英。
目次
概要
安政7年(1860年)、日米修好通商条約批准のため米艦ポーハタン号で渡米し、日本人で初めて地球を一周して帰国した。その後は多くの奉行を務め、江戸幕府の財政再建や、フランス公使レオン・ロッシュに依頼しての洋式軍隊の整備、横須賀製鉄所の建設などを行う。
徳川慶喜の恭順に反対し、薩長への主戦論を唱えるも容れられず、慶応4年(1868年)に罷免されて領地である上野国群馬郡権田村(群馬県高崎市倉渕町権田)に隠遁。同年閏4月、薩長軍の追討令に対して武装解除に応じ、自身の養子をその証人として差し出したが逮捕され、翌日、斬首[2]。逮捕の理由としては、大砲2門・小銃20挺の所持[3]と農兵の訓練が理由であるとする説や、勘定奉行時代に徳川家の大金を隠蔽したという説(徳川埋蔵金説)[4]などが挙げられるが、これらの説を裏付ける根拠は現在まで出てきていない。
戦後、明治政府中心の歴史観が薄まると小栗の評価は見直され、司馬遼太郎は小栗を「明治の父」と記した[5]。
生涯
文政10年(1827年)、禄高2,500石[6]の旗本・小栗忠高の子として江戸駿河台の屋敷[7]に生まれる。幼名は剛太郎。当初、周囲からは暗愚で悪戯好きな悪童と思われていたが[8]、成長するに従って文武に抜きん出た才能を発揮し、14歳の頃には自身の意志を誰にはばかることなく主張するようになった。
8歳から、小栗家の屋敷内にあった安積艮斎の私塾「見山楼」に入門、栗本鋤雲と知り合うこととなる[9]。武術については、剣術を島田虎之助に師事した。後に藤川整斎の門下となり、直心影流免許皆伝を許される。また砲術を田付主計、柔術を窪田助太郎に師事する。天保11年(1840年)頃、田付主計の同門であった年長者の結城啓之助から開国論を聞かされ、以後影響を受ける[10]。
天保14年(1843年)、17歳になり登城する。文武の才を注目され、若くして両御番となる。率直な物言いを疎まれて幾度か官職を変えられたが、そのたびに才腕を惜しまれて官職を戻されている。
嘉永2年(1849年)、林田藩の前藩主建部政醇の娘・道子と結婚する。
嘉永6年(1853年)、アメリカ合衆国東インド艦隊司令長官マシュー・ペリーが浦賀に来航する。その後、来航する異国船に対処する詰警備役となるが、戦国時代からの関船しか所持していない状態ではアメリカと同等の交渉はできず、開国の要求を受け入れることしかできなかった。この頃から外国との積極的通商を主張し、造船所を作るという発想を持ったと言われる[11]。
安政2年(1855年)、父・忠高が医師の誤診により死去し[12]、家督を相続する。
安政7年(1860年)、遣米使節目付(監察)として、正使の新見正興が乗船するポーハタン号で渡米する[13]。2ヶ月の船旅の後、サンフランシスコに到着する。代表は新見であったが、目付の小栗が代表と勘違いされ、行く先々で取材を受けた。勘違いの理由として、新見をはじめとして同乗者の多くは外国人と接したことがなく困惑していたが、小栗は詰警備役として外国人と交渉経験があるため落ち着いており、そのため代表に見えたとされる。また「目付とはスパイのことだ。日本(徳川幕府)はスパイを使節として同行させているのか。」という嫌疑を受けた。その際に「目付とはCensorである」と主張して切り抜けたという。「Censor」という役の重さが代表扱いされる一因かと推察される。
フィラデルフィアでは通貨の交換比率の見直しの交渉に挑んだ。これは日米修好通商条約で定められた交換比率が不適当で、経済の混乱が生じていたためである。小栗は小判と金貨の分析実験をもとに主張の正しさを証明したものの、比率の改定までは至らなかった。しかしこの交渉に関して、多くのアメリカの新聞は絶賛の記事を掲載する。また小栗はワシントン海軍工廠を見学した際、日本との製鉄及び金属加工技術などの差に驚愕し、記念にネジを持ち帰った。
その後、ナイアガラ号に乗り換え、大西洋を越えて品川に帰着する。帰国後、遣米使節の功により200石を加増されて2,700石となり、外国奉行に就任する。文久元年(1861年)、ロシア軍艦対馬占領事件が発生。事件の処理に当たるが、同時に幕府の対処に限界を感じ、江戸に戻って老中に
- 対馬を直轄領とすること。
- 今回の事件の折衝は正式の外交形式で行うこと。
- 国際世論に訴え、場合によっては英国海軍の協力を得ること。
などを提言したが、容れられず外国奉行を辞任した[14][15]。
文久2年(1862年)、勘定奉行に就任。幕府の財政立て直しを指揮する。当時、幕府は海軍力強化のため44隻の艦船を諸外国から購入しており、その総額は実に333万6千ドル[16]に上った。小栗は、駐日フランス公使レオン・ロッシュの通訳メルメ・カションと親しかった旧知の栗本鋤雲を通じて、ロッシュとの繋がりを作り、製鉄所についての具体的な提案を練り上げた。
文久3年(1863年)、製鉄所建設案を幕府に提出、幕閣などから反発を受けたが、徳川家茂はこれを承認し、11月26日に実地検分が始まり、建設予定地は横須賀に決定された。なお、建設に際し、多くの鉄を必要とすることから、上野国甘楽郡中小坂村(現在の群馬県甘楽郡下仁田町中小坂)で中小坂鉄山採掘施設の建設を計画し、武田斐三郎などを現地の見分に派遣した。見分の結果、鉄鉱石の埋蔵量は莫大であり、ついで成分分析の結果、鉄鉱石の鉄分は極めて良好であることが判明した[17]。ただし近隣での石炭供給が不十分をであるので、しばらくの間木炭を使った高炉を建設すべしとの報告を受けている。また慶応元年(1865年)には高炉で使用する木炭を確保するため、御用林の立木の使用について陸軍奉行と協議をしている。
慶応元年(1865年)11月15日、横須賀製鉄所(後の横須賀海軍工廠)の建設開始[18]。費用は4年継続で総額240万ドル[19]で、これが後の小栗逮捕における徳川埋蔵金説に繋がったとも言われるが、実際には万延二分金などの貨幣の増鋳による貨幣発行益により建設費用を賄っていた[20][21]。横須賀製鉄所の建設を巡っては、相当な費用の負担を強いることから幕府内部の反対論は強く[22]、また建設地を横須賀にすることへの反対論もあった[23]が、工作機械類がフランスに発注済であり、最終的に製鉄所は建設された。多くの反対を押しきれたのは、計画の進捗が迅速であり、外部がこれを知った時には取りやめることが不可能であったからである[24]。
小栗は横須賀製鉄所の首長としてレオンス・ヴェルニーを任命した。これは幕府公認の事業では初の事例だったが、この人事により職務分掌・雇用規則・残業手当・社内教育・洋式簿記・月給制など、経営学や人事労務管理の基礎が日本に導入された[25]。また、製鉄所の建設をきっかけに日本初のフランス語学校・横浜仏蘭西語伝習所を設立。ロッシュの助力もあり、フランス人講師を招いて本格的な授業を行った[26]。この学校の卒業生には明治政府に貢献した人物が多い[27]。
小栗は陸軍の力も増強するため、小銃・大砲・弾薬等の兵器・装備品の国産化を推進した[28][29]。
文久2年(1862年)12月、銃砲製造の責任者に任ぜられると、それまで韮山代官江川英武に任されていた湯島大小砲鋳立場を幕府直轄として関口製造所に統合し、組織の合理化や当時多発していた製造不良の低減に着手した。これに伴い、それまで実務を取り仕切ってきた江川の手代の代わりに武田斐三郎、友平栄などの気鋭の技術者を関口製造所の責任者として新たに登用した[30]。また、ベルギーより弾薬用火薬製造機械を購入し、滝野川反射炉の一角に設置、日本初の西洋式火薬工場を建設した[31]。
小栗は更なる軍事力強化のため、幕府陸軍をフランス軍人に指導させることを計画する。慶応2年12月8日(1867年1月12日)、フランス軍事顧問団が到着、翌日から訓練が開始された。また軍事顧問団と時を同じくしてフランスに、大砲90門、シャスポー銃10,000丁を含む後装小銃25,000丁、陸軍将兵用の軍服27,000人分等の大量の兵器・装備品を発注、購入金額は総計72万ドルにも上った[32]。
経済面では、慶応2年(1866年)には関税率改訂交渉に尽力し、特にフランスとの経済関係を緊密にし、三都商人と結んで日本全国の商品流通を掌握しようとした[33]。これが後の商社設立に繋がることとなる。翌慶応3年(1867年)、株式会社「兵庫商社」の設立案を提出、大阪の有力商人から100万両という資金出資を受け設立した。これは資本の少なさから日本商人が海外貿易で不利益を被っていることを受け、解決には大資本の商社が必要との認識によるものであった。100万両という設立資金は、当時設立されていた株式会社の中でも大きく抜きん出たものであった[34]。
8月9日、日本初の本格的ホテル、築地ホテル館の建設が始まる。これは小栗の発案・主導のもとに清水喜助らが建設したもので[35]、翌年8月10日に完成する。このように、小栗の財政、経済及び軍事上の施策は大いに見るべきものがあり、その手腕については倒幕派もこれを認めざるを得なかった。[36]
慶応3年10月14日(1867年11月9日)、将軍徳川慶喜が朝廷に大政を奉還した。慶応4年(1868年)1月、鳥羽・伏見の戦いが行われて戊辰戦争が始まる。慶喜の江戸帰還後、1月12日から江戸城で開かれた評定において、小栗は榎本武揚、大鳥圭介、水野忠徳らと徹底抗戦を主張する。この時、小栗は「新政府軍が箱根関内に入ったところを陸軍で迎撃、同時に榎本率いる幕府艦隊を駿河湾に突入させて後続部隊を艦砲射撃で足止めし、箱根の敵軍を孤立化させて殲滅する」という挟撃策を提案したとされ、後にこの策を聞いた大村益次郎は「その策が実行されていたら今頃我々の首はなかったであろう」とおそれた[37][38]。実際、この時点において旧幕府軍は多数の予備兵力が残されていたが[39]、慶喜はこの策を採用せず恭順論を受け入れた。
慶応4年(1868年)1月15日、江戸城にて勝手掛老中松平康英より呼出の切紙を渡され、芙蓉の間にて老中酒井忠惇から御役御免及び勤仕並寄合となる沙汰を申し渡されると[40][41]、同月28日に「上野国群馬郡権田村(現在の群馬県高崎市倉渕町権田)への土着願書」を提出した。旧知の三野村利左衛門から千両箱を贈られ米国亡命を勧められたものの、これを丁重に断り、「暫く上野国に引き上げるが、婦女子が困窮することがあれば、その時は宜しく頼む」と三野村に伝えた[42]。また、2月末に渋沢成一郎から彰義隊隊長に推されたが、「徳川慶喜に薩長と戦う意思が無い以上、無名の師で有り、大義名分の無い戦いはしない」とこれを拒絶した[43]。3月初頭、小栗は一家揃って権田村の東善寺に移り住む。当時の村人の記録によると、水路を整備したり塾を開くなど静かな生活を送っており[44]、農兵の訓練をしていた様子は見られない。
慶応4年(1868年)閏4月4日、小栗は東山道軍の命を受けた軍監豊永貫一郎、原保太郎に率いられた高崎藩・安中藩・吉井藩兵より東善寺にいるところを捕縛され、閏4月6日朝4ツ半(午前11時)、取り調べもされぬまま、烏川の水沼河原(現在の群馬県高崎市倉渕町水沼1613-3番地先)に家臣の荒川祐蔵・大井磯十郎・渡辺太三郎と共に引き出され、斬首された[45][46]。享年42。死の直前、大勢の村人が固唾を飲んで見守る中、東山道軍の軍監に対して、小栗の家臣が改めて無罪を大声で主張すると、小栗は「お静かに」と言い放ち、「もうこうなった以上は、未練を残すのはやめよう」と諭した。そして原が、「何か言い残すことはないか」と聞くと小栗はにっこり笑い、「私自身には何もないが、母と妻と息子の許婚を逃がした。どうかこれら婦女子にはぜひ寛典を願いたい」と頼んだという。処刑の順序は荒川・大井・渡辺・小栗の順だったという。原は後に、「小栗は自分が斬った」といっていたが、地元の研究者によれば、安中藩の徒目付浅田五郎作が斬ったという説もある。
小栗は遣米使節目付として渡米する直前、従妹の鉞子(よきこ、父・忠高の義弟日下数馬の娘)を養女にし、その許婚として駒井朝温の次男・忠道を養子に迎えていたが、忠道も高崎で斬首された。死の直前に母のくに子、夫人の道子、養女の鉞子を家臣及び村民からなる従者と共に、かねてより面識があった会津藩の横山常守を頼り、会津に向かって脱出させた。道子は身重の体であり、善光寺参りに身を扮し、急峻な山道である悪路越えの逃避行であった[47]。その後、一行は新潟を経て閏4月29日には会津に到着し、松平容保の計らいにより夫人らは会津藩の野戦病院に収容され、6月10日に道子は女児を出産、国子と命名された[48]。一行は翌明治2年(1869年)春まで会津に留まり、東京へと戻った。帰るべき場所がない小栗の家族の世話したのは、かつての小栗家の奉公人であり、小栗に恩義を感じている三野村利左衛門であった。三野村は日本橋浜町の別邸に小栗の家族を匿い、明治10年(1877年)に没するまで終生、小栗の家族の面倒を見続けた[49][50]。その間、小栗家は忠順の遺児・国子が成人するまで、駒井朝温の三男で忠道の弟である忠祥が継いだ。三野村の没後も、三野村家が母子の面倒を見ていたが、明治18年(1885年)に道子が没すると、国子は親族である大隈重信に引き取られ、大隈の勧めにより矢野龍渓の弟・貞雄を婿に迎え、小栗家を再興した[51]。
人物
- 大鳥圭介は、小栗について「小栗は、剽悍な人物で、議論の盛んにした。武芸には達したが、洋書を読みこなすまではいたらず、洋学者から話を聞いては、世界情勢に留意していた。私どもが、(小栗の屋敷へ)行くといつも世界情勢の事を聞くから、知っている事を話したが、記憶力は非常に強い人であった。」と証言した[52]。
- 大隈重信は小栗について「明治政府の近代化政策は、小栗忠順の模倣にすぎない」と語った[53][54]。大隈の妻である綾子は小栗の親族であり、幼少時には兄の三枝守富とともに小栗家に同居していた時期があった[55]。大隈は時流を先読みして行動する小栗の姿勢について感化を受けていたといえる。
- 明治45年(1912年)7月[56]、東郷平八郎は自宅に小栗貞雄と息子の又一を招き、「日本海海戦に勝利できたのは製鉄所、造船所を建設した小栗氏のお陰であることが大きい」と礼を述べた後、仁義禮智信としたためた書を又一に贈っている。
- 「三井財閥中興の祖」三野村利左衛門は、かつて小栗家で中間を務めた[57]。三井組に入ったのは小栗との交流があったからこそである[58]。慶応4年(1868年)以降に三井組が新政府へ資金援助を始めたのは、小栗の助言によるとする説もある。
- 小栗は1867年のパリ万博に際して「日本の工業製品をアピールし、フランス政府の後ろ盾で日本国債を発行、六百万両を工面する」計画を立てた。しかし薩摩藩も琉球と連名で万博に出展し、「幕府も薩摩と同格の地方組織であり、国債発行の資格は無い」と主張したため、計画は頓挫してしまう。その際の小栗についてロッシュは「小栗氏ともあろう者が六百万両程度で取り乱すとは意外だった」と語っている[59]。
- 小栗は独特な言語センスの持ち主であった。頑迷固陋な役人のことを、「器械」という単語を捩って「製糞器」と呼び、彼らを嘲っている[60]。一説には、英語の「company」を「商社」と訳したのは小栗とされる[61]。
- 小栗は鉄砲や弓の名手でもあり、砲術及び弓術上覧にて、それぞれ皆中し、徳川家慶より褒美を賜っている[62]。
江戸幕府役職履歴
※日付=旧暦
※原典[63]
- 天保14年(1843年)3月22日 - 江戸城に初登城。徳川家慶に御目見え。
- 弘化4年(1847年)4月16日 - 小栗忠高嫡子の身分のまま、西の丸書院番に登用され、役料300石を支給される。
- 嘉永6年(1853年) - 進物番出役に登用される。徳川家定に近侍する。
- 嘉永7年(1854年) - 外国船に対する警戒の為、浜御殿の警備を担当する。
- 安政2年(1855年)
- 7月28日 - 父、忠高が急死。
- 10月22日 - 家督を相続し、又一を称する。
- 安政4年(1857年)
- 安政6年(1859年)
- 9月12日 - 使番から目付に異動。、翌日、日米修好通商条約批准の為に、使節として渡米を命じられる。
- 11月21日 - 従五位下豊後守に叙任。
- 万延元年(1860年)11月8日 - 目付から外国奉行に異動。
- 文久元年(1861年)
- 4月 - ロシア軍艦対馬占領事件の報を受け、対馬に出張。
- 5月10日 - 対馬着。軍艦艦長ビリレフと3度に渡り交渉。
- 7月26日 - 外国奉行を辞し、寄合席。
- 文久2年(1862年)
- 文久3年(1863年)
- 4月23日 - 勘定奉行・勝手方、歩兵奉行、講武所御用取扱を辞し、寄合席。
- 7月10日 - 陸軍奉行並と就る。
- 7月29日 - 陸軍奉行並を辞し、勤仕並寄合と就る。※勤仕並寄合の期間中、豊後守から上野介に遷任。
- 元治元年(1864年)
- 8月13日 - 勘定奉行・勝手方と就る。
- 12月18日 - 軍艦奉行に異動。
- 元治2年(1865年)
- 慶応2年(1866年)4月、兵庫商社設立の建議書を幕府に提出。関税税率改定交渉に主要人物として参加。
- 6月5日、兵庫商社を設立し、役員を任命する。
- 8月11日 - 海軍奉行並を兼帯。
- 慶応3年(1867年)5月武蔵国豊島郡滝野川村に火薬製造所を設立。
- 9月26日、小栗が主張していた、兵賦制度が布告され、組合銃隊が廃止される。
- 12月28日 - 陸軍奉行並を兼帯。[66]
- 慶応4年(1868年)1月15日 - 陸軍奉行並、勘定奉行を御役御免、勤仕並寄合と就る。
小栗忠順が登場する作品
テレビドラマ
- テレビ劇場 ワシントンの日本人(1960年、NHK、演:川辺久造)
- 竜馬がゆく(1968年、NHK大河ドラマ、演:安井昌二)
- 大奥(1968年、フジテレビ、演:芦田鉄雄)
- 上方武士道(1969年、日本テレビ、演:渥美国泰)
- 勝海舟(1974年、NHK大河ドラマ、演:原保美)
- 新選組始末記(1977年、TBS、演:幸田宗丸)
- 夫婦ようそろ(1978年、TBS、演:中野誠也)
- 影の軍団・幕末編(1985年、関西テレビ、東映、演:夏八木勲)
- 勝海舟(1990年、日本テレビ年末時代劇スペシャル、演:風間杜夫)
- 竜馬におまかせ!(1996年、日本テレビ、演:石丸謙二郎)
- あの勝海舟が最も恐れた男、サムライ小栗上野介!〜世紀末を救うもうひとつの幕末ヒーロー伝説(1998年12月29日、テレビ朝日、演和泉元彌)
- またも辞めたか亭主殿〜幕末の名奉行・小栗上野介〜(2003年1月3日、NHK、演:岸谷五朗)
- 龍馬伝(2010年、NHK大河ドラマ、演:斉藤洋介)
映画
- 愛染地獄 一、二、三編(千恵蔵プロダクション、日活、1929年・1930年、演:片岡千恵蔵)
- 江戸城総攻め(帝国キネマ、1930年、演:林誠太郎)
- 弥次喜多・美人騒動(松竹、1932年、関操)
- 小笠原壱岐守(嵐寛寿郎プロダクション、新興キネマ、1932年、演:市川寿三郎)
- フランスお政(日活、1933年、演:市川小文治)
- 快傑黒頭巾 前後編(新興キネマ、1936年、演:荒木忍)
- 快傑黒頭巾(東映、1953年 演:香川良介)
- 新選組鬼隊長(東映、1954年、演:薄田研二)
- 鍔鳴浪人(東映、1956年、演:原健策)
- 大東京誕生 大江戸の鐘(松竹、1958年、演:松本幸四郎)
- EAST MEETS WEST(松竹、1995年 演:天本英世)
小説
- 大菩薩峠(中里介山)
- 普門院さん(後に「普門院の和尚さん」と改題、井伏鱒二)
- 黒龍の柩(北方謙三、2002年、毎日新聞社)ISBN 978-4620106601
- 幕末動乱の男たち(上)(海音寺潮五郎)
- はんぱもの維新(星新一)
- 斬首ただ一人(南條範夫 旺文社文庫 1986年)ISBN 978-4010614495
- 大島昌宏『罪なくして斬らる』―小栗上野介 学陽書房 1998年 ISBN 978-4313750579
- 日本大変―小栗上野介と三野村利左衛門(高橋義夫、集英社文庫 1999年) ISBN 978-4087471410
- 明治元年の逆賊(池波正太郎)
- 十一番目の志士(司馬遼太郎)
- 軍艦忍法帖(山田風太郎)
- 若さま同心徳川竜之助シリーズ(風野真知雄)
- 覚悟の人 ―小栗上野介忠順伝―(佐藤雅美、岩波書店、2007年)ISBN 978-4000224772
- 斬刑(中津文彦、徳間書店、1995年) ISBN 978-4198603892
落語
- 霧陰伊香保湯煙(作:三遊亭圓朝)
漫画
- 天涯の武士(木村直巳、リイド社 『コミック乱ツインズ』連載)
- 猛き黄金の国(本宮ひろ志、集英社、『ビジネスジャンプ』連載)
- ハロー張りネズミ「眠る埋蔵金編」(弘兼憲史、講談社、『週刊ヤングマガジン』連載)
- 風雲児たち 幕末編(みなもと太郎、リイド社、『コミック乱』、連載)
関連項目
- 幕末の通貨問題
- 万延元年遣米使節
- 関口製造所
- 横須賀造船所
- 横須賀海軍施設ドック
- 幕府陸軍
- 幕府海軍
- ロシア軍艦対馬占領事件
- 徳川埋蔵金
- ソシエテ・ジェネラル
- 五品江戸廻送令
- 改税約書
- 倉渕村
- 横須賀市
- 三井財閥
- 清水建設
- 横浜仏語伝習所
- フランス軍事顧問団 (1867-1868)
- 慶応の改革
関連人物
- 浅田宗伯
- 浅野氏祐
- 大隈重信 - 御家再興に尽力
- 大鳥圭介
- 小栗かずまた - 玄孫で漫画家。
- 織田泉之
- 小野友五郎
- 古賀謹一郎
- 川勝広道
- 栗本鋤雲
- 鈴木重嶺
- 高井鴻山
- 滝川具挙 - 隣人
- 田辺太一 - 外国奉行時代の部下。著書で小栗について証言している。
- 塚原昌義
- 中野梧一
- 蜷川新
- 水野忠徳
- 三野村利左衛門
- レオンス・ヴェルニー
- シャルル・シャノワーヌ
- レオン・ロッシュ
評伝
- 司馬遼太郎『明治という国家』日本放送出版協会 1989年 ISBN 978-4140086681
- 柴田錬三郎『生きざま』集英社文庫 1983年 ISBN 978-4087506983
- 高橋敏 『小栗上野介忠順と幕末維新 「小栗日記」を読む』 岩波書店 2013年 ISBN 978-4000258883
- 福地源一郎『幕末政治家』 岩波書店 ISBN 978-4003318614
- 松平定知 『幕末維新を「本当に」動かした10人』小学館101新書 2010年 ISBN 978-4098250707
- 村上泰賢 『小栗上野介』平凡社新書 2010年 ISBN 978-4582855616
参考文献
- 国史大辞典-吉川弘文館
- 日本歴史学会 明治維新人名辞典 吉川弘文館 1981年 ISBN 4642031146
- 続徳川実紀 国史大系 吉川弘文館 1991年
- 外川残花『小栗上野介』旧幕府所収(2003年 マツノ書店復刻)
- 栗本鋤雲 『匏庵遺稿』 1900年、(東京大学出版会、1975年)
- 蜷川新 『維新前後の政争と小栗上野介の死』、『続維新前後の政争と小栗上野』、日本書院 1928年、1931年(2014年1月 マツノ書店合本復刻)
- 蜷川新『開国の先覚者 小栗上野介』千代田書院 1953年
- 阿部道山 『海軍の先駆者小栗上野介正伝』海軍有終会 1941年 (2013年7月 マツノ書店 増補復刻)
- 尾佐竹猛 『幕末外交秘史』 邦光堂書店 1944年
- 尾佐竹猛 『幕末遣外使節物語』 講談社学術文庫 1989年 ISBN 978-4061589070
- 大坪指方 『小栗上野介』小栗上野介を偲ぶ会 1975年
- 大坪指方 『小栗上野介研究史料落穂ひろい』小栗公顕彰会 1957年
- 村上泰賢 編 『小栗忠順のすべて』新人物往来社 2008年4月ISBN 978-4404035332
- 市川光一 ほか 『小栗上野介』 みやま文庫 2004年
- 森銑三編 『人物逸話辞典』 東京堂出版 1963年 ISBN 978-4490101973
- 石井孝 『増訂 明治維新の国際的環境』 吉川弘文館 1973年 ISBN 978-4642035071
- 石井孝 『明治維新の舞台裏』 岩波新書 1975年 ISBN 978-4004131182
- 石井孝 『幕末 非運の人びと』 有隣堂 1979年 ISBN 4896600304
- 木村知治 『土方伯』 1913年 -小栗の官軍迎撃案等の記述がある。
- 坂本藤良 『小栗上野介の生涯―「兵庫商社」を創った最後の幕臣 』 講談社 1987年 ISBN 978-4062032346
- 佐藤雅美 『覚悟の人 小栗上野介忠順伝』岩波書店、2007年3月。ISBN 978-4-00-022477-2、角川文庫 2009年12月 ISBN 978-4043925025
- 佐藤雅美『歴史に学ぶ執念の財政改革』集英社文庫 1999年 ISBN 978-4087470857
- 赤塚行雄 『君はトミー・ポルカを聴いたか―小栗上野介と立石斧次郎の「幕末」』 風媒社 1999年ISBN 4833105187
- 新人物往来社編『世界を見た幕末維新の英雄たち』、新人物往来社〈別冊歴史読本64〉、2007年3月。ISBN 978-4-404-03364-2、40-41頁
- 群馬県文化事業振興会『群馬県資料第七巻 小栗日記』1972年、2012年10月、復刻版。
- 高村直助『再発見 明治の経済』塙書房 1995年 ISBN 978-4827311372
- 小板橋良平『小栗上野介一族の悲劇』あさを社 1999年 ISBN 978-4870243187
- 野口武彦 『江戸は燃えているか』、所収「空っ風赤城山」文藝春秋2006年 ISBN 978-4163250809
- 山田風太郎『人間臨終図巻』(1)徳間文庫 2001年 ISBN 978-4198914776
- 三好徹『政・財腐蝕の100年』講談社 2004年 ISBN 978-4062126625
- 河野正男『小栗上野介をめぐる秘話』群馬出版センター 2003年 ISBN 9784906366392
- 広瀬隆『持丸長者 幕末・維新篇』ダイヤモンド社 2007年ISBN 978-4478920442
- 荒川英夫『随想 幕末維新』かまわぬ書房 1995年
- 三好徹 『政商伝』講談社文庫 ISBN 978-4062632010
- 上州路 『特集 小栗上野介』 2003年1月号 あさを社
- 山田武麿 『群馬県の歴史』山川出版社 1974年 ISBN 978-4634231009
- 三野村清一郎 『三野村利左衛門伝』 三野村合名会社 1969年
- 畠山清行 『日本の埋蔵金』 中公文庫 1995年 ISBN 978-4122024205
- 中之条町教育委員会 『幕末の打ちこわしと小栗上野介』1985年
- 倉渕村役場 倉渕村誌 1975年
- 加来耕三 『真説 上野彰義隊』中公文庫 1998年 ISBN 978-4122033092
- 富田仁ほか 『横須賀製鉄所の人びと』有隣堂 1983年 ISBN 978-4896600575
- 山本詔一 『ヨコスカ開国物語』 神奈川新聞社 2003年 ISBN 978-4876453306
- 片山保左衛門、校訂金井幸佐久『上州狩宿関所御用留日記』国書刊行会 1987年 ISBN 9784336007346
- 新村出編 『広辞苑第六版』岩波書店 2008年 ISBN 978-4000801218
- 小野寺龍太『栗本鋤雲―大節を堅持した亡国の遺臣』ミネルヴァ書房 2010年 ISBN 978-4623057658
- NHK取材班・編 『その時歴史が動いた 18』中央出版 2003年 ISBN 978-4877582760
- 瀧澤武雄・西脇康 『日本史小百科「貨幣」』 東京堂出版 1999年 ISBN 978-4490203530
- 田辺太一著、坂田精一訳・校注『幕末外交談』1・2平凡社東洋文庫 1966年 ISBN 978-4582800692 、ISBN 978-4582800722
- 小川恭一編『寛政譜以降旗本家百科事典』東洋書林 1997年
- 市川光一、村上泰賢 『幕末開明の人 小栗上野介』群馬県高崎財務事務所 1994年
- 大松騏一 『関口大砲製造所』 東京文献センター 2005年 ISBN 978-4925187466
- 武田楠雄 『維新と科学』岩波新書 1972年
- 合田一道 『幕末維新・群像の死に際』 小学館ライブラリー 1998年 ISBN 978-4094601152
- 平間洋一 『軍器独立と明治期の横須賀海軍工廠』 軍事史学会編 軍事史学176号 2009年
- 同方会編、大久保利謙監修 『同方会誌』マツノ書店 2011年9月、復刻版。
- 児島襄 『大山巌(1)』 文春文庫 1985年6月 ISBN 978-4167141196
- 根岸衛奮、東京大学史料編纂所編 大日本近世史料 『柳営補任』東京大学出版会 1969年 、1983年復刻
- 横山伊徳『幕末維新と外交』吉川弘文館 2001年 ISBN 978-4642037273
- 洞富雄『鉄砲 伝来とその影響』 思文閣出版1991年 ISBN 978-4784206575
- 吉田常吉『幕末乱世の群像』吉川弘文館 1996年 ISBN 978-4642074797
- 川口素生『徳川埋蔵金検証事典』新人物往来社 2001年ISBN 978-4404028976
- 村松貞次郎、富田仁ほか『日本の『創造力』1御一新の光と影』NHK出版 1993年 ISBN 978-4140092057
- 富田仁 編 『海を越えた日本人名事典 新訂増補版』日外アソシエーツ 2005年 ISBN 978-4816919336
- 早川智明 『普門院』 さきたま出版会 1997年 ISBN 978-4878912511
テレビ番組
脚注
外部リンク
- 小栗忠順|近代日本人の肖像
- 家系図
- 国立国会図書館 憲政資料室 小栗上野介関係文書(MF:個人蔵)
- 小栗上野介の言葉|幕府の運命に限りがあるとも、日本の運命には限りがない
- ファスニングジャーナル|幕末開明の人 小栗上野介 幕末、米国から持ち帰ったねじ
- 群馬県生涯学習センター|小栗上野介日記及び家計簿
- 幕末に活躍 小栗上野介 殺害直後の古文書発見
- 小栗一族の菩提寺 普門院
- 小栗忠順の通貨交渉
- 群馬県立図書館|小栗上野介忠順-開国・近代化の先覚者 関連資料リスト
|
|
|
- ↑ 小川 696頁
- ↑ 村上 179-188頁
- ↑ 児島 224頁 但し戦備のためではない。
- ↑ 川口 89頁-158頁
- ↑ 司馬 26頁
- ↑ 旧高旧領取調帳データベースによると、小栗上野介名義の旧領は約3,334石。
- ↑ 現在の東京YWCA会館。
- ↑ 小野寺 151頁
- ↑ 市川、村上 56頁、村上265頁
- ↑ 村上 265頁
- ↑ 市川、村上 58頁
- ↑ 上州路 16頁
- ↑ この時、ポーハタン号の随行艦である咸臨丸には、軍艦奉行・木村芥舟が司令官、勝海舟が艦長として乗っており、木村の従者には福澤諭吉がいた。
- ↑ 横山 109-125頁、田辺1、177-185頁
- ↑ しかし、結局ロシア艦を退去させるために英国海軍の圧力が必要となった。
- ↑ 1メキシコドル=0.75両。一両の価値は[1]参照。
- ↑ 大松、109頁
- ↑ 全施設が完成したのは1871年だが、江戸開城直前には第一船渠は完成し、第一、第二船台の工事進捗率はそれぞれ8割、6割であり、一部完成した施設では40馬力の小汽船が製造されていた(武田 119頁)。
- ↑ 高村 34-35頁
- ↑ 瀧澤ほか 258頁
- ↑ 田辺2、237-238頁
- ↑ 坂本 311-312頁、344頁。
- ↑ 坂本、335-357頁
- ↑ 小野寺 127頁
- ↑ 平間 48-51頁
- ↑ 坂本 347-372頁
- ↑ 山本 95頁、及び横須賀製鉄所の人びと 参照
- ↑ 特に四斤山砲・スプリングフィールド銃が主たる対象であった。
- ↑ [2]
- ↑ 大松 69-82頁
- ↑ 武田 127-129頁
- ↑ 石井 710-713頁 洞410-412頁
- ↑ 海を越えた日本人名辞典 197頁
- ↑ 坂本 413-425頁など
- ↑ 村上 106-121頁
- ↑ 吉田 217頁
- ↑ 木村知治、土方伯 398-399頁
- ↑ 森 192頁
- ↑ 児島 207-211頁
- ↑ 小栗日記 69頁
- ↑ 高橋敏 125頁
- ↑ 三野村 52頁、倉渕村 239-240頁
- ↑ 倉渕村 240頁、加来 104頁、早川15-16頁
- ↑ 村上 176頁。[3]
- ↑ なお、この件に関しては上野国狩宿関所役人・片山保左衛門が慶応4年(1868年)閏4月の日記に「小栗上野介如何様之儀有候哉」と記している(片山 121頁)。
- ↑ 小栗の斬首の前に鎮撫総督本営から助命の沙汰があったが、現地に沙汰書が届いたのは斬首の翌日であった、という説もある(山田 184頁、畠山 247-248頁)。
- ↑ 村上、190-206頁
- ↑ 村上、209頁
- ↑ 村松、富田、246-248頁
- ↑ 村上、211、218-219頁
- ↑ [4]、[5]
- ↑ 森 193頁。
- ↑ 広瀬 213頁、山本 108頁
- ↑ [6]
- ↑ 小川 1163頁
- ↑ 小板橋 245頁
- ↑ 三野村 9頁。
- ↑ 三野村 16-17頁。
- ↑ 尾佐竹猛 112頁。ただし本文中には必ずしも信ずるには足らずと註がある。
- ↑ 小野寺 153頁。
- ↑ 広辞苑第六版 「商社」1379頁。
- ↑ 村上 266頁。
- ↑ 柳営補任、小川 695-696頁より作成。
- ↑ 柳営補任 三巻 229頁
- ↑ 柳営補任 一巻 294頁
- ↑ 小川 688-689頁
- ↑ 小栗日記 72-73頁